廊下にて


寝室の奥から聞こえる涼宮ハルヒの着替えの音。
ドアに耳を付け、聞き入る、とある人物の影。
クリーニングロット(楽器の中の部分を掃除するための棒)を寝室に置き忘れたので、わたしは少し離れたところで、彼女の着替え待ちをしている。

その人物に警告はしない。彼の運命は、既に予想できているから。

「ふっふっふ…キミは確か谷口くんとやら」

そう、ここでまず佐々木さんに見つかる。そして、羽交い締めにされる。

「WAWAWA…もう少し胸があったら気持ちいいのに、まったくもったいないぜ…」
これは予想外の言葉。わたしとしては到底(とうてい)容認できず、それは彼女も同じはず。

 

彼女の雰囲気が一気に黒くなる。

 

「涼宮さ~ん、のぞきです!」

ドアが開き、わたしたちの団長…涼宮ハルヒが部屋から出てくる。
無論、表情はやや黒みがかっている。

「佐々木さん、どうする、この男」
「腹に思いっきり跳び蹴りでお願いします」
その人物はすぐに慌てた顔になると、私に気づき、言う。

「助けてくれぇ…ええと、長門有希…さん、胸がないからAマイナー」
やがて予想以上の、とても、とても、とても大きな悲鳴が響く。

 


始まる。

 


Ekaterina(エカチェリーナ・ロシアでの女性の一般的な名前)

 

ここはわたし、長門有希のマンション。いろいろな事情があって、ここに一人で住んでいる。 今日ここにいるのは、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹、ジョン・スミス…要するにKKK団全員と、国木田、谷口と呼ばれる人物。

涼宮ハルヒは彼に怒鳴っている。
「ねえキョン、なんでこんな奴連れてきたのよ」

わたしも無言で肯定する。彼は何でこんな人物を連れてきたのだろうか。
わたしにも一応胸はある。胸がないからAマイナーとは、失礼にもほどがある。

「まあまあ、これでも中学時代、パーカス(パーカッション・打楽器の総称)だったんだよ。腕は悪くないと思うんだけどなぁ」
ベースのピックを持った国木田…くん付けはするべきだろう。楽器はベースである。見た目、谷口…くんよりはまともそうだ。

国木田くんは佐々木さんを見つめ、へぇ~と言ってから

「佐々木さん、お久しぶり。『神童』から『神』って言われるまでに成長してるみたいだね」
「どうも。転校先ではジョンと一緒によくお世話になったね」

佐々木さんはちょっと笑う。

そして、谷口くんは佐々木さんをのぞき込むと
「これが『神童』の現物かぁ…写真で見たところ、もう少し胸があったように見…」
「涼宮さん、腹に思いっきり跳び蹴りでお願いします」

皆が笑う。わたしもぎこちなく笑う。
彼らはわたしを『復活』させるために集まってくれた。本当に、ありがたいことだと思う。  


師匠

 

佐々木さんは朝比奈さんを見つつ言う。

「師匠…こんなわたしたちですが、どうか笑わないでください」
「だから、師匠はやめてくださいぃ~」

わたしと佐々木さんは、朝比奈みくるを師匠と呼ぶことにした。
彼女は『音楽を使ってストレス発散』というすばらしい技術を編み出している。
『音楽のストレス発散』であった私たちにとって、これは暗闇の一筋の光に等しかった。

彼女は、心の闇を音楽にすることができる。
わたしたちにも表現力が無いわけではないが、まだまだ彼女の黒さにはかなわない。

「持ち替えもできません…『神』様に師匠といわれたら、重圧であたし…」

例の微笑み。

「…もっと黒くなっちゃいますぅ!」

通称、悪魔の微笑み。この状態の彼女にピアノを触らせると、即席でロシアンルーレットの雰囲気が楽しめる。  

 

朝比奈みくるは、わたしの楽器防音室に入ると、ピアノに触る。
 
曲目『幻想即興曲』

         ショパン 作

この雰囲気の良い曲も、悪魔の微笑みの手にかかれば、初犯による暗黒殺人曲へと変わる。

周りを見回す。皆、無言。
わたし含め、皆が闇に浸食されないうちに…わたしは立ち上がると、防音室の大きな扉を閉めた。

そこに存在する人達はまさに水を得た魚ならぬ、空気を得た人間となる。
涼宮ハルヒ…普段師匠を空気とか言ってるくせに、朝比奈みくるの音がなくなったとたん、口をパクパクさせるとは。

