第三章
朝の光に照らしつけられる前に、わたしは起きあがった。時計は四時を差している。一般人の朝には早すぎる時間だ。普通ならもう一度布団をかぶるところだろう。
けれどわたしは、二度寝をしようと思ったり、ましてやおとといのように散歩に出かけようと思ったりすることはなかった。
それよりもやっておくべき作業が残っていた。
さっきの彼女との会話。そこで、わたしは自分が所詮『わたし』に似せてつくられた人形に過ぎないかもしれないという恐ろしい幻想を抱いてしまった。わたしの存在は彼女に頼らずしては成り立たないかもしれない。わたしは今からそれを証明しに行くのだ。怖い物見たさという感情なのかもしれない。
リビングは薄暗かった。曖昧な光がどこかから射している。わたしは部屋の電気をつけて窓を開け、灰色の街の様子を眺めた後パソコンに歩み寄った。もう古くなったノートパソコン。買ったのはいつだったか記憶がない。わたしにはあまりに昔のことの記憶がないのだ。両親のことや一人暮らしのこともそうだった。
なぜだろう。
ずっとそう考えていたけれど、『わたし』との会話から得た推測が確かなのだとしたら、その疑問はこのパソコンが解明してくれることになる。推測が正しかったら記憶についていくら考えても無駄なのだ。
長く続いていた起動音の後、パソコンが静かになるとわたしは文書データを呼び出した。あの物語、十八日の朝の不思議な感覚によって書くことができるようになった物語だ。わたしはその物語に思いつくまま数文を付け加えた。
何分かすると、文章はようやく意味を持った物語となった。ざっと読み直してみても、わたしにしてみたらこの物語はもう完成といってよかった。推敲の余地はなかった。
その文章。わたしはゆっくりと、ひとつひとつの単語の意味を確認するように文字を追い始めた。
自分は幽霊だ、と言う少女に出会ったのは××××ほど前のことだった。
私が彼女に名を問うと、彼女は「名前はありません」と答えた。「名前がないから、幽霊なのです。あなたも同じでしょう」そう言って彼女は笑った。
そうだった。私も幽霊だったのだ。幽霊と会話できる存在がいるとしたら、その存在も幽霊なのである。今の私のように。
「それでは行きましょう」
彼女が言うので、私もついていく。少女の足取りは軽く、まるで生きているように見えた。どこへ行くのかと尋ねた私に、少女は足を止めて振り向いた。
「どこへでも行くことはできます。あなたの行きたい場所はどこですか?」
私はしばらく考え込んだ。私はどこに行こうとしていたのだろう。ここはどこだろう。なぜ私はここにいるのだろう。
ただ立ちつくす私は、少女の暗い瞳を見つめるしかなかった。
「××××へ行こうと思っていたのではないですか?」
解答を出したのは少女だった。その言葉を聞いてようやく、わたしは自分の役割を知った。そうだ。私はそこに行こうとしていたのだ。どうして忘れていたのだろう。こんなに重要な事柄を、私が生きて存在するその意義を。
忘れてはいけないことだったはずなのに。
「では、もういいですね」
少女は嬉しそうに微笑んだ。私は頷いて、彼女に感謝の言葉を述べた。
「さようなら」
少女は消えて、私は残された。彼女は彼女の場所へと戻ったのだろう。私が私の場所へ戻ろうとしているように。
空から白いものが落ちてきた。たくさんの、小さな、不安定な、水の結晶。それらは地表に落ちて消えゆく。
時空に溢れている奇蹟の一つだった。この世界には奇蹟がありふれている。私はずっと立ち止まっていた。時間の経過は意味をなさなくなっていた。
綿を連ねるような奇蹟は後から後から降り続く。
これを私の名前としよう。
そう思い、思ったことで私は幽霊でなくなった。
その時まで、私は一人ではなかった。多くの私がいる。集合の中に私もいた。
氷のように共にいた仲間たちは、そのうち水のように広がり、ついには蒸気のように拡散した。
その蒸気の一粒子が私だった。
私はどこにでも行くことが出来た。様々な場所に行き、様々なものを見た。しかし私は学ばない。見るだけの行為。それだけが私に許された機能だ。
長い間、私はそうしていた。時間は無意味。偽りの世界ではすべての現象は意味を持たない。
しかし、やがて私は見つけた。存在の証明。
