ここは、男にとって最も居心地の悪い場所の一つだ。
と言われたら、あなたはどこを想像するだろうか。
女子校の入学説明会?
間違って乗ってしまった女性専用車両?
一人で入ってしまった、どう見てもカップル御用達の喫茶店?
そのどれでもない。
店内には男の客など俺以外に誰もいない。
そりゃそうだろう。
誰が好きこのんでこんな恐ろしい所に入りたがるか。
店内の落ち着いた照明、計算しつくされたかのように巧みに配置された商品、そして何よりもキャッシャーの前に貼られた数々のクレジットカードのロゴマーク。
これらの全てが俺に、「場違いだ」「おまえなんかの来るところじゃない」「さっさとここから出ていけ」と全力で訴えている。
そう。ここはブティック。ブティックだぞ、ブティック。
量販店でもない、デパートの婦人服売り場でもない。ブティックだ。
俺の人生の最強の敵の一つ、ブティックだ!
俺はブティックが恐ろしい。朝倉の次ぐらいに恐ろしい。
脇腹にめり込む大型アーミーナイフの次ぐらいに恐ろしい!
うん。自分でも何を言っているのかわからない。
とにかく、こんな所にいてもちっとも楽しくない!
さっき「落ち着いた照明」と言ったが、はっきり言って俺には「暗い」としか思えん。
わざと店内を暗くして女どもが鏡を見た時に勘違いさせようとしているのだろうか。
計算しつくされたかのように商品が配置されているとは言ったが、きっと世間ではそんな風に言うだろうと思っただけで、俺には品ぞろえが少ないだけのようにしか見えない。
それに何よりもあのキャッシャーのロゴが俺の恐怖を駆り立てる。
俺は金を払わんぞ。払わんぞ。払わんぞ…。
「バッカじゃないの? ここはあんたの小遣いで買えるものなんか何一つ置いてないわよ。」
どうやら声に出ていたらしい。
さりげなくひどいことを言われたような気がする。
しかし金を使わなくてもいいのは助かるな。
「あんたがビンボーなのはよく知ってるから、そんなみっともないこと言わないでちょうだい!」
誰のせいで俺が貧乏になったと思ってる。
もっともそれでなくてもうちはもともと裕福なわけではないが。
「後でいつもの喫茶店に寄るから、お金だったらそこで出してね。」
俺が金を使うのは規定事項なのだろうか。
俺の人生最大の敵のもう一つ、涼宮ハルヒはにっこりとわらいながら試着室に消えて行った。
こいつはこんな所に来てもまるでビビッた様子を見せないな。
こういう所にしょっちゅう出入りするほど家が裕福なのだろうか。
なら家まで俺はハルヒに負けているということになる。
まあ、こいつに何かで勝てるとは思わないが。
もっともこいつが初めての場所に来て気後れするとは思えないけど。
 
しかしなぜ俺はこんな所にいるのか?
それはまあ、罰ゲームの続きだ。
俺が朝比奈さんの仕事を手伝いに一緒に出かけたことがハルヒにばれた。
待ち合わせて一緒に出かけただけだが、はたから見ればデートのように見えたかもしれない。
断じてそんな浮いた話ではなかったわけだが。
罰ゲームの内容?
思い出したくないな。
しかしハルヒもこういう所で女の子らしい洋服を買いたがるのかね。
女の子らしい洋服といえば朝比奈さんか…。ってあのときの朝比奈さんは、女の子っぽいというよりカエルっぽかったな…。
ああっ、思い出してしまった!
 
 
「そうねえ、まずあんたは、『団のマスコット並びに学校のアイドルを占有した罪』、それから、みくるちゃんは、『団長専用雑用係を勝手に雑用に使った罪』ね。」
「おい、いつ俺がおまえ専用の雑用係になったんだ? 俺はSOS団の雑用係だろうが。」
「なら、『団の備品を団長の許可なく勝手に占有した罪』。」
「おまえの許可さえあれば誰でも俺を占有できるのか?」
俺の人権はどうなる!
「……許可が出るとは思えません…。」
「みくるちゃん、何か言った?」
「いえ、何も言ってません!」
「ふうん、反省が足りないようね…。」
「いえっ、反省しました! ごめんなさい! もうしません! 許してください!」
「なに青くなってるのよ。なんだかアマガエルみたい。そうだ。ぬいぐるみの刑ってあったわね、昔のマンガに!」
聖マッスルかよ! って昔すぎるぞ。おまえは本当に俺の同級生か?
「おい、あんまり朝比奈さんをいじめるな! 
なんだったら俺が朝比奈さんの分もまとめて罰ゲームをやってやるから…。」
朝比奈さんを不気味な笑みでみつめていたハルヒが、いきなりキッとにらんできた。
「今回に限っては、あなたは朝比奈さんをかばうべきではありません。
今回は明らかに朝比奈さんに非があります。
他人のモノを勝手に使えば咎めを受けるのは当然でしょう。」
うるさいぞ古泉。おれはハルヒの所有物なのか? 
まあ、モノみたいに扱われていることは否定はせんが。
「そうよ。あんたのモノは全てあたしのモノ。だからあんたの時間も全てあたしのモノ。あんたの全てがあたしのモノ。」
ひどい言われようだ。
「だからみくるちゃん、一週間部室ではずっとカエルさんになってなさい。それからあんたは…。」
その後朝比奈さんはカエルの着ぐるみを着せられ、カエルの手ではお茶をつぐこともできないので、ただ黙って座っていたらしい…。「らしい」というのは、俺の位置からでは長門の足しか見えなかったからだ。
「やっほー、みくるいるかいー!数学のノートを…、ってなんだいその格好は…、ぷぷっ。」
いきなり入ってきた鶴屋さんが、いきなり笑いだした。部室棟の外にまで響きそうな声で笑った。大爆笑した。
「ふええっ、鶴屋さん、たすけて下さい…。」
さんざん笑った後気がすんだのか、こう言っているのが聞こえてきた。
「で、なんでそんな格好してるんだい? あらたな趣味に目覚めたにょろ?」
「罰ゲームですよ。」
ここからは見えないが、古泉がキザッたらしく前髪をかき上げている姿が浮かんだ。うう、気持ち悪い。
「何の罰ゲームにょろっ?」
「朝比奈さんが涼宮さんに隠れて、彼とデートしていたのがバレたんですよ。」
だから、デートじゃねえって!
「たすけて下さいよう。涼宮さんがものすごいやきもち焼きなのは知ってましたけど…。まあ、去年の五月に比べればずいぶん良くなってはいます。余裕が出てきたっていうか…。全部キョン君のおかげです。だから、ちょっとぐらいのことでは動揺しないで、もっとどっしり構えていてほしいんですけど…。」
「ハルにゃんやさしいねえ。その程度のことで許してくれるんだあっ! だからあたしは今回のみくるには同情しないよっ。で、肝心のキョン君はどこに行ったんだい? まさか、部室から追放されたにょろ?」
「涼宮さんが彼を追放するわけがないでしょう?」
「鶴屋さん、助けて下さい…。」
朝比奈さんを助けなかった鶴屋さんが俺を助けるわけはないが、思わずこう言ってしまった。
手の平が痛い。膝が痛い。腰が痛い。背中が痛い。首が疲れる。
なぜ俺は団長机のすぐ後ろで四つんばいになっている? 
なぜ俺の背中には女の子一人分の重さがのしかかっている?
何なんだ、『一週間連続一日一時間団長専用椅子の刑』ってのは!
「イスがしゃべるなっ!」
ゴンっといういい音を立てて俺の頭が鳴った。くっそー屈辱だ。
「キョン君~、みくるも言ってたけど、ハルにゃんはものすごいやきもち焼きにょろ? ハルにゃんはキョン君にはめがっさ甘いから、今回はこれで済んだとしても、次はないって肝に銘じるにょろ。浮気亭主には死を!ってね。今度似たようなことをしてハルにゃんに見捨てられても知らないよっ。わかったかな~、少年! 返事はっ?」
「はい…。」
それだけ言うと、鶴屋さんは風のように去っていった。数学のノートはいいのだろうか。
しかしなんだ、やきもち焼きってのは。
「知らないわよ。何よみんなしてあたしをそんな風に言って…。あたしは全然悪くないわよ。」
ああそうか。ハルヒは朝比奈さんと二人で出掛けてみたかったんだな。
こいつはクラスの女子とはたいしてうち解けていないが、SOS団女子とはなんらかの絆を感じているらしい。
中学時代完全に孤立していたという、こいつにとってはいいことなのだろう。
もし万一俺と朝比奈さんが付き合ったら、(そんなことは絶対にあり得ないが)俺に朝比奈さんを取られてしまうとでも思ったんじゃないだろうか。
杞憂だが。
もしそうだとしたら、朝比奈さんにまで罰ゲームを課すのは逆効果だぞ。
頭が冷えたころを見計らって言い聞かしてやらないといかんな。
まあいい。
今度古泉と相談して、ハルヒと朝比奈さんが『デート』できるようにセッティングしてやろう。
そうすれば、今回の罰ゲームもうやむやになるかもしれん。
ちなみに、デートを『 』でかこったのは百合っぽいっていう意味ではないという表現だ。
さすがにこいつでも、女の子に恋する不思議までは求めないだろう。
俺の脳内に感謝しろハルヒ。
まあ、こいつが男に恋するとも思えんが。
「あたしちょっと、トイレに行って来るからね。だけど古泉君、みくるちゃん、特に有希! これは団長専用椅子なんだからあんたたちは絶対に座っちゃだめよ。わかった?!」
古泉に座るなと言ってくれたのは有り難いが、他の二人は言われなくても座らないと思うぞ。
「わかりました、涼宮さん。」
「ふええ…、わかりました。」
「………。」
「何よ有希、不服なの?」
「……不服。」
おいっ! おまえも俺の上に座りたいのか? おまえまで俺をモノ扱いする気か?
「だめっ!」
「どうしても?」
「どうしてもだめっ!」
「団長命令?」
「団長命令っ!」
「ならばリコールの手続きを…。」
「絶対にダメなの! わかった? 返事は?」
「…………………………。」
「へ・ん・じ・はっ?」
「…………………了解した。」
「じゃあいいわね、あたしちょっと席を外すから。古泉くん、有希がキョンに変なことをしないように…、じゃなくてキョンが有希に変なことをしないように、しっかり見張ってて!」
ハルヒが出ていくと、俺は首を上げて長門の顔を見た。
本を膝の上に置いておれをじっと見ている。
うん、軽蔑のまなざしってやつだなこれは。
ほとんど無表情だが俺にははっきりとわかる。
これほど感情を表に出すことが出来るようになるとは、成長したな長門。
しかしなんでおまえに軽蔑されなきゃならんのだ…。
「変なことをしているのは、……あなた達。」
何を言ってるんだ、おまえは。
「あなたは、口ではつらいと言っているが、この罰を受けることに少なからず喜びを感じている。………変態。」
おいっ! おまえに「変態」とか言われると、ものすごく傷つくぞ。
「あなたはわたし達に隠れて朝比奈みくるとデートをした。」
だからっ、デートじゃねえって。何回説明したらわかるんだ。おまえもハルヒも…。
「あなたが、今ここに居られるのは誰のおかげ? わたしはあなたの命を助けたことがある。」
そう言われると何も言えなくなっちゃうけどな。でもこの状況でそれを言うのは卑怯じゃないか、長門さん…。
「わたしが今、ここに居られるのもあなたのおかげ。別に恩を着せたいわけではない。ただ、あの時の約束を忘れたの?」
あの時の約束と言われてもな。おまえに命を助けられたことは数限りなくあるからいつの時のことか思いだせん。
「わたしは涼宮ハルヒに負けないくらいのやきもち焼き。それをあなたは去年の十二月に思い知ったはず。」
ってそれは、俺のせいじゃなくて、おまえの親玉がおまえに仕事をさせすぎたからだろうが。
「あなたが涼宮ハルヒに与えたものと同じものをほしいとは言わない。ただ、Sleeping beauty…。」
なんだ?
「また図書館に。」
長門はそれだけ言うと本に視線を落とし、何を言っても返事をしてくれなかった。
結局俺の「ハルヒと朝比奈さんとのデート」案は古泉によって一瞬で却下され(なんでだ?)、あの屈辱の罰ゲームは一週間連続して行われることとなった。
だから、最終日ついあんなことを言ったとしても、許されるはずだろう?
 
 
「なによ、間抜け面。」
「ん、ああハルヒか。」
「『ああハルヒか』って、何を考えていたわけ?」
「屈辱の過去について回想していた。」
「バカなこと言ってないで、あんた何か言うことはないわけ?」
あの俺の、苦難の一週間を「バカなこと」ですませるのか、おまえは。
まあ、「バカなこと」でないとは言わないが。
試着室から出てきたハルヒは、フランス人形のような格好をしていた。
「ん、まあ、いいんじゃないか…。」
「他には?」
「『ゴスロリ』ってのは、『ゴシック・ロリータ』の略だよな。」
「それで?」
「なんで『ゴシロリ』じゃなくて『ゴスロリ』なんだろうな。」
「知らないわよ。店員さんにでも聞いたら?」
なんか怖くて聞けないんだよ。
「それだけ?」
「ああ。」
ハルヒは店員さんと何か内緒話をしていたようだったが、再び試着室に消えていった。
…本当にそれを買うつもりだったのか?
 
