夏も終わりに近づいた八月下旬の昼下がり、あたしは、ガタン、ガタンという電車の音を聞きながら、窓越しに、空の向こうにある大きな雲をボンヤリと眺めていた。
実家の近くまで出張に来たついでに、思い出深い光陽園駅へと立ち寄ろうと決めたのだ。やがて、停車駅を告げるアナウンスの声が車内に流れると、ガタン、ガタンという音が金属の摩擦するブレーキ音へと変わる。
目的の駅に到着したことを知り、電車のドアの前に立って開くのを待つ。ドアが開くと、夏特有のジメッとした空気があたしの身体を包み込んだ。
いっしょに降りてきた学生の集団とサラリーマン風の男性を横目に見ながら、見慣れた駅のホームを歩いてコンコースへと向かい、改札口を通過して外に出る。
駅の出入り口から前の通りを行きかう人々の姿を眺めると、その風景はあたしが高校生だった頃と何も変わりなく、過去の郷愁へとあたしをいざなっているように思えた。
気持ちの整理をつけるために、本当はもっと早くこの街に戻ってこようと考えていたのだが、仕事が忙しかったのとふんぎりがつかなかったために、なかなか帰って来れずにいた。
帰ってきても誰が待っているわけでもない。それでも、かつてSOS団のメンバーで集まったあの場所へもう一度赴きたいと思う気持ちが日ごとに募り、ついに念願叶って帰郷を果たしたというわけだ。
「今日も暑いわね」
照りつける太陽を見上げて小さく溜息をついた後、目の前の人の流れに身を任すようにして目的地へと向かう。その途中、ふと、周囲に注意を向けると、下校途中の女子高生の他愛ないおしゃべりが聞こえてきた。
見慣れた制服、北高の制服だ。その内の一人、ショートカットで眼鏡をかけた女子学生が、どこか有希の姿に似ているような気がして胸に懐かしさがこみ上げる。もちろん彼女は有希ではない。
『あたしにもあんな時代があったのね』
彼女から視線を逸らし、高校時代のクラスメートの顔を思い浮かべながら、目的地である見慣れた喫茶店の前までやって来た。日本中のどこでも見かけるようなとりたてて特徴のない喫茶店。
まったく変わっていない外観を見て、まるでここだけあの頃から時間が止まっているようにな錯覚さえ覚える。懐かしい面影を残す喫茶店の外観に少しホッとしている自分がいることに気づく。
 
 
 
