白くつつまれた視界が、一気に暗転する。実際にそうなったかは分からない。閉じた瞼の向こう側でそうなったように感じただけだ。
 ゆっくり目を開けると、そこはどこまでも暗闇が広がる空間だった。真っ暗という訳じゃない。俺の手も、足も見える。どこが地面の境目かさえも分からないのに、俺はその場に立っていた。なんだこれは? とりあえず現実にある空間ではないことだけは分かるが。
「………失敗か?」
 頭に浮かんだ最悪のシナリオ。元の世界に戻れるわけでもなく、改変世界にとどまったわけでもない。どこでも無い空間に、俺は放りだされたのか。
 あの改変世界はどうなった? 俺のせいで全て崩壊しちまったのだろうか。ならあいつらに悪いことをしたな。俺はどうなるんだろう。このまま暗闇を永遠に漂い続けるのか。あいつらへの仕打ちを考えれば、この結果も当然かもしれない。
 再び目を閉じようとすると、ほとんど暗闇と同化したような奴が恐らく数メートルほど離れた場所に浮かび上がった。あまりにも暗闇と溶け合い過ぎていて、下手すればずっと気付かなかったかもしれんな。
「………やっぱりお前が犯人か」
 そいつがゆっくりと、子供でもあやすような柔らかい笑みを浮かべた。その貼り付けたような笑顔が、人間味の無さと相まって不気味さを加速させる。服装はあの時と同じだった。光陽園学院の女子制服。
「周防……九曜」
 長門を二度も熱で昏倒させた、『概念を共有できない』らしい情報意識。天蓋領域のインターフェースがそこにいた。最近静かだったから、もう俺達に手を出すのは諦めたものだと思っていたんだがな?
 腰よりも長く伸びた真っ黒な髪の毛が、同じく真っ黒い背景と混じり合うように波打っている。
「安心―――して。ここは……情報の消えた――――空間。いずれ―――戻る……」
 抑揚を極限まで無くした台詞をひどくゆっくりとつむいでいく。何度聞いても寒気が走るね。人間の形をしているのに間違いなく人間じゃない。長門がアンティークドールなら、こいつはコンクリートのブロックか何かを人間の形に置いただけだ。
「なんのためにこんなことをした。答えろ」
 俺がSOS団のメンバーでなく、ハルヒはジョンと出会っていない。思念体は存在しないのに、朝倉は存在していた世界。こいつ、いや『こいつら』は何故世界を改変した。何の意味がある。
「あなたは―――特殊な存在……だから。何の力も―――持たない、のに………だから、試した………彼女の存在も、そのため…………」
 ……ああ、言葉が足りなさすぎるが、大体分かった。つまり、こいつは俺に何か特殊な能力があるんじゃないかと疑ったんだ。そして宇宙人未来人超能力者たちの記憶をすっ飛ばして一般人に仕立て上げ、俺をSOS団から追放し、おまけにハルヒからジョンの記憶も消した。
 全部俺にショックを与えるためだったんだろう。朝倉を再構成したのもそのせいだ。目の前に現れさせ、ショックを与えて俺の動向を観察する。そのためだけに再構成して、用が終わったらもう動くな。朝倉の言っていたのはそういうことだ。
 そして、ハルヒと古泉のことも。俺にショックを与えたいがためだけに偽りの感情を吹き込んだ。流石だな、やっぱりお前らとは相容れることが出来ないようだ。今度ばかりはコンタクトをとろうとしている情報統合思念体を応援してやりたいね。
 俺がいたのは改変世界なんかじゃなかった。雪山と同じだ。こいつらの作った特殊な空間。俺はまた実験台にされたんだ。だから思念体も存在しなかった。
「じゃあ、長門を人間にしたのは一体どういうカラクリだ?」
 長門はお前よりはずっと人間に近いが宇宙人だ。概念も共有出来ないのに記憶をいじったりできるものか。いじったって長門は何かしら気付くだろう。
「あれは―――複製――――有機生命体としての―――情報のみの………コピー……」
 ああ、そう言えば長門がこいつらの危険性は少ないとかなんとか言っていたが、どうやら大間違いだったみたいだな。言いようのない怒りがこみ上げてくる。すまん、長門。消滅しないといったのに、お前だけには嘘になっちまったようだ。
 本当にこいつらには感情というものがないことを実感する。機械のように思考する情報意識体。こいつらに比べればまだ思念体のほうが人間味がある。
「でも……」
 いつのまにか九曜が目の前にまで迫ってきていた。くそ、何もない空間でなら情報操作もやりたい放題、ってか?
「結局―――分からない。……あなたは、普通の人間――――なのに――我々の構築した空間を……破壊した。………なぜ――我々にも、理解できない能力が―――……?」
 黒い制服からのぞく白くて細い指がゆっくりと伸びてきて、俺の顔の輪郭をなぞった。その体温の無さに、背筋に冷たいものが走る。
「……どうして―――?」
 黒くて大きな瞳が俺を捉えた。こいつの目は何を見ているんだろう。自分では理解できない、好奇心や興味をそそらせる異質なもの? いや、自分の立てた予想を裏切った実験動物、ってとこか。
「っざけてんじゃねえぞ!」
 その手を振り払う。
 こいつらは人間を何だと思ってるんだ? ただの実験台? 自律進化の可能性? それとも面白いおもちゃ?
