1,オープニング

 最近、うちの妹は天気予報のお姉さんにテレビ画面越しに話しかけている。内容は一つ覚えの繰り返しで、つまり、いつになったら雪が降るのか教えて下さい、と要約したら非常に微笑ましい内容なのではあるが、さりとて兄としては何をしてやる事も出来ん。

 大人しく待っていれば後一月もすれば降るんじゃないか、って無根拠で希望的な観測をリップサービスしてやるくらいだ。

 まあ、そうは言っても初雪に関して一つだけでは有るが心当たりは無くもない。こんなことを言ってしまえる自分がそら恐ろしくも有り、またうら悲しい。いつから高校生は気象を操る術にまで手が届くようになってしまったのか。驚天動地だ。空前絶後だ。

 あ、ここは笑うところで間違いないぞ。

 しかしだ。まさか初雪にはしゃぐ妹見たさに後数百年の生態系に傷跡を残すほど馬鹿でも甘やかしでも俺はない。代わりって訳じゃないが家を出る前にてるてる坊主の逆さ磔刑における様式を妹には伝授しておいた。今頃、リビングは串刺公ヴラド三世がスタンディングオベーションで拍手を打ち鳴らすような地獄絵図と化しているであろう。

 さて、少女が雪に夢見る寒い日に街中を男と二人で歩きながら思いを馳せるのは世界の果て、地球儀をぐるり半周させた真裏の島国でもってすらその名が知れ渡っている赤服爺さんってのはそりゃ一体どんな気分なんだろうね、ってな心底どうでもいい事だ。

 人はこんな思考を往々にして現実逃避と呼ぶらしいが俺はまさに今、その真っ最中だった。ああ、自分で分かっているとも。だから、ほっといてくれ。

 目にも心にも毒極まりない赤と緑のコーディネイト。どいつもこいつも柊や鈴で飾り付けて、日ごろ声高に叫んでる個性とやらは一体どこへ行っちまったってんだ? すっかり埋没しやがって。

「ああ、商店街はもうすっかりクリスマス一色ですね」

 隣の優男が二酸化炭素とも霊魂とも判別付かぬ白い気体を吐き出しながら見たままズバリを言葉にする。ええい、超能力者よ、もう少し捻った事は言えないのか。

「なあ、古泉よ」

「なんでしょうか?」

「絶望的な彼我戦力差を俺に再確認させる以外の台詞はお前の口からは出てこないのか?」

「彼我戦力差、と申されますと?」

 古泉が心底意味が分からないと不思議そうな顔をする。ええい、顔の良いヤツはこれだから気に入らないんだ。

 持てる者に持たざる者の気持ちなど所詮は分からないのだろう。しかし、このサンタスティックな光景を見て心躍る男子高校生はむしろ少数派ではなかろうかなどと勝手に推測する俺である。

 そう言えば谷口も国木田も、俺の周りはまだまだ独り者ばかりだったか。あいつらを仲間外れにしない為にも俺ばかりが先んじて恋人を作るわけにはいかんのだ、きっと。

 ああ、友情とはかくもうつくしきかな。

「塩を青菜か傷口かは知らんが、その類に擦り込む結果にしかならないと十分に予測され得る未来を回避する為に精一杯尽力しようぜ、お互い。と、こう言っているようには聞こえなかったか?」

「今日の貴方は要領を得ませんね。いえ、失礼。僕の読解力が足りていないだけでしょう」

「あー、つまりな」

 口に出すことすら憚られる単語と言うのは実在するのである、悲しいことに。

「サンタ」

 ほらな。ええい、苦々しい。

「はあ」

「クリスマス」

 くそっ、忌々しい。

「ええ」

「こういった話題は止めておこうと俺は提案しているんだ」

「……なるほど、ようやく得心いきました」

 言いながらも笑顔を絶やさぬ古泉は、これがつまりコイツと俺の違いなのだとよく分かる余裕っぷりであり。ああ、本当にこの世には二種類の人間しかいないのだ。男と女。モテる者にモテざる者。俺の苦悩なんて のは、しかしどれだけ言葉にしても決して伝わらないものの一つであったりするのかも分からない。ウィー、ウィッシュ、ア、メリークリスマス。願うのなんざ一つしかない。すなわち、この天下万民の財布の紐を緩ませんと企てる国家規模のイベントが粛々と俺の頭上を過ぎ去ってくれることだ。

 彼女が欲しい云々は願い事の余裕が有ったら改めてそこに捻じ込むとしようじゃないか。何事も先ずは日々の安定から始まるものだしな。基盤が無ければ恋愛なんて成り立たんとはよく聞く話さ。そこに古今の悲恋を持ち出すまでも無い。世間に負けたんじゃなくて、九割方が計画性の無さによる自滅。それくらいは恋愛経験皆無の俺にだって分かる。

「……粛々、とはすこし難しい相談かも知れません」

「はあ。だよな、分かってるさ」

 悲しいかなと言うべきか、斜に構える権利がこの俺に残されているのかどうかからすらもまず怪しいが、「平穏無事」なるものがこの俺に与えられる事は最早有りはしないのである。

 一年前の話になる。正直思い出したくもない記憶で、決して忘れてはならない異世界旅行の記憶。

 あの時、どっかの愚か者は自分から「平穏」を投げ捨てやがったんだ。替えは利かないと知りながら。取り返しは付かないと知ってまで。

 まったく、馬鹿なヤツだとほとほと呆れ返る。

 ああ、未来は白紙だと信じていた頃の俺よ、さらば。そしてウェルカム、魔法のスケジュール帳。

 持ち主の意思になど構う事無く予定が自動かつ強制で書き込まれていく優れもの……もとい、困りものだ。

「ご心配なさらずとも」

 ご当地超能力少年は厭味が無さ過ぎて逆に癇に障るという器用な微笑を頬に浮かべ、

「クリスマスはきっと楽しくなりますよ。そうしたいと考えてくれている人が僕たちを仲間外れにしてくれない限りは……ねえ?」

 と言った。

 全くの同意見ではあるが、俺の心配の中心も「そこ」だってのは決して忘れてはならない現実である。

「楽しくはなるだろうよ。だが、皆まで言わんでも分かってるだろ? その手法を問題視してるんだ、俺は。去年みたいにトナカイのコスプレして不特定多数のお子様の前で桃太郎演じるような真似は二度としたくない」

「ははっ。まったくもって、あれは斬新な劇でした」

 笑い事じゃない、ちっとも笑えないぞ、古泉。

「ただ待っているだけでプレゼントを貰えると思っているのなら大間違いだ、までは僕にも彼女の思考トレースが出来たのですけれど」

 まあ、子供が自分の正当性(今年も一年いい子でした、ってアレだ)を主張するのにサンタと大立ち回りを演じるなんて展開はお釈迦様でさえ思い至らんだろうよ。

 子供と殴り合う深夜徘徊老人、拳で語り合って友情が目覚めた挙句のプレゼント贈呈とかアイツの頭の中はどうなっていやがるのか。一度脳外科に行ってCTスキャンを取ってくるべきだと俺は割と本気で心配だ。

「……アイツはアホだからな」

 やれやれと一つ溜息を吐く。隣を歩く少年はただ笑っていた。――だ、か、ら、笑い事じゃないんだよ、古泉? その辺、本当に分かってんのか?