物質と物質は引きつけ合う。それは正しいこと。私が引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ。
光と闇と矛盾と常識。私は出会い、それぞれと交わった。私にその機能はないが、そうしてもよいかもしれないことだった。
仮に許されるなら、私はそうするだろう。
待ち続ける私に、奇蹟は降りかかるだろうか。
ほんのちっぽけな奇蹟。
その部屋には黒い棺桶が置いてあった。他には何もない。
暗い部屋の真ん中にある棺桶の上に、一人の男が座っていた。
「こんにちは」
彼は私に言う。笑っていた。
こんにちは。
私も彼に言う。私の表情はわからない。
私が経ち続けていると、男の後ろに白い布が舞い降りた。闇の中、その布は淡い光に包まれていた。
「遅れてしまいました」
白い布が言った。それは、白く大きな布を被った人間だった。目に当たるところが丸く切り取られ、黒い瞳が私を見ている。
中にいるのは少女のようだった。声で解った。
男が低い声で笑った。
「発表会はまだ始まっていません」
男は棺桶の上から動かない。
「まだ、時間はあります」
発表会。
私は思い出そうとする。私はここで何を発表するのだろう。焦る。思い出せない。
「時間はあるのです」
男は言う。私に微笑んでいる。白い少女のオバケは楽しそうに舞っていた。
「待ちましょう。あなたが思い出すまで」
少女は言う。私は黒い棺桶を見つめた。
一つだけ、私は目的を覚えていた。
私の居場所は棺桶の中だった。
私はそこから出て、再びそこに戻るために帰ってきたのだ。棺桶には男が腰掛けている。彼が立ち退かないと、私はそこに入れない。
しかし私には発表することもない。発表会に参加する資格はないのだ。
男は低い声で歌い始めた。白い布の舞に合わせるように。
彼が立ち退かないと、私はそこに入れない。
読み終えたとき、わたしの身体は震えていた。発するべき言葉も、するべき動作もない。疑念と驚きと悲しさと寂しさがわたしの中に同居していた。激しい感情。その感情までも知らず知らず押さえつけてしまう自分を思うと、ますますみじめになった。
空から白いものが落ちてきた。たくさんの、小さな、不安定な、水の結晶。
これを私の名前としよう。
雪。音もなく落ちて消えゆくもの。白くて神秘的な水のカタチ。
最初の部分を読み返して、わたしが今まで誰のどんな物語を綴っていたのかがようやく解った。部室で『私』は幽霊だ宇宙人だと想像を膨らませていた自分が馬鹿らしい。
確かにある意味ではわたしの予想は当たっていた。
彼女は宇宙人だった。しかも個体名まで解っている。長門雪、いや、長門有希。それが彼女の名前だった。
わたしの心が、精神が、手足が、頭までもがぽろぽろとこぼれ落ちていく。触れば壊れる砂の人形のように。やがてそれはわたしの存在までをも蝕んだ。わたしはわたしという唯一無二の個体としてこの世にいることすら許されなかったのだ。
彼女――つまり彼の世界の『わたし』なしには。
わたしが自らの存在を証明できるもの。それこそが文章を書くという作業そのものだった。わたしから生まれてくるオリジナルの文。内部から、心から、本能から湯水のようにふつふつと湧き出るアイデア。それは次第に集まりをつくって形をなし、精緻なつくりを持った物語となる。物語こそがわたし自身で、わたしの化身だった。
今度もそうだと思っていた。
おとといの朝に書き始めた物語。奇妙な感覚。本能から湧き出る文章。まるで最初から用意されていた物語だったかのように、わたしの執筆は早いペースで進んだ。
そうなのだ。この物語は、最初から用意されていたものだった。わたしがわたし自身だと信じ込んで書いた文章すらも、実はわたしなんかではないとんだ虚構で、しかも正体は『わたし』だった。雪と有希。最初から『私』というのは宇宙人ではないかと思っていたが、その部分を読んだときにようやく解った。『私』は『わたし』だったのだ。わたしは『わたし』の物語を自分のものだと思って書いていただけだった。
それはわたしの存在証明になるどころか、わたしは唯一のものではなく『わたし』に帰属する存在なのだと証明してしまった。とんだ皮肉だ。
