第 三 章


 太陽の光で目が覚めた。
微かににせせらぎが聞こえる。どうやら俺は眠っていたようだ。
太陽の位置からすると、昼前か昼過ぎあたりだろうか。
ちょうど木影になっていた俺の顔に日光が差してきていた。
季節はどうやら真冬のようだった。一月か二月か。空気が肌を刺すように冷たい。

――ここはどこだ?
起き上がり、辺りを見回してみる。少し頭が痛む。
小川と遊歩道に挟まれた、並木が植えられている芝生の上に俺はいた。
公園のようだった。見慣れない風景。いや、見慣れないというのとは何か違う。
奇妙な感覚。

――今はいつだ?
腕時計を見た。それは二月二十四日の午後二時五分を表示していた。
俺の格好は春先を思わせるような軽装だった。
真夏の格好よりは幾分マシとは思ったが、やはり少々寒さが身にしみる。
何だ、この違和感は?
そうして俺は、場所や時間よりも重大な疑問に思い当たった。

――俺は誰だ?
思い出せなかった。
冷静に考えてみたところ、どうやら俺は記憶喪失という状況におかれているようだった。
俺は目の前にあった遊歩道のベンチに腰掛け、所持品を調べてみた。
あったのは財布と手帳。
身につけているものはデジタル表示の腕時計とサングラス、それに季節外れの衣服。
財布に何か手がかりになるものが入っていないかと調べてみたが、俺の身元を確認出来るものは何ひとつない。

手帳も同様だった。
手帳のスケジュール欄の書き込みは九月十三日で始まり十月二十日で終わっていた。
それはそもそも予定ですらなく、以下のような意味不明の単なるメモ書きだった。

9月13日 29D03H48M
9月14日 29D03H57M
9月15日 29D04H08M 335×24×60÷20=24120
9月16日 29D04H18M
       ・
       ・
10月14日 01Y01M10D
10月15日 01Y01M12D
       ・
       ・
10月20日 06Y00M05D

こういった書き込みが十月二十日まで一日も欠かさず毎日続いていて、十月二十一日の日付には赤い丸印が記されていた。それ以降の日付は空白だった。
一体何だこれは?
アルファベットはおそらく年月日や時分を表していて、数式にも24×60という数字があ
ることから、何か時間に関係することを書き留めているように思える。

これは俺が書いたものなのか?
試しに同じ字を手帳に書き込んでみた。同じ筆跡。俺の字に間違いないようだった。
せめて、日記のようなものでも書いておいてくれればありがたいのだが、どうも俺にはそう
いう習慣はないらしい。
手帳のページを繰ると、後半のメモ欄に携帯電話の番号と住所が書かれてあった。
その番号も住所も、俺には全く心当たりはなかった。

俺は今まで何をやっていたんだ?
何となくだが、俺には何かしなくてはいけない重要なことがあったように思える。
だが、それは何だ?

足元を眺めながら俺はしばらく考えてみた。三十分ほどそうしていたが、思い出せることは何もなかった。
とにかく今の俺にとって必要なのは、何でもいいから情報を仕入れることだ。
公園を出てしばらく歩いた俺はコンビニエンスストアを見つけ、新聞を買ってみた。

日付はやはり二月二十四日。
手帳のスケジュールの日から、およそ四ヶ月が経過している。
手帳を四ヶ月間全く記入しなかったということだろうか。
それまでの日付は一日の抜けもなく毎日埋っているにもかかわらず。
だが、俺が四ヶ月以上記憶とともに意識を失っていたという推測はさらにありえないことだった。

一体どうなってんだ?
新聞の記事を読んでも特に手がかりになるようなものは見出せなかった。記事のほとんどはあまり理解出来なかったしな。俺の頭はどうもあまり出来がよくないらしい。
そしてまた途方に暮れた。

公衆電話を見つけ、手帳に記されていた番号に架けてみたが、現在その番号は使われていないというメッセージが返ってくるだけだった。
寒さに耐えかねた俺は、商店街の洋服店で適当な上着を買い、見覚えのある風景でもないかと、周辺を歩き回った。

商店街を出て二時間ほど歩いただろうか。辺りが暗くなり始めている。
腕時計の数字は夕方の五時過ぎを表していた。
行くべきところも解らず、ただ呆然と歩いていた俺は、いつしか人気のないところに迷い込んでいた。
いや、迷い込むという表現は適切じゃないな。
今の俺には知っている場所がどこにもなく、つまり俺は常に迷っているのだ。

