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14,宇宙原産ブルーローズ


 長門のマンションには何度か行ったことが有る。管理人のおっさんとも微妙な顔見知りだったし、入り口で手間取ることは無い――そのはずだった。

 だが、実際は車から出て数歩足らずで俺の足は止まってしまっている。逸る気持ちは急制動を掛けられ、慣性の法則に従いたたらを踏んだ。

「……お前か」

 マンション前には見知った背中の持ち主が佇んでいた。と言っても管理人のあの人とは似ても似つかない美少女だ。彼女は長袖の北高セーラに身を包み、この冬空の下でありながら防寒具の類を他に一切身に付けていなかった。通りすがりの赤の他人が見たら十人中五人くらいは怪訝さに眉を顰めるであろう出で立ちなれど、俺はそこに何の感慨も抱けなかった。これは加齢を根拠とする感受性の鈍化とはまた別の話だ。

 その服装に理解が有るのは……これは残念ながらとでも言うべきなんだろうな。

 防寒具を着ていないのはソイツには真実、必要ないから。そう、気温や体温などアイツにはどうとでもなるのだ。俺たちと違って。

 この非常識さんめ。

 ああ、ちくしょう。もし何かの手違いで本物の幽霊に行き遭ったとしても、それでもここまで俺の背筋を凍らせることはきっと出来やしないんだろうよ。全身が総毛立つとはまさに今の俺の事だ。体育の授業が有ったら躊躇わず見学を申請するくらいには気分も悪い。

「そ、意外でしょ」

 超然という言葉の意味を体言する少女の立ち姿。凛と背筋の伸びた佇まいは例えるなら桔梗ってトコか。いやいや、似ても似つかないが薔薇ってのも大穴で有り得るだろう。美少女――だからこそサソリの尻尾が可愛く思えるような棘だって隠しているんだろうよ。

 艶やかな腰丈の髪やスカートは時折吹く痛烈な北風にすらなびく様子がちっとも見られない。何をどうしていやがるのか。大気なんてものは世界に無きがごとくに振る舞うソイツ。マジで情けない話だが喉がグビリと鳴るのを抑えられない。

 ――勿論、恐怖でだ。

「そうでもないな。なんとなく『来るだろうな』って予想はしてたんだ」

「それって有機生命体固有の予知能力?」

「いいや、ただの勘だ。俺を驚かせたかったってんなら、そいつは期待に添えなくて申し訳無い」

「ふうん、残念。でもまあ、いいわ」

 少女はゆっくりと、焦らすように時間を掛けて首を後方に倒し、そして車を降りた俺たちの方を見つめた。

 眼が合う。実物を見たことは無いが、にしたって蛙を睨み付ける蛇ってのはきっとあんな感じなんだろうぜ。女子中学生が抱く淡い恋心のような「もしかしたら」は当然の如く裏切られ、少女の見ているものは佐々木でも古泉でもなく――俺である。

 どうして俺なんだ、と今更言い出すほど恥知らずではないつもりだが。しかし、俺とアイツの間の関係が縁だってんなら今すぐ縁切り寺に駆け込みたいね、マジで。

「あんまり遅いから待ちくたびれちゃったの、私」

 勝ち気で明るい声は相変わらずだ。谷口曰くAAランクプラスの美少女は俺へと向けて歌うように笑う。

「遅い?」

「貴方が来るのを待っていたのよ、長門さんと一緒に」

 元クラスメイトが玄関の自動ドアに右手を翳すと、それはセキュリティにと設けられたパスワード入力も無しに開いた。ま、そんなんは大して驚くことでもないが。っていうか、これくらいで一々驚いていたらSOS団には在籍していられないしな。

「さ、いつまでもそんな所にぼーっと立ってないで入ったら? 長門さんに用が有るんでしょう?」

 そう促し、無防備にこちらへ背後を見せてマンションの中に入っていく少女。俺たちはその足取りを自然、目で追う形となった訳だが。丁度エントランスの自動ドアのレール辺りをソイツが歩き越えた時、俺の見ている前で陽炎のように少女の姿が不自然にあるいは超自然に歪んだ。今は十二月。建築物内外の気温差は確かに有ろうが、しかし光が歪むほどであってたまるか。