 九曜の胸ぐらを掴んでやろうとすると、九曜は落胆したように目を僅かに細め、
「―――また、喫茶店に……」
 そう言って俺の手が掠める寸前、闇に溶けて消えた。
 俺は思わず舌打ちをする。人間味も無いくせに、いちいち遠回りな行動をしやがって。
 言いたいことはもう分かっていた。自分達は俺が今まで異空間で体験したこと――ハルヒが新しい世界を創造しようとした間の出来事や、ハルヒの消失した世界で起こったことを全て知っていると。わざわざ俺の目の前にまで現れてな。今九曜が長門の台詞をなぞったのもそれだし、朝倉の登場の仕方が冬の改変世界そのままだったのも恐らくそうだろう。
 だが、そうやってなぞろうとして朝倉を再構成させたのが仇となったようだな。あいつがいなきゃ、恐らく今も俺はあの異世界を延々と彷徨っていた。
 元から俺がごく一般的な男子高校生だと分かっていたのなら、最初からこんなことをするな。俺を変なことに巻き込むな。そう思っても、俺は選んだんだ。あの冬に、この不可思議な現象がそこらへんにあふれている世界を。だが俺はいまいちその行動の意味を自分でも理解できていなかった。
 俺がこの世界を選ぶことによって起こるのはハルヒの望む非現実的な事象ばかりじゃない。古泉も言っていた。血で血を洗うような抗争。
 そしてあの雪山のとき、古泉の予測の通りなら俺達は元の俺とはまた別のコピーとなってあの屋敷に閉じ込められていた。コピーしたデータならいくらでも無茶をさせられる。あれもあいつらによる実験だったんだろう。ならその無茶な行動とは? あの空間から脱出できないままだったら、俺達は一体どんな"無茶"をやらされていた? 想像しただけでもぞっとするね。
 分かった、お前らがそう言うなら俺だって黙っちゃいないさ。俺にもこの世界を選んだ責任ってもんがある。俺自身では広域の情報意識体に何も出来ないが、ジョン・スミスという切り札だってまだ残っているんだ。いざとなったら洗いざらいハルヒに喋ってやるさ。長門を二度も昏倒させた諸悪の根源だ、ってな。そうすれば世界がどうなるかだって、お前らにも分かるだろう。そして俺にお前らに対する明確な敵意を植えつけたことにせいぜい後悔すればいいさ。
 俺が暗闇の中でそう決意した直後、足元にあったはずの地面が割れ、俺の意識は強制的に拡散した。


 目を開けると、自分の部屋の電灯が視界に入った。
 部屋は明るい。上にかぶさっていた布団をのけて身を起こす。着ていたのはよく見なれたスウェットだった。
 戻った……のか? いつだここは。そばにあった携帯を見てみると、七月三日の朝だった。周囲がおかしくなった翌日だ。どうやら時間が巻き戻っているらしい。いや、あいつらの作った異空間に閉じ込められていたわけだから、巻き戻ったとは言わないのか?
 混乱する頭を抱えていると、
「キョンくーん、あーさだよー」
 妹が相変わらずの元気良さで部屋に入ってきた。
「あれー、もう起きてる。めっずらしーい」
 俺の方を見て驚きの表情を見せ、俺の布団の上で丸まっていたシャミセンを強制的に廊下へ連行して行く。
 ぼんやりとその様子を眺める俺。
 ……とりあえず、学校に行くか。恐らく長門に聞いてみれば分かるはずだ。今までが全て部室から逃げ帰ってからの夢で、学校に行けばまたSOS団の面々に他人扱いされるとなったら笑えないが。


 教室のドアを開けると、一番後ろの窓際でハルヒが紙に何やら書き殴っていた。何かをたくらむような笑顔を浮かべて鉛筆も握っている。このハルヒはSOS団の雑用係であるはずの俺を覚えているんだろうか? 跳ねる心臓をおさえてそいつのもとへ近づいていくと、ハルヒが描いていたのはどうやら和風の衣装か何かのデザイン画みたいなものだった。
「よう」
 片手を上げて挨拶する。世界が戻ったのか、時間が巻き戻ったのか。恐らくこれで判別がつく。ハルヒの反応を待つ時間がやたら長く思えた。
 だがハルヒは待ってましたと言わんばかりにさっと俺の方に振り向くと、
「見てよキョン! 昨日も一昨日も織姫っぽいコスプレ衣装が見つからなかったからあたしが作ることにしたんだけどね、どうよこれ! かわいいでしょっ?」
 今まで書き殴っていた紙を俺に向けて、満面の笑みを見せてくれた。
 見せつけられたのはなにやらでかいリボンやらなんやらがついたミニスカートっぽい浴衣のデザイン画だった。安心して思わず溜め息が漏れる。どうやらここは俺のよく知っている元の世界で間違いないようだ。しかし癪だな、ハルヒの笑顔をみて安心するってのも。
「ああ、十二分に可愛いんじゃないか。その衣装を着れば朝比奈さんはほとんど本物の織姫さまも同然だろ」
 いや、実際に見たことは無いが本物より可愛いか。元の世界に戻れた褒美がこれなら、むしろ俺が天にも昇る勢いだ。
 やはり、俺は戻ってきたんだ。何者にも手の加えられていない、オリジナルの世界にな。脱力するような思いで鞄を机の上に乗せる。
「そうでしょそうでしょ、やっぱりSOS団のイベントにみくるちゃんのコスプレは必須よね!」
 どこがどう変わるのか知らんが満足げに様々な角度から自分の描いたラフ画を眺めるハルヒ。朝比奈さんには申し訳ないが、正直ハルヒの言葉には同意せざるを得ないな。あと半年と数ヵ月でこの高校を卒業してしまい、もしかしたら未来に帰ってしまうかもしれないことを考えると余計にだ。
「しかしハルヒ、どうせまた七夕パーティを部室で開催する気なんだろ? あんまり大声でその話をすると、変な輩が覗きにやってこないとも限らんぞ」
 ハルヒがぴくりと反応して顔を上げると、
「む、それもそうね」
 辺りをきょろきょろ見回してラフ画をしまった。ま、この奇怪な団体の根城に進んでこっそり足を運ぼうするやつがいるかどうかは分からんがな。
「ところでさ、あんた昨日なんか様子が変だったけど何かあったの?」
 ハルヒが笑顔の輝きを数ランク落としてそう俺に問うた。
「昨日……?」
 しかしそう言われても、俺には記憶にないというか体験していない世界の話なのでなんとも答えようがない。
 ハルヒは呆れたように眉をハの字に曲げると、
「なによ、覚えてないの?