佐々木さんはあたしを見つめ、
「あなたとはこれから、同じ師匠の、仲間ね」


微笑んで、言う。
「もう一度…」

わたしも、ぎこちなく笑って、言う。
「あなたと…」

 


 

 


横で『これは良い百合』と言っている谷口…くん。
しかしながら、この部屋には百合はない。とても不思議なこと。

バラならば窓に何本か刺してあるのだが、このことを指しているのだろうか。
気に入ったなら、これ、あげる。

「よかったら…」

谷口…氏と、ついでに彼にバラを差し出す。
それを見て、涼宮ハルヒは驚きあきれたような顔をする。その顔のまま

「有希って、意外に切り返しがうまいのね…」

と、言う。まったく意味が分からない。

このなかで一番わたしを分かってくれそうな彼と話したい気分でもある。後で彼にどういう意味か聞いてみることにする。
涼宮ハルヒはギターを持つとき、何故バニーガールに着替えるのだろうか、それもついでに聞いてみようと思う。

(※百合と薔薇(バラ):それぞれ女性と男性の同性愛をさす)

 


 

その後、皆は防音室のなかで…

「じゃあ、今度はこの曲でどうかなぁ」 
 「お、アニソン以外に何か見つけたのか?」
  「アニソンでダメなら、ギャルゲの曲でいかがでしょうか」
 「即却下だ却下!」

こんな会話をしつつ、音を鳴らしていた。普段この場所は静かなだけに、賑やかで楽しいと思う。

 

ところで、演奏する曲は決まっているのだろうか。演奏会場は?日時は?

ギターを持った涼宮ハルヒに聞くと
 「ええと、集まってもらったのは良いけど、まだ何も決まってないのよね…」
と言う。それを聞き、すかさず彼が
 「見切り発車か!」
とつっこむ。

 『やれやれ…』
先は遠い。

しかし…ギャルゲ氏は、最近の音楽家なのだろうか。少なくともクラシックの作曲家でないことだけは確かである。

 

 


 

 

こんなにも高いところで

 

彼を呼び出す方法は前回と同じ要領である。皆が去るのを確認してから、彼の後を追いかける。
お茶を出し、話を聞いてもらう。

わたしが百合と薔薇(ばら)の真実に赤面し、作曲家・ギャルゲ氏の真の姿に戸惑い、涼宮ハルヒの思わぬ『萌え要素理論』に少しあきれたり…

話が一段落したのち、彼は姿勢を正した。

「お前、ハルヒの親友…なんだよな」
KKK団の規約もあるが、両方が親友と見ているのは確かにわたしだけ。

「ならば聞いていいか」
無言で肯定。

「少し前に同じパートの人間から知ったんだが…ハルヒは何であの後、楽屋に殴り込みにいったんだ?」
言うまでもない。涼宮ハルヒがあなたを気に入ったから。

「そんな価値のある人間か、俺は…
俺にはお前みたいな天才的何かを持っていたり、朝比奈さんみたいに空気をよくしたり、古泉みたいにイケメンだったりする訳じゃない。ただただ音楽をやっていたいオタクなダメ人間だ。ああ、そうだとも。俺自身に価値のあるすごい設定があるわけじゃない」
そう。
わたしは口を押さえ、くくっと笑う。ただのオタクなダメ人間がトランペットで天才的音楽家と共演しているわけがない。

「三年前のあれは無理矢理だ…それにほとんど吹けなかったじゃないか」
アマチュアのあなたが佐々木さんの演奏についていこうとしただけでもすごいこと。

「そうなのか?」
そう。
あのとき、あなたが万一、わたしと同じく違和感なく佐々木さんと合わせることができたなら、プロという職業はこの地球上に存在しない。


「…普段よりもやたらと上目線のような気がするんだが、長門」
わたしは笑い、彼も笑う。

いつもは彼が少し高い位置にいる。だから、今回ばかりは私がこの位置にあってもいいと思う。


 

プロフェッショナル・プレーヤーとして

わたしはお茶のお代わりを作ろうとして、台所へ急ぐ。

 

