二人のために用意されたステージは、雪の中に浮き出た木造りの円形の踏み台だった。粉雪は、公園内の遊具の殆どを穢れのない白に沈めてしまっていた。浅い雪が絨毯のように敷かれた土台の上に、古泉は真っ先に足を掛けてよじ登り、次いで長門を引き上げた。
すっくと台の上で立ち上がり、地上よりも一段上となった場所から見渡した世界にあったものは、穏やかに降り積もり続ける氷の結晶と、白濁した空模様と、冷たさを湛えすぎたためにこの上ない無色である鋭利な寒風。それがすべてだった。
薄い雪を踏みしめた足を動かすと、シャーベットをスプーンで掬い取ったときのような、心地いい音が耳に跳ね返る。
一歩を踏み出したところで立ち止まり、古泉は綺麗に靴を模写した、白い下地にかたどられた己の足跡を振り返って眺めた。長門は動かず、やはり無言で、古泉の靴跡を眺めていた。

この広場から突き出たような円い壇の上で、ちょっとした演奏会や寸劇が行われていたことを古泉は知っていた。野外ライブのようなもので、勿論お金を観客に請求することはない。
ボランティアの同好の士によって披露されたカルテットや、元サーカス団員であったという老人のくりだすパントマイムや、アマチュアの歌劇団で日々発声練習を欠かさずにいる小さなソプラノ歌手のアマリリスの歌唱などが、ここではある日は賑やかに、ある日は粛々と執り行なわれていた。友人たちと遊ぶためにこの公園を訪れた子供たちや、同伴の親御さんが、そんな彼らのパフォーマンスに拍手を送る観衆だった。
今では遠い昔のようだったが――古泉自身も、そんな観客席の一人に混じっていたこともあったのだ。転校する前のことだった。
閉鎖空間の処理のために、実家と震源地を往復する毎日を送っていた頃、偶然にこの公園を見つけたのだ。
学校を早退しなければならず、なおかつ神人狩りを終えてから空いてしまった手持ち無沙汰な時間を、この公園で潰すことは多かった。
自宅で両親に気まずい顔をされるよりも、ここで日替わりに行われるイベントに、何も知らない無知な子供のようなふりをして興じている方が、古泉にとってはずっと利口な選択というものだった。

古泉は視線をさりげなく持ち上げて、俯いて古泉の足跡を見つめている長門を見た。何を感じているようにも見えない。
白い無表情は染みも淀みも何一つない、ステンドグラスから注いだ一番最初の光に喩えるような美しさで、ただ、酷く似合っていた。雪が舞い落ちる世界に、長門有希は何者よりも遥かにふさわしかった。
古泉は再び、長門から目線を外した。代わりに、公園の敷地内の一角へ指を差す。長門がつられて顔を上げる気配がしたので、古泉は小さく笑みを浮かべた。


「あの周辺には以前は噴水があったんですよ。子どもが誤って落ちてしまってから、撤去されたんです。 ――それから向こうには、今は見えませんが花壇があります。春にはとりわけ美しい花を咲かせるんです。それから、」
指先を移す。反対の角地。
「あそこに、四年前には樹がありました。大きくなりすぎたので、切り倒されてしまったようですが。瑞々しく葉を茂らせていて、あの木陰で休むのは気持ちが良かったんでしょうね。 夏場には遊びつかれた子どもが、よく転寝をしていました」
なくなった樹の代わりに、そこには真新しい滑り台が取り付けられた。今は雪のシートを被せられて、何があるのか判然としないが、古泉にとってはそちらのほうが都合が良かった。
見上げるほどの巨躯を誇っていた、公園のシンボルのような大樹を思い描くのに、設置されたばかりの金属の遊具は、古泉には無粋なもののように思われた。

