小さい頃から一緒だった。
同じ病院で生まれて、同じ幼稚園に通って、同じ小学校に入学して、揃って卒業証書とバラの花を一輪受け取って、また同じ中学校に入った。
あいつが小学校の頃から入り始めた草野球の試合には毎回応援に行ってたし、同じクラスの、隣の席になったことだってたくさんあった。
そして、気がついたら好きになってたらしい。らしいっていうのは、あたし自身、ずっとそれに気付かなかったのだ。もっともっと話したくて、少しでもあたしを気にして欲しくて、あいつが誰かといたら少し悔しくなって、レモンみたいにすっぱい感情がぐるぐる廻ってやっと、ああ、あたしってあいつが好きなんだって気づいた。そしてそう思ったその瞬間から、あたしの心は急に焦り始めた。
まずは身なりに気をつけるようになった。薬局で売ってた、『ぷるぷる新感覚。効果長持ち!』なんてでかでかと銘打ってある、五百円もするリップクリームを買って、くるぶし丈のソックスの下には、真っ赤なペディキュアを塗った。
リップクリームが浅くなるのに比例して、なんだか自分が綺麗になった気がした。結局、二週間後にはリップクリームを無くし(消しゴムもそうだけど、あたしは何かを使いきるのってできないのだ)、ペディキュアも剥げかけてきていたけど、あたしは満足していた。
それまでには蚊の足ほどにも興味がなかったファッション雑誌を買って、『彼の気を引く方法』なんて、以前のあたしなら鳥肌ついでに身震いしたであろうページを穴が空くほど読んで、結局「どうしたの、橘さん? 今日はなんか変だね」って言われて終わった。
それでも良かった。中学一年生の夏、あたしは恋をしていた。

 

 

 
「ねえ、古泉」
既に半袖に衣替えを終えたある日の初夏。
その日、あたしにとっては決戦の日だった。遅刻寸前まで鏡と睨めっこして、体の隅々まで細心の気を配って、頭の中に大音量でゴングを鳴らし、ファイティングポーズをかまえながら家を出た。
「なに? 橘さん」
大方昨日は家に帰ってすぐゴートゥーベットだったんだろう。やりそこねたらしき数学の課題、文字式のページにシャーペンを走らせながら古泉が言う。ゆっくりと深呼吸をして、それからカレンダーに燃え上がるほどの視線を向けて明日からの三連休を再確認すると、あたしは心臓をバクバクと跳ね上がらせながら、昨日何度も練習した言葉をその通りに伝えた。
「明日、二人でどっかに出かけない?」
「明日?」
体の中の全器官が停止しちゃいそうだった。顔が真っ赤になりそうなのを、制服の黒いスカートを握りしめる手に、ありったけの力を込めながらなんとか押さえて、あたしは少し気取って「そうよ」と頷く。シワができて、お母さんにひどく怒られる事も、今は頭の中から吹っ飛んでいた。
それぐらい、あたしは必死だったのだ。
「明日は……、うん、いいよ。部活もないし」
おもわず心の中で勢いよくガッツポーズを決める。天にも昇る思いだった。おそらく変な顔をしていたであろうあたしに、古泉は短い髪をそよ風に揺らし、向日葵みたいな笑顔を見せながら言った。
「何を言われるのかと思ったけど、意外だったな。どっか行きたい所でもあるの? 荷物持ちは勘弁してよ」
「う、うるさいっ。秘密よ、ひみつ。さっさと勉強の続きでもしてなさい」
照れ隠しに古泉をこづいてから、あたしは唇を引きちぎれそうなほどぐっと噛みしめた。この期に及んでも素直になれない自分への制裁だ。片手でおでこを押さえながら、「なんなの、いきなり」と笑う古泉に、「ふんっ」と捨てゼリフを吐いてから、トイレまで駆け込み個室にカギをかけると、あたしは自分の頬を思いっきりグーで殴った。昨日鏡を見ながら、何度もシミュレーションしたのに。予定では、あそこは優しくおしとやかに女神のように清らかにふんわりと微笑むはずだったのに。

