『眼鏡と微笑』

 

 

「じゃあ、俺、行くわ」

「うん、あたしは今日は遅れて行くから、ちゃんと活動しておきなさいよ」

「はいよ」

 つまんない用事なのにー、あのバカ教師め、とか言ってブツブツ文句を言っていたハルヒに向かって、俺は軽く右手上げて、夏休みを直前に控えて少し浮き足立っている教室を後にした。期末試験も終わり、少しばかりの補習授業を消化したらあとは夏休みだ。その前に試験結果と通知表が返ってくるわけだが、今は忘れよう、それでいい。

 

 旧館に向かう渡り廊下を歩きながら、俺はさっきのハルヒの言葉を思い出していた。活動といったって、いったい何をすればいいのか、俺は未だによくわからない。

 結局することといえば、朝比奈さんの美味しいお茶をいただきながら、古泉相手に各種ボードゲームの勝利を重ねつつ、パタンと本を閉じる長門の終了の合図で帰宅する、というのがSOS団結成以来、延々と続いてきた放課後の過ごし方だ。

 ただ、時折、とてつもない騒ぎも起こり、その度に俺は死にそうな目にも遭ってきたわけだが、毎回毎回、長門に助けられつつなんとかこれまで生きながらえてきた。

 まぁ、そんなことはどうでもいいさ。俺にすればひとまずマイエンジェル朝比奈さんのお茶が飲めればそれでいい。

 

 階段を登りきり、梅雨明け直前のこの季節にはなんとなくかび臭さも感じられる廊下を足早に通過し、SOS団が占拠し続けている文芸部室の前に到着した。

 コンコン。

 いつもどおりのノックに対して、室内からは応答がなかった。

 まだ、長門だけか……、朝比奈さんのお茶は少しお預けだな。

 そんなことを思い浮かべながら、僅かにきしむドアを開ける。少しうつむき加減に足を踏み入れ、よお、と、言って顔を上げて室内に視線を向けると――――。

 

「え、あ、あの……」

 長机の奥の端っこで、両手を胸の前でクロスさせながら、顔一杯に不安と驚きの表情を浮かべた、ショートカットの見慣れた髪形の少女が立ち尽くしている。

 俺が良く知っている外見をしたその少女は、一歩二歩と後ずさりながら、唖然とする俺のことを少し潤んだ漆黒の瞳で見つめている。それもシルバーフレームの眼鏡越しで――――。

 な、な、なに? 背筋に電気が走る。

「な、長門?」

 そう、今俺の目の前にいる眼鏡姿の長門は、あの十二月、俺以外の何もかもが改変された世界で、この部室で一人本を読んでいた、あの長門だ。

 忘れるもんか。間違えるもんか。長門の表情専門家としての俺の感覚が百パーセントの確率で訴えている。こいつはあの改変された世界の長門だ。

 

 この初夏の時期に長袖のセーラー服とカーディガンを身にまとって小さく震えている眼鏡の長門は、一瞬の後、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。

「お、おい、大丈夫か!」

 かばんを机の上に放り投げ、しゃがみ込んでいる長門の前に駆け込んだ俺は、小刻みに揺れている小さな肩に両手を乗せた。

「長門、お前、あの時の長門なのか? どうして、お前がここに? なぜ……」

 少ししてゆっくりと顔を上げた長門は、

「わからない……、何が起こったのか、どうしてここにいるのか……、いまはいつなのか…………」

 眼鏡の奥の瞳がじっと俺のことを見つめている。

「た、助けて……、お願い……、わ、わたし、どうしていいか…………」

 そこまで話すと再び俯いて、あとは僅かに嗚咽が聞こえるのみだった。

 

 

 十二月十八日の早朝、俺が朝倉に刺された直後の北高の正門前で、間違いなくこっちの世界の長門の力によって時空が再改変され、時間の流れは上書きされたはずだ。あの再改変前の世界の長門も、眼鏡をはずしてもとのヒューマノイドインタフェースとしての機能を回復したはずだ。

 ではなぜ、あの時の、あの世界の、再改変される前の長門が今ここにいるんだ、いったいどういうことなのだ? ということは、こっちの長門はどうした、いつもここで本を読んでいるはずのこっちの長門は?

「長門――」

 そっと顔を上げる長門。頬を涙が伝っている。

「とにかく、落ち着け。何とかなる、何とかしてやる。とにかく話を聞かせてくれ」

「……は、はい」

 右手で頬の涙をぬぐった長門は、俺のことを少し見上げた後、ゆっくりと立ち上がった。

 その時、カチャリと音がしてドアが開いた。驚いて振り返った先には、半袖セーラー服にショートカットの髪を僅かに揺らし、鉄壁の無表情を浮かべた見慣れた北高生……。

「な、長門……」

 呆然と立ち尽くす俺と眼鏡長門の前につかつかと歩み寄って来た無表情の長門は、

「あと二分三十秒ほどで涼宮ハルヒ達がやってくる。時間がない」

 少し早口でそう言うと、長袖長門の眼鏡をそっとはずして、

「わたしはコンピ研で少し時間をつぶした後、先に帰宅している。あなたは、そちのわたしの異時空間同位体を連れて後ほどわたしのマンションまで来て欲しい」

「いや、あの……」

「あと二分十七秒しかない。急いで」

 俺が追加の質問をしようと口を開こうとした瞬間、長門はさっとセーラー服を脱ぎだした。

「うわっ、お、おい、なにを……」

 あっという間に上半身下着姿になった長門は、まだ長袖を着たまま呆然と立ち尽くしているもう一人の長門に脱いだばかりの半袖セーラー服を差し出しながら、

「早く着替えて」

「あ、あのぅ……」

「早く」

 

 さすがに、二人の長門がセーラー服を取り替えるために着替えをしている場面をまじまじと見つめるわけにはいかない。とりあえず俺は、扉のところで外の様子を伺いながら、背後に聞こえる衣擦れの音を聞いていた。振り返ってみたい衝動と、ハルヒ達が今にもドアを開けて踏み込んできたらという緊張感に板ばさみになりながら、過ごすことほんの一瞬、

「では、後ほど。ここにいる間は眼鏡はかけない方がいい」

 とだけ言い残して、長袖セーラー服の長門が部室を出て行った。チラッと見えた横顔の感じは、こっちの世界の長門だったはずだ、と、思う。

 というのも、俺が後ろを向いている間に、適当に入れ替わられたりしたら、もう、どっちがどっちの長門かわからなくなるのは必至だ。

 ただ確かに、部室に残っている方の長門は、半袖になって寒いのか、これから起こるであろうことに対する不安感なのか、両腕を抱きかかえるようにして震えているので、眼鏡を掛けていた方の長門で間違いはなさそうだ。

 ええい、今はやることをやるしかない。

 俺は本棚から適当に分厚いハードカバーを取り出して、机の上の残されていた眼鏡と共に長門に手渡した。

「とにかく、そこで黙って本を読んでいればいい。できるだけ表情を出さず、何か言われても、そう、とか、はい、とか簡単に答えるだけでOKだ」

 なにやら小難しいタイトルが書かれた表紙を困ったような表情で見つめている長門を姿を確認しつつ、

「眼鏡は、そうだな、長門が置いていったそのかばんに入れておくか」

 長門は自分が持ってきたかばんを置いていった。確かに、帰宅時に手ぶらのはおかしいからな。さすがに手抜かりはない。

「一時間ほどしたら俺がきっかけを作るから、そうしたら、少し大げさにその本を閉じるんだ。その音で帰宅することになるから。いいな」

「あ、あの、わたし……」

「ほら、座れ」

 まだ何か言いたそうにしている背中を促すように軽く押しながら、長門が窓際の定位置に腰を下ろした瞬間、部室の扉が開いた。

「やっほー、来たわよー」

「こんにちはー」

 

