涼宮ハルヒの追憶 chapter.3

――age 25


「じゃあ、いくわよ」

朝比奈さんが言った直後、久々の感覚が俺を襲った。
時間酔いという、ジェットコースターの気持ち悪さを
三乗したような浮遊感が俺を包んだ。
地面を失い、重力も失った。
朝比奈さんは遠慮しているのか、手をつないだりはしなかった。
不快感が喉元まで到達したところで、俺は重力を取り戻した。

「さあ、目を開けて」

朝比奈さんが言っているのが聞こえた。
目を開けるものの、ふらふらとして視線が定まらない。
横にはさっきまでいたはずの朝比奈さんは消えていた。
それはいいとして、問題はこれだ。

ここはどこだ?

辺りを見回すと、無機質な空間が広がっていた。
無駄に広いリビングにある、
見覚えのあるこたつ、素っ気ないカーテンに、本でいっぱいの本棚。
ガチャッという音とともに玄関のほうでドアが閉まった。

「あ、そうか!」

長門が転校して、一生懸命に自転車をとばして、探し回ったあの日。
このリビングでの出来事を思い出す。
思い出して、恥ずかしくなる。
まずい、死にたくなってきた。青いな、あの時の俺。

「うぉ!」

思わず驚いてしまった。
足元で身を屈め、丸くなっている人がいたからだ。
気持ちを落ち着かせ、話しかけた。

「おい、長門」

長門は俺の方を振り向き、見つめた。

「……お前」

長門は泣いていた。
声を出さず、涙は勝手に流れ出ているといった感じだ。

「どうした?」

「分からない。ただ、わたしは消えたくないと感じた。
人の感情でいう、……恐怖? というものかもしれない。
それに、先ほどの九年前のあなたの行動が嬉しかった」

「俺のことは分かってるんだな」

「もちろん。あなたは異時間同位体」

長門は流れ出る涙をカーディガンの裾で拭った。

座り込んでいる長門と立って話すのも疲れるので、俺はしゃがんだ。

「それなら話が早い。おそらく、このあと俺は長門に世話になるのだろう。
なんせ、俺は一週間後に俺自身に会う以外は会ってないからな。
二十五歳になった俺が街を歩いて、知り合いとばったり、なんては危険すぎる。
一週間、この部屋に泊めてもらってもいいかな?」

「いい。そのためにわたしはあと一週間、処分されないで残されているから」

「そうか。それじゃあ、一週間よろしく頼むな」

俺は笑顔を作った。
作ったはいいが、内心不安だった。
だって、相手は高校生だぞ? しかも、今の彼女と外見は変わらない。
情熱を持てあまして、夜這い、なんてことはないだろうが。
この時の長門にはまた違った趣があるからな。
我に返って、前を見ると、
長門が首を傾げて、液体ヘリウムのような目で俺を見つめていた。
そうそう、これだよこれ!
この絶対零度の視線が癖になる、って俺、病気なのか?

「な、なんでもないぞ!とりあえず、お茶でも出してくれないか?
あの時、なんでお茶を飲まなかったのか後悔していたんだ」

「分かった」

長門は立ち上がり、台所に向かった。
ふう、と俺は溜息をつき、こたつへと這っていく。
どうしたもんかな。こんな調子で一週間も持つのか。
それにしても、本物の女子高生の着るセーラー服というのはいいものだ。
帰ったら、彼女にでも着せようか。
そういえば、まだその手のプレイはしたことがなかったな。盲点だった。

「どうぞ」

長門は湯呑み茶碗を俺の前に置いた。

「あ、ああ」

長門は俺の前に正座し、俺を見つめていた。

「長門、今日は四月の第三火曜日であってるんだよな」

「あっている」

「お前はあと一週間でこの世界からいなくなるんだよな」

「そう」

「そうだな……」

「………」

すまん。正直に言おう。俺はこの沈黙も好きだ。
ああ、俺も老けちまったな。よし、少し真剣な話でもするか。

「なあ、長門」

「なに」

「お前、さっき恐怖を感じたって言ってたよな」

「言った」

「俺が思うにそれは人で言う死の恐怖なんじゃないかと思うんだ。
この世界で作った記憶から生まれた未練とでもいうのかな、
おそらくそんなものを感じたんだと思うぜ」

「そうかもしれない」

「お前それはすごいことだよ。俺は今でも覚えている。
朝倉は、『わたしには有機生命体の死の概念が分からない』と言っていた。
それに比べてどうだ? 長門は死の恐怖を感じ、涙まで流した。
お前はもう立派な人間なのかもしれない」