「今年はもう少しまともでスマートなイベントを願わずにはいられないぜ。ウィー、ウィッシュ、ア、メリークリスマス。ああ、マジで。願うくらいは存分にさせて貰わんとこっちの身が保たん」

 出来れば願う以上もさせて貰いたいところだが。そんなんが高望みになっちまってるのが現実だ。

 俺に思想の自由は有れど言論と集会の自由は取り上げられちまっている。なんとまあ横暴な神も居たもんだと思うぜ、いやホント。

 溜息を吐きながら周りを見回せば、アーケード下の商店街はカップルもしくは元カップル率が八割越えの致死量だ。いや、根拠も何も無く、なぜだかそんな気がするだけなんだが。これが噂の「サンタ・クローズド・サークル」ってヤツか。略してSCS。なんだか殴り書きしたら救難信号になっちまいそうだな。

 とは言え、親近感はまるで持てそうにもない。

「涼宮さんが今年はどんな事を企画されていらっしゃるのか、勿論僕には見当も付きませんが」

 アイツが何を考えているのか推測するとか、ホームズ先生と金田一先生のドリームタッグですら厳しそうだ。

「ごもっともで。しかし、断言出来る事も一つだけ有ります」

「ほう、言ってみろ」

「今回も僕たちは退屈とは無縁であるだろう、と」

 古泉は人差し指を自分の右眼の前にピンと立てた。

「まあ、僕の超能力なんてこんなものでして」

 少年の口にした言葉を咀嚼して。出て来る台詞はいつも通りの定型句。俺はとことん進歩がない。一年前からお決まりだ。

「……やれやれ」

 もしもこの世界がテレビドラマなら、オープニングを入れるのは多分このタイミングだろう。

 

2,嵐の前

「すう……すう……」

 今年も残すところ後わずかとなった十二月上旬、授業は二学期間にせめてここまではやっておかなければならないという(生徒に無断で)各教員が自らに課した目標へとラストスパートを駆け、急加速に振り落とされんようにせめてノートだけでもと考える俺は窓際という極寒のシベリア流刑にあってすら怠惰を許されてはいなかった。

 内容も分からぬままにせっせと黒板を写す作業に励むとはなんと涙ぐましい努力かと自分で自分を褒めるのすら吝かではないが、それが成績へと跳ね返ってくる気配が一向に見えないのはこれは果たしてどういうことか。

  関係各庁の主だったものを集めての緊急閣議が近々必要となりそうだ。

「すう……す、んがっ……くう……」

 有り体に、そして身も蓋も無く言ってしまえば俺は少しばかり、自分自身でも知覚できるかどうかってほんのわずか、わずかだぞ、焦りを覚え始めていた。

 理由なんてものは分からない。高校生活がいつの間にやら折り返し地点を過ぎていたからなのか、本番となるラスト一年が眼と鼻の先にまで迫っているせいという線も十分に有り得る話だ。

 いやいや、教師連中が何かにつけて口にしていた「高二が勝負」ってヤツが丹念に重ねたレバーブローの如く今更になってじわじわと、しかし確実に着実に効いてきたってのも考えられる。

「ん……んんぅ……くう……すう……」

 でもって、そんな危機感を抱き始めているのはどうやら俺ばかりでも無いらしい。雰囲気なんて言葉で誤魔化すのも躊躇われる程度には、気付けばクラスメイト達の眼の色も徐々にだが本気の色へとグラデーションを始めている。

 そういうのが徐々に俺を急かし、焦らせ、そしてそんな急いて焦った俺の影響で誰かも急かされるって負のスパイラルがクラス全体に根を張っているのが眼に見えるようだ。

 ……しかし、何事にも例外ってのは存在する。

 言うまでもないとは思うし、聞くまでもないとも思うわけだが、さりとて一応名前くらいは出してやらねばなるまい。ソイツもクラスの一員には変わりないからな。

「……くう……くう…………うぅん……」

 受験生という身分に目覚めつつあるクラスメイトも我関せず、穏やかなる寝息を立て続けるのは後ろに陣取るあの女。

 そう、我らが主人公、涼宮ハルヒその人であらせられる。

 豪胆という言葉がそのまま人となったようだとは古泉の評価で、対して傲慢の間違いだろと、こっちは俺の評価。ま、どっちでもいいが。

 にしてもよく寝てやがる。ああ、呪いたくなるほどの爆睡ぶりじゃねえの。ったく。比喩じゃなく命に関わりかねない低温だってのによく眠れるよ、コイツ。首だけで振り返って様子を伺って……、

 ……あれ?

 ……ハルヒの唇、うっすら青くなってない?

「さむ……きょ…………さむい……」

 この馬鹿! マジで教室で凍えてる馬鹿が有るかよ!? 真冬の窓際舐めんな!

(おい、ハルヒ! 起きろ! 寝たら死ぬぞ!!)

 小声で呼び掛けるも変化無し。いや、むしろハルヒの様子は悪化の一途を辿り、俺の見ている前で少しづつその身体が震え出した。

 俺の方へと投げ出された細い指先に触れてみるとその余りの冷たさに驚いてしまう。それくらいにその身体は温度を失っていた。

 ……見過ごしたら自殺幇助になりそうなレベルである。これ、起こすだけで本当に大丈夫なのか?

 俺は咄嗟に時計を見る。幸いにも残り十分足らずを耐え切れば放課後だ。そうなれば朝比奈さんのあつーいお茶も、部室には電気屋から接収した電気ストーブだって有る。蘇生にはこれ以上なく十分な組み合わせだ。

 ならば、それまでにこれ以上ハルヒの体温を下げない事が目下、俺に与えられた急務。世話を焼かせやがる団長様だ、全く。

 別に授業を真面目に受けろと言う気は無いが、(どの口が言うのかと詰られるのは眼に見えているしな)それにしたって自分の命くらいしっかり守って欲しい。

 基本は「いのちだいじに」だと思うんだ、何事も。

 ……しっかし、どうするかな、コレ。とりあえず俺の唯一の暖である携帯カイロをハルヒの手に持たせはしたが、それくらいで冷え切った体がなんとかなるはずもなく。

 熟慮の結果――ま、実際に悩んだのは三十秒足らずだが――俺は手近に有った布をハルヒの上に被せる事で事態の抜本的解決策とした。

 元々膝掛けとして利用していたものだったので冷たいという事もないし、俺の体温が不快だともし言われてしまえばそれまでだが、にしたって雪山遭難中に見つけた穴蔵に文句を言うほど涼宮ハルヒも捻くれてはいまい。

 特に冷えていた指先から肩口の辺り、机に放り出している部分へとそれを掛けてやるとハルヒはまるで待っていたかのように頭から布の中へと逃げ込んだ。

「……どんだけ寒かったんだよ、お前」

 眠り続ける少女に向けてそうボヤき、そしてまた仕方が無いかとも思った。

 なにせこの寒さだ。雪が降ってこないのも不思議なくらいで、俺だって早く朝比奈さんの淹れてくれたあっつーいお茶が飲みたい。

 さっさと終われよ、授業。本当に。

 そんな訳で授業の残り時間、俺は膝掛けを失って急速に冷え込んだ太ももを擦り合わせ、呪詛を呟きながら必死に指先の運動をして過ごした。

 ハルヒならどうにかすれば地球の地軸をまっすぐに出来るんじゃないだろうか、なんて馬鹿な事を考えながら眺める黒板は般若心経と似たり寄ったりで、ならノートを取る行為は写経と大差ないね。

 ご利益を願おうにも時期が悪い。街にはクリスマスが幅を利かせているのだから。なら、ハルヒ大明神にでも頼んでみるか? いやいや、冗談。

 冬の教室で凍死しかかってる神様なんて、そんなの心底笑えないぜ。

 授業が終わり、ホームルームで担任が口にしたのは三年生に気を使うように。受験でピリピリしてる時期だってのはよく分かる。

 だが、気を使うも何も俺が接する数少ない上級生であらせられる所の朝比奈さんと言えば年が明けてもこっちに居るかどうかすら俺には分からないしな。

 なにせ、彼女はリアル時を駆ける少女だ。卒業と同時に未来に帰っちまう可能性を古泉から聞いていた。実際のところは分からない。聞いてみる勇気も持ってないし。藪を突付いて、もし本当に「そろそろ元の時代に帰らないといけません」なんて言われてみろ。

 お約束に則り『未来で待っていて下さい』とでも言えば良いのか、俺は?