回想にもどるぞ。最終日のことだ。
一週間フルに罰ゲームを課せられたのは俺だけで、朝比奈さんは前日に許され、制服を着ていた。
まあ、俺としては朝比奈さんが早めに許されたのはいいね。
朝比奈さんが楽しそうにしゃべっているのを聞いていると、元気になれそうな気がする。
そのおしゃべりの相手がハルヒや長門だけならともかく(長門は話しかけられてもほとんど無言だが)、もう一人が古泉の野郎だというのは気に食わないが。
しかし団長専用椅子は団長以外と話すことは許されないのだ。
あと五分くらいで下校時間になる。
もうすぐ「江戸川乱歩の世界」的な人間から普通の人間にもどれる。
それはうれしいけど、こいつにちょっとだけイヤミを言いたいな。
「なあ、ハルヒ。」
「何よ。」
「一週間連続しておまえのイスになってわかったことがあるんだがな。」
「なに。」
「なんというか、一日目からだんだん変化していくものが観測できたんだ。」
「だから何よ。もったいぶらずにさっさと言いなさい。」
 
「おまえ、ふとったな。」
 
部室の喧噪が一瞬で停止した。
なんでだ、なんでみんなドン引きしてるんだ? 
この姿勢からは見えないが、あわあわしている朝比奈さんと、目を見開いている長門と、笑顔を引きつらせている古泉のハンサム顔が幻視できた。最後のは余計だ。忌々しい。
ていうかそれどころじゃない。
確かに、若い女性に男が言うべきセリフじゃなかったかもしれない。
もし俺が万年係長で、新人OLにそんなことを言ったらセクハラで人生を棒にふったかもしれない。
しかし俺は、棒にふるほどの人生さえも持っていないただの高校生であり、同級生にこの程度の冗談を言っても許されるのではないか?
というより、これは「男」が「女」に言うからセクシャルハラスメントなわけだ。こいつが俺のことを「男」として意識しているなんてことはない。絶対にない。
「みんな、気を回しすぎだ。俺とハルヒの仲なんだぞ。かえって意識されると調子がくるっちまう。」
その証拠に、こいつは今でもおれの背中に乗ってるじゃないか。
だから大丈夫だ。
と思ったらハルヒがピョンと跳び上がって俺の上からどいた。何なんだ。
何となく立ち上がりづらい。俺は四つんばいのままで言った。何とかフォローしないとまずいよな。
「いや、そういう意味じゃなくて、多分おまえは着やせするタイプで、だいたい俺はほとんどおまえの制服姿しか見てないだろう? だからどう見てもおまえが太っているようには俺にも見えないわけで。だから制服を着ていればそんなふうには誰にもわからないわけだ。まあ、俺にどう思われてもおまえは気にしないだろう? だいたいおまえは自分の外見とか、女として見られるとかそういうことにもともと無頓着な方だろう、特に俺に対しては。だからさっきの発言は許してくれ。」
なんだかグダグタな言い訳だ。
「いやあ、お二人はこの程度ではセクハラとは思えないような近しい仲だということですね。わかります。」
古泉が余計なことを言った。おまえはしゃべるな。
「まあ冬なわけで、誰でもきぶくれするわけだ。だけどさっきも言ったように制服を着ているとやせてみえるわけだ。だからおまえは何も気にする必要はないんだ。だから俺がどう思おうが、おまえのことを太っていると思う奴は俺以外は誰もいないわけだ。だから気にするな。」
「キョン君、古泉君…、何のフォローにもなっていません。特にキョン君の言い訳は最低ですっ!」
えーと、朝比奈さん? あなたはつい昨日まで俺と一緒にこいつに虐待を受けていたんじゃ…。それでもハルヒの肩を持つんですか?
「………馬鹿。」
おおっ、長門まで。あの発言はそんなにまずかったのか?
「まあ、確かにあたしはあんたのことを男として意識しているわけじゃないわね。」
「そーだろ、そーだろ。だからさっきの発言は許せ。別にセクハラじゃないんだ。俺は別に変な風におまえのことを意識しているとかじゃなくて…。」
やっぱり俺はこいつには軽蔑されたくない。中学時代こいつがことごとくフッてきたという、こいつの外見だけに食いついてきた奴らと一緒にされたくはない。
「つまり、だ。制服というのは学生の正装で礼服の一種だ。性を感じさせないように出来ている。まあ、いつもお互い制服を着ているわけだから、やっぱり男女というよりは学生同士として感じているんじゃないか。要するにだ、俺はおまえに対して変な下心を持っているとかそういうわけじゃなくてだなあ…ってこれは当たり前か。」
「キョン君、もうだまってて下さい! 自分が何を言っているかわかってるんですか?」
ええと、確か「ふとったな」と言ってしまった失敗のフォローとして、セクハラじゃないと。なぜなら異性として意識しているわけではないからだと。うん、論理的だ。破綻もない。飛躍もない。完璧だ。
「だからさっきの発言は、どうせおれとおまえの仲なんだから、お互い男女として意識しているわけじゃないんだから、まあ、男どうしか女どうしで言い合ったものだとして受け取ってくれ。頼む。」
よし、結論が出たぞ。あとは審判を待つのみ。
「やっちゃって…。」
「自己韜晦は身を滅ぼす。」
「これは僕にもどうにもできません…。」
うるさいぞ、おまえら。審判を下すのは神様だ。
「さっきも言ったけど、あたしはあんたを男として意識しているわけじゃないわよ。」
そりゃそうだろう。しかしはっきりそう言われると傷つくな。
こいつは俺に向かって「おまえは男じゃない」って言ってるわけか。胸がキリキリ痛むのはなんでだろうね。
「そして、あんたもあたしを女として見ていない。当然よね。そんな風に見られたら迷惑だわ。」
しかしそうすると、俺はこいつに向かって「おまえは女じゃない」と言ってしまったわけか。
しかしハルヒの声は平静だ。嘘をついているようには聞こえない。大丈夫だろう。
しかし今はこいつの顔は見たくない。見てしまったら絶対に後悔するような気がする。
卑怯なような気もするが、俺は四つんばいのままでいた。
「だけど、団長を辱めるような発言は許しがたいわ。」
「さっきのは嘘だよ。俺の背中が知っている。おまえはふとってなんかいない。」
「あ……ありがと。じゃなくて、今更遅いわ。不敬罪には罰を与えるわ。」
審判が下った。
やはり神様は非情だった。
神様は俺のことが大嫌いなんだ。きっとそうだ。
「キョン君……。あんまり神様をもてあそぶとバチがあたりますよ。」
どんなバチがあたるんだろうか。
「明日、団長はお洋服を買うために街に行きます。だからキョン、雑用係としてついて来なさい!」
は? 今の話のどこに、洋服を買いに行くという要素があったか?
俺が「ふとった」と言ってしまったとか、お互い異性として意識していないとか、そんな話だったな。
なぜ洋服が出てくるんだ?まあ、こいつの言動のあちこちに飛躍があるのはいつものことだが。
「何を言っているんです? 今のあなたの発言を受けての、論理的な帰結ですよ。
しかし涼宮さん、頑張りましたね…。去年の五月だったら大騒ぎになっていたところです。やはり成長されました。」
そうなのか? まあこいつはハルヒが何をしても全肯定する奴だから聞き流しておこう。
というより、頑張ったのは俺じゃないのか?
「まあ、いいけど。洋服を買いに行くんだったら、朝比奈さんについていってもらったらどうだ?
その方が有益だと思うぞ。」
俺はこの間古泉に却下された「ハルヒと朝比奈さんのデート」案を思い出していた。
「キョン君……、死にたい?」
死にたくないです。
っていうか、朝比奈さん以外の人物から殺気のようなものを感じるぞ。
「じゃあ長門、行ってやれ。」
まあ、長門がハルヒにファッション面でアドバイスできるとは思わないが、俺が行くよりはマシだろう。美少女二人なら店員もはりきって選びそうだし。
「正気?」
俺はいつでもほどほどに正気のつもりだ。……じゃなくて、おまえ今なんて言った?
「わたしはあなたの正気を疑っている。もしあなたが発狂したのだとしたら、必要な処置をとらなければならない。」
言い過ぎだ! あと古泉、おまえには振らないから心配するな。なんだか殺気が強くなっているような気もするし。
「当たり前です……。あなたではなく僕の方が過労死してしまいます……。」
古泉は無視し、ハルヒの顔を見ずに言った。
「ハルヒ、団長命令に従う。」
 
 
試着室のカーテンが開く。
ハルヒが出てくる。
今度は子供服を着ていた。
青と白を基調とした子供服だ。
「フン、何を考えてたわけ?」
「虐待の記憶について回想していた。」
「なにそれ?」
「地雷がどこに埋まっていたかを真剣に考えていた。」
「バッカじゃないの?」
「神に見放された男について……。」
「で?」
「は?」
「どう思うわけ?」
旧約聖書の「ヨブ記」について議論したいわけじゃないよな、こいつは。
「いいんじゃないか。」
「それ以外に何かないの?」
ロリータっていわれれば誰でも思い出すのはロリータ・コンプレックスだよな。
『ロリータ』ってのはロシアの作家ナビコフの、同名の小説の登場人物からきているらしい。
読んだことなどないが。
邦訳されているらしい。
読みたいとも思わないが。
で、コンプレックスというのはユングが初めて唱えた概念で、心理的な複合体のことを言う。
エディプス・コンプレックスとか、エレクトラ・コンプレックスとかいうアレだ。
何がアレなのかは知らんが。
多分、ロリコンっていうのは心理学用語じゃなくて、俗語なんだろう。
しかしロリータ服っていう言い方があるっていうことは、「ロリータ」って言葉もマイナスイメージだけじゃないってことか。
「いや、まあ、とにかく、いいと思うぞ。」
「………。」
ジト目でにらむな。おれが語彙も少ないし、不器用な人間だってことも知っているだろう。
「『スイート・ロリータ』もやっぱり『スイロリ』って略すのか?」
乱暴にカーテンを閉めるな。それはオンボロ校舎の部室のドアじゃないんだぞ。壊したら自分で弁償しろよ。
しかしこの居心地の悪さは何なんだろうね。
なんだか店員からの怒りのオーラみたいなものを感じるんだが。
客にプレッシャーを与えるのはよくないと思うぞ。
まあ、俺がこの店に金を落とすわけじゃないんだから、客とは言えないな。ただの冷やかしだ。
多分一刻も早くこの店から出ていってほしいに違いない。
やっぱり俺がここにいるのは場違いだ。
それを承知であいつは俺をここに連れてきたわけだな。
だから罰ゲームなのか。
しかし招かれざる客っていうのはつらいもんだね。
こいつが着替えている間にいなくなっても許されるかな。
「許されませんね、絶対。」
また口から漏れていたみたいだ。
振り返ると背が高い美人がいた。さっきから怖い空気を醸し出してる店員だ。マヌカンっていうのか?
敬語なのになにやら威圧感を感じる。
森さんを思い出した。
まあ、かくれんぼの鬼になったのがつまらなくて、そのまま帰っちゃったみたいなことになるだろうな。
多分そういうことをしたらその子は二度と遊んでもらえなくなるだろう。
もっとも俺はこいつと楽しく遊んでいるわけじゃなくて、罰ゲームを課されているわけだが。
それで今帰ったら、罰ゲームをさらに加算されるんだろうな。
だけどこいつは俺にどんなひどい罰を与えたとしても、二度と遊ばないとだけは言わないだろう。
こいつは相手の都合なんかどうでもいい、一度腕をつかんだら絶対に離さない奴だ。
「だけどそれに甘えるべきではありませんね。」
うん、なんでこう口から漏れるんだろうな。
しかし、鶴屋さんもハルヒがおれに甘いって言ってたな。どこが甘いんだろうね。こんなに虐待を受けているのに。
やっぱりこいつは、昨日みんなの前で、「おまえ、ふとったな」と言ったことを根に持ってるんだろうか。
やっぱりアレが地雷だったのか? まあ、どこに地雷が埋まってるかさっぱりわからない、変な奴ではあるが。
なんだか店員だけじゃなく、ここにいる女性客まで敵にしたような気がする。そんな雰囲気がするな。
早く帰りたいんだが。早く出てこいハルヒ!
「ぶつぶつうるさいわよ!」
なんでおまえがキレる。居心地が悪い思いをしているのは俺であっておまえではないんだぞ。
「もう一回『ふとった』と言ったら………………………………………、グーで殴るわよ!」
「うん、それいいんじゃないか?」
おれは早く帰りたい一心で、瞬間的に反応してしまった。
「あんた、マゾ?」
「違う。」
王道だな。
白いワンピースに、若草色のカーディガン。
「いいと思うぞ。うん、それがいい。絶対いい。」
これは軽そうだし、かさばらないだろうな。荷物持ちの立場としては大変助かる。
「あんたさあ、さっきからやる気があるわけ?」
いや、罰ゲームにやる気も何もないと思うんだが。
「さっきから、どうでもいいような顔して、『いいんじゃないか』とか、『うん、それがいい』とか…。あんたが古泉君みたいに女心をくすぐるような、気の利いた台詞を言えるとは思えないけど、それにしたってもっと言いようがあるんじゃないの?」
だったら古泉についてきてもらえ。
いや、それじゃ罰ゲームにならないな。
絶対にするな。絶対にあいつとここに来るなよ。
というか、ここだろうがどこだろうが、絶対に二人で来るなよ。
なにしろ罰ゲームにならないからな。
「ふん、あんただって同じじゃない。何よ、みんなしてあたしのことばっかり…。」
「なんの話だ。」
「とにかく! あんたは今まで試着した洋服についてどう思うわけ? これがこういう意味でいいとか、あれがこういう意味でいいだとか、もっと具体的に言いなさい!」
「どれでもいいんじゃないか?」
「はあ?」
「おまえはとびきりの美人だ。」
「な…何よ、いきなり。あんたなんかにそう言われてもうれしくなんか…。」
「ないことはわかっている。おまえはそういうことは言われなれているだろうからな。好きな男にでもそう言ってもらえればうれしいだろうが、おれは好き嫌い以前におまえに男としてさえも見られていない。たしか昨日そう言ってたよな。」
「何よ、あんた拗ねてんの? あんたがそう言ったんじゃない…。」
「繰り返すぞ。おまえはとびきりの美人だ。さっきと同じ言い方になっちまったな。語彙が少なくてスマン。
それはともかく、おまえを見たら、誰でもそう思うだろう。」
おれは振り返ってさっきからおれを脅しているとしか思えない店員さんに言った。
「ここまではいいですね?」
「そのことについては誰も否定しないでしょう。」
おお、初めて肯定的なことを言われたぞ。
「で、とびきりの美人のおまえは何を着ても似合う。誰でもそう思うだろう。だったら何を着てもいいはずだ。どれでもいいはずだ。誰でもそう言うだろう。だからあとは財布と相談して決めればいい。というより、早く決めてくれ、頼むから。」
「ミエミエのお世辞でごまかそうとするんじゃないわよ。普段はちっとも褒めてくれないくせに…。褒めたって何も出ないわよ…。」
「お世辞って…。ああ、おまえが美人だって話か。おれに褒められてもうれしくないって、当たり前の話だ。お日様に『あなたは明るいですね』と言ってお日様が喜ぶか? おまえが美人だっていうのはお日様が明るいっていうのと同じ客観的な事実であって、一メートルの定規を誰が見ても一メートルに見えるのと同じだ。定規に『あなたはちょうど一メートルですね』と言ったって絶対に喜ばないだろう。つまり俺の評価基準とは何の関係もない。だいいちおまえを褒めておれが何か得することでもあるのか? 褒めさえすればおまえが自分の荷物を自分で持つって言うんだったらいくらでも褒めるが。」
「あんたさぁ、ケンカ売ってる?」
「はあ?」
「この短い会話の中で四回も『誰でも』って言ったわね。あたしは誰でも思うようなことを聞いてるんじゃないの。『あんたが』どう思ってるかを聞きたいわけ!」
「ええっと、まさかとは思うが、おまえは俺の好みを聞いているのか?」
「……くっ。あんたの好みなんか聞いても何の参考にもならないけどね。まあせっかくそこにいるんだから聞いてあげなくはないわよ。」
おかしいぞ。こいつがおれに意見を聞いているのか?
こいつがおれの言うことなんか聞くわけがないんだが。
だいたい試着室の前で彼女の着替えた姿を見てアレコレ言うのは彼氏の役割だ。
おれはこいつの彼氏ではない。断じてない。モノだ。道具だ。所有物だ。昨日まではイスだった。
わかったぞ。罰ゲームの続きだったな、これは。
要するに俺に恥をかかせたいわけだな、コンチクショウ。
俺が見当違いなことを言うのを待って、すかさずバカにするとかそういうことか。
しかし、これ以上ここにいるのはさすがにつらい。
俺が恥をかかない限りここから出ることはできないわけか。
しょうがねえ。地雷原に突入するか。
 