 はあ、少しくらいカモフラージュしてもいいだろうに。何をって? 決まってんだろ。手品の種、もしくは落とし穴だよ。

「これ、完全に罠ですよ」

 古泉が言うも、んなモンは言われんでも分かってる。あのマンションに入ったが最後、東西の物理学者が押し並(ナ)べて頭を抱える不思議空間にご招待ってんだろう。ただ、それにしたって長門の部屋に向かうにはトラップゾーンを避けちゃ通れんしな。回避出来ない罠なんてゲームだと顰蹙ものだぞ。しかも事前にバレバレなら尚更だ。

 現実はゲームと違うなんてのくらいは分かっちゃいるが。ルールの有無が両者を分かつ一線だな。高校二年生という若さで不条理と書いて人生と読み替えるほど悟りたくはないもんだ。

「キョン、古泉くんは気構えをしておけって言っているのさ」

 あのなあ佐々木、それも通訳して貰わんでも分かってるって。気構えなんてそれこそとっくのとうだ。

 お前は知らんだろうが、あの歩き去った元クラスメイトとは何かと縁が有ってな。その前に立ってリラックスしろってのが軽く無理難題になっちまうくらい、俺の中で一、二を争うトラウマメイカなんだぜ、ああ見えて。

 冗談じゃなく、死にかけたし。それも一度じゃないってんだから、ああ、我が身の不幸を嘆くしかない。

「気構えを幾ら重ねても気休めにしかならん」

 なるようにしかならんのがどうにも歯痒い。運命ってヤツも俺の意思をもう少しくらい汲んでくれても罰は当たらんと思う訳だが、それこそ世界がハルヒプロデュースで成り立っちまっている以上、高望みか。 

「用が有るのは多分、俺一人だ。古泉、分かってるとは思うが佐々木を頼む」

 立ち止まっていた一歩を踏み出す。閻魔大王の前に歩き行く心持ちであったのは否めないが、しかしここで引き返す選択肢だとか俺には持ち合わせがない。だったら進むだけだ。一寸先が闇だろうと、虎穴だろうと。

「お任せ下さい。……あなたが時間を稼いでいる間に長門さんを連れて来るつもりですが、決して無理はなさらず」

「ああ。俺だって始末書の肩代わりなんかお断りだからな」

「では、ご武運を」

 ユリウス・カエサルであれば腕を振り上げて「賽は投げられた」とでも宣言するんだろうこの場面を俺たちはこうもあっさり終わらせる。

「キョン、大丈夫なんだろうね?」

 佐々木の声が背中に降る。さてね、これからどうなるかなんて俺には皆目見当も付かんよ。だけど、

「ま、なんとかなるだろ」

 それは俺の偽らざる本心でもあったのだから始末に負えないとはこの事だぜ、ホント。

 信頼と経験と、そして男子としての強がりをスパイスにしてだらしなく開きっぱなしのマンションの自動ドアを潜る。予測して覚悟していた頭痛や吐き気はなく、しかし代わりに、

「やっぱ、こうくるよな」

 持ち上げた右足で踏みしめたのはタイルの床ではなくざらりとした砂粒だった。

 視界は……いや、世界は一変していた。見渡す限りどこまでも続く砂地。これはもう砂漠と言うべきか。正面、そこに一人の少女が佇んでいる。

 少女――朝倉涼子は俺の姿を認めると場違いなほど煌びやかに笑った。

「いらっしゃい。招待を受けてくれてとっても嬉しいわ」

「半強制で連行しといてよく言うぜ」

 本来ならばここには何の変哲も無いマンションのエントランスが広がっているはずである。しかしどう言ったらいいのか、この流れでその「何の変哲も無い」エントランスのままであったのならばきっと俺は逆に驚愕していただろう。慣らされちまってんな、とは自分でも思う。

 いつか、トンデモが当たり前と完全に入れ替わっちまったら誰が責任を取ってくれるのか。誰も取ってくれやしないだろうってのは間違いないと断言してしまえるのであるから、自分をしっかり持たないと。

「あら、その言い方は変よ。私はちゃんと『ここで帰ったら見逃してあげる』ってサインを送っていたつもりよ、こう見えて」

「ああ、そうかもな。だが、お前は俺たちが『ここで引き下がれる訳が無い』ってのにも気付いていたはずだ。違うか、朝倉?」

「どうかしら。あなたたち有機生命体が時として合理的でない判断をするのも、無謀でしかない決断を下すのも知識としては持っているけれど理解は出来ないのよね。この機会に聞いてみようかな。ねえ、あなたはどうしてそんなことをするの?」

