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 エピローグ




 ……暑い。
 俺の意識が最初に感知したのは不快感であった。前髪が汗でべったりと額にくっついている。うだるような暑さ。俺は否応なしに目を覚まし――そう、確かに俺は目を覚ましたのだ。眼は見慣れた、自分の部屋の天井を映している。何度見上げたか解らない自室の天井。俺はその不思議さよりもまず汗が気持ち悪くて、手の甲で額を拭った。拭った手を目の前にかざすと、寝汗でキラキラと光っている。
 俺が横たわっていたのは、もう何年使っているか解らない俺のベッドであるようだった。水色のシーツ。もちろん他に目覚めるべき場所のあてなどなかったわけだが、この時の俺には、その当たり前のことがひどく新鮮なことのように感じられた。ごろりと寝返りを打つと、勉強机の上にほったらかしになった夏課題が見えて、床にはシャミセンがべったりと伸びており、ここが正真正銘、自分の部屋であることを示していた。外の様子はカーテンがかかっているためによく解らないが、ガラス越しにセミの鳴き声が聞こえたので、おそらく朝から晴天なのだろう。
 当たり前の朝。見飽きた光景。
 俺はいきなり半身を起こして、自分の身体に触れてみた。頭から頬、顎、首、肩、そして胸。どこもおかしなところはない。心臓は当然のようにそこにあって、当然のように鼓動していた。あまりの脳天気さに俺はあきれてしまって、またベッドに倒れた。
 平和な日常。チクタクと時計の針の音が聞こえる。
 夢、と俺は思った。



 しかし夢だとしたら、とんでもない悪夢を見たものだろう。
 普段通り朝食を食べに行ってふたたび自室に戻ってきてから、俺は思った。なにしろリアルすぎる。部屋で待ちかまえていた長門。貫かれた心臓。あそこまで確実に自分が死んだと解る夢を、俺は今まで見たことがなかった。そしてあの恐怖。長門に襲いかかられたときの恐怖心だけは、何度洗っても消えないシミのように、今も俺の頭にはっきりと残っていた。
 そういうわけだから、もしあれが夢だとしたら間違いなく最悪の部類に入るものだ。生涯最悪と言っても過言ではないかもしれない。
 しかし俺には、あれを夢として片づけることは、どうしてもできなかった。
 根拠などない。ただ俺の直感が、あれは夢なんかじゃないとしきりに騒ぎ立てているのだ。
 肝試し、ハルヒとの会話、部屋で待ち伏せていた長門。俺は確かにあの時、殺されたのである。そうとしか考えられない。いったんは殺されたものの、どこかの世界で蘇ってこうして息をしているのだ。夢として片づけるよりは、そちらの方がよっぽど自然のように思えた。
 とにかく、と俺は思う。
 俺は生きているらしい。どういう理屈かは知らないが、とりあえず俺は今、生きて呼吸している。それだけで充分のような気もした。
 それと同時にもう一つ、俺は悟ったことがあった。
 それは、どうやらこの事件が、何らかの形で終わりを迎えつつあるということだ。夏休みの始めからずっと続いていたおかしな世界も、どういう結果であれ、昨夜のことで一区切りがついたという感じがした。あれが夢だろうが何だろうがもはや関係ない。
 昨日にすべてのことが集まっていたのだ。
 分裂した世界も、ハルヒの願いも、墓場に現れた二人も、本当にすべてのことがあの夜に集結していた。そして結果的に、何者かが俺を死に至らしめたのだ。
 だとしたらこれ以上はもう、起きないはずである。
 ここがどの世界だろうと、おそらくもう昨日以上のことは起こらない。いい意味であれ悪い意味であれ、もう一番大きな山は越えてしまったのだろう。そんな予感がした。
 そんな意識が影響したのだろうか、俺はどうも、動こうと思ってもベッドの上で動けなかった。ここはどこだとか、なぜ俺は生きているのかとか、疑問は山ほどあったが、疑問よりもまず俺は脱力してしまったのである。この二、三週間分の疲れがどっと押し寄せてきたような気がした。
 