 ええい、くそっ。首を振って暗い考えを頭から追い出す――と、何故だか喜色満面の谷口と眼が合った。ソイツは俺に向かってニヤリ、と意地悪く笑って見せる。そして、俺は悟った。

 この時期に似つかわしくないスマイル0円大安売り。

 あの野郎、まさかっ――!?

「キョーンー、もうすぐクリスマス、だよなっ」

 結論から言おう。俺の悪い予感は情け容赦無く的中した。ああ、一を聞いてもう何も言わなくていいとはまさにこの事だ。古泉のお株を奪うニヤケ面。首から上を切り取ったらゲル状のモンスターになるんじゃないかって酷い緩み具合は実は去年も見た。

 デジャヴ……じゃない、リフレインか。ならば先手を打っておくとしよう。

「気にするな、谷口。女なんて星の数ほど居るさ」

 ――ただし、星に手は届かないけどな。

「は? ……いきなり何言ってんだ、キョン?」

「女なんて星の数ほど居るさ、と言ったんだが」

 失恋したヤツへ送られる常套句だと、二回言ってようやく谷口は理解したようだった。反応遅いぞ。

「おい、キョン! なんで俺が振られた事になってんだよ! まだ何も言ってないっつーの!」

「いや、だってな……」

 俺は頭を掻いた。もしかしなくても谷口は馬鹿だ。まず、その締りの無い口を閉じるところから始めるべきだと思う。

「お前、顔に『クリスマス前に滑り込みギリギリセーフで彼女が出来ました。クリスマスイブはデートの予定が有るので今年も有るであろうSOS団のクリスマスパーティには出席出来ません。どうだ、羨ましいか』って書いてあるぞ」

「長えよ! どんだけ落書きされてんだよ、俺の顔は! 幼稚園児のお絵描き帳か!」

 馬鹿が叫ぶ。だが、馬鹿の口からいの一番に否定が出ないって事は、つまり、そういうことだ。

 ……羨ましくなんてないぞ。

「で、この後の展開は読めてる。つまり、クリスマス直前もしくは当日に破局。去年もそうだったしな」

「ぐっ……なんとでも言えよ。だけどな! 彼女はおろかデートの約束すらないキョンに俺の壁は越えられねえ!」

 谷口は両腕でもって空中に大きな四角を描いた。

「名付けて、谷口スペシャル!」

 脆そうな壁だな、また。

「しかも結構簡単に乗り越えられそうだよね、その高さなら。そう思わない、キョン?」

 横から話に割り込んできたのは、これもお約束と言うべきかいつもの面子、国木田だった。

「そう言ってやるなよ、国木田。そんな陳腐な壁であっても誰かさんの名前が付いている以上、その誰かさんが可愛そうだろ。ここは演技でいいから『乗り越えられそうにない』って言ってやるべきところだ」

「ああ、そっか。それもそうだね。えーと『結構簡単に乗り越えられそうにない壁だなあ』ってキョン、これで合ってる?」

「簡単なのか難しいのか分からないっての」

 顔を見合わせて笑う俺達。流石に小学校時代からの友人である国木田はどこかの馬鹿と違って打てば響く。

 言いたい事ってのをここまで的確に拾って貰えれば、喋り甲斐も有るというものだ。

「くそっ、国木田まで一緒になって馬鹿にしやがって。あのなあ、言っておくが俺はもう去年までの俺じゃねえんだよ」

 ほう、それは初耳だ。いつの間に「マークツー」もしくは「改」、はたまた「バージョン1,10」のような修飾が付いていたのか。

 男子三日会わざれば刮目して見よとは言うが、眼を凝らしても去年との違いなど制服が一年分くたびれただとか、学年章の横線が一本増えただとか、それくらいしか俺には分からん。

「俺はもう俺じゃねえ!」

 ならお前はどこの誰だよ。自己否定の極論みたいな事言ってんじゃねえ。

「谷口くん(改)だ!」

 だから、具体的にどこが違うんだと俺は聞いてるんだが。

「決まってんだろ、キョン。人間は失敗を繰り返して成長するんだ。失敗は成功の母って言うじゃねえか。つまり! 去年のクリスマスに失敗した時点で俺はもう今年のクリスマスの成功が約束されてんだよ!」

 どこぞの怪しい宗教みたいなトンデモ理論が谷口の口から飛び出した。馬鹿だ。こいつ、超ド級だ。

「アー、ソウデスカー」

 どうやら人間とは心にも無い事を言う時、声に抑揚が付けられなくなる生き物らしい。馬鹿が相手では装うのすら阿呆らしい。

「凄いね、谷口」

 国木田は対照的で見事な笑顔でもって谷口を称えるが、文頭に省略された括弧内、「そこまでポジティブが行き過ぎるのは逆に」の部分がしっかりと俺には補聴出来た気がするね。

 はあ、溜息しか出て来ない。この話題は早々に打ち切ってしまうべきか。馬鹿は死ななきゃ治らんし、馬鹿は馬鹿なりに青春を謳歌する術は心得ているらしい。

 だったら果たしてこの俺に何が出来よう。精々、友の恋路に対して呪詛を撒き散らしてやるのが関の山だ。

「それで、谷口? わざわざ俺の机まで来てお前は一体何の用なんだ?」

「よっくぞ聞いてくれたぜ、キョン! 実はな……って何だ、こりゃあ?」

 谷口が俺の後ろの席を指差す。何だ、ってそりゃ見ての通りだろ。

「涼宮ハルヒだ」

 もしくは眠れる獅子。

「キョン、僕には連行中の凶悪犯に見えるんだけど……?」

「いや、俺にもそう見えるぜ、国木田」

 谷口と国木田は互いの顔を見合わせ、そしてまたハルヒをまじまじと見つめた。いや、正確にはハルヒの上に載っている衣服を、だな。

 ふむ。確かに? 涼宮ハルヒは今、マスコミのシャッターフラッシュラッシュから顔を隠す犯罪者のような出で立ちでは有る。それは認めよう。頭の上から男物のコートをすっぽりと被せたのがその認識の原因なのだとしたら、それはひょっとすると俺の所為であるのかも知れん。

 しかし、ちょっと待ってくれ。この惨状を作り出した張本人にも一つだけ釈明をさせて欲しい。

 悪意は無かった、いやマジで。

「奥村の授業中コイツ凍死しかけてたから、救命活動をだな……」

「それで寒そうな涼宮さんに自分のコートを掛けてあげたとでも言うのかい、キョン?」

 言う……のだが、なぜだろう。こうして第三者視点で俺のやった事を改めて聞かされると、その行為はまるで……。

「それってなんだか恋人同士みたいだね」

 みなまで言うんじゃない、国木田!