四分音符=60で180拍目…要するに三分…を数え終わったちょうどその時、ヤカンは沸騰を始めた。 このお湯を、体内時計を使って80度までさましてから、急須に注ぐ。このお茶は、きっとおいしい。

「俺はプロ・ミュージシャンという人種がいまいち理解ができない」
彼は残りのお茶を一気飲みしつつ、
「佐々木がテンポが合わないくらいで自分の身体を壊した理由とか、お前がウォームアップなんかで焦ってた理由とかだ」
と述べ立てる。

「そう」
わたしは彼にお茶を注いでから、少し溜息をつく。諭すように説明を始める。

「あなたが、不特定多数の大衆の前で演説をすると仮定する」

あなたは悩み、苦しみ、焦り、練習をするだろう。
絶対に大衆に伝わるように、絶対に間違えないように。

 


そのためなら何でもするはず。



「この仮定に付加して、もしあなたが大統領だったら」

あなたの演説は世界を動かしてしまう。あなたの間違えは記録され、沢山の人に伝えられ、笑いものにされる。 だからでこそ、その重圧は普通の人には絶対に理解できないほど、大きく、重いはず。

「佐々木さんも、そう」

演説の『説』の字を『奏』に変え、大統領を『神』に変えたら、それはそのまま彼女に当てはまる。
そうだからでこそ、日々の練習は壮絶。人間としても、女性としても様々なものを捨てなければならない。

例として、人と楽器によっては、女性なのにほとんど胸が無くなる。腹筋を鍛えるための筋肉トレーニングや、肺活量を増やすための特殊なウォームアップがたたってしまうのである。

佐々木さんはそのような理由で胸が全くない。彼女ほどではないが、わたしも同じ理由で胸がほとんど無い。

「あの佐々木が…お前もか。音楽のためだけに腹筋を鍛えているとか、なんかいろいろと、にわかには信じられないが…」
信じないなら、論より証拠。わたしのプロとしての実力を、あなたに見せることができればよい。

「わたしの後ろへ…」
わたしは正座を正すと、後ろから手を回して腹部をできる限り強く引っ張るように言う。
彼は少し驚きつつ、わたしの指示に従う。少し息が苦しくなる。

「おい、大丈夫か?腹になにか触ってると、俺はlow-B(※)も出せそうにないのだが…」
(※low-B:低い方のトランペットのド。一番出しやすい音のひとつ)

「へいき」
わたしは強めに息を吸い込み、

「腹部を圧迫された状態でも、あなたくらいの腕力ならば、これくらいは吹ける」
フルートに息を吹き込む。

 


 

神・4


曲目『牧神の午後への前奏曲』・フルート独奏版
            ドビュッシー     

 

 


『あなたは神様。気まぐれで、とても罪深い神様』

彼に聞いてもらえる。だから、彼にわたしの努力の全てを見てもらおう。
わたしの表現力の全てを注ぐ。どんなときよりも、ずっと想いを込めて。

 

 

 
『あなたはわたしたちを見つけた。とても、とても純粋な、ある意味で何も知らないわたしたちを』

腹にかかっていた手からだんだんと力が抜けていく。彼の頭が、わたしの肩にかかる。

私のフルートは清澄に、情景を紡いでいく。

美しく、きれいな草原。
けだるい風の中で眠っている、妖精達の美しい姿。

 


『あなたはわたしたちのもつれた手足を解きほぐすことなくそのまま抱き捕らえ、薔薇(ばら)の花がその香気を日ざしの中で発散しているこの場所へと馳せつける…』


窓辺に置いてある薔薇(ばら)の花。月の光。
   彼の視線はそちらへと向き、やがて、とぎれる。
  後ろから緩やかに抱くような姿勢。かすかに聞こえる、彼の息と、心臓の鼓動。

 

 

『でも、あなたの罪はわたしたちの乱れたもつれを壊す。わたしたちは脇をすり抜け、逃げる』

ごめんなさい。団長さん、佐々木さん。
今夜だけは、彼はわたしのもの。

『わたしは夢に恋しているのだろうか』

音楽よ、今夜、この瞬間だけは女でいさせて。


 
この前奏曲の音楽は,ステファヌ・マラルメの美しい詩をきわめて自由に絵解きしたものである。その総括だなぞと言うつもりは,さらさら無い。 むしろ一連の背景であって,それらをよぎって半獣神のさまざまな欲望と夢が,午後の熱気のなかを動きまわるのである。 それから,おそれて逃げるナンフ,ナイヤードたちを追いまわすのに疲れて,半獣神は陶然とするような睡りに身をまかせてしまう。 普遍の自然のなかですべてがわがものになるという,ついには実現されるだろう夢に満ちて