 ハルヒを先頭に朝比奈さんと古泉が立て続けに部室にやってきた。にぎやかに部室に足を踏み入れるSOS団のメンバを一人ひとり確認しながら、長門は微妙に驚いたような表情を浮かべていた。特にハルヒの姿を見たときには、あからさまに「えっ?」という表情で、五センチほど、長門としては大きく首を傾げていた。

 どうやら、この長門はみんなの顔は知っているらしい。まだ、向こうの世界にいた頃に、ハルヒ達が部室に押しかけた時のことは経験して知っているということか。あっちのハルヒは髪が長かったからな、こっちのハルヒを見て不思議に思うのも無理はない。

 だが、こんなペースで表情を出していてはすぐにバレてしまう。幸いなことに、ハルヒがいつもにも増してにぎやかに朝比奈さんをおもちゃにしているので、長門のことを気にかけることはなかった。まぁ、普段から、長門のことは窓辺の静物としか見ていないところがあるわけなんだが。

 

 そんな騒ぎが一段落すると、朝比奈さんは、

「じゃぁ、着替えますので、すみませんが……」

「ほら、キョン、いつまでもぼんやりしてるんじゃないわよ」

「あ、あぁ……」

 とにかく俺は、心細そうに俺のことを見つめている長門に向かって、頼むから無表情でいてくれよ、と目配せしながら、古泉と共にいったん部室から廊下に出た。

 

「ちょっといいですか?」

 廊下に出るなり、古泉が顔を寄せてきた。それ以上近づくなって。

「気付かれましたか? さっき、僕達が部室に到着した時、長門さん、とても不思議そうな表情を浮かべておられたように見えましたが……」

「ん、そうか? 俺は気付かなかったが」

 むぅ、流石は古泉だ。観察力が鋭いな。

「僕達が到着する前の部室で、あなたと長門さんの間に何かあったのですか? というより、長門さんに何かあったのでしょうか?」

「だから、何もないよ、期待に沿えずにすまないが」

 古泉は、少し俯き加減で意味ありげな笑みを口元に浮かべながら、

「そうですか……。まぁいいでしょう。僕としては、涼宮さんさえ平穏に過ごしていただければ、まずはOKですから。もし、何か手助けが必要になったらいつでもおっしゃってください」

「ふん」

 できることなら、古泉や機関の手を煩わすような事態には発展してほしくはないのだが、せっかくの申し出は心に刻んでおくことにしておこう。

 

 少しして、「いいわよー」と、ハルヒの声が室内から響いてきた。

 いつものメイドさん姿に変身した朝比奈さんは、お茶の用意をしながら振り返って、天使の微笑で迎えてくれている。長門は、というと、とりあえずは定位置で黙々と読書に励んでいる、フリをしているようだった。しかし、おそらくこの状況では、本の内容は少しも頭に入っていないだろうことは用意に想像できる。

 

 だが、そこはやはり長門だった。一般人に改変されたとしてもスーパー読書マシンには違いないわけで、小一時間もするうちに、すっかり読書にはまってしまったようだ。

 古泉と対戦中の俺に向かって、最初のうちこそおどおどした視線を頻繁に送ってきていたが、やがては熱心にページをめくり続けるようになった。

 適当に本棚から取り出しただけの本が、どんな内容だったのか知らないが、あんまりはまってもらっても困る。このまま放っておくと、一晩中でも読み続けそうな勢いであり、もうそろそろ本を閉じて今日の活動のお開きの合図を出してもらわないといけない。

 

 古泉とのひと勝負がついたところで、俺はやや大げさに、「うーん」と、背伸びをして、長門に誘いをかけてみた。そんなふりに気づいた長門は、「あっ」という表情を浮かべた後、慌てた勢いで、力いっぱい分厚い本を閉じた。

「えっ、なに? 有希? どしたの?」

 あまりの激しさに驚いたハルヒは、団長席から身を乗り出すようにしてバタンと大きな音がした方向に振り向いた。

「じ、時間……」

 別に言わなくてもいい一言を言ってしまったのは、何よりも音を出した当人が一番驚いていたからだな。

「ん、そう? いつもより早いんじゃないの?」

 怪訝そうにしているハルヒを横目に見ながら、俺はそそくさと盤上を埋めるオセロの駒を集めだした。朝比奈さんは何の躊躇いも無く湯飲みを片付け始め、古泉は意味ありげな微笑みを蓄えつつも、やはり手元の駒をかき集めている。

「さ、帰ろうぜ」

 ハルヒに有無を言わせないうちに帰宅の既成事実を積み上げるべく、俺はそう言って席を立った。早いとこ切り上げて、この長門を連れてマンションに急がねばならない。

「ふん、ま、いいわ」

 ハルヒは少し口元を突き出して、納得はしてないけど、との態度を示していたが、パソコンのシャットダウンの音が聞こえてきた。

 

 

 帰りの坂道でも、古泉は何か言いたそうな含み笑いで話しかけてきた。俺はそんな古泉の探りを適当にかわしながらも、それとなく振り返りつつ、最後尾をただ俯いて歩いている長門のことを気にかけていた。

 

 やがてみんながそれぞれの方向に分かれる場所に到達した。

「じゃーねー」と、スキップするように帰って行くハルヒの後姿を見送った後、俺は、

「ちょっと買い物があるから」

と、長門と二人だけで同じ方向に歩み始めた。

 古泉は、振り返りざまに

「では、また。とにかく、何かあったときはお電話を……」

 とだけ言い残して去っていった。

 去って行く古泉の姿を無言で見送りながら、俺は背後でぽつんと突っ立っている長門に声をかけた。

「じゃ、行くか」

「……はい」

 長門は二人だけになるのを待っていたかのようにさっとかばんから眼鏡を取り出すと、

「わたし、眼鏡がないと遠くが……よく見えない……」

 そういって眼鏡のレンズ越しに俺を見上げた長門は小さく肩をすくめた。 

 そうか、少しは度が入っていたんだな。俺はてっきり伊達だと思ってた。

 

 結局その後、マンションに向かう道中、俺が何か話しかけても、長門は俺が肩に掛けたかばんの底をつまむように持ったまま終始無言でついて来るだけだった。 

 

 

 やっとのことでたどり着いたいつもの七〇八号室。予定通り先に帰っていた長門が玄関先で迎えてくれた。

「よお、すまないな」

「どうぞ」

 廊下の先を行くこっちの長門と、後からついてくるあっちの長門にはさまれて、俺はリビングに向かいながら、軽く溜息をつくしかなかった。

 

「それで、と、まずは話を聞かしてくれるか」

「……はい」

 今はテーブル状態になっているコタツ机の俺の正面に座っている長門は、テーブルに置かれた湯飲みをじっと見つめながら、一つ一つ単語を選ぶかのようにゆっくりと話し出した。

「あの日、わたしは部室であなたが来るのを待って……」

 

 長門は、時折、眼鏡のつるの部分を触りながら、光陽園学院で見つけたハルヒたちと一緒に俺が部室に戻って来たときの様子を説明した。

「遅い、って心配してると、突然、皆さんが部室にやってきて……」

「驚かせてすなまかったな」

「……いったい何が起こったのか、何もわからないうちに、パソコンが勝手に動き出して、それでメッセージが表示されて……」

 

 こっちの長門が残してくれた緊急脱出プログラム、俺に選択を迫ったプログラムだ。

 俺は、もう一人の長門の話をただ黙って聞いている無表情の長門を姿を確認しながら、あのパソコンに表示されたメッセージを頭の中に思い描いていた。

 

 Ready?