 やれやれだ。首を左右に振るジェスチャでそれを伝えると同時に佐々木と古泉の不在を確認する。よし、周囲に二人の姿は見られない。どうやら本当に朝倉の用は俺一人に集約されているらしい。頼むぜ、古泉、佐々木。首尾良く長門をここに連れて来てくれよ。

 贅沢は言わないが、なるべく早くな。

「お前には分からないさ」

「……そっけないのね」

 どの口が言いやがる。過去、命を狙ってきたようなヤツ相手にフランクになれるのは漫画やアニメの中だけだ。現実はこんなモンさ。

「でもな、きっと長門なら分かってくれる。いや、きっとじゃない。絶対だ。アイツなら分かる。そっちに聞いてみたらどうだ?」

 朝倉の眉が俺の挑発に反応してぴくりと跳ね上がった。豊かな表情を持ち、まるで人間みたいな少女だ。対しての俺の長門は世界無表情選手権シード枠で、人間らしさがとても希薄に見えたりもする。「どちらかがアンドロイドでどちらかが人間です。さてどちらがどちらでしょう?」みたいな質問をしたら百人中九十六人までもが朝倉の方が人間だと、そう回答するだろう。

 でも、それでも百人中四人は長門を選ぶ。

 ハルヒは。古泉は。朝比奈さんは。

 そして、俺は。

「長門はお前とは違うからな」

 アイツの友達で、仲間だからだ。

「違わないわよ。長門さんは対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス。私と同じ。何を言っているの?」

 朝倉が幼い子供の間違いを正すように俺を諭す。本当に朝倉には分からないのだ。長門と自分の違い、ってヤツが。俺にも上手く言葉に出来ない。いや、言葉にしたら途端に陳腐になっちまう。

 長門には心が有る、って。

「朝倉。お前に自分の意思は有るか?」

「意思? それも理解出来ない概念ね」

「だろうな。お前は上の言う事をこなすだけだ。長門だって大体そんな感じだしさ。出会ったばっかの頃は本気でその傾向が顕著だった」

「今はそうではないとでも言いたいの?」

 今年の春には俺はもう当たりを付けていた。直接聞いた事は無いが古泉だって気付いちゃいるんだろう。長門が俺たちの前に現れた意味と、なぜ長門だったのかの答え。出会いたての折、少女は言った。ハルヒに近付いたその目的は自律進化の可能性だと。

「気付いているはずだ、お前も、『お前ら』も。違っていることには気付いていないとおかしい。ただ、何が違ってしまったのかが分からない、理解出来ないから同じだと思い込んじまってる。なあ、朝倉」

「何?」

「SF小説は好きか?」

「好きとか嫌いとか、そんなものが有ると思うの? 優先順位で言えば、」

 ああ、もういい。その口振りで大体は分かった。

 そして、ここまでのやり取りでおおよそは掴めたし。

「だったら今度、長門におすすめを何冊か貸して貰うといい。俺の予想が確かなら、それがお前らが必死になって探し回ってる自律進化の可能性とやらだ」

 思いっきりベタな代物を銀河規模で要求する宇宙人どもだとほとほと呆れ返る。長門が無口キャラの文芸部員だってのはハルヒの望んだ通りの設定な訳だが、しかしそれは果たして予定調和だったりするのだろう。閉塞する未来を打ち砕くには読書狂の宇宙人が必要だったんだ。ま、これは今になって思う結果論だが。

「……ねえ、もしかして馬鹿にしてる?」

「少しな。なんでそんなに賢いのに、こんな簡単なことに気付けないんだとは思ってる。そう怒るなよ。いや、怒れないんだったか、お前は。感情とか無いんだもんな」

 俺の言葉に朝倉は「一切の表情を消し」て「微笑ん」だ。その無表情は長門のようでもあり、長門とは似ても似つかないとも感じる。俺は知っている。朝倉の顔には能動的なあの二ミリが決定的に足りないんだ。作り物じゃない、あの奇跡の二ミリメートルが。

「長門は変わったぞ」

 朝倉の視線が突き刺さるも何度だって言ってやる。いつの間にか俺は時間稼ぎが目的の問答だってのをすっかり忘れてしまっていた。友達を誇るってのはそんだけ気持ちがいいものなんだろう。