「………」

「それにしても、この時代の長門も泣くのな。
本当は泣き虫なのかもしれないな」

「………」

突如俺は神からの啓示が頭の中で木霊した。
いや、思いついただけだがな。

「お前、そこ怒るところだぞ。
そうだ! 俺が表情ってものを教えてやるよ。
それに、この一週間ぐらい人間らしく生活させてやる」

「いい」

「いや、拒んでも無駄だ。どうせ一週間もお世話になるんだ。
何か恩返しでもせにゃ、大人としてどうかと思う」

「いい」

「そうだな、まずは怒った顔からだ」

無視して俺は続けた。

「………」

「こう、軽くほっぺたを膨らませて、相手を見つめる。はい、やってみて」

すまん。俺の趣味だ。他言無用。
それに長門がやるとかわいいだろ?
俺が模範演技を見せていると、長門は真似をしだした。
が、俺は思わず吹き出してしまった。

「お前、それは膨らませすぎだ!
もう少し小さく。そうそう、そのぐらいストップ!」

「難しい」

「大丈夫、かわいいよ」

「かわいい? 怒るのに必要?」

「いや、気にするな。おっちゃんの戯言だと思ってくれ」

「そう」

その後、長門は何度も練習していた。
そのたびに俺を見つめてくるので、少々照れた。

「そういえば、今何時だ?」

「午後八時十七分四十二秒」

「秒まで聞いてないけどな。
こういうときは、分単位まででいいんだぞ」

「分かった」

俺はつけてきていた腕時計をその時刻から一分早くセットした。

「そろそろ晩御飯の時間じゃないのか?」

「分かった。準備する」

「もしかして、缶詰カレーか?」

「そう」

はあ、と俺は溜息をつき、
これじゃあ、料理も教えないといけないなと思った。

「長門、料理する時はエプロン着ようぜ。
その方がさまになるぞ」

「分かった。服装の情報を再構成する」

長門は異常ともいえる速さで言葉を発し、
身体から光を放ったかと思うと瞬きをする間もなく、
水色のエプロンを着ていた。

「そうだな長門には水色が似合うな」

「じゃあ、待ってて」

俺は長門が必死に缶詰を開ける姿を眺めながら横になり、
このあとこの時代の俺に降りかかった出来事を思い出した。
ぼんやりと、なにもない天井を見上げた。

「どうぞ」

「ああ」

起き上がると、こたつには大盛りのカレーが二つとサラダが一つ並べられていた。

「食べて」

向かい合って座る長門を見た。

「それじゃあいただきます」

「……いただきます」

正確なスプーンさばきでカレーを口に運ぶ長門を見ながらの食事を堪能しながら、
この一週間インスタントカレーだけで過ごすのかと暗澹たる気分になった。
これは明日の朝から料理を教えないといけないな。
淡々と食事は進み、しゃべることもなく、終了した。
長門と俺は食器をキッチンまで持っていった。
リビングまで戻ると、長門は俺を見つめながら言った。

「お風呂に入る」

「そうか」

「覗かないで」

覗かねえよ。俺を何歳だと思ってるんだ。
高校生の中でも幼顔の長門の風呂を覗いたら明らかに犯罪だろ。
それに俺、ロリコンじゃないしな。

「でもまだ飯食ったばっかりだぞ。
もう少し落ち着いてからのほうがいいんじゃないのか?」

「そう?」

「そうだよ。座ってゆっくり話そうぜ。俺の時代のことは話せないがな」

「分かった。もう少ししてから入る」

「これからのことでも話そうか。どうやって人間らしくなるかとか」

「それでいい」

「そうだな、まずは感情表現からかな。さっき怒るのは教えたから
次は悲しみとかにしようか」

ん?どうやって教えればいいんだ?涙を流せばいいのか?
それとも暗い後ろ姿をさせればいいのか?
俺は長門には悲しみという感情表現を教える必要はないことに気づいた。

「やっぱり、笑顔だよな」

長門には笑顔が足りない、喜ぶ姿が足りないだろ。

「こうやって目尻を下げて、口角をあげてって……、難しいな」

俺はこうやって表情を教えているといろいろなことに気づかされた。
怒った顔や笑った顔、ステレオタイプのそれらは、
長門には似合わないという根本的な病を抱えていた。
長門個人の感情表現ではない。
それでも長門には感情を表現して欲しかった。