 

 その問いに俺は躊躇することはなかった。

「あなたは、少し考えた後、わたしに入部届けを返すと、パソコンのキーを押しました。その直後――」

 そう、あの時のことは忘れない。エンターキーを押すのと同時に襲ってきためまいと立ちくらみの波が過ぎ去った後、俺は三年前の七夕の部室に飛ばされていた。

「あなたは突然その場から消えました。えっ、と思った瞬間、今度はわたしの周囲がくるくると回りだして、頭がくらくらして、思わずしゃがみ込んで……」

 その時の妙な感覚を思い出したかのように体を少し小さくした長門は、そっと顔を上げて話を続けた。

「気がついたら、今日の、あの部室にいました……。元の部室とは似ているようで全然違って、しかも暑くて……、わたし何が何だがわからなくて……」

 そこで一呼吸置いた長門は、俺の瞳をじっと見つめながら、

「その後すぐに、あなたが来ました……」

 最後は消え入りそうな声でそう言うと、再び長門は俯いてしまった。

 

 しばらくの間、リビングは静寂に包まれた。

 

 やがて、聞きなれた平板な声が語りだした。

「あなたはわたしが用意した緊急脱出プログラムを起動し、その時点より三年前の七月七日に飛躍した」

「うん、そうだ」

「あなたが過去に飛躍したその反動で、彼女はこの時空に飛ばされたと思われる」

「なんだって? そんなことがあるのか? 何度か時空移動したが反動とかそんなことは……」

「無いとはいえない。当時のわたしはそのようなことまで予測してプログラミングしていないと思われる」

「長門らしくないミスだな」

「わたしはすでに暴走状態に突入していた。あのプログラムを用意するのが精一杯……」

「すまん、すまん。責めているわけではない。感謝してるさ」

 長門は、わずかに頭を動かして、俺の感謝の言葉に応えてくれた。

「ただ、彼女が存在していた時空は、その後、再修正プログラムにより再度の改変が行われ上書きされた」

 長門は、ずっと俯いたままのもう一人の長門に視線を向けると、

「彼女は、再改変が行われる前に、時空間の移動を行ったため、改変の影響を受けることがなかった。ただし……」

 一瞬、言葉を区切った長門は、ごく自然な感じでただ機械的に続けた。

「彼女がいた時空の流れはもはやどこにも存在しない。彼女が戻るべき時間も空間もどこにも存在しない」

 

 再びリビングに静寂が戻ってきた。エアコンから吹き出される風が少し弱まったのがわかった。

 

 SOS団が誇る無敵のアンドロイドはあっさりとこの世界に二人の長門がいる理由を説明し、最後には他人事のようにさらっと言った。『彼女が戻るべき時間も空間もどこにも存在しない』、だって?

 俺の目の前には、小さな体をさらに小さくして震えているショートカットの髪の少女がいる。今のこいつは無口で本好きなただの高校生に過ぎない。そんなやつがそれまで自分がいた世界とは似て非なる異世界にたった一人で飛ばされてきた上に、もう一人の自分から、戻るところは存在しないとの宣言を受けた。

 

 それが、どれほど辛いものか、不安なものか。

 

 俺も確かに一度はそんな気持ちを味わった。だが、幸いにも、俺は緊急脱出プログラムと時を駆ける少女によって、自分の世界に戻ることができた。しかし、そのせいでこの長門は戻るところを失ってしまったということか。

 

「なんとかならないのか」

「なんともならない」

 にべもない。

「あのなぁ、おまえ自身が窮地に陥っているんだ、なんとかしようと思わないのか?」

「いまのところ方法はひとつ」

「なんだ、どうするんだ?」

「改変されたとはいえ彼女は有機アンドロイド。したがって、情報連結を解除することは可能」

 えっ? 何? という表情を眼鏡越しに浮かべる長門。

「だめだ、そんなんこと! 自分自身を消してどうする!」

「……そう、だから今のところなんともならない」

「う、ううぅむ……」

 さすがに長門も自分自身の情報連結を解除することはできないし、当然やりたくもないのだろう。

 じゃぁ、どうすればいいんだ?

「この状況を情報統合思念体に報告しておく。何か解決策が提示されるかもしれない」

「なんとかしてやってくれ。こうなってしまったのは、俺のせいでもあるし」

「あなたは関係ない。やはり責任はわたしにある」

「いまさら責任問題はどうでもいい。とにかく、だ……」

 俺は、今にも消えてしまいそうなぐらいに縮こまっているもう一人の長門に向かって、

「心配するな、俺と、こっちの長門が何とかしてやるから。な」

「……は、はい。よろしくお願いします……」

 わずかに顔を上げた長門は、俺のことを眼鏡越しに見つめて今日はじめてかすかな微笑を浮かべた。

 

 

 

 その翌日。

 余計なお世話の補習授業のため学校に向かう坂道をけだるく上りながら、俺は昨日の長門のマンションでのことを思い起こしていた。

 なぜかこの時空に飛ばされてきた眼鏡の長門は、とりあえずはこっちの長門のマンションに身を預けることになった。というか、そこしか身の置き所がないのだ。

 より正確には、本来居るべき時空すらなくなってしまったので、こっちの時空での長門のマンションが唯一の寄り所ということだ。

 情報統合思念体で今後のことを検討してくれているらしいので、もうすぐなんらかかの結論が出るだろう。できることなら、この世界で安心して暮らしていけるような計らいをして欲しいものだ。

 

「おはよー、キョン」

 ハルヒは俺の後ろの席で下敷きで首筋を扇ぎながら、、

「あいかわらずしけた顔ね、もうちょっとパッとした顔をしなさいよ」

「ふん、悪かったな」

 誰のせいで四六時中しけた面をするようになったというんだよ。その上、今は長門のことが気になって、いつも以上に悩み事を抱えているんだからな。最近の梅雨空のようにしけてしまうさ。

 

 そんなこんなで、突然二人になってしまった長門のことを考えているとあっという間に昼休みなった。俺は、弁当タイムの谷口と国木田との話もそこそこに教室を飛び出すと、部室へと向かった。

 昼休みに部室にいるのは長門だけ、と、決まっている。どっちの長門が登校しているか今のうちに確かめておくことによって、放課後のすごし方に対してどのような心の準備をするか、確認しておかなければならない。

 