 あんた、昨日はずっとおかしかったじゃない。古泉くんとボードゲームしてても、なんかぼーっとしててさ。いつものキョンじゃなかったわ。
もしかして風邪でもひいてるの?」
 なるほど、それが昨日の俺か。
 確かあの雪山の時は、鶴屋さんから見ればあの数時間はたった数分程度のことで、その時俺達はスキーのコースを何故かスキー板を担いで降りていたんだっけか。そいつらは、俺達であって俺達じゃなかった。俺達がコピーで、そいつらが元々のデータ。恐らくこれもそういう事だろう。
「ああ、少し風邪気味だったみたいだな。今はもう大丈夫だよ」
「そうなの? 夏風邪でも流行ってるのかしら。有希なんか昨日熱出してたし……」
「長門が?」
 あの長門が熱を出したってのか。
 ハルヒは俺を怪訝そうに見遣ると、
「キョン、覚えてないの? ……あんたもそうとうウィルスにやられてたようね。
 昨日、有希もなんだかぼーっとしてたじゃないの。あんたの比じゃないわ。本も読まずにずっと宙を見てたんだもの。
 有希は大丈夫だって言ってたんだけど、あまりにも様子が変だから無理矢理保健室に連れて行って体温を計って貰ったら、なんと熱があったのよ! こないだ有希が学校を休んだ時よりはひどくなかったんだけど、もう放課後だったし家まで帰らせちゃったわ」
 ……そういえば、今回長門だけは異空間へ連れ込まれずにこの世界に残っていたんだっけか。この世界の長門が、異世界へ飛ばされた俺達を助け出そうとして、熱を出してしまったんだろう。
「今朝会ったときは平気そうな顔してたし、有希も大丈夫って言ってたけど……本当かしら」
 しかし、それなら何故ハルヒに昨日の記憶があったんだ? ハルヒは間違いなくあの異空間に巻き込まれていたはずだ。俺には欠片も残ってないというのに。
「ちょっとキョン! あんたちゃんと話聞いてるの?」
「ん? あ、ああ。聞いてるよ」
 ハルヒは俺を半目でねめつけて溜め息をついた。
「わかった。まだぼーっとしてるのね。でもね、いくら体調が悪いからって団長の話をまじめに聞かないのは許されないの。しかも大事なSOS団団員である有希が熱を出したのよ? その話をちゃんと聞かないなんて、キョンには罰が必要みたいね?」
 ハルヒが俺を睨んだままニヤリと笑みを浮かべた。おい、お前の話を聞いてなかったのは悪いとは思うが、それだけで罰せられちまうのかよ。嫌な予感しかしないんだが。
「今度の七夕パーティ! あたしが直々にカササギの衣装を作ってあげるから、それを着てあたし達の前で一発芸をしなさい! もちろん、全員が爆笑するまで何度だって……いえ、何度も涙が出るくらい笑わせるまで許さないんだからね!」
 と、ハルヒは俺をびしりと指差して宣言した。


 昨日――俺の体感での話だが――までのごたごたが嘘だったかのようにそのまま授業は消化されていき、ハルヒの授業を無視して鉛筆を走らせる音に辟易しつつ放課後を迎えた。
「よっす」
 部室の扉を開けてみると、そこにいたのはいつも通り窓際で本を読んでいる長門一人だけ。
「長門だけか……他の奴らは?」
 そう言いながら部室に入る。なんだかここにくるのも久しぶりな気がするな。懐かしささえ感じてしまうね。
「涼宮ハルヒは先程朝比奈みくるを連れてどこかへ行った。古泉一樹は不明。恐らく、日直」
 本から目を離さないままに窓際の少女が答える。そういえばハルヒは帰りのHRが終わると同時に教室を飛び出して行ったしな。大方家庭科室にでも連れ込んで丈を測っているんだろう、例の衣装を作るために。まあ、イベントをやると言っても大勢の前に出て行ったり、映像をとって公開するわけでもない。ハルヒの様子からみても恐らく着るのは部室の中だけだし、面倒くさいことにはならんだろう。念のためハルヒの動向に注意しておく必要はあるかも知れんが。
「そうか。……ところで長門、お前昨日熱出したって本当か?」
 長門が本から顔を上げた。
「本当。でも、今現在は特に身体の異常はない」
「………俺のせいだな。悪かったよ」
 恐らく、栞に浮かび上がったあの記号。あれが世界を元に戻すための鍵であり、それを長門は俺に伝えるために力を使い、また熱を出させてしまう結果になったんだろう。
「あなたのせいではない。わたしが独断でやったこと」
 長門の表情はあの雪山や今年の春に見た辛そうなそれでは無かった。ハルヒの言うぼーっとしている様子もない。本当に大丈夫なんだろう。
「ああ、ありがとうな」
 定位置となっているパイプ椅子を引き、鞄を脇に置く。二人しかいない部室は妙に静かだ。運動部の掛け声やら吹奏楽部の楽器の音やらがやたら大きく聞こえた。
「そういえば、あのメッセージ。あれを校庭に描いたら元の世界に戻れたようだが、ありゃ一体どういう仕組みなんだ?」
 自分でやっておいて何だが、正直自分でも何故元の世界に戻れたか分からん。まさか織姫と彦星に願いが届いたからとか言わんだろうな。
「強固なプロテクトによって外部からの干渉は非常に困難だったため、あなたにインヴォケーションサインを託した。それは大きな情報量を持っているから、空間の許容限界の情報量を超え、空間が崩壊した」
 ……相変わらずの説明の分かりにくさだ。いつも間に入ってくるニヤケ面の超能力者が不在なために一語一語つっこんで説明をもとめ、なんとか俺の足りない頭でまとめた結果、つまりこうらしい。