 不意に、右奥の路地の方から、口論をしているような声が聞こえた。
路地を覗いてみる。数人の男と、中学生と思われる長髪の少女がそこにいた。
少女の進路前方を塞ぐ男たち。三人だ。しばらく何かを言い合った後、男の一人が少女の肩を強引に掴み、少女を拘束しようとする。
少女は素早い動作でその男の手首を取ると、脚の付け根まで届こうかという長髪がふわりと揺れた次の瞬間には、男が少女の後方に吹っ飛んでいた。合気術かあるいは柔術か、どちらにせよ凄まじい身のこなしだ。

 だが、投げられた男も他の二人も、それでひるむような気配はなかった。
じりじりと少女との間合いを詰める。
俺は急いで元の道に戻り、置かれてあったゴミバケツを見つけるとそれを左脇に抱えた。
路地まで助走をつけ、角を曲がる遠心力も使って、それを男たちに思いっきり投げつけた。
空中で蓋が取れ、逆さになったゴミバケツは内容物を散乱させながら放物線を描く。
蓋が手前の一人に、本体が奥にいた一人に命中。ゴミは三人に――厳密に言えば少女を含む四人に――漏れなく降り注いだ。我ながら見事なスローイングだ。
動きの止まった男三人がこちらを睨んだ。俺はなんとなくだがリーダー格と思しき男に見当をつけ、そいつを睨みかえした。どうやら俺は案外胆の据わったやつらしい。
男たちが襲い掛かってくることを予想して身構えた俺だったが、男たちは顔を見合わせると、俺とは逆方向に走り去っていった。

「助かったよ、ほんとありがとっ! あははっ、臭うなこのゴミっ!」
 少女はゴミを払い落としながら笑っていた。今さっきあんなことがあったというのに、全く
動じていないようだ。俺以上に胆が据わっている。
「今のは知り合いか何かか?」
「いやっ、全然っ」
「じゃあ、なんだってあんな目に遭ってたんだ?」
「実はねっ、前にもあったんだよこういうこと。でもさすがに今のは危なかったよ。男三人がかりはあたしもツラいからさっ」
 襲われやすい体質か何かなのか? などと思っている俺に少女が言った。
「ほんと助かったよっ! お礼がしたいんだけど、時間はあるっ?」
 時間があるのかどうかは実際のところ俺自身にも解らなかったが、俺には他に行くべき場所も思い当たらず、少し迷ったがそれに応えることにした。

 少女の家に案内された俺は、ただただ驚いた。門から家が見えない。左右を見回すと塀が遠近法に従って延々と続いていた。ここはどこかの武家屋敷か何かなのか?
一体どんな悪いことをすればこんな家に住めるんだろう、などと考えていた俺に既視感のような不思議な感覚が襲ってきた。そしてそれは一瞬で過ぎ去っていった。
残念なことに、やはり思い出せることは何もなかった。
家屋の玄関前で、当主と名乗る初老の男性が向かえてくれた。

「娘から事情は聞きました。危ないところを助けていただいたそうで、私からも礼を言います。本当にありがとうございました。こんなところでは何ですから、とにかく中へ」

この屋敷から察するに、さっきのはおそらく誘拐未遂事件か何かだったのだろう。
俺は身代金の額を想像しようとしたが、途方もない数字になりそうですぐさまあきらめた。
屋敷の応接に通された。家屋は日本風だがこの部屋は洋風の造りだった。
当然ながら、一般家庭のリビングを三つか四つばかり足したくらいに広い。

ゴテゴテとした飾りや置物などは一切なく、一枚の絵が掛けられているだけのシンプルな部屋。そうしたものがなくともこの部屋が充分に手のかかったものであることは一目で解る。なんと言うか、滲み出る品格のようなものがこの部屋からは感じ取れた。

 純和風の衣服に着替えた少女は腕や髪を鼻に当て、匂いを調べていた。あれだけ髪が長いとさぞかし洗うのも大変だったろうな。ゴミバケツを投げつけたのはさすがにやりすぎだったか。
「失礼ですが、この近くにお住まいの方ですか?」
 当主からの質問だった。俺の服装からそう思ったのだろうか。上着を買ったとはいえいささか季節外れの感は否めない。家の周りの散歩か、あるいは近所に買い物にでも行くような格好に違いなかった。
 だが、俺は少し考えて旅行者ということにしておいた。
記憶を失っているという説明をすんなりと信じてもらえるようには思えなかったし、近所の話題を振られても困る。
今思えば俺は記憶を失ったことについてかなり楽観的に考えていたのだろう。すぐにでも記憶は戻るだろうと。