「アイツは自分から未来を見るインチキを放棄した。それが決定的で確定的な全てだ、朝倉」

「インチキ? ああ、それって異時間同位体との同期のことよね、きっと。確かに私にはまるで分からないわ。長門さんの行動はエラーとしか考えられない。どうして自分の機能に自分で制限を掛けるのかしら、彼女」

 俺に向けてか長門に向けてか。違うな。多分、自分自身に向けて。そう質問する朝倉ももしかしたら変わり始めているのかも知れなかった。が、俺にはそんな朝倉になんと言って感情の理解を促せられるのか分からない。そういうのは俺の分野じゃないんだ。ま、言っても俺に分野も専門も有りはしないが。

 ただの高校生にそんなモノを求める方が間違ってるさ。そうだろ?

「詳しいことは俺も分からんから、なんとなくこうなんじゃないかって予想で話すが」

 そう、例えるなら、

「長門にとってその『同期』とやらは羽みたいなモンなんだろうさ」

 似合わない事を言ってんなあ、と思う。いわゆる「キャラじゃない」ってヤツだが、キャラ作りなんて特別意識した事も無いからどうでもいいか。

「羽? それって空を飛ぶための?」

「ああ。俺たちには当ったり前だが、んなモンはない。空なんか飛べない。でも、お前らは持っていた。空を飛べるんなら俺たちとは生きていく場所が違って当然だ」

 雲の上か、天空の城か。重力に縛られないなら、こんなせまっくるしい地上を寝床に選ぶ方が馬鹿だ。

 どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。

 でも俺はそんな馬鹿が巻き起こす馬鹿騒ぎってのだってたまになら嫌いじゃない。そもそもハルヒの周囲に居るって時点で筋金入りの馬鹿なんだ。俺も、そしてそれは長門も。

 あの瞳に満載された液体ヘリウムは今にも溢れ返りそうな好奇心を必死にひた隠すための冷却材であるのかも、なんて俺はたまに思う訳だ。

「そうだな、俺も悪いんだろうよ。深く考えずに長門と友達になっちまったこと」

「長門さんはあなたたち地球人類と並列になろうとしたって言いたいの? そんなの有り得ないわ」

 有り得ないの根拠はなんだ、朝倉?

「有機生命体のような自己連続性に立脚しない不安定な意志決定機能を私たちは持っていないの。個体の区別は付けても一時的ですら差別はしないわよ」

 そんな、辞書引いて目に付いた単語を適当に配置したような台詞を吐かれてもな。友情や感情なんて理解出来ないなどと俺なりに出来る限り頑張って意訳してみたが、もし間違っていてもクレームの報告先は俺じゃないだろ、コレ。

「友達になったと思っているのは俺だけだ、ってか」

「長門さんにとっての貴方の価値は最初から不変のはずよ。涼宮さんに最も近しい特別な背景を持たない地球人類、それが貴方の全て」

 宇宙製デジタルアンドロイドの少女は言う。でも、本当にそうか?

 いやいや、俺が普通普遍の一般人ってトコに異論は無い。そうじゃなくて。

 長門が他者をどう思っているか、なんてそんなの本当のところは長門にしか分からんが。けれど誰もを特別に思わないなんて、平等に無関心だなんて。

 それは無理が有るだろ、朝倉よ。

「涼宮ハルヒが文芸部室にてSOS団なる珍妙なクラブ活動を発足した時、俺はその目的を問うたんだけどな」

「何の話?」

 朝倉が首を捻る。いいから聞けって。

「そん時、あの馬鹿は俺にこう返した。『宇宙人、未来人、超能力者を探し出して一緒に遊ぶ』のだ、とな。それがハルヒの願いだ。アイツの願いは」

 涼宮ハルヒの願望は、

「それが本心である限り現実になる」

 宇宙人だから友情を持てない? 人と仲良くなれない? うるせえ。んな訳有るか。

 ハルヒが一緒に遊びたいと願ったんだ。片方だけが楽しいんじゃ、それは遊ぶとは言わない。少なくとも俺の知っている日本語ではそうはなってない。実は常識人な一面も持ち合わせているらしいハルヒもそこのとこは間違えないようになった。

 だったら長門は俺たちと楽しく、そして仲良く遊べるはずなんだ。それを願うあの馬鹿が居るんだから。

 俺たちが心から仲良くなれないようなら、そんな世界は嘘っぱちだ。

「長門が同期を絶ったのは――羽を切ったのは俺たち対等になりたかったとか、地球人と同じになりたかったとか、そういう立場とか打算とかじゃないだろ、きっと」

 喋りながらまるで絵本でも読み聞かせているような心持ちに陥りかけたのは、目の前に居る朝倉が少しだけ、気の迷いってくらいに二ミリメートル程度、出会ったばかりの頃の長門とダブって見えたからだった。

