橘京子。
 それは、ありとあらゆる定義法則因律を笑顔で無視し、イッツマイペース・ゴーマイウェイで覇道を突き進む、唯一無二の存在。
 彼女の前に秩序はなく、彼女の後にも秩序はない。あるのは、「混沌」の二文字のみ。
 全てを無に帰す彼女の言動は、一般的庶民はおろか神とすら崇められる存在からも畏怖の念を以って恐れられていた。
 即ち、『空気が読めない子』と。
 ……ここで本人がいたら『そんなことありませんっ!』と必死になって否定するのだろうが、逆にあまりにも必死に言い訳するから余計キャラが目立ち、ただの『痛い子』として業界からも認識されるようになるのである。
(俺的注:どこの業界だそれは、ってツッコミはなしだぜ。世の中知らないことが良いことも多分にあるからな)
 自業自得とは言え、若干可哀想な気がしないでもない……のだが、俺自身もこれまでに散々苦い汁やら辛い酸やらを舐めさせられっぱなしだったし、事実俺の目元五ミクロンほどのところでブラブラと揺れているのでうっかりと否定する気にもなれない。
 ま、これも身から出たサビってわけだ。
 どうしてもその性格を改善したければ、一度坐禅でも組んで、KY成分を警策でバシバシ叩きだすと良いだろう。そうすればもう少し皆から人間らしい扱いをしてもらえるだろう、うん。
 なお、断っておく。
 俺のアイツに対する扱いがあまりにもゾンザイに思えるかもしれないが、それは間違いである。むしろ優しくしてやってる方だ。
 嘘だと思うなら一度関わりになってみると良い。関わった奴の85%は空いた口が塞がらなくなるし、残り14%は併せて耳も塞ぐだろう。残り1パーセントに至っては鼻の穴すら塞いでしまうこと請け合いである。
 コホン、最後のはほんの冗談だ。だが中にはアイツが恐れるくらいの神気を放つ人物もいるらしい。世の中とは解らんものよのぅ……もちろん、これも冗談だ。
 ともかく、そんなオーラの持ち主であるアイツ――橘京子は、あの性格こそ彼女の持つ地の性格であると確信していた。


 ところが――である。
 彼女自身が言い放った、ある一言が俺の中に眠る深層心理を掻き乱した。
 あれは確か、高校最後の春休みとなったある日。何故かデートする羽目になった橘が、いつに無く真剣な眼差しで俺にポツリと呟いた。
 ――あたしの空気読めないキャラ、大半が演技ですから――
 実際のところ、『そんなことねえよ』と鼻から笑ってやるシーンなのだが、しかし俺の心の奥に何かしら修復できない瑕疵があることに気付いた。
 それが一体何なのか思い出せず、思い出そうとしても海でユラユラ揺れる海藻のようにボワッと拡散しては消えていく。かと思えば何かの拍子に思いが込み上げ、心の荒んだ部分を酷く刺激する。
 どうしてだろう?

 ……なーんてな。実のところ全部わかってたりする。
 アイツが言い出したトンデモ発言、実際のところ正解には程遠いのだが、全てが嘘だってわけでもない。
 極度のKYでありながらも一方では至極まともな思考回路を有しており、事実そんな正常心が見受けられる部分もあるにはある。
 他人が自分に成り果てた世界を良しとしなかったり、昆虫大好き少女の行き過ぎた行動に自己嫌悪を感じ、何より佐々木と――崇拝の対象である彼女と仲良くなりたいなんて発言する彼女は、見紛うことなき普通の女子高生である。
 ただ、人よりちょっとお茶目なその性格が毎回毎回問題を頻発してしまうのだ。
 これも、日常よりも非日常を願うどこかの団長様が渇望していたことなんだろう。
 これも、異国に住まう一人の少女に信頼された親友が切望していたことなんだろう……。

 ……。
 ……。
 ……。

 ……すまん、嘘だ。
 アイツの空気の読めないキャラが本当か嘘か、そんなことはどうでもいい。
 ただし、橘京子のキャラクターが変貌してしまったのも、ある事件が発端となっているのも事実である。
 ――あの時の事件。
 俺の思い出話の中でも五本の指に入るくらい不必要な記憶であり、未来永劫固く心の奥底に閉ざして封印していたのだが……橘自身の発言で再び記憶の尖頭部にまで噴出してしまった。
 思い出してしまったのもは仕方ない。あの忌々しい事件……事の発端は、実は俺が招いたものだったんだ。
 甚だ遺憾ではあるが、橘の性格が少し――ほんの少し変化する兆しとなった、あの事件のことを述べたいと思う。

 あれは、今から橘京子との再開を果たした後のこと。
 閉鎖空間に発生した『神人』を退治できるようになり、ハルヒと佐々木の嫌疑からどうにか逃れることができた橘は、何を思ったのか俺に纏わりつき始めたのだ――。