- ドビュッシー自身による『牧神の午後への前奏曲』曲目案内文 -

 

ブレーク


ぴん、ぽーんーーーー




永劫に続きそうな沈黙を破壊したのは、インターホンのベルだった。突然の音にわたしは座ったまま宙に浮きそうなくらい驚く。 彼もおそらく驚いただろう。

わたしはビクッと身体を震わせて玄関へと振り向く。

再びベルの音。来訪者…?わたしの部屋を訪ねてくるような人…ええと、だれだろう。集金人、宅配業者以外…?
わたしはゆっくり立ち上がり、足音を立てずに部屋の壁際に移動する。インターホンのパネルを操作して、何者かの声に耳を傾ける。

「ほらほら、涼子よ!おでん持ってきたわ」
…朝倉…涼子と

「考えたら泊まる場所がなかったの。済まないけど、お願い」
佐々木さんだった。

彼を振り返って見る。これはちょっと困った。

「でも……」 とか
「いまは……」 とか…

断ろうと少しは努力したが、所詮二人対一人、多勢に無勢、入れるしかないようだ。

「待ってて」

呟くと、すうっと玄関まで行ってドアの鍵を開けた。

 

「あら?」

 扉を肩で押しのけるようにして入ってきた朝倉さんは彼をみると、
「なぜ、あなたがここにいるの? 不思議ね。長門さんが男の子を連れてくるなんて」

両手で鍋を掲げ持った北高の制服姿は、鍋を頭にのせて、器用に靴を脱いでいる。
一方、佐々木さんは…

「まさか、ムリヤリ押しかけたんじゃないだろうな、ジョン・スミス」

…予想通り、表情が黒い。

「お前たちこそ、なんだってここにまで登場するんだ。とくに朝倉、教室と楽器室以外でお前の顔を見るなんて、想定外だったぜ」
「わたしはボランティアみたいなものよ。あなたがいることのほうが意外だな」

言葉は柔らかいが、堅くにらみ合う二人。やっぱり仲がよろしくないのだろうか…少し悲しい。

 


 

 

飛びそうにない音

 


佐々木さんは防音室を見回して、ぼそっと言う。
「この部屋にはメトロノームがない」

…メトロノーム。テンポを示すもの。 確かにわたしにはあまり必要ない。

あまり早いものは無理だが、テンポ90と言われればその通りにテンポを刻める。

機械式のメトロノームのほうがかえって不正確な場合もある。だからわたしはメトロノームを持たない。 確認以外にメトロノームを使うこともない。

「だけど、わたしには必要よ」
佐々木さんは一気に不安そうな顔になる。
でも、きっと大丈夫。

「あなたにできないことを、わたしがやるから…」

わたしは少し微笑んで、防音室に入る。

 

 

三十分後 

 


佐々木さんは自暴自棄になっていた。
「リズム感がないあたしなんて用済みなんだわ!」

だめ、そんなことをしたらクラリネットが割れる。あなたのクラリネットは高級品で、確か百万円程度する。
クラリネットは乾燥しただけで割れるもろいものだとあなたも知っているはず。

わたしの眼鏡が佐々木さんの手に引っかかる。わたしは転び、その拍子に、防音室の扉が開く。
「長門さんっ…畜生、離せ!」

引っかかった眼鏡は、防音室の地面に落ち、割れた。
「ごめんなさい」

佐々木さんの口に、わたしが使っていた睡眠薬を投げ入れる。すぐに彼女の身体から力が抜ける。

彼女はただのプロではない。『女性』でもない。胸もないし、腹筋はあるし。そもそも青春なんてものはない。

わたしみたいな、もう引退してしまった人間とは違う。『神』と呼ばれる重圧は、わたしとは比べものにならない。

わたしはうめくように言う。
「あなたにできないことを、わたしがやるから…」

 