思い返せば、キョンへの想いに気づいたのはこの喫茶店だった。
当時、あたし達はこの喫茶店でSOS団のメンバーを二つの組に分けて、街の不思議な現象を探していた。組はくじ引きで選んだが、いつもキョンとは違う組だった。
二手に分かれて喫茶店を出て行くときの、あの形容し難い感情。当時はそれが何か分からなかった。ただ、心の中にモヤモヤとした何かがくすぶっているということしか理解できなかった。
この感情の原因がキョンにあるということは早い段階から気がついていたが、有希やみくるちゃんにこのことを相談しようとはしなかった。なぜか相談することが憚られたからだ。
いつだったかは覚えていない。
ある日、SOS団のメンバー五人がここに集まった時、古泉くんと何かを言いあっているキョンの顔を眺めながら、いつも心の中にあるモヤモヤとした正体不明の何かについてボンヤリと考えていた。
そして、ハッと気がついたのだ。まるで落雷にでも打たれたかのように唐突に閃いたのだ。この感情は……まさかあたしはキョンのことが好きなのではないかと。
その認識に至った瞬間、キョンの姿が、声やしぐさが、いままでのものとはまったく違って見えた。わずか数メートルしか離れていないはずのキョンとの距離がとても遠くに感じたのを覚えている。
気持ちの整理がつかず、頭の中はパニック状態になっていて、その日、それから何があったのかはよく覚えていない。ただ、後から有希やみくるちゃんに聞くと、挙動不審な行動や言動をとっていたようだ。
それから数日間は、躍起になって自分の中にあるキョンへの想いを否定しようとしていた。このわだかまりは恋愛感情なんかではない。ただ単にキョンがSOS団の団員としての自覚に欠け、心配なだけなのだと。
だが、その日を境に自分の中の想いを否定しようとすればするほどキョンを意識してしまい、やがてそれはあたしの心の中で大きくなりすぎて、自分でもどうすればよいのかわからなくなってしまっていた。
そしてついに、このわだかまりがキョンへの恋愛感情なのだと認めざるを得なくなってしまったのだ。つまり、あたしはキョンのことが好きなのだと。
それからは、キョンが有希やみくるちゃんと話している姿を見ているだけで、とても不安で苛立ちを覚えた。なにより、その当時のキョンはあたしには冷たかった。
SOS団のメンバーで唯一あたしのやることに反発したし、目の前で有希やみくるちゃんに色目をつかうことも度々あった。でも、そんなとき、この感情をどうやってキョンにぶつけるべきかを、当時のあたしは知らなかった。
なぜなら、『自分が誰かを好きになる』などということをまったく想定すらしていなかったからだ。だから、好きな人にどう接するべきかなど考えたこともなかった。
なにより、キョンに自分の想いを気づかれるのが恥ずかしくて、キョンへの想いに気づく以前よりも意固地で我侭なことをキョンに要求していた。いまから振り返れば子供の意地の張り合いのようで滑稽だ。
この喫茶店でキョンと険悪な雰囲気になりながら、自己嫌悪に陥りながら自動ドアをくぐって不思議探索に出かけたのを、今でも鮮明に覚えている。
 
 
 
当時の淡い記憶をたどりながら自動ドアをくぐると、残暑の厳しいジメジメとした外界とは一変して、店内は冷房に冷やされた空気で乾燥し、まるで別世界のように思われた。
それはあたかも、ルーティンワークにによって日々が過ぎていく日常の世界から、淡く懐かしい想い出の世界へと足を踏み入れたかのようだった。
店内を見回しても、その内装はあたしが高校生だった当時と変わるものは何ひとつ無く、違うのは店員や客の中に見知った顔を見つけられないことだけだ。
あたしは無言のまま店内の片隅まで歩いて行き、二人がけのテーブル席へと腰を下ろす。しばらくして店員が注文をとるためにあたしのもとへとやって来た。
「いらっしゃいませ、ご注文……あれ?」
「え!?」
店員の顔に視線を向けると、どこかで見たことのあるような顔。
「ハルヒ……さん? ですよね」
「ええっと……ハカセ君?」
驚いたことに、注文を聞きにきた店員はあたしがかつて家庭教師をしていた教え子だった。遠い名前も知らない外国で予期せぬ知り合いに巡り会ったような気分だ。
「里帰りですか?」
「うん、まあね」
なんとなく気まずい感じがして、あたしはハカセ君から目を逸らす。
「ええっと……ご注文は……」
「シナモンティーをひとつ」
伝票に注文を書きながら、怪訝そうな表情であたしを見る。
「どうしたの?」
「え? いや、珍しいなあって思って。僕にはハルヒさんといえばコーヒーのイメージがありましたから」
「……そういえばそうね」
「『シナモンティーをひとつ』ですね。少々お待ちください」
ハカセ君はニコッと微笑んだ後、あたしの席から離れていった。その後姿を見て、あの小さかったハカセ君が大きくなっている事実に時の流れを感じざるを得なかった。
ふと、視界の中におおきな数人掛け用のテーブルが目に付く。SOS団の集まりでよく使った席だ。有希やみくるちゃん、古泉くんとこの席で話していたのがまるで昨日のことのようだ。
 
 
 