 ………
 ……
 …

 地獄の業火を思わせるような日差しが燦々と照り付ける今年の夏。ただの異常気象なのか、いわゆる地球温暖化やヒートアイランド現象がいよいよ現実味を帯びてきたかまでは判別しかねるところだが、一つだけ解ることがあった。
 今年の夏は尋常じゃなく暑い。
 梅雨明けしたのはもう二週間以上も前であり、その梅雨明け前後に猛暑となる事は今までにも結構あった。しかし今年はその猛暑が延々と続いて全くなりを潜めないのである。
 もしかしてこのまま夏が終わらず、延々とクソ暑い日々を過ごすなんて事にはならないだろうな……。
「ふふふふ…………まさかな」
 既視感に危機感を感じた俺の頬に、一すじの汗が伝い落ちる。そしてすぐさま、エアコンの設定温度を二度下げた。
 既にお分かりかもしれないが、俺は今自室の部屋に篭り、エアコンの効いた部屋でゴロゴロと涼しんでいた。こんなに暑い日は外に出たら一瞬で干からびてしまうし、そんなことをする奴の気が知れない。
 こんな日は、高校野球やいい○も、そして昼ドラや再放送のアニメを見て過ごすのが正しく、現代っ子の正統的な夏休みの過ごし方でもある。
「いやー、極楽極楽………くっくっくっく…………」
 エアコンからの冷風を受け、俺は朝から一番銭湯に臨んだご老体のような声をだした。
 爺臭いと言うこと無かれ。ここんところ毎日ずっと暑い思いをしていたのだからたまにはこんな風に涼しんでもいいだろ。
 もちろん元凶は我が団長である。日本中を灼熱地獄に陥れる太陽の力もハルヒの前では無力、いや、パワーを吸い取ってよりエネルギッシュに活動し始めていた。
 クソ暑い中、鶴屋さんの家の広大な敷地に生える雑草をむしったり、土用の日に併せてウナギの焼き方を修行したり、駅前で募金活動を行ったりと、エトセトラエトセトラ。
 一日ならばともかく、こんなのが何日も続けば誰だってグロッキーになるし、俺の今の行動を否定する奴なんざいなくなるに決まっている。エアコンをフル稼働させて、何が悪いんだ?
 そうそう、今日は珍しく団活は休み。ハルヒ曰く『ちょっとした所用よ』とのことだ。珍しく言葉を濁すその言い回しに若干引っかかるものがあったが、詳しく聞いても教えてくれないだろうし、聞こうとも思わなかったのでそのまま流した。
 おかげで、夏休みも無いに等しい我が夏休みに、ようやく夏休みらしい日を過ごすことがきる。ようやくようやく……。
「ふふふふふ……そろそろ……ふふふふふふ…………」

 さて。
 既に御賢明な諸姉諸兄の皆々様においては、俺の先々の言動に若干変なモノが混じっているのはご承知だと思われる。が、その辺は気にしないで頂けたらこれ幸いである。今日の俺は少しテンションが上がっているのだ。
 それは、久しぶりの休日を手に入れた喜びとも、エアコンをガンガンに効かせて涼しんでいる極楽感とも、また違う。もっと格の違う、素晴らしきイベントが俺を……。
 ピンポーン。「宅配便でーす」
「来たっ!!」
 エアコンの影響を受けていない廊下の、うだるような暑さをものともせず、俺は一目散に玄関へと駆け抜けた。


 背中に汗染みを浮かべる宅急便のおっちゃんに「ご苦労様です」と声をかけ、しかしおっちゃんは俺の声が気持ち悪かったのか微妙に顔を引きつらせながら俺の家を後した。
 残ったのは、おっちゃんが置いていった宅配物――エアーキャップに包まれたメール便――と、うすら笑いを浮かべているであろう、俺。
 家の廊下以上に暑さが厳しいはずだが、今となっては些細なことである。
「ふふふふふ…………ふふふふ…………」

 自分でもはっきりと認識できるほど気持ち悪い笑みを携えたまま、俺は再び自室へと戻った。
 ――ようやく、来た。
 今日という日が、これほど待ち焦がれた事はなかった。
 はやる気持ちを抑えつつ、丁寧に梱包された養生シールを剥がし、新聞紙とエアーキャップに包まれたソレを取り出した。
 それは、一枚のDVDケース。
 タイトルすら書かれていない、真っ白なケースの中にあけると、これまた何も書かれていないDVDが一枚。素人目には、一体何のDVDなのかわからない……いや、わからないようにしてある。
 さて、賢明な紳士淑女の皆様ならばもうお分かりだろう。
 特に紳士の皆様は。
 有り体に言えば、つまり、このDVDはまあ……その手のDVDである。
 ……そこ、白い目で睨むんじゃない。
 俺だって健全なる男性……この場合オスと言っても差し支えないが……ともかく、そう言ったものに興味のある年頃である。だからしてこの手のモノを入手していたとしても何ら問題ないわけだ。
 そもそもこの手のモノを邪険に扱うことが間違っている。よくよく考えて欲しい。この手のモノがもし入手できなくなったとしたら、全人類の半分はそれこそ狂える野獣と化して、もう半分の人類に被害を及ぼしかねない。
 古泉がハルヒのトランキライザーを果たすように、ごく一部の人間が身を挺して全人類のおよそ半分の内の大多数(ややこしいな)のトランキライザー役を買ってでることで、世界の平穏は成り立っているのだ。
 どこぞの憲法第二十五条では生存権を保証する文面が唄われているが、健康的な人間が健康的でいるためには邪な心を捨て、賢者のように卓越した精神力を身につける必要があるわけである。
 故に、俺が今手にしているDVDは、ヒトがヒトとして生きていくために、そして健康で文化的な生活を営むために必要不可欠な存在なのである。
 どうだ、解ってもらえただろうか?
 ……ああ、もちろんこじつけだ。頼むから本気にはしないでくれ。


 さて、与太話はともかくとして。
 気になる方もいるだろう。即ち、どうやってこの手のDVDを手に入れたのか。
 きっかけは一週間ほど前に受け取った谷口からのメール。何でも、知り合いがその手のビデオに精通しているおり、欲しいものがあればデータをコピーしてくれるというのだ。
 正直なところ、興味がなかった。いや、興味がないと言うと嘘になるが、媒介人が谷口であるあたり引け目を感じるものがある。アイツのことだから、今後俺の趣向についてネチネチと弄られそうな気がしてならない。
 しかし谷口もその辺のことはちゃんと考慮していたようで、メールの文末に直接その知り合いにコンタクトできるようメールアドレスを記載していた。勿論その知り合いも個人情報保護の立場から他言無用。厳格に厳守するとのこと。
 曰く、『お前の趣向なんて興味ないし、同様にお前も俺の趣向なんて知りたいとは思わないだろ?』とのことだ。いや、さすがわかってらっしゃる。これで谷口に俺の趣向がバラされずにすむってわけだ。懸念事項その一、クリア。
 懸念事項その二は……果たして、俺の趣向にあったビデオが果たしてリストアップされているかどうか、である。
 しかし、これについては添付されてきたリストを見てすぐに瓦解した。
 A4の用紙に記載されたタイトルと主演者だけの簡素なリストには、俺がどうしても見たかったとある企画モノのビデオが網羅されていたのだ。
 言うまでも無いが、俺はまだ未成年であり、その手のビデオを見たくてもレンタルするわけにはいかない。店員さんにバレてしまったり、或いは同級生や職員に見つかったら言い訳のしようがない。