 朝比奈さんはいないはずだが念のためノックをしてみるが返事はない。うん、長門だけだな。俺は安心して扉を開けた。

「よお」

 窓辺のテーブルで黙々と読書に励むセーラー服姿。眼鏡はない。こっちの長門だな。

「昨日はすまなかったな」

「いい」

 いつものパイプ椅子に少し窓側に体を向けて腰を下ろし、普段と変わりなく本を読んでいる有機アンドロイドに話しかけた。

「それで、どうなった?」

「どう?」

「いや、もう一人のお前だよ。今、どうしてる?」

「彼女は今、わたしのマンションで待機中」

「大丈夫なのか?」

「一晩たって、少し落ち着いた。ありがとう」

 長門はテーブルの上に開いたままの本を置いて、俺の方に振り向いた。

「あなたが帰ってから、彼女の置かれた状況と彼女自身のことについて説明した」

「うん、それで?」

「最初はかなり戸惑っていたが、最後には納得した」

「うーん……」

 正直、戸惑いどころの話ではないし、ましてや素直に納得できるような話でもないとは思うんだが、まぁ、仕方ないというところか。

 俺はパイプ椅子の背に身を預け両手をぐーっ上に伸ばしながら、

「今日もお前んち、行ってもいいか。もう少しいろいろと話してみたいこともあるし」

「いい」

 窓から入るゆるい風に、長門の短い髪が揺れている。

「ぜひ」

 それだけ言うと長門はテーブルの上の本に視線を落として読書を再開した。

 

 ということで、今日はオリジナルの長門が登校しているので、その日の放課後のSOS活動に目立った変化があるわけがない。

 昨日と違って俺はゆったりした気持ちで古泉との対戦を堪能させてもらっている。

「どうやら解決したのですか?」

「何が、だ?」

「いえ、何かはわかりませんが、明らかにあなたも長門さんの様子も昨日と違いますから。何かしらの解決を迎えたのではないでしょうか」

「そうか? 気の回しすぎだろう。昨日も言ったが何も無いよ」

 古泉は、右手の人差し指を眉間に軽く当てて、

「最近、何も事件らしい事件も起こりませんからね。ちょっとしたことでも気になるのですよ。人間、平和ボケするとろくなことがありませんからね」

「何のことやら……、しかし余計なことに気を回しているヒマはないぞ、チェックメイトだ」

「……ううむ、参りました……」

 古泉を黙らせるのは簡単だな。

 とにかく、できるだけ古泉を含め他の連中を巻き込まないでもいいように、眼鏡の長門の件も穏便に解決したいものだ。

 

 そんなわけで今日のSOS団活動はとりあえず穏便に終えることができた。長門の活動終了の合図も微妙に早かったように思えたが、昨日ほどの唐突さは無かったので、今日のハルヒは何の疑問もさしはさむことなく、帰り支度を始めた。

 

 坂を降りきったところでみんなと別れた俺は、直接長門にマンションには向かわず、いったん帰ってかばんを置いた後、チャリを飛ばした。

 

 

「毎日すまないな」

「気にしないでいい、お茶、どうぞ」

「うん」

 玄関先まで出迎えてくれた二人の長門の後姿について廊下を抜け、いつものリビングに通された俺は、軽く腕組みをしながら、目の前に置かれたお茶を見つめていた。

 

「それで、お前の親分はなんて言っているんだ?」

「彼女の扱いに結論がでるまでの間、このままここに存在することが許された」

「ほう。それでその結論がはっきりするのはいつぐらいだ?」

 そこで、長門は隣に座っている眼鏡の長門のほうをチラッと見ると、一瞬、何か言いかけた言葉をグッと呑みこんだ感じで、

「……ともかく、ここでわたしの監視下にいること以外は特に指示はない。なにか希望があれば自由に行動することは可能」

 

 ふむ、自由って言ったって制約はあるだろうが、このリビングでじっと篭っていることもできないだろう。特にこっちの長門と違って、眼鏡の長門はとりあえずより普通の人間的だから。

 うん、そうだな……、

「たまには、こっちの長門と入れ替わって、学校に来るのもいいんじゃないか。昨日のように、黙っていればなんとかごまかせるだろう」

 普段から無口キャラで通していることがこんな風に役に立つとは思わなかった。

「どうだ? 何とかなるんじゃないか?」

「わたしは構わない」

 と、こっちの無口の長門。

「ありがとうございます」

 と、あっちの眼鏡の長門。

「俺もできるだけフォローしてやるよ」

 と、俺。

「まぁ、基本的に黙って本を読み続けていればいいんだが、それじゃぁ、ここにいるのと変わらんし、せっかく、こっちの世界に来てしまったんだから、何かやってみたい事とかないか?」

「えっ?」

「どこかに遊びに行くとか、でもいいぜ」

 俺は、何か少し驚いたような表情を浮かべた後、じっと俯いてしまった長門の瞳をレンズ越しに見つめながら続けた。

「どうだ? やってみたいこととかありそうか」

「え、えぇ、そう……ですね……」

 ゆっくりと顔を上げた長門は、俺と、こっちの長門を交互に見つめながら話を続けた。

「わたし、文芸部として……活動をしてみたい……」

「文芸部の活動?」

「はい。わたし、向こう……の世界では、部室でずっと一人でした……。そういう設定だった……みたいです……」

 眼鏡長門は、こっちの長門のことを横目でチラッと見た後、

「だから、何も文芸部らしい活動はできなかった……。ところが、あなたが部室に現れて、入部を……してもらうことはできなかったけど……」

 今度は俺のことを僅かに上目遣いで見つめて少しの間をおいた。

「でも、よくわからないけど……、何か……新しいことが始まる……、始められるかな、って感じがして……」

 長門は、眼鏡の奥の瞳を漆黒に輝かせつつ、最後にははっきりとした口調でこう言った。

「だから、あらためて文芸部として、何かやってみたいんです。それがわたしの望みです」

 

「……そうか」

 文芸部としての活動か……。そういえば、生徒会の意向でむりやり文芸部の会誌を作らされたこともあったが……。

「具体的に何かするアテでもあるのか?」

「いえ、特に何かあるわけではない……です」

 ちょっと恐縮したように首をすくめて、

「ただ、読んだ本の内容を話したり、お勧めの本を紹介しあったり、そんなことでもいいんですけど」

「うーん、そうだなぁ……」

 朝比奈さんのお茶をいただきつつ、ボードゲームをして過ごす放課後のSOS団の活動よりは、はるかに有意義で創造的かつ文化的な活動なんだが――、

「ハルヒはそんなことはやらないだろうなぁ。どう思う? 長門……」

 と、こっちの長門に振ってみた。

「同意する。このような場合、涼宮ハルヒは、なにもやらないか、または、異常に積極的に関わっていこうとすることが想定される」

「だよなー」と、俺は天井を見上げてひとつため息をついた。

「あいつは白か黒、百かゼロなやつだからな……」

「だめ、ですか……」

 少し寂しそうな眼鏡の奥の瞳が何かを訴えているような気がする。

「あまりあからさまに文芸部の活動をアピールしないでさ、それとなくお気に入りの本の話とか話題に出すようにしてみるか」

 妥協案というか現実的な落としどころを提案してみると、長門は遠慮がちに、

「すみません、わがままを言って」

「いいさ、気にするな」

 

「それにしても……」

 俺は冷たいお茶の入れられた陶器の湯飲みの中の氷をころころとまわしながら、

「お前、話し方が普通になってきたな」

「え?」

「俺が向こうに行って初めて出会った時とか、お前がこっちに来てすぐの頃は、単語に毛が生えたぐらいのことしか話さなかったのに、今は割と普通に話してるもんな」

 その言葉数が増えた長門は少し首をかしげて俺を見つめている。眼鏡のレンズがきらりと光った。

「お前よりたくさん話してるんじゃないか?」

 俺はそう言って、こっちの世界の長門のことをチラッと振り返り見ると、

「改変されたとはいえ彼女はわたし。単なる異時空間同位体だから……」

「説明にも言い訳にもなってないぜ」

「プッ、くくく……」

 思わず吹き出して両手で口押さえる眼鏡姿が目に入って、俺も思わず笑い出してしまった。一人蚊帳の外になってしまった長門はますます不機嫌になってしまったように見えた。

 

