女の筈の俺がどうして男言葉で且つ「俺」などという一人称を使っているかと言えば、
それはまだ俺が小学校に上がる前に俺に面白がって男言葉を仕込んだ人物が居るからとい
う単純な理由でも有ってそれ以上でもそれ以下でも無い。
 でもってその人物はと言えば近所に住む女子高生だったのだが、
彼女は俺が小学校に上がる頃と前後して引っ越していってしまったので、
下手をすると彼女の記憶には俺のような子供が居たことさえ残ってないのだろう。
 少なくとも、今でも男言葉とは思っていないだろうな。
 まあ、それ以降全然連絡は取ってないんで確証は無いんだが。
 家族はどうだったかって?
 妹が姉のことを「キョンちゃん」などという間抜け極まりないあだ名で呼ぶのを放置す
るような家族なんだ、押して知るべしって感じだな。
 そんなわけで俺は今になってもこの一人称と男っぽい言葉使いが全く抜けないわけだが、
中学の真ん中辺りからは言い訳するのも段々面倒になり「気にすんな」の一言で全てを済
ませてきた。

 俺としては喋り方程度で去っていく奴はどうでも良かったからな。
 さてそんな俺だが、高校生になる段階になって、高校になったら少しは変えてみようか
とか思っても居た。
 中学からの持ち上がりも居るには居るが、新しく知り合う奴だってそれなりに居る。
 変わるなら今、というと何かのキャッチコピーのようだが、本当にそう思っていたんだ
から仕方が無い。
 中学自体が真っ当じゃなかったとは言わないが、真っ当な青春って奴を送ってみたいとも思っていたからな。
 しかし、その俺の淡い目標は至極あっさりと崩されることになった。
 何せ、入学初日に涼宮ハルヒに出会っちまったからな。
 あいつの衝撃の前では俺の喋り方だとか一人称だとかいうのは些細過ぎる問題で、俺自
身も綺麗さっぱりそんなことを忘れるはめになっちまった。
 まあ、そのハルヒのひとつ前の自己紹介の時点で既に失敗していたってのも理由の一つ
なんだが。

 さて、中学から持ち上がりの連中が多数上がっている高校だったが、幸か不幸か俺と仲
の良かった友人といえば国木田くらいで、そこそこ仲の良い女友達は全員違うクラスだっ
た。
 そんな俺が、たまたま席が後ろだった奴に話し掛けようと思ったとしても、そんなにお
かしいことじゃないだろ?
 俺だって新しい友人は欲しいさ。
「なあ、しょっぱなの自己紹介のあれ、どこまで本気だったんだ?」
 口調を訂正するのをすっかり忘れていたが、言ってしまった後で考えても仕方が無い。
 腕組みして不機嫌全開だったハルヒはほんの一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに
元通りの表情、いや、もっときつい目つきになって、俺の方を凝視してきた。
 睨んでいるようにしか見えないんだがな……。
「自己紹介のって、何のことよ」
「いや、だから宇宙人が……」
「どうせあんたは宇宙人じゃないんでしょ、だったら話し掛けないで」
 取り付く島もねえ。
 しかしなんだこの決め付け口調は。俺は確かに宇宙人でもなんでも無いただの女子高生
だが、これじゃハルヒが俺の正体を知っているみたいじゃないか。
 いや、俺に正体なんて言えるほどのものは無い筈だが……。
 何だろうね、一体。
 俺は負け犬のような気持ちを抱きつつも、同時に奇妙な疑問を抱くことにもなってしま
った。
 その後すぐに担任の岡部が入ってきたんで、そんなことは心の片隅どころか枠組みの外
へ放り出されてしまったんだが。

 ちなみにハルヒの他の連中への対応も似たり寄ったりだった。
 俺のように宇宙人がどうなんて言うハルヒが言い出したことを取っ掛かりにするわけで
もなく、ドラマがどうとか俳優がどうとか言う連中の末路がどうなったかなんて、語るま
でも無いだろう。
 そんなこんなで、入学から一週間も経つ頃にはハルヒは完全にクラス内で孤立していた。

 そういう俺の方はと言えば、クラス内でそこそこなかの良い奴も出来ていたから、特に
話し相手に不足する事も無く、ハルヒのことなんて段々忘れかけているくらいだった。
 後ろの席から妙な鬱オーラを感じるのは正直うざったいが、物理的に迷惑をかけられて
いるわけじゃなかったからな。
 さてそんなとある日、俺は中学時代から仲の良かった国木田と、たまたま席の近かった
東中出身の谷口という男子と弁当を食っていた。
 涼宮ハルヒの話題が出たのはそんなときだった。
「お前、この間涼宮に話し掛けてたよな」
「ん、ああ」
「どうせわけの分からんことを言われて追い返されたんだろ」
 その通りだ。
「悪い事は言わない、辞めとけ、あんな奴とつるんでいたらお前まで変人扱いされるぜ。
そんなことよりお前はお前で青春を謳歌するべきだ!」
 つるむ前に向こうからつき返されたんだが、まあ同意は出来るか。
 しかせ何故お前は飯を食っている途中に立ち上がってそんな熱っぽく青春なんて単語を
口に出来るんだ。国木田が俺とお前を交互に見ているが、何か意味が有るのか、これは?

「考えておく」
 谷口の言う青春が何を意味さすのかは俺には良く分からなかったが、とりあえず気にし
ても仕方ない気がしたので、俺はツナサラダの攻略に戻らせてもらった。
「……まあ、とにかく、だ。あいつは常軌を逸している」
 谷口は三年間同じクラスだったからと前置きして、ハルヒが中学自体に起こした事件の
幾つかをざっと話してくれた。
 校庭に石灰で絵文字のような落書きを書いたことだとか、机を教室から全部出してみた
りだとか、学校中に変なお札を貼ってみたりだとか……、本当にわけが分からんな。
 落書き事件については地方新聞に載ったとかで国木田も知っていたが、俺は知らなかっ
た。
「でもなあ……」
 谷口の話は終わらない。
 何でも、ハルヒは中学時代は男に良くもてていたそうだ。何せ顔はいいし、学業やスポ
ーツも優秀な方らしいからな。
 一時期は本当にとっかえひっかえだったらしい。しかしあのハルヒだ、誰一人として長
続きしなかったとのことだ。最長一週間はともかく最短5分ってのはちょっと常人の俺に
はどんなお付き合いなのか全く想像できない。
 そういうこいつも、ハルヒに振られた一人なのかもな。
「聞いた話だって、マジで」
 ちょっとムキになりかけている辺りが怪しいが、俺はあえてそれ以上は訊かないでおい
てやった。
「しかしお前、何で俺にこんな話をするんだ?」
「そりゃお前……」
 当然の俺の疑問の前に、谷口が口を閉ざす。でもって奴はそのままそっぽを向くように
横を向いてしまった。
 何だ、一体。

 俺は何か悪い事を言ったんだろうか……、俺はただお前の語る在りし日のハルヒの姿と
やらを延々聞かされていただけなんだが。
 首を捻る俺、無言の谷口、その両者を眺めて微妙な表情になる国木田。
 ……わけが分からん。
 俺は疑問を残しつつも、こんな状態に長く付き合っている気も無かったので、食べかけ
の弁当を手に教室の入り口辺りの席に座って談笑中の女子グループの方へと向かった。
「あら、どうしたの?」
 男子二人を置き去りにしてやってきた俺に対して、朝倉涼子が首を傾げる。
 朝倉は特別仲がいいわけじゃないが、誰に対してもそこそこ人当たりがいいので、俺み
たいなやつがこうしていきなり押しかけてきても何も言わないし、同時に周りにも何も言
わせなくさせるだけの雰囲気を持っていた。
 威圧感は無い、どっちかっていうとみんなの居心地を良くさせるタイプだ。
 所謂一つのカリスマ性って奴かも知れないな。
「どうもしないさ」
「ふうん、まあ、いいけど……。クラスメイト同士、仲良くしてあげなきゃだめだよ」
「分かっているって」
 あんな馬鹿と仲良くしてどうなるというのだろう、まあ、涼宮ハルヒと友人になれとい
う無理難題を突きつけられるよりはよっぽどマシだが……、俺は朝倉の忠告とも助言とも
つかない言葉を心の片隅にどけ、ついでに谷口と涼宮ハルヒのことも保留にして、隣にい
た女子が振ってきた昨日のドラマの話に応じてやった。

 ハルヒの奇妙な片鱗についてはどう話したらいいのだろうか。
 毎日髪形が違うとか、体育の時間に男共を一切気にせず着替え始めるとか、全部の部活
に仮入部しているだとか……、これだけやれば、そりゃ有名人にもなるよなあ。
 かくして五月が始まる頃には、涼宮ハルヒの名前を学内で知らない者はいないくらいの
状態になっていた。

 五月、ゴールデンウィーク明け。
 俺は何故か谷口と一緒に坂を登っていた。
 特に理由は無い、単に坂の下で出会ったというだけだ。
 長い坂道だ、馬鹿話しか出来ない相手でも居ないよりはマシだ。一人でしんどい坂道を
登りつづけるより話し相手が居る方が気が紛れるさ。
「なあキョン、お前ゴールデンウィークはどこかへ行ったのか?」
「小学生の妹と一緒にバーさんの家だ」
「しけてやんな……、ああ、しかし、そうか……」
 谷口は肩を竦めてから、視線を彷徨わせ始める。
 こいつとは席が近いし、登校時間が一緒になることも多いせいで割と良く話すんだが、
何故かこいつは時々こんな風に挙動不審な動作を見せる。
 ハルヒの変人っぷりに比べれば全然マシな方だが、ちょっと気持ち悪いな。
「そういうお前はどうして居たんだよ?」
「バイトさ」
 半歩ほど距離を開けた俺に気づいたのかどうなのか、谷口は別段その距離を気にするこ
とも無く俺の質問に答える。
「似たようなものじゃないか」
「高校生にもなって親戚のご機嫌伺いなんていう実りの無いことをしているよりはよっぽ
どマシだろう?、あのなキョン、高校生には高校生らしい……」
 と言って谷口はまた一人で話し始めた。
 お前さえ良ければバイトに誘ったんだぞとか、女の子の制服は結構可愛かったからお前
でも絶対様になったとか、小金が貯まったからデート資金には不足は無いとか、仕舞には
何故かデートの金は男が出すものだから女は心配する必要は無いなんてことまで言ってい
た。

 お前は何が言いたい。
 生産性が有ろうが無かろうが、うちはゴールデンウィークは親戚連中で集まる習慣があ
るんだよ。
 斜め後ろから聞こえる谷口の声が鬱陶しい。
 俺は校門に到達するまでの間に、谷口の想定するデートコースとやらを三つも聞かされ
る羽目になってしまった。
 その三つが三つとも俺にとっては全然面白く無さそうなものだったってことを、一応つ
け加えさせてもらおう。

 魔が差した、と言っても過言でも無い出来事に俺が脚を踏み入れてしまったのはその日
の体育の時間、正確には体育の前の着替えの時間だった。
 休み時間に入るなり、男子達は教室の外へ叩き出されている。
 かわいそうなことだが仕方がない。
 俺は谷口が体操服を持っていき忘れたことに気付いたので、仕方が無いので入り口近く
にいた女子に閉まりかけの扉をほんのちょっとだけ開いてもらって体操服の入った袋を投
げてやった。
 命中を食らったらしい誰かの、どうやら聞き覚えのある間抜けな声が聞こえたが気にし
ないことにしておく。中身は体操服だ、怪我はしないだろう。
「髪の毛、ぐちゃぐちゃになっているぞ」
 後ろの席で二つ結びのままセーラー服を脱ぎ去り体操服に袖を通していたハルヒに、俺
は忠告してやる。普通ツインテールのまま首を通す形の服を脱いだり着たりすれば髪の毛
がどうなるかなんて想像しなくても分かるだろう。
 しかも今のハルヒの髪型は普通の左右対称のツインテールではなく、何故か正面向かっ
て斜め右上と斜め右下というかなり不可解な髪型だ。
 どう気をつけたって崩れるのが当たり前だし、そもそもハルヒが着替えに気を使ってい
る様子は全く無い。
 そういう俺もポニーテールを一旦解く。
 ハルヒが、どういうわけか俺の方に視線を固定したまま硬直している。
 どうした、俺の顔に何かついているか?
「結びなおせよな」
 仕方ないので、俺は硬直したままのハルヒの頭に手を伸ばした。
 俺の方が少し背が高いので、ハルヒの頭には結構簡単に手が届く。

「ちょっと、触らないでよ」
 こいつは髪の毛にセンサーでも埋め込んでいるんだろうか。
 俺が髪の毛に触れるかどうかってところで復活しやがった。
 そのまま俺の手を振り払い、自分で髪を結びなおし始める。
「なあ、曜日ごとに髪形を変えるのは宇宙人対策か?」
 俺は溜息を隠しつつ体操服に着替え自分の髪を結びなおしながら、以前からちょっと気
になっていたことを訊ねた。
 ハルヒが、再び硬直する。
 ぱさりと、結びかけていた髪が肩に落ちた。
 笑わない視線がそのまま俺の方に固定される。ちょっと怖いな。
「何時気付いたの」
 質問のはずなのに妙に独り言っぽい呟きだった。
「ちょっと前だ」
 一週間で一回りなんだ、三週間目の始めくらいには気付くさ。
「ふうん……。あたしね、曜日によって感じるイメージって違う気がするのよね」
 ハルヒが俺に向かって喋っている。
 内容がまともかどうかはさておいて、オカルト雑誌のキャッチコピー程度にはまだとっ
つきやすい。
「色で言うと月曜が黄色、火曜が赤で水曜が青で……」
 それは火が赤いとか水が青いってやつか。
 まあ、言いたいことはわからなくも無い。
「数字にしたら月曜が0で日曜が6ってことか」
「そう」
「俺は月曜は1って……」

「あんたの意見なんて聞いてない」
 言い終わる前に切り捨てられた。
 こいつ本当に他人と会話を成立させる気なんて有るのか?
「……そうかい」
 脱力する俺が顔を上げると、ハルヒがまた俺の方を見ていた。
 何だ、一体。
 ハルヒは俺が不安になるだけの時間を経過させてから
「あたし、あんたとどっかで会ったことがある? ずっと前に」
 疑問形だか独り言だか分からない口調でそう言った。
「……いいや」
 悪いが俺はこんな変な女に出会ったことは無い。
 中身抜きに外見だけを見てもハルヒは美少女なんだ、同性とはいえ普通に会っていたら
先ず忘れないだろうよ。
 そのとき、チャイムが鳴ったので俺達の会話はそこで打ち切りとなった。
 気がつけば教室に取り残されていたのは俺達二人だけで、遅れていった俺達二人が揃っ
て体育教師に怒られたのは言うまでも無いことだ。

 これがきっかけって奴だったんだろうか。
 翌日、ハルヒは長かった髪をばっさり切って登校してきた。
 腰まである髪がいきなり肩までのセミロングだ。ちょっと勿体無くないか。
 肩甲骨の下の方辺りまでの髪をポニーテールにしている俺は、自分の髪を弄くりながら
ふとそんなことを考える。
 それにしても、俺が指摘した次の日に切ってくるってのも短絡的だよな。
 俺がそのことを指摘すると
「別に」
 ハルヒはそう言って黙りこくってしまった。
 まあ、予想通りの反応だったな。

 ハルヒの感性は正直俺には良く分からない。
 どの部活もつまらないと言われた次のホームルームの時、俺はふと谷口に言われたこと
を思い返して話題を振ってみた。
「お前、付き合う男を全部振ったって本当か?」
 谷口が言うにはハルヒは付き合う男を全部振っていたなんてことだが、実に勿体無い話
だ。
 恋愛経験の無い俺が言うのもなんだが、寄って来る男を全部振るっていうのはちょっと
想像が出来ない。そりゃ変なのや面白くない奴も居るかも知れないが、10人か20人くらい
いたら一人くらい長く付き合っても良さそうなのが居ないか?
「何であたしがそんなことを答えなきゃいけないのよ」
 僻みとでも思われたんだろうか、ハルヒの回答は極めて素っ気無かった。
「どうせ出所は谷口でしょう。あいつなんで高校に来てまであたしと同じクラスなのかし
ら、ひょっとしてストーカー?」
 中学から持ち上がりで同じ高校という辺りはともかく、高校で同じクラスになんてこと
まで自力で何とかできたらそりゃストーカーじゃなく権力か情報操作能力の賜物だろう。
 悪いが谷口にそんな能力があるとも思えないし、そんなことを望むとも思えない。
「それは無いだろう」
「ふうん……、まあ良いわ、全部本当だから。あいつ馬鹿だけど下手な嘘は吐かないみた
いだしね」
 何だ、意外と分かっているんじゃないか。
「一人くらいまともに付き合おうと思える相手はいなかったのか?」
「全然駄目、どいつもアホらしいくらいまともな奴だったわ」

