「うー、寒い寒いっ!キョン、ストーブつけて!」
「へえへえ」
「雪たくさん積もりましたねー。普通の靴だと転んじゃいそうです」
「……」
「みくるちゃん、寒いときこそその寒さを凌ぐために運動よ!キョン、やっぱりストーブいいわ。外で駆け回りましょ。雪合戦!雪合戦よ!」
「おい、着替えもないのにどうするんだ?下手すりゃ風邪引くだろうが。今日は止めといた方がいいと思うがな」
「それに、また降ってきちゃったら、みんなゆきだるまみたいになっちゃいます」
「……」
「んー、そう?しょうがないわね。今日は部室で過ごすことにするわ。キョン、ストーブ点けて」
「お前は一度くらい自分で動くことをだな……よっと」
「あったまるぅ。ふぁー」
「……」
「あ、長門さん?今、お茶を淹れたんですけど……」
「何だ長門。何処か行くのか?」
「……」
「へえ?すぐ戻ってきなさいよ。外は冷えるから!あ、あたしのコート貸してあげるから着ていきなさい!」
「……わかった」


「……で、何処行ったのかしら?有希」
「さあな。ってか、古泉もいねえよな。古泉は何処いったんだ」
「古泉くんなら、日直の手伝いで遅れるって聞きましたよ」
「じゃ、どのみちすぐ来るわね。今のうちに部屋をあっためておきましょ……ストーブいいわぁ」
「こういうときは猫だな、お前」
 
 
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
雪がまた、ちらつき始めた。
窓は、透明なヴェールに身を包んだ冬の精が人の目を盗んで息を吹きかけたかのように、うっすらと均一に濁る。鬱蒼と息をついてしまったのは、どこからか滑り込んでくる隙間風に肌寒さを感じたからだ。
放課後の教室は、経費の関係もあってか、職員室以外は暖房が切られている。
日直当番としての仕事は、黒板消しの掃除も窓の施錠も滞りなく済ませて、あとは日誌を書き終えるのみだ。出来るなら業務をすぐにでも済ませ、早く文芸部室に駆け込んで、湯気の立つ熱いお茶で冷えた喉を潤したかった。
――もっとも。僕は微かに苦笑して思う。そんなありふれた悩み事に寄り添える今は、いつかの僕が待ち焦がれた、贅沢な、愛すべき平和というものなのだ。世界的危機に直面し、右往左往するような状況下よりは、余程のこと。
思いのほか手中にしやすい僕の幸福は、いつもの部室で、彼らとの団欒の内にいつものお茶を味わうというただそれだけの形を取って、いまや僕の日常には欠かせない。

ペンを握る指先が、じんと冷えている。あとは反省点の欄を数行、適当に埋めてしまおう。なるべく丁寧に書くことを心がけている、自分でも読みにくいという自覚のある癖字を、一字ずつ読み返すようにゆっくりと連ねていく。
脳裏に描くのは、部室で和気藹々とする彼らの姿だ。

――そのとき、気配を感じた。雪の冷えが伝導したかのような、微かな軋み。
大したことのない気鬱と安穏の間をぼんやりと揺れ動いていた僕は、首を傾ぎ、気付いた。
ドアの淵に寄り添うように、長門さんが佇んでいた。

部には遅刻することになりそうだと、偶然廊下に居合わせた朝比奈さんに伝えたはずだが、何かあったのだろうか。

焦げ茶色のコート――あれは涼宮さんのもののはずだが、恐らく制服一枚の長門さんを見兼ねて貸し出したのだろう――を羽織った長門さんは、ひときわ小柄に映る。あくまで静穏に、僕をひたりと見据えている瞳。火急の用ではなさそうだと見て、胸を撫で下ろす。


「何か、僕に御用ですか?」
一旦手を止め、そう問い質してみるも、長門さんは肯定も否定も見せなかった。すっと教室に入り、僕の傍らに立つ。
いまさらに、戯けた質問だったかもしれないと思う。長門さんが何の理由もなしに、僕の元を訊ねるなど有り得そうにもない。
「急ぎではないなら、日誌を書き終えて職員室に持っていけば終わりますので、少し待っていてください」
日誌を指す。長門さんは無反応だが、僕は都合よくYESと解釈した。
逸れた意識を紙面に戻す。 


ペンを動かす音、教室外のざわめき、喚声。 

時間にして五分かそこらだ。それでも、その耳に滑り込む物音から計る一時一時を、酷く代えがたいものに思った。
粗方を書き終えると、くたびれた表紙を静かに閉じる。
長門さんが傍で僕を待っているという現状に甘んじて、もう幾許かをここでのんびりしていたいという気持ちもあったが、これ以上は僕の我侭だろう。
彼女が僕を迎えに来てくれた等と夢想するのは、幾らなんでも自惚れが過ぎるだろうし。
喉の奥で笑いを堪える。そんな風に微笑んでしまえる、自分の心境の移ろいが興味深い。 