 

「キョンくん、お茶です、どうぞ」

「ありがとうございます、朝比奈さん」

「いいえー、どうもですぅ」

 笑顔の朝比奈さんは、その後、読書中の長門の前にもそっと湯飲みを置いた。

 昨日の長門のマンションでの話を受けて、今日はアナザー長門登校している。今のところは、授業中も含めて無難に無口な長門としてここまで過ごしてきた様だ。眼鏡は? とそっと聞いてみたら、黙ってかばんを指差していた。

 朝比奈さんの淹れてくれたお茶のおいしそうな香りに気づいた長門は、

「あ、ありがとう」

 と、一言。

「え、え、えぇ、どうぞ……」

 不意のお礼の言葉に、少しばかり戸惑いの表情を隠せない朝比奈さん。そんな朝比奈さんのことを見逃すハルヒではでなかった。

「ちょっとー、みくるちゃんを戸惑わせるなんて、なんかいつもと雰囲気が違うわね、有希、どうしたの、どこか体の調子でも悪いんじゃないの?」

「え?」

 突然のハルヒの突っ込みに俺は思わずお茶をこぼすところだった。

「なんか、いつもと違ってこじんまりしたような気がするわね」

「だいじょうぶ……」と、長門。

「そう? ならいいけど」

 ハルヒはそれ以上は深く追求することは無かったが、さすがだな、このあたりの直感は。今日の長門は、借りてきた仔猫のように少しばかり、びくびくおどおどしているので、ハルヒからは長門が小さく見えるのだろうか。

 その時俺は心配そうに俺のことを見つめ、何か言いたそうにしている長門の瞳に気づいた。

 そうか……。

 俺は、昨日の長門のマンションでのことを思い出して話を切り出してみた。

「長門、ちょっと悩み事があるらしいんだ。それで……」

「ん、なに、キョン?」

「うん、実はな……」

 と、俺が話し始めようとすると、長門が読みかけの本から視線を上げて、

「あの、お奨めの本を……、本があったら紹介、して欲しい……」

 それだけ言うとまた視線を落とした。

「はぁ? どしたの、有希?」

 長門のことを覗き込むようにしてそう言ったハルヒは、さっと振り返ると今度は俺のことを鋭く一瞥した。

「キョン、説明しなさいよ。あんた、何か知ってるんでしょ?」

「いや、だからな、長門、最近、ちょっと読む本の選択に困っているらしい。それで……」

「有希が? 読む本が見つからないって言うの? それで悩んでって!?」

「そうなんだ、この前、俺も聞かれて困ったんだ、俺は本なんてたいして読まんから答えられなくて……」

 我ながらよくもまぁ適当なことがこうぽろぽろと言えるもんだ。

「それで、ハルヒにも聞いてみたらどうだってな、アドバイスしてやったんだ

「そうなの?」

「そう」と、小さく首肯する長門。うつむいたままだ。

「ふーん、有希がねぇ……」

 ハルヒはなんとなく目に不信感を浮かべつつも、長門自身があっさりと肯定するもんだから受け入れざるを得ないようだ。

 

 ここまで、口を差し挟むことなく訳知り顔で小さな笑みを携えていた古泉は、

「あまたの本を読みつくした長門さんだからこそのお悩みですね」

 と、言って大げさにうなずいて見せた。

「どうですか、ここはひとつ長門さんのためにもお奨めの本を紹介しあうというのは」

 そこで古泉は部室内のメンバーたちへ向けた視線をゆっくりパンしながら、

「もっともすでに長門さんは、われわれが紹介するような書物であれば、読了されていることがほとんどかもしれませんが……」

 そこまで言うと古泉は小さく肩をすくめた。

 

 長門の悩みというのは当初の目論見とは違ったアプローチだったかもしれないが、結局のところ昨日長門が言っていた通り、各自が推奨図書を発表するといういわゆるひとつの文芸部的活動が行われつつあった。

 

「やはり涼宮さんは、アインシュタインの相対性理論など読まれるのですか」

 と、古泉がもっともらしい口調でハルヒに問いかけると、

「ん、相対論? 読んだわよ。なかなか面白いこと言ってるけど、特に一般の方ね。でも、ちょっと詰めが甘いわね、あのおっさん」

 ハルヒにかかるとアインシュタインも、まるで、近所のちょっとおかしなおっさん的な扱いとなるが、まぁ、本物もそんな感じだったのだろう。

 その後、時間の進みが遅くなるとか空間が歪んだとか言ってわけのわからない単語がハルヒと古泉の間を飛び交っていた。時々、朝比奈さんが「えっ」とか言って驚きの表情を浮かべていたが、何か未来のタイムトラベラー用の禁則事項でもあったんだろうか。

 

 残念ながら俺には宇宙人が使う未知の言語以上にちんぷんかんぷんであり、真の文芸部員である今日の長門もどうやら俺と同じ状況のようだ。マンションで待機中の生粋の宇宙人の手先であれば、さらにわけのわからない用語を並べ立てて、ハルヒすら黙らせることができたかもしれないが。

 しかし、ただ退屈を持て余していた俺とは違って、目の前の長門はわからないなりにもなにやら楽しげにハルヒたちの会話を聞き続けていた。

 そんな長門に気付いたハルヒは、

「そんなことよりさ、有希、結構時間旅行もののSF読んでるんでしょ? なにかオススメの本とかある?」

 と、突然話の矛先を変えてきた。

「えっ?」

 一瞬の虚を突かれる長門。

「えっと、あのぅ、『夏への扉』……」

「定番ねー、有希にしては当たり前すぎるわ。あたしならねー…………、『大地を想う』シリーズかな。えっと、作者だれだっけ?

T・フロゥイング」

 当然のように長門が即答。

「そうそう、そいつだ、そいつ。でね、そのシリーズ中でも一番は『イトカワにて大地を想う』ね」

 と、ハルヒはその物語のどのあたりが面白かったかについて語りだした。時折、古泉がなにやら言葉をはさんでいたが、ハルヒが語るのが十とすると、古泉が五、長門が一、朝比奈さんと俺がほとんどゼロというところだったが。

 

 その後も、あまり聞いたこともないような題名を挙げながら、長門やハルヒはいろいろと話を続けていた。これでも普段の長門に比べるとかなり饒舌に話している方だと思うが、やはり言葉数は少ないといっていいだろう。

そんな中、長門は、黒曜石の瞳の輝きを一段と増しながら、とつとつとお気に入りの本の気に入りのシーンなどについてハルヒに説明していた。

「へー、それ面白そうね、今度読んでみようか、有希、その本持ってたら貸して」

「図書館で借りただけ」

「そっかー、残念。キョン、あんた借りてきてよ、どうせ毎日暇でしょ?」

「はぁー?」

「いえ、あのわたしが今度……」

「いいのよ、有希。キョンに行かせるから」と、あっさりと言い切って黄色いカチューシャを揺らしているハルヒ……。

 