 PCがあればインターネットで入手する事も可能かもしれないが、うちのPCは動画を見るのに適しているほど高スペックなものではないし、何しろナローバンドなのでダウンロードに時間がかかってしょうがない。
 というわけで、俺がこの手のDVDを手に入れるには、現状殆ど不可能に近い状態だった。
 そんなこともあり、ひょんなことから渇望していたDVDが入手できたことは非常に喜ばしいことであり、同時に谷口に対するランキングは三階級昇進を果たした。よかったな、谷口。
 因みに、俺がここまで欲しがっていたDVDのタイトルだが……ケースの中に同梱されていた、小さい用紙にプリンタの印字でこうかかれていた。

『タイトル:ポニーテールでシュッ、シュッ』

 ……ツッコミどころ満載のタイトルだが、気にしたら負けである。企画モノのタイトルなんて所詮こんなものだ。
 ともあれ、早速メールアドレスにそのタイトルを記載し送信。五分と待たず発送希望日と手数料の詳細が書かれた返信メールが届いた。
 手数料はメディア代だけで良く、しかも谷口に渡してくれれば良いというのでかなり親切な御仁である。懸念事項その三だった金額についても軽くクリア。これからもちょくちょく利用させてもらおう。うっしっしっし……っと、失敬。
 とまあ、ここまでは良かったのだが……ここに来て困ったことが発生した。
 それは、発送日をいつにするか、である。
 夏休みなので日中ならばいつでも良いじゃないかと考えがちだが、そうは問屋が卸さない。先述の通り俺は毎日SOS団の団活に駆り出されているので中々受け取ることができない。下手な日に設定したら両親が先に受けっとってしまう可能性だってあるのだ。
 とは言え、何が送られてくるか解らないようにカモフラージュしてあるし、適当に嘘をついておけば早々中身について言及される事もないはず。実のところ受け取りに関してはそれほど大きな問題ではない。問題なのはその後。
 何度も言うが、ここんところの団活のせいで日中は見ることすらままならないし、深夜に見ようとも連日の疲れで起きているのも困難であれば中々そう言うわけにもいかない。
 そして一番の不安定要素。それは妹の存在だ。
 言うまでも無いが小学生である妹は俺と同じく夏休み真っ盛りであり、プールなど遊びに出かけることもあるものの、基本的に俺と同じく家で過ごしている。
 しかも我が妹の特性上、いきなり俺の部屋に侵入する確率が非常に高い。ちゃんとノックして入るよう言い聞かせているものの、有言実行には程遠いのが現実だ。
 だから、暇を見てDVDをセットしたところでゆっくりと観賞する余裕すらないのだ。
 これでは豚に真珠、馬の耳に念仏、宝の持ち腐れである……忌々しい。煩悩も溜まりまくるからとてもに忌々しい……ああもうっ!
 しかし、神は俺を見捨てなかった。
 団活が珍しく休みになったこの日。妹はミヨキチ等気の合う友人達とキャンプをするとかで、朝から鶴屋さんばりのハイテンションで出掛けていった。戻ってくるのは、明日の昼頃の予定である。
 この日を逃したら、いつ観れるか分からない。不退転の思いで発送希望日を本日にした俺は、その日がくるまで今か今かと待ちわび、そしてめでたく今日という日を迎えたのである。
「ようやく……ようやく対面する時が来た! 待ってたぞこの時をっ!!」
 部屋の中とは言え、大声を出すのは気まずいと感じた俺は密かに心の中だけで絶叫した。
 夏休みという多大なる時間がありながら、一押しのDVDが手に入りながら、観ることが出来ないという、悔しい思いをした日々。
 しかし、今日ついにそれが報われる。その時の喜び、生きとし生ける生物のおよそ半数には共感できるに違いない。
 はやる心(と体の一部分)をおさえ、厳重にカーテンを閉め、テレビの音量、画質調整を完璧にセッティングし、その他必要な部材(多くは語らないから想像でカバーしてくれ)を確保し。
 イヤホンジャックにヘッドホンの端子を接続した後、俺はDVDプレーヤーの再生ボタンを押した。
 ブルーバックだった外部出力画面はブラックアウト。モニター一瞬自分の(まぬけな)姿が映し出される……が、それもつかの間のこと。即座にDVDのロゴ、続いてなんたら倫理委員だか協会だかの監修がどうたらこうたらとどうでも良い文章が映し出される。
 およそこの手のDVDを見る人の九分九厘スキップするであろうこの場面だが、ストーリー重視の俺にとって早送りのしすぎは気持ちを萎えさせる一番の要因である。
 それに、本編が始まるのを今か今かと待ちかまえるこの時間がとても…………ふふふっ。
 ……すまん、今の俺にノーマルな会話を期待しないでくれ。頭の中ではDVDのストーリーに対する妄想でいっぱいいっぱいなのだ。というか誰だってそう言うモノだ。うん。
 さて、そんなこんなでブラックアウトと化していた画面は一転、ホワイトアウト。薄暗くしていた部屋の中でこの光は強烈な印象を受ける。
 そのホワイトアウトされた画面が徐々に映像を映し出される。とある噴水のある公園。そこに佇む一人の少女。
 どこぞのアイドルユニットのライブ衣装に良く似たブレザー服。線の細い感じのある美少女。対照的に服を身につけても分かるスタイルの良さ。そして……緩いウェイブのセミロングヘアを一纏めに括った、ポニーテール。
 もう、ガマンの限界です。
 達観しきった表情でガサゴソと準備し始めた、その時。