「お待たせしました。終わりましたよ」 

筆記用具を片付けて長門さんに視線を移すと、彼女は窓枠を見ていた。正確には、曇り窓越しに、降り積もる雪の曖昧な在り処を探していた。

「……そういえば、雪、積もりましたね。涼宮さん達の反応が今から楽しみですよ」
掛ける声の拍子に吐く息に、白さが混じる。
季節は冬。
――それは、与えられた名の示す通り、彼女の季節だ。長門有希に、雪の降る空はよく似合う。 
 
 
「あなたに訊きたいことがある」
 
長門さんが、此方に再びその双眼を向けた。まるで雪の結晶を代替に埋め込んだ、グラスアイの人形のよう。神秘的で、触れれば溶けてなくなってしまいそうな淡い輝きに満ちて、脆いゆえに美しいもの。
彼女が今僕の元を訪れた、その理由の大本が隠された問い掛けに違いないと、僕は居住いを正す。
長門さんは唇を開く。 


「教えて欲しい。大海を知る井の中の蛙が、幸福になるためには、どうすればいいのか」 

瞠目する。
長門さんの、石膏のように硬い表情。無表情は切実に、何事かを訴える。出所の分からない質問に困惑はあったが、僕はそれを表沙汰にはしないようにした。
長門さんが求めている、その答えを教授するに相応しい人物として僕が選ばれたなら、それはとても光栄なことだと思えたからだ。

「――模範解答のある問い掛けではありませんね。僕の考えでよろしければ、お話ししますが」
「構わない」

長門さんは即座に首肯する。僕は、長門さんの張り詰めた何かを、僅かにも朗らかにする力を持ち得ればいいのにと、笑みを努めて明るくする。
訊ねられてすぐ、浮かんだ言葉があった。それが彼女にとって正しい回答である保障はない。だがそれは僕が決めることではない、彼女が決めることだ。僕に出来るのは、正否はともかくとして、僕なりの想いを彼女に与えることだろう。

「……長門さんは、あの大海知らずの諺の続きを聞いたことはありませんか?」
「続き」

睫が揺れる。僕は頷く。

「どなたが考えたのかは知りませんが。『大海知らずの蛙は、しかし、空の青さと深さを知る』」
「………」
「広すぎるからこそ見えないものもあります。近くにこそある幸福もある。この様な言い方をすると、まるで『青い鳥』のようですがね。
大海を知った井の中の蛙のうちにも、幸せな蛙はいたかもしれません。きっとその蛙は、空の色を知っていたのでしょう」

海の青さと空の青さ、そのどちらがより蒼く鮮烈であるかなんて。
誰に比べられるものでもない。
少なくとも僕は学んだ。革新された日、新たな能力を授かり、SOS団に所属するようになってからこの一年と数ヶ月のうちに。
世界の美しさ一つさえ、僕らの個々の意識に委ねられる。居るかどうかも知れない、涼宮さんではない「神様」は、無慈悲かもしれないが、確かにその意味において人間には広く平等だ。

「……長門さん。もし何かお悩みでしたら、――僕では頼りないかもしれませんが、幾らでも相談に乗りますよ。あなたが一人で抱え込むことはない」
「………」
「無論、僕だけではありません。涼宮さんも、彼も、朝比奈さんも。あなたのことを何時でも案じて、あなたの幸福を願う人々は大勢いるのですから」

仲間の名を持ち出し、決して彼女が孤独に生きることはないのだと繰り返す。長門さんは蓄えた感情の露出を、あまり好まない。否、表出させたくても、出来ないのかもしれないが。
そんな彼女が痛切な悲鳴を微かにも、他者の援けを望み漏らすならば。僕らにはいつだって走る用意があることを、あなたに知っていて欲しい。求められるものなら、全力で応えよう。固く繋ぎ合った、仲間としての、愛しい友としての約束のある限り。




ちらつく白は、勢いを増しながら豪雪とはならず、そのまま閑寂な室内を保つ。
風が窓を叩いた。



――長門さんは、首を小さく、横に振った。


「え……?」

驚く僕の前で、長門さんは眼を細める。



瞳の奥に、湛えられた光が同じく狭まる。僕を鏡面のごとく映す。
淡白な声質が、何故か、嗚咽を堪えるもののように聞こえた。


「――あなた以外には話さない。誰にも。思念体にも」
「長門さん、」
「わたしのもの。……忘れない」


言いそびれたいつかの言葉を継ぎ足すように、彼女は謳う。


「……ありがとう」 













 
 
 

 
  

:No.4803の構築を再開します:


観察は、データの解析終了の号令があるまで中断しないでください。
4803-開始まで00時間00分18秒。



メッセージ:仮想空間内にて待機中copy;:$%#&#'' 更新情報:閲覧を推奨



『これは任務。阻害するような命は出さない。ただ、覚えておいて欲しい』


:No.4803仮想空間展開完了:シミュレーションを開始します 




『―――あなたの幸福を願っている』 

 
 
 
 

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最終更新:2020年06月10日 03:21