「未来は分からないからこそ面白い。そんなハルヒズムに悪影響を受けたんじゃねーのか、長門も」

 良くも悪くも影響力の強い女。まるで恒星のように周りを有無を言わさぬ引力で巻き込んで、あっという間に銀河系を作り上げちまったとは俺の印象。

 それが俺たちの戴く団長サマである。

「……やっぱり、貴方はそう考えるのね」

 そう言った宇宙人の瞳が俺を真っ直ぐに貫き、背骨を生理的嫌悪感が上から下までバケツリレーのように這い回る。コイツに対する態度で何かを決定的に間違ったと、経験によって培われた俺の常人離れした第六感が狂ったんじゃないかって具合に警鐘を打ち鳴らす。

「それって」

 なんだ、俺は何を言った? 何をしくじった? コイツら宇宙人が求めている最終目的に関する重大なヒントを教えてやったってのに、いわば恩人の俺に対してどうして朝倉は明確な敵意を向けている?

「つまり、もう貴方は用無しってコトじゃない?」

 その台詞が合図のように朝倉の姿は消えた。一瞬、このよく分からない空間に一人で置いていかれたのかと焦ったが、それ以上に俺を焦燥に駆り立てる状況に陥っていると気付いた時にはもう、身動き一つ出来なくなっていた。

 喉仏が上下に動くそれだけで冷たい金属質の何かが俺に接触する。これが正しく紙一重。いつかのトラウマが色鮮やかに甦った。

「あさ……くらっ……?」

「本当は気付いていたのよ、長門さんの変化に。それでも私が貴方の前で何も知らない振りをした理由、分かる?」

 失念していた。いや、あの春の出来事はジェットコースタ過ぎて正直仔細を覚えていないというのも有った。それでも……なんなんだ、さっきから付き纏うこの違和感は。

 朝倉が持つサバイバルナイフの切っ先は正確に俺の喉を狙っている。これではまともに会話も出来やしない。説得なんて以ての外だ。無理に喉を動かせば刃が皮膚を切り裂くのは想像に容易く、そしてそれは場所が場所だけに致命傷にも成り得るかも知れず。

 緊張に唾を飲み込む事すら俺には許されちゃいなかった。

 俺の肩口を越えてすらりと長く地面に対して平行に伸びた腕は北高セーラの長袖に覆われている。その手には逆手にサバイバルナイフが握られ、ミリ単位の前進すら俺に許さない。動けば殺すと、この状況下でそれを理解出来ない馬鹿はそうはいまい。

 背後から靡く甘ったるい花の香りだけが、見事に空気を読んでいないのが殊更に今の非常識を演出していた。

 朝倉は言う。

「貴方が長門さんをどう評価しているか、正しく評価出来ているかが知りたかったのよ。私と長門さんは鏡。表裏でしかないって、ねえ、前にこれ言わなかったかしら?」

 イエスもノーも告げられやしないこんな状況で質問されても実際問題どうリアクションを取ればいいんだ、俺は。なんかホラー映画で殺人鬼がこれから犠牲者にならんとする相手に対して意味の分からん事を口走って一人で納得するシーンに通ずるものをさっきからひしひしと感じているのだが。

 冷や汗が流れ落ちるのと汗が一気に引くのはどちらが正しいのかと言えば、俺の場合はどうやら後者であったらしい。

「長門さんは変わったわ。それは涼宮さんのせいでもあるし、貴方たちのせいでもある」

 耳元に息が掛かる。

「さっき言ったわね、自己連続性に立脚しない不安定な意志決定機能。私たちが本来持たないそのプログラムが、けれど彼女の中には確かに存在している。とても非合理的なものよ」

 朝倉は……何を言っている。何をしている? 客観的に見れば俺の喉元にナイフを突き付けて意味不明な事を口走っているとなるが、しかしだ。

「無害なら私だって放っておくけれど、残念ながらそう言える類ではないみたい。扱いを誤れば私たちの存在を根底ごと引っ繰り返せるんじゃないかとも思っている」

 ちょっと待て。この状況、とても非合理的じゃないか?