『……くん、…………くん、…………でしょ……はや…………』

 ヘッドホン越しに、女性の声が微かに届いた。しかし、テレビに映るポニーテール少女の声ではない。
 となると、
『誰か来たのか!?』
 即座に反応した俺は、百人一首に興じるハルヒと長門にすら打ち勝つと自負できる反射速度でプレーヤーの電源を落とし、イヤホンを抜き去ってベッドの下へ押し込み、静かに耳をすませた。
 こういう時の人間は、五感が鋭利な刃物並みに研ぎ澄まされているものだ。……嘘じゃない。
『…………』
 静寂が辺りを支配する。俺の耳に届いた声は空耳だったのだうか?
 念のため窓を開けて玄関の方を見るが、誰もいない。
 ……どうやら、俺の思い過ごしだったようだな……。
 安堵の息をつき、窓を閉めカーテンを閉め。再びヘッドホンとDVDプレーヤーの電源を入れ、再生する。
 再び少女が微笑み、そしてDVDのタイトルロゴが現れ……


「キョンくん! いるじゃないですか! 居留守するなんてひどいですぅ!!」

 ――唐突。
 全くの唐突だった。
 あまりのことに予想の「よ」の字すら脳内に留めることができなかった。


『…………あ』


 薄手のキャミソールと、涼しそうなフリルがついたミニスカートを身につけた栗色のツインテール――橘京子――は、その後の第一声が見事なまでに俺と被った。
 そして。
「ふふふふ…………なぁんだ、そうだったんだ。もう、そう言うことでしたら早く言ってくださいよ」
 開いた口がふさがらなくなった俺の表情を余所に、橘の目と口が弓の如く綺麗にカーブした。
「ええと、ここら辺に……」
 ガサゴソと懐ならぬ股の下をまさぐり、取り出したのは、

「じゃじゃじゃーん! 『新・三種の神器』の一つ! TE○GA! しかも携帯しやすいよう卵さんバージョンです!!」

「…………」
「…………」
「…………」
「……あの」
「…………」
「……ウケ、良くなかったですか?……」
「…………」
「…………うーん、やっぱりスタンダード品の方がいいですかね?」
「…………」
「でもアレ大きすぎていくら何でも隠し持つのが……」
「…………橘」
「はい?」
「とりあえず、ソレ、貸してくれ」
「あ、はい。ちょっと待ってくださいね。キレイに拭きますから……コシコシコシ……はい、どうぞ」
 橘から受け取った卵形のソレは、本当に生み立ての卵のようなぬくもりを持っていた。
「使い方は分かりますよね? あたし正規の方法では使えませんから詳しく分からないので悪しからず。んふっ。では、ごゆっく「ゆっくりできるかこのスカポンタ~ン!!!」」
「きゃん!!」
 嫌らしい笑みを浮かべ背にする橘に言いようのない怒りを感じた俺は、卵さんを後頭部目がけて投げつけ――見事命中。不思議な声を出して悶絶した。
「いったーい! ……ってほどでもないですけど。ゴムですし。……ともかく! 何するんですかぁ!」
「何するんですかはこっちのセリフだぁ!」
 人様の家に勝手に入り込んで、挙げ句にノックもせず部屋のドアを開けるなんざ妹と同類かお前はぁ!!
「何いってるんですか。何度も呼び鈴鳴らしましたし、それにキョンくんのこと何度も呼びましたよ? 『いるんでしょ!? 早く出てきてくださいっ!』って」
「あ……」よくよく考えればそんなような言葉だったかも……。
「玄関はカギがかかってないし、靴もありましたし。絶対居留守使ってるなーって思ったんです。ご丁寧にカーテンまで閉め切ってるし」
「いや……それはその…………だが待て。居留守だとしても部屋まで入り込むなんて犯罪だぞ。分かっているのか?」
「でも……」そっと顔を下げ、「寝てるだけだったら良いんですけど、もしかしたら熱中症で倒れているかも、って思いまして。心配になって見に来たんです」
「む……」
 そう言われれば、俺も挙げた拳をしまわざるを得ない。いくら変な奴とはいえ、心配されるような状況だったこちらにも非があるし、何より本当はいいヤツだなんて思ったりもするさ。見直したぜ、橘。
「ふふふっ、ありがとうございます。でも、安心しました。返事が無いのは倒れているからじゃなくて、単にマスか「わーっ! わーっ!! わーっ!!!」」
 前言撤回。橘を尊敬した時間、約三秒。
「健康な証拠でいいじゃないですか。真の健康とは、肉体的には元より精神的にも充実してないといけないのです。溜めるだけ溜めてこんでガマンできなくて犯罪行為したら元も子もありません。人が健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利として当然です」
 えっへん、と偉そうに小さい胸を反らす橘。対照的に、俺はこいつと同じ考えを持っていたのかと幻滅した。
「あたしは応援してますから、キョンくんのマ……じゃなくて、精神的な健康を保つ行為。頑張ってくださいね♪」
 頑張りすぎるのもどうかと思うぞ。男として。
「ええっ!? じゃあ本物が良いんですか!?」
 何でそうなるっ!?
「ダメダメっ! ダメですぅ!! 男の子って節操ないからがっついてきて痛いんですぅ!!」
 痛くなかったらヤってもオッケーなのだろうか? 試しにそう聞いてみると、
「それだけじゃありません! あたし今日は超危険日ですから! 求めたって無駄ですよ!!」
 はあ……もう、どうでもいいや。
「あ、そうだ!」何を思いついたのか、橘はポンと手をつき、「そう言えばあの二人、今日は……ちょっと聞いてみましょう」
 言ってトートバッグから携帯を取り出した橘は、軽やかに指を動かし『あの二人』とやらに連絡を取り始めた。ニュアンスからして……ハルヒと佐々木だろうな、きっと。
 やたらとにこやかな顔で電話を待つ橘の顔を見て、ふと疑問が二つほどわき起こった。
 一つ。ハルヒと佐々木を俺の家に呼んで何をさせる気なのだ、こいつは。
 そしてもう一つ。トートバッグあるなら最初から卵さんをそっちに入れとけよ、と。
「だって、こっちはもう荷物いっぱいなんです。特に『新・三種の神器』の一つ、メイド姿の二号さんは折りたたんでも大きいですし、も一つ、大きい玉を繋いだ数珠さんとかも結構かさばるんです」
 ……突っ込んだ俺がバカだった。