少女はニコニコしながら俺の返答を聞いていた。
「でしたら、もしご都合がよろしければしばらく当家に滞在されてはいかがですか。海側や少し西側の方に行けば、見るものもたくさんありますよ」
これは願ってもないことだった。
俺には行くべきところも解らなければ、帰るべきところも解らないのだ。
「そうしなよっ、お兄ちゃん!」
 少女の言葉が、なぜか心地よく響いた。
不思議な懐かさとでも言おうか、そんな暖みがあった。
俺はありがたくその提案に甘えることにした。
そうして俺は、詳しくは書かないが今までに食べたこともないであろう豪華な夕食をご馳走になり、詳しくは書かないが小振りの銭湯としてすぐにでも営業出来そうな客用の浴室で疲れを取り、詳しくは書かないが老舗の高級旅館に泊まるときっとこんな部屋なんだろうという客間に案内された。

しばらく今日一日のことを振り返っていると、少女がやってきた。
「お茶持ってきたよっ!」
 この娘は、一日中こんなにテンションが高いのか?
「いやー、おやっさんにこってり絞られちゃったさっ。いつもはあんな時間にあんな道通らないんだけどねっ。今日は学校でやることがあって特別なのだっ!」
「やっぱりあれは誘拐とかそういう類のものだったのか?」
 少女は俺の持っていたサングラスに興味を示し、手渡したそれを眺めながら話しを続けた。
「多分ねっ。ここいらも物騒になったもんだよ。前にもあったってのは三ヶ月くらい前。ほんと危なっかしくておちおち学校にも行けやしないよっ」
 会話の内容とはうらはらに、少女が楽しそうにしているのは気のせいか?
「まあそんなこと気にしすぎてもしょうがないっさ!」
 当主も少女も、本当に気持ちのいい人たちだった。
俺は自分が嘘をついていることに関して、申し訳ない気分になっていた。
少女はしばらく話したあと、また明日と言って席を立った。
去り際に、
「お兄ちゃんって何だかちょっと変わった人だねっ」
 と言い残して。

彼女は俺にも解らない何かを見抜いたのだろうか?
それについてしばらく考えてみたが、早々にあきらめて俺は床についた。さすがに今日は色々と疲れた。


雪が舞っている。俺はベンチに座っている。見覚えのない風景。
辺りを見回す。遊歩道。ベンチ。外灯。柵に囲まれた茂み。
どこからか少女の泣き声を耳にした。
声を頼りに歩く。少し開けた場所に出た。ブランコや滑り台がある。
物憂げにうつむいた少女が一人、ブランコに腰掛けている。
少女は泣いてはいない。にもかかわらず泣き声はまだ聞こえている。
わずかにブランコを揺らしながら、足元を見つめる少女。
何かをじっと考えているようだ。
やがて静止するブランコ。
少女は静かに立ち上がると、うつむいたまま立ち去っていく。


目が覚めた。奇妙な夢だった。見覚えのない風景。公園だろうか。
あれはこの家の少女ではなかった。俺の失われた記憶に関係しているのだろうか。

朝食の後、俺は初老の当主に、少し時間をいただけないかと願い出た。
話したいことがあると。
 あまり長くは時間を取れませんが、という前提で当主の書斎に通された俺は、これから少し奇異な話をしますが驚かないで聞いて欲しい、と前置きをしたうえで自分の身の上を正直に話した。
昨日の昼過ぎに、川沿いの公園で目を覚ましたこと。
そこがどこなのか、今がいつなのか、自分が誰なのかすら解らなかったこと。
自分の所持品から、自分の身元を調べようとしたが、全く手がかりがなかったこと。
手帳に電話番号と住所が書いてあったが、電話は繋がらず、その住所にも全く心当たりがなかったこと。

しばらく当てもなく歩いていると、偶然少女と男たちが争っている場面に出くわしたこと。
昨日はなんとなく記憶喪失であることを言わないほうがいいように思え、嘘をついたこと。
そして、自分には何かやらなくてはならないことがあったと思えること。
「それが事実だとしたら興味深い話ですな」
 当主はにこやかに話した。
「こうして今話しているのも何かの縁。もしよろしければあなたの身元調査に協力させていただきますが。私もそれなりの情報網を持っておりますので、きっとお役に立てると思います」
「今の私には頼るものが何もありません。恐縮ですが、お言葉に甘えさせてください」
「ええ、ええ。どうかお気になさらずに」
 当主は一呼吸おいて、
「では、まず私にも所持品を確認させていただきたいのですが。包み隠さずに申し上げますと、身元の解らない人物を当家に滞在させるとなると、こちらとしてもそれなりに調べさせていただくことがあります。ですがあくまで形式的なものだと思ってください。私もこういう立場の人間ですのでそれなりに人を見抜く目を持っています。私にはあなたが何かを企むような人間には思えませんので」
 当主の要求は当然のことだ。早速俺は、財布、手帳、それに腕時計を差し出した。