 お互いの『まとも』の定義に大分ずれが有る気がしてならない。
 ハルヒ曰く、どいつもこいつも判を押したように似たようなデートコースを提案してく
るような輩だったらしい。
 遊園地とか映画館とかスポーツ観戦とか……、まあ、中学生のデートコースとしては極
めてまともだな。
 ハルヒが何を期待しているか知らないが、付き合って初めてのデートで心霊スポット巡
りだとか人体の不思議展とかに彼女を連れて行ける奴が居たら、俺はそっちの方がどうか
していると思うね。
 というか俺だったら多分その場で平手打ちをして帰るな。
「本当、何でこの世にはくだらない男しか居ないのかしら」
 そういうな、中学生の精一杯の努力なんだからさ。
 まあ、谷口の考えるお決まりのデートコースをつまらんと言い切れそうな俺が言うのも
何だが。
「じゃあなんだ、宇宙人なら良かったのか?」
「宇宙人、もしくはそれに準じる何かよ!、とにかく普通の人間じゃなければ男だろうが
女だろうがかまわないわ」
 おいおい。
 まあ、ハルヒにとっては相手の性別なんてどうでも良いんだろうが……。くれぐれも俺
を巻き込まないでくれよ。俺は至って普通の女子高生なんで、ハルヒの毒牙の対象になる
ことは無いだろうが。
 しかし、何でそんなに人間以外の存在に拘るんだろうか。

「そっちの方が面白そうだからに決まっているじゃない!」
 そりゃあ……、まあ、否定はしないさ。
 けどな、普通に考えてそんなことは有り得ない。
 宇宙人や超能力者や未来人がその辺りをうろついているとも思えないし、俺達に正体を
明かしてくれるとも思えない。
 もし居たとしても、そんな連中はひっそり生きているだろうさ。
 そういう連中は世間を騒がせないため正体を隠して生きるものだからな。……って、俺
もSFに毒されているんだろうか。
「だからよ!」
 ハルヒが椅子を蹴倒して叫んだ。
 教室中の視線が一気に自分に集中するってのに全くお構いなしだ。側にいた俺の方がい
たたまれない気持ちになる。
 えー、あー……、まあ、結論から言うと、ハルヒがそれ以上何かを言うことも無く、俺
が注意する事も無く、その日のお喋りは終了した。
 担任の岡部がやって来たからだ。
 岡部が場を仕切りなおし、ホームルームが始まる。
 至って普通の日常。
 ハルヒにとっては、この『普通』ってのが気にいらないポイントなんだろうな。

 そのときの俺がハルヒのことをどう思っていたか、というのを短い単語で纏めようとす
るのは難しい。
 一応友人未満くらいにはなれた気もするんだが、ハルヒの方が普通の人間の友人なんて
存在を求めているわけは無いので、そのカテゴライズは自動的に却下だ。
 俺からすれば、ハルヒはまだまだ良く分からない存在だった。
 無駄に有り余るエネルギーのぶつけ先を知らない、子供みたいな奴。
 非日常との邂逅を望むなんていう子供時代の延長戦をまだまだ持続中みたいな変わり者
だったが、悪い奴だとは思わなかったさ。
 俺の妹とはタイプが全然違うが、妹みたいだなって思っていたのかもしれないな。
 まあ、ハルヒにそんなことを言ったら怒られそうだが。
「おい、キョン」
「なんだ、谷口か」
 休み時間に妙に深刻そうな声で話し掛けてくる奴が居たから誰かと思った。
 谷口、お前にそういう口調は似合わないから辞めておけ。お前みたいなキャラがそうい
う口調になるときは死亡フラグだと相場が決まっているんだ。
「ほっとけ。しかしお前、一体どうやって涼宮とまともに話せるようになったんだ?」
 あれがまともの範疇に入るんだろうか。
「あんだけ長く話せれば充分だろう。俺の知る限りの最長記録だ。お前一体何を言ったん
だ?」
 中学三年間同じクラスだった奴が言うんだ、最長記録云々にはそれなりに信憑性はある
のだろう。
 しかし俺は別にたいしたことは言っていない、適当に話をしていただけだ。

「キョンは昔から変な友達が多いからねえ」
 ひょっこり後ろから顔を出した国木田。
 誤解を招くような事を言うな。
「……本当かよ?」
「うん、だってね……」
 谷口が目を丸くし、国木田が俺の過去に触れようとする。
「だー、俺の中学時代なんてどうでもいいだろ」
 俺は二人の間に割って入った。
 国木田はそんなに悪い奴じゃないんだが、ちょっと物事を誇張して話す癖がある。
 谷口程度にどう思われようと構わないと言えば構わないだが、谷口の性格から考えて谷
口に話が行くとそのままクラス全体くらいに話が広まりかねない。
 俺としてはそういう事態はちょっと勘弁願いたい。
「喧嘩は駄目だよ」
 男二人の間に俺が割って入っている状況をどう解釈したのか、俺の反対側から朝倉涼子
が現れた。軽やかなソプラノ、あまり咎めるような雰囲気は無い。
「喧嘩じゃねえ、涼宮の話だよ」
「涼宮さん?」
 谷口が答えて、朝倉がちょっと首を傾げる。
「そう、キョンがあいつと会話を成立させていたみたいだからさ」
「ああ、そう言えばそうよね」
 朝倉も気付いていたのか。
 いや、俺とハルヒが話ているのは主にホームルームなんだから、クラスメイトの誰が気
付いたって別におかしくは無いんだが。

「涼宮さん、あたしが話し掛けても全然答えてくれないんだよね、上手く話すコツが会っ
たら教えて欲しいな」
 朝倉はそう言って、俺に笑顔を向けてきた。
「コツなんてねーって」
 悪いが俺にも全く心当たりが無い。
「ふーん。でも良かった、涼宮さんにも友達が出来て。女の子同士仲良くしてあげてね」
 友達、なあ。
 確かに一見会話は成立しているっぽいが、俺は相変わらずハルヒのしかめっ面ばかり見
ている気がするんだが。
 ちなみに朝倉はこの間のロングホームルームで学級委員長になっている。元々委員長っ
ぽいと思っていたが、委員長って肩書きが良く似合う女だな。
 ハルヒに関しては要らぬお節介だと思うんだが。
「その調子で涼宮さんをクラスに溶け込めるようにしてあげてね。あ、これから何か伝え
ることが有ったらあなたに頼むことにするね」
 いやまて、勝手に決めるな。
「お願い」
 下から見上げて両手まで合わすな。
 俺に同性愛の趣味は全く無いが、そういう顔をされるとさすがに断り辛い。
 朝倉は俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、そのまま女子の輪に戻っていった。
「なあ、キョン……、友人は選んだ方が良いと思うぞ」
 谷口が俺の肩を叩き、その後ろで国木田が微妙な表情をしている。
 お前等全員アホだろう。

 席替え。
 クラスに目当ての男子生徒の居ない俺からしてもそれなりに楽しみなはずのこの小さな
イベントは、後ろの席の奴が前と一緒だったという事実により何もかもが吹っ飛びかけて
しまった。
 何でまたハルヒの前なんだよ。
 相変わらずの調子のハルヒが言うには、ミステリ研も超常現象研究会も全く持ってつま
らない部活だったという事だった。
 不思議を求める奴なら一度は通る道だろう。ハルヒは全部の部活動及び研究会に刈り入
部なんてことをしていたけどな。
 どっちもただのマニアさんの集団で、本当に妙なことに出くわした事など無いという。
 そりゃそうだろう、普通の人間はそんなもんさ。
 非日常的な出来事に憧れつつも、ミステリやSF、ライトノベルなんかを読み耽って妄
想や空想に浸ったり、仲間内で語ったりして充足感を得る、そんなものじゃないか?
「もう、つまんないつまんないー、あたしは実際に出会ってみたいのよ!」
 しかし、ハルヒにその理屈は通用しないらしい。
 誰かの作り物の世界じゃ満足できないっていうハルヒの気持ちは分からないでも無いが、
だとしたら一体何が良いんだ。
 俺には未だにハルヒの求めるものが何だかさっぱり分からなかった。
 面白ければ良いとのことだが、その「面白い」の定義が一体何なのかが全然見えてこな
いのだ。

 こいつの中でも方向性は定まってないのかも知れないが、そんないい加減な状態で良い
のか、本当に。
 まあ、俺が心配してやる義理も無いはずなんだが
「ないもんはしょうがないだろ」
 俺は意見してやった。
「結局の所、人間は……」
 以下、俺はくどくどと説得めいた事を口にしていた。
 後から思い出すと恥ずかしいとまでは言わないが変なことを言ったなあという気がする
のであんまり詳細には触れたく無いが、どうもハルヒは俺の言ったことがお気に召さなか
ったらしい。
「うるさい」
 言い終わる前に切り捨てられてしまった。
 俺の方はと言えば、特に機嫌を悪くするわけでもなく、こいつらしいななんてことを思
って居たさ。
 多分、ハルヒはなんでもいいんだろう。
 ハルヒの言うツマラナイ現実とやらから離れることさえ出来れば、それで充分なのさ。
 まあ、その気持ち事態は分からないでも無いが……、そういうもんは、そう簡単におち
ているもんじゃないだろう。
 ついでに言うと、真っ当な物理法則とやらがこの世を支配しているからこそ俺たちは平
穏に暮らせるってもんだ。 
 違うか?、違わないだろう。

 何がきっかけだったかというのは余り考えたくない。
 女子高生同士が話すにしてはどこかネジが一本抜けているというよりも、抜けたネジの
変わりに葱でも差し込んだんじゃないかってくらいのおかしな会話が、その発端だったん
だろうか。
 とにかくそれは突然やって来た。

 唐突に、首の辺りに不穏な気配を感じた。
 いや、本当は気配なんて感じる間もなかったのかも知れない。
 気がついたら俺はハルヒにセーラー服の襟を引っつかまれ、そのままハルヒの手により
身体ごと半回転させられ、ハルヒとこれ以上ないくらい至近距離で顔を合わせるという状
態にあった。
 何なんだ、一体。
「気がついた!」
 ハルヒが俺の両肩をがしっと掴み、宣言した。
 そのときのハルヒは、すごくいい笑顔だった。
 例えるなら、子供が新しい玩具を見つけたかのような……、可愛いけれども一抹の不安
を感じさせる、そんな笑顔だった。
 それが一抹程度ではないという事を俺はすぐに思い知る事になるんだが、このときの俺
は、ハルヒもこんな表情をするんだなくらいにしか思えなかった。
「どうしてこんな簡単な事に気づかなかったのかしら!」
 唾を飛ばすな。至近距離で肩をつかまれてちゃ避けることも出来ない。
「何だ、一体」
「部活よ! 無いんだったら作ればいいのよ!」
 本気かよ。

「そうか、そりゃ良かったな。ところでそろそろ手を離してくれないか、いい加減肩が痛
い」
 その細い腕のどこにそれだけの力が有るのか知らないが、掴まれた肩が痛い。
「何よ、あんたももうちょっと喜びなさいよ!」
 ハルヒが離した片手を振り上げ、もう一方の手で俺の肩を揺さぶりまくる。
「……お前の主張は後で聞いてやる、今は授業中だ」
 そう言うと、ハルヒは漸く俺の肩から手を離した。
 前を見たら、クラス全員+教師、要するに教室に居るハルヒと俺以外の全ての人間の視
線が俺達の方へと集中していた。あー、教師が泣きそうだな。
 俺は突っ立ったままのハルヒの腕を引っ張って着席させてやると、哀れな女教師に手振
りで授業の続きを促してやった。

 新しい部活、なあ。
 嫌な予感がしまくりなんだが、まさか俺もそれに加われって言うんじゃないだろうな。

 結論から言うと、俺の嫌な予感は当たった。
 俺はハルヒの新しいクラブ作りとやらに協力させられる羽目になったのだ。
 提出書類を揃えろと俺に言ったハルヒは、その日のうちに部室を見つけてきやがった。
 正確には文芸部の部室なんだが、たった一人の部員が使って良いと言ったらしい。 
 長門有希、それが彼女の名前だった。
 ハルヒと別方向の意味でちょっと変わった人物のようだったが、ハルヒのパワーに圧さ
れっぱなしの俺がそんなことを気にかける余裕は全く無かった。
「先ずは部員ね、あと二人は必要なのよね。ああ安心して、最低一人は心当たりが有るか
ら!」
 同好会発足のために必要な人数は5人。
 俺とハルヒと……、文芸部員のはずの長門も数に入っているのかよ。
 それにしても、心当たりって何だ。

 次の日、俺は仕方なく文芸部室に向かった。
 まだ新しいクラブとやらの名前も内容も全く決まってなかったが、行かないとハルヒが
何を言い出すか分かったもんじゃないからな。
 ハルヒとは違う意味で会話の成立しそうに無い無口系文芸部員との会話とも呼べない言
葉のやり取りに脱力した俺が力なくパイプ椅子に腰を下ろそうとした時、勢い良くドアが
開いた。
 ここは建物自体が古いんだ、そんなに乱暴に扱うんじゃない。
「やっほー、連れてきたわよー!」
 ハルヒは、片手で俺の知らない誰かの腕を掴んでいた。
 明らかに拉致されたとしか思えないその人物は、小柄な少女だった。
 えっと、上履きの色が違うから二年生だな。二年生にしてはちょっと子供っぽい感じが
するが。

 それにしても、また女の子か。
 パワー全開セミロング美少女(ハルヒ)、至って普通人のポニテっ娘(俺)、ショート
カットで無口な神秘系文芸部員(長門有希)、そして今現れた童顔な上級生さん。
 別に男を連れて来て欲しいと思うわけじゃないが、これじゃ主人公不在の恋愛ゲームみ
たいだ。
「紹介するわ。朝比奈みくるちゃんよ!」
 ハルヒによる上級生さんの紹介はその一行で終わった。
 俺と長門を上級生さん、じゃなかった、その朝比奈みくるさんとやらにまともに紹介す
る気は無いんだな。
 ハルヒ曰く、その朝比奈さんとやらを連れて来たのは可愛くて小柄で童顔……、萌えキ
ャラとしての要素を持っているからこそ連れて来たとのことだった。
 アホか。
「……」
 ハルヒに散々弄くられた朝比奈さんが、俺を見あげている。
 ぽわわんとした、癒し系の雰囲気を纏った彼女から発せられる空気に、何か違うものが
混じっている気がする。
 何だろうな……、ハルヒにいきなり連れて来られたせいなんだろうか。それとも、俺の
方がこの状況に着いていけてないせいだろうか。
 俺はちょっと疑問を抱いていたが、俺のその疑問はハルヒの考えたこの意味不明な団体
の名前によって吹き飛ばされた。

 SOS団。
 世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団。
 ……眩暈がしてきそうだ。
 怒るよりも笑うよりも先に呆れた俺が思考を閉ざしたように、朝比奈さんも長門も何も
言わなかったので、この団体の名前はハルヒの独断によって決定されてしまった。

 謎の転校生が欲しいだのコンピュータが欲しいだのと騒いでいたハルヒが、何故か今日
は大人しい。
 ただ部活が始まってからというもの、何故かしきりに時計を気にしていた。
 何だ、一体?
「キョン、4時半ちょうどになったら体操服に着替えはじめてね」
「は?」
 そりゃ今日は体育があったから体操服は持っているが、突然何の提案だ、これは。
 宇宙人を呼び出す儀式みたいに何か意味が有ることなんだろうか。
「いいから言う通りにしなさい」
「まあ、着替えるだけなら構わないが……」
 理由が気になるところだったが、断ると何が飛んでくるか分からないから、俺は仕方な
く言われたとおりに着替えることにした。
 体操服を用意し、セーラー服を脱ぐ。
 脱いだセーラー服を机の上に置いたところで、扉が開いた。
 は?
 名前も顔も知らない男子生徒が、その場で硬直していた。

 さて、そのときの俺の格好は?
 下はともかく上はブラジャーのみの下着姿だ。

 えっと……、
「おしっ」
 悲鳴さえあげられずに固まっている俺を無視し、ハルヒが今しがた入ってきたばかりの
男子生徒の腕を引っつかんで俺の方に放り投げる。
 何だ何だ、一体。
 俺は突然のことに避けられるわけも無く、男子生徒一緒になって床に倒れこんだ。

「あ、あわわっ」
「……、い、いやぁーっ!」
 ……さすがの俺も悲鳴をあげた。
 あんまり語りたくないんだが、見ず知らずの男が覆い被さっているこの状況で平静を保
っていられるほど俺の神経は丈夫じゃない。
 状況からしてどう見たってハルヒの差し金だろうが……、こいつ、何を考えてやがる。
「ご、ごめんなさあい」
 朝比奈さんの謝罪の言葉と、煌くような光。
 これは……、カメラのフラッシュ?
 俺は倒れこんだまま、どうやら自分のこの姿がカメラに収められたらしいということを
知った。
 ……最悪だ。
「さあ、あんた、この写真をばら撒かれたくなかったら、最新のパソコン一式よこしなさ
い!」
 ハルヒがびしっと指を一本その男子生徒に突きつける。
 漸く状況を理解したのか、男子生徒が立ち上がる。
 何時の間にか俺の後ろに回りこんでいた朝比奈さんが、俺にカーディガンをかけてくれ
る。
「ごめんね、キョンさん。……涼宮さんには逆らえなくて」
 朝比奈さんの声を右から左に流しつつ、俺はどうにか状況を整理しようとする。
 ハルヒは何をしようとしている、パソコン一式とは何だ?
 それとこの男子生徒は誰だ。上履きの色からして朝比奈さんと同じ二年生みたいだが、
俺はこんな奴知らないぞ。どこかで見たことくらいは有るかも知れないが……。
「キミがやらせたんじゃないか!、僕は呼び出しに応じてここに来ただけだぞ」
「ああら、誰がそんな言い訳を信用するかしら。そっちは男ばかり、こっちは女ばっかり
だもんね。あたし達が連名で抗議したら、皆絶対あたし達を信用するわ」
「なっ……」
「良いから、よこしなさい!、じゃないと残りの部員も一緒になってこの子を……」
 ……ここから先は俺の脳内から強制消去させてもらった。