 今思えば、あの頃の橘はそれなりに場の空気を読んで行動していたようにも思える。引くべきところは引いたし、わざとボケているような言動も多く目立っていた。
 傍から見れば何にも変わってないように見えるかも知れないが、それは長門の時と同じだ。他の人では感じ取ることの出来ないくらい僅かな仕草の違いや感情を、ここ数年の付き合いで感じ取れるようになってきた。
 だからこそ、言えるのだろう。
 橘京子があの事件を境に変わってしまい、そしてその余波が俺の身の上にも影響していたなんて。
 できることなら、いますぐ電話を止めるか、或いは橘を追い返すべきだったのかもしれない。
 しかし、既に手遅れだった。
 事件の序章は、もうすぐそこまで来ていた――。


「ああ、最初に注意しておきますけど」
 携帯電話の操作を一時中断し、俺の方を見て真剣な顔で語り始めた。
「今から佐々木さんに電話しますけど、キョンくんが横にいることは絶対の内緒ですからね。そうでないとあたし肉体的にも精神的にも抹殺されかねないですから」
 だったら俺の居ないところで電話しろといいたいところだが、どうせ無駄なので代わりにハイハイと頷いた。
 俺の仕草にニッコリと微笑んだ橘は再び携帯電話の操作を再開。続いてスピーカーから着信コールが鳴り響く。
 コール音は三回で途絶え、その代わり一人の女性の声がハンズフリーモードにしたスピーカーから流れ出た。
『……もしもし、橘さんだよね、どうしたんだい?』
 まぎれも佐々木の声である。その声以外の雑音は何も聞こえない。よほど静かなところにいるのか……?
「あ、おはようございます、佐々木さん。今暇ですか? ちょっとお伺いしたいことがあるのです」
『暇と言うほど怠惰に時間を過ごしている訳ではないが、分刻みでスケジュールが混み合っているわけでもない。多少ならご相談に乗ってあげられないこともないけど』
「丁度良かったのです。実はですね……ひっひっひ」
(……こら、お前変なこと考えて無いだろうな?)
 ハルヒと佐々木に聞こえ無いようそっと橘に耳打ちした。
(大丈夫ですって。まかせてください!)
『……? 橘さん、誰かそこにいるのかい?』
「い、いいえ! だ、誰も!!」
『…………怪しいわね。こんな時間に電話してくるのもそうだけど、何か隠しているその態度も気にくわない』
(ほら言わんこっちゃない。佐々木に勘ぐられた)
「しーっ! 静かに!!」
『やっぱり! 誰かいるのね!』
(やば……!)
『まさか……! 橘さん! あなたわたしたちが図書館で勉強しているのをいいことに、キョンの寝込みを襲ったんじゃ!?』
「そ、そんなことするわけありません! 第一キョンくんは一人で励んでました!!」
「アホかぁぁぁぁぁあああ!!!」
 ゴツン。
「ぴゃん!」
 アホな発言に思わずツッコミを入れる俺……って、しまったぁぁ!!!
『キョン! やっぱりそこにいるじゃないの!』
 バレたぁぁ!!
『あんた橘さんになにしたのよ!?』
 ――スピーカーから割れんばかりの声で叫んだのは、佐々木じゃない女の声……って、
「――ハルヒ!? 何でお前がそこに居る!?」
『佐々木さんと夏休みの課題をするために図書館に来てたのよ!』
 そうか……あいつも一応宿題やってたんだな……って。そんなところに感心している場合じゃない。
『あんたあれほど手出ししないって言ってたのに、橘さんに何コマしてんのよっ! スケベ! 変態! ヤ○チ○!!』
『橘さんも橘さんだ! キョンの初めてはわたしたちに譲ってくれるって言ってたじゃない! それをそれを……メス豚! 媚婦! ヤ○マ○!!』
『ちょ、ちょっと君たち、図書館では静かに……』
 ここで誰だか知らない男の人の声が入ってきた。察するに係りの人……司書官だろうか。わきゃわきゃ騒ぐだけならまだしも、卑猥な言葉をあたりに撒き散らしているとあれば当然の行動である。
 が、そんな注意に屈する二人ではない。『うっさいチビ!』とか『黙れハゲ!』とか、散々な罵詈雑言を矢継ぎ早にまくし立て、ついに
『………………き、気にしてたのに……ぐすん』
 ……哀れ、通りがかりの司書さん。しかし、俺も人の心配をしている場合じゃない。
『許せないわ……今から制裁に行くから覚悟なさい!』
『橘さんも、分かってるよね? 抜け駆けした罪は万死に値するからね……』
 色々と含んだものを残しつつ、それ以上二人の声は聞こえなくなった。