 あの情報生命体の奴らが生成した異空間は、あの雪山の時と同じように範囲が決められていて、その中に俺の街並みの構成情報やら住民の生体情報やらを突っ込んで出来た空間らしい。で、範囲、いわゆる情報の入る容積ってやつか。それが限られていたから、長門はそれを狙った。外部からの手出しが出来ないようにがっちりプロテクトされていたものの、巨大な情報量を持つ記号を俺に熱を出しながらも何とか伝え、そのおかげで空間が急激に膨張した情報を抱えきれずに破裂したってわけだ。
 外からは絶対に割れない風船を割るには、中の空気を増やせばいい。つまりはそういうことだ。
 ちなみに、今いるハルヒ達は俺があの異空間で会ったハルヒ達本人で間違いないらしい。記憶については、思念体の奴らが昨日の記憶を持たせることで帳尻を合わせたとのことだ。俺の記憶だけは保護するように言ったのは長門。
「しかし、空間と言ってもどっからどこまでがそれだったんだ? 雪山の時はあの屋敷そのものだったんだろうが、俺が見たのはここらへんの街並みの景色そのものだったぞ」
 確か俺達は結構遠くまで出歩いたはずだ。市内ではあるが、そこそこ色んなところへは行ったんだ。あの時と重ね合わせれば、空間の端まで行っちまえば何かしら出られないようになっている部分が見つかったはずだ。
 だが長門は今日の晩御飯のメニューを教えるのと変わらない調子で答えた。
「空間の範囲は、およそ百平方キロメートル。だいたいこの市内全てを覆う程度の大きさで、そこにいる人々ほぼ全てがその空間にコピーされた。位置情報もこの元々の世界とほぼ同じ。時間の流れは異なっていたが、二重の空間がこちらの時間軸で言う大体丸一日ほどここに存在していた」
 …………。
 俺は絶句した。おいおい、市内を丸ごとだと? 雪山と時とは比べ物にならない程大きい。そんな巨大な空間を、あいつらが作ったってのか。それに、あの時のような場所によって時間の流れが異なるようなこともなかった。電車の発着時間も俺の腕時計とぴったり一致していたぞ。それを、あの馬鹿でかい空間でやってのけたのか、あいつらは。
 長門は首肯するだけ。もしかしたら、ここ数ヵ月の沈黙もあの空間を作るために動いていたからなのかもしれん。
「最初、情報統合思念体は朝倉涼子の構成情報を盗まれたことを懸案事項とするものの、現状に変化を及ぼさないものと見て静観を決めていた。あの冬の時から判断して、天蓋領域があまり高度な生命体であるとは考えられなかったこともある。
 しかし、いざその空間から情報が流れだし、プロテクトにより読み取れなかった情報の中に懸念すべき情報が見つかった」
 文字通り雲の上の話だな。で、懸念される情報ってのは?
「異空間へ引きこんだ有機生命体に対する記憶改変。あの空間から一般的な人間が出ることは不可能であったのに対し、そちらの世界で混乱が起こることはなかった。正しい?」
 ああ、確かにそうだな。市内から出られなくなる見えない壁が、なんて話は一度も聞かなかった。だから、俺は真っ暗な空間であいつに会うまで世界改変だと思い込んで……そこまで考えてやっと気が付いた。
 俺達の住んでいる市は、山奥の辺境にあるわけでも、周囲の都市との交通が全て断絶された場所にあるわけでもない。それなりに流通もあるし、北口駅には私鉄のターミナルジャンクションがあるということもあって市外に出る奴も毎日大勢いるはずだ。
「なのに、誰も出られないことに気付かなかったってのか?」
 長門が、こくりと頷きを返した。
「恐らく、高度な意識操作が行われていたと思われる。これを受け、情報統合思念体は天蓋領域をある程度危険視すべきと判断した。涼宮ハルヒに今後危害を加える可能性もあるため、彼らを抹消すべきとの意見も一部出たが、それはあまりにも危険。彼らが思念体よりも高度な情報生命体である可能性もある」
 そっちはそっちで色々あるみたいだな。
 だが、それは俺たちにも無関係な話じゃない。今後また妙なちょっかいを出してくる可能性だってある。なんにも知らない一般人をマインドコントロールして市内に閉じ込め、ただ俺一人を実験するためだけにあの大がかりな箱庭を作りあげるような連中だ。
 俺が感じた改変の違和感も、あえてそう感じるように巧妙に仕組んだものだったのかもしれない。今ならそう考えてもおかしくないな。
 長門が淡々と説明を続ける。
「だが同時にこれは進歩の可能性も意味する。思念体より高度な生命体から何かしら得られれば、今のところまだ見えていない自律進化の可能性が出てくる。これはとても有益なこと。わたしにも、ここしばらくは天蓋領域から派遣されたインターフェースに積極的に言語的コンタクトをとるという任務を与えられた」
「長門は?」
 俺の唐突な問いに、長門は首をかしげた。
「お前は、どう思ってるんだ。あいつらのことを」
 お前のコピーを勝手に作り出し、お前以外の人間を異空間に閉じ込め、好き勝手やった天蓋領域の奴らのこと。長門、お前はそれをきっかけに奴らに自律進化の可能性があることを認めてコンタクトをとる。それだけなのか、お前の感じたことは。
「…………」
 長門は考えるように視線を落とすと、もう一度顔を上げて言った。
「あまり、良くは思っていない」
「……そうか。ありがとうな」
「いい。しかし、これはわたし個人の意思とは無関係にやらなくてはいけないこと」
 ああ。それぐらい分かってるさ。でも十分だ、俺は。お前の考えを聞かせてもらえただけでもな。
 そうだ、もうひとつ聞いておかなくてはならんことがあった。