 どのくらい経っただろうか、そのうち携帯電話が着信音を奏で始めた。


 といって、俺は動く気など起きず、そのまま放っておこうと考えた。よほどの用件でもなければそのうち切れるはずだと思っていたのだが、俺の予想は見事に外れた。 
 いつまで経っても鳴りやまない着信音に嫌気がさして、俺は仕方なく起きあがり、机の上にあるそいつを手に取った。着信は思った通り涼宮ハルヒの名を示している。どうやらここはハルヒのいる世界らしい、とか考えながら俺は通話ボタンを押した。
『こらキョン、あんた電話出るの遅すぎよ! 平団員ならスリーコールで出るように心がけなさいよね。有希を見習いなさい有希を。あの子なんか電話かけたらワンコールで出るんだから』
「悪かったな」
 と俺は口先だけ謝辞を述べる。それで、用件は何だ?
『別に。今日は部室でミーティングやるからちゃんと来るようにってことだけよ。二時からね』
「そうかい」
 ハルヒの声を聞いていたら、なぜだか俺は安心してしまった。理由は解らないが、解りたくもない。
 ハルヒに何か尋ねようかと少し迷ってから、俺は結局あいよとだけ答えて電話を切った。通話時間十秒。話が早くて結構なことだ。
 時計は九時半を差していた。
 午後までにはずいぶん時間がある。手にした携帯からそのまま長門か古泉にかけてもよかったのだが、やめた。
 もちろん訊くことは腐るほどあったのだ。ここはいったいどこの世界なのか。ハルヒはもう力を失ってしまったのか。昨日、俺の身にいったい何が起こったのか。そして俺の心臓を貫いたはずのあれは、本当に長門なのか。
  話していればそれこそ二時くらいまで持ちそうな気もした。しかし逆に尋ねるべきことが多すぎるせいで俺は気力をなくしてしまった。とにかく休みたかったのである。尋ねることなら部室で存分に尋ねればいい。俺はベッドに横になると、そのまま目を伏せた。
 あるいは向こうから電話があるかとも思って携帯を握ったままにしておいたのだが、それから電話はなかった。案外、向こうも向こうで俺と同じ思いなのかもしれない。
 俺はそのまま眠ってしまった。



 そんなわけで、午後は一時。
 寝起きで昼ご飯を食い過ぎて少々の吐き気を催した俺は、一時まで部屋で本を読んで過ごした。長門から借り受けたハードカバー。無論、内容は一切頭に入ってこない。電話をかけようにも踏ん切りがつかなくて、俺はさんざん時間を無駄にしてから自宅を出た。
 早めに家を出たのは言うまでもない、ミーティングの前に確認したいことがあったからだ。
 夏の下に自転車を飛ばし、地獄坂を必死こいて登り終えて、汗だくになりながらようやく学校に到着する。息を切らしながら昇降口で靴を脱ぐと、俺はそのまま一直線に文芸部室へと向かった。
 思考は停止していたが、足が勝手に部室へ向いたようだ。
 見慣れたドア。ドアノブに手をかけてみると、案の定、鍵ははずれていた。きっと誰かいるはずだとは思っていた。それを見越して職員室に寄ってこなかったのだ。
 果たして、部室にいたのは長門だった。
 制服姿で、いつものポジションで、本を読みながら。俺が入ってきても微動だにしない。その光景に、俺は少し安堵した。
「よう」
 声をかけると、長門は本に目を落としたままわずかにうなずいた。挨拶のようにも見えたし、すべての事情を理解していると言っているふうにも見えた。
 俺はなんとなくドアを半開きにしたまま自分のパイプ椅子を引き寄せた。昨夜の忌まわしい記憶がフラッシュバックしそうになる。お前は誰だ。わたしが誰であっても構わない。
 俺は記憶を振り払うように頭を振って、椅子に座り、長門に適当に話しかけた。
「いつからここにいたんだ?」
「さっき」
 と長門は答えた。
「メシは?」
「食べた」
「何を」
「おにぎり」
 そうか。
 …………。
 違う。こんなことを訊きたいんじゃないんだ。
 何と言って話を始めたらいいのかと俺が一瞬迷っているうちに、長門の方から本を閉じて、俺に向き直った。漆黒の瞳が俺を見据えている。
 そして、
「あなたは、帰還を果たした」
 まず、そう言われた。

 