そのまま、佐々木さんは倒れる。
ピアノ、フルート、トランペット…いろいろな楽器が見つめる、わたしの防音室の、その真ん中で。

騒ぎを聞きつけ、彼と朝倉さんが防音室に入ってくる。

「何故だ。佐々木、長門…何故、そんな言葉を吐く。俺が知っているお前達は…」

よろよろと彼の元へ。ゆっくりと抱きつく。彼が髪を撫でてくれる。
つかの間の安心の中で、わたしは考えていた…

 


『わたしは、こんな場所に戻るのだろうか』

 


 

 師匠の教え

 



ギ~…

 

玄関のドアが開く。

 

 


アーミーナイフを持った朝倉涼子と、彼女に脅されるような形で抱きかかえられている師匠。
「ごめんなさい。遅れちゃった! 捕まえるのに手間取っちゃって…」
朝倉涼子はナイフを挨拶のように振る。

「なんなんですかー?」

 師匠は気の毒なことに半泣き状態だが、仕方がない。これは必要なことなのだ。

「長門さん、なんでわたし連れてこられたんですか、何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を、」
「黙って」

 わたしの押し殺した声に師匠はビクッとして固まった。

「話がある」

 


 

「へえぇ…で、長門さんは恐いんですかぁ」

そう、恐い。

音楽に全てを捧げてしまうのが恐い。
とはいえ、今までのわたしだってシンフォニーの調和の歯車として、指揮者の言うことに従って、音を出せるよう、完全な音が出せるように、それだけのためにがんばってきた。
わたしも十分、いろいろなものを音楽に奪われ尽くしてはいる。

でも、最近、友人ができた。親友もできた。片思いだけど、好きな人もできた…かな、と思う。 わたしはやっと人間として、女性として生活できるようになってきた。だから。

せっかく得たこんな大事なものを捨てるのは、恐い。

「なら…捨てなければいいんです」
朝比奈みくるは緊張しつつ、わたしを強く見つめる。

「アマチュアのピアノオンリー・プレーヤに言われるのも癪(しゃく)かもしれませんが、あたしの音楽論、聞いてくれます?」
わたしはうなづく。

 

「音楽は、言葉、コミュニケーションの道具、なんです」

かわいらしい栗色の髪の毛を浮き上がらせて、彼女はピアノへと歩く。
そして、椅子に座ると、『かえるの歌』を弾き始める。低音が響き、暗い雰囲気が漂う。

「じゃあ、あたしにプリンください。できれば『みるくプリン』でお願いします」
言われるがままに、わたしは冷蔵庫に向かう。なぜか都合よく二つ『みるくプリン』が入っている。

「む~ん、幸せですぅ、この幸せをあなたに伝えたいんですけど、プリンはもうないですぅ」
…持って行くやいなや、朝比奈みくるは二つ食べてしまった。わたしのプリン…

「いまから、言葉で伝えられないこの幸せを、あなたに伝えたいと思います」

座り直すとまた、『かえるの歌』を弾き始める。跳ねるようなかんじで、明るい感じ。
弾き終わると、彼女はこちらを向く。

「もちろん長門さんなら全く難なくできると思いますが、問題はあなたが楽器を使って『伝えよう』としているか否か、なんです」


…伝える。


わたしは今まで、楽譜の向こうにいる人の気持ちを伝えるために、指揮者の気持ちを伝えるために全力を尽くしてきた。 

それではいけないのだろうか。

「あなたはあたしの気持ちが分かりますかぁ?例えば…、そうそう、今あたしが食べたいもの、何でしょうか」
プリンは食べ終わったから、クレープ…?

「ぶ~!アンパーニュです!」
……?

「あんパンを発酵させてできたシャンパンです!きっと未来には存在しているでしょう!」
シャンパンは食べ物ではない。
何歩か譲って、たとえそれが食べ物だとしても、今後百年間、そんな食べ物がこの世に出回る確率は0.00パーセントである…と、わたしは確信する。

朝比奈みくるは「きっとできます」とほっぺたをふくらませてから
「他人の気持ちなんて最初っからわかりっこない。だから譜面の向こうの人さんとか、指揮者さんの気持ちを伝えるなんかよりも、一番大切なのはあなたの『伝える』気持ち、なんです」

演奏の腕はわたしよりも下かもしれない、この師匠はわたしを強く見る。

 

 