「あのな、ハルヒ。俺がおまえの服装なんかいちいち見ていると思うのか?」
「はあ? あんたやっぱり、ケンカ売ってるわけ?」
俺がおまえの服装を見ていたのは、孤島に行った時と市民プールに行った時ぐらいだ。まああの時も、「服装」を見ていたわけではないが。
「俺がいつも見ているのはな……、おまえの『表情』だ。」
「なっ……。」
何か言いかけて黙り込むな。試着室に逃げ込むな。調子が狂うだろう。
しかしこれを言い終わらない限り罰ゲームも終わらないわけだな。しょうがねえ、続けるぞ。
「初めの、ゴシロリ、いやゴスロリか。あれを着て出てきた時のおまえの表情だが……、長門の真似をしているのか?
確かに服装が人間の内面に影響を与えるっていうのはあるだろうが、いくらなんでもヒドすぎる。
俺が『ゴスロリってなんかフランス人形みたいだな』って言ったのを気にして……いるわけはないが、本当にフランス人形になろうとしてどうする。
なんだか無表情を装っているのか、それでも人形みたいに笑おうとしているのかワケがわからん。正直不気味だぞ。そんなのちっともおまえらしくない。」
試着室でゴソゴソ着替えている音がするな。まあこっちもおまえの顔を見ない方がラクだ。むちゃくちゃ恥ずかしいんだから。
「それで、次の子供服みたいな奴、スウィートロリータか。それを着ていた時のおまえだが、無理矢理あどけなさを作りだそうとしているのがバレバレだ。おまえは朝比奈さんになりたいのか? それでいて照れ隠しなのかしゃべり方がまるっきりいつもと同じなのが聞いていて寒い。あざとい。不自然だ。早くカーテンを閉めてくれって本気で思ったぞ。」
着替え終わったようだな。なんで出てこないんだ?
「聞いてるか?」
「続けなさい!」
やっぱり続けろっていうのか。うう恥ずかしい。
「さっき着ていた白のワンピースだが、これは王道だ。これが嫌いだっていう男はいないだろう。しかしそれを着ているおまえを俺が好きかっていうと、そうではない。何だか男性の庇護欲をそそる服装っていうか……、俺の偏見かもしれんが。口調こそいつものおまえだが、それでもあれを着ている時の表情はそれを演出しているかのように見えた。」
「何言ってんのよ! なんであんたみたいな弱っちい男に守ってもらわなきゃならないのよ! あんた腕相撲でも三回に二回はあたしに負けるじゃない!」
何を言い出すんだこいつは。
「なんで女ってのはこう強い弱いにこだわるんだろうね。」
やれやれ……。
 
「弱い男が強い女を守って何が悪い。」
 
なんだか店じゅうの女どもがギョッとしたようにこっちを見た。何なんだ。
「あのな、だいたい弱ければ守ってもらえるなんて考える人間がこの世にいるのか?
少なくともおまえは絶対にそんなことは考えない。
そういうのがおまえらしくない、って言ってるんだ。
弱ければ守られるんだったら、道ばたのアリさんを本気で守る奴がいっぱいいたっておかしくない。」
俺はあの長門のことを思い出した。
文字通り男どもの庇護欲をそそる、内気で、儚げで、今にも折れてしまいそうなあいつ。
だけど俺はそんな長門より万能宇宙人の、世界最強の長門を選んだ。
やっぱりあいつは強くあってほしいと思った。
だけどあいつを守らなくてもいいとは思わない。
あいつは異常動作を起こさなければならないほど追いつめられていた。
だからあれ以来長門のことは気づかっている。
いつも守られている俺がこんなことを考えるのはカタハラ痛いだろうが、それでもあいつを守ってやりたいと思う。
「今、有希の名前が聞こえたような気がしたけど?」
「その長門じゃない。戦艦長門だ。」
「はぁ?」
ここであいつの名前を出すのはマズイ気がした。
 
「長門の主砲が40センチだっていうことは知っているな。建造当時世界最大の砲を積んだ高速戦艦だ。
つまり洋上では世界最強の存在、まさにバケモノだ。」
なんだか胸がチクリとした。長門、おまえのことをバケモノと言っているんじゃないぞ。あくまでも戦艦だ、戦艦。
 
「それでも長門が出撃する時には単独じゃない。必ず巡洋艦と駆逐艦の護衛がつく。
無論巡洋艦や駆逐艦は長門より強いわけじゃない。
それでも自分たちよりはるかに強い長門を守るわけだ。
駆逐艦は潜水艦を爆雷で攻撃するため。
巡洋艦は駆逐艦では航続距離が足りない場所まで随伴するため。
時には身を挺して長門に発射された魚雷の射線に割り込むため。
何故か? 自分たちより長門の方に価値があると考えるからだ。
おれがおまえと並んでいるとき車道側に立つのは、俺がおまえより暴走車両に強いからじゃないぜ。
もっとも駆逐艦や巡洋艦が戦艦より弱いかと言えば必ずしもそうとは言えない。
それはある兵器の開発によって決定的になった。
日本海軍の秘密兵器。蒼白き殺人者、九三式酸素魚雷だ。
酸素魚雷はもともと雷跡を消すために開発されたものだ。
それまで使われていた圧縮空気ではなく酸素なら水に溶け込みやすいからな。
そして圧縮空気より酸素の方がより激しく、強い力で燃焼する。
その特徴によって思わぬ副産物が生まれた。駛走距離だ。
最大射程4万メートル。
長門の主砲は40センチ。大砲の射程距離は口径1センチにつき約1000メートル。つまり最大射程4万メートル。
もちろん実際の戦闘では互いに近づかなければならないわけだが、理論上は全くの互角だ。
まあ、戦艦といえば日本人はほとんど大和を思い出すが、
ここで46センチ砲を持つ大和ではなく長門を例に出したのはこのことを言いたかったからだ。」
なんだか言い訳がましいが、この調子ならごまかせそうだ。
 
「つまり日本海軍の戦前の作戦構想、漸減作戦では、水雷戦隊の夜襲攻撃が考えられていた。
その長射程を生かして敵戦艦を雷撃する。
雷撃が砲撃より効果的なのは喫水線下、つまり装甲がされていない部分を攻撃できるからだ。
波浪によって艦がよほど上下していない限り、砲弾は頑丈な装甲甲板にしか落ちることはない。
さらに決定的なことだが、砲弾は爆発してもその爆風は上空に向かって拡散するだけだが、魚雷は水中で爆発する。
爆風は艦のまわりにある海水、つまり水圧によって押し戻される。つまり全ての衝撃が艦内になだれこむ。
撃沈するためには砲撃よりも雷撃の方が効果があるのはそのためだ。
しかし水雷戦隊が突入すれば必ず戦艦を食えるというものでもない。
食えるのは、長門が丸裸でいるときだけだ。」
 
ん? いま何かマズイことを言ったような気がする。
「いや、そうじゃなくて、彼女が裸でいるときだけだ。」
ん? これでもマズイ。っていうより、ほとんど同じだな、こりゃ。
なんだか目の前にいる女性客の眼が怖いような気がする。そうだよな、普通の女性は軍艦を「彼女」と呼ぶことなんか知らんよな。
 
「言い直すぞ。つまり戦艦に護衛がついていない時だけだ。
確かに魚雷は当たれば撃沈に結びつく可能性は大きいが、当たるまでの時間が長い。
護衛艦に邪魔されるかもしれない。
砲弾の方がはるかに短い時間で届く。
そこで日本海軍は、水雷戦隊に囮として、あるいは護衛として戦艦をつけることを考えた。
つまり時には、戦艦を駆逐艦、巡洋艦が守る。
そして時には、戦艦が駆逐艦、巡洋艦が守る。
お互いに守ったり守られたりするわけだ。
しかしこの水雷夜襲による漸減作戦は実現しなかった。実際に使われたのは、機動部隊、つまり高速空母を主力とした戦力だった。」
「キョン……、あんたねえ、せっかく途中まで一生懸命聞いてたのに、女の子にわからないような話をいきなりするんじゃないわよ。」
おまえが長門の名前を耳ざとく聞きつけるからだろうが。これがブティックの試着室の前でするような話じゃないってぐらいわかってるぞ。
まあ、こんなことを言い出したのは照れ隠しという要素もあるわけだが。
 
「もう少し待て。話をもどすから。
つまり開戦時には航空機がいちばん進歩していたからだ。
機動部隊というのは空母を集中使用し、その大量の艦載機を集中豪雨のように敵艦隊に突入させるというものだ。
飛行機ならば戦艦の主砲よりもはるかに遠くから敵を攻撃できる。
一機一機の攻撃力は戦艦一隻にとても敵わなくても、数で押していけば圧倒できる。
実際に戦争が起きた時に使われた戦術だ。
俺がさっき大和ではなく長門の名前を出したのは、大和が建造された時は決して洋上で最強の存在ではなかったからだ。」
うん。また言い訳だな。
 
「しかしこの空母の集中使用という構想には弱点がある。
空母を集中して使用するということは、急襲されれば同時に多数の空母がやられる。
空母というのは、軍艦ではあるが航空機の洋上基地でしかない。ある意味輸送船みたいなもんだ。
しかも高速を出さなければならないため、基本的に装甲が薄い。
艦同士の砲戦には弱い。重巡洋艦戦隊にさえやられる。
そこで戦前の構想では、制空権下の艦隊決戦ということが言われた。
つまり戦艦同士が殴り合いをして、その上空を空母の艦載機がカバーする。
空母が戦艦を守るわけだな。
それならば空母を一か所に集めなくてすむ。
そういう考え方が支配的だった。
しかし機動部隊構想は惜しい。
そこで日本海軍は空母のアキレス腱を補う方法を考え出した。
重巡洋艦よりはるかに強く、空母よりはるかに頑丈な軍艦を使う。そう、戦艦だ。
戦艦が護衛についていれば、巡洋艦など一切寄ってこない。
何回も言うが、俺が大和ではなく長門の名を出したのには理由がある。
普通大和の方が頑丈だと考えられているが、俺は必ずしもそうではないと思う。
大和は航空機の魚雷十発で沈んだが、長門は真上で原爆が炸裂しても沈まなかった。」
ものすごく苦しい言い訳だ。しかもなんだか胸が痛い。あいつの真上で原爆が炸裂するイメージが胸に浮かんでしまった。
大丈夫のような気もするが。
 
「さっきの話とは逆に空母を戦艦が守るわけだ。
この意味がわかるか?」
まあ、機動部隊は速さが命である以上、高速空母群を護衛したのは長門型ではなく、いわんや大和型でもなく、金剛型の高速戦艦だったわけだが、そんなことがわかる奴はここにはいまい。なにしろここはブティックだ!
「時には戦艦を駆逐艦、巡洋艦が守る。
時には戦艦が駆逐艦、巡洋艦が守る。
時には戦艦を空母が守る。
時には戦艦が空母を守る。
どっちが強いかなんか関係ねえ、価値があるから守るんだ!」
 