キョンに告白したのもこの喫茶店だった。
あたしがいま座っているこのテーブル席で、キョンが来るのを待っていた。あたしがキョンをこの喫茶店へと呼び出したのだ。テーブルの上には注文したアイスコーヒーが置かれていた。
あの日も今日のように暑い晴れた夏の日だった。日付は確か7月7日、七夕の日だったと覚えている。
キョンは、普段あたしが面倒ごとを押し付ける時と同じように、少しウンザリした表情で喫茶店の自動ドアをくぐり、店内を見回した後、あたしの姿を見つけてこのテーブルまでやって来た。
テーブルを挟んだ対面の席に座り、もう一度店内を見回してから、頬杖をついてあたしを見る。
「今日は俺一人か?」
「そうよ」
キョンの問いかけに、なるべく普段と変わらない様子を装いながらぶっきらぼうに答えた。
「で、今日は何の用件だ?」
いつものようにあたしをじっと見つめるキョンの様子を見て、家を出るときに心に誓った『今日こそキョンに自分の想いを伝えるという』決意が脆くも崩れ去りそうになる。
もし、断られたらどうしよう。告白してしまえば、もういままでどおりの関係には戻れなくなる。それならばいっそ今のままの関係でも……
そんな弱気な感情が心の中にくすぶり、しばらくキョンにかける言葉を捜していた。
「あの~、ご注文は?」
予期せぬ声が横から聞こえた。店員がキョンの注文を聞きに来たのだ。キョンの意識があたしから店員へと逸れる。キョンを目の前にして弱気になっていたあたしにとって、注文を聞きにきた店員は救いの神様のように思えた。
「え、ええっと、シナモンティーをひとつ」
突然声をかけられたためか、キョンも少し戸惑いながら注文を告げる。そんなキョンの様子を見ながら、小さく深呼吸をし、家を出るときに誓ったはずの決意を思い出す。
店員がテーブル席から立ち去り、キョンが再びあたしの方を向く。さっきまでとは違い、じっとキョンの目を見据えながら、あたしはキョンへの想いを告白した。
「あたし……あんたのことが好き……みたい……ううん、違う! あんたのことが好き、好きなの。ここ最近、ずっと……ずっと、あんたのことが頭から離れないの。だから、あたしと……つきあって」
この日のキョンの顔はおそらく一生忘れることはないだろう。キョンは、あたしの告白を聞いて、驚愕の表情でポカンと口を開けたまま、目を見開いて無言のままあたしを見つめていた。
まるで、身近な友人、例えば有希やみくるちゃんや古泉くんが、突然自分達は普通の人間ではなくあたし達が捜し求めている宇宙人や未来人、超能力者です、という荒唐無稽な告白を聞いたかのような驚きぶりだ。
いまから思い返してみても滑稽な顔で、普段のあたしならおそらく腹を抱えて笑っていたに違いない。でも、この時のあたしにはそんな余裕はなく、顔を真っ赤にしてうつむいていることしかできなかった。
沈黙が二人の間を支配し、ほんの刹那の時間が永遠のように長く感じられた。やがてキョンがゆっくりと口を開く。
「ハ、ハルヒ……じょ、冗談……だよな……?」
「冗談なんかじゃないわよ!」
キョンの返答を聞いて、思わず叫んでしまう。
「あたしがどれだけの覚悟で、あんたに電話を……今日家を出たと思ってるのよ! それなのに……それなのに、冗談だなんて!」
机を叩いて立ち上がったあたしに周囲の視線が集中する。冷静に考えれば顔から火を吹きそうなほど恥ずかしい状況だが、この時は恥ずかしいなどという感情は頭の片隅にもなかった。
「お、落ち着け……まず、座れ」
キョンは、焦ったように周囲を見回しながら、あたしに座るように促す。そんなキョンの様子を見て、ようやくあたしは我に返り、顔を真っ赤にしてうつむきながら席に座った。
恥ずかしさのあまり、しばらくお互いに沈黙した後、キョンはコホンとひとつ咳払いをしてから、
「じ、実は俺もハルヒのことが……気になってたんだ。う、うん、お、俺もお前のことが……好きだ。だから……」
「ほ、本当に?」
「……ああ」
前のめりになって確認するあたしに、顔を赤く染めながら照れくさそうにうなずくキョン。喜び……よりも先に安堵と達成感が胸にこみ上げる。
「これからも……よろしくな」
照れ隠しに頭をかきながらはにかむキョンの姿を見て、感極まり、目から涙が溢れてくる。
「おいおい、泣くことないじゃないか」
「だって……」
この日を境にして、あたしとキョンはお互いに気になる関係から正式な恋人へと昇格した。
 