「八月十七日、午後十一時十三分。我々は、涼宮ハルヒの発する情報フレアが爆発的に拡大したのを観測した。通常の情報フレアとは比べものにならない規模。それは瞬時に惑星全土を覆い尽くすと、外宇宙へと拡散した。おそらく四年前に涼宮ハルヒが起こした情報爆発とほぼ同様の規模と推測される。我々はそれを涼宮ハルヒによる二度目の情報爆発として定義した。そして、それ以降、涼宮ハルヒが発信源の情報フレアは観測されていない。これは我々が予測していた通り、涼宮ハルヒが情報爆発にともなって情報改変能力を損失したためだと考えられる。おそらく今の彼女は一般人と変わらない」
 長門は一息に喋った。俺がハルヒが情報改変能力を損失したというくだりに少し動揺していると、長門はまた話し出す。
「なお、この情報爆発にともなって、涼宮ハルヒは情報改変能力を用いて二つの世界のうち一つ世界の時間を停止した。統合思念体の認識する限りでば、時間を止められたのはこの世界――つまりオリジナルの世界の方。あなたの精神と彼女の精神を除いて、この世界に存在するものはその瞬間にすべて停止した。
 そして、あなたの精神と彼女の精神は、その瞬間、涼宮ハルヒの創り出した平行世界で固定化された。この時点では、あなたがこちらの世界に戻ってくるのは明らかに不可能だった。おそらく、あなたが向こうの世界で睡眠状態になっても、こちらの世界には戻って来れなくなっていたはず」
 その通りだ。俺は首肯した。どうやっても俺はこっちの世界に戻ってくることはできなかった。
 しかし、ということだよ長門。お前の言う通りだとすれば、どうやら俺は今、元の世界に戻ってきたらしいじゃないか。それはなぜだ。どうして戻って来れたのか。やはり、あの夜のことが関係しているのだろうか。
「詳しいことはまだ解っていない」
 長門はそう言った。
「情報統合思念体もまだ、事態を完全には把握できていない。何が起こって、あなたがここの世界に戻ってこれたのかも含めて。そもそも、あなたがこちらの世界に戻ってくるのは不可能と考えられていた」
「そんなバカな」
 じゃあ、昨日の夜、墓場に現れた長門と朝比奈さん(大)は何だったんだ。あいつらは俺に元の世界に戻りたいかどうか訊いてきたんだぞ。ありゃ幻だったとでも言うつもりか。
「そういうわけではない。たぶん、幻ではないと思われる」
 長門は言った。たぶんなんて言葉を使うとは珍しいじゃないかと、俺はまじまじと長門を眺めてしまった。
 長門は弁解するように、
「将来的に、わたしと朝比奈みくるが平行世界に行くというのは可能性がある。今、情報統合思念体が平行世界に侵入するための時空間データを調査している。コードさえ解れば、わたしたちが過去に戻って平行世界に侵入し、あなたをこちら側に連れ戻すということもできなくはない」
「情報統合思念体にも、調査しないと解らんようなことがあるのか」
「そう。この件については規定事項がまったく定まっていなかったから」
 規定事項がまったく定まっていなかった。そういえば、そんなようなセリフを、墓場の奥で長門に言われたような気がする。
「でもな、長門」
 俺は言った。
 俺は、その誘いを断っちまったんだ。元の世界に戻るかと訊かれて、戻らないと俺は答えちまったんだよ。それでもなぜか俺は元の世界に戻ってきている。これはいったいどうしたことだろう。
 長門の黒目が、少しだけ揺れたような気がした。なぜ、と訊かれることを予測したのだが、長門はそうは言わなかった。
「解らない。でも、確かにあなたはこちらの世界に戻ってきた。それは事実」
「……実はな、長門。一つだけ心当たりがあるんだよ」
 迷った末、俺は結局しゃべることにした。できれば長門には話したくなかったのだが、仕方がない。
 俺はすべてをうち明けた。包み隠さず。
 向こうの世界で肝試しをやったところから始めて、墓場の奥で朝比奈さん(大)と長門に会ったこと。かけられた問いに、俺が元の世界に戻らないという選択をしたこと。肝試しが終わってからのこと。ハルヒとの会話の内容(これはできるだけ端折った)。
 そして、家に着いてからの出来事。
 風呂から上がった後、部屋にお前がいた。お前はよくわけの解らないことを言った後に、俺に近寄ってきた。俺は身の危険を感じ、とっさに逃げ出そうとしたが、できなかった。一瞬間に俺はお前に胸を貫かれて、それで意識が途絶えた。
 起きたら、ここの世界にいたのだ。
 できるだけ殺されたとか死んだとかいう言葉は控えた。しかし長門は何を言われても表情をまったく動かさなくかった。
「…………」
 俺が話し終えてから、長門はしばらく黙っていた。何かを考えているのかもしれないが、その間も視線が俺に固定されているのでなんか気まずい。目のやりどころに困り始めた頃、長門がゆっくりと口を開いた。
「ありえなくはない」
 感情も何もこもっていない口調だったが、俺には長門の発する言葉がやけに重く感じられた。
「仮に向こうの世界で肉体的に死んだとしても、こちらの世界で生きているのは当然。なぜなら、こちらの世界から向こうの世界に送致されたのは、あくまであなたの精神だけだから。肉体は世界間で共有していない」  
 はっと思った。
 肉体は世界間で共有していない。ようするに俺の身体は、こっちの世界と向こうの世界で二つあるということなのだ。平行世界でプールに行った後、元の世界ではまったく日焼けしていなかったということを思い出した。その時に気づいたはずなのに、すっかり忘れていた。
 だとすれば。
 だとすれば、向こうの世界で仮に俺が死んだとしても、こちらの世界の俺の身体がピンピンしてるのは当然ということになるじゃないか。
 長門はさらに続けた。
「あなたの精神のみを、平行世界からこちらの世界に強制的に置換するという観点においてなら、一般的な世界間移動が不可能になってからでも、その方法は有効と言えるかもしれない」
 強制的に置換する――。思い出した。あの夜の、長門の言葉だ。
 