「まあ、長門に似合うのは満面の笑みじゃなくて、
さりげない笑いだからな。微笑んでくれればいいよ」

長門は俺の真似をするのではなく、自分の笑顔を見せたような気がした。
長門のととのった微笑みは俺を緊張させた。

「上手いじゃないか。嬉しかったらその表情を見せてくれよ」

「わかった」

実際、長門は少しだが楽しそうな様子だった。
そして、未来の長門を知っている俺はその理由も分かっていた。



真っ白なこの部屋で、佇み、時を待つ。
ぐるぐると流れる時間の渦を避けた、この部屋で、長門は何を感じていたんだ。

――孤独。

圧迫する天井と、無駄に広い部屋達。
宇宙人と人間との間をさまよう少女をそれらは取り囲み、殺した。
存在という地獄の中で永遠と繰り返す時間をただ呆然と過ごす。

――孤独。

未来の彼女は少しずつだが、語ってくれた。



「長門、安心しろ。この一週間は絶対楽しませてやる。
俺がお前はこの世界にいたんだって覚えててやる」

「そう」

長門は俺と目をあわそうとはしなかった。

「お風呂に入る」

「そうだな」

「覗かないで」

「分かってるよ。そんな趣味はないからな」

長門は風呂場へと向かった。俺はその場に寝転がり、長門が帰ってくるのを待った。



いつの間にか寝てしまっていた。
カーペットしかない床に寝てしまっていたせいでひどく身体が痛い。
目をこすりながら辺りを見渡したが、長門の姿はなかった。

「ん? どうしたんだ? トイレかな」

少し待ってみたが、長門は来る気配がなかった。
俺は立ち上がり、ふらふらと長門を探した。

「おーい、長門。どこにいったんだ?」

耳を澄ませる。夜ということもあって、外からの音はない。
風呂場からシャワーがタイルを叩く音が聞こえた。

もしかして。

脱衣所まで行くと、風呂の電気はつきっぱなしで、
中からはシャワー音が聞こえていた。

「長門、まだ入ってるのか?」

返事はない。
ドアを叩いてみたが、返答はなかった。
俺は危機感を感じた。

「おい!長門!すまん、入るぞ!」

蒸気で満たされた浴室に、長門は浴槽に寄りかかるように倒れこんでいた。
シャンプーハットを頭につけていたが、気にしている場合ではなかった。
顔色はいつもの白さではなく、病的なまでに青白さだった。
俺は脱衣所からバスタオルを急いで持ってきて、
裸のままの長門を包み、抱きかかえた。
こんなときに少し性的な感情を感じてしまった俺がうざかった。

風呂場から出ると、とりあえずリビングに長門を寝かせ、俺は布団を探した。
布団は簡単に見つかった。
三年間凍結されていたあの部屋に、二つ並べてあった。

リビングに戻り、長門の身体を丁寧に拭いて、布団に寝かせた。
長門の身体は、幼さを残していたが、十分に整っていた。
それに肌は柔らかい肉感で、胸も小さいながらきれいな形と
薄い桃色の突起を保っていた。

「長門どうしたんだ?」

俺は長門の額を触り、熱があるか確認する。
熱があるのではなく、あまりにもなすぎた。
低体温状態の長門に俺の分であろう毛布もかけた。
救急車を呼ぶわけにはいかなかった。
長門はこの時代のSOS団に会うわけにはいかない。
入院したとなれば、会いに来るのは目に見えていた。

「どうすればいいんだ」

こんなことになるなんて聞いてないぞ。
俺はリビングに戻って長門を暖めるものがないか、探すことにした。

「いかないで」

何だって? 苦しそうな顔を浮かべる長門は寝たままの状態で俺の手首をつかんだ。
俺は振り返って長門をじっくりと見た。
長門はまだ寝たままだった。意識は戻ってないようだ。