 話を整理すると、何でも呼び出されたらしい男子生徒は文芸部の隣に居を構えているコ
ンピューター研究部の部長で、ハルヒはそのコンピ研から強奪するため一芝居打ったとの
ことだった。
 詳しいとこまでは聞かなかったが(聞きたくも無かった)、どうせ自分以外の誰か(俺
達3人のうち誰かだろう)の名前を使って文芸部室にそのコンピ研の部長さんを呼び出し
たのだろう。
 ……俺は部長氏に同情するよ。

 俺自身も同情してもらいたかったが、この状況で俺に同情してくれるのはハルヒの共犯
者でもある朝比奈さんただ一人である。
 こんな間抜けで恥ずかしい醜態を人様に教えようとは思わないが、まともに慰めてくれ
る相手が誰も居ないというのも寂しい。
 俺は学校帰りの坂の下でずっと上機嫌だったハルヒ、肩を支えてくれた朝比奈さん、今
日も最初から最後まで存在感ゼロだった長門と別れ、一人寂しく帰宅した。

 帰宅した俺は、どうも気持ち悪いものを感じて仕方なかったのでざっとシャワーを浴び
私服に着替え、部屋に居ても何もする気になれなかったので、ふらふらと家の外に出た。
 何となく歩いていると、近くの公園に辿り付いた。
 することも無かったので、俺はベンチに座った。暇つぶし出来そうなものなど持ってい
ないから、ただぼうっと座っているだけだ。
 財布くらい持ってくればよかったな。

「始めまして、お嬢さん」

 気がついたら、見知らぬ男が俺に向かって缶ジュースを差し出していた。

 ナンパ……、だろうか。
 経験が無いので良く分からないが、ナンパにしては場所も状況も不自然すぎる。
 ここはご近所の子供とその保護者しか来ないような公園だ。
 こんな若い男……、多分、俺と同じか少し上くらいの年齢の男が来るようなところじゃ
ない。
 それにこの男……、かなりの美少年だった。
 背も高いし、表情も雰囲気も悪くない。
 こんな美少年が人気の無い公園でナンパなんて、絶対おかしい。
「大分お疲れのようですね。やはり涼宮さんのお相手は疲れますか」
 俺がジュースの缶を受け取らないまま不思議そうにそいつの顔を見ていると、そいつは
唐突に言った。
「えっ……」
 どうしてこいつが涼宮ハルヒの事を知っている。
 誰だ、こいつは。
 こいつは……、さっきの二年生とも違う、学校で絶対に見たことが無い顔だ。断言して
もいい、こんな奴北高に居ない。校内にこんな美少年がいたら俺は忘れない。
「ああ、逃げないでください。……あなたにお話したい事が有るんです、危害は加えませ
んから」
 柔和な目、優しげと言って差し支えない微笑み。
 嫌な感じはしない、恐怖も感じさせない。
 人を安堵させることに長けた人間の笑い方。
 俺はふと、ハルヒとは正反対だな、なんて思ってしまった。

「……誰だ、お前」
「涼宮さんの関係者です」
 そりゃあ、名前が出てくるんだから見ず知らずの人間ってことは無いだろうよ。
「……兄貴か何かか?」
 雰囲気は真逆だが、どっちも美形って所は共通している。
 ハルヒに兄弟姉妹が居るとも考え辛いんだが、兄が妹が迷惑をかけた相手に対して謝罪
に来るというシチュエーション自体はそんなにおかしくはない。
「違いますよ。家族や親戚では有りません。……でもまあ、似たようなものかもしれませ
んね」
 似たようなものって何だ。
 血縁以外じゃ無いなら幼馴染とかか、いや、ハルヒに血縁や学校繋がり以外の腐れ縁が
居るとも考え辛いんだが……、こいつ、何者だ。
「……」
「大分お疲れのようですが、明日もあの部室に行ってあげてもらえませんか」
「……」
 俺は無言のまま、謎の美少年を睨みつけた。
 昨日の今日で、こんな出来事が有った後なのに、行けって言うのか。
 ただでさえ、登校すれば自動的にハルヒの顔を見なきゃならないんだぞ。
 あいつは内容を秘匿する事でパソコンを得たらしいが、何時あいつがおかしなことを口
にするとも限らない。
 それなのに、俺に行けって言うのかよ。
「……彼女も、寂しい人なんですよ。涼宮さんにとって、あなたは始めて出来た友人なん
です」
 じゃあ、ハルヒのことを知っているらしいのに家族でも親戚でも無いお前は一体なんな
んだ?

「僕の正体は何れ分かりますよ。また近いうちに会うことになるでしょうからね」
 謎の美少年は、そう言って穏やかな微笑を浮かべた。
 そしてそのまま立ち上がり、俺に缶ジュースを手渡す。
 不信感だらけだったが、俺はその缶ジュースを受け取ってしまった。
 多分、この中に毒とか変な薬は入ってないと思う。
「涼宮さんと仲良くしてあげてください。それが、あなたのためでも有るんです」
 そう言い残して、謎の美少年は去っていった。
 俺のため?
 一体何が……、と思ったが、俺はそれ以上考えるのをやめた。
 謎の美少年の正体は謎のままだったが、何となく、嘘は言っていない気がした。
 俺は缶ジュースのプルタブをあけると、中身を一気に煽った。
 手の中に握られていたらしい缶ジュースは大分ぬるくなっていたが、それはただの甘っ
たるいだけのジュースだった。


「キョン、待望の転校生がやって来たのよ!」
 何がどう待望なんだ。
 俺は別にそんなもの待ち望んじゃいない。

 翌日、ハルヒの関係者らしい人(仮)に言われたわけでもなかったが、病気でも無いの
に登校しないと言うわけにも行かず、俺は仕方なく重い身体を引きずって登校した。
 件の部長氏が二年生で、学校でうっかり顔を合わせる確率が低いというのがまだ救いか
も知れない。

 そしてハルヒはと言えば、落ち込む俺を無視するかの如く超元気だった。
 待望のパソコンと、待望の転校生。
 そりゃ元気にもなるだろうよ。パソコンはともかく謎の転校生が必要って感覚は俺には
理解できないんだが。

「男? 女?」
 ハルヒ的理論を右から左に聞き流しつつ、俺はふと思いついた質問をしてみる。
「男の子だったわ、結構美少年だったわよ!」
 ハルヒが異性の容姿に触れるとは驚きだ。
 しかし男か、SOS団なる謎の団体で初めての男子だな。
 女だらけなところに美少年か……、普通だったら修羅場が想像できそうな所だが、こと
俺達に限ってはそんなことは無さそうである。
 ハルヒはこんな奴だし、長門が男(というか他人)に興味を持つところが想像できない
し、朝比奈さんが下級生に惹かれるとも思いがたい。
 俺? 俺に着いては聞くな。

「へい、お待ち!」
「古泉一樹です。……よろしく」
 何かを間違えたかのようなハルヒの挨拶と、それに応じて答える転校生こと古泉一樹。

 ……昨日の美少年だった。

 絶句する俺。
 何故か俺と古泉一樹を交互に見ている朝比奈さん。
 何時も通り無言を貫く長門。
 一人盛り上がり中のハルヒと、何となくハルヒに着いていけないものの、昨日の俺との
ファースト・コンタクトに関しては無視を決め込んでるとしか思えない古泉一樹。
 何者だ、こいつ。
 ハルヒの関係者って言っていたが、状況からしてどう見てもハルヒの方は初対面って感
じだ。
 まさかハルヒの方が忘れている幼馴染とかいうことは無いだろうな、……ハルヒの性格
を考えたら、ありえない話でも無さそうだが。
 あいつ、未だにクラスメイトの顔もろくに覚えて無さそうだしな。
「ところで、何をする団体なのですか?」
 全く持って行動を起こそうとしない団員達に何を思ったのか、古泉がハルヒにこの団体
の目的を訊ねる。
「SOS団の目的、それは、宇宙人や未来人や超能力者を探して一緒に遊ぶ事よ!」

 さて、ハルヒの無茶苦茶な宣告に古泉が頷き、なし崩し的に部員が5人となり、俺たち
は活動を開始する……、ことになったらしい。
 朝比奈さんが一人目を白黒させていたが、俺は全然驚いていなかった。
 何せハルヒの行動は何時も突拍子ないし、謎の転校生こと古泉一樹に関しては昨日の今
日だ。

「ああキョン、古泉くんに学校を案内してあげなさい!」
 ハルヒのこの宣告により、俺は学校案内とやらを押し付けられた。
 面倒な事この上ないが、状況を考えれば寧ろ好都合だ。
「おい。昨日のあれは何なんだ」
 人の少ない廊下を歩きながら、俺は言った。
 ああくそ、大股で歩いているつもりなのに簡単に追いつかれるってのはむかつくな。
「近いうちに会える、と言ったはずですが」
「そういう問題じゃ……」
 反論しようとしたら、唇の前に指を一本立てられていた。
 大人が小さい子供にするような動作に俺は一瞬カチンと来たが、ここで挑発に乗ったら
負けだと思い、反論したい気持ちをぐっと抑え込んだ。
「もう少しだけ、待ってください。それに、ここでは場所が悪いです」
「……」
「放課後とはいえ校舎内ですからね。誰に見られているか分かったものでは有りませんか
ら」
 古泉はそう言って、肩を竦めた。
 こういう何気ない仕草でも妙に様になって見えるのは、こいつの顔立ちが整っているか
らなんだろう。
「……」
「何れ分かりますよ」
 古泉はそう言って、軽く片目を瞑って見せた。
 男がそんな仕草をするな。

 次の日部室に行ったら、古泉がパソコンの前に陣取っていた。
 何でもハルヒに言われてSOS団のサイトを作っているそうである、ご苦労な事だ。
 途中からハルヒもやってきて、気がついたら二人がわいわい言いながらサイトを作るの
を俺と朝比奈さんがちょっと離れたところから眺めるなんて状態になっていた。
 その日の活動は、それで終了。
 その次の日は、何故か団員全員で人生ゲームを囲んでいた。
 こういうゲームをしている途中でアイデアを思いついた作家が居るとか居ないとか。
 持ってきたのは古泉だったが、ハルヒが古泉を炊きつけたのかその逆なのかは俺にも良
く分からないしそんなことはどうでも良い。
 途中から強引に参加させられた長門が連続で一位を取ったのは無欲の勝利って奴なんだ
ろうか。最後はハルヒの逆転勝利だったが。
 とにかくその日の活動は、それで終了。
 
 謎の転校生こと古泉一樹がやってきてから4日目、古泉は部活を休んだ。
「アルバイトがあるんだって。それじゃ仕方が無いわよね」
 俺や朝比奈さんがバイトだなんて言っても絶対に納得しないであろう団長様は、何故か
古泉のバイトに関してはあっさり受け入れていた。
「そうそう、今日はビラを作ってみたのよ!、これから配りに行きましょう!」
 さっさと思考を切り替えたらしいハルヒが、SOS団所信表明の名の元に怪しさ満開の言
葉を綴った藁半紙を俺と朝比奈さんに突きつける。
 理解したくない、納得したくない。
 しかし、これを配りに行かないと何がおちてくるか全く想像できない。
 何時ぞやのパソコン強奪事件みたいな事はお断りだ。
 仕方ない配りに行くかと紙袋を手にした俺の前に何故か立ち塞がったハルヒは、藁半紙
が入っていたのとは違う紙袋を俺に向かって突きつけた。
「あんた、これに着替えなさい!」

 悪夢第二段。
 俺は、ハルヒの手によってバニーガールにさせられていた。
 ちなみに朝比奈さんはおろおろしているだけで助けてくれるわけでもなく、長門に関し
ては言うまでも無い。
「うん、やっぱりあんたもいい胸しているわね!」
 何故そこで『やっぱり』なんだ。
「体育の時間に見ていたからよ!」
 見るなこの痴女。
「つべこべ言わない、うりゃっ。おー、良い触り心地、みくるちゃんの手に余る感じも良
いけどこのすっぽり手に収まる感じもいいわね!、ほらほら、みくるちゃんも一緒にどう!

 ……今すぐ死にたい。

 その後俺は自らもバニーに着替えたハルヒと共に校門でビラ配りをすることになったが、
20分足らずで教師に止められ中止になった。
 まあ、当然だろう。
 その20分足らずの間に何人くらいの生徒に見られたのか何てことは、あんまり考えた
くないんだが……。
「あ、あの、キョンさん……」
 一人真っ白な灰になりかけている俺の耳に、優しげな声が響く。
「あの……、もし、キョンさんがお嫁にいけなくなっても、わたしが……」
 ……。
 俺はその場で聴覚と触覚と思考をシャットアウトし、全力で着替え全速力で下校した。

 次の日、登校する気も無く一人大いに落ち込んでいる俺のところに迎えがやって来た。
 古泉一樹である。
 俺の母親相手に何を言っているか知らないが、こんな美少年が爽やかスマイルを掲げて
迎えに来てしまっては、サボるわけにも行かないじゃないか。
 この状態でサボったら母親からの小言の山盛りが決定だからな。
 俺は仕方なく古泉と一緒に登校することにした。
「昨日は災難だったようですね」
 古泉は何故か既に昨日の事を知っているようだったが、俺はそのことを不思議には思わ
なかった。
 転校前日に謎の登場をした男である、そのくらいのことを知っていたっておかしくない。
 クラスメイトから電話で聞いたとかいう可能性も有るが……、俺はどちらかというとそ
っちの可能性の方を否定したかった。
 ……登校中の他の生徒からの視線が痛い。

 ホームルーム前の教室で慰めとも侮蔑とも好奇ともつかない形容不能の視線が俺に集中
する中、一人だけ話し掛けてくる馬鹿が居た。
「なあキョン」
 五月蝿い。
「お前涼宮と……」
 五月蝿い。
「悪い事は言わないから―――」
 五月蝿いったら五月蝿い!
「……あー、すまん」
 今は放っておいてくれ、お願いだから。

 その日、ハルヒはホームルームギリギリに来た挙句、休み時間中も俺に話し掛けてくる
ことは無かった。
 俺の纏う雰囲気を察したのか、それとも他のことを考えていたのは、俺には分からない。
 まあ、ハルヒの性格からしてほぼ後者で決定だろうが。

 放課後、俺はハルヒが教室を出て行ったのを確認してから帰宅した。
 部活?、SOS団?
 ……知るかそんなもの。


「キョンちゃーん、お客さんだよっ」
 帰宅するなり即効で着替えてベッドの中に転がりこんでから何時間くらい経っただろう。
 妹が、俺のベッドを揺すっていた。
 妹にしては穏やかな起こし方だ。
 何時もはダイビングボディプレスだからな。
「……客?」
「そ、学校の友達だって」
「友達、なあ……」
 寝惚けの頭のまま階段を降りると、そこには見知った顔が居た。
 一日二回も同じ人間の家に来る異性の友人というのは、果たして親にどう思われている
のだろうか……。
 俺の思考が、関係無いところで回転し始めそうになる。

「やあ、こんにちは」
 が、それは爽やかボイスによって現実に引き戻された。
 古泉一樹が、朝と同じ笑顔で玄関に立っていたのだ。

「少しお時間いただけませんか?」
「少しって……」
「本当に少しですよ。……あなたの疑問を解決しに来たんです」
「……」
 解決、何をだ?
 ……いや、とぼけるのはよそう。
 この転校生は、転校前日にいきなり俺の前にやって来た怪しい人物だ。
 ハルヒの言う『謎の転校生』が何を意味するかは分からないが、俺にとってこいつは充
分謎めいている。
 その謎の原因を教えてくれるってことか。
「ええ、そういうことです。……ついていていただけますか?」
「ここじゃ駄目なのか?」
「場所を変える必要があるんですよ、ここではあなたのご家族もいらっしゃいますしね」
 ……ん? 
 これだと家族がいるから場所を変える、というのとはちょっとニュアンスが違わないか?
 俺は疑問を抱きつつも、古泉に従い家を出た。

 玄関先に、黒塗りの高級車が止まっていた。
「乗ってください」
「……」
 怪しさ満開どころじゃないが、乗らないと多分教えてもらえないんだろうってのは空気
で分かる。まあ、とって食われるなんて事は無いだろうが……。
「どうぞ」
「あ、ああ……」
 古泉が後部座席のドアを開け、俺がそこへ滑り込む。
「……」
 その奥に、小柄な見慣れた人影があった。

 無口無表情存在感無しの文芸部員、長門有希がそこにいた。

 ちょっと意外な光景だった。
 いや、ちょっとどころじゃないかもしれない。
 何で長門が古泉と一緒に現れるんだ?
 古泉の事情説明に長門が必要なのか?、長門も説明を受ける立場なのか?
「先ずは論より証拠、実際についてから説明いたします」
 長門は何も言わないし、古泉はこの一言と、行き先しか言っていない。
 行き先は、俺たちの住む町からそう遠くない大都市だった。

 車が止まる。
 雑踏の中に降り立つ高校生が三人。一人だけが制服で、俺と古泉は私服だ。
 高級車から出てくるにしては明らかに浮いている組み合わせだが、こんなでかい街でそ
んな些細な事を気にする奴なんて居ない。
 古泉が前を行き、俺と長門がその後ろを歩く。
「手を繋いでもらえますか?」
 それぞれに差し出される両手。何故か一切の躊躇い無く手を取る長門。
「ああ……」
 怪しさ全開のはずなのに、俺は何故かもう片方の手を取ってしまう。
 変な感じがする。
 そう言えば、同級生の男どもと馬鹿話をすることはあっても、手を握ったり身体を触っ
たりなんてことはさすがに殆ど無かったな。
「目を閉じてください、ほんの数秒で結構ですので」
 古泉が促し、長門があっさり目を閉じる。仕方ないので俺もそれに倣う。
「もう結構です」