 だって、そうだろ。殺すつもりならば問答も会話も一切合切必要が無い。蛇の生殺しみたいな悪趣味は止めてさっさとやればいいし、そもそも何の力も持たない俺くらい楽にどうとでも出来るだけの力を朝倉は持っている。勿論、サクッと殺されては俺の方は堪ったものではないが、とりあえずそこは置いておいて。

 一度、朝倉は俺の殺害を試みて失敗しているのだ。あの時だって勿体付けずに実力行使していれば長門が間に合うことも無かった。あそこでゲームオーバーすらマジで有り得た話。だったらそれを反省して余計なお喋りを止め、即実行に移すべきではないか。

 俺がもし朝倉で、俺の殺害を本気で考えているのならまずそうする。

「エラー、もしくはバグ。ウイルス。システムノイズ。呼び方はどれでもいいわ。私たちは定期的にそういったものを検知して弾いているの。免疫機能と似たようなものよ。でも、長門さんからエラーは一向に消えない。それって、彼女がエラーの存在を自発的に肯定していないと辻褄が合わないのよね」

 なぜ俺を殺さずに電波な話を聞かせ続けるのか。それを強要するのか。まるで強権的な教師が睨みを利かせつつ授業をするような。精神的脅迫によって生徒に勉学を強制しているのと、この状況は果たして何が違う?

 何も違わない。だとしたら朝倉の目的は俺を殺すことではない?

「覚えているかしら、昨年の丁度今頃。長門さんが大規模な世界改変を行ったでしょう? 今の長門さんもあの時と同じくらい、いいえ、それ以上のエラーデータを蓄積させているの。いつ、何を起こしてもちっともおかしくないわ。そして再度長門さんが機能不全を引き起こせば、今度こそ」

 勝算は有るが、それにしたって賭けだった。朝倉が千両役者である可能性に俺は手持ちの全て――正しく文字通りの全てをベットし、少女の台詞の続きを阻むタイミングで行動に出た。

 目を閉じて、口を横一文字に引き絞り、奥歯を噛み締めて、震える足を叱咤して。

 俺は多少前のめりになりながらも一歩を踏み出した。それが意味する所は分かって貰えると思う。そう、俺の喉は朝倉が握り締めているサバイバルナイフによってスプラッタ映像よろしく貫かれる、そのはずだった。

 身体のどこにも痛みは無い。

 下ろした足の裏には砂よりももっと頼り甲斐の有る感触。コツンと、その音が水面に落とした雫のごとくやけに耳の奥で反響した。

「……貴方の評価を改めるわ。割と思い切りが良いのね」

 目を開くとそこは砂漠からマンションのエントランスに様変わりしていた。相変わらず人間離れした早業である。声のした方を振り返ると朝倉が微笑んでいた。その手に刃物が握られていない事を確認して俺はようやく溜息を許された気分になれた。

「お前が何をしようとしてんのかがなんとなく理解出来てな。少なくとも、お前は俺に死なれちゃ困る側のヤツなんじゃねーかと」

「あら、そんな事は無いわ」

 まるで学校に居た時と変わらぬ表情でもって――ったく、物騒な事を満面の笑みで言うんじゃないっつの。

「貴方を殺す事も選択肢の一つとしては十分に有り得るのよ。ただ、可能性を危険性が僅かに上回っているから貴方は生かされているだけなの。スリルの有る人生で良かったわね。日々、何の変化も無い私からすればとても羨ましいわ」

 俺はそんなものを一度として注文した覚えはないのだが。

「なら、替わるか?」

「もう、意地悪」

 何も知らない男子が見たら思わず恋に落ちて、その足で花屋に駆け込みそうな笑顔だった。谷口のヤツがころっと騙されるのにも頷ける。これは男子ならば皆平等に防御力無視の補正が掛かっちまうだろうさ。

 挙句にクリティカルヒットの表示まで大盤振る舞いされそうだ。ま、俺は耐性が有るけどな。

 どんなに可愛かろうが核弾頭に恋なんか出来るか。

「そんなの出来ないって、分かってるでしょ」

 フグを比喩にしてはシンパに怒られそうに愛らしく頬を膨らませた朝倉涼子は、しかしその見てくれに騙されてはならない。彼女はシマリスではなくアンドロイドである。どっちかってーと青いタヌキの親戚だ。