「ねえ、いかないで」

「大丈夫だ。どこにもいかない」

俺は長門がつかんでいた手を両手で握り返した。

「暖かい」

俺は右手をはずし、うなされている長門の頭を撫でた。

「……ああ」

長門は落ち着きを見せると、涙が頬をゆるやかに伝った。
その夜、なにもできずにただ、長門の手を握ったまま見守り続けていた。



手を握ったままいつの間にか眠ってしまったらしい。
目覚めると、長門がこちらを見つめていることに気づいた。

「少しは楽になったか」

長門は小さく頷いた。

俺は長門の額に手を当てる。

「少し体温が戻ったな。何か食べれそうか?」

「少しなら」

「そのまま寝てろよ。おかゆかなんか作ってきてやるから。
材料はあるか?」

「ある。冷蔵庫の中に入ってる」

「そうか、ちょっと待ってろ」

俺は長門の髪を撫でると、立ち上がり、キッチンに向かった。
冷蔵庫にはある程度、一通りの食事が作れそうなほどの材料が入っていた。
俺は卵粥にしようと冷蔵庫から卵を取り出し、
ごはんが炊飯器に入っているを確認して、調理にかかった。
気づくと、俺は懐かしい歌を口ずさんでいた。なんだろうなしっくりするんだ。
女性ボーカルだったのは覚えている。
偶然街で流れているのを聞いて、気になってCDを買ったんだ。
そうだな。長門の部屋は無機質すぎる。
花でも飾るのもいいかもしれない。また再構成でもしてもらうか。
俺は卵粥を作り終えると和室へと戻った。
長門は上半身だけを起こし、迎えてくれた。

「大丈夫なのか?」

「大丈夫」

長門は昨日教えた微笑で答えた。
俺は長門の横に座り、スプーンでおかゆをすくって、
息で冷ましてから長門の口へと運んだ。
やっぱり、『アーン』とかってやるものなのか?
俺の時代にも残ってはいるがな。

「はい、ア、アーン」

長門はそれを復唱し、スプーンを小さな口で捕まえた。
か、かわいい。なぜだろう。すごくかわいいんだ。

「お、おいしいか?」

「おいしい」

「そうか」

「もっと」

「ああ」

長門の口に次々におかゆを運び、一人悦に入っていた俺だったが、
持ってきたおかゆはすぐに食べ終わってしまった。

「まだ食べたいか?」

「もういい」

「じゃあ、もう寝ろ。体調よくして、一緒に本読んだり、遊んだりしようぜ」

「そうする」

「あ、それと花を出してくれないか? 
余りにも部屋がそっけないだろ? 長門の寝ている間に部屋を飾っといてやるから」

「分かった」

長門は前回と同じように早口で何かを言い、一瞬光ったと思うと、花を作った。
俺は花に詳しくないが、それでも知っている有名なものだった。
アルスなんとかっていう、花びらがピンクで中はふさふさした黄色が入っているやつだ。

「それじゃあ、飾っとくな。しっかり寝ろよ」

そういって、長門の頭を撫でてリビングへと戻った。
花瓶はなかったので、ガラスコップを借りて水をいれ、
花の枝を切ってコップに入れた。
それをこたつの上に置いた。
少し寂しくなくなったな。ほんの少しなんだが。
その後は淡々としていた。
二時間おきに長門を見に行き、昼飯を作ったり、
部屋の本棚から分厚い本を取り出し、リビングで寝転がって読んだ。
暗くなってくると、夕飯の準備をし、また長門に食べさせ、
一人で満足し、またリビングに戻りごろごろ本を読んだ。
眠くなると、長門の横に敷かれた布団に入り、
横で寝息を立てている長門の寝顔を横目で見ながら、
いつのまにやら眠りに落ちていた。



目が覚めると、もう昼過ぎだった。
長門は? 横を見ても長門はいなかった。

「よかった。治ったんだな」

俺はそう呟いて、起き上がりリビングに向かった。
長門は分厚い本を読んでいた。昨日俺が置きっぱなしにしたやつだ。

「おはよう」

「おはようは不適切。こんにちはが妥当」

長門が理屈をこねまわしているのが愛らしかったが、同意することにした。

「こんにちは」

「ごはんできてる。食べて」

長門はこたつの上を指差した。
長門は一昨日の俺の心境を読んだのか、インスタントではなく自分で作っていた。
おそらく玉子焼きであろう焼け焦げた物体とごはんが並んでいた。

「作ってみた、どう?」

どうって。これを食べるのか。
俺は焼け焦げた物体を口へと運んだ。
起き掛けにこれはきついだろ。
腹減ってるから食べられるけどさ。

「いや、これはだめだろ」

長門は俺が教えた怒った顔と、
長門オリジナルの悲しい顔――つまり、泣きそうな顔――を
混ぜ合わせたような表情をすると、

「じゃあ、食べなくていい」

長門はこたつの上から玉子焼きの乗った皿を取り上げて、台所へと向かおうとした。
ちょっと待て、俺にごはんだけで食えと?
それに初めて自分の力だけで作ったであろう長門がかわいそうだしな。