 しばらくの間、それらを検分した当主の見立てによれば、財布、手帳に関してはありふれた市販品で、特に手がかりになるようなものは見当たらない。
手帳に書かれていることも、電話番号と住所を除けば特に身元の解るようなことは書かれてはいない。
腕時計は一般的なクォーツ時計ではなく電波時計であるが、数万円あれば買える市販品とのことだった。製造番号の刻印などはなく、やはり手がかりにはなりそうにない。
 そして当主は、疑問を正直に語った。
「あなたの所持品には不自然さが残ります。あなたは何らかの理由で敢えて自らの身元が所持品から判断されないようにしていると見受けられます」
 それに関しては俺も同じ意見だった。大抵の場合、財布の中には身元が判断出来るようなものが必ず入っているはずだ。でないと、ビデオテープ一本借りれやしない。
「もしかしたら、あなたは諜報活動のようなことを生業とする方なのかもしれませんね」
 当主は冗談っぽく言った。
仮にそうだとしても悪いようにはしませんので、記憶が戻られたら必ずお知らせください、とも。
「ひとまず電話番号と住所の線で調査してみます。あなたは調査が終わるまでは遠慮なく当家にご滞在ください」
「重ね重ねお礼申し上げます」
 俺は深々と頭を下げた。
「いえいえ、もとはと言えば、娘を救っていただいた恩がありますし。それとあなたが記憶喪失であることを家人には話しておきたいのですが、よろしいですかな?」
「ええ、構いません」
 ひとまず、俺は当面の宿を確保することが出来て、胸をなでおろした。
その日は当主の了解を得てまた周辺を歩き回った。
だが今日も手がかりは何も得られなかった。見知らぬ街並み、見知らぬ人々。

屋敷に戻った俺は、これからお世話になる身で客間を使わせていただくのは恐縮なので、出来れば別の部屋に移してもらえないかと当主に頼んだ。
広すぎる部屋は今の俺の身分ではなんとも落ち着かなかった。
「そうおっしゃるのであれば、こちらは全く構いませんよ」
 当主は快諾し、俺に離れの部屋を用意してくれた。
「この部屋は先代が時々使っていた部屋でして」
 俺がいかにも恐縮しきりなのを気の毒に思ったのか、当主は、
「もしよろしければ、ご滞在のあいだ娘の学校への送り迎えをしていただけると誠にありがたいのですが。いかがでしょうか?」
 と提案してくれた。
 俺は、是非そうさせてくださいと即答した。断る理由など欠片もない。

「やっほーっ! お兄ちゃん記憶喪失なんだってねっ。どおりでおかしいと思ったさっ!」
 当主が去ってしばらく後、今度は少女がやってきた。
「俺におかしなところなんてあったか?」
「だってお兄ちゃんの言葉って、アクセントとかがうちらと一緒じゃない。明らかにこの地方の言葉だよ。それで旅行者ってのは不自然さっ!」
 なるほど、そう言われてみれば確かにその通りだった。実に頭のいい少女だ。
だとすれば、やはり俺はこの近辺に住んでいたのだろうか。
ところで、君の言葉は周りの人とはかなり違うと思うぞ。
「あははっ、そうかいっ?」
 あいかわらず、屈託のない笑顔。
「でも、おかしなのはそれだけじゃないんだけどねっ。それは記憶が戻ったらまた聞かせてもらうよっ」
 少女にはまだ何か含むところがあるらしい。
「じゃあ、明日からよろしくねっ!」

 次の日から、俺は少女とともに登校し、記憶を取り戻すために街中を散策し、少女とともに下校するという日々を過ごした。
「あー、お兄ちゃん、読みたい本があるから、悪いけどお迎えのときまでに買っておいてくれないっかな?」
「今日は、ちょっと別の道で帰りたいんだけど、大丈夫っかな?」
「スモークチーズ買っておいてくれないっかな? あたしの大好物なんだっ!」
「昨日のスモークチーズより別の店の方が美味しいから、今日はちょっと遠出してもらっていいかなっ?」
 と、俺に色々と注文をつけてくれた。
おそらく彼女なりに俺を色々なところに出向かせて、少しでも記憶を思い出せるきっかけになるようにと考えてくれているのだろう。
単なるお使い要員なのか、スモークチーズにうるさいだけかもしれないが。
そして、結局のところ俺は記憶を取り戻す糸口すら全くつかめなかった。