 今回、長門にとって、というかこの世界にとってあの異空間を放っておいても何の損もなかったはずだ。だが、長門は俺達を助けてくれた。体調を崩してまでだ。
「どうしてなんだ?」
 その俺の問いに、長門は考える動作さえ見せずに「あなたは、あなた」というシンプルな回答だけをよこして、視線を分厚いハードカバーに戻した。


 その後古泉が部室に来て、しばらくしてから朝比奈さんとハルヒが戻り、そこからはいつも通りの部活になると思っていたのだが、ハルヒによって突如七夕パーティの開催宣言がなされた。まあ、突然でも何でもないが。ハルヒによると、ゲストに鶴屋さんを招き、朝比奈さんに織姫のコスプレをさせつつ笹に願い事を書いた短冊をぶら下げ七夕的イベントを消化したのち、鍋やらジュースやらその他食い物で部室において適当に騒ぐのだという。夏なのに鍋なのか、って突っ込みは他に部室で出来そうな料理が見当たらないためナシとしておこう。
 「特別イベントもあるから」、といいつつ不敵な笑みを浮かべるハルヒの視線は俺にあったわけで、やれやれ、本当に俺はまた一発芸をやらされることになるらしい。
 でもまあ、そこにいるのはSOS団の団長であるハルヒと、宇宙人でありながら文芸部員部長でもある長門、ドジっ子メイド未来人の朝比奈さんに、いけすかない超能力者の古泉。そして一般人の俺、それに鶴屋さん。周りが一般人まみれになり、俺がただひたすら胃を痛めるだけの日々とは段違いに平和だ。一般人しかいない世界より宇宙人やら超能力者やらがいる世界の方が安心できるというこの矛盾。もはや言い訳する気にもなれないね。
 懸案事項は未だ山積みではあるものの、今はこの高校生らしいイベントを楽しみたい。それが俺の本音だった。
 しかしSOS団どころか何十万という人間を巻き込んでまで起きたこの出来事を無かったことにすることはできない。
 翌々日の七月五日。今日は確かカレンダーによれば土曜日、つまり学校は休みであるはずだったのだが、何故か俺は学校にいた。理由はというと、SOS団主催七夕パーティの準備が土日を挟んでいては間に合わないからである。
 ただ笹を飾って部室で飲み食いするだけだろうと俺は考えていたのだが、ハルヒに笹飾りの作成や折り紙を鎖状に延々と繋げて作る例の飾りもんの作成を命ぜられており、三日は今となっては必要だったのかはなはだ疑問であるパーティ会議とやらに充てられ、昨日はハルヒにきびきび部室掃除の指示を出されたので飾り付け等が出来るのは今日だけだ。
 ハルヒ指定の集合時刻五分前にやってきてみると、丁度朝比奈さんがわざわざメイド服に着替えているらしく、部室のドアは閉まっており廊下に古泉だけが立っていた。まさか後で罰金とか命ぜられないよな、多分。
「よう」
 腕を組み、窓に背を預けて佇むいけすかない野郎に声をかける。
「こんにちは」
 向けられた如才無い微笑み。ドアの向こうからハルヒの声が聞こえる。どうやら現在制作中の衣装を合わせているらしい。
「何だかしばらく時間がかかりそうだな。ったく、これで本当に今日中に準備できるのかよ」
「しかし、このようなイベントを控えて涼宮さんの機嫌もよさそうですしね。僕としては喜ばしい限りです」
「そうか。……最近は、閉鎖空間なんてのも発生してないのか?」
 窓の外からは休日まで練習に励む運動部の掛け声が聞こえてくる。今回の鍋パーティは教師に見つかったりしないだろうな。生徒会からは確実に何かしら言われるだろうが。
「そうですね、ありがたいことに春のあの事件以来ここ最近は非常に安定しています。目立つ不安要素といえば朝比奈さんのことぐらいでしょうか。
 そういえば、この間長門さんが熱を出したときは肝を冷やしましたが……彼女にもその程度の人間らしさは持ち合わせている、ということなのでしょうか?」
「ああ、そのことで古泉に話があるんだが」
「おや、長門さんの体調のことについてですか?」
 ……そう言うと変な感じもするが、まあ似たようなもんだな。長門が体調を崩したのには俺に原因があるのだから。
「それは、あまりいい予感がしませんね」
「まあ聞け。長くなるかも知れんが……まあ大丈夫だろ」
 ドアの向こうでは朝比奈さんの衣装に対してハルヒの唸る声が聞こえている。デザインに悩んでいるらしい。俺はハルヒの耳に届かないようにややボリュームを抑え、これまでに自分が体験したことを俺がSOS団の団員じゃないと発覚したあたりからざっと説明してやった。流石に感情まで改変されたことは隠したが。本人のためにも、それが一番良いだろうと俺が判断したからだ。
 この数日で俺の身に起きた出来事を、のちの長門による解説も交えつつざっと説明してやると、その間黙って耳を傾けていた古泉は、
「……なるほどね。一昨日、何やらあなたの様子もおかしいとは感じていたのですが。まさかそんなことがあったんですか」
 と、顎に手をやり考え込むような動作を見せた。
「大変だったんだぞ、長門からのメッセージがなきゃ今頃まだ異空間の中だ」
 古泉は思案顔のまま数秒間沈黙すると、
「そして天蓋領域が情報統合思念体と同等、もしくはそれを上回るほど高度な情報生命体である可能性がある……なるほど、それは確かに思念体にとって有益ではあっても、僕らにとってはあまりよろしくない事態かもしれませんね」
「ああ、またどんなちょっかいを出してくるのか分かったもんじゃない」
「それだけではありませんよ」
 大げさな声色で古泉が言う。どういう意味だ?