 ――世界間距離が跳躍可能距離の限界に達した。でも問題ない。強制置換を行う。
 
 そうだったのか。あれは、そういう意味だったのか。強制置換。向こうの世界の俺を殺して、精神だけを無理やりこちらの世界に飛ばす。おそらくそれは、普通の方法では俺を元の世界に連れ戻すことができなくなってからの、最終手段だったのだろう。結果的に俺は元の世界に戻ってきた。その、最終手段を使って、いや、使われて。
「じゃあ」
 と俺は言った。ずっと気になっていた問題だった。
 じゃあ、それはいったい誰なんだ。そんな最終手段までも使って俺を元の世界に送り返したのは。そいつの目的は何だったんだ。どうして俺がこちらの世界に戻ってくる必要があったのか。
 あれは本当にお前だったのか? 俺を死に至らしめたのは。
 この質問に、長門は答えなかった。



 と、言っても、別に答えないことによって答えを暗示していたというわけではないんだ。 
 ただ単に答えられなかった、と言うべきだろう。長門には、あれが誰だったのか、解らなかったのだ。
 たとえば、そうだな、じゃあ仮にあれが本当に長門だったとしよう。ところがその長門というのは間違いなく今よりも未来の長門だ。ハルヒの創った平行世界に出入りできたんだから。ところが、あれが未来の長門だとしても、現在の長門はそれが本当かどうかを確認する術がないのである。理由は自明だろう。長門はもはや自分の未来を知ることはできなくなっていたのだ。
 
 だから結局、答えは闇に包まれたままなのである。
 
 あるいは、時が経てば解るかもしれない。いつか未来に、長門が過去の俺を殺しに行くというようなことがあれば。しかしきっと、そんな頃には誰が俺を手に掛けたかなんてことは今日の晩飯の内容以上にどうでもいい事項に成り下がっていることだろう。そんな気がするね。 
「ありがとう。あと、すまなかった」
 俺は長門に言った。長門はやはり、こくりと首を傾げただけだった。



 それから、ハルヒたちが部室にやって来るまでの間、俺は窓際に立って雲が流れていくのをひたすら眺めていた。よくよく考えてみれば、自ら進んで直射日光の当たるクソ暑い場所にいたのだから、滑稽な話である。
 しかしその時の俺は、暑さを感じなかったのだろう。
 俺は考えていた。いろんなことを、だ。ハルヒのこと、世界のこと、これからの先のこと。
  とにかく、この事件は落着したらしいといことを前提にして。
 いまいち実感が湧かないのはきっと、この事件が、今までのように何かを達成する種類の事件ではなかったからだろうと俺は思う。きれいに片の付くことはないし、本当にこれでよかったのかという疑念も残る。
 でも、丸く、かどうかは知らないが、夏休みからずっと続いていた事件はひとまず収まったというのは確かであるようだ。カラッと晴れ渡った平和な夏空と、俺の隣の寡黙な読書娘が何よりの証拠だ。無論、この状況で収まったなどという言葉は使われるべきではないのかもしれないが。