また夢を見た。数日前と同じ、雪の舞う公園。
どこからか聞こえてくる少女の泣き声。ブランコに佇む少女。

ある日の朝食後、当主に呼ばれた。調査の結果が出たということだった。
「結論から申し上げますと、芳しくありませんでした。まず電話番号ですが、どうも今までに一度も使われていない番号のようです。あれは電話番号ではなくて何か別の意味を持つものかもしれませんね」
 電話番号に似せた暗号か何かということだろうか。
俺はやはりスパイとかそういった職業の人間なんだろうか。
「住所は実在しましたが、あなたとの関連性は全く見出せませんでした。住人の家族、親戚だけでなく、友人や知り合い関係なども洗ってみましたが、行方不明者や旅行者あるいはこの近辺に住んでいる者、つまりあなたに該当しそうな人ですな、そういった方は見つけられませんでした」
 当主は残念そうに首を振り、
「これであなたの所持品からの調査の線は断たれたということになります」

俺は率直な疑問を率直に訊いた。
「俺はいつまでここにいてよいのでしょうか?」
「実は、娘を誘拐しようとした連中がほぼ特定出来まして。ですがまだ確証は得られていない状態で、それが解るまでは娘も狙われ続けるということになります。よろしければ、しばらくの間は娘のボディーガードを続けていただけるとありがたいのですが。その後のことはまたそのときに考えましょう」
「申し訳ありません。記憶が戻りましたらいつか必ずお礼をさせていただきます」
「いえいえ、こちらとしても大変助かっておりますので。娘もあなたにはよくなついているようですし。実を言うとこれまでも何度かボディーガードを雇おうとしたことはあったのですが、いつも娘に断られて困っていたものですから」
 お気遣い痛み入ります。俺は頭を深々と下げて、書斎を後にした。

もしこのまま記憶が戻らなければ、いずれこの家を出なければならないだろう。
いつまでも当主の好意に甘えるわけにもいかない。そうなれば俺は自力で生活の手段を考えながら記憶を取り戻す努力をしなければならない。
俺が自由に使える時間はあまり残されていないだろう。
俺は、あの奇妙な夢にかけてみることにした。
書店で近辺の地図を買い、公園を調べ、印を書きみ、しばらくの間それらを重点的に廻ってみることにした。
遊歩道。ベンチ。外灯。柵に囲まれた茂み。そしてブランコ。
どこの公園にもあるようで、しかし夢の情景を満たしているものはなかなか見つからない。
何よりも、夢で見た風景である。それを鮮明に思い出せるはずもない。
この近辺の公園だという保障はどこにもなかった。だが、俺にはこれ以外に記憶を取り戻すための手がかりは何一つないのだ。

三日間かけて、俺は地図上の公園全てに足を運び、さらに元の地図を中心として周囲八箇所の地図をあらたに買い求め、二週間かけてそれらを踏破した。
だが、結局俺の夢に該当する公園は一つも見つからなかった。
もしかしたら見落としがあったのかもしれない。
あるいは、ここよりもっと離れた場所にある公園なのかもしれない。
俺は途方に暮れていた。何しろ公園が本当に俺の記憶を呼び覚ますためのきっかけになるのかどうかすら解らないのだ。

 俺がほとんど諦めかけていた頃、それは起こった。
ある日の昼過ぎ。俺は私鉄の駅前にいた。既にこの周辺には一度足を運んでいる。
駅前の道沿いには商店が立ち並び、北側には豪華そうなマンションが見て取れる。
俺はここ数日の間、念のためにと幼稚園や小学校に付随しているような公園を探し歩き、この日の午前中にそれら全てを調べ終わったところだった。
もはや打つべき手は何も思いつかなかった。

何の意図もなく予感もないまま、線路沿いの通りから人気のない路地に入った。
そして角を曲がってすぐのところにそれはあった。
「あれ……、こんなとこに公園なんてあったっけか?」
疲れのあまり思わず独り言が出る。
既に肉体的にも精神的にも疲労はピークに達していた。
地図と照合する。載っていない。公園の造りから、比較的新しく出来た公園のように思えた。