何やってんだろ、あたしは。
はぁ、と小さく溜息を吐いて、じんじんと痛むほっぺたをさすった。


その日の夕方は、きっと今世紀最大に忙しかった。
先月に美容院にいったばかりの髪を、ヘアカタログ(この前に買った雑誌の付録だ)片手に何度も結びなおし、洋服ダンスをぶちまけて、あれこれと上下を合わせてみる。お母さんには、初めて土下座した。その結果前借りできたお小遣いと、お気に入りのうさぎの貯金箱をひっくりかえし、全財産を握りしめながら靴屋さんに行った。洋楽がBGMの、洒落た店内に少し気後れしながらもぐるぐると周り、そしてふと、棚に乗せてあった金色の可愛いミュールが目に入り、四千三百七十円の値段に少し後ずさりながら、それでも負けじとそれをレジに突き出した。寝るときは、選んだ服と、六年の時に誕生日に友達にもらったハートのネックレスと、買ったばかりのミュールを並べて、約束の三時間前にアラームをセットしてベットに潜りこんだ。ドキドキしていた。幸せで、幸せすぎて、あたしはすごく浮かれていたのだ。
次の日の、朝までは。

 

 


翌朝、あたしはアラームは鳴るよりも先に起きていた。早起きに目覚めたわけでも、浮かれすぎて一睡もできなかったわけでもなく、あたし自身の異変、違和感に気づいたからだ。
――あたしがそれまでに知らなかった情報が、あたかも初めからそこに存在したようにすんなりと、あたしの頭に馴染んでいる。
「なに、これ」
佐々木さん。あたしと同い年の女の子。願望実現能力。変な空間。そして、そこに入る方法。……知らない、こんなの知らない。佐々木さんなんて子、あたしは知らないのに。でもあたしの頭は、それを知っている。なんて矛盾だ。
寝ぼけてるのかもしれない。もしかしたら、これはまだ夢の中なのかも。そう思って、思いっきり頬をつねってみたけど、ひりひりと赤くなっただけ。ぼやけていた頭が覚醒するのと同時に、ふと、あたしと同じような『能力』を持っている人達がいることに気づいた。集まらなきゃ。話しあわなきゃ。きっとみんなも、そうするはずだと咄嗟に思い、慌てて立ち上がった後、ベットの横に並べられた今日の用意を見て、あたしは踏みとどまった。……だめだ。今日は古泉と約束した日なんだ。でも行かなきゃ。あたしが行かなきゃ、みんなが、世界が困っちゃうかもしれない。でも、せっかく約束したのに、それを無駄にはしたくない。
ベットの上で悩み、朝ごはんを食べながら悩み、頭が痛くなるほど悩んで、結局あたしは身支度を整えると、そこに駆けだしていた。
ごめんなさい。やっぱりあたしは、古泉に会いたい。


新しいミュールは、可愛さの代わりに走りづらかった。履きなれていないのと、慌てているせいか、途中何度も足首をぐねり、こけそうになりながらも約束の時間の十五分前にそこに着く。古泉はまだいなかった。あいつのことだから、きっと寝坊したんだろう。しょうがない、待ってあげよう。少し遅刻したって、怒らずに、笑って許してあげようって、そう思っていたのに。

 


古泉は、来なかった。

 


あたしはずっと待っていた。
約束の時間を短い針が追い越しても、夏の空が少しずつ色を落としていっても、あたしは一歩も動くことなく、忠犬ハチ公よろしくずっと待っていた。発信履歴が埋まるほど掛けて、ついに電池が切れてしまった携帯を握りしめ、あたしは力なく座り込む。履き慣れない靴で長時間立っていたせいか、ひどく足が痛かった。ポーチから絆創膏を取り出し、靴擦れをおこしている親指に張り付ける。ミュールからはみ出した絆創膏は少し不恰好で、あたしはなんだか泣きたくなった。
「なんで……どうして来てくれないの……」
約束を忘れているはずはない。あいつはそんなやつじゃない。あたしがもう忘れてしまった言葉を、ずっと覚えていてくれているようなやつなのだ。ウサギが好きなこと。ピーマンが嫌いなこと。体育と英語は得意で、数学と地理はちんぷんかんぷんなこと。どんな些細な会話でも、あいつは、古泉は、いつも覚えていてくれた。
――じゃあ、どうして来てくれないんだろう。
考えれば考えるほどに頭はショートして、気が付いたらあたしは泣いていた。空っぽになった財布も、じんじんと痛む足もまだ耐えられる。でも古泉が来ないことには、耐えられなかった。悔しくて、悲しくて、寂しくて。色んな感情が、涙になって溢れてくる。街を歩く人たちが物珍しそうにじろじろとあたしを見て、それが恥ずかしくて、あたしはまた泣いた。何度も涙をぬぐったせいで、お気に入りの七分丈のTシャツにたくさんの涙の痕がついた。とにかく泣きたかった。心にぽっかりと穴が開いてしまったみたいだった。だからあたしは、お風呂に入りながら、ベットに寝転び枕に顔をうずめながら、ずっと泣いていた。