「――あなたも」
長門が不意に言った。古泉は、唐突に放たれた、その端的な言葉を聞き漏らさず、拾うことができたことを密かに喜んだ。
「そうですね。『彼』の膝は、夏場にも、とても涼しかったですから。眠りはしませんでしたが、居場所を借りはしました。 読書をしたり、その日の音楽――ここを活動場にしている見ず知らずの音楽家たちの、気まぐれの演奏に、耳を傾けたりもしましたね」
「……そう」
「ですが、四年前の話です。ここではもう、演奏会も何も行われてはいない。あの光景は、僕と、……僕以外に、この公園にいた誰かの記憶の中だけのものでしかありません」
近場でよくない事件があったらしいと聞いた。物騒な、血腥い類の。そして、外出を嫌った親たちは子どもと野外に出るのを控えるようになり、自然、公園は廃れていった。ここを住処のようにしていたパフォーマーたちもまた、観客のいないステージにわざわざ上がりに訪れたりはしなかった。ささやかな芸術家たちのアトリエ、子どもたちの一時の愉しみはそうして潰えた。

すっかり寂れた広場は、近々大掛かりな改修をする予定になっていた。真新しい滑り台も、その作業の一環だった。工事が終われば古泉の過ごしたこの地は、恐らく、原型を殆ど留めることなく生まれ変わるだろう。
それを知って、すべてが変わる前に、もう一度だけこの場を訪ねておきたいと考えたのが古泉で、同行を申し出たのが長門だった。
不思議探索の合間を縫っての、短いエスケープ。乗り気な長門に古泉は少なからず驚いたが、長門は淡々と返すだけだった。「興味がある」、と。
 
 
 

 

 
積雪はよりいっそう、その体積を増やしていった。もはや古泉も長門も、頭から肩にかけてその白さを多く纏わりつかせていた。冷気だけで凍りつくような肌寒さだというのに、雪に直に触れた膚は更にじんわりと冷えていった。
ジャケットの下に忍ばせてあった折り畳み傘もあったのだが、古泉も長門も、雪から身を護ることを敢えて選ぼうとしなかった。
雪に呑み込まれたら、己の身体も一緒に氷に同化し、崩れ落ち、溶け合って流れていくのではないかという錯覚さえ覚えるほどに。積もる雪に重みはなく、身体は凍り付いていくのに不快感はない。
それは隣に立つ少女が、余りにもこの雪に近しく見えるからかもしれないと、古泉は空想家のように考えて、口元を綻ばせた。

「あなたがここで最後に見たものは、なに」
長門が問う。今度は明確に、問い掛けだった。
息を漏らした拍子に、白い息がふわりと漂い消える。古泉はいつかの光景を再生しながら、思い出した端から言葉を吐き出した。かじかむ指を擦り合わせるように合わせて、笑みを落とす。
「僕がここで最後に見たのは、劇でした。季節は冬。まだ雪が降る前で、肌寒くなってきたころ……落ち葉が、たくさん敷かれた上で。あの日はまだお昼前で、子供たちのあまり居ない時間帯でした。僕はかつてあった、あの樹の根元に腰掛けていたんです。この舞台上には、地元の大学サークルの、劇団員が二人居ました。すぐ傍で、音響係がカセットテープをかけて、古めかしい音楽が公園を満たした……」

――あれは多分、御伽噺をモチーフにしたラブストーリーだったと、古泉は思い返す。どんな物語だったかまでは記憶にない。
観ている途中で機関から呼び出しを受けて、途中退場をせざるを得なかったから。
覚えているのは、向かい合った二人。女性が進み出て、何事かを告白した。
男性は微笑み、女性を包み込むように腕の中に抱いて……きっと物語のクライマックスシーンだったのだろうが、古泉は公園から出る間際に、ちらりとその姿を掠め見ただけだった。

記憶にかろうじてある劇の内容まで話し終えた古泉は、ふと長門を見下ろした。おあつらえむきに、男女二人が今、舞台の上で向かい合っている。
古泉にそれを口走らせたのは、彼の好奇心と、彼の友人からは度々「お前の冗談は冗談に聞こえん」と愚痴られはするけれども、彼としてはやはり冗談でしかない、そういったジョークを愛する心だった。
遡って誓えといわれたなら、彼はこのとき、幾らでも誓っただろう。この提案に、他意など決してなかったのだと。