よし、もどってきたぞ!
「では人間同士だったらどうなのか?
軍艦の例でわかるだろう。
時には男が女を守る。
時には女が男を守る。」
言い訳をしていた時にはあまり感じなかった羞恥心ももどってきた。しょうがない、これは罰ゲームだ。
「人間が何かを守るのはなんのためだ?
もちろん軍艦と同じだ。
価値があるからだ!
大切なものだからだ!
必要なものだからだ!
それがなくなったら自分が困るからだ!
俺があの時おまえの手を離さなかったのは、おまえが崖の下に落ちていくのがいやだったからだ。
それだけの理由だ。」
まあ、あの時だって俺はおまえを守ったわけじゃないがな。一緒に落ちただけだ。
「お互いに大切に思っているんだったら、強い弱いなんて関係ねえ。
男は女を守るだろう。
女は男を守るだろう。
つまり……。」
 
「守るってことと守られるってことは、全く同じことなんだよ。」
 
うわ、ものすごく恥ずかしい。こんなことを言うなんて全然俺に似合ってねえ。
しかもいまドサクサにまぎれて本音を言っちまったんじゃねえのか? ハルヒのやつ、聞き流してくれればいいが。
まああの時のことなんて、100パーセント覚えているわきゃねえないからいいけど。
 
「だけどさあ……、そういう守る守られるっていうのは互いを拘束するってことじゃないの?」
良かった。聞き流してくれた。やっぱり覚えていなかったか……。まあ、そんなもんだよな。
「当たり前だ。人間は国に守られ、家に守られ、俺たち学生は学校に守られている。
これは鳥カゴみたいなもんだ。鳥カゴは鳥を拘束する。しかし鳥カゴは猫から鳥を守る。
人間の自由なんて、カゴが大きいか小さいかにすぎん。
もしそれが嫌なんだったら、たった一人で自分を守れ。」
こいつならできそうだな。
俺なんかいなくてもどうでもいいだろうし。
「だからハルヒ、もし俺がおまえに『今までさんざん迷惑をかけたな。それも今日で終わりだ。おまえを自由にしてやろう。』と言ったらど…。」
「あんたは絶対にそんなこと言わないわよ!」
そうだな。迷惑をかけられてるのは俺のほうだ。
 
コホン、と咳をする音が聞こえた。さっきの女性店員だ。怖い人だ。
「お説はごもっともですけど、さきほどの『女ってのは…』というのは釈然としませんね。あなた高校生でしょう? 女を知りつくしたような発言をするのにはまだまだ若すぎるかと……。」
ああ、この人は「高校生のガキのくせに生意気言うんじゃない」と言っているわけか。
まあ、いいか。どうせ恥をかいてるんだ。恥をかくために恥をかこう。罰ゲームなんだからな。
「それについては説明が必要ですね。俺が前提なしに『女』って言ったら必ずこの試着室の中でじっとしている奴のことを言います。そうでない場合はいちいち断ります。」
試着室の中でドスンという音が聞こえた。
「今度はバタバタしてるみたいですけど。」
 
しかし今の発言は問題だな。昨日の「おまえを女として意識していない」っていう発言と矛盾しちまう。あとでフォローを入れないと、昨日の「ふとったな」発言がセクハラになる。心にとめておこう。
もう一つ、「俺にとって女とはハルヒのこと」っていう発言と、さっきの「大切にしているなら男が女を守る」っていう発言との関連だ。
俺は長門を守りたいと思っている。しかし異性として意識しているわけじゃない。当然向こうもそうだろう。というより、あいつは自分が女だなんて思ってないんじゃなかろうか。
朝比奈さんか。あの人こそ庇護欲をかきたてられる女性の典型だ。しかし決して弱いわけじゃない。あの人はどんなに押されても元の位置にもどろうとする強さを持っている。だからこそ守りたくなる。そして俺にとって朝比奈さんはマドンナだ。アイドルだ。天使だ。だからつき合いたいとか思っているわけじゃない。つき合えるわけもないが。だからこそハルヒに内緒で出掛けたりもできたんだろう。
なんとなくあの長門を思いだした。あいつだって弱いわけじゃない。どこか芯の強い、そして大胆ささえ持っていた。
あの長門はもちろん自分のことを女だと思っていたろう。だけど俺のことを男として意識していなかったことだけはたしかだ。何せ一人暮らしの部屋に俺を上げたんだからな。
おでんを食っただけだが。
そして俺はあの時、ただハルヒに会いたかった。
今こうして会っていられるだけで幸せだと思うべきだ。たとえ全く男として見られていなくても。
ふと中学時代よくつるんでいた同級生のことを思いだした。ハルヒともあんな関係になれれば理想かな。
いまはただ、所有者と所有物だが。
「じゃあ、最初の質問に答えるぞ。
俺の好みだったな。
俺がいちばん好きな表情は、
俺の腕をつかんで走り出す時の、
何か思いついて俺の顔を見てにまっと笑う時の、
それでいて団員の前では太陽みたいな笑顔でみんなを明るい気分にさせる時の……つまり」
 
「いつものおまえだ。」
 
試着室の中でまたバタンという音がした。
おいおい大丈夫か。トイレと風呂場と試着室の中だけは、自分一人で自分を守れよ。
「で、着替え終わってるのか?」
「うん。」
試着室のカーテンを勢いよく引いた。
チャッという音がしてハルヒの姿があらわになる。
カーテンに手をかけたまま横目でちらりと見た。
ここに来た時のピンクのトレーナーとジーンズだ。
「ハルヒ。」
「……なに。」
 
「似合ってるぞ。」
 
「演説は終わりだ。」
俺はハルヒに背を向けて言った。
罰ゲームも終わりだ。
羞恥プレイも終わりだ。
「で、どうするんだ。」
「はぁ?」
「買い物だよ、早くしろ。」
なんだか店内のフンイキが先ほどまでの殺気だったものではなく、生暖かいものになっているような気がするぞ。
「あたしにどうしろって言うのよ!」
「なに言ってんだ。おまえの好きな物を選んで買え。買い物っていうのは欲しい物を買うことだ。」
ハルヒが試着室から出てきて俺の前に立った。
ほんとに人より前に行きたがる奴だな。
しかも顔が近いし。
まあ、いつものおまえだが。
「あんたの意見は全く参考にならなかったわ。」
「おまえ最初からそう言ってたじゃねえか。」
大体この意見は営業妨害にしかならんぞ。
「しかもなんだかごまかされたような気がするし。」
ごまかすって何なんだよ。俺は自分の思っていることを羞恥心に耐えながら言っただけだぞ。
「とにかくあたしの表情をあんたがよく見ていることは………わかったけど、あたしが聞きたいのは服装についてのあんたの意見よ。
あたしがどんな格好していたらあんたが見たいと思うかを教えなさい。」
なんだ。まだ終わってなかったのか? 罰ゲームは。
「み……。」
「水着っていうボケはいらないからね。今は真冬よ、ま・ふ・ゆ。あと半年待ちなさい!」
女性客と店員がクスクス笑っている。
「ま、どうせあんたのことだから女の子の洋服のことなんてほとんど知らないだろうから、この店にあるものならなにがいいのかを言いなさい。」
「そう言われてもな……、俺はこういう店にどういうものが在庫としてあるのかなんて知らんぞ。」
多分バニーガールはないだろうな。ナース服もメイド服もないだろう。体操着……、とか言ったら変態あつかいするだろうな、こいつは。
「まったくあんたは……、だったら今あんたの目に入っている物の中で、何がいいのかを教えなさい。」
目に入る物ねえ……。
俺はぐるりと店内を見回した。なにがなんだかさっぱりわからない。
ふとショーウィンドーの外を見てみた。
「おまえがアレ着てるところなら見たいと思うぞ。」
 
「ちょっと、あんた、ふい打ちはひきょ………。」
何を言っているんだこいつは。
そう思って自分が指さしている方向を見た。
結婚相談所だな、あれは。
それは問題ない。
問題は俺がいま指さしているモノだ。
ウェディングドレスだ。
ウェディングドレスだな、あれ。
まずい。
昨日「おまえに変な下心はない」って言ったばかりだ。
それにさっき「俺にとって女とはハルヒのことを指す」とか言ってしまった。
これじゃ下心があるっていう風に取られてもおかしくないよな。
やっぱり俺はこいつに軽蔑されたくない。
それに昨日、「女として意識しているわけではない」とこいつに言った。
それがウソだということがばれれば、あの発言がセクハラになっちまう。
しかしこれがかえって、フォローするいい機会かもしれない。
俺はふり返って言った。
 
「だから……、おまえの結婚式にはぜひ呼んでくれ。」
 
よし、ナイスフォローだ。がんばったぞ、俺。
……なぜ無言で震え出すんだ?
顔を真っ赤にしている。
未来の自分の花嫁姿を想像して恥じらって……いるわけではないな。
どこに地雷が埋まっていやがった?
俺にははっきりとわかる。
こいつはいま、ものすごく怒っている!
滅多にいないような美少女が本気で怒っている表情ってのは………怖いな。
いや、それどころじゃない!
なぜだ? 理由がわからん!
とにかく、否定すればいいわけか?
「今の発言はなしにしてくれ。」
コホン、とひとつ咳をした。
 
「おまえの結婚式には俺なんか呼ばなくていいぞ。」
 
まずい。これは人を殴る時の目だ。
俺はおまえのこんな表情を見たいわけではないぞ……。
ハルヒが一歩踏み込んでくる。
右手を上げる……。
それがいきおいよく俺の顔面に……。
しまったあ……!、かわしてしまった!
ていうか、そんな大振りビンタが当たるわけがねえだろ……。
俺はあの朝倉のナイフを二度までもかわした男だぞ……。
それどころじゃない!
次のが来るはずだ。
よし……、こいつはもらうぞ。
俺は目をつぶった。また反射的にかわしたらシャレにならん!
もらうぞ……、もらうぞ……、もらうぞ……、
ちっとも来ないな。時間差攻撃か?
とにかく早くこい。
こっちはもらう気になってんだから。
「もらえないわよ?」
いきなり声がした。
目を開けた。
「えーと、あいつは……。」
「とっくにいないわよ。」
いつの間にか店員さんが敬語からタメ口になっていた。
そんなことはどうでもいい。
俺はジャケットとズボンのポケットを探った。
財布…、ティッシュ…、ハンカチ…。
あった、携帯!
短縮番号の一番を押す。
トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…、
つながった…。
すぅーっと息を吸う音が聞こえた。
ヤバイ、これは来るな……。
俺は右手の中指で左耳の穴を押さえ、左目をつぶり、左手に持っていた携帯電話を思い切り自分から離した。
携帯を印籠のように店員さんに突き出している。
店員さんがギョッとしたような顔をした。
「バカァ!」
やっぱり来たか。あいつが何を思っているかはさっぱりわからないが、行動の予測はついてしまうのが恨めしい。これが雑用根性だろうか。
携帯を耳にもどす。
「おいハルヒ、 なにを怒ってんだ、おまえは……。」
携帯からは何も聞こえてこない。
あいつの声はおろか、何の物音もしない。
これは俺が携帯を耳にもどすのを見計らって、大声を出すつもりだろうか。
ちがう。
これは…、
「おいっ、おまえ……、」
俺は待ち受けの100Wの笑顔に向かって叫んだ。
 
「なんで泣いてる!」
 
「何の物音も聞こえないが、俺にははっきりとわかる。
俺はおまえのことなら誰よりもわかる自信があるんだ。
あれほど強いおまえが、なぜ泣いている?
俺でよかったら聞かせてくれ。
何がそれほどおまえを不安にさせた?
誰がそれほどおまえを追いつめたんだ?」
女性客の一人が、俺の正面の試着室のカーテンを乱暴に開けた。中には誰もいない。なんなんだ。
「とにかくだまってちゃわからん……。なんとか……。」
「うぬぼれるんじゃないわよ! あんたに、あたしの何がわかるっていうのよ!」
「そうだな。うぬぼれていた。俺はわかってない。おまえは泣いてない。泣いてないんだ…。おいっ、切る前に泣いてないって言」
プツッ。
「えー!」
電源落とすなよ……、電源落とすなよ…、電源落とすなよ…、
「ただいまこの電話は、お客様のご都合により……。」
あーっ、やっぱり落としやがった!
 