 
 
「おまたせいたしました」
ハカセ君が少しハニカミながら注文したシナモンティーを運んできた。
「ありがとう」
あたしはハカセ君のハニカミに答えるように微笑を返す。手際よくティーカップをテーブルに置くハカセ君の姿を見て、ずいぶん長い間ここでアルバイトをしているのかな、などと推測する。
「ハカセ君、いま大学生よね。今日は大学休みなの?」
「今日は午前中だけで講義は終了なんです。だから午後からはここでバイトを。ハルヒさんはどうして今日はここに?」
「出張。近くまで来たんでね。ついでに立ち寄ったのよ」
「そうでしたか」
それほど長いつきあいではなくても、頭のいいハカセ君にはあたしの心が見透かされているように思えて、そのまま言葉を紡げずに沈黙する。
そんなあたしの気持ちを察したのか、ハカセ君はそれ以上何も尋ねてくることはなかった。
「ごゆっくりどうぞ」
一言そういい残して、ハカセ君はテーブルから去って行った。
ハカセ君はあたしとキョンの関係に気がついていたのかしら。考えてみても答えは出るはずはない。ただ、ハカセ君はキョンとも知り合いだったはずだ。
だから、あたしとはまた違った視点でキョンのことを見ていたはず。そんなハカセ君の目にあたしは、あたしとキョンの関係はどんな風に映っていたのだろう。
それを知る術はないが、テーブルから離れていくハカセ君の後姿を眺めていて、ふとそんな考えが頭に思い浮かんだ。
 
 
 
あたし達のデートの起点はいつもこの喫茶店からだった。
最初の頃は『恋愛感情は精神病』などと言っていた手前、恥ずかしくてSOS団のメンバーには内緒だったのだが、いつの間にか有希もみくるちゃんも古泉くんもあたしたちの関係に気づいていた。
絶対に気づかれない自信があったのに、そんなにあたしって感情が表に出るのかしら、と自分の普段の言動や行動を振り返ってみたりもしたものだ。
だが、キョンはみんながあたし達の関係に気づいたことを、さほど不思議には思っていないように見えた。まるでこうなることが当然という風に考えていた節さえある。
それでも、あたしはみんなの前ではキョンとつきあっていることを認めなかった。だから、あたしとキョンの関係はみんなが知っている周知の事実であるにもかかわらず非公認の仲。
当時のあたしの行動はあまりにも子供じみていて、きっと有希やみくるちゃんや古泉くんは対応に苦慮していたことだろう。そんなわけで、SOS団の活動はキョンとつきあい始めた後も変わることなく続いていた。
あたし達はこの喫茶店で待ち合わせをした後、タウン誌を見たり有希やみくるちゃんや古泉くんと相談したりしてデートに出かける場所を決めていた。
名目上はSOS団の集まりだったが、もはや不思議探索などは有名無実化していた。組を分けるくじ引きもなく、喫茶店を出てからはあたしとキョンの組、他の三人の組に分かれるのが常だったからだ。
ただ、いつもいつもSOS団のメンバーで集まっていたわけではない。もちろんキョンと二人だけで待ち合わせることもあった。そんな時も待ち合わせはいつもこの喫茶店だった。
この喫茶店でどこにデートに行くかやこれから何をするかを決める時、キョンはいつもシナモンティーを注文した。あたしもキョンの真似をしてシナモンティーを注文する。
正直、あたしはキョンとつきあい始めたときはシナモンティーが好きではなかった。多分、シナモンの香りがあたしには合わなかったのだろう。
それでも、この頃はシナモンの香りが嫌いではなくなっていた。なぜなら、あたしにとってシナモンの香りはキョンと同じ時間と空間を共有していることの証明だったからだ。
キョンといっしょの時間が過ごせることがなによりも嬉しかった。心を許しあえる最愛の人が側にいる。このことがずっと孤独だったあたしにとってはとても新鮮だった。
遊園地や動物園に出かけなくても、キョンの隣に座って、キョンの肩にもたれかかり、タウン誌をめくったりシナモンティーをすすっている姿をただ眺めているだけで十分だった。
キョンがあたしの名前を呼ぶ声が、キョンのさりげないしぐさを眺めることが、あたしにとっては幸せなひと時だったのだ。キョンが側にいるという事実だけで、あたしは満足することができた。
キョンとかけがえのない時間を二人で過ごしている。キョンの息遣い、匂い、温もり、そして漂うシナモンの香り、流れる穏やかな時間。この時間が永遠に続けばいいとさえ思っていた。
 