 ハルヒは能力を失い、俺は元の世界に戻ってきた――。

 世界の分裂やハルヒの悩みの果てに、叩き出された結果がこれだ。こいつをどう捉えるかというのは個人の問題だろうが、俺としては、この結果でしっくりきてしまったという感じはしている。そうだ。しっくりきたのではなくて、きてしまった。他の未来も、あるいはあったのかもしれないが、別の未来に行くためにもう一度夏休みの最初からやり直せと言われるくらいなら、この結果を受け入れる、というくらいの覚悟はある。そういう意味で、しっくりきてしまった。
 それに、よくよく考えてみると、これから先だって何ら変わりはしないのだ。
 俺は夏空に雲が流れていくのを眺めながら、ふと思う。
 たとえばハルヒが、長門の言うところの情報改変能力を失ったとする。しかし、それでいったい何がどう変わると言うのだ。ハルヒは暴走する団長で、長門は無口な読書娘、朝比奈さんは可愛いメイドで、古泉はハンサムスマイル野郎。ハルヒの能力があろうがなかろうが、結局、本質は何も変わりはしないのだ。ヘンテコリンな事件がたまに起こるか、起こらないかぐらいの違いであって。
 ただ――。
 と俺は思った。
 ハルヒが能力を失うという、そのこと自体に大きな意味はない。しかし、ハルヒが能力を失うことによって立場が変わる連中がいるという、これこそが俺のもっとも危惧するところなのだった。  
 あえてぼかす必要もあるまい。
 長門、朝比奈さん、古泉。この三人が、これからいったいどうなるのか。SOS団の団員として在籍し続けることができるのか。俺が心配しているのはそのことだった。
 窓辺で読書にふける長門に尋ねてみる。
「長門」
「なに」
「お前はさ、宇宙人なのか?」
 長門は顔だけこちらに向けてきた。どういう意味、とでも言いたいらしい。
「つまりだな、ハルヒが情報改変能力を失ったんだろ。その情報改変能力ってのは、平たく言えば自分の願望を思い通りにする能力のことだ。で、その能力を失ったってことは、ハルヒはもはや願望を叶えることができなくなった、つまり宇宙人やら未来人やらを存在させることができなくなったってことじゃないのかと思ってな」
 長門は俺の言葉を噛み砕くような間を空けてから、
「そういうわけではない」
 と答えた。それからまた本に目を戻し、「我々は涼宮ハルヒの能力とは無関係に存在する。そもそも、宇宙人や未来人を存在させることができなくなっていたら、わたしや朝比奈みくるは涼宮ハルヒが情報改変能力を失った時点で存在が抹消されていたはず」と付け加えた。ということは、宇宙人と未来人は別にハルヒの力によって存在させられていたわけではなかったということか。そういえばいつだったか、その議論で朝比奈さんと古泉とが対立していた記憶があるが、あれは朝比奈さんの論理が正しかったということになるな。
 とか思いながら俺は訊いた。
「でも、じゃあ、古泉はどうなるんだ? あいつはハルヒのためにいるようなもんだろ。あいつもまだ超能力者やってるのか?」
「おそらく。ただ、彼らは自分たちの能力を発揮する機会を失うため、本質的には一般人と変わらなくなると思われる」
「閉鎖空間が出現しなくなるってことか」
「そう」
 長門は続けて言った。
「おそらく彼らに限っては、その能力は我々のように永遠のものではない。今はまだ非人間的能力を有しているが、いつか、彼らが超能力者としての力を失うときが来ると考えられている」
 超能力者としての力を失う。
 閉鎖空間に入ることができなくなる、ということだろう。別に連中はもともとは普通の人間なわけだし、超能力者だろうと超能力者じゃなかろうと構わないのだろうが、俺はなんとなく厳粛な気分にさせられた。
 窓の外に目を戻してみたが、後味が悪かった。そこの青空も、さっきほど爽快には映らなかった。
 そのまま何分か、黙りこくって野球部の練習を見るともなしに眺めていると、長門が突然、口を開いた。
「情報統合思念体が、涼宮ハルヒを観測対象から外した」
 俺は首だけ長門を見やった。長門も同じように、頭だけひねって俺を見ていた。
「どういうことだ」
「文字通りの意味。統合思念体は、これ以上彼女を観察しても有益な情報が得られないと判断した」
 長門が言わんとするところを理解するのに数秒かかった。長門の役割はそもそも、ハルヒを観察することだったのだ。
 その役割がなくなったということは、
「それじゃ、お前はどうなるんだよ。まさか、すぐにいなくなるってんじゃないだろうな」
「それはない」
 長門は即答した。珍しく、意志の強い否定だったように思う。
「涼宮ハルヒがこの学校を卒業するまでは、わたしも今の役割とほぼ同等の任務につくことにしてもらった」
「してもらった?」
 とはどういう意味だろう、と俺は思った。
 長門は言った。
「情報統合思念体に、わたしの意志を申請した」
 この時の長門が、いつになく人間らしい表情をしたのが、ひどく印象的だった。
   