店内の女性客と女性店員の視線をひしひしと感じる。
俺の味方はいないようだ。
なにしろ、ここはブティックだからな。
「お騒がせして、申し訳ありません……。」
まったく、恥かかせやがって……。
「恥をかかせたのはどっちかなー。」
さっきの女性店員が腕を組んで俺を睨みつけている。
「君、なんであの子を追いかけないの?」
「理由は二つあります。
ひとつは、あいつは俺だけには絶対に泣いているところを見せたくないでしょう。
もうひとつは、あいつが、ここで泣き出したら俺に迷惑がかかると思って俺を残して立ち去ったと考えられます。
ならば俺は、ここに残るしかないでしょう。」
「へえーっ。そこまでわかってるんだ。」
「わかってしまうんだからしょうがないでしょう。」
わからなかったらどんなに楽か……。
「だけど、ここに残ったということは覚悟ができてるわけね。………女の敵!」
「女の敵っていうとアレですか?」
俺は向かいの結婚相談所のショーウィンドーを指さした。
「………………………………。」
「………………………………。」
「………………………………。」
「………………………………。」
「………………………………。」
「………………………………。」
          :
          :
          :
          :
「ケーキ…。」
完璧に外したようだ。ウェディングケーキがあったからちょうど良いと思ったんだが。俺にはお笑いの才能はないらしい。トナカイの一発芸を思い出した。
「君、上手いこと言ったつもり?」
どうやらこの人たちは根本的な勘違いをしているようだな。
「誤解があるようですが、俺はあいつとつき合っているわけではありません。」
まあ、俺の言動を省みてみると、彼氏のそれだったら責められるべきだろう。そうではないんだが。
「ふーん、じゃあ、君とあの子とはどういう関係になるわけ?」
この店員はこの場の女性代表、というか尋問官になったつもりみたいだな。
「団長と団員その1。」
「………。」
「あるいは、団長と雑用係。もちろんあいつが団長で俺が雑用係です。」
「………。」
沈黙が痛いな。
「まあ、あいつと作った部活の部長とその部員と言ったらわかりやすいですかね。」
「悪いけど、さっぱりわからないわ。」
女王様と下僕と言ったらわかりやすいんだろうか。そう言ってみるか。
 
「要するに……ですね。俺の片思いですよ。」
 
目の前の女性店員が腕組みをほどいて目を丸くした。
「君、それを本気で言ってるの?」
そうきたか。他の店員や女性客までも目を見張っている。やはり羞恥プレイか。しょうがねえな。
「本気ですよ。
もちろん、俺とあいつが釣り合うなんて思ったことは一度もありません。
それでも俺はあいつのことが好きです。
初めて声を聞いたときから、ずっとあいつのことが好きです。
俺はあいつに利用されているだけかもしれません。
それが言い過ぎでも、あいつが俺のことを男だと見ているわけではないことははっきりしています。
それでも、俺にはあいつが必要なんです。」
言っていて悲しくなってきた。なんだかまわりの女どもが頭を抱えているぞ。
 
「だから、身の程知らずだとわかっていると言ったでしょう!
まあ、あいつが誰でも認める美人だということもありますが、それだけではありません。
初めて見た時からあいつに惹かれていることは事実ですが、あいつの外見だけが好きなわけではありません。
多分、俺ほどあいつといっしょにいる人間もいないでしょう。
教室で、部室で、今日みたいに休日もね。
口こそ悪いですが、あいつほど人がいい奴はいません。
本気で他人を傷つけるようなことは絶対にしない奴です。
少なくとも今のあいつはそうです。
俺みたいなどうでもいい奴に対してさえも、ギリギリのところで踏みとどまることができる奴です。
ここに俺を残して去っていったことだけからさえも、それがはっきりわかります。
さっきも言ったはずです。
俺は誰よりもあいつのことを理解している自信があります。
神の力が働いたことが奇跡というなら、あいつに出会えたことも小さな奇跡なんでしょう。」
おまえの力じゃないよな、これは。
「………、つっこみたいところはいっぱいあるけれども、まず、自分が利用されているだけかもしれないと、君が思う根拠を言ってみてくれるかな。」
「だから、雑用係です。あいつは嫌なことやめんどくさいことは、全部俺にやらせるんですよ。」
「具体的に。」
「そうですね…、部室のパソコンの管理を全部俺にやらせます。
もっと上手い人がいるのに、しょっちゅう俺にお茶を淹れさせます。
ちっとも凝っていないくせに、いやがらせのように肩を揉ませます。
二駅向こうの電気屋にストーブを取りに行かされたこともあります。
映画撮影をした時、カメラ、編集、その他の面倒なことは全部俺にやらせました。
いっしょに部室に泊まりこんだ時も、俺にだけ作業をやらせて、自分はぐうぐう寝ていました。」
「泊まりこんだって……二人だけで?」
「俺を男として見ていないって言ったでしょう。
部活五人で集まる時は、俺が最後に来ると、まあいつも俺が最後なんですが、『遅い!罰金!』と怒鳴ります。
待ち合わせの時間には間に合っているんですが、あいつのルールでは、いちばん遅い奴が遅刻なんだそうです。
かならず五人分のお茶を奢らせます。
俺と待ち合わせる時には、あいつは一時間前に来ているとしか思えません。」
「君も一時間前に行ったらどう?」
「そんなことをしたら、あいつがもう一時間前に来ちゃうじゃないですか。」
「……なんのためだと思う?」
「俺に金を出させるためでしょうね。そう考えると、あいつにとって俺の存在というのは、財布、あるいは道具なんでしょう。」
「君ねえ……、いくらなんでもそんな言い方をしたら、あの子がかわいそうだと思わない?」
「思いませんね。かわいそうというのは、強者が弱者に与える感情です。俺は絶対にあいつに勝てるとは思えません。実際、昨日までモノ扱いされていましたし。」
「それも具体的に。」
うん。さすがにコレを言うつもりはなかったが、この流れでは言うしかないのか。
「ええと、まあ罰ゲームなんですよ。まあ、あることであいつを怒らせてしまってその罰として、一日一時間は、あいつ以外の人としゃべると殴るんです。」
イスのことはしゃべりたくない。しゃべってたまるか。
「それではモノ扱いしたってことにはならないわね。あの子がやきもち焼きってことがわかるだけじゃない。っていうことは、その『あること』ってのは浮気?」
やきもち焼きって何なんだ。それに浮気って…だから、つき合ってるわけじゃないと最初に言ったんだけどな。
「そうじゃありません。ある女性と待ち合わせて出掛けただけです。」
「ふーん。隠れて他の女の子とデートしていたのがバレたわけだ。」
「デートではありません。デートというのは彼氏彼女がやることです。」
「そんな理屈があの子に通用すると思う?」
「……思いません。」
「それでモノ扱いされたっていうのは?」
どうしても言わせるつもりかこの人は。
「で、イスになれと。」
「は?」
さすがに引いてるな。
「俺にイスになれと。」
「それも具体的に言ってほしいわ。」
「つまり俺が床に四つんばいになってですね、あいつがその上であぐらをかいていて、それが毎日一時間、その間は自分以外とは絶対しゃべるな、と、。」
「かわいいわねえ、あの子。君の背中の上でスネてる様子が目にうかぶわ。」
「俺には見えませんでしたけどね。」
「君にだけは見せたくなかったのよ。」
「俺にかわいいと思われてもしょうがないですからね。」
「あのねえ、泊まり込みのこともそうだけど、普通女の子が自分の重みを男に預けるっていうのは、よっぽどのことよ。」
「普通の女性のことはわかりません。俺はまだ高校生です。女性を一般論で語るにはガキすぎます。俺にとって女というのは常にあいつのことを指すって言ったでしょう。俺がわかっているのはあいつのことだけです。要するに俺を男だと思ってないだけです。あいつはもっと単純な奴です。つまりは座りたかったからイスにしただけです。」
まあ、俺に屈辱を与えるといった意味合いがあっただろうが、さすがにそれは言いたくないな。
「君は、あまりにもあの子のことばかり見ていたから、かえってあの子のことがわからないのかもね。」
よくわからないことを言う人だな。
「それで、自分が男として見られていないと思う根拠は?」
思っているわけじゃなくて事実なんだけどな。
「それははっきりしています。自分で昨日そう言っていました。」
「詳細を。」
「は?」
「くわしくその時のことを話しなさい。」
そこまで言わせるか。まあ、これは屈辱的なことではないからいいけど。失敗ではあるが。
「まあ、そんな虐待を受けていたのでちょっとしたイヤミを言ってみたんですよ。」
「どんなふうに?」
「おまえ、ふとったな、と。」
周囲の女性たちが俺のことをハエを見るような目でみている。やっぱりこれはセクハラだったか。
「さすがに俺もこれはセクハラではないかとあわてました。そこで、男が女に言うからセクハラになるわけだから、おまえにとって俺は男じゃないし、俺にとっておまえは女じゃないんだから、この発言は許してくれと。」
周囲がドン引きしているな。昨日の部室と同じだ。やれやれ。
「そうしたらあいつが、『確かにあんたのことを男として意識しているわけじゃない』と言いまして、正直ショックでしたが。」
「君のことはどうでもいいけど、あの子はショックだったでしょうね。」
「いえ、『あんたに女として見られたら迷惑だ』とはっきり言ってました。」
女性店員は大きくため息をついた。それは俺の専売特許だぞ。「やれやれ」って言うなよ。
「それでなぜか今日洋服を買いに行くからつきあえ、と。」
「それであの子がフェミニンな服装にこだわってたわけね……。」
フェミニンって何だろうか、フェミニズムの一種だろうか。あいつらしいが、もう女性尊重主義はSOS団には足りていると思うぞ。俺は雑用係だし、古泉は副団長といっても便利屋、というか団長専用自動手もみマシーンだ。まああいつがハルヒの機嫌を取ってくれるのはありがたいけど。
「浮気の罰がイスのことといい、今日の買い物のことといい、さっきのあの子の態度もそうだけど、ほんとうにあの子は君には甘いわね……、大甘。君にとって女というのはあの子のことかもしれないけれど、全ての女があの子みたいだとは思わないことね……。」
鶴屋さんと同じことを言っているな。しかし全く面識のない人が同じことを言うってことは、俺の方がどこがズレているんだろうか。俺自身はあいつに虐待されているとしか思えないんだが。
店員さんは、俺に人差し指を突き立てた。誰かに似ている。
「教育してあげるわ!」
この人は女性ドイツ士官だろうか。
「あの子が君にどんなことをさせているかはわかったわ。だったら今度は君があの子にやらせたことを教えなさい。」
そんなこと言われてもな。あいつが俺に命令している姿しか思いうかばん。あいつにやらせたことねえ……。強いて言えば、アレか?
 
「髪型変えさせただけですね。」
 
「ひっ。」
「うそ……。」
「…………。」
なんだろうか、この周囲の女性陣引きまくりの様子は。
「げ、幻聴かしら。いま『だけ』って聞こえたけど。」
「そう言いましたよ。俺があいつにやらせたことっていうのはそれだけです。」
あいつの髪を短くさせたのは失敗だったな。今度伸ばさせるか。
「君、いまものすごく図々しいことを考えてなかった?」
「いえ、めんどくさいからやめます。」
しかしこの調子だとあのことについてもくわしく聞かれそうだ。
いま気がついた。あれをここで話すのは、まずいな……。
「このことについて不特定多数の人に話すことはできません。これは、あいつの名誉にかかわることです。」
「ごまかし?」
「違いますよ。しかしここまできて何も言わずにすませるわけにはいかないでしょうね。」
「当然。」
「ではこうしましょう。俺は身分を明かします。県立北高校、一年五組の生徒です。」
俺は本名を名乗った。
「それで、俺に対して身分を明かしてくれる人、一人にだけお話しします。」
客たちが明らかに落胆した顔をしている。このまま誰も名乗りでなければいいんだが。しかし…。
さっきから尋問をしている店員さんが言った。
「わたしが聞くわ。この店のオーナー店長、神原明美といいます。」
なんとなく予想していた通りになった。
しかしこの人店長だったのか、どうりで仕切ってるはずだ。
「あとはよろしく、みんな。」
「はい、わかりました…。」
「あの鬼店長に目をつけられるなんて…。」
「まあ、話を聞いた限りではいい気味だけど…。」
勝手なことを言ってるな。ていうかおまえら仕事しろよ…。店員は仕事する気ねえし、客は買い物する気ねえし…。
「じゃあ、店のすぐ上に事務所があるからそこに行きましょう。」
 