「んなあっ!? キョン、お前、涼宮ととうとう付き合うことにしたのか!!」

 大きな声で根も葉もない内容を口にすんな、谷口! あと、「とうとう」ってなんだ、「とうとう」って!?

 偏見だ、偏見。男女がペアで居たらそこに恋愛的なあれこれをすぐに持ち出したがる昨今の風潮に対して俺としては警鐘を打ち鳴らしたい、師走ってな時期的にも百八つくらい。

「あのなあ、谷口」

 出来うる限り冷静を装って。

「お前の目はどこに付いてるんだ?」

 イントネーションは「馬鹿じゃねーの?」を最大引用。

 俺とハルヒは断じてそういう関係じゃない。

 主と従僕。いや、違うな。

 王と騎士。いや、これもなんか違和感がある。

 そんな媚びるような、へつらうような、一方的な関係ではなかったはずだ。ええい、上手く言葉に出来ん。

「言ってたのは谷口自身だろ。覚えてないか? 一年の一学期。『アイツだけは止めとけ』ってな。俺は覚えてる」

「ああ、そんな事も言ったか」

「それを踏まえて、だ。あの涼宮ハルヒだぜ? そりゃあ顔は十分魅力的な部類に当て嵌まるし、異性としての完成度は今更論ずるまでも無く一級品だ」

 本人を前にしては口が裂けても言えやしないが、ライオンも眠ってる間は大人しいモンさ。それに、ハルヒだって俺とそんな関係だなんてデマを吹聴されては気分も悪かろう。

 ならば疑惑は徹底的に踏み潰してしまえ。

「だがな、谷口」

 メリットを悉く打ち消して台無しどころかマイナスにする強烈なデメリット。それは一言で言えば、

「それでもコイツは涼宮ハルヒなんだ」

 こんなところか。我ながら失礼な物言いだとは思うが、これ以上に的確かつ簡潔に纏めるのは少々、いや大分難しい。

「だよなあ……」

 谷口も谷口でこれで納得しちまうし。おい、ハルヒ。好き放題言われてるぞ。それで良いのか、お前は……って起きてて貰ったら大分困るんだけれども。

「本当、涼宮さんって勿体無いよね。もう少しだけでいいから協調性が有れば朝倉さんレベルだと思うのになあ」

「それが無いからハルヒなんだろうよ。逆にそこが補完されちまったらパーフェクト超人だ。天のパラメータ配分の依怙贔屓も露骨が過ぎる。神様ってヤツも壊滅的な分野を科す事でバランス取った気になったんだろ。ほら、天才は奇人に多いってアレだ、アレ」

 それにしたって二物はおろか一物すら怪しい俺みたいな平々凡々、特殊スキル無しにとっては羨望の的でしかないわけだが。

「でもさ。結構お似合いっていうか納得出来る組み合わせでは有るかも、とは思うんだよ、二人は」

 ほう、反論が有る、と。いいぜ、聞いてやろうじゃないか、国木田。

「キョンは昔から変な女が好きだからね」

「おい」

 酷い話だ。過去に一度たりとて変な女が好みだと言った事も無ければ、そもそも異性と付き合った事すら無いというのにこの認識である。どうなってやがるんだ、世の中。

「誰の事を指して『変な女』と言ってるのか、その辺りが非常に興味深い発言をありがとうよ」

「それは勿論」

 あー、いい。いい。最後まで言う必要は無い。大体、その相手ってのが誰を想定しているのかは分かってる。

「おいおい、今はキョンのことなんて良いだろ? 俺には緊急を要する相談が有るんだよ」

 谷口の言うところの緊急事案ってのは、俺の予想通りにクリスマスデートに向けた対策を一緒に考えてくれなんて第三者にとっちゃ心底どーでもいい内容だった訳だが、それでもハルヒが起きるまでの話題としてはそこそこ盛り上がった。

 結局、俺や国木田も「もし、自分がクリスマスに女子とデートする事になったなら」ってイメージトレーニングには余念の無い、周囲の例に漏れない妄想力たくましい男子高校生だったという、これはその証左なのだろう。

 谷口にあれこれのアドバイスだか皮算用だかを吹き込みながら、しかし一つとして「谷口のために」という気持ちが湧いてこなかったのは、ああ、考えたくもない。

 きっと俺も少しは期待しちまっているんだ。

 今年こそは、なんて具合にな。

 ……笑うなよ。こんなのは年頃の男子高校生だったら五十歩百歩で誰もが同じ野望を抱いているものさ。

 十二月二十四日。子供の願いが叶う夜。恋人達の特別な夜。

 果たして、今年の俺は一体どんな風に過ごすのだろう。やっぱり今年もSOS団で鍋パーティでもして終わっていくのだろうか。

 それでも構わないかと思う俺がいて、変化を求める強欲な俺がいる。

 変化。このままじゃいけないってそんな気持ち。誰でも持っていて、誰もが切っ掛けを欲しがっていて、それでもそいつは勇気が居るんだ。

「谷口」

「あん?」

 言葉はカンペでも事前に用意されていたみたいにするりと喉から出た。

「お前は凄いよ」

 ああ、俺には逆立ちしたってこの友人の真似は出来そうにない。

 結局、ハルヒが午睡から目覚めたのはホームルームが終わってから一時間は経とうかという……寝過ぎだろ。掃除当番が困ってたぞ。

「……ん……キョン?」

 国木田と谷口はつい二分ほど前に家路へと着き、俺はと言えば部室で待っている長門と古泉、そして何よりハルヒに拉致されていたコートをそのままに帰るなんてのは出来なかった訳だ。

「よう。ようやく起きたか、凶悪犯」

 起きたなら早々にコートを返せ。こう見えて俺だって寒いんだよ。手の中のなけなしの懐炉様は高校生一人分の命を保たせる任務に殉職して先ほど燃え尽きちまった。温かみの有るいいヤツだったぜ。

「……え、暗い? 何か乗って……?」

 コートの中でごそごそと頭隠した少女が蠢く。新種の生き物を両親に隠して飼っている気分ってのはこんな感じなのだろうか。どうでもいいが。

 ETみたいな奴とは毎日のように接触してるしな。いまさら謎の宇宙生命体とか言われても二番煎じも良い所だった。

「光あれ」

 呟いて、ハルヒの上からコートを剥ぎ取る。日も暮れ始めた教室はさらにその気温を下げ、一刻も早くコートを着なければ俺もハルヒの二の舞だ。

「眩しっ。ちょっとキョン、布団取るなら取るって言いなさいよ! こっちにだって心の準備ってモンが有るんだから!」

 おうおう、さっきまでぐーすか寝てたとは思えないくらいにしっかりした呂律じゃないか。ハルヒの場合、叱咤においてはまどろみ補正はないらしい。どうでもいい情報だな。後、

「それは布団じゃない。コートだ」

 でもって、心の準備は良いから裾をしっかと握るその右手を放せ。もし気に入ったのだとしてもやらないからな。お前のコートはあっち。これは俺のだ。

「はっ!? ちちち違うわよ、これはっ!!」

 ストーブに間違えて触れてしまった時のように慌てて俺のコートから手を放すハルヒ。おい、手を放すのは要求通りだが、それにしたってもうちょっと優しく扱ってはくれないか。ソイツにはこの冬いっぱい頑張って貰う予定なんだ。出来れば来年の冬も世話になりたいくらいでな。

「……何が何と違うってんだよ」

「う……あ、いや、それは……な、なんでもないっ!」

 なんだそりゃ? 否定の内容くらい明確にしてくれないと古文の問題みたいになっちまうが、それは果たしてお前の望むところなのかよ、ハルヒ。うやむやが美徳ってのはそりゃ確かに日本人らしいが、お前らしくはないだろ。

 今日は一体、どうしたってんだ?