「い、いやごめん! 大丈夫、おいしかったよ、うん、そうだ」

「大丈夫?」

「いや、食べたいです。俺に慈悲を!」

俺は手を合わせてお願いした。

「そこまで言うなら」

長門はこたつの上に皿を戻して、本を読むことに戻った。
この日はゆるやかな時間が流れる一日だった。
長門と並んで本を読み、長門と一緒にお茶を飲んだ。
二人で夕飯を作り、二人で食べた。
夜は共に布団に入り、夜が深まる前には眠りについた。



そんなまったりとした時間が最後の夜まで続いた。
その間やることはないので二人で料理の練習をしたり、
それで失敗ばかりする長門が涙目だったり、
長門オススメの本を読んでみたり、
長門の服装を変えて遊んでみたり、
やっぱり長門にはワンピースが似合っていたりした。
そして、最後の夜。
それは長門が突然泣き出したところから始まる。



とても静かな夜だ。
長門とのあまりにも普通で、楽しい日々は今日で終わりで、
明日は規定事項をこなさなければならない。
おそらく改変された世界のときと同じく、
透明になって学校へと向かうことになるのだろうな。
俺がトイレに行き、戻る間に長門は泣き出していた。
俺にはその気持ちが分かった。
長門は明日で消えてしまうのだ。
通常の人間なら、恐怖で狂ってしまったかもしれない。
もしくは精一杯の生を重ねようとするかもしれない。
充実した日々を経て、精一杯の生を重ねる。
そして、満足して死ぬのか?
死を後ろに抱え、前にある生だけを見続けることで、死から逃れていく。
だが、見続けることは不可能だ。
長門は俺と過ごしたこの一週間を見てきたが、
ほんの少し気が緩んだのだろう、忘れていた恐怖が襲ってきたようだ。

――怖い。

俺は泣きじゃくる長門を後ろから抱きしめた。できるだけ優しく。
長門の身体は震えていた。

「怖いか?」

「……っひ…ひく……少しだ、け」

「そうか」

後ろから抱きしめた長門は温かった。
こたつに飾ってあったアルストロメリア(長門が言っていた)はまだ枯れていなかった。

「このままでいていいか?」

「いい」

俺達はそのまま座っていた。
長門は俺より顔一つ分ぐらい小さかった。
長門はさきほど風呂に入ったばかりで、まだ髪が濡れていて、
そしてトリートメントの甘い匂いがした。
長門の背中からぬるい体温が伝わる。
こうしていると、長門の鼓動も伝わってくる。
小さい肩と、か弱い腕、首筋にあるほくろ、
長門のことをできるだけ全てを覚えようとした。
長門はすでに人であるように思われた。
どこまで人なんだ?
何の定義で?
決定的な答えを持ち合わせていなかったが、これだけはと思った。
せめて、この目の前にいる人だけは幸せになって欲しいと。
俺は九年前と同じ気持ちを抱いていたのだ。

「もう大丈夫、眠りたい」

「分かった、じゃあ寝るか」

俺と長門は眠りに着いた。



頬に当たった柔らかい感触と、その熱によって俺は目を覚ました。
周りを探すが誰もいなかった。
仕方がないので起き上がって、リビングに行くことにした。
リビングにも誰もいなかった。
見回して、こたつに一枚の書き置きがあるのを見つけた。
おそらく長門の字であろう、ワープロで打ったような整った明朝体で書かれていた。

――わたしは消えた。
 最後にあなたが他の人に見えないように操作した。
 これで目的を果たして欲しい。
 鍵は閉めて、郵便受けに入れておいて。
 わたしがまた帰ってこれるように。    ――

俺はその手紙をポケットに突っ込むと、一呼吸置いて、
布団をたたむために和室へと向かった。
布団をたたみ終えると、何もすることがないので冷蔵庫から緑茶の缶を取り出し、
花の飾ってあるこたつの前で飲んだ。
そして、腕時計を見て、時刻が一時を過ぎていることに気付いた。

「よし、そろそろ行くか」

こたつの上に置いてある鍵を取ると、俺は玄関へ向かった。

chapter.3  おわり。



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