 世界が灰色に染まっていた。

「……アクセスを確認、接続状況は通常状態の30%から40%の間を維持、インターフェース
の自立行動レベルでの問題は発生していない」
 長門が何か言っている。……見た感じ、この状態に驚いている様子は全く無い。
「やっぱり100%とは行きませんか」
「次元の相違により接続が妨害される模様。詳しい原因は不明」
「調査が必要ですか?」
「……情報統合思念体は継続的な調査を希望している。自立進化の可能性の解明に繋がる
かも知れない重要事項である可能性を否定できない」
「何だか否定語が多いですね。まあ良いです、上に伝えておきますよ。とはいえ、次が何
時になるかは誰にも分からないわけですが……」
 長門の謎の発言に、古泉が答える。
 二人が言っていることの意味が分からない。
 灰色の、さっきまでの喧騒が嘘のように誰も居ない世界。
 こんな意味不明な場所で、この二人は何を話している?
「ああ、逃げないでください」
 繋いだままだった手を、軽く引かれる。
 優しい声、人懐こそうな笑顔。
 長門と話すときも俺と話すときも……、多分、誰と話すときも変わらない笑顔。
「大丈夫ですよ、怖いことは何も有りませんから」
 古泉が、空いている方の手で俺の頭を撫でた。
 大きな手。
 父親を思わせるような仕草に、ほんの少しだけ安堵を覚えた。

「ここは……」
「閉鎖空間と呼ばれる場所です。詳しい説明は後回しにしますが、そうですね……、涼宮
さんが望むような非日常的事象があなたの前に現れたと思っていただければ宜しいかと」
 漸く口を開いた俺に、古泉が笑顔のまま答えた。

 そのとき、遠くで何かが崩れるような音がした。
 はっとなって音のした方を見ると、青白い謎の物体が建物を崩している所だった。
 あれは……、何だ?
 一応人型に見えないこともないが……。

「……さて、僕らはちょっとあれを倒してきますね」
「えっ……」
「僕はあれを倒す役目を背負っているんです。一応ここに居れば安全だと思いますから、
待っていてください」
「……」
 俺はただ首を上下させた。
 はっきり言って状況には全くついていけてなかったが、何となく、古泉が嘘を吐いてい
るとは思えなかった。
「長門さんはどうですか? 30%でも何とかなりそうですか?」
「……攻勢情報の構築は充分可能な範囲。但し、効果に関しては予測不能」
「そうですか……、仕方有りませんね。もし対処出来なさそうだったらすぐ逃げてくださ
い。僕があなたの防御に回る余裕があるとも限らないですし」
「了解した」
 長門が答えて、それから、何かを呟き始めた。
 早すぎて全然聞き取れない声。
 ……速読ってのをそのまま音読するなんていう馬鹿な芸当が出来る奴が居たらこんな感
じになるんじゃないだろうか。
 唐突に、長門の声が止まる。
 長門の手に、白い槍のようなものが握られている。反対側の白い丸い光は……盾か?
 セーラー服姿のまま槍と盾を構えた女子高生だなんて、シュールすぎる。
 俺の頭の中に、セーラー服の女子高生が機関銃を持って戦う映画のそのまんま過ぎるタ
イトルが思い浮かんだ。
 俺はその映画を見たことは無いんだが。

「さて、僕も行きましょうか」
 古泉がそう言うと、今度は古泉の身体が赤い光に包まれた。
 仕組みも何も分からない、人間が光を放つ赤い球体に変わるというデタラメな現象。
 コメント不能、理解不能。
 脳がこの状況を拒否しないのが不思議なくらいだ。
 俺がぽかんと口を開けている間に赤い球体とセーラー服な戦乙女が青い巨人の方に飛ん
でいった。
 俺は視線を手元に下げる。
 さっき古泉と手を握っていた方の手だ。
 温もりは既に無くなっているが、手を握った感覚はまだ少し残っていた。

 経過を見ていなかったので何がどうなったのかさっぱりだったが、とりあえず長門と古
泉はあの謎の青い巨人を倒す事に成功したらしい。
 二人が俺の前に帰ってきたからな。
「お待たせしました」
 人の形に戻った古泉が笑っている。その隣では槍と盾をどこかへやってしまった長門が
無表情で立っていた。
 二人とも、今まで戦っていたなんて嘘みたいなほど何時も通りの様子だった。
「ああ、空を見てみてください。出来れば長門さんも」
 古泉がそう言ったので、俺は空を見上げた。
 空に、亀裂が走っていた。
「あの青い巨人の消滅にとも無い、この空間も消滅します」
 古泉の説明が終わるか終わらないかといううちに、亀裂が世界を覆い尽くし、やがて細
かく増えた網の目が中心からさっと割れていった。

 世界が、元の色を取り戻している。
 何もかもが元もままの世界、地方都市の交差点のど真ん中に、俺たち三人は立っていた。
「帰りの車の中で説明いたしますよ」
 古泉がそう言って、突っ立ったままの俺に向かって手を差し出した。

「先ほどのあれを見ていただければ分かったと思いますが、この世の中には物理法則では
解決できないような事象があるんですよ」
「……」
「まあ、先ほどの場所が物理的、言わば現実的に『存在』していると定義できるかどうか
は微妙な所ですが。ああ、僕達はあの空間を閉鎖空間と呼んでいます。……信じられない
かもしれませんが、閉鎖空間は涼宮さんが不機嫌になると発生するんです」
「……ハルヒが?」
 耳慣れた名前に、俺は現実に引き戻される。
「ええ、涼宮さんです。……冗談みたいだと思うでしょう? でも、事実なんです」
「……」
「信用していただけませんか?」
「……100歩、いや、1000歩譲ってハルヒ云々を信用するとして、あの巨人や、それに対
抗できるお前や長門は何なんだ?」
 信用できるかどうか?
 話の内容からすれば信頼できる可能性は0どころかマイナスになりそうだ。
 しかし、古泉がこんな状況下で嘘を吐いているとも思いがたい。
 というより、これを嘘だと仮定すると話がこれ以上先に進まないだろうし、そうすると
俺は何も分からないままだ。
 俺としては、こんなわけの分からない状況を見せられたままで放っておかれたくは無か
った。
「僕はあの空間に対処できる能力を持った能力者です。ああ、長門さんは僕の仲間では有
りませんよ」
 じゃあ、一体何なんだ。

「長門さんは、有体に言えば宇宙人です」
 ……。
「まあ、正確に言えば通常状態では人間とコミュニケーションを取ることが出来ない宇宙
人が作り出した、この太陽系第三惑星に住む人類とコンタクトを取るために作り出した人
造……、いえ、宇宙人製の人間型端末です」
 ……。
「……、もしかして、冗談だと思っていますか?」
「冗談だとしか思えん」
「でも、事実なんですよ。……そうですね、宇宙人云々はともかくとしても、長門さんが
普通の人間ではないということはご理解いただけますか?」
「それは、まあ……」
 俺はどう答えていいか分からないまま、反対側に座っている小柄な女子高生の姿を見た。
 俺と古泉がハルヒがどうの宇宙人がどうのというやり取りを繰り広げている間、長門は
始終無言だ。
 古泉の考えている事も良く分からないが、長門の考えている事も良く分からない。
「なあ、長門」
「……」
「古泉の言ったことは正しいのか?」
「……若干彼の主観が入っているが、概ね間違っては居ない」
 うわ、長門とコミュニケーションが成立している。
 話の内容はともかく、俺は先ずその事実に驚いた。
「えっと、じゃあ、お前は……」
「わたしはこの銀河を統括する情報統合思念体によって作り出された対有機生命体コンタ
クト用ヒューマノイド・インターフェース。それが、わたし」
「は、はあ……」
「わたしの仕事は涼宮ハルヒを観察して、入手した情報を情報統合思念体に報告する事」
 またハルヒかよ。

『情報統合思念体』
『機関』
『三年前』
『閉鎖空間』
『情報フレア』
『神人』
 そして『涼宮ハルヒ』
 交互に繰り返される謎の単語の羅列と少しだけ分かりやすい物の内容のとっつき難さに
関してはどっこいどっこいな説明。
 簡単に纏めると、ハルヒが銀河の向こう側にも届きそうなほどの妙ちきりんな現象を巻
き起こしたのが三年前で、長門は宇宙からの調査員で、古泉は引き続きハルヒが引き起こ
している現象に対抗する手段をもっている能力者とのことだった。
 ……わけが分からん。
 一万歩くらい譲って上から六つ目まで全部信じてやっても構わないが、何故にその中心
が涼宮ハルヒなんだ。
 ハルヒが重要だとか妙な能力持ちだとか言われても、俺にはさっぱりだ。
「何れ分かりますよ」
 何れって何時だよ。
 大体、妙な能力があるなら何故それを自分のために使わない。あいつは俺の知る限り、
誰より未知との邂逅を求めている奴なんだぞ。
「涼宮さんは完全に無自覚です。また、彼女は未知との邂逅を求めてはいますが、同時に
その実在を信じていないという常識を持ち合わせています。……あなただってそうではあ
りませんか?」
 ……。
 そういう風に言われると、否定できない。
 確かに、俺だって超常現象や宇宙人が存在して欲しいと思ったことが有ったさ。けど、
同時にそんなものは存在しないんだとも思って居たさ。
 ハルヒが俺と似たような思考回路を持っているとは思えないが、ハルヒが深層心理とや
らの部分でそういう風に考えていたとしても、まあ、おかしくはない。
 ……かもしれない、程度に思ってやらないことも無い。

「僕や長門さんが実際に彼女の前に出て行かないのもそれが理由ですよ。彼女が本当に未
知との邂逅を果たしてしまった時、どんな状況が引き起こされるか全く予想がつきません
からね。……僕と長門さんの背景事情は大分違いますが、今のところそのような状態を望
んでいないというところは共通しています」
「……なあ」
「何でしょう?」
「お前等、なんでこんな話を俺にするんだ?」
「それはあなたが涼宮さんにとって重要な人物だからですよ」
「……俺が?」
「ええ、そうです。もっとも、あなた自身は涼宮さんや僕のような規格外な部分を持つ人
間でも、長門さんのような宇宙人でも有りませんが」
 古泉は、そう言って優しげな微笑を浮かべた。
 俺は、このとき初めて、その人懐こそうな笑顔が、本当はとても残酷なものなのかも知
れないと思ってしまった。


 状況が理解しきれていない、あんまり理解したくない。
 黒塗りの高級車が俺の家の前で止まり、長門が降り、俺も降りる。
「また明日、学校で」
「ああ……」
 古泉が笑顔で挨拶をしてくれたので、俺も一応笑顔めいたものを作って答えた。
 笑えたかどうかは、自分でも良く分からなかった。
「あなたは、涼宮ハルヒにとっての鍵」
 呆然とする俺の背中に、平坦な長門の声が聞こえる。
「危機が迫るとしたら、まず、あなた」
 俺は長門の発言を聞き流していた。

 翌日、俺は何時もどおり登校した。
 休めるなら休みたい、けどそういうわけにも行かない。
 病気でも無いのに休むのを親が許してくれるとも思えないし、高校は中学と違って出席
日数が足りないと進級も出来ない。
 面倒だと思ったが、この世に超能力者が居ようが宇宙人が居ようがそれが平凡な女子高
生である俺の日常だ。
 何故か超能力者も宇宙人も俺と同じように高校に通っているみたいだが。

 靴箱を見たら、手紙が入っていた。
 綺麗な女性の字で「昼休みに部室に来てください 朝比奈みくる」と有った。
 朝比奈さんか……、朝比奈さんは、童顔で可愛い上級生だ。
 守ってあげたくなるような雰囲気とか、子供っぽい仕草とかは嫌いじゃないし、見てい
て微笑ましいと思えるくらいだ。
 だが……、俺には一つ懸念事項がある。
 それを言葉にするのにも抵抗が有るのであんまり触れたくは無いのだが、その懸案事項
のことを踏まえると、彼女と二人きりになるのは非常にまずい気がしてならないのだ。
 どうしたものかな……、俺は5分ほど女子トイレの個室の中で一人悩んでいたが、結局
行くことにした。
 行くのも怖いが、行かないで何か有ったら……、と想像した場合の方が怖い。
 ああいう普段おとなしめに見えるお人は、怒ると怖いと相場が決まっている。

 部室の扉を開けると、知らない女性が立っていた。
 朝比奈さんに似ている気がするが、その人は身長が俺と同じくらいあり、その他様々な
部分が朝比奈さんと違っていた。
 有体に言えば、大人っぽいのである。
 その朝比奈さんに似ている人は大体二十歳前後くらいで、着ている服も制服ではなかっ
た。
「お久しぶりです、キョンさん」
「え、あ……、どなたですか?」
「朝比奈みくる本人です。ただし、もっと未来からやってきました」
 ……。
 なあ、これは幾つ目の悪夢だ?
 姉か良く似た他人を使っての冗談だと思うよりもこういう現実もあるかもしれないとい
う風に考えてしまう俺の頭もどうにかしていると思うが、もう、どうにでもなれという気
分だった。
「今日は、伝えたい事が有ってやって来たんです」
「……」
「あの……、え、あ、もしかして……、このときはまだ……、あ、やだ、わたしったら、
とんでもない間違いを……」
 俺の沈黙を一体どう受け取ったのか、朝比奈さんが勝手に慌てていた。
 この状況でいきなり慌てられても、正直俺の方が困ってしまう。
「……」
「……」
 三点リーダ×二人分。
 気まずさと気恥ずかしさと諦念と混乱交じりの沈黙だ。
 長門のデフォルト無口状態を常日頃からとっつきにくいなと思ってはいたが、現在の俺
とこの朝比奈さんに良く似たお姉さんの状態はそれを遥かに上回っていた。

「おーい、出来たか?」
「やっと3割ってところだな」
 俺達二人の沈黙を崩したのはそのどちらでもなく、隣の部室を開ける音とそこから始ま
る会話だった。
 ありがとうコンピ研、俺は未だにコンピ研の前を通る時はBダッシュ状態だが。
「えっと、その……、あの、わたしは、朝比奈みくる本人です」
 下を向いたまま朝比奈さん(?)がそう言った。
「一応信用しておきます」
「え、でも、まだ……」
 やる気の無い俺の答えに、朝比奈さんが顔を上げる。
「用件をお願いします。出来るだけ手短に」
 俺は朝比奈さん(?)の訴えを無視した。
 何だか細々とした事情が有るみたいだが、この際そんなものは無視だ。
「そ、そうですね。時間はあんまりないんでした……。もし、これからあなたが困った事
態に遭遇してしまったら、素直になってください」
 意味が分からない。
「誰に対してでもなく、まず、あなた自身に対して素直になってください」
 ……。
「そのとき、涼宮さんも隣に居るはずです」
 またハルヒか。
 皆本当にハルヒが大好きだな。
「あなたが素直になってくれれば、涼宮さんも素直になってくれるはずですから……」
 それは一体どんな状況なんですか。
 俺はあいつほど自分に素直に生きている人間を知らないんですが。
「すみません、詳しい事は言えなくて……、でも、覚えておいてください、お願いします」
 そう言って、朝比奈さん(?)は頭を下げた。
「……覚えておきますよ」
 何が何だか分からなかったが、俺は一応そう答えた。
 朝比奈さん(?)は態々頭を下げてきてくれたからな。

「さあキョン、今日はこれに着替えなさい!」
 部室に行ったら、ハルヒにメイド服を突きつけられた。
 ……今度は一体何をしろって言うんだ。
「萌えよ萌え!、萌えと言ったらメイドでしょう!」
 どんな理屈だ。
 それに、萌えキャラは俺じゃなくて朝比奈さんじゃなかったか?
 別に朝比奈さんにメイド服を押し付けようと思っているわけじゃないが……。
「だってみくるちゃんはそのままで充分可愛いんだもの!、それにね、こういうのはギャ
ップ萌えが大事なの!、男言葉でがさつなあんたはメイドとは正反対だけど、そんな女の
子がメイドとして奉仕してくれるなんて萌えるでしょう!」
 がさつで悪かったな。
 っていうかなんだその意味不明な理屈は。
「つべこべ言わず着替えなさい!」
 ……二日前と同じ展開だな、これ。

 かくして俺はメイドさんになってしまった。
 おまけに何故か用意してあった茶葉やら急須やらでお茶を入れる羽目になっている。
「渋いわ、もっと精進しなさい」
 一口で飲み干すな。というかなんでそんな熱いお茶を一口で飲み干せるんだよ。
「ああ、ありがとうございます」
 お前は何時でもその絵顔なんだな。
「うふ、キョンさんが入れてくれたお茶ならどんなお茶でも美味しいですよ」
 その優しそうな笑顔が逆に怖いような気がするのは俺の気のせいですか。
「……」
 こいつに関しては言うことが無いな。

 ちなみに朝比奈さんと長門はバニーの時と同じく何の役にも立たず、古泉は俺がお茶を
入れている途中にやって来た挙句「似合っていますね」なんて言いやがった。
 似合っていればいい、という問題じゃないと思うんだが……。

 土曜日は市内探索だとハルヒは言った。
 市内どころか目の前に宇宙人と超能力者が居るのに市内探索か、馬鹿馬鹿しいにもほど
が有るな。
 しかし馬鹿馬鹿しかろうと何だろうと行かないわけにはいかない。
 古泉曰くハルヒが不機嫌になると閉鎖空間が発生し(この間のはビラ配りを止められた
挙句次の日に俺が部室に来なかったのが原因らしい)、その度合いによっては世界があの
灰色空間に取って代わられるかも知れないとかいう話だったからな。
 古泉や長門の話を全面的に信用しているわけじゃなかったが、それが現実になってから
後悔するような羽目には陥りたくはなかった。

 最後にやって来た俺に対して奢りだと宣告した後、ハルヒは喫茶店で二手に別れる提案
をした。
 こいつは俺の精神力や時間だけでなく経済力まで削っていくんだなと思いながら、俺は
ハルヒの長々とした前置きを聞き流していた。
「くじ引きね」
 爪楊枝が5本。印付きが二本で無しが三本だ。
 俺は朝比奈さんとペアになった。

 朝比奈さんと二人きり。
 なんともコメントし辛い組み合わせだった。
 行く前から体力も精神力もつきかけの俺に対して、朝比奈さんの方は何だかとっても元
気そうだし。
 見た目からして雰囲気も外見もギャップの有りすぎる女二人。
 一体周りからはどう見えいてるんだろうね?

