生み出されて三年、あたしは何かに関して恐怖を感じたことは無かった。元々死の概念がよくわからなかったから、それに準拠する恐怖また、よくわからなかった。そう、あの日までは――

観察対象のいる学級に配属されてしばらくして席替えが行われていた。一部を除いてランダムなこの行為を、あたしは軽視していた。
そしてそれゆえに悪夢が始まった。
ある日の授業中、単純なことを熱弁する教師の板書を書き写していると、後ろから何か聞こえる。後ろを振り返ろうと思ったけど、席が前のほうに位置していたため、あきらめた。せめて何か判別しようと耳を澄ませると――
――それは人の鼻息だった。それも並大抵のものじゃない。何か――そう、芳香剤や香水を吟味するような、そんな感じのものだ。
あたしは授業終了と同時に後ろを振り返った。そこにいたのは男子生徒――山根君だった。彼はあたしと目が合うと、ニタッといやらしく笑った。その瞬間、あたしに寒気が走った。

「ねえ、山根君ってどんな人?」
昼食中、それとなく周りの女子生徒に訊いてみた。すると何人かは不快な顔をして、
「ああ、山根ね。あいつには関わらないほうがいいよ」
「中学の時もなんか変な人形持ってきたしね」
「今はアイドル研究会に入ってるんだっけ? ……ともかく朝倉さん。あの人には近寄らないようにしなきゃ。可愛いんだし」
「……うん」
そんなことを言われても、彼は真後ろにいるのだ。逃げられるはずが無い。

学級委員長の雑務を終え、家路につこうと校内を歩いていると、
ちょうど自分の教室に通りかかった。中に誰かいるらしく、そっと覗き見る。
橙で染まった教室の中には、山根君がいた。彼は自分の前の席の椅子、
つまりあたしの椅子に頬擦りをしていた。時折聞こえる「涼子たん……」というセリフに、あたしは血の気が引いた。あたしは気づかれない程度に、早足で帰った。
家に帰り、あたしは着替えもせずにベッドに潜り込んだ。
自分の肩を抱き、震える自分をおさえようとする。これが恐怖なのだろうか。だとすれば、これは非常に厄介なものだ。克服する術などあるのだろうか……
あたしはそのまま食事も取らないで胎児のように包まっていた。
しかし、何時間たっても眠れず、そのまま朝を迎えた。
暗殺を考えたこともあったが、それでは長門さんや統合思念体に『不良品』の烙印を押され、
処分される可能性が高いので、やめた。やっぱりまだこの世界を楽しみたい。最近はキョン君が気になってきたし。
朝歩いていると、後ろから気配を感じた。……山根君だ。
住所録を見た限り、彼はこの道を通らないはずだ。
しかもあたしの歩調に合わせて付いてくる。早歩きだとあっちも。遅く歩くとやはりあっちも減速する。またあのうすら寒い感覚が体中を駆け巡った。死ぬわけでもないのに感じるこの感情。これもまた「恐怖」なのだろうか?
HRと授業中は地獄のようだった。凄まじい鼻息。荒い呼吸。感じる視線。
その全てがあたしに恐怖を植え付ける。怖い、気持ち悪い、離れたい。そんな感情をあたしの心に叩きつけてくる。早く涼宮さんが何か劇的な行動を起こしてくれないかな。そうでもしないと、これは終わらない。
気がつけば手は震えて、授業はまるで耳に入らない。
妙な倦怠感と虚無感が支配する。もう何もかもがどうでもよく感じる。どうせなら長門さんみたいに、感情が希薄だったらよかったな……
朝は追跡され、学校では匂いを嗅がれ、こちらを凝視する。
帰り道も付けてくるようになった。そして最近では、私物がよく無くなる。おかげであまり眠れなくなった。たとえ眠れたとしても、いつも悪夢を見る。彼のにやけ顔がどこをみても目に付き、逃げても逃げても追いかけてくる、そんな夢。起きたときにはいつも涙を流している。
つらい、こわい。もういやだ……。でも自分は簡単に死ねない。どうすれば……
(…………!)
あたしは閃いた。そうだ。彼女を揺さぶればあるいは……
あたしは久しぶりに笑った。

朝、学校に登校する。見上げてみるとその校舎のくたびれ具合が何とも感慨深い。もう、お別れだと思うと、尚更だ。教室に入って、辺りを見回す。皆、さようなら。元気でね。そしてキョン君に話しかける。こんなことになるなら、もっと話せばよかったな……
机に伏している涼宮を見てから、
「涼宮さん、恋わずらいでもしてるのかしら?」
必要以上に顔を近づけてみる。このまま唇を重ね合わせたら、どんなに良いことか。彼が顔を背けたとき、机の中を盗み見る。……よかった、メモは見たみたいね。

放課後の教室で彼を待つ。来るといいな。来なかったらどうしようかな。でも彼はきっと来る。だって彼は、優しくて、誠実なのだから。
扉がガラリと開く。彼が来た。彼には死に際を看取ってもらいたかった。好きな人のそばで死ねるって、素敵なことよね。
「遅いよ」
長門さん、早く来て。じゃないと彼をとっちゃうよ?

「情報連結解除、開始」
自分の体が砂に変わる。……ありがとう、長門さん。これでやっと終わった。悪夢が、ほろ苦い現実が。
唖然としているキョン君に、一言。
「涼宮さんとお幸せに、じゃあね」
あたしは心から笑った。それが愛する人に残せた最後のコトバ。

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