やれやれ、新しい地図を買ってもう一度洗いなおす必要があるかもな。
俺は大した期待もなくその公園に入った。
遊歩道、ベンチ、街灯の雰囲気などが夢の場所に似ているように思えた。
だがなにしろ狭い公園だった。ブランコや滑り台がないのは一目で解る。
俺はベンチに腰掛け、頭を抱えながらこれからのことを考えていた。
何も思い浮かばなかった。そして俺はいつの間にか眠っていた。

夢を見た。いつもの公園。雪が舞っている。
少女の泣き声とともに、ブランコの音がどこからか聞こえてくる……

目を覚ました。薄暗がりの公園には外灯の明かりが点っている。
寒い。雪が降り始めていた。
山側から吹き降ろす風が頬を冷やす。
どこからか少女の泣き声が聞こえる。
ブランコの音が鳴り続けている。

待て?
なんだって?
泣き声? ブランコ?

あらためて耳を澄ませる。夢の続きでも幻聴でもない。
それは微かではあるが、確かに聞こえる。
俺はブランコの音を頼りに走った。
その公園は、樹木が植えられている茂みを挟んで、二箇所にエリアが分かれていたのだ。俺が寝ていたベンチがある一画とは反対側に、確かにブランコと滑り台が置かれていた。 そして、ついに俺はブランコに座る憂鬱げな少女を発見した。

夢のとおり、彼女は泣いていない。だが泣き声は依然として聞こえてくる。
俺の姿に気づいたのか、少女は、
「あんた、さっきベンチで寝てた人でしょ。こんなとこで昼間から居眠りなんて、大人ってのも随分暇なものなのね」
 随分と口の悪いガキだな、そう思いながらも俺は話しかけた。
「お前こそ、こんなとこで一人で何やってんだ?」

 しかし、そいつは俺の問いを無視して言った。
「あんたどう思う? 世界ってつまらないものだと思わない? あたしはもうこんな世界うんざりよ。誰も私の話なんか聞いちゃいないわ」
 お前こそ俺の話を聞いちゃいないだろうが。
「どうしたんだ? 家か学校で何かあったのか?」
「あんたは……自分がこの地球でどれだけちっぽけな存在なのか自覚したことある?」
 何を言い出すんだ、こいつは?

「あたしね、この前野球場に行ったの。家族に連れられて……。あたしは野球なんかには興味ないんだけど。でも着いてみて驚いた……」
 突然俺は、頭の中を揺さぶられるような違和感を覚えた。
「……日本の人間が残らずこの空間に集まってるんじゃないかと思った……」
 誰かが俺の頭の中で、何かを叫んでいる。
「……実はこんなの、日本全体で言えばほんの一部に過ぎないんだって……」
 少女は話を続ける。頭の中の叫びは次第に大きくなり、はっきり感じ取れるようになっていた。

言葉の主は繰り返していた。『思い出せ』と。
「……世の中にこれだけ人がいたら、その中にはちっとも普通じゃなく面白い人生を送ってる人だってきっといるわ。でもそれがあたしじゃないのはなぜ?」
 少女は一呼吸置いて、俺に質問を投げかけた。
「あんた、宇宙人っていると思う?」
 唐突に頭の中に一人の少女の顔が浮かんだ。短髪の、無表情で儚げな印象を与える少女。
「未来人は? 超能力者は?」
 短髪の少女の隣に、無邪気に微笑む栗色の髪の美少女と、爽やかに如才なく微笑む美少年の二人が加わった。
 思い出せ、思い出せ。
 あらためて俺は目の前の少女に目をやった。
 腰まで届く、長くて真っ直ぐな黒髪、それにカチューシャ。
 意思の強そうな、大きくて黒い瞳。
 俺は何かを思い出そうとしている。
「お前の……、名前を教えてもらっていいか?」
「そんなこと聞いてどうすんのよ」
 俺の真剣な表情を見てあきらめたのか、少女は言った。
「まあいいけど。あたしの名前は、涼宮……」
 俺は無意識に立ち上がって、叫んでいた。