「……おい。どうするんだ、この状況?」
 怒気をはらんだ俺の声に、橘は恐る恐る携帯電話の通話を切り、
「……ええと…………そうだ、あたしこれから閉鎖空間限定でやってるケーキバイキングにいかなきゃ。それではっ!」
「ふざけるなぁぁ!! どうにかして説得しろ! 全てお前が悪いんだろうが!!!」
「ひ、人のせいにするだなんてひどすぎます!」
 ものの見事にお前のせいだぁぁあぁあ!!!!!
「いいえっ! キョンくんが黙っていれば……あたしのボケに突っ込まなければ、ここまで被害は大きくなりませんでしたよっ!」
 そ、それを言われると少し辛いものが……。
「とにかく、今はお二人の怒りを少しでも鎮める事を優先的に考えましょう。ってことでコレ、隠しましょう!!」
 橘は心底慌てて、辺りの片付けをし始める。先ほど投げつけた卵さんを含む『新・三種の神器』、その奥に詰めてあった『旧・三種の神器』(中身は以前紹介したので省略)、そして何故か俺のDVDまで。
「あたしとキョンくんが二人っきりだった上にこんなモノまで散らかしっぱなしにしてたら、佐々木さんや涼宮さんに何言われるか分かりません!」
 それは道理である。
「それじゃ行ってきます!」
 おい待て、どこに行く気だ?
「隠すだけなら俺の部屋だけで十分だろ! それに他の部屋まで入れさせる訳にはいかんぞ!」
「大丈夫なのです! プライベートに配慮しつつも捜索が困難な場所に隠します! それに隠すのはあたしの方が適しています!」
 何故!?
「キョンくんはこの家の住人ですから当然勝手を知っているでしょう。ですが勝手を知ってるからこそ、隠す場所が固定化される恐れがあります」
 まあ……確かに。
「それに恐ろしくカンの良い二人のことです。キョンくんの考えなんて筒抜けも良いところでしょう。ここは裏をかいてあたしが隠した方がばれにくいはずです!」
 もっとものような、上手いこと騙されているような…………しかし、時間がないのも事実である。
「わかった、早く隠せ!」
「らじゃ!!」
 俺の号令を皮切りに、トタトタと響きわたる足音はやがて小さくなっていく。恐らく一階に降りていったのだろうが……大丈夫なのか?
「……なにが大丈夫なの?」
「ああ、橘が隠した……」
 って、ちょっと待て!?
「ふっふっふっ…………橘さん、何を隠したのかしら?」
「くっくっくっ…………どうせ彼女のことだから、キョンを手込めにするツールに違いないさ」
 ――俺の部屋の前。一階の屋根に降り立った、人の影二つ。
「ハルヒ……佐々木……」
「やっぱり居たわね、キョン」
「意表をついてキョンの部屋からアクセスしたのが幸いだったね」
 な、なぜ……二階から……?
「昼間だってのに、カーテンを閉め切ってたら怪しさ大爆発じゃない」
「淫らな行為に溺れていると感じて、現場を押さえようとしたのさ」
 ぐ……さっき窓を開けた時、鍵を閉め忘れたか……。そして、どうしてこいつらは俺と橘の関係をそんな関係にしたがるんだ!?
「さあ! 観念して橘さんを出しなさい!」
「出さないならこっちで探すまで! 一糸纏わぬ橘さんがいたらもう弁明出来ないと思いたまえ!」
 銘々勝手なことを行った挙げ句、カーテンを開け窓を開け、俺の部屋の家宅捜査が始まった。
「……こっちにはいないわ! そっちは!」
「ダメだ! 見つからない!」
 橘は別途隠しものをするために一階に下りていったはず。ここにいないのは当然である。
 そして、二階から聞こえて来るであろうドタバタ音と二人の声で、橘は自分の身に危険が来たのを察知したはずである。恐らく今頃玄関から逃げて……。
 バァン!
「お待たせ! 隠してきましたぁ! これでもう大……じょ…………」
 俺の部屋の状況を見て、場の空気を読んでいなかった橘は回れ右をして――。
「ああ! もうすぐ再放送のポ○モンが始まる時間! 帰らなきゃ!」
 ――一目散にかけだした。
『待てぇぇぇええぇえ!!!!!』
 その後を、鬼にも勝る形相で追いかけるハルヒと佐々木。もちろん待つわけが無く、全身全霊の力を込めて逃走する橘。
 ……しかし、これこそが橘の――いや、俺たちにとっても――悲劇の始まりだった。

 大股かつ必死で足を動かす橘を、それをも上回るペースで追いかける二人。徐々にではあるが差は小さくなる。
「ひい、ひいいぃぃ!!」
『待てぇぇぇぇえぇ!!!』
 橘はさらに足を前後に動かす。振り返る余裕などあるはずもない。
 そして、足場が変わったことにも気づく余裕もない。
 ……つまり。
 橘は勢いそのままに、階段にさしかかった我が家の廊下を走り抜け――
「た、助けてぇぇぇぇぇー!!!! ……って、あれ?」
『あ…………』