 
 
テーブルに置かれたティーカップからシナモンの香りが漂い、あたしの鼻腔をくすぐる。
窓越しに空を眺めると、電車の中で見た入道雲がさっきよりも大きくなっているのがわかった。そういえば、今日の天気予報では午後から雨だったはずだ。
pipipipipi
不意にけたたましい電子音が店内に鳴り響いた。どうやら会社の上司からメールが入ったようだ。内容を確認すると、明日朝一番で幹部の前でプレゼンをするので遅れるな、とのことであった。
今日の……たったひと時……この時間だけは、仕事や日常のすべてを忘れたかったのに……
小さく溜息をついて、あたしは携帯電話をバッグへとしまう。淡い想い出に浸っていた最中に、突然現実の世界に引き戻されたような気持ちがして少し気が滅入る思いがした。
机に頬杖をついて、喫茶店の前を行き交う人の様子を眺める。その様子は学生時代と変わることはなく、ここでキョンを待っていた時のことを思い出す。
あの頃も、こうやってここから外の景色を眺めていた。結局キョンの遅刻癖は最後まで直らなかったわね。いつ来るか不安と期待を胸にしてキョンが来るのを待ってたっけ。
絶対来るという確信があった一方で、もし交通事故とか何かの理由で来なかったらどうしようという不安が頭をかすめながら、この席でキョンを待っていたあの当時がとても懐かしい。
キョンがいない日常など考えられないくらいキョンのことを想っていたのに、いつかその日が来るのではないかと密かに恐れていた日々。本当にキョンのいない日常が来る覚悟なんてできていなかったのに……
コト
テーブルの上にケーキ皿が置かれた音で、あたしは再び想い出の世界から現実へと引き戻される。
「えっ……と」
目の前には注文した覚えのない苺のショートケーキが置かれていた。戸惑いながら持ってきたハカセ君の方に視線を向けると、ハカセ君は微笑みながらあたしに言った。
「僕からのサービスです。どうぞ」
「え、そんな、悪いわ。ハカセ君におごってもらうなんて」
「いいんです。おごらせてください。それより覚えてますか? 初めて僕をこの喫茶店に連れて来てくれたときのことを。あの時、涼宮さんが僕に食べさせてくれたのがこのケーキなんですよ」
昔を思い出すようにハカセ君が言葉を紡ぐ。ハッとなって、そのときの記憶をたどる。そう言われるまで、あたしはハカセ君とこの喫茶店に来たことなど頭の片隅にもなかったからだ。
「だから、いつか涼宮さんが来店してくれたときは、僕が涼宮さんにこのケーキをサービスしようと思っていたのです」
そう言ったハカセ君の表情はとても嬉しそうだった。まるで、待ち焦がれた最愛の恋人に再会したときのように。驚いた表情のあたしに「ごゆっくり」と微笑んで、ハカセ君はテーブルから離れていった。
思い出した。そういえばあの時、あたしはアイスコーヒーを注文していたっけ。ハカセ君が笑顔でショートケーキをほうばっていた光景が頭に思い浮かんだ。
あの時、あたしはあえてシナモンティーは注文しなかった。シナモンティーはキョンとの時間を過ごすための大切なシンボルだったからだ。
でも、もうシナモンティーを注文することはない。特別な今日以外、あの日から……、きっとこれからもずっと……
 