「ハルヒ!」

 ハルヒはブランコから立ち上がり、鋭い眼光でもって俺を睨みつけた。
「ちょっと……なんであんたがあたしの名前知ってるのよ?」
 俺はその問いには答えず、興奮しながら続けた。
「宇宙人? そんなのは山ほど知ってるぞ。幽霊みたいにネットワークやらシリコンやらそういうのにとり憑く奴だっている」
 いきなり何を言い出すのか、という表情で俺を見つめるハルヒ。
おそらくさっきの俺の表情がこんなだったに違いない。
「未来人? ありふれてる。現代人よりはるかに多いぞ。今より未来に生きてる奴らはみんな未来人だ」
 ハルヒは呆気に取られていたが、そんなことはお構いなしに俺は続けた。
「超能力者? いくらでもいるぞ。奇妙な集団を作って奇妙な空間で奇妙な玉になってるような奴らがな」
 ハルヒは呆れを通り越して訝しげな表情でこちらを見ていた。
俺は言った。ハルヒの目をじっと見据えて。
「いいか、よく聞けハルヒ。いずれお前はそういった連中の中心になって、好き放題、勝手気ままな人生を送るんだ。この地球、いや全宇宙の中でもそんなことが出来るのはお前だけだ」
 ハルヒは目を見開らき、あらためて俺の表情をうかがっていた。
いつの間にか泣き声は聞こえなくなっている。
「だから周りのことなんか気にすんな。お前はお前が信じる道をただひたすら突き進めばいい。しばらく辛い時期があるかもしれんが、俺が保障する。お前は絶対に幸せになる。だから頑張って生きてくれ」

 ハルヒは再び顔をうつむかせ、何かを考え始めた。
しばらくそうした後ハルヒは勢いよく俺を仰ぎ見た。
「よくわかんないけど覚えとくわ!」
そこには、俺が英語の授業中に初めて見たときと同じ、ハルヒの灼熱の笑顔があった。やっぱりお前にはその表情が一番よく似合う。
「話聞いてくれてありがと!」
 そう言い残すと、ハルヒは俺がよく知る短距離走スタートダッシュの勢いで走り去った。
俺はハルヒの後姿が見えなくなるまで立ちつくしていた。
ハルヒよ、頑張って生きてくれ。
俺のためにも。

 こうして、俺は全てを思い出した。

 光陽園駅前公園から鶴屋家に戻った俺は、重要な話があると言って当主に時間を取ってもらった。
これからかなり奇異な話をしますが驚かないで聞いて欲しい、と前置きをしたうえで、俺は
話し始めた。

記憶が戻ったこと。
自分は十年先からやってきた未来人であり、詳細は明かせないがこの時空にいる俺はまだ小学生であること。
涼宮ハルヒという存在とその能力のこと。
宇宙規模的存在とそのインタフェース端末のこと。
俺よりはるか未来にいる未来人たちのこと。
ハルヒにより生み出される閉鎖空間、超能力者とその役割についてのこと。
そしてこれから自分はそれら超能力者を集めた機関を作らなければならないこと。

話し終えるのにざっと二時間はかかった。
俺はハルヒを救うために行動していることについては話さなかった。
それを説明するためには、情報統合思念体の企みについて話さなければならず、そうすると、俺がやつらと敵対する立場であることも明らかにしなくてはならない。

その事実を語ることについて俺は、慎重にならざるをえなかった。
結局のところ俺が当主に話したのは、俺が未来人であることに加え、俺が高校一年の時点で既に知っていた知識と、機関を作る必要があるということである。

当主は怒り出すこともなく、我慢強く話を聞いてくれていたが、その表情には当然の反応として明らかな困惑の色が見えていた。
「あなたの目に嘘は感じられません。それならば、あの電話番号についても納得がいきますからな。ですが、何か確証になるものがあるとよいのですが」
 今の俺にとって、この電波話を信じてもらうのにさしたる苦労は必要なかった。
俺は当主の目の前で時間移動をおこない、三日後の新聞を入手して、それを当主に手渡した。当主は三日後を待つまでもなく、その場で新聞の内容にざっと目を通しただけで、俺が未来人であること、そして俺の話が全て真実であることを確信したようだった。

 当主とは今の話を機密事項としてお互い他人に一切口外しない約束を取り交わた。
そして、当主は俺の機関立ち上げに全面的に協力する意向であること、詳細な計画を立てるためになるべく明日以降時間を取れるように努力することを表明してくれた。
結局俺は引き続き鶴屋家にお世話になることとなってしまった。
もはや俺には下げる頭も残っていない。
「いえいえ、私どもとしても地球滅亡の危機は避けたいですからな」
 当主はどこまでも気立てのいい人物だった。そういうところは確実に鶴屋さんに受け継がれている。