 

 


朝、不快感で目が覚めた。昨日泣きすぎたせいで、枕がぐっしょりと濡れている。一生分の涙を出しきったみたいだった。ぷっくりと腫れてしまった目をこすり、鳥のさえずりを聞きながら、あたしは暫しの間茫然とする。ぼーっとして、そしてふと、会ってみよう。と思った。古泉じゃなく、あたしと同じ『能力』を持つ人たちにだ。意外なことに、あたしは古泉のことを考えていなかった。昨日考えすぎて、頭の考えるところが疲れちゃったのかもしれない。
洗面所に立ち、顔を洗っておずおずと鏡を覗く。酷い顔だ。一夜にして、あたしの目はうさぎのように真っ赤になっていた。どうせならもっとうさぎになってやろうと思い、あたしはヘアゴムをくわえながら、高めに二つ、髪を結ってみる。初めてしたツインテールは、意外にもあたしの髪にすんなりと馴染んだ。
それから適当にパンを焼いて食べてから外に出ると、あたしは気の向くままに歩き始めた。かんかん照りの太陽の光がやけに眩しく感じて、思わず目を細める。しばらく歩き続けて、気がつくと自分の中学校に着いていた。そのまま通り過ぎようとして、なぜかぴたりと足が止まった。野球部の朝練のかけ声に惹かれたのかもしれない。古泉は、練習に参加してるのかな。そんな思いが頭を過ぎって、あたしは無理やりそれを追いだした。そうしないと、また泣いてしまいそうな気がしたからだ。
自慢じゃないけど、自慢にもならないかもしれないけど、あたしは何かを睨むのが得意だ。睨まれるのだってちゃんちゃら平気だ。だから、校舎にとびっきりの睨みをきかせて、あたしはそこから走って逃げた。駆け抜けた坂道から、ほのかな夏のにおいが鼻をくすぐった。

 


どこか遠くに行こうと思って、辿り着いたのは一つ先の駅前だった。ほんとはもっともっと遠くに行こうと思ったんだけど、五感を超えたその感覚が、あたしにストップをかけた。
息を整えて、あたしはぐるりと辺りを見回す。――どこかにいるはずだ、あたしと同じ力を与えられた人が。あたしの頭が、そう言っている。そしてその通り、あたしは不意に知らない男の人と目があった。
「あっ」
思わず声が漏れる。その彼もあたしと同じく何かを呟き、そしてこっちに歩み寄った。そして磁石のように引き寄せられたあたし達は、自己紹介も無しに話し始めていた。なんだか変な感覚だ。初めて会ったのに、以前から知っているような、そんな感じ。
その男の人は、たくさんのことを話してくれた。昨日あたしが涙にくれている間に、あたし達と同じ『能力』を持った人達がここに集まり、話し合いをしたこと。年齢はバラバラで、あたしみたいな中学生もいれば、あたしの父親ぐらいの歳の人もいること。皆が共通して認識しているのは、『佐々木という一人の少女が願望実現能力をもっている』『そしてその少女が生み出した空間があり、自分たちはそこに入る術を知っている』ということ。とりあえず、その『能力』を持つ者達で一つの組織を作る、という結論が出たこと。


「もうすぐ昨日の人達も来ると思うよ。だから大丈夫」
あたしの目が赤いのを少し勘違いしたのかもしれない。眼鏡をかけた二十代前半ぐらいの男の人は、そう言って柔らかに微笑んだ。それを見て、余裕だな、とあたしは思う。昨日の今日なのに、この人はこんなにも余裕に満ち溢れている。しょうがないな、なんかで済ませられるほどのことじゃないのに。まじまじと男の人の顔を見つめて、ふと考える。思えば、こんな非現実的なことが自分の身に起きたというのに、あたしもそんなに慌てふためいたり、切羽詰まってはいなかった。多少驚きはしたけど、人生を悲観するほどでもなかったし、それでいえば、昨日の古泉のほうがよっぽど心に堪えた。古泉が実弾なら、こんなのはBB弾程度だ。
それは、この力を持つのが佐々木さんだからだろうか。会ったこともないのに、彼女の心の中が落ち着いていることが手に取るように分かる。間違いなく、彼女は自分の持つ力を悪用したりなんかしない。誓って、そう言える。それほどまでに、彼女はあたし達を安心させてくれた。