「貴方にしろ、私にしろ。本当は替われたらいいんだけどね。そうしたらもっとシンプルに済むから」

「俺よりもよっぽど回転数の高い情報処理機関をお持ちのくせに、シンプルとはよく言ったモンだ。もしかして宇宙人流の冗談だったりするのか、それ」

「かもね」

 朝倉涼子はそれだけ言って、元クラスメイトとしての側面を涼やかで明るい声音からすうっと消した。

「私が今日、ここに出て来た理由を貴方はどう推理したのか、聞かせてもらってもいい?」

 宇宙人としての朝倉はどうやら答え合わせをご希望らしい。別に構わんぞ。ただし、採点は甘めで頼む。

「そっちじゃなくて、俺は殺されないと判断した根拠でもいいか」

「ええ」

「だったら、そうだな……」

 エントランスに立ちっ放しで足が疲れた。際まで歩いていって白壁に背中から寄り掛かる。これで人差し指でも額に持って行けばそれで名探偵のポーズが完成するはずだが、多分俺がやっても格好が付いたりはしないので止めておくとしよう。

 そういうのは古泉だけで十分だ。

「覚えているか。お前は一度俺を殺そうとしたよな」

 実際は二度。いや、春の九曜絡みの件をカウントすれば三度である。が、初犯以外は諸々の事情からノーカウントとしておいた。

「忘れてないわよ。っていうか、私は基本的に物事を忘れられないの」

「その内に頭の中がパンクしちまいそうだな、それは」

 女性らしい小さな頭蓋の中にぶち込まれた記憶の情報量はきっと国会図書館辺りと比しても遜色無いのだろうと俺は考えるが、物理的な限界だとかそういった常識をどこまで小馬鹿にしたら気が済むんだろうな、宇宙人連中は。

 物理学者がコイツらの存在を知ったら世を儚んだ末の辞世の句が科学雑誌狭しと並ぶだろうよ。考古学者がオーパーツの不思議に頭を捻る、その何十倍の衝撃が世界に走るのか俺には皆目検討も付かんね。

 きっとアインシュタイン先生も草葉の陰で爆笑だぜ。

「貴方たちの技術レベルで話されてもね」

「そうかい。で、話を戻すが、一度失敗してんのに同じ過ちを犯すのはオカしいんじゃないかと、これが俺が最初に感じた引っ掛かりだ」

「同じ過ち? いいえ、今回は情報封鎖も空間製作も抜かりは無いのだけれど。例え長門さんでもそう簡単には入って来れないはずよ」

 そう言われてもなあ。宇宙的不可思議結界の出来不出来が俺に分かって堪るかって話で。つーか、地球人に分かるヤツが一人でも居るのだろうか?

「そんなモンは知らん。俺が言ってるのはお前が俺と長々お喋りしてた点だよ。時間を掛ければ助けが来る確率も上がる。それくらいは一年前の春で学習してんだろ」

「うっかり忘れちゃってたかも」

 過去を忘れたりしないってついさっき、どの口が言っていやがったかは都合良く忘れているらしいな。ええい、小首を傾げようが騙されないから下手な小芝居は止めろ。あんまり面倒臭いとお前を無視して勝手に長門のトコまで行っちまうぞ。

「一回それで失敗しているにも関わらず今日再び会話に興じたのはなぜか――単純だ、お前は助けが来ても別に構わないと思っていた。違うか?」

 佐々木に降霊していたホームズ先生が今度は俺にも降りてきたんじゃなかろうかってほど、すらすらと舌は動いた。ちなみにどうでもいい話でかつ当たり前の話だが、シャーロック・ホームズは実在する人物ではない。つまり非実在霊である。そういや、幽霊はまだSOS団に入ってないな。ハルヒならそっち方面も好みそうでは有るのだが。

 朝倉は指先を拍でも取るように空中で揺らしながら、

「もしも助けが来ないって最初から分かっていたとしたら?」

 と、言った。

「またお得意の異時間なんたらの同期ってヤツか」

 俺の推理に溜息を吐く朝倉。妙に人間っぽい仕草だが、そこに「芸が細かいな」以外の感想を抱けなかったのはなぜか。単純だ。少女がどういった存在なのかを俺は中途半端に理解しているからだろう。朝倉が何をしていても笑っていても、俺にはそれがどこか奇異に見えていた。