 ゴトン。

 ガラガラガラ。

 ドンガラガッシャン、スッテンテン。


 ――某アメリカネズミを追いかける某アメリカネコの如く、空中で足をバタバタしながら一階へとなだれ落ちた。



『…………』
 あまりの出来事に怒りをも忘れ、ただただ呆然と階段の先を見つづける両少女だったが、先に我に返ったのは佐々木のほうだった。
「……と、とにかく助けましょう!」
 ハルヒと佐々木と、そして傍観者の如く部屋に篭っていた俺もついには飛びだし、橘がいるであろう階段まで赴くと、そこには予想通りの光景が広がっていた。
「きゅううう~」
 即ち、大の字でうつ伏せになっている橘京子。
「橘!」
「橘さん!」
 佐々木が抱え起こすと、文字通り目を回しているのだろうか、目がナルト状に渦を巻いていた。
「大丈夫!? しっかりして!」
 佐々木が揺さぶり、目を覚まそうとするも徒労に終わる。
「まさか……橘さん、今のショックで……」
 変なコト言うな佐々木、こんなんでくたばるタマじゃないぞこいつは。
「わ、わかってるけど何の反応もないし……」
「そうよ、キョンの言うとおりよ!」
 心配そうな顔……をしているようには見えないが一応気を使っているのだろう、ハルヒは佐々木に抱えられた橘をひったくり、
「こんなことじゃSOS団として……いや、入団させた覚えはないしさせるつもりもないけど……ともかく、起きなさい!!」
 佐々木よりもより強く揺さぶる。が、
「……ダメ。起きないわ」
 まさか、本当にコイツ……いや、そんなことはない。コイツはこんな事でくたばるようなタマじゃない。コイツの生命力の強さは並大抵のものじゃない。
 キャンプインでしごかれても、神人に叩かれても、翌日には何事もなくケロッとした表情で俺の前に顔を出していたんだ。
だから……。
「こうなったら、奥の手だ」
 ぺしぺしと軽く頬を叩いていたハルヒに代わり、今度は俺が無反応の橘を支えた。
 端整な顔立ち、白い頬、潤いのある唇――いつもこんな風に大人しければ世間一般からの評価も変わるのに。もったいない。……が、それは個人の問題なので俺からは口を出さないでおく。
 そんな橘の寝顔を尻目に、俺は右掌を彼女の頬の手前に近づける。いわゆるアドレスってやつだ。
 狙いをつけたところで、そのままゆっくりとテイクバック。斜め上方四十五度のところで一旦止め、力を蓄える。
「キョン……まさか……」
(しっ! ティーショット中は黙ってるのがマナーよ)
 そして、しならせた腕を解放するかの如く、そのまま右手を振り下ろしてフルスイング。
 目標――橘京子の頬。

「起きろー!!!」 パッシーン!!! 「へぶぅ!!!」

 頬がゆがみ、唇は綺麗に数字の3の形状をとった。
『おおー、ナイスショット』
 パチパチと拍手を送るギャラリー、約二名。
「なにが『ナイスショット』ですかぁぁぁ!!」
 あ、橘の目が覚めた。
「乙女の柔肌にこんなものつけてどーする気ですか!!」
 見ると橘の左頬には見事なまでの赤もみじが咲いている。季節はずれは否めないが、春と秋を間違えた桜と比べたら可愛いものである。もっとも、こっちは造花(?)だし季節なんて関係ない。
 などとクダラナイ妄想をしていると、
「あー、ごめんごめん。でも起きなかったからしょうがないじゃない」
 俺に代わってハルヒが代弁し始める。
「しょうがないもジンジャーエールも関係ありません! どうせやるなら季節ってものを考えてください! こんなクソ暑いのにもみじなんて季節はずれよ……ったく、知性も教養もないんだから……」
「ふっふっふっふ…………言ってくれるわね。なら晩秋の頃、いくらでも実らせてあげるわよ。そのお顔に」
「ちょ、ちょっとした冗談ですって……やだなあ」
 ハルヒの殺気に怖気ついたのか、橘はフルフルと小動物のように震えてハルヒの申し出を断った。


 ――階段から転げ落ちたものの、その後すぐに意識を取り戻した橘。
 ここまでなら笑い話、話題の展開に困った時の、ささやかなネタとして有効活用できる範疇であった。
 しかし。俺は気付いていなかった。
 橘の身に、目で見ることができない傷痕が残されたことを。


「さ、橘」
 彼女の安否が確認できたところで俺は、「ハルヒも佐々木も来た所だし、そろそろお前が何しに俺んちに来たのか教えてもらおうか」
 しかし、橘は答えない。
「おい。橘。聞いてるのか?」
 橘はキョロキョロと辺りを見渡した後、自分に視線が集中していることに気付いたのか、
「……あたし?」
 お前以外に誰がいる? 橘って名の奴は?
「ええっと……うーん……」
 しかし橘は腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で唸るのみ。
「あ、わかった」横からひょっこりと佐々木が顔を出した。『あたしは橘っていう『名前』じゃなくて、『苗字』だ』、って言いたいんじゃないのかな? くっくっく。そんな幼稚な手に引っかかるとはキョンもまだまだ精進が足りないね」
うるさい。
 俺の感情が露になる直前、橘が驚きながら、
「あたし、橘って苗字なんですかぁ。素敵ですね。実はさっきから自分の名前を思い出せなくて困ってたんですぅ」
『へ……?』
 なかなかの爆弾発言をかましやがった。
「そう言えば何でこんなところにいるんでしょう? というか、皆さんどちら様で?」
「た、橘……さん?」
「マジで言ってるの……?」
 冷や汗をひとすじ垂らす二人にたいし、橘は
「スペシャルにマジですが何か?」
 場違いなほどニッコリ微笑みかけた。

 つまり。
 橘京子は、階段から落ちた拍子に頭を打ち、記憶の一部に損傷を受けた――ってことになる。
 ……おいおい、マジか?

「……ど、どうしよ……佐々木さん」
「ど、どうしよって言っても……ええと、ええと…………」
「……はっ! 思い出した!! こう言うときは患部にミソを塗りこむのよ!」
「ち、違うわ! 確かオシ○コかけるんじゃなかったっけ!」
 全然見当違いの民間療法を挙げつつ、しかしそれが二人の動揺さ加減を計るモノサシになっていた。見てのとおり的確な判断ができないくらいパニクっている。レベルとしては、失礼だが朝比奈さん並だ。
 気持ちはわかる。間接的にとは言え、二人が原因を作ったようなもんだし。
 しかし……どうしても気になることがある。それは……
『キョ、キョン!』
 俺のなかのモノノーグを遮るかのごとく、ハルヒと佐々木が一斉に声をあげた。
「お、思い出したんだけど、あたしハカセくんに昼ご飯作ってあげなきゃいけなかったの! 急だけど帰るわ!」
「ぼ、僕も、キュー○ー○分クッ○ング見て今夜のオカズつくらなきゃいけないんだった! それじゃ!」
 例えではなく本気で汗を垂らしながら、韋駄天の如く駆け抜けあっという間に俺の家の玄関を後にした。
 呆然と佇む俺、そして橘。開いたままの玄関から、何故か寒々しい風が舞い込んでくる。あ、あいつら……都合が悪くなると逃げやがって……。
 だが、見方によっては都合が良くなったと捉えるべきだ。
 気を取り戻し、空きっぱなしになった玄関を閉め、階段の前でちょこんと座り込んでいる橘に向かって、「橘」と呼んでみた。
「はい?」
「お前の記憶喪失……演技だろ?」
 俺の問い掛けに、橘は小さく笑って、「どうして、そう思われましたか?」
「記憶を失ってる割に嫌に落ち着いているからな。それに記憶を失うタイミングが余りにも良すぎる。どう考えても演技にしか見えん」