 結論から言うと、別に妙なことにはならなかった。
 俺達二人は川原を適当に歩いた挙句、適当なベンチに腰を下ろした。
 女の子同士の他愛ないと言って差し支えない話が途切れた瞬間、朝比奈さんは言った。

「わたしはこの時代の人間ではないんです、もっと未来からやってきました」

 驚かなかったかと言われれば嘘になるが、閉鎖空間へのご招待だとか、朝比奈さんのそ
っくりさん登場に比べれば全然マシな部類である。
 認めたくないことだが、ああこの人は未来人なのか、じゃあ時間移動の方法を持ってい
るんだな、じゃあこの間のそっくりさんはこの人の成長した姿か……、と、三段論法的に
納得できるだけの思考の道筋がこのとき既に俺の頭の中に有ったのだ。
 俺は朝比奈さんの話を適当に聞き流しながら、意味が有りそうな単語だけを拾っていっ
た。
『時間振動』
『三年以上前に遡る事が出来ない』
『監視係』
 これだけ分かれば充分だ。
 それ以外の単語と理屈は理解不能を通り越していたので、この際全面的に無視させても
らう。正直言うと『時間振動』も理解出来ているわけじゃないんだが、まあ、何となく一
番とっつきやすい単語を記憶に残すことにしてみただけのことだ。
 要するに朝比奈さんは未来からやって来た人で、今の時間より三年より前に遡れなくな
ってしまった原因を突き止めるのがその仕事ってことになるらしい。
 しかし、その中心とやらはやっぱりハルヒで、ハルヒにとっての重要人物はやっぱり俺
なんだな。
 殆ど何も聞き返さない俺を朝比奈さんがどう思ったか分からないが、彼女は最後に
「信じてくれなくても良いんです、でも、覚えておいてください」
 と言った。

 その後俺達は適当に街をぶらついていた。
 朝比奈さんにほんのちょっぴり形容不能のマイナスよりの感情を抱いていた俺だが、ど
うやら朝比奈さんは俺と居られればそれで満足そうだったので、あんまり細かい事は気に
しないことにした。
 朝比奈さんは悪い人じゃないし、多分、それがお互いのためだからな。
 そう言えば、高校に入ってから同じ学校の女の子同士二人で街で遊ぶなんて初めてのよ
うな気がするな。
 中学からの仲の良い女友達は皆違うクラスだったし、入学当初は何だかんだ言って慌し
いかったし、5月に入ってからハルヒに振り回されっぱなしだからな。
 しかし、最初の街でのお出かけの相手が童顔の上級生かつ自称未来人というのは……、
まあ、あんまり気にしないことにしよう。

 12時近くにハルヒに呼び出され再集合を果たした俺達5人は、午後はまた違う班分け
で探索に出るということになった。
 午後もやるのかよ。

 午後の組み合わせで俺は長門と一緒になった。
 長門か……、この面子の中で、ある意味最も一対一で付き合い辛い面子かも知れない。
 迷惑度って意味ではハルヒの方が遥かに上だが。
 しかし、宇宙人、なあ……。
 長門がみょうちきりんな能力を持っているらしいってことだけは認めてやっても構わないが、宇宙人だなんて未だに信じられん。
 俺は突っ立ったままの頭半分くらい下に位置する小柄な少女を見つめた。
 長門は何時も通りの無表情で、休日だというのに何故かセーラー服姿だった。

 色々考えた挙句、俺は長門を図書館に誘った。
 宇宙から地球にやって来ることが出来るような連中が本などというアナログな手段のど
こが良いと思っているかなんて俺にはさっぱりだが、少なくとも俺の知る長門有希の基本
情報は読書好きの文芸部員ということになっている。
 大人しく図書館に着いてきたと思った長門は、ふらふらと引き寄せられるように厚物ば
かりの並ぶ本棚の前へ向かった。
 幸か不幸か、その近くには俺達以外の人影は無かった。
「なあ、長門」
 俺は、本を開きかけた長門に声をかけた。
「……」
「この間のことは、本当か?」
「……わたしの言ったことは本当。古泉一樹の発言には多少の主観は混じっているが、概
ね間違っては居ない」
「えっと、だな……、お前は何時もあんなふうに戦っているのか?」
 何をどこから訊ねたらいいかさっぱり分からなかったので、とりあえず自分の目で見た
ものから確かめてみる事にした。
 自分の視覚情報くらいは信じておくことにしよう。
「違う」
「えっ……」
「あれは調査とあなたへの説明のために実行したもの。本来閉鎖空間と呼ばれる場所で神
人と呼ばれる存在を倒すのは古泉一樹及び彼と同種の能力者だけの役割」
「……調査?」
 そう言えば、観察が仕事だとか言っていた気がするな。
 えーっと、じゃあその調査ってのもハルヒ絡みか。だよな、閉鎖空間の発生はハルヒが
原因ってことだし。
「そう。あの空間における対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース
の情報操作能力の実行力を調べていた」
 30%とか40%とかいうあれか。
 しかし、それだけの割合であんなことが出来るってことは……。

「お前は、現実でもあんな事が出来るってことか?」
「あなたの指し示す事象があの場でわたしが発言させた攻勢情報の具現化のことを指すの
であれば、可能」
 即答されたよ。
 まあとりあえず、ここまでのことは頭に入れておこう。納得するかどうかは別として。
「じゃあ、俺への説明ってのは……」
「わたしの説明を納得してもらうためには、情報操作を実際に見せるのが有効という助言
があった。また、閉鎖空間であればある程度大きな情報操作を行っても弊害は発生しない
だろう、とも言われた」
「……古泉からか?」
「そう。加えて、以前から望んでいた閉鎖空間での調査を認められたため、情報統合思念
体はわたしが彼に同行することを許可した」 
 ということは古泉は、もっと前から長門の正体を知っていたってことか。
 まあ、そこはもう今更驚く所じゃないような気もするんだが。
「……」
 長門が、俺の方を見上げている。
 話している間中瞬きしたかどうかさえ怪しかった瞳は、今も全然揺らいでいない。
 表情が全く読めないな。
「……分かった、教えてくれてありがとう」
「……そう」
 長門は短く答えると、手に取った本を捲り始めた。

 正直な所を言うと、本当はもうちょっと聞いてみたい事は有った。
 長門のもっと詳しい背景事情とか、古泉の背景事情との関連性とか……、でも、正直な
所を言うと、そのときの俺はそういう部分を訊ねるのが怖かったんだと思う。

 ここまで巻き込まれておいてなんだが、俺は、俺の知る普段の長門や古泉の姿だけが真
実だって思っていたかったのかもな。

 結局その日はハルヒ的には何の収穫も無く終わった。
 当たり前だ、そんな収穫なんて物が簡単に転がっていてたまるか。
 俺はまた微妙なことを聞かされたりもしたが……、それはそれだ。

 週明け、俺は何時もと同じように登校した。
 ハルヒは朝から何となく不機嫌気味で、朝方ほんのちょっと話し掛けたりはしたんだが、その日はそのまま会話に成ることも無く終わってしまった。
 まあ、こういう日もあるだろう。

 ハルヒの鬱屈した不機嫌オーラを背中から受けていると、俺の気まで滅入ってくる。
 肩を落としながら部室に入った俺は、先に来ていた古泉を一旦追い出し、メイド服に着替えた。
 どういうわけか知らないが、ハルヒには部室に居る時はメイド服を着るように言われているのだ。
 面倒な事この上ないが、逆らうと何が飛んでくるか分からないどころか世界が滅びる可能性があるというのだから従わないわけにはいかない、らしい。
 実に馬鹿げた話しだが。
「あいつ、何をしているんだろうな」
 授業が終わってから30分は過ぎているんだが、ハルヒはまだやって来ない。
「ああ、土曜に巡ったコースを一人で回っているはずです。ご本人から聞いてなかったんですか?」
 独り言のような俺の言葉に、古泉が答えた。
 へえ、こいつは事情を知っているのか。俺は何も聞かされてないんだがな。
「土曜日はずっと一緒でしたからね、別れ際に言われたんですよ」
 そう言えばそうか。
 ハルヒと古泉は午前も午後も三人の方の組だったもんな。
 しかしお前、パソコンの前に陣取って何をしているんだ?
「涼宮さんのお手伝いです。土曜に行った場所に関する情報集めや、市内に目ぼしい場所が無いかという情報を集めているんですよ」
「ふうん……、なあ、これもお前の、その……仕事、みたいなものなのか?」
 同じ高校生相手にこの単語を使うのはどうかと思うが、他に言葉が思いつかない。
 任務とか指名とかじゃ重過ぎるし、アルバイトという言葉は軽すぎる。

「ええ、その一環ですよ」
 古泉が答えた。何時も通りの笑顔で。
「……」
「どうかしましたか?」
「……何でも無い」
「そうですか、なら良いのですが。……ああそうだ、今度駅前のデパートに東京でも有名な洋菓子店が喫茶室付きの支店を出すそうですが、ご一緒にどうですか?」
「えっ……」
 急な話の転換だ。
 何故不思議探索からお茶のお誘いになるんだ。
 わけが分からないぞ。
「……SOS団の皆さんで、と思ったんですが……、お気に召しませんでしたか?」
 ほんの少しだけ間合いを置いてから、古泉はそう付け加えてきた。
「……俺が決める事じゃない」
 ハルヒがケーキやプリンに興味を抱く所など、俺には想像できない。
「あなたが言えば、涼宮さんも賛成してくださると思うんですけどね」
「どういう理屈だ?」
「そのままの意味ですよ。ああ、よろしければお茶を入れていただけませんか?、喉が渇いてしまったんです」
 ちっとも喉なんて渇いて無さそうな顔で古泉はそう言った。
「……後で三倍返しな」
「了解です」
 お茶の三倍が何に相当するかなんて俺も知らないが、愚痴めいた俺の言葉に対して古泉はちゃんと返事をしてきた。
 相変わらずどこまで本気なのかがさっぱり分からなかったが。

 火曜日の放課後。
 今度はハルヒが居るが古泉がいなかった。
 バイトとのことだったが、俺にはそれが真っ当な意味でのバイトだなんて思えなかった。
 ちなみに朝比奈さんもまだ来ていない。
「うーん、モニタだと見辛いわねえ」
 パソコンの前でハルヒが陣取っている。そう言えばHP作成とやらの時もこいつは横で口
出ししていただけの気がするな。パソコンは苦手なんだろうか。
「ねえキョン、これちょっと隣に行ってプリントアウトしてきて」
 唐突に視線を上に上げたハルヒが、そう言った。
 隣、って……。
「コンピ研に決まっているじゃない。ほら、早く行ってきてよっ」
 忌まわしい記憶がフラッシュバックする。
「……嫌だ」
「すぐそばなのよ、早く行ってきなさい」
「嫌だっ」
「近くなんだから早く行きなさいよっ」
「だったらお前が行けばいいだろ!」
「あたしは団長、雑用は団員がすることなのよ!」
 ハルヒが席を立ち上がり、大股で俺の方へと近づいてくる。
「知るかそんなことっ」
「な、あんたねえ――」
 ハルヒが、俺の肩を掴んだ。
 俺はハルヒの方を見ていなかったが、以前肩をつかまれたときとは全く逆のベクトルの
感情がその顔に浮かんでいるであろうことは容易に想像できた。

「おくれてすみま、あああ、喧嘩は駄目ですようっ!」

 聞こえた来たのは、ハルヒの怒鳴り声でも文句でも無く、張り詰めた空気に余り似つか
わしくない高い声だった。
 朝比奈さんがやって来たのだ。

「み、みくるちゃ……」
「ああんもう何しているんですか。駄目ですよ涼宮さん、そんなに強く握ったら痕がつい
ちゃいます!」
 朝比奈さんはそう言って、小さな手をハルヒの手に重ねた。
「だって、キョンが、あたしの言うことを……」
「何を言ったんですか?」
「コンピ研に行くように言っただけよ」
「えっ……」
 朝比奈さんが息を飲む。
 二人の手が、空中で重なり合ったまま止まっている。
「た、ただの雑用よっ」
 ハルヒは俺が嫌がった意味も、朝比奈さんが息を飲んだ理由も理解していないのだ。
 ……最悪だ、この女。
「わたしが行ってきます」
「良いわよ、別に……」
「わたしが行きますからっ、何をすればいいのか教えてくださいっ」
 振り払おうとしたハルヒの手を、朝比奈さんがしっかりと掴んだ。
「……コンピ研に行って、ここにあるデータを全部プリントアウトしてきて」
「はい、わかりましたっ」
 朝比奈さんは大きく上下に首を動かすと、そのままぱっと駆け足で入り口方へと向かっ
た。
 そのまますぐ隣の部屋に駆け込むかと思ったが、彼女は何故かその場で振り返り、こう
言った。

「二人とも、喧嘩は駄目ですよ」

 童顔なはずの上級生が、何故かそのときはとても頼もしく見えた。

 それから朝比奈さんは勢い良くコンピ研に飛び込んだが、どうもコンピューターには疎
かったらしく、一人で何度往復しても向こうのパソコンにデータを送る事が出来なかった
ので、結局コンピ研の方から部員に出張してきて貰う事になってしまった。
 勿論部長氏とは別の人である。
 その名前も知らない二年生男子は俺がメイド服であることに一瞬驚いたようだったが、
朝比奈さんのお願いを快く引き受けてくれた。
 俺は世話になった二年生男子と朝比奈さんの二人に、感謝を込めてお茶を注いだ。
 メイドとして精進する気など全く無い俺のお茶の味がどうだったかは良く分からないが、
朝比奈さんはいつもどおり喜んでくれていたし、その二年生男子も一応感謝の言葉をくれ
た。
 ちなみにハルヒはと言えば、頑張ってくれた二人には何も言わず、プリントアウトされ
た紙を引っ手繰るように奪うと「今日はこれで終わり!」と言ってとっとと帰ってしまっ
た。
 失礼な女である。

 水曜日。
 ホームルーム前の時間、ハルヒはぶすっとした顔で席に座っていた。
「どうしたんだ、そんな顔して」
 昨日の今日では有るが、一応声はかけてみた。
「もう、全然駄目っ」
「何が全然何だよ」
「探索の事よ。あの後一人で二回も調べなおしたのに何も収穫は無かったし、集めてもら
った資料も何の役にもたたなさそうだったし……、古泉くんも思ったより役に立たないわ
よね」
「……おい」
 俺は席を立ち上がっていた。

「何よ?」
 見下ろされるのが気に食わないのだろうか、ハルヒも立ち上がった。
 不機嫌度マックスに加えてその他マイナスの感情を幾つか追加しているようだが、そん
なことは知ったことじゃない。
「その言い方は無いだろ。古泉はちゃんとお前のために調べてくれたんだし、朝比奈さん
だってプリントアウトを手伝ってくれたんだぞ」
「役に立たないものは役に立たないんだもの、仕方ないじゃない」
「だからってそういう言い方は無いだろっ!」
「事実は事実だもの!」
「何だとっ!」
「何よっ!
「もーう、喧嘩は駄目だよ」
 今にも掴みかからんばかりのハルヒと俺の間に割って入ったのは、昨日とは違う人物だ
った。
 朝倉涼子、このクラスの委員長だ。
「朝倉……」
「何が原因か知らないけど、まずは言葉で解決、そうでしょ?」
 朝倉の笑顔は人を安心させるものを持っているみたいだが、朝比奈さんの笑顔ほどの鎮
静効果は無い、と思う。
 それに関してはハルヒも同じなのか、ハルヒの方も何か煮え切らないような表情のまま
だ。
「……」
「……」
「ほら、ホームルーム始まっちゃうよ」
 しかし、部活の時間と違って朝のホームルーム前の時間には限りがある。
 時間切れタイムアウトというやつだ。

 当然だが、4時限目が終わるまで俺とハルヒは一切口を聞かなかった。
 4時限目が終わるとハルヒは何時ものように教室を飛び出していった。
 俺は教室で弁当を食べるかそれとも外に出るか少し迷ったが、外に出てうっかりハルヒ
と鉢合わせたりするのも嫌だなと思い、教室で弁当を開いた。
 否、開こうとした。
「あ、お客さんだよ」
 教室の入り口のところに居た女子グループの一人、朝倉涼子が俺を呼んだ。
 開いたドアの向こうに、古泉が立っていた。