 しかして、ハルヒは俺のクエスチョンに答えたりなどはせず、そしてまた先ほどまで凍えていたのが嘘のように真っ赤に上気した顔をして野牛のような突進で教室を出て行った。

 ああ、アレは「こんな時、どうすればいいか分からないの」の顔だな。セオリー通りに「笑えばいいと思う」んだが。ハルヒの笑った顔は文句の付けようがない美少女だし。いや、外見だけだぞ。中身は知っての通りだ。

「……はあ。待っててやったってのに礼の一つも無しかよ。良いけどさ」

 呟いて立ち上がる。……あ、あの馬鹿、結局自分のコート持ってくの忘れてんじゃねえか。仕方ない。どうせ部室に向かったんだろうし、ついでに持っていってやるか。

 

 SOS団は一緒に帰ることも有れば、めいめい好き勝手な時間に帰ることだって勿論有る。っていうか最近は大体後者がメインになりつつ有る気がする。

 理由として挙げられるのは朝比奈さんの存在で、やはり受験生がクラブ活動に参加するのは本人的にも外面的にもよろしくはないらしい。

 それを分かっているからかハルヒも朝比奈さんの部活動への遅刻、及び早退にはこの頃は何も言わなくなっていた。これも成長だろうか。一応、それなりに他人に気配りが出来るようにはなっているんだろうね。

 だが、その恩恵がまるで俺の方へとやってこないのはこれは客観的に見てすら由々しき事態である。なんだろうか、他人扱いされていないと言えばまあまあ好意的に取れなくもないが、ことこれが人間扱いされていないだったとすれば大変だ。

 ……っと、話が逸れた。朝比奈さんがいない時は事実上の自由解散であり、そしてまた俺がハルヒを追って部室へと入った時には朝比奈さんはおろか古泉もいなかった。こっちはちょっと珍しい。

「おい、長門。朝比奈さんはなんとなーく分かるんだが、古泉はどうした?」

「……バイト」

 なんだろう。ハルヒが凍死寸前まで行った際に悪夢でも見ていて、それが色々と無意識下でやらかしていたりするのだろうか。うわ、有りそうな話だ。とりあえずは心の中で古泉に合掌。恨むなら寒波かハルヒを恨め。

 そんなこんなで特に何事もなく、長門は読書、ハルヒはネットサーフィン、俺は年末に差し控えた期末テストへの抵抗というこれもまたいつも通りのSOS団だった。

 イベントごとが目と鼻の先に迫っているにも関わらずの、この静けさはきっと嵐の前のなんとやら。手ずから淹れたお茶は朝比奈さんのものには到底及びはせず、これなら白湯をすすっていても似たり寄ったりだろう。

 つまらない、なんて思って……いなかったと言えばそれは嘘になっちまうんだろう。

 期待していたんだ、俺は。

 結局、この日は十七時を待たずに解散となった。

 

3,猫と天使

 電話はまるでタイミングを見計らったかのように掛かってきた。

「やあ、キョン。今、どこだい? もう帰宅していたりするのかな?」

 だったらどれだけいいだろうな。残念ながら今から校舎前の坂を降りるところだ。今年一番の寒波の中を、だぜ。哀れに思って車でも出してくれるのかい……と。冗談だ。

「ふむ、そうか」

「それがどうした? 何か用でも有るってんなら悪いな、家に着くのはもう三十分は後になる。日は完全に落ちちまうから俺としては異性に外出はオススメしない。電話でなんとかなる用件だったりするか?」

 歩きながらの電話の相手は春の一件以来、一月に一度くらいだが電話をするようになった中学時代のクラスメイト。

「なあ、佐々木」

 ……ともしたら「親友」と言ってもいいのかも知れない。

「いや、直接会って話したい内容なんだよ」

 電話では済ませられない。それってもしかして……!?

「何か有ったのか?」

「違う違う。キョンが思っているような宇宙的、未来的、あるいは超能力的な話ではないよ。くっくっ、安心してくれ」

 喉の奥でくぐもったような佐々木独特の笑い方は健在で、世は全てこともなし、なんて馬鹿な事を少し思った。

「もっと地に足を付けた内容だ。ああ、クリスマスが近付いてはいるが色気の有る話でもないからその辺りも安心してくれていい、くっくっく」

 急速に嫌な予感がする。でもって俺はこれとよく似たシチュエーションを中学時代に既に味わっていた。

「……仕掛け人はお袋か?」

 一縷の望みを賭けて聞いてみる。頼む、ノーと言ってくれ。あんなのはありがた迷惑も良い所なんだ。

「キョン」

 優しげな声は、しかし優しげなだけであり厳しく俺を叱責した。

「残念だが、これは君のためなんだ。覚悟を決めて欲しい」

「……マジかよ」

 坂を下る足も重くなる。地球の重力はいつからこんなに重くなった? それともこれが地に足を付けるってヤツなのだろうか。どっちかと言えば地べた這いずるって表現の方がピタリと当て嵌まっちまうのは一体何の冗談だよ?

「君のご母堂から、そして僕の親からも今日は遅くなってもいいと理解を得ている。駅前のファーストフードショップだ」

「行かなかったら? どうする?」

「どうするもこうするもない。待つさ、君を。必ず来てくれると信じているからね」

 佐々木はハルヒとはまた違った意味でやりづらい。こっちの良心に訴えかけてくるとか、それはスポーツマンシップを乗っ取った上での反則じゃあないのか。審判(親)まで見事に買収されてやがるし。

 逃げられない用意を事前に済ませておくのは、なんっつーか、世が世なら稀代の軍師にだってなれそうだ。

「勉強会をしようじゃないか」

 おい、佐々木。電話越しだが、お前はなんでそんなに嬉しそうなんだ? 人の不幸は蜜の味か? そうなのか?

 ……はあ。結局、友人に言い負かされた俺はとぼとぼと駅前の学生御用達バーガーショップ目前まで来ていた。気が滅入るとはまさにこの事で、そりゃあ佐々木にとって見れば良かれと思っての提案だったのだろうが、それにしたって……なあ。分かるだろ?

 勉強が好きなんて高校生を俺はテレビや漫画の中でしか見た事が無い。あんなモン作り物だ、嘘っぱちだ、フィクションでいかなる人物、団体等とも光年単位で無関係なんだ。

 そりゃそうさ。誰だって遊びたいし、怠けたい。俺の年頃なんてのはまさにその真っ盛りで、そのある種根源的とも言えるだろう欲求に真っ向から反抗するのは困難を極める。

 いつから俺はこんな風になっちまったのか。旺盛な知識欲は多分小学生くらいで満たされ切っちまったんだろうな。なるほど、こんな所にも高度情報化社会の弊害が有ったようだぜ。

「いらっしゃいませー」

 安さと早さに定評の有るその店は帰宅前に友人と最後のひと時を過ごす学生と、塾へと向かう途中の腹ごしらえをこなす学生と――まあ、八割方学生客でごった返していた。時間も時間だしな。一握りの成人客はどことなく居住まいが悪そうに俺には見える。