数分後、『能力』を持つ、いわば超能力者は全員集合し、話し合いを重ねた後、ひとまずその空間に入ってみるということになった。皆が目を瞑るのに倣い、あたしも両まぶたをぎゅっと閉じて、頭の中に叩きこまれた通りに、一生懸命それを念じる。その瞬間、不意に音が止み、急いで目を開けると、辺りをクリーム色の空間が覆っていた。これが、佐々木さんの空間……。
ありえない世界の中のはずなのに、驚くこともなく、気持ちを高揚させることもなく、やっぱりあたしは落ち着いていた。肌に溶け込むような感触が、ひどく心地よくて、あたしは再びそっと目を閉じる。そしてまた、古泉のことを考えている自分に気づいて、あたしは今にも出てきそうな嗚咽を飲み込んだ。

 

 

 
組織の構成とか、いろいろ細かい部分は、全部大人の人がやってくれるらしい。何かあった時だけ集まってくれればいいと言われたあたしは、すっかりやることが無くなり、ひとまず寝ることにした。これまでの感情を晴らすように寝て、寝て、ひたすら眠って、目を覚ましたら、いつの間にか火曜日になってた。
朝。遅刻ギリギリまでベットと同化を図っていたあたしは、朝のニュースを聞き流しながら、体にびしばしと鞭を打ってしぶしぶ起き上がった。それからハンガーに掛けてある制服を着て、日曜日のようにツインテールに頭を結って、ぼんやりと朝食のトーストをかじって、ヨーグルトに醤油をかけて、「何やってんの」とお母さんに呆れられてから家を出た。
重たいスクールバックを何度も肩からずり落としながら、カタツムリといい勝負の速さで学校までの坂道を登る。突発性ひきこもりシンドロームを鞄と一緒に抱えながら、あたしは思わず溜息。学校に行きたくなかった。古泉と会いたくなった。会って、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。廊下が永遠に、あたしの目と鼻の先にあるクラスのドアが、接着剤で貼り付けられたように感じた。
ドアに手をかけ、考えを巡らせる。……あたしは怒ってるんだ。だから、あいつがなんて言ってきても無視してやればいい。でも、本当に謝ってきたなら、許してあげようかな。それから、また約束しよう。「今度、二人でどっかに出かけない?」って。
意を決するの意味が、すごく身にしみた。ぐっと力を入れたドアは意外にも軽快に開き、そしてあたしは、自分の席を見るより先に、やっぱり古泉を探していた。そして、文字通り唖然とした。
そこにいたのは確かに古泉だった。でも、あたしの知っている古泉じゃなかった。驚いて、驚いて、ずり落とした鞄が足を滑り、上履きに当たって少し痛い。
古泉は、この三日間で憔悴しきっていた。あたしと同じように泣きはらした痕のある、どこか虚ろな目の縁にはくっきりと隈が出来ていて、顔も青白くて、どんな重い風邪をひいても、この古泉が来たら即座にベットを譲っちゃうような、そんな表情だった。そこにいつもの笑顔はなく、心配して話しかけるクラスメートの声も、まるで聞こえていないかのようにあいつは無視していた。どういうわけか、たった三日にして、活発な少年だった古泉一樹はどこかに消えてしまったのだ。
何があったんだろう。なんでそんな、この世の終わりみたいな顔してるのよ。聞き出そうと思って踏み出した右足を咄嗟に踏みとどめ、結局あたしは自分の席に鞄を下ろしていた。いま思えば、ほんの小さな意地が邪魔したのかもしれない。でもそれよりも、古泉に無視されることが怖かった。約束も無視されて、会話も無視されたら、あたしどうしたらいいのか分からない。
話せなかった代わりに、あたしはその日、一日中古泉を見ていた。以前よりも随分と頼りなくなった寂しげな背中を、あたしはずっと見ていた。

 

 