 
 
大学三年の夏の日だった。確かこの日も7月7日、七夕だったはずだ。
突然キョンから呼び出しの電話をもらい、あたしはこの喫茶店へとやって来た。電話口のキョンの口調はいつもとは違う雰囲気だったため、ここに来るまでの間、あたしの頭の中では色々な考えが渦巻いていた。
いったいなんの話だろう、急に呼び出すなんて。婚約……だろうか。順当に考えれば、今は大学三年だし、来年の就職のことについてだろうけど……それにしてはちょっと早すぎないかしら。
期待と不安を胸にして、あたしは喫茶店の自動ドアをくぐる。キョンはいつもの席でシナモンティーを注文して、あたしが到着するのを待っていた。
「えっと……な、なんの用事かしら?」
座りながらキョンに尋ねる。その日のキョンは普段とは違う雰囲気を纏っていて、直感的に来年の就職などではないもっと重大な何かをあたしに告げるのだと分かった。
しばらく沈黙が二人の間を漂った後、店員が注文を聞きに来る。
「ご注文は?」
「え……っと、シナモンティーをひとつ」
不意に声をかけられたあたしが戸惑いながらシナモンティーを注文する様子を、キョンは無言のままじっと静かに見つめていた。今から振り返ってみれば、その目はまるで何かを観察するかのように冷淡に思えた。
あたしは催促するようにキョンの方に視線を向けると、キョンは店員がテーブルを離れていく後姿を眺めた後、あたしのほうに視線を向けた。
「ちょっと……待ってくれ、心の整理をしたいから。ハルヒが注文したシナモンティーが来るまで……」
シナモンティーを一口すすったキョンの表情は何かを思いつめているようで暗かった。
もしかしたら婚約とかではなくあたし達の将来を阻む障害が生じたのだろうか。一瞬そんな考えが頭をよぎったが、それでもあたしは二人で力を合わせればどんな障害でも乗り越えていけると信じていた。
だからもし、キョンが何かで悩んでいるとしても、あたしはキョンを元気づけてあげようと、二人でならきっと乗り越えていけると励まそうと思っていた。
だが、この日キョンの口から告げられた言葉は、あたしの予想をはるかに超えるものだったのだ。
「お待たせいたしました」
注文したシナモンティーがテーブルの上に置かれる。あたしはそれを一口すすった後、どんな真実を告げられてもいいように心の準備をして、キョンに視線を向けた。
「それで……今日は何で?」
キョンはしばらく沈黙した後、大きく二回ほど深呼吸をして、静かな、だがはっきりとした声であたしに告げた。
「……すまん、ハルヒ……別れてくれ」
キョンの言葉を聞いて、あたしの周囲の空気が一変したような気がした。あたしは一瞬キョンの言った言葉の意味が理解できず、呆然とキョンを見つめていた。
別れを切り出したキョンの瞳は冗談を言っているようには見えず、むしろ強い信念を帯びているように見えた。咄嗟に言葉を返すことができなかった。
それほどに、この時キョンから告げられた別れは予想だにしていなかった出来事だったからだ。口を小さく動かすがショックで声が出ない。紡ぐ言葉が見つからない。
「な、なんで……」
ようやく、ようやく小さな声で、あたしは一言だけキョンに言葉を返す。キョンはすまなさそうな表情でじっとあたしの目を見つめていた。
「な、なんでよ。あたし達うまくいってたじゃない? もし、あたしに何か足りないところがあるなら言ってよ。どんなことでもするから。だから、だから……」
「すまん」
「だから何でよ!」
しばらく沈黙があった後、キョンはあたしが口をつけたシナモンティーに視線を向けて言った。
「俺たちがつきあい始めたとき、ハルヒはシナモンティーは嫌いだった。いつもコーヒーを注文していた」
「そ、そんなことが理由なの?」
驚愕のためにあたしは思わず叫ぶ。
「ごまかさないで! ちゃんと答えてよ! 誰か他に好きな人ができたってこと! 佐々木さん? 有希? みくるちゃん? それとも他の誰か?」