「いいですか? 僕には記憶こそありませんが、僕達はこの世界とは別に、新たに作られた異空間に閉じ込められた。しかし、この世界の僕達。今は異世界の消滅により上書きされましたが、彼らにとっては全く異常の無い、いたって平和な世界だったはずです」
 確かにその通りだが、一体それが何だってんだ。
「つまりですね、僕達が普通に過ごしてきた間に、もしかしたらコピーされた僕達が違う世界へ連れ込まれていたのかもしれません。僕達が今こうしている間も、彼らはその空間から出ようともがいているのかもしれない」
 古泉が大げさな手ぶりとともに解説する。
 ……まさかとは思うが、確かに有り得ない話じゃない。あの冬の時、俺達は長門からの鍵、あの扉にあった問題を解いて外へ出ることが出来た。だが、もし解くことが出来なかったら。謎の問題を残したまま奴らに負荷をかけられた長門は倒れ、俺達は頭を悩ませたまま永遠に屋敷に閉じ込められる。
 もし天蓋領域の奴らがあんなことを繰り返していたとしたら、今も閉じ込められっぱなしの"俺"がいたとしてもおかしくはない。
 しかし、朝倉が『時間をかけて作りあげた空間』と言っていたし、春から今まで沈黙していたこともあるから俺としてはそんなことは無いと思いたいところなんだがな。
「まあ、あくまで想像上の話でしかありませんしね。でも、これからまたそういう事態に巻き込まれる可能性が無いわけではありません」
 それ相応の覚悟をしておいた方がいいってか。だが、俺としてはこれからも今回のような方法で出られると信じたいんだが。
「僕にも、それがどのような記号なのか教えを請いたいところですね」
 ……どんなだったかな。意外と複雑なんだよ、あれは。
「俺は大丈夫だと思うんだがな、そんなことをしなくても」
「ほう、理由をお聞かせ願えますか?」
 理由? そうだな。まず第一に朝倉の台詞がある。異空間にコピーされても、ハルヒの願望実現能力は消えていない。つまり、ハルヒのあの厄介な特殊能力は、長門の宇宙に漂う情報意識との繋がりを取り去った天蓋領域なんてのにも取り上げることは出来ないと思うんだ。
 ハルヒがそこから出たいと願えば、恐らく異空間なんてあっという間に弾けちまうだろ。
「なるほど。確かにあなたの言うとおり、彼女の能力の前には天蓋領域も歯が立たないでしょうね。しかし、今回は彼女の記憶まで変えられてしまったんですよ? 元の世界の記憶が無ければ、その世界に戻ろうとは思わないでしょう」
 ああ、確かにそうだ。おまけに、ジョン・スミスという決定的な記憶までハルヒから消し去っちまった。
 しかしだ。結果、俺達はこうして元の世界に戻れた。これなら、もう大抵の事では俺達にどうこうすることが出来ないんじゃないか?
「……あなたらしい、楽観的な意見と言えますね」
 そりゃどういう意味だよ。
「しかし、あなたが言うのなら確かにそうなのかもしれません」
「ほう、宇宙パワーも超能力も使えない、全くの一般人である俺の言葉を信じるってのか?」
 古泉は、ふっと噴き出したように笑うと、背を預けていた窓から身を起こした。
「そうですね。何となくそう思っただけですよ。あなたが直感でそう思うなら、僕もフィーリングでそう感じた。それでいいじゃないですか。
 今やるべきことは、明後日に開催される七夕パーティを精一杯楽しむことです。違いますか?」
 扉の向こうから、朝比奈さんの着替えの終了を知らせるかわいらしい声が聞こえた。
「……まあな、お前がそう思うならそれでいいさ。ああ、それと古泉。お前にもう一つ質問したいことがある」
「何でしょう?」
「お前にとって……そうだな。SOS団は楽しいか?」
 ちょっとした沈黙の後、古泉は困ったように笑った。
「変なことを聞きますね。そうですね、言うまでもないと思いますよ。僕はあの冬にあなたへお伝えしたことで十分だと思っているのですが」
「……そういえばそうだったな」
 目の前の扉が勢い良く開いた。おい、そろそろ金具が外れてもおかしくないぞ。
「古泉くん、みくるちゃんの着替えもう終わったわよ……ってキョン、あんた今来たの? 遅刻ね」
 俺はちゃんと集合時刻の五分前に来たぞ。遅刻じゃない。
「言い訳無用! ……ま、今は別にいいけどね。それより優先されるべきはパーティに向けての準備よ。ほら、二人ともさっさと中に入る!」
 俺は古泉が小さく肩をすくめるのを見届けると、溜め息をついて部室に入った。


 あの後、ハルヒが居なくなった隙をみて朝比奈さんにも俺が体験したことを全て話した。
 俺はとりあえず起きたことを耳に入れておこうと思っただけなのだが、朝比奈さんは自分が全く役に立てなかったと非常に申し訳なさそうにしていた。しかし記憶がなければどうもこうも出来るわけがないし、むしろ異世界での朝比奈さんは俺を励ましてくれたり団員じゃ無くなったはずの俺にもお茶を淹れてくれたりと、この上なくありがたい存在だった。