 やがて部室にハルヒ、朝比奈さん、古泉がまとめてやってきた。偶然、三人一緒になったのだという。
 朝比奈さんは俺を見るやいなや、いつかのように抱きつきそうなくらい表情を歪ませたが、さすがにハルヒの前ではできなかったのか、小声で「よかったです……」と呟いた。よかった、ということになるのだろうな。
 古泉は相変わらずしれっとしていて、いつもの通りの微笑でもって、ちょっとした挨拶でも交わすように会釈してみせた。むかつくので無視した。
「あんたが先にいるなんて珍しいこともあるのねえ」
 二人の様子に気づかなかったのか、ハルヒはただ俺に感心していたようだ。
「天変地異でも起こるのかしら」
 これ以上、起こってたまるかって話だろう。でも俺は、ハルヒがいつも通りの様子であることに、少し安心した。
 朝比奈さんがメイド装束を身に纏う間、俺と古泉はそろって廊下へ放り出された。
 性懲りもなく生々しい衣擦れの音を利用して想像力を鍛えようと努力しつつ、俺はせっかくなので古泉に話しかけた。
「結局、こっちの世界に戻ってきちまったみたいだな」
 古泉は意外そうに俺の顔をのぞき込んだ。
「残念ですか?」
「別に。ただよくわからないだけだよ。本当にこれでよかったのかが」
 俺は古泉に、昨日の夜の出来事を話してやった。せめてもの土産話だ。いや、それにしてはちょっと暗すぎるかもしれんが。古泉は基本的に穏やかで模範的な聞き手だったが、さすがに俺が殺されたらしいというくだりでは僅かばかり驚いた表情をした。
 そして尋ねてみた。お前は、俺を殺したのはいったい誰だったと思うか、と。長門は、未来の自分の仕業だろうと言っていたが。
「それはないでしょうね」
 古泉は長門の説をあっさりと否定した。
「そもそも、未来の長門さんが無理やりあなたを元の世界に引きずり戻すほどの強力な理由がありません。それに、たとえ規定事項としてあなたが戻ってくることが定まっていたとしても、長門さんには、あなたを手にかけることはできないと、僕は思うんですけどね」
 古泉は続けた。
「僕はそれ、涼宮さんだと思いますよ」
 俺はちらりと古泉を見た。そこまで驚きはしなかった。ある程度、俺の中でも予想していたことではあった。
「ハルヒが、俺を殺したってのか?」
「そうです。涼宮さんの物事の考え方が変わった結果として、あなたが元の世界に戻る必要性が生まれた。だからあなたを死に至らしめるという究極的な手段で、平行世界を自ら封印したのです」
「しかし、その時のハルヒはすでに願いを叶える力を失っていたんだぞ。それなのに、そんなことができるのか?」
「失おうが失うまいが、涼宮さんは涼宮さんですよ。最後の力を使って、あなたをちょっと殺すくらいのことは朝飯前だと思いますけどね」
 はん。
 俺は鼻を鳴らした。所詮、俺の命なんて水素並に軽いもんさ。もう何度殺されかけたかわかりゃしねえし、今度はいよいよ殺されちまったんだ。それでもまだ俺は生きてるってんだから、いい加減嫌になってくるね。
「僕は本気ですよ」
 古泉は言った。
「涼宮さんはちょっと自分勝手なところがある反面、根は非常に真面目な方です。自分の信念は絶対に曲げない。信じたものは、どんな手段を取ってでも貫こうとします。今回は、その信じるものが変わったというだけの話です。あなたが向こうの世界で、彼女に何を言ったのかは知りませんが、おそらくそのことが深く関連していると思いますよ」  
 それはまあ、そうかもしれない。
 いや、しかし、じゃああの夜の長門は何だったんだ。あれがもしハルヒの創り出した刺客だったとしたら、なぜハルヒはわざわざ長門の姿を借りたんだ。
「それは……解りません」
 こいつにしては珍しい言葉を使ったものだ。
「もちろん何かの目的があったことは確かです。ただ、その目的が何だったのかと言われると……あるいは、長門さんが関係していることなのかもしれませんが」  
 そこで、ガチャリとドアが開いた。
 ハルヒが顔を出して、もういいわよと言った。俺と古泉は顔を見合わせて、お互いにすっきりしないまま、部室に戻った。
 