ああ、わたしが崩れていく。腕が消え、胴体が吹き飛ばされ、最後に残った瞳も朽ち果てる。砂上の楼閣のように、風に吹かれて脆くも消え去ってしまう。
彼女に対する激しい憎悪と嫉妬は、いつしか姿を変えてわたしに向く刃となっていた。わたしはひとり追いつめられ、誰も知らないまま消滅していく。
冷たいものが頬を伝った。喉がひくひくと震えている。
手の甲でこすると、それはきらきらと輝いていた。こすってもこすっても止まらない。身体の機能までおかしくなってしまったのかもしれない。こんなものが出てくることは、かつて一度たりともなかったのに。
わたしはしばらく何の言葉も発することができなかった。嗚咽すらない。灰色の街を透かして、窓ガラスに映るわたしの顔は愕然としていた。
視界がぼやけた。パソコンに表示された文字も歪む。
流れているのが真っ赤な血ならよかったのに、と思う。真っ赤な血がとめどなく流れ出し、服を赤で汚し、手を朱色に染めていく。そして意識を失って倒れ、消えてなくなりたい。それができたらどんなにいいだろう。
しかし現実は非情だった。そう簡単には死なせてくれない。
透明な液体がこぼれる。
わたしは泣いていた。
*
意識が戻ってきた。今まで黒い海だった場所はマンションの一室に姿を変える。
午前四時十一分。
時間がない。わたしの意識はみるみる遠のいていく。
もはや、今の彼女との会話を思い返す余裕すらなかった。
わたしはあなたがうらやましい。わたしとあなたが同じ一個体だったらよかった。わたしは彼女にそれを言いたかったのだ。
もしわたしが人間だったら、わたしは彼女のようになれたのだろうか。本を読み、物語を綴る静かな文芸部員に。
どちらがいい、という問題ではない。それを比較することは意味のないことかもしれない。望んだところで、わたしにそれが与えられることはない。
でも、彼女のようになれたら。
彼女は言った。すべての自由が与えられたとき、あなたは誰と一緒にいることを選ぶのか。彼と一緒にいることを選ぶのか、と。わたしは答えた。そうするかもしれない。
実際はどうだろう。頭の中ではそうだと思っていても現実になると違うこともある。もし仮に、わたしに選ぶことが許されるのだったら、わたしは誰を選ぶのだろうか。それともひとりでいることを選ぶのか。
いや、その仮定も意味のないことだ。
意識が薄れていく。わたしの身体を異質なものが支配していくのが解る。白い絵の具に黒が侵入してきたように、白はみるみる黒へと姿を変えていく。
わたしは来るべき最後の時間に向けて彼に意識を集中させた。彼はまだ自宅で眠っている。世界が変わる際に、彼の記憶を最低限として、他にも栞やパソコンにこちらの世界の痕跡を残さなければならなかった。
たまり続けたエラーデータ。バグ。やはりわたしの力ではどうしようもなかった。今にもわたしは自意識を失いそうになっている。集中していなければ次の瞬間にもわたしはエラーデータに支配された世界改変者になってしまう。
三年前から決まっていたことだった。十二月十八日午前四時二十三分。その時間にわたしは世界を変えてしまうのだ。改変された世界の『わたし』は、ついさっきの空間で会ったようなまったく別の存在になってしまっている。
そもそもなぜこんなことになるのだろう。どうしてわたしの意識がなくなり世界を改変してしまうのか。
エラーデータ。
それが原因だ。ところが、三年間考え続けても、どこでそんな大量のエラーが発生しているのかは依然として不明だった。わたしは狂ってしまうと解りながらも、三年間、ただ時が過ぎるのに身を任せるしかなかった。
わたしが消える。
次の瞬間、わたしの視界がブラックアウトした。さっきまでいた空間のように途方もない黒が部屋を支配して、まともに立っている感覚すらなくなる。
頭に、わたしの部屋が、街が、眼鏡が、彼の顔が次々と去来してまぜこぜになった。もうこれ以上は持たない。抵抗の余地もない。世界は午前四時二十三分、予定通り改変される。
膨大な量の情報の波がきた。エラーデータ。だめだ。処理しきれない。
音が消え、光が消える。かすかに残っている意識も思考を受け付けない。その意識すらもろうそくの火が消えるように、静かに最後の時を迎えるのだ。
午前四時十二分――。
わたしの意識が消失した。
*