 学生天国、ってか。

 さて、佐々木のヤツは二階の窓際に陣取ってるとか言ってたな。窓際――この寒いのになぜドイツもコイツもそんな場所が好きなのか。正直、俺は理解に苦しむ。

 窓から離れるほどに室温が上がるのはそりゃまあ至極当然の話ではあるし、それにクリスマスの街並なんて物騒なものを目に入れずにも済む。そうだよな。それをどうしてわざわざ――いや、まあいい。真意は佐々木に直接聞いてみよう。

「ご注文はいかがなさいますか?」

「えーと、ホットコーヒーのエムが一つ。後は……ベーコンポテトパイで」

「かしこまりました。ご一緒にポテトはいかがですか?」

 どんな客に対してもポテトを勧めなければならない悲しい宿命のお姉さんを笑顔でかわした俺はコーヒーと番号札を乗せたトレイを掲げて二階へと向かった。パイは遅れて届けてくれるらしい。コイン一枚からのデリバリーサービスは流石に少々恐縮してしまう。

 家の近所のピザ屋なんかは二千円以上じゃないと配達してくれないんだが……っと、二階到着。お、ここも学生でいっぱいか。ガヤガヤと途切れない少年少女の声は休み時間の教室なんかとよく似ていた。

 さて佐々木、佐々木は――、

 ――いた。

 春のころに比べて大分伸びたのだろう長い髪。

 長く艶やかな栗毛の髪をヘアゴムで一本に纏め上げて。眩しいまでのうなじと黒い光陽園の制服のコントラストは。おいおい、親友。それはちょっと、いやかなりの反則じゃないのか。

 ポニーテール、見事なまでの。

 ああ、それは。先刻の電話口でのやり取りを含めてイエローカード二枚。

 ……退場ものだろ。

 はっと息を飲む。浅ましくグビリと喉は鳴り、いやいや待て待て。何を考えていやがるんだ、俺は。あいつは佐々木だぞ。中学時代のクラスメイトにして友人の。どうしてそんなヤツに一瞬とは言え見蕩れちまってんだ。

 首を振って邪念を振り払う。煩悩退散煩悩退散。俺とアイツの間にそんな展開は待っちゃいない事くらい俺が一番よく分かってる。

「よっ、佐々木。悪い、待ったか?」

 近付いて、今日はいい天気ですねーってな感じの軽いノリで挨拶をする。そう、これくらいの距離感。俺とコイツの関係はこれくらいで丁度いい。誰かさんに教えてやりたいね。男女間にだって友情は普通に成立するもんなんだって。

 背後からの俺の呼びかけに少女は驚いた様子もまるでなく、ゆっくりと振り向いた。一秒だけ、重力を忘却して揺れる髪の束を俺は思わず目で追いかけてしまう。ポニーテールは魔物。

 久しぶりに会ったソイツは少しだけ成長しているようにも見えた。

「いいや、今来たところさ……と言いたいところだけれどね。君に電話をした時から僕はここにずっと居たから定型句は今回使えそうにない。――久しぶりだね、キョン」

 リップクリームを塗ったばかりなのだろう、明かりを照り返す唇の両端を少しばかり佐々木は持ち上げて。

「よく逃げずに来てくれた。ありがとう」

「お前なあ……それが『来るまで待ってる』って言ったヤツの台詞かよ」

「ああとでも言わなければキョンは来てくれないだろう? ああ、他に上手いやり口が有ったらこの際だ、教えて欲しい」

 くつくつ、と。髪型はともかく笑い方は変わっちゃいないようで安心した。

「キョン。積もる話も有るだろうが、とりあえず座ったらどうだい? そこに居られると通行人の迷惑になる」

 佐々木は隣席に置いてあった座席キープ用の鞄をズラして俺へと着席を促す。窓際、外を眺める形に作られたカウンター席はそこそこの人気ゾーンらしく、空席はそこ以外に最早残ってはいなかった。

「勉強するってのにどうしてテーブル席にしなかったんだ? あっちの方が教科書やらを広げるスペースに困らないと思うんだがな、俺は」

 言いながら腰掛ける。佐々木は少し困ったように微笑んだ。

「四人掛けを一人で長時間占有するのは気が引けてね」

 なるほど、納得。しかも混雑する時間帯だしな。

「膝突き合わせてとはいかなかったが、まあ肩突き合わせてといこうじゃないか」

「佐々木」

「ん? なんだい?」

「独創性に優れているのは結構だが、だからと言って……『肩突き合わせて』だったか? 新しい日本語を勝手に創るなよ。今時っぽいぞ」

 少女は独特なくぐもり声で小さく笑った。

「今時の高校生じゃなかったかい、僕達は」

「……どうだか」

 本当、どうだかなあ。

「それで、今日はなんだ?」

 コーヒーを飲みながら問い掛ける。いや、おおよその見当は付いちゃいるんだが。

「どこから話せばいいかな。三日前、僕の母と君のご母堂がスーパーでばったりと鉢合わせたらしくてね。二人とも自分の子供の話を――つまり、僕と君の話をしたのは想像に難くないと思う。僕と君は元クラスメイトだし、家もそう離れてはいないからね」

 井戸端会議、ってヤツだろうか。正直、俺にはよく分からない世界だ。一体、なんの価値がそこに存在しているのか。いやさ、佐々木の母親にとって俺の近況がどう人生に関わってくるとも思えんのだが。

「おや、冷たいことを言うね。僕などは君が元気でやっているか時々心配になったりもするのだけれど、キョンにはそういったものは無縁だったかい? だとしたら少し悲しいよ、僕は」

 本気でそう思ってるんだったらちょっとでもいいから顔を曇らせてみたらどうだ。微笑みを浮かべたまんまじゃ説得力に欠ける。

「で? お袋とおばさんのその会話がどう今に繋がってくるんだよ」

「分からないかい?」

 少女は俺へと試すように問い掛ける。今のやり取りで八割方理解出来た気がする。気のせいかも知れないが。

「お袋が俺の成績の伸び悩みを吐露した挙句にお前に今回も臨時の家庭教師を頼んでみて貰えないかと――、」

「そういうこと。君の予想でほぼ正解だ」

 つまり、勉強会のお誘いか。出来ればこの予想は外れていて欲しかった。

「僕としてもキョンの勉強を見るというのは受験勉強の一環である以上に、自分の理解を確認するいい機会でも有る。二つ返事で承諾させていただいたよ。ただ、中学の時とは話も大分違ってくるから僕なんかが力になれるかどうかは正直不安でもあった」

 佐々木の自己評価は基本低めだ。中学の時からその辺は変わってないらしい。

「だからとりあえず受験ではなく目前の期末考査における君の点数を上げる手伝いをする事で、君のご母堂には僕を家庭教師として雇うかどうかの指標にして頂くことにしたんだ」

 ……ホワット? なんだって?

 期末考査? 家庭教師? 俺の与り知らぬところでえらく具体的な話が進みまくってるが、本人の意思とかはそこまで軽いものなのか? なあ、どうなんだ?

「だから、明日から放課後は毎日君の部屋にお邪魔する事になる。よろしく頼むよ、キョン」

 ポニーテールは、魔物だ。有無を言わさぬ力がそこにはきっと宿っている。俺はこの日、その事をこれでもかと思い知った。

 そこからの佐々木の手並みは鮮やかの一語に尽きた。俺から今回の期末考査範囲のプリントを渡されるや否や、待っていて欲しいと言い残し十分間の離席。帰ってきて俺に確認を促したメモ帳にはページではなく内容の書かれた出題範囲表が出来上がっていた。

「どこでこんなもの調べてきたんだよ?」

「どうして僕が今日、駅前を選んだと思う? 答えはね、君の学校の教科書を取り扱っている書店が近くに有るから、さ」

 なんだろうなあ、この無駄な行動力は。口には出さんが、にしたって誰かさんによく似てる。

 佐々木はメモ帳を見ながら一分ほど試案し、これなら大丈夫かなと小さく呟いた。何が大丈夫なんだよ。後、その大丈夫に俺の身の安全は含まれているんだろうな?