「……何の用だ」
「心配だったので来てしまいました。あなたと涼宮さんが喧嘩をしたらしいと聞きました
ので」
 ハルヒは有名人だからな、違うクラスでも噂くらいはすぐ伝わるんだろう。それは別に
不思議な事じゃない。
 けど、なんでお前がわざわざ俺のところにやって来る。
「来てはいけませんでしたか?」
 心配そうな顔。
 本当に、相手のことを心配しているように見える表情。
「……」
「お昼ご飯ご一緒にどうですか?、僕も今日はお弁当を持ってきていますので。まあ、僕
はコンビニ弁当なんですけど」
「……」
「ここが駄目でしたら、部室でもどこでも構いませんが」
「ちょっと待ってろ」
 俺は一旦引き返して弁当を持ってくると、空いている方の手で古泉の手を握って歩き出
した。
 周りの視線が集中している気がするが、そんなことはこの際どうでもいい。

 部室に行ったら鍵が開いているのに誰も居ないという状態だった。
 以前の俺だったらこの状況に疑問を持ったかも知れないが、妙なものを色々見せられた
後では今更気にもならない。
 俺はこの頃定位置になって来ている気がする場所に有るパイプ椅子を引っ張り出して腰
を下ろし、机の上に弁当箱を置いた。
 開いてから、ちょっとだけ考える。
「やる。その代わりお前のをよこせ」
「は?」
 古泉が目を点にしている。
 何だ、こういう表情もするんだな。
「コンビニ弁当なんて久しく食ってないからな、食いたくなったんだ、だからよこせ。代
わりにこれをやるから」
 俺は自分の弁当箱を古泉の前に置いてやった。
「は、はあ……、別に構いませんが……」
 頭にはてなマークを灯したままの古泉が、俺の方にコンビニ弁当が入った袋を差し出し
てきた。
「ああ、こっちのは母親が作ったやつだからな」
 一応言っておく。

 当たり前のことだが高校生の男子と女子の食事量には普通体格や運動量などに応じて相
応の差があるものであり、当然俺と古泉もその例外ではなかった。
 俺はコンビニ弁当を無理に食べきるのを諦め、残りを古泉に突きつけた。と言ってもサ
ラダとご飯しか残ってないが。
 味はまあ、普通だった。コンビニ弁当はコンビニ弁当だしな。
 ちなみに古泉の方は俺が押し付けた弁当を綺麗に平らげている。わざわざ俺の母親に対
して謝罪と褒め言葉を両方口にしている辺りが、何となくこいつらしい気がした。
「あなたもなかなか大変なようですね」
 奇妙な食事時間が終わってから、古泉はそう言った。

「……何で俺のところに来るんだ」
「心配だったからですよ。それ以上の理由が必要ですか?」
「どうしてハルヒのところに行かない」
 こいつの最優先事項はハルヒであって俺じゃない。
 こいつにとって俺はハルヒのついででしかない。
「僕が涼宮さんのところへ行っても、何の意味も無いでしょう」
 古泉が、自嘲気味に笑う。
「そんなの、行ってみなきゃ分からないだろう」
「行かなくても分かりますよ。今の涼宮さんが求めているのは僕じゃ有りません」
「……そう言い切れるってことは、それだけハルヒのことが分かっているってことなんだ
な」
「そういうことになるかもしれませんね。向こうはこちらを知りませんでしたが、僕のほ
うからすれば一応三年分の積み重ねが有るわけですから」
 ぽっと現れただけの俺とは違うってことか。
「……どうしたんですか、一体?」
 心配と苦笑を混ぜたような微妙な表情の古泉が、そっと手を伸ばしてくる。
「近寄るなっ」
「あの……」
「近寄るなってばっ!」
 
 ガシャン、と、大きな音が鳴った。

 手を振り払った拍子に、弁当箱まで落としたらしい。
 古泉が、不思議そうな表情で俺の方を見ていた。

「あ……」
 からからと箸が転がっている。
 物音が、奇妙な方向へ昂ぶっていた心の熱を吸い取っていくかのようだ。
「あ、俺……」
「落ち着いてください。僕は逃げませんし、何かを無理強いするつもりも有りません。何
か愚痴りたい事が有れば聞き役程度にはなれますよ?」
 弁当箱を拾って俺の前に置いた古泉が、優しげな視線をたたえて俺の方を見下ろしてく
る。
「……」
「勿論、言いたくなければ言わなくても結構ですが。……ただ、あまりストレスを溜め込
まないようにした方が良いですよ。あと、悪循環に陥らない発散方法を覚えた方が良いか
もしれませんね」
「……説教するのかよ」
「ああ、すみません。癖のようなものでして」
「……」
「すみません、教室に戻りますね」
 弁当箱を机に置いた古泉が、さっと踵を返そうとする。
「帰るな」
 俺は殆ど反射的にそう言っていた。
「え?」
「……二度は言いたくない」
「分かりました、ここにいますよ」
 古泉が、パイプ椅子に腰を下ろす。
 それから俺達二人は、午後の授業が始まるまで何も言わずにその場所に居た。

 ギリギリまで部室に居たせいで教室に帰るのが少し遅れてしまったが、どうやら5時限
目は自習らしく教師はいなかったので、委員長の朝倉に少し注意されるだけですんだ。
「ねえ、キョン」
 相変わらずダウナー系一直線のようなハルヒが、どういうわけか俺に話し掛けてきた。
「あんた、昼休みの間古泉くんと一緒だったの?」
「……ああ、一緒に部室で飯食ってた」
 答える義理は無かったが、嘘を吐く理由も無かった。
 そもそも手を握って歩いていた所を何人もの生徒に見られている。
 よくよく考えてみると、結構恥ずかしい状況なのかも知れない。
「そう……」
 ハルヒの声が尻すぼみだ。
 そのまま、ハルヒは何も言ってこなかった。

 授業が終わり今日も部活かと思ったところで、
「今日は中止よ。他の三人にも伝えてくるわ」
 ハルヒはそう言って教室を出て行ってしまった。
 朝方のことが原因なのかそれとも他に理由が有るのかは分からなかったが、まあ、そう
いう日も有るんだろう。

「あ、一緒に帰らない」
 俺達の会話を聞きつけたのか、朝倉が俺の傍によってきた。朝倉は帰宅部だ。
「えっ……」
「良いでしょ?、ちょっと話したいことがあるの」
「まあ、構わないが……」
 委員長が一体俺に何のようだろう。
 何時もの世話焼きの延長線かも知れないが……、まあ、説教されるのはあんまり好きじ
ゃないが、別に断るほどの理由も無い。
 そんなわけで、俺は朝倉と一緒に帰る事になった。

 坂道を下りながら、朝倉が色々と話し掛けてくる。
 くだらない雑談めいたことが殆どだったが、ハルヒという変な女とその他SOS団メン
バーによって誘われた非日常世界が目まぐるしく行き来する今の俺にとっては、大して意
味のない雑談が妙に居心地のいいものに思えた。
「ここから少し行った所に新しい喫茶店が出来たんだけど、一緒に行かない?」
 坂道を下りきった所で別れるかと思ったら、朝倉がそんな風に俺を誘ってきた。
「いや、俺金無いし……」
 無くは無いが、先週末の不思議探索とやらの最初の喫茶店での奢りと、午前中の買い物、
昼ご飯代などで俺の財布は結構疲弊している。
「あ、お金の心配ならしなくていいよ。あたしが奢るから。ね、いいでしょ?」
 朝倉の奢りか。
 俺は別に朝倉に奢られる理由は無いんだが……。
「あたし、キョンちゃんともっと話がしたいんだ。だから、お願い」
 一体なんだ。
 っていうかお前までそのあだ名で呼ぶのかよ。今更訂正する気にもなれないけどさ。
「……分かった、行くよ」
 嫌味の無い笑顔で誘ってくる朝倉を無理に引き剥がす気にもなれず、俺は朝倉と一緒に
喫茶店に行くことになった。

 朝倉が誘ってくれた喫茶店は、新しく出来たというだけあって綺麗な場所だった。
 雰囲気も内装も悪くない。しかもその割に値段は親切だ。
 今日の払いは俺じゃないが、こういう場所なら人を誘ってもいいかもしれないな。
 誘うような相手が居るかどうかはまた別の問題だが。
「あたしはチーズケーキと珈琲、キョンちゃんは何にする?」
「チョコパとアップルティー」
 どういうわけかイラついているときは甘いものが欲しくなる。
 女の、というか人の性か?
 本当に必要なのはカルシウムのはずなんだが。

「そういや朝倉、話って何だ?」
「あ、ううん、具体的にどうってわけじゃないんだけど……」
 何だ、用事が有ったわけじゃないのか。
 まあいきなり深刻な話題を振られるよりは良いか。
 たまにはハルヒ以外とこうして放課後を過ごす事も大事だろう。
「キョンちゃん、涼宮さんのことをどう思う?」

「……変な女」

 ハルヒを表すのにこれ以上適切な言葉なんて思い浮かばない。
「そ、そう……。う、うん、涼宮さんは変わっていると思うけど。そうじゃなくて……」
「あいつは変な女だろ。まあ、悪い奴じゃないと思うが」
 悪意が無いってのは見てれば分かる。
 散々迷惑をかけられている俺から見たって、ハルヒ本人が子供の悪戯程度にしか思って
ないってことは理解できる。
 自覚が無いから許せるって物でも無いが、自覚が無い以上本気で見捨てるとか見限ると
いう気にはなれない。
 それに、別の事情もあるしな。
 ……記憶の中で、暗闇の世界と青白い巨人、赤い光と戦乙女が交差する。
「そっか……、うん、悪い子じゃないってのはあたしにも分かる気がするよ」
 良かったなハルヒ、理解者になってくれそうな奴が増えたぞ。
 お前が一番理解されたくないタイプかも知れないが。
 ……いや、それともハルヒは人に理解されたいのか?
 それは……、俺には分からない所だな。
「聞きたいのはハルヒのことだけか?」
「ううん、それ以外のこともあるよ」
 注文したケーキやパフェがやって来る。
 朝倉の答えを聞きつつも、俺は喋るのを一旦中断してチョコパにスプーンを伸ばした。

「まだハルヒのことか?」
「ううん、キョンちゃんのことだよ」
 俺?
 俺が一体なんだって言うんだ。

「キョンちゃん、好きな子居るんでしょ?」

 ……。
 ……話の風向きが唐突過ぎた。
「何だよ、いきなり……」
「あ、図星みたいだね。本当はもう誰かってのも大体目星は着いているんだけど――」
「俺の事はどうだって良いだろ」
「良くないよ」
 朝倉が、ちょっとだけ眉根を寄せる。
 昨今の女子高生より太目の眉がくりっと動くと、普段は大人っぽい印象の朝倉が少しだ
け子供っぽく見えるから不思議だ。
 けど、朝倉がどうしてこんなことをわざわざ口にする?
 他人の友人関係はともかく、恋愛関係なんて委員長様の口出しする分野じゃないだろ?
 お節介な委員長様も、そのくらいの線引きは出来るものじゃないのか?
「良くないって……」
「だってキョンちゃん、このままだと自滅しちゃいそうなんだもん」
 ……眉を少し動かしながらそう言った朝倉の表情は、やっぱり委員長らしかった。

「あたしね、分かるんだ、今のキョンちゃんが凄く涼宮さんに遠慮しているって」
 朝倉が勝手に喋っている。
「キョンちゃんの好きな子は、きっと涼宮さんのことが好きなんだよね? 違うかな?」
 答える義理は無い。
 逆は絶対無いと言える気がするんだが。
 悪いが『恋するハルヒ』なんてのは俺の想像の範囲外の代物だ。
「キョンちゃんにとって涼宮さんは恋のライバル? ううん、ちょっと違うかな、何だか
もっと前の段階でキョンちゃんが躓いちゃっている気がするんだよね」
 朝倉の自問自答めいた言葉が続く。
 俺は無言でチョコパを食べ続ける。
 朝倉もたまにケーキにフォークを伸ばすので、お互い無言のままの時間が結構長い。
 俺は、細切れに発生する微妙な沈黙を破る言葉なんて、持っていない。
「その子が自分の心配をしてくれるのも、一緒に居てくれるのも、話を聞いてくれるのも、
全部涼宮さんの気を引くためだって……、キョンちゃん、そんな風に思っていない?」
 ノーコメントだ。
「あのね、キョンちゃん。……あたしね、あなたには変革が必要だと思うの」
 ……変革?
 何だろう、高校生レベルの恋愛にはあまり似合わない単語だと思うのは俺の気のせいだ
ろうか。
 少なくとも、朝倉のキャラには余りあってないと思う。
「あっ、でもそう言っても無理かなあ、恋愛と友情を秤にかけるのは難しいしね」
 秤にかける以前に俺は秤を用意した記憶すらないんだが。
 そもそも秤の両側に乗せるにしては、俺とハルヒの重さは違いすぎる。
 あっちが金の鉱脈そのものなら、俺は道端の小石以下だよ。

「キョンちゃんも辛いんだろうなあ……。あ、あのね、あたしも、今ちょっと行き詰まっ
ていることが有るの」
 何だ、一体。
 割と何でもこなせる上面倒見の良い委員長キャラの朝倉が、一体何に行き詰まっている
というのだろう。
 心配してやる義理は無かったが欠片程度の興味はあるし、実りの無い俺の勝手な身の上
話を朝倉が延々続けていくよりはなんぼかマシだ。
「あたしは現状を打破したいのに、上がそれを許してくれないんだよね」
 ……上?
 ……話が全然見えない。
 恋愛絡みとは絶対に違うよな。
 朝倉は帰宅部だったはずだから、バイトか何かの話か?
 けど、そんなことを俺に話してどうしたい?

「うん、でもまあ、それも今日までで終わりにすることにしたの」

 朝倉が、部活を作ればいいのよと言った時のハルヒとタメを晴れるくらい良い笑顔にな
った。
「あたしは現状を打破するために、自分で何とかすることにしたの」
 俺は半歩だけ、朝倉から離れた。
 朝倉が、そんな重要そうな話を大して仲が良い訳でも無い俺にする理由が良く分からな
かったからだ。
「だからキョンちゃん、死んでね」
 朝倉が、唇を動かす。

 その瞬間、俺の記憶が警鐘を鳴らしていた。

 避けられたのは幸運だったとしか思えない。
 ついさっきまで俺が立っていた場所を、朝倉の持っていたフォークが薙いでいた。
 はらりと、何かが肩に落ちる感触。
 俺は視線を笑顔のままの朝倉から動かさずに硬直しかけた手を動かして確かめる。
 どうやら、フォークが俺の髪を結っていたゴム紐とリボンを切ったらしい。
 視界の端に、千切れた青いリボンが有った。
 後少し動くのが遅かったら、こうなっていたのは俺自身だったんだろう。
「な、朝倉、お前……」
「あーあ、避けられちゃった。まあいっか、空間制御の方は上手くいきそうだし」
「空間……」
 俺は朝倉から目を離さないように注意しつつも、さっと周囲に視線を配る。
 さっきまで有った俺達の間のテーブルが消え、椅子も消え、その他の内装も他の客達も
全部消えてしまっていた。
 ここは、どこだ。
 明らかに喫茶店の中じゃない。というかそもそも現実の世界だとすら思えない。
 うねうねと揺れる極彩色の壁らしきものに囲まれた、距離感さえつかめない奇妙な場所。
 俺は、とある場所を思い出した。
 閉鎖空間。
 様子は大分違うが、ここには少なからず似たものを感じる。
 俺がこんな馬鹿げた状況で正気を失わないで居られたのは、あのときの記憶が有ったか
らだろう。
「そっ、本当は密室の方が良かったから学校の教室がベストだっんだけど、学校だと9組
の子や長門さんがいるから、あなたと二人っきりになれる機会が作れそうに無かったのよ
ね」
 朝倉が、どこから取り出したのか手にナイフを握っていた。

 密室が、ということは、ここは密室じゃないんだろうか。
 他に人が居た喫茶店の中で密室云々と言うのも間抜けな話しだが、朝倉はどうやら長門
や古泉と同じくどうも普通の人間ではないらしい。
 まともな物理法則や常識が通じるという感覚は捨てるべきだろう。
 けど、密室じゃ無いなら逃げれば……、
「あ、でも普通の人にとっては密室と同じだと思うよ。閉鎖空間の発生に伴う次元の歪み
に便乗して作っちゃった擬似的な亜空間だから、あの9組の子とかだったら突破できるか
も知れないけど」
 ……おいおいおい。
 言っていることの詳細はさっぱりだが、それって色々反則なんじゃないか。
「たいしたことじゃないよ、タイミングを上手く掴めるまでちょっと手間取っちゃったけ
ど」
 あーもう何なんだこいつは。
 俺はその場で一歩下がろうとしたが、見えない何かに阻まれたかのようにそれ以上後ろ
に下がる事が出来なかった。
「ふふ、キョンちゃんを殺したら、涼宮さんが凄い大きな情報爆発を起こしてくれそうだ
よね」
 またハルヒかよ。というかお前もそっち方面でのハルヒがらみかよ。
 ああもう本当にもてもてだなハルヒよ。
 しかしハルヒに興味がある連中は何でまず俺のところに来るんだよ。
 俺はただの一般的な女子高生だ!
 文句と要望は直接当人に言ってくれ!
「あーあ、今から楽しみだなあ」
 朝倉が今からピクニックにでも行くような陽気さで、俺の方へと近づいてくる。
 俺は……、動けない。理由は良く分からないが、足首から下が動かなかった。
 ちょっと待ってくれよ……。