 それにしてもこんな風に自らの読書観を語るハルヒはある意味珍しい。俺が、「長門が悩んでいる」というような切り出し方をしたものだから、ハルヒなりに長門のことを気に掛けてくれて、本の話で場を盛り上げようとしてくれているのかもしれない。まぁ確かにハルヒはSOS団のメンバーに対してそういう面倒見のいいところはある。

 

 結局、その日の放課後のSOS団はこうしてすっかり文芸部と化した。毎日こんな活動しているなら、正式な同好会として学校にも生徒会にも認められるのだがね。

 

 学校からの帰り道、いつものように俺と古泉の後ろ行く長門は、右手を軽く胸の前に当てながら、とっても満足そうな軽い足取りで坂道を降りていた。たぶん古泉も気づいていたのだろうが、そのことには触れることはなく、ただいつものようにスマイルだけは絶やさなかった。

 

 

 しかし残念ながらSOS団文芸部化計画はその一日だけで終了し、次の日からはいつも通りの活動に復帰した。

 昨日に続いて登校してきたアナザー長門は、最初は少し残念そうな表情を眼鏡なしの瞳の奥に浮かべていたが、やがて長門自身も普段どおりの読書モードに突入し、粛々と放課後のまったりとした時間だけが流れていった。

 

 帰り道、別れ際の事だ。

「あ、そうだ」と、言って帰りかけたハルヒは長門の肩をポンと叩いた。

「有希、昨日、教えてくれた本、借りてきて読んでるけど、やっぱ面白いわね。さすが有希が選んだだけのことはある、うん、ありがと! じゃあねー」

 それを聞いた長門は、パッと表情を輝かせ、

「はい」

 と、だけ答えた。その後、チラッと俺の方に振り返ると、右手で小さくVサインを作りながら左目でウィンクして微笑んだ。

 

 ……ちょっと、クラッときた。

 

 

 

 

 結局その週は、本来眼鏡付であるはずの長門が毎日登校した。その間、眼鏡なしの長門はマンションで缶詰状態だったが、あいつにとっては別に何てことない数日間だな。

 

 迎えた週末、「蒸し暑いのに毎日補習授業なんて、もうやってられないわー」というハルヒの一声で土曜日はみんなで市民プールに出かけることになった。

 集合場所にやってきたのは予想通りアナザー長門の方であり、少し照れるようにしてプールサイドに現れたスレンダーな水着姿は、これまた予想通りよく似合っていた。

 だが、ひとつ予想外だったのは、この長門の方が胸があった、オリジナルの長門よりも……。

「あれ? 有希、胸、ちょっとでかくなった?」

 その変化に気づいたハルヒは、

「この調子でみくるちゃんに負けないぐらいにおっきくしなさいよ」

 などと無茶なことを言って後ろから長門のことを抱きしめると、少し膨らんだ胸に手をあてがった。俺を見つめる長門の大きな瞳が徐々に潤んでいくことに気付いた俺は、なんとかハルヒをひっぺがすことに成功した。

 ほっとしたように安堵の表情を浮かべた長門は、プールサイドの喧騒の中でかろうじて聞こえるぐらいの声で、「ありがとう」、とだけ答えてくれた。

 しかし、この部分的な改変も長門自身の希望だったのだろうか。帰りにマンションに寄ってそれとなく聞いてやろうか。

 

 その後、プールでどんな馬鹿騒ぎが繰り広げられたかは、もはやここで説明する気にもならない。俺の財布の中身が、やきそばやらカキ氷に変化して消えていき、ただ疲労感だけが残ったのも予想通りだった。

 

 

 そして、やや疲れを残したまま迎えた日曜日――。

 

 初めての不思議探索で、この図書館に来たのはもう随分前のことになった。カレンダー上で経過した時間以上に、俺は過去や未来を行ったり来たりしてきたので、俺の体は年齢以上に少しばかり歳をとっていることになるのかも知れない。

 

 そんな感慨に耽りながら、ふと隣に視線を向けると、眼鏡の長門が一心不乱に読書に励んでいる。

 うん、あの時もそうだった。

 初めて不思議探索に出かけた日の午後、分厚い本を読み続けて動きそうにない長門を集合場所まで連れ戻すために、俺は貸し出しカードを作ってやった。よくはわからないが、長門にとって、それは印象に残る思い出だったらしい。

 だが、今、目の前で本を読んでいる改変世界の長門は、それとは少し違う思い出を持っていた。しかもそれは実際に体験したことではなく、脳内に直接記憶されたものだった。

 

「わたし、図書館に行きたいです。あなたと一緒に……。そこで単なる記憶としてではなく、本当の実体験としてひと時を過ごしたい……です……」

 昨日、プールの帰りに俺はマンションまで長門を送って行った。別に胸の改変結果について問いただすつもりではなかったが……。

 いつものリビングで少しばかりお茶を飲んで一息ついていた時に、眼鏡をかけた長門がポツリと漏らした言葉がよみがえる。

「とりあえず、文芸部的な活動もできたし、あとは、ぜひ図書館へ……」

 少し照れるような感じで肩をすくめて、テーブルの上の一点を見つめてい

「いいぜ、どうせ明日も暇だしな」

 顔を上げた長門は、パッと顔を輝かせると、

「あ、ありがとう……」

 と、言って眼鏡の奥の瞳を細めて微笑んだ。

 そんな長門を、こっちの世界の長門はなんとなく心配そうに見つめているような気がしたのは、俺もすっかり気苦労に慣れてしまったせいかもしれないな。

 

 

 そして今日は、いつの図書館に長門と二人だけで来ている。もちろん、この長門は当然眼鏡の方だ。無表情の方は、「遠慮しておく」とか言ってマンションで今日も待機中らしい。

 閲覧コーナーの端っこにある少しばかりゆったりとしたソファーに並んで座って、長門は読書中だ。俺は、時折思い出したように手にした文庫本に視線を落とすが、おおむね睡眠を楽しんでいる。昨日のプールの騒ぎでの疲れが微妙に残っているしな。

 

 がさっ。

「……、ふ、ふぁぁー……」

 かろうじて手で持っていた文庫本を床に落とした音で目が覚めた。どれぐらいの時間、意識を失っていたのだろう。

「よく、眠れた?」

 ゆっくりと振り返ると、読んでいた本を膝の上で閉じた長門は、クスっと小さく微笑んで、

「とっても幸せそうな寝顔……、どんな夢を?」

 と、聞いてきた。俺は、足元に転がっている文庫本を拾い上げながら、

「あっちの世界でさ、あっちの世界のメンバーとSOS団を立ち上げて、馬鹿騒ぎしていたようだな」

 長門は、少し驚いたように黒曜石の瞳をくりりと動かして、俺が続きを話すのを待っているようだった。

「ハルヒはやっぱり無茶ばっかりやるし、朝比奈さんはおろおろするだけだし、古泉は無駄ににやけているだけだし……」

 俺は右手で持った文庫本を左手の手のひらにポンポンと打ちつけながら、

「お前は本を読んでばっかりだったけど、時々とっても楽しそうに笑ってた。その笑顔を見ていたんだな、きっと。だから幸せそうな寝顔をしてたんだと思うよ、俺……」

 そういって隣を振り向くと、長門は分厚い本で口元を覆って笑いをこらえている様だった。

 