「お兄ちゃん、記憶が戻ったんだってねっ。おめでとっ!」
 離れに戻った俺に、将来の鶴屋さん――まあ今も鶴屋さんなのだが――がいつものテンションでお茶を持ってきてくれた。
 妹からお兄ちゃんと呼ばれることは長きにわたる俺の念願だったのだが、それがまさか鶴屋さんによって実現されるとは。
「ありがとよ」
 俺は笑顔で応えた。
「お兄ちゃん、名前なんていうのっ?」
 俺は既定事項に則るならばこの名前を告げるしかないと思い、素直にそれに従った。
「ジョン・スミスだ」
「あははっ! それってどういう冗談っ?」
 実に愉快そうに鶴屋さんは笑った。
「そういうことにしておいてくれ」

「まあいいさっ! でさっ、前に言ってたおかしなことだけど、聞いていいっかな?」
「ああ、なんでも聞いてくれ」
 俺はお兄ちゃんと呼ばれたこともあって、とても気を良くしていて、かつ気を大きくしてい
た。そして、俺は明らかに油断していた。
「ジョン兄ちゃんって、もしかして未来の人っ?」
 お茶を含んでいたら、それは間違いなく俺の口から霧散していたはずだ。またしても、そして前回以上に俺は腰を抜かした。動揺が隠せない。
「ま、待て、なんだってそういう風に思うんだ」
 満面の笑みを浮かべながら鶴屋さんは言った。
「だってお兄ちゃんのサングラス、割と有名なブランドだけど、それって今年の夏に初めて出る予定のモデルだよっ?」
 参った。俺が数週間かけて、まさしく偶然とも僥倖とも言える奇跡で得た真実を、鶴屋さんは俺と初めて会った日からお見通しだったとは……。
「あー、ええとだな……」
 考えながら話すのは未だに得意ではない。
「俺にはその、サングラスのメーカーに知り合いがいて、」
 鶴屋さんが興味深かそうに俺を眺めている。
「……それでだな、そう、たまたま運良く発売前の試作品を譲ってもらったんだよ、これが」
「へぇーっ」
 鶴屋さんの表情はとても楽しげだった。
「でもあのサングラス、随分とくたびれてたように見えたけど」
 確かに……ハルヒにプレゼントされて以来、ロクに手入れもしてなかったからな。
そして、俺はやはりこの方を騙し通せるほどの才覚が自分にはないであろうという事実を受け入れ、うなだれながら白状した。

「これは君のお父さんにしか話してないことだ。君のお父さんも含めて絶対に誰にも内緒にしておいてほしい」
「わかってるよっ! 今までもこれからも誰にも言わないさっ。こんなこと他の誰も信じちゃ
くれないしねっ!」
こうして俺と当主との約束は、この俺によって一時間を待たずして反故にされたのだった。

俺は情報統合思念体の統括者である老人から逃れるために時間移動し、その直前に老人によって記憶を奪われたのだろう。
ここはあのときから六年、つまり元の時代から十年半ほど遡った過去だ。
俺は最大でも六年間の時間遡行しか出来なかった。つまり少年が言っていた飛び石的時間移動がいつの間にか可能になっていたのだ。
これからのことは当主が言ってくれたとおり、明日からじっくり考えよう。
俺は床につき、すぐに眠りに落ちた。

それも束の間、俺は体全体が大きく揺さぶられる感覚に飛び起きた。
俺が幼い頃に経験した大地震、それを思い出させる強烈な衝撃だった。

だが冷静に辺りを見回してみると、おかしなことに何一つ揺れているものはない。
そして見たところ俺の体にも揺れは生じていない。
しかし俺は確かに激しい揺れを感じている。
何が起こっているのか、ようやく俺は理解した。時空振動だ。それもかなり特大の。
そして理由はすぐに思い当たった。

 ハルヒによる最初の情報爆発が今まさにおこなわれている。

 未来からでも観測出来た、という朝比奈さんの言葉を思い出す。
今まさに時空振の強大さを俺自身が感じていた。
おそらく今日の俺とハルヒとの会話が、この情報爆発を引き起こしたのだ。
そして驚くべきことに、つまり俺は、六年間の時間移動によりハルヒが作り出したという時
間断層を突破していたのだ。
あの老人ですらそれは不可能なことだと言っていた。
ハルヒは俺のために特別な抜け道を作ってくれていたのだろうか?
老人はあのとき、二度と情報爆発は起こらないだろうと言った。
超自然的かつ奇跡的な確率でおこなわれたことだと。
そしてそれは俺とハルヒの出会いにより再び引き起こされた。
もし運命というものが存在するのなら、俺はそれを信じてみてもいいと思った。
いや、今の俺にはそれを信じる以外に道はない。