 朝倉が、ナイフを構えなおす。
 俺の身体のどこを狙っているか分からないが、正直言ってどこを狙われているかなんて
考えたくも無い。
 ナイフが、すっと空中を薙ぐ。
 もう終わりだと、そう思った瞬間、天井から赤い光が降り注いだ。
「えっ、やだ、本当に突破されちゃったの?」
 朝倉の口調は、友達に昨日見たネタテレビ番組の内容を聞く時のような口調だった。
 その間にも幾つ物赤い光が朝倉の前で複雑に交差し、最後に一つになり、朝倉の身体を
吹き飛ばす。
 そして、空中からふわりと二つの人影が降りてきた。
 音も無く空とも言えない微妙な場所から振ってきたのは、見慣れた少年少女だった。
 古泉と長門である。
「専門家を舐めないでください。長門さん、これで大丈夫ですね?」
 赤い光が、古泉の掌に戻っていく。
 球体に変化した時とは少し違うが、これもこいつの能力ってことか。
「同じ空間に入れば充分対処は可能」
 長門は以前閉鎖空間で見た時と同じ戦乙女スタイルだ。
 ただし持っている槍の輝きの5割増しくらいになっている。
 そう言えば、あの時は最大出力じゃないみたいな話をしていたな。
「では、後はお任せいたします」
 古泉は長門にそう言うと、朝倉を無視し、俺の方によってきたかと思うとあっという間
に俺の身体を持ち上げた。
 ……足が竦んでいたから、抵抗する間もなかった。
「了解した」
 長門が答える声が聞こえた、気がした。
「え、あ、ちょっ……」
「しっかり掴まっていてくださいね」
 そのとき俺は、既に空中へ飛び上がった古泉の腕の中だった。

 一体何なんだ。
 助けに来てくれたらしいことは分かるし、そこについては感謝しても良い気もするんだ
が、今この状況については全く持って理解出来ない。
 そもそも、朝倉が作り出したとかいうあの空間からして謎だらけなんだが。
「お、おい……」
「あんまり暴れないでください」
 空中を飛びながら何時もの笑顔で言うな、ちょっと怖いから。
 というかここはどこだ。あの極彩色の空間を出たはずなのになんでまだ空が変な色をし
ているんだ。
「朝倉涼子が閉鎖空間の発生に干渉して亜空間を作り出したため、擬似的な空間が階層状
になってしまっているんですよ。ここは、その途中の階層です」
「階層って……。そうだ、お前何で長門を置いてきたんだよ!」
 性別に関する通俗的な感覚に全面的に同意してやる気は全く無いが、男が女を敵(だよ
な?)の前で見捨てるなんて言語道断だぞ。
「朝倉涼子に対処するためです」
「対処って、お前は――」
「僕に彼女に対処するような能力は有りませんよ。僕があそこにいても長門さんの足手ま
といになるだけです。僕に出来るのは彼女の邪魔にならないようあなたを連れて逃げるこ
と、それだけです」
 古泉が口にした足手まといという単語には憂いは全く感じられなかったが、俺はほんの
少し後ろめたかった。
 長門も古泉も頑張ってくれているのに、俺は何も出来ない。
 それどころか、二人の重荷にしかなっていない。
 足手まといってのは、お前じゃなくて俺みたいな奴のことを言うんだろう?

「今回僕があそこまで辿り付けたのも、この空間が閉鎖空間の派生として存在しているか
らに過ぎません。もしもこれが本当にTFEI……、失礼、情報統合思念体製のインターフェ
ースが自力で作り出した情報制御空間だとしたら、僕には入り込むことさえ出来なかった
かも知れません」
「事情が良く分からないんだが……」
 閉鎖空間と情報制御空間とやらの違いを教えてくれ、俺は前者はともかく後者は知らな
い。
 ……あんまり入りたいとは思わないが。
「専門分野が違うと思っていただければそれで結構ですよ」
 悪いがその辺りで手を打たせてもらおう。
 ん、そういや朝倉は長門の同類なのか?
「ええ、そうです。彼女は長門さんのバックアップ役のはずですよ。今回の件は完全に独
断専行のようですが」
 そうだったのか……。
「僕も詳しい事情までは知らないのですが」
 いや、俺よりは全然詳しいと思うぞ。
 というかそれだけ知っていれば十分だろう。
「……そういや、俺たちはどこへ向っているんだ?」
「さあ、どこでしょうね」
 ……待て。

「何せ閉鎖空間発生時への干渉による亜空間創造など始めてのことですからね。僕にも長
門さんにもさっぱり分かりません。分かるのは、僕が閉鎖空間と似た要領である程度力を
振るえるらしいということと、移動性能だけだったら彼女等より僕の方が上らしいという
ことだけです」
 最初に言っていた専門家云々って奴か。
「出口は分かるのか?」
「上に行けば出られると思っていたのですが……」
 さっきから古泉は延々と高く高く上っているが、未だに頭上に空が見える気配は無い。
 時折何かが小さく割れるような音がして天井らしき部分の色が変わるんだが、それだけ
だ。
 これが階層を突破しているってことなんだろうか。
「長門が朝倉を倒せばどうにかなるのか?」
「そうです……、と言いたい所ですが、それも不明です」
「不明って……」
「何分始めてのことですからね。あっ……」
 そのとき、携帯がなった。
 俺の携帯の着信音じゃない、古泉のだな。
「すみません、取っていただけますか?、胸ポケットに入っていますので」
「ああ」
 俺は古泉の着ている制服のブレザーから携帯を取り出した。
 着信かと思ったが、どうやらメールのようだ。
 これ、見ていいんだろうか?
「見ても構いませんので、僕に見せてください」
 本人がいいって言うなら良いんだろうな。
 俺は携帯を操作してメールの本文を表示した。
 何だ、これ?

「どうやら閉鎖空間の方は消滅したようですね」
「……暗号か何かか?」
 携帯の液晶に移っているのは、正体不明の記号交じりの文字列だけだ。
「ええまあ、そんなところです」
 そんなものまで使っているのかよ。
 しかし、閉鎖空間は消えたんだよな。
 じゃあ、ここは……。
「空間が崩壊する兆候は無さそうですね。長門さんの方の戦況はわかりませんが」
「……なあ、一度戻らないか? この状況で長門と別行動ってのはやばい気がするぞ」
「そうですね……。ああ、その必要は無さそうです」
 古泉が視線だけで地上の方を示す。
 その先に、地上から緩々と上昇してくるセーラー服姿の戦乙女が居た。
 その姿には傷一つ無かったが、何故か眼鏡だけが消えていた。

「お疲れ様です、朝倉涼子を倒したんですね」
「排除は無事完了した」
 古泉は何時もの笑顔で、長門は無表情。
 違いと言えば長門が眼鏡っこじゃなくなったことくらいだな。
 しかし、二人とも……、とても『敵』を一人倒した後になんて見えない。
「あ……」
 肩が竦む。
 怖い、と思う。
 長門も古泉も、俺を助けるためにやって来てくれたのに……。

 ふっと、体を支えてくれる腕に力が篭る。
「大丈夫ですよ。もう危険は有りません」
「え、あ……」
 違う、そういうことじゃない。
 そういうことじゃなくて……。
 俺はただ目を瞑り、首を振った。
 お礼の言葉とか、労いの言葉とか。
 本当ならそういう言葉を言わなきゃいけないはずなのに、何の言葉も出てこなかった。

 不意に、前髪に触れる何かを感じる。
 古泉、じゃないよな、古泉は俺を抱きかかえているわけだし。
 じゃあ、これは……
「……不安そうな相手に対しては、こうすると良いという記述を見かけたことがある」
「長門……」
「不安?」
 長門が、何時も通りの無表情のまま俺に訊ねる。
 けれどどうしてか、その瞳の色が何時もとほんの少し違うような気がした。
 例えそれが、眼鏡のある無しや、光の加減のせいだったとしても。
「あ……、いや、もう、大丈夫……、だと、思う」
「……そう」
 長門が、そっと手を引っ込めた。
「……二人とも、ありがとうな」
「いえいえ、どういたしまして」
「これもわたしの役目」
 両極端な答えだな、この二人らしい気もするけどさ。
 俺は思わず、その答えに笑ってしまった。
 多分、安心したんだろうな。
 古泉がどういうわけか釣られて笑い出し、長門がそれをきょとんとした表情で見ている。
 そんな時間が、何だか嬉しかった。

 ……さて、当たり前だが俺達は朝倉が作り出したらしい謎の空間から脱出できていない。
 本当なら和んでいる場合ではないのだが、ついつい気が緩んでしまっていたらしい。
 ああ、俺と古泉だけじゃないぞ、長門もだ。
 何で表情が読めない奴の気が緩んでいたのかが分かるって、そりゃな、
「……重要な事項を忘れていた」
「何ですか?」

「涼宮ハルヒと朝比奈みくるがこの空間のどこかにいる」

 こんな超重要事項を言いそびれていたんだからな。


 聞いた瞬間、俺と古泉は揃って絶句していた。
 そりゃそうだろう。
 知らぬは本人ばかりなりのその張本人が、未知との邂逅以外の何でもないこのおかしな
世界に引きずり込まれてしまったってことなんだからな。
 おまけに、朝比奈さんもか。
「……場所はわかりますか?」
 俺より早く復活した古泉が、まだちょっと顔を引きつらせたまま長門に訊ねた。
「詳しい場所は不明、ただし、二人は一緒にいると思われる。そうでないと朝比奈みくる
が巻き込まれるとは考えられない」
「どういうことですか?」
「閉鎖空間は発生場所は違えども、発生源そのものは涼宮ハルヒ。詳細は不明だが、朝倉
涼子は何らかの手段でその発生する瞬間の涼宮ハルヒの精神そのものに接触した可能性が
高い。朝比奈みくるが巻き込まれたのは物理的に近くにいたからと考えられる」
「なるほど……、では、涼宮さんが巻き込まれたのは偶然ですか?」
「意図したものである可能性が高い」
「それは、二重の罠ということですか」
 古泉が深い溜息を吐いた。

「……どういうことだ?」
「朝倉涼子はあなたの殺害を目的としていた、それ自体に間違いは有りません。ですが、
それが成功してもしなくても、閉鎖空間発生時の涼宮さんの精神に触れ、そのまま涼宮さ
んの肉体ごとこの空間に閉じ込める事ができれば、第一の目的は達成したようなものなん
です」
「……そういうことか」
 長門は観察者で、朝倉はその同類ってことだからな。
 傍観に飽きて独断で、ってことなんだよな。
「そういうことです。……とにかく、涼宮さんと朝比奈さんと探さないと話になりません
ね」
「二手に分かれるのか?」
「いえ、一緒に行動しましょう。僕と長門さんにも互いの位置を把握する手段は有りませ
んからね、バラバラになるのはまずいでしょう。長門さんも宜しいですね?」
「了解した」
 ……かくして、美少女二人を探す空飛ぶ探索紀行が始まった。


 探索紀行と言っても、実はそんなに長く続いたわけじゃない。
 上の方はそれこそ天井知らずの謎の世界だったが、一番下の方には見慣れた街並みが広
がっていたからな。
 まあ、妙な色をした世界では有ったが。
 現実世界の色違いって辺りは、閉鎖空間と似たような感じだろうか。
「通学路の周辺を辿るのが良いでしょう」
 やっと地上に降りて俺を下ろした古泉は、そう言って道を歩き始めた。
 長門と俺がその後ろを着いていく。

 ちなみに携帯電話は通じていない。
 かけようとした途端不通になるなんてどういうギャグだと思ったが、古泉が言うには
「涼宮さんが『こういう場所では携帯なんて通じるわけがない』と思っている可能性が有
りますから、不思議な事ではないでしょう」とのことだった。

「もうすぐ」
 長門が、唐突に呟いた。
 おいおい、分かるのかよ。
「近距離の生体反応が感じ取れるだけ」
 それだけでも充分凄いんですが。
「では、ここからはあなたに先頭になってもらいましょう。朝比奈さんはともかく、涼宮
さんを安心させるためにあなたが一番でしょうからね」
 何でそうなる?
 別に構わないが……。俺に出来ることなんて、この程度みたいだしな。

 長門が指し示したのは、すぐ近くの公園だった。
 ここって……。
 公園のベンチに、女の子が二人。
 俯いているハルヒと、そんなハルヒを見たまま沈痛な表情をしている朝比奈さん。
「ハルヒ!」
 俺は、ハルヒの名前を呼んだ。

「キョンっ……」
 はっと顔を上げて俺の名前を呼んだハルヒが、そのまま固まってしまう。
 一体どうしたんだ?
 俺は事情が分からず、助けを求めようと後ろを見た。
 古泉が、しまった、というような顔をしていた。……こんな表情、始めて見た。
 前に向き直ると、ハルヒの視線も俺ではなく古泉の方を見ていた。
「ねえ、古泉くん。……さっきの、何?」
 ハルヒが、夢遊病者のような声の調子で古泉に話し掛ける。
「さっき、空から降って来たよね……。有希と一緒に。手から赤い光を出して、何だか良
く分からないことになって……。何かと思ったら、今度はキョンを抱えて飛び上がって…
…」
 仕組みは良く分からないが、どうやら、一部始終を全部見られていたようだ。
 ……最悪のパターンだ。
「ねえ、あれなに……。何なの、一体? それにここはどこ? 何であたし達こんな場所
にいるの? ねえ、誰の仕業? これも古泉くんがやったの? ねえ――」
「ハルヒっ!」
 俺はふらふらと歩き出したハルヒと何も言えず立ったままの古泉の間に割って入った。
 どっちも見ていて放っておけなかった、痛々しすぎる。

 なあ、ハルヒ、お前は何も知らないかもしれないが、古泉はお前のヒーローなんだぞ?

「止めないでよ、キョンっ」
「古泉は何も悪くない、こいつは……、長門と一緒に俺を助けに来てくれたんだよ」
「何それ……、助けるって何? 何から、誰から? あんた一体どうしたの? おかしい
わよ。あんた、古泉くんに騙されているんじゃないの?」
 まずい、完全に逆効果だ。
「違う、古泉は何も悪くないんだ!」
「じゃあ、何なのこれは、誰のせいなの!」
 ハルヒの叫びが、空の無い公園に響き渡る。

「何で言えないの、言えないのはあんたが何か隠しているからでしょう?」
「違うっ」
「違わないわよ。あんたは、あんたは……馬鹿だけど、嘘は吐かない奴だと思っていたの
に……」
 馬鹿は余計だ。
「俺は嘘なんて吐いてない!」
「今吐いているじゃない!」
「あっ……」
 そうだ、今の俺は……。
 ……ハルヒを誤魔化そうと必死になっているんだ。
「あんたおかしいわよ、あんたやっぱり古泉くんに騙されているのよっ」
「何で古泉のせいにするんだよっ」
 だからどうしてそうなるんだ。
「だって、あんたが……、あんたが……」
 ハルヒが、俺の肩を掴む。
 何回目だ、この展開。
「あのな、ハルヒ……」
「……キョンの、キョンの馬鹿ー!!!」
 瞬間、脳が強く揺さぶられたような気がした。

 耳鳴りがした気はするが、物理的な衝撃は無かったんだと思う。
 幾らハルヒの叫び声がでかかったとはいえ、人間の声だものな。
 脳が、というのは比喩みたいなものだ。
 俺は酒を飲んだ事は無いが、二日酔いの時はこんな風になるんじゃないかなんてことを
ぼんやり考えていたりもした。
 俺は、一体どうなったんだ。

 ぱちりと、俺は唐突に覚醒した。
 ここはどこだ。
 身を起こすと、そこは見覚えの有る場所だった。
 部室だ。
 俺はどうやら部室の床に寝っ転がっていたらしい。
 部室を内を見渡してみると、ハルヒも居た。
 何故か床でも団長席でもなく、俺の定位置になっている椅子に座って眠りこけている。
 俺はハルヒを起こそうかどうか迷ったが、やめておいた。
 無理に起こすと何が起こるか分からないからな。
 俺はハルヒを起こさないように気をつけつつ、セーラー服とスカートについた埃を払っ
た。
 出来れば髪も結びたかったんだが、髪を結べそうなゴム紐やリボンの持ち合わせも無か
ったので、仕方なくそのままにしておいた。
 そんなに汚れては居ないみたいだな。
 しかし、俺は何でこんな所にいるんだ。
 ハルヒが大声で叫んだ所までは覚えているんだが……、これは、ハルヒの仕業なんだろ
うか。
「ああ、ご気分は如何ですか?」
 そのとき、窓の方から気遣うような声が聞こえた。

 聞き覚えの有る声に気がついて振り返ると、見覚えの有る姿がそこに有った。
 立っていたのではなく、有ったのだ。
 何時ぞやの閉鎖空間で見た、赤い球体。
 それが、窓の外の暗闇の中に有った。
「古泉っ」
「ああ、無事そうですね。涼宮さんがあなたを傷つけるなどとは思っていませんでしたが、
無事でよかったです」
「古泉、これは……」
「余り時間が無いので手短に説明しますが、亜空間内の階層の再構成と、それに伴っての
転移が起こったようです」
「再構成って……」
「この亜空間を作り出したのは朝倉涼子ですが、大元は涼宮さんの精神にあります。涼宮
さん自身がこの亜空間に干渉出来たとしてもおかしくはないでしょう。……無自覚でしょ
うが」
 ……理屈は分からなくも無い、と思う。
 けど、それってどういうことだ?
「涼宮さんはあなたと自分の隣に引き寄せ、僕等を別の階層に飛ばした上で階層ごとの境
界を強化しました。……僕がここに現れることが出来たのも、一時的なものです。先ほど
も言いましたが、時間はあまり無いんです」
「そんな……、でも、再構成って……、ここは、どこなんだ?」
「現実空間との距離という物を前提に考えると、現在あなたがたがいる場所が最下層、現
実から一番遠い場所に当たります」
「……どうやったら戻れるんだ?」
「……分かりません」
 人間らしい形状を留めていないはずの赤い球体が、首を振る動作をした気がした。
 赤い球体の光が、少しずつ弱っていた。