 ――橘が二人の怒りを買い、追いかけまわされた理由。
 それは、ハルヒと佐々木の許可なく俺の家にきたことだろう。
 発覚した原因は、言うまでも無く先の電話である。近くに俺がいるのが解っていながら何故二人に連絡しようとしたのか、そこは不明だが……。
 ともかく、以前取り交わされた変な条約だか約束を反故され、二人の怒りは頭のてっぺんを越え、制裁を加えようとやってくる。もちろんこのままでは身の安全どころか命の保障までぶっ壊されかねない。
 そう考えた橘はある秘策を思いついた。即ち、記憶喪失を演じて知らないフリを決め込もう、と。
 正直おかしいと思ったんだ。『怪しいグッズ』を隠している暇があるんなら、その分遠くに逃げた方が二人の猛追をかわせる可能性がある。
 なのにそれをせず俺の家に留まったのは、そう言った策略があったからだろう。
 記憶を無くす場所は、他の場所――階段があるところならばどこでも良かったかもしれない。が、どこで二人に出くわすか予測できなくなる欠点がある。それよりは確実に任務を遂行できる場所――俺んちの階段――の方が成功率はより高くなる。
 ワザと二人に見つかり、階段を駆け下りようとして踏み外し、記憶喪失を演じる。突然のトラブルを扇動することで怒りをうやむやにしようと計算したのだろう。
 いやはや。橘にしては妙策だぜ――


「ふっふっふっふ…………なかなか、面白い意見ですね。痛み入ります」
 口を小さく歪め、不敵な笑いを浮かべた。連動してツインテールも小刻みに揺れ動く。
「だから、もういいぞ。記憶喪失のフリをしなくても。アイツ等に真相を語る気はサラサラ無いし、余計な面倒事もしたくない。第一お互い怪しいグッズを持ってたなんて言いたくないだろ?」
「ふふふ……それもそうですね。概ね同意します」
 どうやら、俺たちの利害は一致した。
「なら、もう芝居はいいだろう。さっさと止めて家に帰れ」
 しかし、橘の顔は一転し、「残念ながら、不可能です」
「どうしてだ?」
「簡単なことです。だって、自宅の場所を思い出せないんですから」
 …………は?
「ですから、自宅の場所、わからないんです」
 おいおい、何度も言うようだが記憶喪失のフリはもういいって。
「あたしも何度も言うようですが、リアルに記憶喪失なんですって」
 …………な。
「なんだってー!!!」
 だってお前、やけに落ち着いて……。
「いやまあ……騒いだところで記憶が蘇るわけでもないですし」
 そりゃそうだが、フツーはもう少し慌てるか動揺するかするもんだろ!?
「あたし無駄な努力って嫌いなのよね」
 それで済む問題かぁぁぁぁぁ!!!!!
「お前本気で言ってるのか? 佐々木のことも忘れたのか!?」
「大魔神さんですか、それとも小次郎さんですか?」
「ハルヒは!?」
「西春○井郡にあった町の一つですね」
「古泉は!?」
「ああ、社主にケンカを売って出世した人って設定だったのに、いつのまにか覆されてゴマスリばっかするようになった某新聞社の編集局長さんですね」
 その人とは漢字が違う……なんて突っ込みを入れてる場合じゃない。
 橘の表情や仕草を見るに、嘘をついているようには見えない。本気で言っている感たっぷりである。
 ってことは……まさか……アレも…………最も重要な……少なくとも俺にとっては……。
「橘……」藁にも縋る思い、一縷の希望を託して、「まさか、さっき隠したDVDの隠し場所って……?」
「ええ、」ニンマリと微笑む彼女は明快に、
「さっぱり思い出せません」
 なんとぉぉぉおぉぉーーーーー!!!!!



 ――こうして、せっかく手に入れた魅惑のDVDは、到着後小一時間で行方不明になってしまったのである。
 しかも全く見なかったのならまだ諦めがつくが、さわりだけでも見てしまった以上、俺の気持ちが治まらない。

「思い出せぇぇえぇ!!!! 俺のー!! 俺の大切なDVDを返せぇぇぇぇえぇ!!!」
「ち゛ょ゛……ゆ゛ら゛さ゛な゛い゛で゛……く゛る゛し゛…………」

 俺の悲痛な叫びと悶々とした感情は、橘に対する憎悪と憤怒へと代わり、力の源となって橘の身体をガックンガックン揺らしつづけたのだった。
 いつまでも、いつまでも…………。

 …
 ……
 ………

 その後、必死の形相で血眼になって家の中を探しまくったが、結局それらしき形跡を探り当てることはできずじまい。
 無論責任を取らせて橘にも探させたが、自分でどこに隠したのか全く覚えておらず、やはり探り当てられなかった。
 というわけで。
 苦労に苦労を重ねて手に入れた魅惑のDVDは、結局日の目を見ることなくお蔵入り状態となってしまった。
 それどころか、いつ家族の誰かに見つかると言う疑心暗鬼を抱えたまま、不安と恐怖に怯える日々を過ごす羽目になり……。


 今日の教訓:
 非合法な方法で手に入れたカネやモノは、すぐになくなってしまう。『これを悪銭身につかず』と言う。

 良い子のみんなへ:
 見たい気持ちはよく分かるけど、ちゃんと大きくなってから正規の方法で購入しような。



 ……しくしく。


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