 そのことを朝比奈さんに伝えると、「そうですか?」とはにかむような笑みを見せてくれて、俺としてはもはや天にも昇りたい思いだったね。


 そしていよいよ七夕パーティ当日。
 ハルヒも放課後を待ちきれないといった感じのようで、帰りのHRの終了を知らせるチャイムがなると同時に教室を飛び出して行った。やれやれ、こんな時間から鍋を食わなきゃならんのか。
 喧騒に包まれる教室を眺めて、ふと思いついた。
「おい、谷口。それに国木田」
鞄を持って教室を出ようとしていた二人に声をかける。
「なんだいキョン、今日は部活じゃないの?」
「そうなんだが、実は今日、七夕パーティっつーもんをやる予定なんだ。どうせ暇だろ? お前らも来い」
 今頃ハルヒが鍋の下ごしらえをしている頃だろう。
「七夕パーティ? 随分けったいなパーティをやるもんだな。一体何を祝ってるんだ?」
「まあ、織姫と彦星の再会かなんかだろ」
 そのことについてはハルヒ本人も分かってない可能性があるかもしれんが。
 それを聞いて、谷口が大きく肩をすくめて溜め息をついた。
「へっ、何が悲しくてお空の向こうにいる男女の再会なんか祝わなくちゃなんねーんだよ。しかも夏に鍋とか、季節外れも甚だしいだろ」
「いちいちそんなことを気にして、谷口は情けない男だね。僕は行くよ。だって、朝比奈さんに会えるんでしょ? しかも、メイド服のコスプレした。見たことがないわけじゃないけど、一度生で見てみたかったんだ」
 ああ。今回はメイド服どころか完全新作の団長様特製衣装をまとった朝比奈さんに会えるだろうよ。
「じゃあ来るのは国木田だけだな? 多分準備を始めているだろうが、ただで参加させてやるから手伝いぐらいはしろよ」
「もちろん。そのくらい、お安い御用だよ」
「ちょ、おい待て! 俺も、俺も行くって!」
 谷口が慌ててあとをついてくる。何だ谷口、さっきまではさらさら行く気がなかったのに、もう意見が変わっちまったのか。さもしい男だな。
「俺は何を言われたって構わない。朝比奈さんの生のコスプレ姿を拝めるのなら、真夏の鍋だって真冬のかき氷だって食ってやるさ! だからキョン、俺もパーティに参加させてもらうぞ!」
 はいはい、分かったよ。しかし谷口、真夏よりも鍋よりもお前が一番暑苦しいぞ?


 部室に着くと、ハルヒ以外の全員が揃っていた。
 長テーブルの上には、紙コップにジュース、そしてさまざまな具材にぐつぐつと煮えたぎる鍋。部室は一昨日の頑張りのおかげで、チープではあるがそこそこパーティらしい雰囲気になっていた。
 そこにいるのは古泉に長門、スペシャルゲストの鶴屋さん。そして……
「あ、こんにちはキョンくん……と、えーっと、キョンくんのお友だち」
 菜箸を持った、間違いなく本物の織姫さまがそこにいた。
 上半身の衣装の作りは浴衣っぽい作りでありつつ、大きなリボンのついた帯より下はふわっとしたフレアのミニスカート。衣装の全てのパーツが朝比奈さんを全力で引き立てている。織姫のコスプレのはずなのに中国っぽさが微塵も感じられないのはもはやさしたる問題ではない。とても手作りには見えない完成度が恐ろしい。
「これ、どうかなあ。涼宮さんは可愛いわよって言ってくれたんですけど……」
 いや、もう本当、もの凄く可愛らしいです。それ以外に俺の貧弱な語彙では形容の術がないくらいに。
 今こそ、本当にハルヒが神様に思えてくるね。ハルヒは一体どこからその恐ろしいぐらいに多彩な才能を引き出してくるんだろうか。一度でいいからハルヒの頭の中を見てみたいものだ。
「本当? ふふ、ありがとうキョンくん」
 朝比奈さんがふわりと微笑む。恐らく、この微笑だけでこの高校に通う男子生徒の九割以上が落ちてしまうだろう。事実、脇にいる二人が顔を赤くして朝比奈さんに見惚れている。
「やーやーキョンくん! ちょっち久しぶりだねえ!」
 そうぶんぶんと手を振るのは鶴屋さん。いや、俺にとっては結構最近に会ったんですが。まあそれは置いておこう。
「いや、本当に可愛いよねえみくるは! 食べちゃいたいぐらいだよう!」
 そう言って鶴屋さんが朝比奈さんを抱きしめて頬をぐりぐりしている。ああ、眼福だ。一生この画を脳内に焼き付けておきたい。
「できないことはない」
 いつの間にか俺の隣に瞬間移動して言ったのは、さっきまで黙々と本を読んでいたはずの長門だった。
「……いや、遠慮しておくよ」
「そう?」
「じゃあ僕がお願いしましょうかねえ」
 そう言っていつの間にか長門の隣にいたのは古泉。おい、ふざけんな。
「僕は割合まじめですよ。僕だって一介の男子高校生ですから」
 爽やかに微笑む古泉をいっぺん殴ってやろうかという考えが頭をよぎった時、部室の扉が勢い良く開いた。
「おまたせー! みんな、ちゃんと揃ってるかしら!」
 真夏の太陽ぐらい、いやそれより輝く笑顔がそこにあった。
「やーハルにゃん! 今回はお招きいただきありがとーっ!」
 鶴屋さんがハルヒに負けないぐらいの笑顔で手を上げる。
「いやあ、それにしてもおっきな竹を持ってきたねー、よくここまで持ってこれたなあっ」