 
「じゃあ、あの子の髪型をどうやって変えたのか教えてもらうわよ。」
何の飾りもない壁紙。スチール机。明らかに業者からもらったと思われるカレンダー。電話が一台。さすがにコードレスフォンだ。しかし殺風景だな。長門の部屋を思い出した。
いや、長門の部屋は文字通り殺風景だが、ここは質素な部屋というべきだろうか。
あいつの部屋は何もないだけだが、ここではいろんな物が整理整頓されている。
ブティックの事務所っていうのはこういうもんなんだろうか。
店の雰囲気とは裏腹に、実用一点張りだ。
俺は小さな応接セットに座らされ、客用の湯飲みを前にしていた。
もちろん正面には、あの店長さんが、どっかり座っている。
しかしあのトンデモ世界のことをそのまま話すわけにはいかない。
話しても信じはしないだろう。
「去年の五月のことです……、あいつは、世界を捨てようとしました。」
「えっ? 君いい加減なことを言うと……。」
「あいつの名誉に関わることだから、あそこでは話せないと言ったはずですが…。」
ここに来るまでの間、あの時のことをなるべく現実的な文脈で話す準備はしていた。
しかしこういう表現をすると、どうしても誤解を与えてしまう。
「世界を捨てるって、まさか自さ……。」
やっぱりそう聞こえるか。
「俺には、ただ『あいつが世界を捨てようとしていた』としか言えません。嘘をつくつもりはありません。だから、信じてもらえなくてもかまわないと思っています。」
「続けて。」
「その前に、俺はここまであいつの秘密を話しました。絶対に他言しないと約束していただけますでしょうか。」
「わかった、約束するわ。わたしを信じて。」
「ありがとうございます。」
「あいつは世界を捨てようとして、ある場所に閉じこもりました。これも『ある場所』としか言えません。」
「いいわよ。そこがどこだろうと話の主旨には関係ないし。」
「あいつはそこに俺を呼び出しました。」
「なるほど。」
なにが「なるほど」なんだろうか。
「そこで俺はあいつに、『ある行為』を行いました。」
「『ある行為』とは何かを聞いても無駄なようね。」
「ありがとうございます。」
なんで二回も礼を言っているんだろうか、俺は。
この人に感謝しなきゃならないいわれでもあるんだろうか。
「ただ、その行為は、あいつに世界を捨てさせないために絶対に必要なことだったと言う者がいます。」
俺はそれを完全に信じたりはしてないが。
「それをする前に俺はあいつに、こう言いました。『俺、実はポニーテール萌えなんだ。いつだったかのおまえのポニーテールはそりゃもう反則的なまでに似合ってたぞ。』」
「それで?」
「あいつは世界を捨てるのをやめました。」
「で、次の日あの子がポニーテールで登校してきた、と。」
なんでわかるんだろう。この人はエスパーだろうか。俺にはエスパーの知り合いは一人しかいないが。
「目を丸くしなくてもいいわよ。だれでもわかるわよこんな結末。ベタすぎるわ。」
俺もあの時ベタだと思ったんだけどな…。
「それだけ?」
「それだけですよ。大して面白い話じゃなくて申し訳ありませんが。」
「そうじゃなくて、君があの子の髪型を変えさせたのはその時だけなのか、って聞いてるの。」
「あと二回しかないですよ。」
「二つとも話しなさい。」
「二つ目は、そんなに秘密にしなくちゃならない話でもありません。
文化祭の準備の時、あいつが暴走して、先輩の女性にものすごい迷惑をかけました。
俺はつい、あいつを殴りそうになりました。
幸い、そばにいた別の男子がうまく止めてくれました。
で、なぜか次の日、あいつはポニーテールにしていました。」
しかしこうして考えてみると、あいつが勝手にポニーテールにしてきただけで、俺がやらせたわけじゃないな。
店であんなことを言わなきゃ良かった。
「で、三回目は?」
三回目はたしかに俺が頼んだんだよな。そうするとやっぱり俺はあいつに髪型を変えさせたことになるのか?
ん? ちょっと違うぞ。
「すみません。間違えました。」
「どういうこと?」
「三回目はあいつじゃありませんでした。」
あのハルヒもハルヒには違いないけど、あいつのことではないな。
「ですから、この話はしても意味がないかと……。」
「言いなさい!」
いきなり大声で怒鳴られた。
言うしかないのだろうか。
「俺にはあいつがどうしても必要だという話はしましたね。」
「聞いたわ。」
「三日間、あいつが俺のそばにいなかったことがあります。」
「禁断症状でも出たの?」
「その通りです。」
「で?」
「ちょうどその時、あいつと顔と性格がそっくりの女と出会いました。」
実際には探し出したんだけどな。
これを言うとまた誤解を受けそうだ。
「それで君、その子に声をかけたの?」
「ハルヒ、と声をかけて蹴られました。」
「当たり前……。」
やっぱり誤解しているな。
「その後喫茶店でしゃべりました。言っておきますが、その時男がもう一人いましたよ。」
「それで?」
「そいつの喫茶店代はその男が払いました。」
「そんなことはどうでもいいの。続きを話しなさい!」
「で、その後そいつに、『ポニーテールにしてみないか』と言ってみました。」
「その子はそうしたの?」
「ちゃんとやるのは面倒だとか言っていましたが、その方が運動部らしいということで…。
言っておきますが、そいつとは半日しか会ってませんよ。」
「へぇー君、会って半日の女の髪型を変えさせたんだー。」
完全にこの人は誤解している。
「いや、実はそいつとは三年前にも会ったことがあってですね。」
「君さあ、さっき『俺にとって女とはハルヒのことだ』とか言ってなかったっけ?」
だから、あいつもハルヒなんだけど。このことを説明するのは難しい。
「誤解です。うまく説明できませんが…。まあ…、あいつにとっては自分とは違う人間なんですが、俺にとっては二人とも同一人物なわけで…。つまりあの間だけはあいつじゃなくて、そいつがハルヒなわけで…。いや、あいつを裏切ろうとか、そういうわけじゃなくてですね。」
店長さんが、応接セットのテーブルをドン! とたたいた。
納得するわきゃないよな。
俺の説明が下手なんだろうか。
いや、このことを現実的文脈から乖離させずに、しかも誤解を生まないように表現することは不可能だ。
「寂しかったんですよ……、あいつがいなくて。」
「そんな言い訳でごまかされるのはあの子だけよ。」
「あいつに話すつもりはありませんよ。」
「賢明ね。君のためじゃなく、あの子のために。」
「そいつとはそれきり会っていません。」
あいつはどうなったんだろうか。
今でも光葉園学院に通っているのだろうか。
それとも消えてしまったんだろうか。
それとも今のハルヒの中にいるんだろうか。
俺にはわからない。
「そいつと会っていたら、あのハルヒに会えなくなってしまうから…。」
「当然でしょ。」
この人にあの三日間の恐怖を伝えることはできない。
伝えなくてもいい人なんだが。
「どうしてくれようかしら、この変態スケコマシを…。」
俺は変態でもスケコマシでもないんだけどな。
その時携帯が鳴った。
古泉だ。
「ちょっと失礼。」
「携帯なんか無視しなさい!」
「100パーセント、ハルヒのことです!」
俺は携帯を開いた。
「古泉、閉鎖空間か?」
「あなた、何をやらかしたんです!?」
「なんで俺が犯人だと決まってるんだ!」
「だから、何をやらかしたんです!」
「おまえがウェディングドレスを着ているところを見たい、と言った。」
「それだけじゃないですね。それで閉鎖空間が発生するはずがありません。」
「だから、おまえの結婚式にはぜひ呼んでくれ、と言ったんだ。」
「あなた! 涼宮さんを殺す気ですか!」
キーンと耳鳴りがした。
「耳元で怒鳴るな! おまえはハルヒか?! なんで俺を結婚式に呼ぶとあいつが死ぬんだ! それに言い直したぞ。やっぱり俺なんか呼ばなくてもい…。」
「おんなじことです!」
「それより閉鎖空間はどうなってるんだ?」
「非常に危険な状態です。ものすごい勢いで広がっています。世界改変もありえます!」
世界改変って……、あいつそんなに怒ってたのか?
「ずいぶん急だな。それでハルヒは…。」
「時間がありません。アレをやって下さい。」
「アレってなんのことだ!」
「アレと言ったら決まってるでしょう?! 白雪姫です! スリーピングビューティーです! かつて世界を失いかけた少女に全てを与えた問答無用の反則技です!」
ずいぶん皮肉っぽい言い方をするな。焦ってるんだろうが。Sleeping beautyがカタカナ発音になってるし。
それに問答無用って…、俺はあのときけっこうしゃべったぞ。
「ここにハルヒはいない。」
「はぁ? なんですぐに追いかけなかったんですか!」
「俺はいま、監禁されている。」
「ひとのせいにするんじゃないわよ!」
店長さんが会話に割り込んできた。
「で、いまあいつはどこにいる?」
「ロストしました!」
「なにやってんだ、おまえら!」
「あなたに言われたくありません! へたに尾行とかつけてあなたとのデートを邪魔したりしたら、かえって危険だと判断したんですよ!。」
「だから、デートじゃねえって!」
「今はそんなことどうでもいいです!」
「まあいい。電話で話す。」
「電話で大丈夫ですか?」
「あの時は文字通りゼロ距離射撃だったが、今回は遠距離雷撃になるな。それでも有効射程距離だ。いける!」
40キロも離れてるわけじゃないしな。
さっき戦艦長門の話をしたせいか、なんとなく戦史オタクっぽい言い方になってしまった。
それとも昨日たまたま戦史本を読んだせいで、頭脳がそれから離れていないのかもしれん。
まあいい。照れ隠しにもなるし、今日は軍事用語で押し通そう。
それはともかく、ハルヒの方は話せさえすれば大丈夫だろう。この程度のケンカならしょっちゅうしている。
「タイムリミットは?」
「あと8分で次の段階に入ります。」
「8分あればなんとかなる。」
「8分間で涼宮さんを落とすんですか?」
「あいつを落とすなんて俺にできると思うか? 
救うんだよ。
8分以内であいつを救う!
こんなくっだらねえことで、絶望されてたまるか!」
携帯をたたむと店長さんに言った。 
「電話借りますよ!」
携帯は古泉との連絡のために生かしておかなければならない。
「携帯の電源は切ってるんでしょう? あの子の居場所がわかるの?」
「わかってしまうんだからしかたありません。」
携帯を開いて番号を確認し、店の電話の受話器を取る。ボタンを押す間がもどかしい。
「長門、俺だ。ハルヒにかわれ。」
小さいがよく通る声がした。
「ここにはいない。」
店長さんがフンと鼻を鳴らした。聞こえてるんだろうか。どうでもいいが。
「長門、その電話のスピーカーボタンを押せ。」
店長さんがぎょっとしたような顔をした。表情が忙しい人だ。
「…………………………………………………………無駄。」
「無駄でもいい。押せ!」
「……わたしは古泉一樹とは逆の考えを持っている。あなたが今涼宮ハルヒと話すのは、危険。」
「どういうことだ。」
「あなたはかつて涼宮ハルヒに世界を与えた。
それまで彼女が持っていたのは単なる『背景』にすぎない。
あなたから与えられるまで、涼宮ハルヒは世界など持っていなかった。
涼宮ハルヒにとってあなたは世界そのもの。
彼女は今、世界に拒絶されたと思っている。
世界に拒絶された彼女は、再び世界を捨て去ろうとしている。」
あの俺の言葉のどこに拒絶があったのかがわからない。あいつそんなに俺を結婚式に呼びたかったのか? しかし「呼べ」と言った時もキレてたぞ。
「今の涼宮ハルヒにとって世界を消すということは、あなたを消すということ。
あなたは涼宮ハルヒに世界を与えたが、わたしには心を与えた。
ただの観測機械、自動人形、からっぽの容れものだったわたしに、あなたは心を与えた。
喜怒哀楽と人間は簡単に言う。
しかしわたしはそんなものを持っていなかった。
あなたはそんなわたしに、『元気か?』と言われただけで、いや、あなたを見ているだけでうれしいということを教えてくれた。
あなたは人を憎らしいと思うこと、やきもちを焼くことさえ教えてくれた。
そしてあなたは『かなしい』という感情さえ教えてしまった。
あなたを失えば、わたしは泣くだろう。大声を上げてわんわん泣くだろう!」
「ハルヒが俺を消そうとするならそれでもいい。」
こう言ってみた。
こんなことで俺みたいなどうでもいい奴を消したりしない。
こんなことはよくあることだ。
あいつが泣いていると思ったのはきっと間違いだ。
俺はそこまであいつを傷つけたわけじゃない。
俺みたいな奴にあいつを本気で傷つけるなんて、できるわけがないんだ。
「それは、あなたの理屈。
わたしはあなたを失いたくない。
今の涼宮ハルヒの精神状態はまさしく『かなしい』というもの。
いま、あなたの声を聞いても、悪い影響が出るとしか思えない。」
「あいつは俺を殺さない。世界六十億人の全てを殺しても、俺だけは殺さない。」
こんなことを信じてはいなかったが、俺はハルヒと話したかった。
というより、話せさえすればなんとかなると信じていた。
「あの時とは状況が違う。
彼女はあなたの声を聞けばまた拒絶されるのではないかと考える。
その前に世界を作り替えようとするかもしれない。」
「長門、俺はハルヒに嘘をついたことは数限りなくあるが、おまえに嘘をついたことはない。
俺はおまえだけには、絶対に嘘をつかない。
約束する。
俺とおまえとでは寿命が違いすぎるからずっといっしょにということはできないが、今日おまえが俺を失うことはない。俺を信じてくれ。おまえはボタンを押すだけでいいんだ!」
「また図書館に…。」
「ああ、図書館に連れて行ってやるから。ついでにカレーをおごってやるから。」
「Sleeping beauty……。」
「そいつはダメだ。」
「あなたは一つだけ、わたしとの約束を破った。『また図書館に』という約束を忘れた。」
忘れていたわけではない。ハルヒへの裏切りになるような気がしていただけだ。
「長門、俺を信じられないか?」
時間がない。このままでは埒があかない。
切り札だ。
「一回しか言わないからよく聞けよ……。」
声をはげまして言った。
 
「スピーカーのボタンを押せ、有希!」
 
「ひきょうもの……」という声が聞こえたような気がした。
電話の向こうからなのか、この部屋からなのかはわからなかった。
「ハルヒ、聞いてるか? 俺だ。」
店長がゆっくりとこちらに近づき、この部屋の電話のスピーカーボタンを押した。
「だって不公平でしょ?」
受話器からもスピーカーからも何も聞こえない。
「俺だ。」
名前を言った。
「忘れたのか?」
こいつのことだから俺の本名を忘れていても不思議はない。
「忘れたわよ……。」
やっぱり。
「あんたのことなんか忘れたわよ!」
いや、それにしては様子がおかしい。
なるほどそうか。
俺を「消す」っていうのは、俺の肉体そのものを消すということではない。
自分や周りの人間の記憶から俺の存在を消すということなんだ。
 
「初めて名前を呼んでくれたことも!
髪型をほめてくれたことも!
あんたに殴られそうになったけど次の日仲直りができたことも!
嵐の中ではじめて手を握り返してくれたことも!
あたしが崖から落ちても手を離そうとしなかったことも!
いっしょに落ちてくれたことも!
全部忘れたわよ!」
ハルヒの声を聞いてはっきりとわかった。
俺はそこまでおまえを傷つけたのか?
俺にそんなことができたのか?
いつものおまえの声とは全く違う。
さっきまでの自信がみるみるうちにしぼんでいく。
こいつは、「やる」つもりだ。
自分の中から俺に関する記憶をすべてデリートしようとしている。
「忘れないでいてくれ。ここに俺がいたことを」という言葉が悲しく思い出された。
 