テーブルに手をつき、声を荒げて立ち上がる。キョンは少しうつむき加減で目の前のティーカップを見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「つきあい始めたころは、こうやって何度も衝突したよな。けんかも頻繁だった。なのに最近は、こうやってけんかをすることもなくなった。些細な言い合いすらなくなってしまった」
「そ、それは……お互いの好みとかそういうのがわかって……」
「違う!」
あたしの言葉をキョンが遮る。
「違う! 違うんだ! 衝突しなくなったのは……ハルヒ、お前がいつも俺に譲歩しているからだよ」
そうキョンに指摘され振り返ってみると、確かに心当たりはあった。でも、どうしてそれが別れる理由になるの?
「だ、だって、それはキョンのためを思って……」
「わかってる……わかってるよ……でも、寂しかったんだ。俺は……俺は、初めて会った頃のハルヒが好きだったんだ。
だから、俺の前でだんだん変わっていくお前が、無理をしているように見えて、辛かったんだ。心を開いてくれないことが寂しかったんだ」
「そ、そんな……」
「自分がどれだけ我侭なことを言ってるのかわかってる。理不尽な事を言ってることもわかってる。でも、もう限界なんだ。あの頃はお前の考えていることはすべて理解していたつもりだった、でも今はもうわからない。
お前が笑っていても、俺の意見に賛成してくれていても、それがお前の本心かどうかわからなくなってしまったんだ。それが俺にはすごく辛いんだよ。
二人でずっといっしょに過ごしているにもかかわらず、けんかをすることもなく、些細な言い合いをすることもなくなってしまって……それが正常な関係だとは思わない。このことに気づいて以来、ずっと俺は孤独だったんだ」
搾り出すような声で、キョンは自分の本心を吐露する。キョンの本心を聞いて、言葉を返すことができず、そのまま脱力するように椅子に腰を落とした。
知らなかった……キョンがこんなことを考えていたなんて、思っていたなんて……
お互いに言葉を失ってしまい、紡ぐ言葉を見つけることができず、ただ時間だけが過ぎていく。長い時間が過ぎ去った後、キョンがあたしの名前を呼んだ。
「ハ……ハルヒ……」
別れを受け入れるのか否かの返答を求めているのだ。
「もう……あたし達……昔に戻ることはできないの……なんとかやり直すことはできないの?」
「…………」
うつむいたキョンの沈黙が答えだった。涙が溢れてきた。いままでのキョンとの思い出が浮かんでは消えていく。どうして、どうして……いつからあたし達はすれ違っていたのだろう。
「……だった」
「え!?」
キョンは顔を上げてあたしを見つめる。その表情はいままで見た中で一番悲しい表情だった。そんなキョンの顔を見るのが嫌で、あたしは目の前のティーカップへと視線を落とす。
「嫌いだった! あんたのことなんか! 出会った日から今日までずっと嫌いだったんだから!」
「ハルヒ……」
「出て行きなさいよ! もともとあんたとなんかつきあう気なんてなかったんだから! 恋人のふりをしてあげてただけよ。あんたまさか本気にしてたわけ! 目障りだから、さっさとあたしの前から消えなさい!」
キョンの顔を見ることなく、ティーカップの一点を凝視しながら叫んだ。そのまま、溢れてくる涙を抑えることができず、席に座ったままティーカップを見つめ続けていた。
涙がテーブルの上に落ちる。顔を上げてキョンを見ることもできなかった。だからこの時、キョンがどんな表情であたしを見ていたのかを確認する術はない。
ただ、何も言わず無言のまま伝票を手に取り、そのまま席を立った。レジを済ませてキョンが喫茶店から立ち去る自動ドアの開く音が背後から聞こえた。
「うううっ、ううぅぅ」
キョンが去ってしまった後も、あたしはシナモンの香りの中で涙を流していた。
 