「長門、もし、俺があの緊急脱出プログラムを起動することが無かったら、どうだった?」

「えっ?」

「今の夢みたいに、楽しく過ごせたかな」

 俺は、手にした文庫本をぺらぺらーとめくりながら、

「アナザーSOS団として、やっぱりありもしない不思議を探して彷徨い続けてるのかな。どう思う?」

「そうかも知れない。でも……」

 長門は、もう一度膝の上に本を置くと少し遠くを見上げて、しばらく何か考えているようだった。

「きっとあなたは、それでも元の世界に帰ることを望むと思う……」

 そういって少し寂しそうに笑った。

「やっぱり、自分のいた世界が一番だと……」

「…………」

 そうだな、なんだかんだあったが俺はここに戻ってくることができた。だが、この長門は…………。

「すまん」

「……うん、大丈夫……ありがとう」

 長門は俺の方に向かって小さく微笑んだ。

 

 その後もその場所で読書を続けたが、やがてそろそろ帰るか、という時間になった。

 読んでいた本をそれぞれの書架に返した後、貸し出しカウンターの横を通り過ぎる時に、俺は少し後ろを静かについてくる長門に振り返った。

「なぁ、貸し出しカード、作ろうか」

「えっ?」

「記念、というと変だけどな」

「でも、わたしの分は発行済み、では?」

 そう、こっちの長門の分は過去に俺が作ってやったわけだが。

「失くした、ということで再発行してもらえばいいさ」

「で、でも……」

「いいから、いいから」

 そう言ってまだ若干躊躇っている長門の手を半ば強引に引っ張ってカウンターの前まで連れて行った。

 

 係りの人に説明し、長門の学生証を見せると、何の問題もなく貸し出しカードは再発行された。

『長門有希』

 手にしたカードにくっきりと書かれた自分の名前をじっと見つめながら、長門はとってもうれしそうに微笑んでいた。

 そんな長門の横顔を見つめているだけで、俺もとっても幸せな気分に浸ることができる。そう、さっきの夢でみた長門の笑顔とオーバーラップしながら――。

 

 

 図書館からの帰り道、マンションで留守番してくれている長門へのお土産に、ケーキ屋でプリンを買った。以前、ハルヒが言っていたがこの店のプリンはおいしくて結構評判らしい。プリンにしては高かったが、まぁいいさ、これぐらいは、普段の奢りの額に比べたら……。

 

 その後は、俺と長門はあまり話をすることもなく、マンションへと向かった。七時を過ぎて、ようやく夕焼けがきれいに見える時間帯となった。

 変わり者のメッカでもあるマンション近くの公園のベンチ前で、少しばかり夕焼け空を堪能した後、俺たちはマンションのエントランスでインターフォン越しの長門の声に迎えられた。

 

 

 玄関の扉を開けると、カレーの香りが漂っている。「またか」という気がしないではないが、最近は、さらに腕が上がったのか、もう、プロ級といってもいいほどの味になっている。

 今度の学祭では、わけのわからん映画の続編を撮るより、素直にカレー屋をやるといいかもしれない。そうすれば、朝比奈さんは池に放り込まれたり、目からビームを出すことも無く、普通にウェイトレスをすることができるしな。

 

 リビング少しくつろいでいると、すぐに二人の長門がカレーとサラダを持って来てくれた。

「すまないな」

「いい」

「じゃ、いただきます」

「どうぞ」

 カレーは確かに美味かった。今日のはオーソドックスにビーフカレーだったが、肉も柔らかくてジューシーであり、程よく効いたルーのスパイスによくあっていた。

 半分ほど食べたところで水を飲んで一息ついたついでに、目の前で並んでカレーを食っている二人の長門が姿を眺めてみた。

 こっちの長門がスプーンにすくったカレーとご飯をただ黙々と口に放り込むだけに対して、眼鏡の方は、お皿の中でちょこちょことカレーとご飯を混ぜ合わせると、スプーンに軽く乗せてゆっくりと口に運んでいる。

 眼鏡以外はまったく同じ姿ではあるが、カレーの食べ方にはそれぞれの特徴がよく出ているのが可笑しかった。

 そんな俺の視線に気付いたのか、

「「なに?」」

 と、二人同時に俺のことを見つめて、同じ方向に首を傾げたので、俺はもう少しで口に含んだ水をふき出すところだった。

 

 最後にお土産に買ってきたハルヒお勧めのプリンを食べたが、これも評判通りに美味かった。

 

 すべての食事が終わり、普通のリビングであれば、お茶を飲みながらテレビでも見て一息つくのであろうが、いまだにテレビのないこのリビングでは手持ち無沙汰にならざるを得ない。

 仕方ない、そろそろ帰ろうか、明日はどっちの長門が登校するんだろう、などと考えながら、「さて……」と、切り出そうとして、ふと気付いた。

 

 それまでテーブルの上の湯飲みをじっと見つめていた長門が、眼鏡の奥の瞳の輝きをさらに増加させ、明確な意識を持って俺のことをじっと見つめている。

「ん? どうした、長門?」

 その場に座りなおした長門は、きりりと背筋を伸ばし、隣に座っているこっちの世界の長門にチラッと視線を送ると、ゆっくりとした口調で話し始めた。

 

「今日は本当に楽しかったです。これでわたしの願いはすべて叶いました。もう、思い残すことはありません」

「ん?」

 長門は小さく右に首をかしげてにっこりと微笑んだ。

「これで安心して情報連結を解除することができます」

「え、な、なに? じょ、情報連結を解除だって!?」

「はい」

「ちょっと待てよ、どういうことだ?」

 俺は目の前に並んで座っている二人の長門を交互に見つめ、最終的には眼鏡でない方の長門に向かって、

「説明してくれ」

 二人は振り向いて顔を見合わせると、同じように首をかしげた。そして俺の要望どおり、表情ひとつ変えること無く、こっちの世界の長門が話し始めた。

「彼女は私自身であり、本来、同時に同じ空間に存在することはありえない存在、イレギュラーな存在。もしこのままこの時空において二人同時に存在し続けると、将来的に不安定要因を残すことになってしまう。最悪の場合……」

 眼鏡の長門は神妙な面持ちで話を聞いている。俺も思わず息を呑む。

「この時空の安定に対する脅威、この時空を破壊する存在となることが想定された。そのため、彼女がこの世界とどまることはやはり不可能と判断された」

 そこで一度言葉を区切った長門は、何かを思い出すようにしばらく目を閉じていた。

 

「彼女は改変されているとはいえ元をただせばヒューマノイドインターフェース。したがって情報連結を解除することで、存在を抹消することは可能」

「お、おい、存在を抹消って、そんな……」

 そこまで話したところで沈黙モードになった長門に代わってもう一人の長門は、

「結局、わたしは情報統合思念体の元に帰るしかないということ、です」

「待て、待て、待て、そんなこと……」

「いいんです、それで。わたしは自ら情報連結を解除する道を選びました。でも……」

 右手の人差し指で眼鏡の鼻のあたりを少しツンと押さえながら、

「でも、その前に、わたしの願いを叶えてください、ってお願いしました」

「願い?」

「はい、願いです」

 少しうつむいて軽く瞬きした長門は、再び言葉を続けた。

「ひとつは、文芸部として、文芸部的な活動をしたいって……」

「文芸部の活動?」

 そこで、俺は記憶の糸を手繰りだした。長門が文芸部として活動したい、と言っていたのは、随分前ではないか? 確かこの世界に長門が現れた翌日……。

ちょっと待て、ということは、あの時にはもう結論が出ていた、ということなのか?」

「はい」

「なぜ、言わなかった?」

「言えばあなたはきっと、彼女の情報連結解除の阻止に動くだろうと。その為には手段を選ぶことも厭わないと想定された」と、こっちの長門。

 そうだ、もしそのに知っていたら、俺は何か行動を起こしていただろう。ハルヒをたきけて、情報統合思念体に直談判するよう仕向けていたかもしれない。

「それは危険なこと。あなたの気持ちはうれしいが、かえって事態を悪くする確率の方が高くなる」

「……うん、いや、確かにそうかも知れない……

 他ならぬ長門が言うんだから、このまま二人の長門が存在すると本当に何かが起こるんだろう。もしそこに俺やハルヒが乗り込んで行ったら……、ハルヒが事態をかき回すような力を発揮したら、マジでこの時空間がおかしくなってしまうということか。