「プロでもアマでも関係ありません。みんなに伝えてください。全部は伝わらないかもしれないけど、あなたの友人のこと、親友のこと、片思いだけど、大好きな人のこと」

一息おいて、わたしの手を取る。
「伝われば、みんなが幸せをくれます。奪うだけじゃない、音楽が『与えて』くれるんです」

わたしはその師匠の手を強く握り返す。そして、一言。


「ありがとう」

 


無題・1
 
 防音室に戻ると、佐々木さんの荷物が散らばっていた。まとめておこうと拾っていく。


 白紙譜面と、「ピアノによるテンポ習得のためのエチュード※」と書かれた自作らしい練習曲の譜面と、教則本と、音楽理論の教科書。

(※エチュード:練習曲)

 

 彼女が白紙譜面に記している『対位法と和声の関係』は、それ単体で研究ができる領域にまで踏み込んでいるようである。

 

 本当によく勉強している。音大に入ったら、どこの大学でも必ず主席で卒業できるだろう。

 だいたい最後まで拾い終わったとき、『ジャズ理論入門』という本を見つけた。気になって、ぱらぱらとめくってみる。

 そして、軽い衝撃を感じる。

 

 防音室を出て、本棚へ急ぐ。図書館で借りた『詳細・ブルース理論』をめくる。
 多少の違いはあるが、かなりの部分が合致を見る。まさか…とは思うが。

 

 『初歩のロック理論』

 

 谷口氏が置いていった本を拾って読む。
 書かれていたのは、驚くべき事に、ブルースの理論そのものだった。

 ブルース、ジャズ、ロック。

 


 全く違う音楽として認識されているこれらの音楽は、実はほとんど同じ理論の上に成り立っていたのだ。

だが実際は全く違う音楽に聞こえる。なら、違うのは何だろうか。

 楽器が違うのだろうか?否。

 ピアノで弾いても、ウインドバンドで吹いても、『茶色の小瓶』という曲は茶色の小瓶という曲なのである。

 

 しばらく考えて、結論を出す。


 「きっと、伝えるものが違う」
 ブルースは静かな怒りと悲しみを、ロックは激しい怒りと叫びを、そしてジャズはささやかな喜びと幸せを。
 
 いや、でも。そんなふうにがっちり分けられるものでもないのかもしれない。そんな分類には、意味がないのかもしれない。
 考えているうちに、これらが皆、同じものに思えてくる。同じだと感じるのはなぜだろうか。
 
 ブルースバンドの飛び込みの時、わたしはどう感じたかを考えてみる。
 しばらく考えて、そして気づく。わたしはあのとき、感じたのではなく、『揺れて』いたのだ。

 人の心は常に揺れている。様々に揺れて、揺れて、揺れ続けている。だからでそこ、彼らが伝える言葉も『揺れている』のだ。


 ロックにしろジャズにしろ、ブラックミュージシャンである彼らにとって『心を伝える』というのは、その、心の揺れを伝える、ということ。

 ミュージック・オフ・スイング(揺れる音楽)こそ、その正体なのかもしれない。理論が同じなのは、言葉が同じだからではないだろうか。


 『スイング』とは、題目以前に自然な、心を伝える言葉そのものなのだ。


 
 わたしは白紙の譜面を取り出し、タイトルの欄に『スイング・スコア』作者欄に『Yuki.N』と書く。

 

 

  『自分は幽霊だ、という少女に…』


 そして、わたしの想いを書き連ねていく。

三年前から、最近まで。

友人を拒絶していた時代、人間をあきらめていた時代を。

 

 わたしは名無しの少女に出会った。そして、気づいた。

 

  『私も幽霊だったのだ』
 あのときのわたしのように。
 
  『なぜ、私はここにいるのだろう』
 わたしは、自分の中に現れた感情に悩み、怒り、戸惑った。
 
 音楽よりも、友人との『旅行』を優先させてしまう自分に。
 彼のためなら、楽器を投げ捨てるような自分に。
 
  『わたしが、生きて存在するその意義を』
 ペンは動く。落下中の雪の粒子のように揺れる、わたしの気持ちを、素直に、正直に。
 
  『この時空にあふれている奇跡の一つ』
 伝える。伝わるから。それは奇跡、といっても良いであろう。
 そう思い、思ったことでわたしは幽霊でなくなった。

 

第九章 〆 

 


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