翌日。ついに古泉は学校に来なかった。
電話しようか考えて、でも、前みたいに出てくれなかったらどうしよう。なんて思いが頭をよぎり、断腸の思いで携帯を鞄にしまうと、あたしは情報採集にでることにした。古泉と同じ野球部で、比較的仲が良い男子生徒の首根っこを捕まえて、あたしは勢い百二十パーセントにまくしたてた。
「ねえ、今日なんで古泉が休んでるのか知らない?」
「な、なんだよ。こええよ」
「知ってるの? 知らないの? 答えないならこのまま校舎からダイブさせちゃうから」
「分かんねえ。さっき電話しても出なかったし。風邪でも引いたんじゃねーかな。あいつ、昨日もすげー体調悪そうだったじゃん。そういや土曜日からの練習も無断で休んでたし……」
「土曜日?」
あたしのオウム返しに、男子は「そう、土曜日」と頷いた。
『明日は……、うん、いいよ。部活もないし』
おかしい。金曜日、あたしは古泉にそう返事をもらったんだ。土曜は野球部は休みだって古泉が言っていたはずだ。あいつが練習のシフトを忘れるわけがない。
「土曜日はあったぜ? 午前中からのみっちり練習。だって俺、木曜日らへんにその話、古泉としたもん」
そう言って、まるで身の潔白を証明する冤罪者のように両手をあげると、「だからネクタイ離してくれ、苦しい」とそいつは呟く。その言葉はするりとあたしの耳を通り抜け、あたしは金曜日から土曜日の出来事を鮮明に頭に思い浮かべていた。
――もしかしたら。
本当にもしかしたら、だ。あたしの勝手な思い込みかもしれない、でも、


古泉は、あたしと遊ぶために嘘をついてくれたんじゃないのか。


少なくともあいつは金曜日の放課後までは普通だった。いつからあんな風になっちゃったのかはわからないけど、とにかくあたしが一世一代の大勝負に出たあの時は、古泉は普通だった。あたしの知っている古泉だったんだ。
心の中が、なんだかこそばゆい。驚きと、恥ずかしいような、嬉しいような、そんな感情が入り混じった気持ちを抱えながら、あたしは思わずうつむく。ああ、そうだ。これは夢なのかもしれない。金曜日の夜から続く、ながーい夢なのかもしれない。
「……ねえ、ちょっとあたしのほっぺつねってくれない?」
「えっ、だって、そんなことしたらお前、俺殴る……」
「いいから、早く」
つねられたところは、やっぱり痛いだけだった。

 


しばらくした後先生がやってきて、茫然としたまま椅子に座ったあたしは、なんだか無性に古泉に会いたくなった。今なら、土曜日のことだって、笑って許してあげられそうな気がする。だから、もし本当にあいつが風邪をひいてるんだったら、リンゴでも持ってお見舞いにいってあげようかな、なんて、そんなことを考えていたのに。

 


「古泉一樹が転校した」

 


ホームルームで告げられたその言葉を、どうやって噛みくだいて飲みこんだらいいのか分からなかった。消化不良なこの気持ちは、あたしの全身をゆらゆらと駆け巡り、それに押されるように、気がついたらあたしは走りだしていた。座ってなんかいられない。いられるはずがない。先生やクラスメイトの声も、今はあたしを駆り立てる燃料でしかないし、説教だって、どれだけでも受けてやる。そんなのでくじけるほど、あたしの心は弱くない。あたしが今までに培ってきた恋心は、そんなもんじゃないのだ。
だから、古泉、ねえ待ってよ、古泉――!!

校舎の出入口に立ったあたしを、拒むように風が吹いた。どこか冷やかすような風に髪を揺らしながら、靴を履き替えようとして、急いでげた箱をあけたあたしは、思わずぴたりと動きを止めた。
あたしの靴の上に、手紙が一枚置かれていたからだ。
震える手で、折りたたまれたそれをゆっくりと開く。メモの切れ端のような白い紙には、名前も書かれていない。記してあるのは、小学校の頃から変わっていない大雑把な字で、ただ一言だけだった。

『約束、破ってごめん』

不意に、足の力が抜けた。思わずしゃがみ込みながら、あたしは指先で何度もその文字をなぞる。
言わなきゃいけないのは、それだけじゃないでしょ。生まれた時から一緒の幼馴染に、一言も告げずにどっかに行っちゃうなんて、そんなのひどいじゃない。再来週の野球の試合だって、見に行く予定だったのに。新しく買ったばかりのミュールだって、まだ見せてないのに。可愛いね、って、誉めてもらいたかったのに。

ぶっきらぼうなその文字が、ひどく愛おしくて、でも切なくて。きっともう届かない何かを、託すようにぐっと握った手紙に、くしゃりとシワがつく。
小さな初恋が、涙と一緒に手紙にこぼれおち、微かににじんで淡く溶けた。

 

 

 

 

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最終更新:2009年09月07日 09:44