「いや、幸いにも君が受ける期末考査の範囲を僕はもう修学していてね。これなら何とか君の役に立てそうだと内心胸を撫で下ろしていたところだったんだ、キョン」

「ああ、光陽園は進学校だからな。授業の進みも早いってことか」

 北高の授業内容ですら振り落とされてしまっている俺からしたら、狂気の沙汰だ。本当に脳の基幹から構造が違っていたり、などと疑う俺を誰が責められようか。

 もしかしたら脳外科に行ってCTスキャンが必要なのは俺だったりすんのかね? いや、冗談だ。

「詰め込むだけの授業には正直うんざりしていたのだけれど、しかし今だけは感謝しなければいけないな。そのお陰で…………いや、なんでもない」

 少女が珍しく言葉を濁す。

「どうした、佐々木?」

「別に。どうもしていないよ」

 ならば、その頬にわずかばかり朱が差して見えるのは窓の外のレッドライトでも映り込んでいるのだろう。

「明日から楽しみにしていてくれ、キョン」

 ……やっぱりコイツ、楽しそうだな。

 結局、勉強会とは名ばかりの一つも勉強しない会、もしくは勉強会イヴはそこで早々に幕切れとなった。親友改めの家庭教師は明日からの教材の用意が有るからと早々に帰途へと着き、後には俺とホットコーヒーが残された。

 ……あれ? 何か忘れてるような。

「大変お待たせ致しました。こちらベーコンポテトパイになります」

 店員さんがスマイルゼロ円を顔に貼り付けて、番号札と入れ替わりにパイをトレイの上に置く。そうだそうだそうでした。注文をしておきながらすっかりパイの存在を忘れちまってた。

 でも、まあそんなのは正直今更どうでもよくって。

「あのー……前にも同じような質問をした気がするのですが」

「はい、なんでしょうか?」

 立ち去ろうとした店員さんを引き止めて。

「――なにやってるんですか、喜緑さん?」

 おいコラ、宇宙人。神出鬼没なのは十分分かったからもうちょっとこっちの心臓に優しい出現を心掛けちゃくれないものか。

 北高における先輩でコンピ研部長の彼女でいつのまにやら生徒会で書記をやっていたりして、ああ、春には喫茶店でバイトもしていたか。喜緑江美里さん。何を隠すでもない、長門の同僚である。

「なにって、バイトです」

 見て分かりませんか、みたいなニュアンスで言うのはどうか止めて貰えないだろうか。こっちだって間抜けな質問をしているのは分かっていたし、どんな答えが返ってくるのかも予想は出来ちゃいたんだ、マジで。

 それでも聞かざるを得ない気持ちをどうか汲んで貰えたら助かる。

 溜息が一つ、自然と口から転げ落ちた。

「俺の護衛……いや、観察ですか」

 宇宙人、喜緑江美里は笑った。でも、俺は知っている。

「それが私の役割ですから」

 俺は知っている。宇宙人は笑わない。

「出来れば学校側には黙っておいて下さいね。私がバイトしている事」

 そう言って先ほどまで佐々木が座っていた空席に彼女は腰掛ける。周りの学生達は店員が着席したことに何の反応も示さない。きっと他の店員が見ても咎める事は無いのだろう。

 喜緑さんを視認出来ないのか、認識出来ないのか、はたまた俺にはちーっとも理解出来ない何かしらか。なんでもいいさ。宇宙人ってのはなんでもありなんだ。

 バイト云々を学校に密告したところで揉み消されるのは目に見えてる以上、俺としちゃそんな非生産的な行動に出る意味が無い。

「はあ、分かりました。……それにしたって珍しいですね」

 いつの間にか喜緑さんの手元に俺とおそろいのホットコーヒーが出現していたが、これも驚愕には値しない。こう複雑怪奇な日々が続いては、俺の感受性は抗いようもなく鈍化を続けまったくもって悲しい限りだ。

「なにがでしょう?」

「長門ではなくあなたがこうして俺の前に出て来る事が、ですよ」

 俺の担当は長門だと思っていただけに、長門以外の宇宙人が出て来てしまえば警戒の色は隠せない。宇宙人と俺の綱渡りよりもまだ微妙なバランスは不用意な一言で簡単に崩れてしまうガラス製。

 裏を返せば長門をそれだけ信頼しているって事なのだが。アイツにばかり負担を押し付けるのもよろしくない。

 たとえそれが宇宙的、未来的、超能力的はたまたハルヒ的な事件であったとしても、だ。出来ることなら自分でなんとかしようと思いつつも、それにしたって俺なんかに何の用だろうね、喜緑さんは。

 まーた無理難題を俺に押し付けようとしているのか、それとも彼女自身が直接的な危機ってのだって十二分に有り得る話だ。

 もしかして機嫌を損ねたら俺は割とあっさり死んだりするのだろうか。ヤバい、ちょっと緊張してきた。ライオンの檻に入っていく飼育員の気持ちってのは案外こんなものなのかも知れないぜ? シリアス展開にはどうにも縁遠いバーガーショップなのにさ。

 言ったところで。宇宙人ならタスマニア砂漠のど真ん中であってすら密室殺人も可能だろうよ。

「ああ、それなら」

 宇宙人少女は何もない中空を見つめた。時間にして十秒ってところか。母船と交信でもしていたのだろう。SFだね。

「ふふっ。長門さんは取り込み中のようです、今も。自分から言い出したこととは言え、彼女も大変そうですね」

 取り込み中? 笑顔で誤魔化そうとしているのか知らんが、ちょっとその不穏な語句は聞き捨てならない。一体、長門の身に何が起こっていやがるってんだ。事と次第によっては俺は暴れるぞ。ハルヒだってだ。

「脅さないでください。それほど身構える事態ではありませんから」

 喜緑さんはコーヒーを一口飲んで、

「猫を飼っているんですよ、彼女」

 と、言った。ねこ……猫? あの長門が!? まったくの予想外だ。事実は小説より奇なり。宇宙人も猫を飼うとはいやはや二十一世紀を実感する出来事だ。いや、でもあのマンションってペット禁止でしたよね?