「だが、本当に他に道はなかったのか? せっかく……」

 食い下がる俺に対して、長門は眼鏡の奥の柔らかい眼差しで俺のことを見つめながら、

「わたしとしてはいい思い出を作ることができたから……」

 

 むぅ、やはり、仕方ないというのか…………。

 

「……だが、だがな、もし、知っていたら、もっと真剣に文芸部としての活動ができるように働きかけてやるぐらいのこともできたのに」

「いえ、いいんです。わたしはあれで満足です。この願いはSOS団の皆さんで叶えてもらいました」

「…………」

「二つ目の願いは、図書館でした」

「長門……」

「その願いは、あなたに叶えてもらいました。とってもすばらしい時間を過ごすことができました」

 目を細め、にっこり微笑む長門。

「そ、そんな……、俺、寝てばっかりで、ほとんど話もできなかった……」

「いいえ、気にしないで。それに、これ……」

 長門はそっと一枚のカードを取り出した。再発行してもらった貸し出しカードだ。

「すごくうれしかった……」

 

 そのときテーブルの向こう側が淡く輝きだした。きらきらときらめく粒子が、微笑みを浮かべて座っている長門の下半身から飛び散ってくる。

「おい、長門!」

「時間が来ました。……短い間だったけど、とっても充実していて楽しかったです。本当にありがとう」

 輝きはテーブルの上、長門の腰の辺りまで上がってきた。

「貸し出しカード、大切にします……」

 

 唖然とする俺が見つめる中、長門は徐々に光の中に消えつつある右手を上げると、眼鏡をそっとはずしてテーブルの上に置いた。

「わたしのことは忘れないでいて下さい……」

「あ、あたりまえだ、忘れるもんか!」

 ついにセーラー服の襟元まで光の粒子の集合が広がってきた。俺は思わず中腰になって身を乗り出、手を伸ばして長門の肩のあたりを掴もうとしたが、きらめく粒子が舞い散るだけだった。

「な、長門!……」

「……さようなら……」

 その瞬間、瞳からこぼれ出た大粒の涙がきらっと輝いたかと思うと、はじけるような小爆発とともに光の粒子が飛び散って、部屋中が真っ白になった。

 

 

 その光の洪水の波が過ぎ去り、真っ白だった視界に色彩が戻ってきた時、俺の向かい側でさっきまで微笑みを浮かべてた長門の姿はなく、ただ、テーブルの上に、シルバーフレームの眼鏡が残されているのみだった。

 

「な、なが、と……」

 全身の力が抜けていく。俺は崩れ落ちるようにテーブルのこちら側、もともと座っていた位置にへたり込んだ。

「彼女の情報連結は解除され、無事に情報統合思念体に吸収された」

 抑揚のない平板な声が何もなかったかのように静かなリビングに響いている。

「なぁ、長門、これでよかったのか?」

 俺はその声の主に語りかけた。

「本当にこれでよかったのか? 何か他に方法はなかったのか?」

「……方法は……ない。それに最終的には彼女自身が望んだことでもある」

「うん、まぁ、それはそうかも知れないが……」

 じっと俺のことを見つめている長門の他人事のような無表情の向こう側に、光の粒子の中で消えて行ったもう一人の長門の最高の笑顔と、最後にこぼれ落ちた涙の輝きがフラッシュバックする。

 

「彼女のことは大丈夫。心配することは何もない。それに……」

 そういって長門はテーブルの上にぽつんと残された眼鏡に手を伸ばすと、

「彼女は、彼女の想いは、まだここに存在しているから……」

「えっ?」

 少しうつむきながら両手でそっと眼鏡をかけた長門は、ゆっくりと頭を上げると、

「わたしはここにいるから……」

 そこには、さっき俺の脳裏にフラッシュバックしたのと同じ最高の微笑を浮かべている眼鏡をかけたこっちの世界の長門が座っていた。

「お、おい……どういうことだ?!」

 

 

 改変世界からやってきて、自ら情報連結解除を受け入れた長門は、その想いと感情を眼鏡という形で残していったらしい。

 

 感情制御デバイス――。

 

 オリジナルの長門はその眼鏡のことをそう呼んでいるが、俺には詳しい理由とか仕組みとかはわからない。

 だが確かなことは、この眼鏡をかけている間だけ、無感情・無表情を基本とする対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの長門は、感情の機微と素敵な微笑にあふれる普通の高校生に変化することができるということ。

 そしてそれは、情報統合思念体によって叶えられた三つ目の願いだったということだ。

 

 

 

 

 

「そろそろ戻るか。集合時間に遅れるとうるさいからな」

「はい」

「それにしても、いつまで不思議を探さないといけないんだ? すぐ目の前にたくさんの不思議が転がっているというのに……」

「たとえばわたし、とか?」

 俺の隣で分厚い本を読んでいた長門は、そういうとやや大げさに首を傾けて、眼鏡のレンズ越しに瞬きをすると口元を緩め

 有機アンドロイドの長門がこの眼鏡をかけるのは、今日のように俺と二人で不思議探索をサボっていつもの図書館に来た時だけだ。

 俺のことを見上げている笑顔の長門に向かって小さくうなずくと、俺は冷房が気持ちよく効いていた図書館の出口に向かって歩を進めた。

 

 それにしても、やはり長門には眼鏡は無い方がいい。残念ながら俺の中に新たに眼鏡属性が芽生えることはないな。

 だが、さっきのような表情を見せてくれるなら、たまには、眼鏡があってもいいような気になってきたことも事実だ。

 そんなことを考えながら、ふと通路の向こうに視線を向けると、少し遠くの閲覧コーナーに、消えてしまった長門と最後の時を過ごしたソファーが見えた。

 その時、そのソファーの横でくるっと振り返りこっちを向いてちょこんと頭を下げた小柄なセーラー服の人影が…………。

「えっ?」

「……?」

「いま、あの向こうのソファーのところに……、って、いや、なんでもないよ……」

 あらためて目を凝らしてみても、そんな人影はない。気のせい、か……。

 俺は、怪訝そうな瞳で俺のことを見上げている眼鏡の長門に向かって、

「少し急ぐぞ!」と、言うと、再び出口に向かってゆっくりと駆け出した。

 

 わずかに遅れてついて来る有機アンドロイドの眼鏡姿を振り返りながら、俺は確信した。

 そう、あの、あっちの世界の眼鏡の長門は、情報統合思念体に吸収されたわけでもなければ、忘却の彼方に消えてしまったわけでもない。

 

 俺の隣で今、一緒に走っているのさ、優しい微笑とともに――――。

 

 

Fin.

 

 


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