「分からないって……」
「すみません、僕には分からないんです。現在の涼宮さんは大分混乱した状態にいるよう
ですから、その状態から脱する事ができれば……、とは思うのですが」
「古泉……」
「すみません、何の力にもなれなくて」
「良い、気にしないで良い。けど……、この状態だと、お前達もこの空間から抜けられな
いってことか?」
「ええ、そうです。一応長門さんや朝比奈さんも傍にいますが」
 話している間にも、赤い光はどんどん弱まっていく。
 心なしか、古泉の声も段々小さくなっていっている気がした。
「そうか……」
 一体どんな状態なのかは気になるところだが、三人一緒ならまだ安心だ。
「僕としては、5人一緒に現実に戻れることを祈っていますよ」
「……俺もだよ」
 当たり前だ、こんな所で一生過ごす気も無ければくたばる気もない。
 ハルヒが何を言い出すか知らないが、引きずってでも現実に戻ってやるさ。
「あまり、無理はなさらないでくださいね」
「別に無理なんてしてないさ」
「普段のあなたを見ていると、とてもそうは思えないのですが……、まあ、いいでしょう。
あなたの幸運を祈っていますよ」
 そう言って、赤い光は消えていった。

「あ……」
伸ばした手が何もない空間をすり抜ける。
俺はそのまま、ぼんやりと赤い光が消えたその先を見つめていた。
地上も空も無い、なんの境界も見えないただの一面の闇。
部室の窓からじゃ絶対に見えない光景だ。
俺はどのくらいの間そうしていたんだろう。

「……キョン」

声を耳にゆっくりと振り返ると、眠っていたはずのハルヒが立ち上がり、俺の方を見て
いた。

「ハルヒ……」

「ねえ、キョン、何であたし部室にいるの?あたしはみくるちゃんと一緒に公園に居たは
ずなのに……。古泉くんは?有希は?、あの二人、空から……」
ぼんやりとしていた視線が、戸惑いの色に変わっていく。
「あんた、古泉くんと一緒に……」
「夢だ」
「夢って、そんな……」
「俺は今日は古泉にも長門にも会ってない、真っ直ぐ家に帰ったよ」
もちろん嘘だが、こうでも言わないとハルヒがまともに話を聞いてはくれないだろう。
古泉は言っていた。
ハルヒは根の部分では常識人なのだと。
……本当にその通りだな。
何せ目の前に現れた非日常との邂逅を全力で否定した挙げ句引きこもりやがった。
これが無自覚というのだから質が悪い。
だが、それを理由に俺がこいつを突き放しちゃいけない。
少なくとも、今は。

「でも……」
「信じてくれ、ハルヒ」
「……キョンが、どうしてもって言うなら、信用してあげても良いけど」
「頼む」
「分かったわ……。ねえ、ここはどこ?、部室に似ているけど、違うわよね」
「……俺にも分からない」
 嘘を吐くのは、ここまでで良い。
 ここから先は、立ち向かわなきゃいけない。
 方法なんて知らない、ハルヒの心の構造なんて俺には未だ持って謎なままだ。

 けど、ヒントは貰っている。
 普段はちょっと頼りなくてちょっとだけ怖くて、でも時々頼りになる上級生の大人バー
ジョンが、教えてくれたじゃないか。

「分からないって……」
「分からないけど、危険は無いと思う。ハルヒ、とりあえず適当な所に座れ、茶でも入れ
るからさ」
「えっ……」
「何だったらメイド服も着ようか?」
「馬鹿、そこまでしなくていいわよ」
 ハルヒが、ほんの少しだけ表情を崩した。

 ポットには何故かお湯が入っていて、湯飲みも急須も普段の部室と同じように用意して
有った。
 俺は何度か繰り返したのと同じように、ゆっくりとお茶を注いでいく。
 メイド服はどうかと思うが、お茶を淹れる事自体はそんなに嫌いじゃない、と思う。
 長い髪が少し邪魔だったが、それはこの際仕方が無い。
「どうぞ」
 二つの湯飲みに茶を注いで、その内一つをハルヒの前に差し出す。
「ありがと」
 ハルヒが礼を言うなんて珍しい。
「……味は相変わらずね」
 ハルヒが5秒足らずでお茶を飲み干す。
「悪かったな」
「まあ良いわ。……お代わり」
「まだ飲むのかよ」
「喉乾いているんだもん。ほら、団長命令なんだから早くやりなさいよ」
「……はいはい」
 すっかり何時もの調子を取り戻しつつあるハルヒにほっとしつつ、俺は二杯目のお茶を
注いだ。

 不機嫌でもなければ妙なことを思いついているわけでも無いハルヒと二人きりというの
は、何だか変な感じがする。
 そういや、学校の中では何度も会話したが、本当に二人きりになったことなんて殆ど無
かった気がするな。
 女同士二人きり、か。
 別に何があるってわけじゃないが、これがハルヒ相手だとなるとちょっと微妙かもしれ
ない。

 そもそも、何を話せばいいのかさっぱり分からない。

 ハルヒが二杯目の茶を飲み干す。
 猫舌って単語はどうやらこいつとは無縁らしい。
「……キョン、ちょっとこっち向いてくれる?」
 適当に茶を啜っていた(まだ一杯目だ)俺は、ハルヒの一言で顔を上げた。
 何だろう、何か言いたいことが有るんだろうか。
「どうした?」

「キョン、あんた、古泉くんのことが好きなのよね?」

 ……。
 ……直球で来やがった。
 
ハルヒは笑ってない、真剣な表情というわけでもない。
 何か純粋に疑問に思ったことを口にする子供、そんな感じだった。

 俺は未来から来た朝比奈さんの言葉を思い出す。
 素直に、か。
 それも、ハルヒに対してじゃなくて俺自身にと来ている。
 ハルヒの言葉も直球なら、朝比奈さんのヒントも直球だ。

「……そうだよ」
 
 俺はハルヒから目を離さず、答えてやった。

 本人が目の前に居ないからこそ、というやつだろう。
 古泉一樹が目の前に居たら俺は多分何も言えずに逃げている。
 認めよう。
 あいつはハルヒ第一の超能力者でちょっと変人で胡散臭くて実は結構腹黒そうだが……、
それでも俺は、あいつが好きだ。

 だが、悪いが俺に愛の告白なんてものをする勇気は無い。
 結果が見えている勝負を挑まない半端者の負けず嫌いで何が悪い。

「やっぱりね」

 ハルヒが微笑む。
 小馬鹿にしたような雰囲気は無い、茶化すつもりも無いらしい。
 子供っぽくて俺より背も低いハルヒが、今度は何故か少しだけ大人っぽく見えた。
「やっぱりって……」
「だってあんた、バレバレなんだもの」
「……」
「あれで隠しているつもり? 有希ちゃんもみくるちゃんも、クラスの連中も絶対気付い
ているわよ。……まあ、隠す気は無かったのかも知れないけど」
 ハルヒが溜息を吐く。
「……言わなかった理由は、何?」
 真剣な面持ち。
「……」
「もしかして、脈がないとか思っていたの?」
 脈以前の問題な気がする。
 ……が、この辺りの事情をハルヒに話すことは出来ない。
「全く……、勝負を仕掛ける前に逃げるなんて、愚か者のすることよ」
 悪かったな。

「……こんな事になる前に、ちゃんと言えば良かったのよ」
「……」
「こんな状態じゃ、帰って告白ってわけにも――」
 涼宮ハルヒは、根っこの所はどこまでも常識人らしい。
 話の風向きが何時もと違うのも、そのせいなんだろうか。

「帰れるさ」

「何を根拠に……、帰れるわけ無いじゃない、ここ、扉も開かないし、外は真っ暗闇なの
よ。こんな変な場所からどうやって帰るの? まさかこれも夢だとか言い出すつもり?」
「そうじゃない。でも、帰れる」
「やけに自信たっぷりね。……あんたの王子様が助けに来てくれるとか?」
 王子様って表現は……、似合わないようなことも無いような気がするな。
 実際一度助けに来てもらっているし。
「違うよ。俺があいつ等を助けに行く。助けてやる」
 今、俺に出来ること。
 『専門分野が違う』っていう古泉の言葉は、俺にも通用するのかもな。
「えっ……」

「なあ、ハルヒ、知っているか、恋する乙女は無敵なんだぞ?」

 全世界が停止したかと思われた。
 少なくとも、この部室らしき空間の空気は完全に凍り付いていた。
 勢いで言ってしまったもののそれ以上何も言えなくなった俺と、ただぽかんと口を開け
ているハルヒ。
 羞恥を通り越して、何だか空気が痛かった。
 ……こんな台詞、普段から羞恥心をかなぐり捨てて生きているとしか思えないハルヒの
前だからこそ、言えたんだろうな。

「何それ……、あんた馬鹿?」

 漸く復活したハルヒが、怒りと哀れみ混じりのような視線で俺のことを見てきた。
 馬鹿は余計だが、常識に縛られて帰れないと思い込むよりは、たとえ馬鹿でも良いから
帰れると思わせておいて欲しい。
 こんな所に女二人一生一緒になんてのはお断りだ。
「一応本気だよ」
「何よ一応って……、全く、これだから恋なんて気の迷いだとしか思えないのよ。人を好
きになったからってだけでどうにかなるなんて考え方、馬鹿げているわよ」
 ん、話の風向きが変わったか?
 なあ、ハルヒ、お前もしかして……。

「お前、誰か好きな奴が居るのか?」

「なっ、い、居るわけないでしょっ」

 恐ろしいほどパターンどおりの反応が帰ってきた。
 意外だ。
 あの涼宮ハルヒが、こんな場面でこんな真っ当な反応を示すなんて……。
「その反応、居るって言っているとの同じだって」
「むぅ……」
「言えよ」
「な、何であんたなんかに……」
「俺は言ったんだ、お前も言ってそれでお相子だろう?」
 俺は勝ち誇ったようにそう言ってやった。
 しかし、相手が全く想像できないな。

「……」
「ほら、言えよ。誰にも言わないからさ。あ、俺の方のも誰にも言うなよ、例えバレバレ
だとしてもさ」
「絶対に、言わない?」
「ああ、言わないよ。第一言っても信用されないだろうしな」
 あの涼宮ハルヒに好きな相手が居る。
 北高特大スクープも良い所だが、意外すぎて誰にも信じてもらえないだろう。
「すぐ忘れなさいよ」
 どうやら、本気で言う気になったらしい。
「……記憶を抹消する努力はさせてもらう」
 ハルヒが忘れて欲しいって言うなら、その努力くらいはしてやるさ。
 こんなことを聞けるってだけでも意味が有るからな。

 ハルヒが、徐に立ち上がり、つかつかと大股で歩いて俺のそばまでやって来た。
 何だ、一体。
「良い、耳かっぽじって良く聞きなさいよ」
 そんなことしなくても、この超至近距離なら絶対に聞き逃さない。
 ていうか、鼻息が耳にかかるんだが。

「あたしが好きなのは――!!」

 世界が、暗転した。

 回ったのが自分なのか世界かなんてことは、この際どうでも良い。
 目を空けたら

「ああ、気がついたようですね」

 何時もの爽やかスマイルが目の前に居た。

「……ここは?」
 見知らぬ部屋、誰かの家のリビングか何かのようだが、少なくとも閉鎖空間や亜空間で
はないようだ。
「長門さんの部屋です。5人バラバラな地点に回帰しそうだったのを、長門さんの力で全
員ここに集めてもらいました」
 さすがだな宇宙人、そんなことまで出来るのか。
 いや、そういう問題ではなくてだな……。
 というか古泉、お前は何故半端に視線を逸らす?
「ふぇ~ん、キョンさん~」
 ひしっと、俺に抱き着いて来る朝比奈さん。
「無事だったんですね」
「はい~、ごめんなさい~、あたし、涼宮さんの機嫌を損ねちゃって……、キョンさんの
次の衣装、ナースかチャイナ服かで喧嘩になっちゃって……」
 そんな理由で閉鎖空間を発生させたのか、ハルヒは。
 というか二人してそんな相談するなよな……。
「あ、あたしはチャイナ服派だったんですけど、今回は涼宮さんに譲りますね!」
 ……あ、頭が痛い。

 俺が朝比奈さんに纏わり疲れている間、長門はまだ眠っているハルヒをじーっと見てい
たままで、古泉は何だかちょっと居辛そうな様子でどちらも見ていないという状態だった。
「えっと、長門、ハルヒは……」
 朝比奈さんを引き剥がしつつ、長門に訊ねる。
「生命活動、精神状態とも正常の範囲」
「そっか、良かった……」
「亜空間での出来事は、全て夢と認識されるはず」
「少し可哀想な気もしますが、涼宮さんに現実を知られるわけには行きませんからね」
 そうだな……、ハルヒにとっては待望の不可思議体験のはずなんだが、今のハルヒには
それを受け入れる土壌が無さそうだからな。
 ああしかし、ハルヒは最後になんて言ったんだろうな。
 聞き逃したのが心残りと言えば心残りだ。

「恋する乙女は無敵」

 長門が、極々平坦な口調で言った。
 世界が……、停止しない代わりに、別の何かが停止した気がした。
「興味深い言葉」
 あ、あの……、長門さん?
 長門は俺の方を見上げたまま、古泉は完全にそっぽを向いていて、朝比奈さんは何とも
言えない微妙な表情だった。

「あの亜空間は……、最上位階層からだと、下の階層で起こったことが全て分かるという
仕組みだったようですね」

 目を逸らしたまま、古泉が答えた。

 ……。
 ……。
 ……ちょっと、待て。

「涼宮さんが最初僕等の行動を全て知っていたのもそのせいで……、って、大丈夫ですか?」
 適当に座ったままふらついていた俺の身体を、古泉が受け止める。
 ということは何か? あの恥ずかしいやり取りの数々を、ここの三人に聞かれていたと
いうことか?
 よりにもよって、一番聞かれたくない、聞かれちゃいけない相手に……。
「……忘れておく事にしますよ。本当は、長門さんに記憶操作してもらうという方法も有
ったんですけど、そうすると記憶の整合性が取れなくなりそうだと言われたんで、自力で
忘れられるよう努力してみる事にします」
「忘れるって……」
 ここで文句をつけるのは間違っている、と思う。
 でも……。
「別に現実での出来事を忘れるわけじゃないですよ? あなたと僕はSOS団の仲間でしょ
う。……そうですね、暫く待っていましょうか」
 ……。
「あなただって、不本意な告白に回答が欲しいわけではないでしょう?」
「……」
 俺は目を逸らした。
 古泉の言うことは、間違っていない。
 間違っていない、だから……。
「……忘れておいてくれ、今は。……後のことは、また後だ」
「了解しました」
 ゆっくりと視線を動かしつつ見あげてみたら、古泉はとても良い笑顔をしていた。

 俺は古泉のことをとりあえず心の脇に置き、ハルヒが目覚めるのを待った。
 言い訳は考え済み、一応打ち合わせもしてある。
「ん……、あれ、あんた、何でここに……」
「ここは長門の家だ」
「有希ちゃんの?、どうしてあたしとあんたが有希ちゃんの家に居るの?」
 ハルヒがぱっと起き上がり、周囲を見渡す。
「あれ、古泉くんも居るの? みくるちゃんが居るのは分かるけど……」
「お前が倒れたのを見た朝比奈さんが、SOS団の全員に連絡を取ったんだよ。で、一番近
い長門の家に運んだんだ。皆に礼を言っとけ」
「そ、そうだったの……。あ……、ごめんね、ありがとう」
 ハルヒが、素直に頭を下げた。
 古泉や長門や朝比奈さんの労力に見合っているかどうかは分からないが、まともに頭を
下げてくれただけでとりあえずは良しとしよう。
「あたし、貧血だったのかしら……」
「多分な。ああ、歩けるか?」
「ええ、大丈夫よ」
「じゃあ送っていくよ」
「べ、別に良いわよ」
「さっきまで倒れていた人間がそんなところで遠慮するなよな。一人で帰してもう一度倒
れられたりしたら笑えないだろうが」
 俺自身もさっきまで気を失っていたんだが、それはこの際棚上げだ。
「……送ってもらうなら、あんた以外の人が良いわ」
 どうやら、ハルヒは俺には送ってもらいたくないらしい。

 すったもんだのやり取りの末、ハルヒは朝比奈さんが送っていく事になった。
 俺と古泉はバラバラに帰宅、長門はここが自宅なので動く必要は無い。
 帰り際、古泉と長門が消えた朝倉をどうするかと伝えてくれた。
 そう言えば、あいつにはもう会えないんだよな。
 俺の命を狙ってきたような奴だが……、会えないとなると、少し寂しいかも知れない。

 翌日、突然転校した朝倉が怪しいとか言い出したハルヒを、長門の遠縁だとか何だとか
言って古泉が丸め込んだのを傍目に見つつ、俺はこれから一体ハルヒにどれだけ嘘を吐か
ないといけないんだろうな、なんてことを考えてしまった。
 朝倉涼子みたいな奴が、また現れないとも限らないわけだし。
 そうしたら……、まあ、王子様と戦乙女とやらが何とかしてくれるんだろう、きっと。
 悪いが俺には朝倉みたいな連中に対処する方法は持っていない。
 だから、俺は別の方法で戦わせて頂く。


 ハルヒと言う名のトンデモ娘との、非日常的な日常、それが俺の戦場――。


 ……馬鹿馬鹿しいが、そういうことなんだろう。

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