「そうですよ。まあ、私達にペット禁止などと言われましても無意味と言いますか、逆にその拘束力の無さに困ってしまうのですけれど」

 あの気の良さそうな管理人のおっさんに催眠術を使ってペット禁止を撤回させている長門の図が即座に思い浮かんでしまった。ああ、アイツは本当に魔女の格好がよく似合う――じゃない。

「マンションの問題は問題ですら無いと言うのは分かりましたよ。ですが、喜緑さん。長門に猫を飼育するなんて少しハードルが高い気がしませんか?」

「と、言いますと?」

 彼女は訳が分からないと小首を傾げる。ああ、動作は非常に可愛らしいが騙されてはいけない。擬態という言葉を辞書で調べて貰えれば俺の危惧の十分の一くらいは理解して頂けるだろうことと思う。思いたい。

「生き物を世話するというのは非常に難しいんです」

 かく言う俺もいまだにシャミセンから引っかき傷を貰ったりする。知識はともかく情緒の面では俺の妹ともしかしたらいい勝負なのかもなと思えたりもするあの宇宙人少女にとってそれは、やはり少しばかりハードな気がした。

 しかし、喜緑さんは俺の心配を払拭するように首を振って。

「有機生命体のメンテナンスくらいなら長門さん一人に任せておいても問題ないでしょう」

「……メンテ……ナンス、ですか」

 ――そっか。そうかい。

 やっぱりそういう了見なんだな、アンタ達は。俺たちとは違う。ああクッソ、落雷に打たれたような気分だ。

 長門は喜緑さんとは違うと、俺たち側になりつつ有るんだとそう思いたい。そうだな、帰りはちょいと遠回りしてアイツの部屋に寄ってやるか。猫飼育の先輩として色々レクチャーしてやれる事も有るだろうし。

 残りのコーヒーを一息に啜って席を立……あれ? 尻が椅子と癒着してる? ちょ、コレって。

「ダメですよ。長門さんは一人でやると言って、助けを求めてくるまでは私も朝倉さんも不干渉という事になっているんです。あなたばかり彼女の世話を焼こうだなんて、ズルいでしょう?」

 あー……あー、分かった。本当はちっとも分かっちゃいないが、とりあえずその猫は心配なさそうだしそっちに任す。まあ、何か有れば喜緑さんと朝倉が早急に対処する以上、俺に出来ることはなさそうだ。

 よくよく考えなくとも核シェルター十個分よりも安全で、ブラックジャック百人分よりも安心なんだ、あのマンションは。後はその猫がオーパーツにならない事を祈るだけだな。もしも喋りだしたらシャミセンマークツーとでも刻んだ首輪を進呈してやろう。

「なら、そっちはよろしくお願いします、喜緑さん」

「はい、任されました。そう言えば今日、文芸部室で長門さんと接触しましたか?」

 接触? ああ、会話の事か。

「ええ、まあ。とは言ってもあの通り、言葉数の少ないヤツなんで二、三話したくらいで」

 長門との会話は言葉のキャッチボールと呼ぶにはあまりに歯応えが無いのだ。例えるならば壁に向かって一人でボールを投げているような。「……そう」だとか「……わかった」だとか「……どうぞ」だとか。

 まあ、言ってもそんな反応も慣れ親しんではいるので今更特に何も思ったりはしないのだが。

「普段通りでしたが……それが、何ですか?」

 彼女は小さく、しかし高速で口を動かした。久しぶりに見る宇宙人スキル「謎の呪文」、彼女達の言葉で言えば「情報操作」だったか。何をしているのかと思ったら、唐突に尻が椅子から離れた。ようやく解放して貰えるらしい。

「あまり、彼女に負荷をかけないであげて下さいね。普段どおりに見えたかも知れませんが、あれで文芸部室と自分の部屋に同時に存在するという離れ業を行っている最中なんです」

 ほほう。つまり、「長門有希の分裂」ってか。底抜けに器用なヤツだぜ、本当に。でもって底知らずで器用貧乏だ。学校に行きながら、部屋で猫の世話を一人こなす。まったく、妥協を知らないアイツらしい。

 だが、猫の世話に奮闘する長門有希の想像は、なぜだか妙に可愛らしかった。

「分かりました。ハルヒにもそれとなく長門の読書の邪魔はするなと伝えておきます」

 喜緑さんは俺の返答を聞いて満足そうに微笑んだのだった。それを見て俺は、宇宙人が本当の意味で笑えるようになるのはいつの話になるのだろうなんて、まるでSF作家みたいな事を考えてしまっていたんだ。

 

 翌日の放課後、私用が有るから今日は文芸部室に顔は出せないとシンプルに告げた俺に対してハルヒは当然だが詰問した。主に「私用」の中身についてだ。

 文句の付けようしかないプライバシの侵害だと思うのだが、団員のスケジュールをきちんと把握しておくのも団長の務めだとか妙ちきりんな理屈を、なぜだか正当っぽく聞こえるように捏ね回させれば涼宮ハルヒの右に出るものはそうそう居ない。少なくとも俺は見たことが無い。

 よくもこうぽんぽん言葉が出てくるものだと呆れ半分で感心してしまう。口から産まれたって言葉が有るが、恐らくハルヒの生誕を予見してやがったんだろうな。そうとしか思えないくらい、ここまでコイツを言い表すのにしっくりとくる慣用句が見つからない。

「何よ! 言いたくない、もしくはアタシには言えないような内容だったりするワケ?」

「そういう事を言ってるんじゃない。ただ、なぜ俺はお前に洗いざらい白状せねばならんのかと言っているんだ」

 犯罪者にだって黙秘権は認められてんだぞ。法治国家万歳。

「怪しいわね。別になんてことのない用件だって言うならさらっと報告すればアタシだって鬼じゃないんだから」

 ――どうだか。

「帰宅の許可を出すわよ」

 もちろん、それが正当で真っ当な休暇願ならばとハルヒは付け加える。挑発的にこちらを見るその瞳が、なぜだか今日は酷く癇に障った。

 どうしてだろうな。いつもならさらっと流すようなやりとり、であるはずなのに気付けば俺は噛み付いていた。反論を始めていた。家庭教師が来る初日だから早めに帰って自室の掃除をしておきたい。たったそれだけの話じゃないか。

 なぜそれが言い出せない、俺?

「――帰宅の許可を出す、だと? それってのはつまりお前の許可が無ければ俺は家に帰ることすら出来ない、そう言ってるのか?」

 俺の心に宙ぶらりんと引っ掛かったものはただの言葉。たったの一文。

「……決まってんでしょ」

 過ちに気付いたのだろう少女が一瞬、視線を彷徨わせる。その顔には「やってしまった」と書いてあったがお互いもう止まれそうにない。

 謝れない少女。

 俺の知っている涼宮ハルヒとは我が侭放題だが人を所有物扱いはしない。

 去年の夏、映画撮影の一件以来それだけはしなくなった。こんなヤツだが着実に成長しているんだなと思っていた安堵感? 期待感? まあよく分からんが、つまりは「ソレ」を裏切られた気がしたんだな、俺は。

 それだけはして欲しくなかった、とか思っちまったワケさ。いや、ハルヒだって本気で言っているんじゃあない。口を滑らせただけだ、などと思えたらよかったのに。

 だってのに俺の心は広くない。

「ハルヒ、お前は何様のつもりだ――団長サマ? はっ、笑わせんな。『団長サマ』ってのはそんなに偉いのか?」

 だから、言葉が出てしまう。売り言葉に買い言葉。ハルヒは予定調和の如く反論する。

「偉いわよ。当たり前でしょ? SOS団の団長は神聖にして不可侵なの。団員はアタシの言うことには従う。それで全ては上手くいくのよ!」

 ハルヒはこんな妄言を本気で言ってるんじゃない。分かってる。分かって……いるんだ。ただ、俺の言葉に条件反射的な応対をしているだけ。本意じゃないことを示すように、ソイツは口の中で苦虫を噛み殺してる。

 気付け。この気分の悪いやりとりを終わらせてくれ。そう眼で訴えかけてきているのに。

「……分かった」

 俺はそれを黙殺した。

「だったら俺は」

 ハルヒが俺をキッと睨み付ける。でも、その視線には慣れ切ってしまっていたから抑止力なんてのは一切無い。台詞は止まらない。

 いつの間にか、完全に頭に血が上っていた。

「SOS団を抜ける」

 ――――あれ?

 ――――――――今、一体何を言ったんだ、俺は?


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