「じゃあ今から、SOS団ミーティングを始めます!」
 そんなわけで、俺は今、ハルヒの声をBGMにもっぱら朝比奈さんのお茶を楽しんでいるところだ。
 気になったので、隣に座っている朝比奈さんにこっそり「すぐに未来に帰ったりはしませんよね」と訊いてみた。すると朝比奈さんは右手で小さなマルを作ってウインクをしてくれて、俺、感激。
「こらそこっ! 私語は慎みなさい!」    
 へいへい。
「みんなももう知ってると思うけど、夏休みも、残すところわずかです。そこで、区切りのために今日のミーティングを開くことにしました。みんなには、今日からはよりいっそう、夏休みを楽しんでほしいと思います」
 いろいろやりすぎてもう燃料切れだけどな、というツッコミを呑み込んだ。
 そしてハルヒは、不適に笑い、
「ということでみんな、今からカラオケ行くわよ! もちろん、お金は持ってるわよねえ?」
 そう宣言したのだった。
 悩みをすべて吹き飛ばしてしまうような、強力なエネルギーを放つ笑顔で。


 そんなわけで、今日が区切りの日だ。
 何の区切りかと言えば、そりゃもう、ありとあらゆること、本当にありとあらゆることの区切りだ。ハルヒのこと、世界のこと、夏休みのこと、長門や朝比奈さんや古泉のこと、俺のこと。
 高校生になってハルヒと出会ってから起こってきた、すべてのことに対する区切りの日である。
 本当にいろんなことが変わった。
 ハルヒの物事の考え方だってそうだ。あいつはたぶん、今までとは違う方向を向いているだろう。それがいいか悪いかなんてことはもう考えないことにした。善悪の基準なんてのは、どんな状況下においても曖昧なものさ。あの夜の出来事も含めてな。
 そうなのだ。
 古泉と話しているときには言わなかったが、実は俺は、俺の胸を貫いた犯人についても見当がついていた。そいつの目的も、なんとなくわかった気がする。まあ、具体的なことは、あえて言いはしないが。 
 アブラゼミの鳴き声がツクツクホウシに変わって久しい。
 夏休みももう終わる。初め頃にあった追い立てられるような焦りは、この事件を越えた今、なぜかあまり感じない。ひとつ言えるのは、今度のことが変えたのは、何もハルヒだけじゃなかったってことだろう。
 やり残したことはない。
 達成感があるわけではないが、何か大きなものを乗り越えたという感じはする。今年は宿題も終わってるし、と考えたところで、いやあれは平行世界での出来事だったと思い出した。なんということだ。あれをもう一回やらねばならんと思うとげんなりするが、まあいいさ。急ぐことはあるまい。ハルヒに進言して、またみんなでやればいい。時間ならたっぷりあるのだ。
 夏の後には秋が来るさ。 
 とりあえず、今日はカラオケで存分に楽しむことにするかね。
 俺は部室を飛び出していったハルヒに肩をすくめつつ、席を立った。


 
                                                                                                                            (Fin)

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