「あんたが昏睡していとき、このまま目をさまさないんじゃないかと怖くて怖くて…、
呼吸を止めてしまうんじゃないかと思うと怖くて怖くて……、
寝息が聞こえるところから一歩も離れられなくて…、
たった三日間なのに、あんたに守られていないことがものすごく怖くて!
だけどあんたが目を覚ました時、たまらなくうれしくて!
あたしが付き添っていても何の役にも立たなかったと思ってたけど、
あんたの今日の話を聞いて、
もしかしたらあたしもあんたを守れたのかもしれないと思えて、
それがほんとうにうれしかったことも!
ぜんぶ忘れたわよ!」
古泉、すまんな。大口叩いたけれども、俺には無理みたいだ。
 
「それで、あのことも…、
あんたにキスされて、こんなくっだらない世界も捨てたもんじゃないと思ったことさえも…、
忘れたわよ…。」
こいつを止めることなんか、俺にできるわけがなかった。
こいつは俺を忘れるだろう。
それはどうしようもない。
だけどこれだけは言わせてほしい。
「わかった。おまえはおれを忘れればいいさ。おれがここにいたことも、おれという人間がいたことも。おまえとおれの思い出を全て忘れろ。それでいいんだ…。」
 
「おれが、覚えているから。」
 
息を飲む音が聞こえた。
腕を水平を伸ばし、受話器の「切」ボタンをプツッと押した。
同時に肘をくの字に曲げていた。自然に力が入っていたのか。
時計を見た。
「君、その時計……。」
「ただの腕時計ですよ。」
朝比奈さんが持っていたような電波時計ですらない。
「ただの時計って…。靴と合ってないと思ったけど。」
「文字通りタダの時計です。ハルヒの親父がくれたんですよ。娘をよろしくとか言って。」
なにがよろしくなんだろうか。要するにワガママ娘の面倒を見ろということだな。
「その文字盤に書いてある文字がわかる?」
「わかります。ギリシャのアルファベットの最後の文字だそうですね。」
タイムリミットまで……、一分半。
「片思いだっていうくせにあの子の写真を待ち受けにしてるのはなぜ? 隠し撮り? それにしてはいい笑顔だったけど。」
「あいつが俺の携帯で勝手に自分の写真を撮って、勝手に待ち受けにしたんですよ。常に団長のご尊顔を拝せ、とか言って。待ち受け変えると殴るんですよ。」
「君みたいな子とつき合ってたら、どんな女だって殴りたくなるわよ。」
「俺はあいつとつき合ってるわけじゃありません。あいつにつき合ってるだけです。」
一分……。
「君が言ってた『ある行為』って、キスだったのね。」
せっかく隠していたのに、おまえが言ってどうする。
というより「夢」じゃなかったのか、あれは。
いや、「夢」でも思い出なのか。
「ゼロ距離射撃って言ったでしょう。」
というより、特攻だな、あれは。
もう二度とあんな無謀な戦術はとらんぞ。
30秒…。
店長さんの軽口に合わせて別のことを考えようとしたが、神経が時計に集中して、少しも離れようとしない。
目が針に釘付けになっている。
「君が目を覚ました時、うれしかったって言ってたわね。」
「どうでしょうかね、俺が起きた時、あいつはぐうぐう寝てましたよ。俺の方が起こしてやりました。」
20秒…。
「付き添ってたって言ってたけど、どこで寝てたの?」
「病室の床です。」
「床って…。」
「いや、ちゃんと寝袋に入ってました。俺が倒れてからそのまま」
10秒…。
「三日間病室にいたんで、」
9…。
「さすがに疲れたんでしょう。」
8…
あいつでも疲れるんだな。
7…
床に栄養ドリンクが
6…
転がっていたのを
5…
思い出した。
4…
「あの子が起きた時、
3!
最初になんて言ってあげたの?」
2!
「ヨダレを拭け。」
1!
「君ねえ…。」
ゼロ!!
 
針がⅡをまわり、何事もなかったかのように同じペースで秒を刻んでいく。
店長さんの方に向き直った。
「俺はこの店に一人で来たでしょうか、それとも連れがあったでしょうか。」
「君、何を言っているの?」
「お願いです。答えて下さい。」
俺が真剣だとわかったのか、店長はいぶかしげではあったが、真顔になった。
「女の子と二人で来たわよ。」
「俺はその子のことをなんと呼んでいましたか?」
「下の名前で呼び捨てね。『ハルヒ』って呼んでたわ。」
「今、おれが電話していたのは誰ですか。」
「だからその、ハルヒちゃんでしょ。」
「そうですね、……おれもそう思います。」
目頭が熱くなってきた。人差し指と中指で涙をこすった。
「どうしたの?」
「うれしいんですよ、あいつを忘れないでいられて。」
その時携帯が鳴った。
古泉だ。
「あなた、どんな魔法を使ったんです? 閉鎖空間が完全に消失しました!」
「ハルヒの精神状態は?」
「破裂しそうなまでに膨れ上がっていた不安とストレスが完全に消えています。」
「あいつの気持ちが今は安定してるんだな?」
「その通りです。 何て言ったんですか?」
「おれはおまえを忘れないって言ったんだ。」
「いつもらしくもなく直球ですね。」
「九三式酸素魚雷はな、直進しかしないんだよ。」
「いつもそれぐらい素直だと助かるんですが。」
「言ったじゃねえか、8分以内であいつを救うと!
と、言いたいところだが、今回はたまたま喫水線下に当たっただけだ。」
「説明してもらえますか?」
いつもはおまえがしつこく説明してくるんだがな。
「おまえがよく言っている識閾下だよ。
おれはあいつの無意識にプロテクトを掛けたにすぎん。
あいつは俺のことを完全に自分の記憶から削除しようとしていた。
しかし、俺が『忘れない』って言ったせいで、俺の記憶から自分のことをデリートできないと思いこんでしまった。
あいつには俺の記憶がないのに、俺にはあいつの記憶がある、この矛盾に混乱し、記憶を削除するということ自体が面倒になったわけだ。
それであいつは改変をやめた。」
「やっぱり素直じゃないですね。」
「もっともこれよりはるかに単純な解釈もある。」
「うかがいましょう。」
「あいつが俺の言うことなんか聞くわけがないだろう?」
「涼宮さんがあなた以外の人の言うことを聞くとは思えませんが。」
まぜっかえすな。
「『おまえはおれを忘れろ』って俺に言われたから、俺の言うことなんか聞きたくないから、覚えておくことにしたんだ。」
「僕としては、あなたが忘れないと言ってくれるなら自分も忘れなくてもいいのだと、涼宮さんが安心したという説を採りたいですね。」
「それはないだろうな。」
それじゃああいつが心の底では、おれのことを忘れたくないってことになるじゃねえか。
「まあ……、いいです。とりあえず感謝しますよ。原因があなたにあるとは言え、ね。」
何で俺が犯人だと決まってるんだ。
「あなたは今まで涼宮さんの危機をことごとく回避させてきました。まあ…いつもギリギリでかわすのは悪趣味だとしか思えませんが。」
かわすのは得意だ。もらうのは苦手だが。
それに急降下爆撃をかわす時には、上空の敵機が降下を始めたギリギリで舵を思いっきり切るのがコツなんだ。」
操艦の基本だ。
降下を始めた航空機はかわされたとしても爆弾を海に落とすしかない。
そんなものを抱えて引き起こしをすれば失速するしかないからな。
「とにかく、これからもよろしくお願いします。忘れないで下さいよ。あなたは将棋の駒でいえば金将。王将を守る最後の砦なんですから。」
プツッと切れた。
おまえの金将はいつも砦の役目を果たしてないぞ。
しかし最後の砦ねえ……。なんで俺があんなに頑丈な女を守らねばならんのだ。
「君、さっき自分が言ったことを覚えてる?」
また口から出ていたらしい。
「それにあの子、君が思うほど強くはないわ。君はあの子の強さしか見ていないし、見ようとしない。それは美点と言えるかもしれないけれど、少なくとも君だけは、あの子に『たったひとりで自分を守れ』なんて絶対に言っちゃいけないわ。わかった?」
なんだかわからないが、返事をしておいた方がよさそうだ。
「はい。」
あいつの弱さか……、実はずっと前から気になっていることがあった。
いつかあいつの弱さと対決しなくちゃならない日が来るかもしれない。
もしかしたらそれが今日なのかもしれない…、そんな気がした。
「それで、いくつか聞きたいことがあるんだけど。」
「ゼロ距離射撃のことなら言いませんよ。」
「つまり、あの子は君にキスされて世界を捨てるのをやめたわけね。」
「反則技は技じゃありません。ただの反則です。」
「反則技でもぴたりと決まれば、誰も文句を言わないわ。」
この人はクリスティーのアクロイド殺しか、スタン・ハンセンの場外ラリアットのことでも言ってるんだろうか。
スタン・ハンセンか。古いね俺も。
「もうあんな事は二度としません。リスクが大きすぎる。あんな凶暴な奴の懐に飛び込まなきゃいけません。あれは不意打ちだったから成功しただけです。あいつは二度も奇襲を許すような奴じゃありません。」
「さっき不意打ち食らわせてたじゃないの。」
「は?」
「『おまえがアレ着てるところなら見たいと思うぞ。』」
あれのどこが不意打ちなんだろうか。
あいつもそんなことを言っていたような気がするな。
「あれは天然です。思わず本音が出てしまっただけです。
しかしすぐに言い直しました。
やっぱり俺はあいつに軽蔑されたくありません。変な下心を持っていると思われたくありません。
しかし『おまえの結婚式に呼んでくれ』って言った後で、あいつが他人のものになってしまうのを見るのは嫌だという本音が出てきて、『やっぱり呼ぶな』って言ったんです。」
「君さあ、自分にキスされて世界に意味があるって思うような女に、なんでそんなにビビッてるの?」
「それは一つの解釈にすぎません。」
「どういうこと?。」
あの時のことは言いませんよ、と言いながら結局言わされてるな、俺。
さすが大人だ。
「あの場面で事実と言えるのは、
1. あいつは世界を捨てようとしていた。
2. あいつは俺だけを呼びだした。
3. 俺にキスされた。
4. あいつは世界を捨てるのをやめた
これだけです。
3と4は、時間的に直後だっただけです。」
本当に一瞬間後だったけどな。
しかし一秒後だろうが一時間後だろうが、後ということならおんなじだ。
「あいつに俺が世界をとりもどさせただとか、あいつにとって俺が世界そのものだとか言う奴もいますが、3と4の間に因果関係があったと証明できるわけではありません。」
「そんなねえ、1+1=2を証明しろって言われてもね…。」
「つまり『あいつがキスされた後世界を捨てるのをやめた』ということのみが事実であって、『キスされたから世界を捨てるのをやめた』というのは一つの解釈にすぎないわけです。」
「2の、君だけを呼びだしたっていう時点で、それは解釈じゃなくて事実だって証明できると思うけど。」
「俺はこのことについてはずっと考えてきました。そこで一つの有力な仮説を思いつきました。」
「思いつきね…。どうせ言い訳だろうと思うけど聞いてあげるわ。」
古泉とは比較にならないくらい徹底的にまぜっかえす人だな。
「あの時おれは、『飯食う場所もなさそうだぜ』と言いました。
俺はあいつの意識、無意識に『このままでは腹が減る』という情報を刷り込みました。
あいつはスレンダーな体つきのくせに、ものすごく飯を食うんです。」
「だから君に、『太ったな』って言われて気にしたわけね。」
「つまり、あいつが世界を捨てるのをやめたのは、夜中に腹が減ったからです。
食欲がそれを忘れさせたのです。
ここでは飯を食えないということを思い出したからです。
俺にキスされた直後だったのは、偶然に過ぎません。」
「君さあ、責任逃れをしたいだけなんじゃないの?」
一言一言に茶々を入れる人だ。無視だ無視。とにかく言いたいことを言うぞ。
「あいつらの言っていることも、俺の言ったことも、解釈に過ぎないのは同じです。どちらが事実とは誰にも言えません。もちろんどちらも事実ではないという可能性もあります。人間の無意識を証明することなどできません。我々に出来るのは解釈することだけです。」
「君、自明の理っていう言葉を知っている?」
「言葉は知っていますよ。それ自体が明らかにする道理ってことですね。」
うう。無視しようと思ってたけど、返事をしてしまった。
「だいいち、君にキスされて……って、あの子が自分で言ってたわ。」
「あいつは『忘れた』って言っていました。」
そうだ。
俺はさっきからそのことが気にかかっている。
確かに俺はあいつの無意識にプロテクトを掛けた…らしい。
現に俺の記憶からハルヒの存在は削除されていない。
しかしあいつの無意識にかかったプロテクトは、「俺の記憶から自分のことを削除できない」ということだけだ。
あいつの記憶から俺の記憶をデリートすることに関しては、何の効力も持っていない。
この世界が今から十三分前に出来たという可能性は否定できない。
閉鎖空間が消えたのは、その必要が無くなったからかもしれない。
あいつの不安やストレスが消え、精神が安定したのは、世界改変が終わったからなのかもしれない。
俺があいつのことを覚えていても、あいつは俺を忘れたかもしれない。
「今まで覚えていたことの方が驚きです。八ヶ月も前のことですよ。思ったより……執念深い奴だ。」
「君みたいな男のそばにいたら、どんな女だって執念深くなるわよ。
キスした以上は君はあの子を彼女として扱う責任があるわ。」
「あいつはですね、あの時のことを夢のようだと感じています。」
「そうかもしれないわね。」
誤解しているな。
「夢のような出来事だと思ってるわけです。」
「それはわかるわ。」
これでもダメか。
「夢の中の出来事だと思っています。」
「ちょっとズレたわね。」
「あいつがそれを夢だと信じている以上、俺にとってはそれが事実なんです。」
こことは違う空間とはいえ、あの行為を俺が行ったことは現実だ。
あいつがそれをリアルだと受け取っているなら、俺はなんらかの決断をするべきなんだろう。
しかしあいつが夢だと信じている以上、あれは夢でしかない。
「それではぐらかしたつもり?
とにかく君が、あの子に対して強い影響力を持っていることは確かだわ。
やっぱり責任があるんじゃないの?」
…。髪型変える程度の影響力なんだけどな。
しかしそれをここで蒸し返すとややこしいことになりそうだ。
「それについては、俺があいつの何なのかということと関係があります。
団長様にとっての団員その1
団長様の雑用係
女王様の下僕
そのほかに俺の肩書き、というか役割があるんです。」
古泉と長門が言っていた内容を話してみることにした。
「あいつが扉でおれが鍵。」
これも誤解を受けそうな表現だな。
「無論、マンションの部屋の鍵を預かってるとか、そういう色っぽい話ではありません。」
「当たり前よ…。高校生のくせに。」
「おれは、あいつという人間そのものの鍵なんです。」
「あの子の鍵か…。ちょっとくわしく教えて。」
「これはもちろん比喩ではあるんですが、ただの例えとは言えない部分もあります。
あいつは俺などとはくらべものにならない能力を持っています。」
こう言っておけば無難だろう。
ハルヒのトンデモパワーについて話すことはできない。
「おれのことをそう呼んだ連中は、俺を扉を開ける者だとしか思っていないようです。
つまりあいつの能力を開くためのきっかけでしかないと。
しかし鍵には開けるのと同じくらい、ある意味それ以上に重要な役割があります。」
「閉めることね。」
「鍵は開けるための物でもありますが、閉めるための物でもあります。
あいつの能力が暴走して他人を傷つけそうになった時、あるいは今日のように自分自身を傷つけそうになった時、扉を閉じてそれを抑えるという役割があるんです。」
なんとなく、ケーキにデコレーションする時に使うアレを思い出した。結局そういうことだよな。名前を何て言うんだろう? クリーム搾り器っていうのか?
「本来こういうことは自分自身でやるべきなんですが、あいつは無意識に俺にそれを丸投げしました。
もしあいつに対して俺がなんらかの影響力を持っているとしたら、そのせいでしかありません。
つまり俺はあいつの、外付けのブレーキにすぎないんです。」
ブレーキがオプションって、どんな欠陥車だ。
「君、いま自分で言ったじゃないの。
鍵は開けるより閉める方が大事かもしれないって。
車に乗る人間にとって、どんな高性能のエンジンよりも、信頼できるブレーキの方がはるかに大切なのよ。
エンジンには快適にさせてくれることしか求めないけど、ブレーキには自分と他人の命を預けているの。
自分が世界を捨てることさえも止めてくれることを期待しているということね。」
そういうことではないんだけどな。あいつはあの時本気で世界を作り替えようとしていた。それを止めてほしいなどとは考えていなかったはずだ。
「単に比喩として使われた言葉について、細かく考えても仕方ありません。」
「ただの例えじゃないって自分で言ったわね。自分で言ったことを何度も忘れるなんて。君、若いのに認知症?」
ひどいことを言われたな。
「比喩的でない言い方をすれば、ただの役割です。」
「役割なら役割でもいいわ。なんであの子は君に鍵という役割をさせようとしたのかしら。」
「それについてははっきりしています。『誰でも良かった。』」
鍵もニキビ治療薬も同じだ。
「君さあ…、女の子にとって『鍵』ってどういうものだかわかる?」
「さっきのブレーキの例えで言えば信頼性の象徴とでも言えるかもしれませんが、道具であることには変わりありません。一番最初に言ったはずです。あいつにとっておれはモノでしかないと。結局のところ、俺はあいつの意識レベルではイスでしかなく、無意識レベルではフタにすぎません。」
「そして鍵にはもう一つ大事な役割があるわね。」
「まあ、中にある大事な物を外の敵から守るという意味もありますが…。」
「というより、鍵はそのために作られたものだわ。」
作られた、か…。
俺の、あいつを好きだという気持ちさえも、あいつに作られたものだとしたら…。
あいつが自分を守らせるために勝手に作ったんだとしたら…。
気が滅入ってきた。
いや、これは作られたものなんかじゃなくて、生まれたものだ。
俺の中で自然に生まれたものだ。
そう信じたい。
やれやれ。
「その意味で言うと、フタというよりハコですね。誰だって空き箱に用はありません。ハコより中身が重要なわけです。あいつがいなければ、俺は空っぽの宝石箱にすぎません。だいいち一つの扉に対して、鍵が何本もあるのはよくあることです。」
戦艦一隻の護衛には、少なくとも駆逐艦四隻、巡洋艦二隻は欲しいな。
「だから俺はあいつへの影響力を決して自分のために使おうとは思いません。」
「髪型を変えさせたのは、君にとってはただのイタズラかもしれないけど、あの子にとってはそうじゃないわよ。」
意識的に変えさせたわけじゃないんだけどな。アイツ以外には。
 