「あの日の恋劇を再現してみせるとしたら、ですが。――長門さんはあのラブストーリーのヒロインが、どんな言葉でヒーローに告白したと思いますか?」
「………」 

長門が回答を用意してくれるとは、そもそも古泉も考えていない。古泉が長門に洒落を効かして渡した言葉が、返された試しは殆どないと言ってよかった。そして、それでよかった。誇張でも虚勢でもなく。
古泉は長門に言葉を投げ掛ける。長門は返すべき言葉のみを選んで古泉に表現する。古泉はそれを、笑って受け取る。
他愛もないそんな短いやり取りで、古泉は不思議と満たされた。単純な、決して流れの速くない、お互いのペースを守った掛け合いが、古泉は好きだった。
長門の関心を引く事柄が、どんな些細なきっかけで姿を現すかもしれないと思うと、幾ら返事が貰えずとも、自分からあらゆる言葉を彼女に送る行為のことは、止めようとは思わなかった。


だからその古泉の言葉も。本来ならば、長門に流されてそれでお仕舞いになるはずの、初めから不遇に終わることの分かりきった一言に過ぎなかった。

予定調和が覆された瞬間は、恐らく、この公園で見たあらゆる劇作を超えるもの。古泉は息を呑んだ。
――長門有希の唇が、動いた。


「強引な手を使っても、わたしはあなたを手に入れるだろう」


長門は真っ直ぐに古泉を見上げていた。そこには、何の羞恥も、躊躇いも、浮かんではいなかった。あるのは水に差し込んだような、揺らめく光を閉じ込めた奥行きの見えない瞳だけだ。
古泉は驚きのあまりに声をなくし、長門を見つめた。
長門の台詞はいつかの、映画での「悪い魔法使い」の台詞だ。秀逸な出来と判子を押すのは憚られるような構成の、それでも皆がそれぞれに何とか役割をまっとうして、どうにか日の目を見た映像作品。
古泉が最初に思ったのは、これは長門が長門有希なりに編み出した「ユニーク」な洒落に違いない、ということであり、あの映画で俳優役であり、今舞台上での俳優役でもある古泉に投げかけるものとしては、この上なく適切なプロポーズだという感嘆だった。
長門がその台詞をチョイスしたことに対する深読みは、当然のようにしなかった。
ほう、と息を吐いた古泉は、微笑をより穏やかなものにした。
 
 
「強引な手とはなんでしょうか」
 
 
雪の降る世界で、客席には誰もいない二人だけの舞台の上で。俳優も女優も一人ずつの、タイトルも何もない即興劇の上演中、古泉が長門を試すように口にしたやり取りの続きを、長門は行動で示した。
棒立ちになっていた脚が急に踏み出され、隔てていた距離が縮まる。長門の腕が古泉の背に回され、柔らかな感触が古泉の胸に、冷えた体温を押し付けた。
抵抗の間もなかった。あったとしても、動けはしなかったろうし、しようという気が起きたかも怪しい。 ――ここで見た劇では、抱きしめるのは確か、男性の側からだった筈なのだけれどと古泉は思い、数秒の逡巡の後、彼もまた少女をおそるおそる抱きしめ返した。

その名ゆえにか、姿かたちゆえにか。長門有希は冬にとりわけその存在を際立たせ、古泉を無自覚に惑わす。昨年の、冬の日のように。

この公園が失われても、この日のことを忘れることは出来ないだろう。もう、心ごと焼きついてしまった。
彼女に他意はない。これはきっと、僕の提案に、彼女が興味を示して「乗って」くれた、それだけの話なのだ。
古泉はそう思うことで心を落ち着かせようとしたが、冷え切った身体とは裏腹に、胸は呼吸が苦しくなるほどどんどん熱くなっていった。
 
 
 
 


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