 その鶴屋さんの台詞で俺はようやっと、持っている奴より背丈があるんじゃあないかと思えるような竹を、ハルヒが抱えていることに気付いた。……ああ、すっかり忘れていた。もう勘弁してくれ。
 当然のごとく、長門に古泉はスルー、朝比奈さんはその大きさに驚いているだけ。ちくしょう、またか。またなのか。
「おい、そんなでっかい竹どっから調達してきたんだよ?」
 谷口が素っ頓狂な声でそう言った。よし谷口、ナイスアシストだ。
 ハルヒは腰に手を当ててふふんと自慢げに笑うと、
「実はこの竹、鶴屋さんちから貰ってきたの! だから見て、学校の裏の竹林にある竹なんかより断然立派でしょ?」
 その言葉を聞いて、俺はほっと胸をなでおろした。良かった、ハルヒもだんだん常識が分かるようになってきたのか? いや、後半の台詞を聞くにまだ駄目か。
「って、あら? 谷口じゃないの。それに国木田。何? キョンが連れてきたの?」
「ああ。二人とも暇そうにしてたもんでな、せっかくだから連れてきた。問題ないだろ?」
 ハルヒは竹を窓枠に立てかけつつ二人の顔を見比べるように凝視すると、
「ま、別にいいんじゃない? 材料もたっぷりあるしね。あんたがそんなに多くの人に一発芸を見せてあげたいっていうんなら」
 その一言を聞いて俺は固まった。ああ、俺でさえすっかり忘れていたことを。
「なになに? キョンくん、またアレをやるのかいっ?」
 その鶴屋さんの言葉に谷口と国木田が不思議そうな顔をする。ああ、やめてくれ。この二人を呼ぶんじゃ無かった、ちくしょう。
「何よ、なんも内容を考えてこなかったの? まあいいわ。あんたの一発芸は鍋を食べ終えた後の余興までとっておくから。
 そんなことより、せっかく立派な竹を持ってきたんだから、まずやるべきは七夕よ!」
 ハルヒがちょこまかと短冊二枚と筆ペンを配り歩く。
「じゃあ、片方は十六年後、もう片方は二十五年後に叶えて欲しい願い事を書きなさい!
 書き終わったら、適当に笹につるしてちょうだい」
 それを合図に、各々で適当に願い事を書くことになった。
 俺は……まあ、去年と似たようなもんで良いか。適当に願望を書いてさっさと笹につるす。
「なあ、なんでこれ十六年後と二十五年後限定なんだ?」
「そりゃ、アルタイルが十六光年、ベガが二十五光年離れてるからじゃないの?」
「ああ、なるほど……しかし、片道でそれぞれ光の速さ分時間がかかるって計算なら、往復で三十二年後と五十年後にならねえか?」
 谷口が書く内容に頭を悩ませながら言う。谷口、そこには触れないでおけ。
「ああ、そういえばキョン。さっき言ってた一発芸とかアレとか、何の話なの? もしかしてキョンが一発芸とかを見せてくれるわけ?」
 国木田の言葉を俺は軽く無視する。
 いいさ、古泉も言っていたじゃないか。今一番大事なのは目の前にあることを楽しむことだってな。俺も存分にそうさせてもらうよ。だから放っておいてくれ。
「よしっ、じゃあみんな短冊をつるし終わったわね? じゃあみんな紙コップを持って!」
 二日前の古泉の言葉を思い出す。
 確かに、またいつ天蓋領域、もしくはそれに似たような奴らがちょっかいを出してこないとは限らない。
 だが、俺には切り札がある。俺はジョン・スミスだと言えば、世界の様相は一変するだろう。高度な情報生命体でさえかなわない、ハルヒの特殊な能力によってな。
 ハルヒが軽く咳払いをして、言った。
「えーっと、じゃあ団長であるあたしから挨拶をさせてもらうわね」
 しかし、今回はハルヒのジョンに関する記憶まで奪われちまった。それさえしてしまえば、鍵は俺の手から失われ、奴らの思うがままになっちまう。
 だが、本当にそれだけで崩壊しちまうものなのだろうか?
「みなさん、SOS団主催の七夕パーティにお集まりいただきありがとうございます。今日は晴れ。十分な七夕日和といえます」
 俺は思うんだ。きっと、もうハルヒにとってジョン・スミスなんて過去の人物はそれほど重要な人物じゃない。だって、一年前の七夕ではメランコリックにジョンの事を思い出していたのにもかかわらず、今目の前のハルヒはみんなでわいわいと七夕を楽しんでいる。
 きっと、ハルヒにとって七夕はそれほど特別な日なんかじゃないんだ。だって、ここにはSOS団がいるのだから。
「気温も、夏に向けてどんどん上がってるし……って、そんなまどろっこしいのはいいわね。じゃ、さっさと飲み食いして盛り上がりましょ!」
 ここにはハルヒに俺、長門、朝比奈さん、古泉がいる。そして、周囲にも頼もしい人がいる。
 きっと、それで十分なんだ。
 それさえあれば、世界は大いに盛り上がる。

 なあ、ハルヒ。


「じゃあ、かんぱーい!」



 お前もそう思うだろ?






終わり

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最終更新:2020年07月07日 10:34