「まあ、とりあえずあの子の話はいいわ。さっきのもう一人の子、長門さんについて聞かせてちょうだい。あの子とはどういう関係になるわけ? まあ、こういう聞き方をしても、君が正直に答えるとは思わないけど。」
確かにハルヒについて言えないことはぼかしたけれど、嘘をついたわけではないんだけどな。やっぱりそう聞こえるのか。やれやれ。
「聞き方を変えるわ。正直なところ、君は自分にとって長門さんを自分の何だと考えているわけ?」
「最強の護衛です。」
「護衛?」
「さっき守り守られるという関係について話しましたが、その時俺は長門とのことを思い浮かべていました。」
俺はハルヒに守られてはいない。一方的に守っているだけだ。
あいつが俺のためになにかするとは思わん。
俺を守るのは長門の仕事だ。長門だけで十分だ。
この時急に、ハルヒの拗ねた時の顔が浮かんだ。
なんでだ?
なんだかさっきあいつからこのことについて聞いたような気がする。
はっきり覚えてないが。
まあ、多分気のせいだろう。
今はハルヒのことより長門のことだ。
「俺はかつて命を脅かされたことがあります。」
「どんな風に?」
結合情報を変換された教室、つまり情報制御下に置かれた空間に監禁されて…。
言えるわきゃないよな。
「刃物で襲われたんですよ。」
「女に?」
この人にはなんでわかるんだろう?
まさかインターフェースなのか?
だとしたらハルヒや長門のことをあまりぺらぺらしゃべったらまずいんじゃ…。
「まさか…図星?」
「教えて下さい! なんでわかったんですか?」
「わかっちゃうんだからしょうがないでしょ。と、言いたいところだけどそうじゃないわ。君みたいなことをしていたら、女に刃物で刺されたっておかしくないと思っただけ。」
よくわからないが、この人はインターフェースではないようだ。
やれやれ…。
「その時あいつが間に入って、俺の命を救ってくれました。それ以来何度も俺の命を守ってくれています。」
レーザー光線をシールドしてくれたり、超振動性分子カッター(だったかな?)が出ないように中和してくれたり…。
「君、そんなに何度も女に刺されそうになったの?」
何を言っているんだこの人は。やはり誤解しているな。
「二回だけですよ。」
一度は本当に刺されたんだけどな。
「二回あればじゅうぶんよ。その若さでね。やれやれ…。」
やれやれって…。
「とにかくあいつがおれを守ってくれていることは確かです。しかしそんなことをずっと繰り返していたせいか、あいつはとうとうストレスがたまりすぎて、異常行動を起こしました。」
「君のせいね。」
俺のせいではなくて、情報統合思念体のせいなんだが。
「いや、俺のせいじゃなくてですね。あいつに仕事をさせすぎた奴がいてですね……。」
「異常行動って何をしたの?」
スルーされた……。
「俺たちはあいつの部室を不法占拠しているんですが、あいつはまず朝比奈さんを部室から叩き出し…。」
「ちょっと待って。その『朝比奈さん』って誰? 今までの話に出てきた?」
「まあ、一応出てきました。」
これまでの話の中では重要なキャラクターではないな。
「ハルヒを部室から追い出すだけではなく、学校からも放り出して、古泉っていう、これは男ですが、さっき携帯で話していた奴です。ハルヒをそいつとくっつけようとしてたみたいで…、もちろん古泉も追放しました。」
「ええと、君たちはあの子の部室を不法占拠していたわけよね。」
過去形ではなく現在進行形なんだが。
「あの子のしたことのどこが異常行動なの? 話を聞いている限り、当たり前のことをしただけじゃない。」
この説明だとそうなってしまうな。まあ、本質的なことではないからいいけど。
「いや、そんなことをしそうな奴には見えなかったんですよ。」
「それで長門さんは、君も部室から追い出そうとした?」
「いいえ。」
「つまり長門さんは、部室から他の人を全て追い出して、一人で君が来るのを待っていたわけね。」
「結果的にはそうなりますが。」
そう。結果的にそうなったにすぎない。
あの時あいつが求めていたことは、未来人、超能力者、自律進化の可能性といっしょにいることに疲れ果て、インターフェースではなく普通の人間になることだった。
俺があそこから追い出されなかったのは、俺があの時の長門と同じ、普通の人間だったからだ。
「もしかして最初に部室から追い出された『朝比奈さん』っていうのは、今回ハルヒちゃんにばれてイスにされる原因になった、デートの相手?」
なんでわかるんだろう、この人は実は未来人で、朝比奈さんの上司か何かなんだろうか…。
とは思わなかった。三回目ともなれば俺も学習する。
「その通りです。」
「やっぱりね。話の流れからしてそうじゃないかと思ったのよ。」
「とにかくそんなことがあってから、俺はあいつのことをよく見ているようになりました。相変わらず俺はあいつに守られてばかりいますが、支えてやらなくていいとは思っていません。」
「長門さんは、君にそれ以上の気持ちを持っているかもしれないわね。会ったことがないからなんとも言えないけど。」
この人はハルヒともさっき会っただけだと思うが。
それともあいつはこういうところにしょっちゅう出入りしているんだろうか。
まあいい。今は長門のことだ。
「考えすぎたと思いますよ。あいつはさっき俺に心をもらった、……こういうことを言うと誤解されそうなので言い直しますが、喜怒哀楽の感情を持つことができるようになった、と言っていますが、そうではありません。」
「ちょっとわかりにくいけど、続けて。」
「あいつには感情が無いわけではありません。むろん感情の量がひとより少ないわけでもありません。表情が無いだけです。自分の感情を表情に乗せるのが下手なだけです。」
なんとなくハルヒのいろんな表情を思い出した。
笑っているハルヒ。
怒っているハルヒ。
アヒルのような口をして、拗ねているハルヒ。
救急車のそばに立っていた、鬼のような顔をしたハルヒ。
泣いている…ハルヒ。
最後のは、見ないですんだ。
だが、さっきはあいつの泣き顔がありありと浮かんだ。
あいつは泣くのがヘタそうだな。
美人を台無しにして、ぐちゃぐちゃになって泣くだろう。
それだけ表情が豊かだということだ。
長門もその十分の一くらいでも表情に出せれば、きっと楽だろうに。
いや、ハルヒはハルヒ。長門は長門だ。
比較してどうなるものでもない。
「少なくとも長門は俺と初めて会った時には、感情を持っていました。」
「何かあったの?」
「初めてあいつに助けられた後『また襲われたりするのかな』と俺が言った時、あいつが何と返事をしたか今でも覚えています。」
 
あたしがさせない。
 
ちょっと変な気がした。
あいつはいつも自分のことを「わたし」と言う。
しかしこのセリフは一字一句覚えている。
絶対に間違うことはない。
たしかにあの時あいつは、「あたし」と言った。
何か意味があるんだろうか。
「わたし」は男女ともに使う言葉だが、「あたし」は女だけが使う言葉だ。
考えてみればあいつが女言葉を使っているのを聞いたことがない。
あの時だけは自分が女だと宣言しようとしていた…。
考えすぎだな。
ハルヒたちといっしょにいて俺が得た教訓は、「深読み禁止」ということだ。
いくら考えたとしても、それを飛び越えるような事態ばかりが起きる。
見た物聞いた物を素直にとらえるのがいちばんいい。
「あいつはあの時、自分の意志で行動することを宣言しました。
自分の気持ちで進む道を選びとったんです。
だからあいつは俺にとって最強の護衛なんです。」
「その言葉を素直にとれば、また別の意味が浮かんでくると思うけど…。」
素直にとればって…。
「深読みはしません。とにかくそんなことがあって、俺はどういう形でもいいからあいつの役に立ちたいと思っています。それに、あいつの命を一度だけ救ったことがあります。」
「具体的に。」
「あいつを消そうとしていた奴らがいました。」
「消すって?」
「消す、としか言えません。俺はたまたま弱みを知っていたので、そいつらを脅しました。」
「弱みって?」
「言えませんよ。言ったら弱みじゃなくなるじゃないですか。」
「なるほどね。さっきから君が言っている言葉の中で、唯一納得できる回答だわ。」
またひどいことを…。
「たまにはいいことするじゃないの。」
「ありがとうございます。人の命を助けたことなんか、今までに二回しかないですけど。」
「一回でもじゅうぶんだわ。君は長門さんに何回も命を助けられたそうだけど、一回も百回も同じよ。
長門さんがいなければ今の君はなかったのと同じように、君がいなければ今の長門さんはなかった。
命は一度失えば、それでおしまいだもの。
それにさっき、マッチポンプとはいえ、ハルヒちゃんを救ったのはまぎれもない事実だしね。」
マッチポンプって……。
「それに君がいなければ、あの子は世界を捨てていた。
だからお説教はここまでで勘弁してあげる。
ただし、条件があるわ。」
「何ですか?」
「ハルヒちゃんを、もう一度ここに呼び出しなさい!」

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