 ま、殺意だけはトラウマによる攻撃力アップの効果で本気本物としか思えない訳だが。

「同期? 違うわよ。そんな事するまでもないわ。ねえ、長門さんが軟禁されているって知っていてここに来たんじゃないの、貴方。だったら長門さんが助けに来るはずないじゃない」

 …………あ。

 あー……そりゃ、そうか。そうだよな。いや、でもほら、古泉と佐々木ならなんとかかんとか長門を呼んで来てくれるんじゃないかとも思ったんだ。言葉にするのも面映いが、こう見えて友達は信頼する方なんだよ。

「ああ、あの二人なら」

「まさか、古泉と佐々木に何かしたのか!?」

「そんな怖い顔しないで。あの二人はずっとあそこよ」

 朝倉がすっと白く細い指を動かす。その先にはエレベータが……おや? なんかオカしいぞ、主にフロア表示の辺りが。十秒、二十秒、一分が過ぎても電光掲示板はアラビア数字の三と矢印を交互に流すばかりだ。

「貴方も時間凍結くらい経験が有るでしょう?」

 少女は不敵に笑う。なるほど、さっきからエレベータが三階を動いていないのは朝倉の仕業か。時間凍結って事は古泉と佐々木には多分、自分達が足止めを食っている実感も有りはしないだろう。この間に俺が階段で追い抜いて先回りしていたら、アイツら的にはちょっとしたホラーにもなる訳だ。

「友達を信頼するのはいいけれど、少し私を見くびり過ぎね」

「……みたいだな。俺に助けが来ないのをお前は最初から知っていた――ってのは十分理解出来たよ。ま、アイツらに直接の危害を加えちゃいないんなら、それでいいさ」

 慣れない事はするモンじゃないな。やはり俺に名探偵役は向いていないらしい。やれやれ。この件に関しちゃ自分の浅い考えを戒める事こそ有れ、古泉と佐々木には何の非も無い訳で。

「そう溜息を吐かないでよ。きっと半分は合っているから」

「半分?」

「あら、気付いていたんじゃないの。貴方の殺害はフェイク。なら、本来の私の目的も有るはずって。だからあの一歩を踏み出せたのでしょう?」

 ああ、それか。そんなん簡単だ。

「簡単……ね。言うじゃない」

 そう睨むな。本気じゃないと分かっちゃいるが、それでもお前の視線は二重の意味で痛いんだ。

「俺を殺すんじゃないなら、会話の方に目的が有ったんだろう。だが、すまんな朝倉。あのやり取りで結局何を言いたいのか、俺には正直よく分からなかった」

「ふうん」

 朝倉が急速に俺から興味を失ったのはその濁らせた眼で分かった。

 そして――そして、それがコイツの演技だというのも「手に取るように」分かったのは、その眼の奥に、濁った中にも隠し切れない光を見たからだ。

 俺はこの眼を知っている。幾度と無く見てきたこの眼の意味を俺は、知っている。

 期待。好奇心。希望。それは誰でもない、俺に対して。朝倉の話は俺にはほとんど理解出来なかった。それをはっきりと告げて尚、果たしてこの俺に何を期待するのか。ホームズ先生には逆立ちしたってなれない俺は、俺にも分かる事を口にするしかない。

「だから、会話に目的が有ったのならお前は失敗しているんだ。だが、お前は失敗している風にも見えない。ならば会話にも目的は無かったのか? ……ああ、そうだ。殺意もフェイクなら会話もフェイク」

 では先の一件で俺の身に何が残ったのか。眼を逸らさずに少女を見つめる。続ける俺の言葉に朝倉の頬がほんの一、二ミリ震えたように見えた。能動的に。奇跡のように。

「お前の本当の目的は――俺に危機感を植え付ける事だろう。違うか?」  

 つまり、コイツは自分から憎まれ役を買い、そして昨今平和ボケしている俺の目を覚まさせようとしたんじゃないか、などと。

 ああ多分、これが一番朝倉の好みそうな「合理的」な回答だ。

 俺の直視に晒された少女はそれが作り物で有るという事実を嘲笑うように、悪いものでも食ったんじゃないかと俺が半ば本気で心配するくらいに、太陽が昇りアサガオが花綻ばすように、もしやコイツすらも一切の例外無くハルヒズムに感染したんじゃないかって具合に、そして――そして、

 「それでもコイツは宇宙人なんだ」なんて周りに吹聴したところで笑い話にさえ取っては貰えない、そんな表情で、

「上出来よ」

 と言ったのだった。
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