 
 
ティーカップを手に取り、キョンとつきあっていた頃を思い返しながら、紅茶を一口啜った。シナモンの香りが口いっぱいに広がる。失恋の香り。やっぱり、あたしはこの香りがあまり好きではないようだ。
あたしはキョンのことが誰よりも好きだった。このことは誰に対しても胸を張って断言することができる。でも、いやだからこそ、キョンとつきあっていた頃、嫌われたくない一心でペルソナをかぶっていたのだ。
そのことが、キョンに孤独感を募らせているとは想像だにしなかった。キョンがあたしのことがわからないと言ったように、あたしもキョンの本心をわかってあげることができていなかったのだ。
高校三年の夏からちょうど四年間キョンとつきあってきたけれど、もしかしたらお互いに何も分かり合えてなかったのかもしれない。あたしはどうするべきだったのだろうか。
もっとあたしの本心をキョンにぶつけるべきだったのだろうか。あたしのことを知ってほしいと訴えるべきだったのだろうか。キョンのことをよく知るように努力すべきだったのだろうか。
つきあっていた四年間、たくさんの言葉を交わしたはずなのに、結局、何も分かり合えないままキョンと別れてしまったことが悲しい……とても悲しい。
ふと、窓の外に目を向けると、突然の夕立に近くの軒下に避難する人や慌てて帰路に着く人々の姿が見えた。この街に降る雨が、あたしの想い出を、あたしの未練を流してくれているような気がした。
 
 
 
大学を卒業して、あたしはキョンから逃げるようにこの街を離れ、東京の外資系の金融機関に就職した。就職した会社では毎日のように残業に追われ、思い出を振り返る暇さえなかった。
でも、あたしにはむしろその方がありがたかった。机の上に積まれた膨大な量の仕事をこなすことで、悲しみに暮れることなく毎日を過ごすことができたからだ。そして気がつけば、あたしは同期で一番の出世頭になっていた。
いつだったかは覚えていない。あたしから連絡をとったのか、それともキョンから連絡をもらったのかすらも。大学を卒業した後、一度だけ光陽園駅の前であたしはキョンと待ち合わせをした。
約束の時間の三十分前に駅に着いたあたしは、キョンが来るまで、駅の前を通り過ぎる人々をボンヤリと眺めていた。
どうしてあたしはキョンと会おうと決めたのだろうか。自分に問いかけてみても答えは見つからなかった。あれだけ最悪な別れをしたはずなのに……
約束の時間の五分前に、キョンが見慣れたママチャリであたしの方に走ってくるのが見えた。
「久しぶりね」
「……ああ、久しぶりだな」
ぎこちなく挨拶をしたあたしに、キョンはうつむき加減でぼそぼそっとつぶやいた。
「今日はどこに行こうか?」
「そうね……あたし達が通ってた北高に行ってみたいわ」
「北高って……途中坂道じゃないか」
少し大袈裟に反応するキョン。その姿にまるで高校時代のキョンを見ているような既視感を覚える。
「駄目?」
「いや、まあいいけど」
キョンは「やれやれ」と小さくつぶやきながら溜息をつく。あたしが告白する前はよく目にしたキョンの姿だ。
つきあっていた頃にこんな風に我侭を言った記憶が無いな。キョンの別れの言葉とともに、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。あたしはキョンの乗ったママチャリの後ろの荷台に横向きに座り、キョンの腰に片腕を回す。
「じゃあ、行くぞ」
「うん」
キョンの掛け声とともに、ゆっくりと自転車が動き出しす。この自転車はキョンが中学時代から使っているものだったっけ。佐々木さんもこうやってキョンといっしょに学習塾に通っていたのかしら。
見慣れた景色があたしの目の前を通り過ぎる。途中、虫取り網を持った小学生とおぼしき集団に遭遇した。そういえば、あたし達も高校一年の夏にSOS団のみんなで蝉取りをしたことがあったわね。
あの頃は自分の中の恋愛感情に気づいていなかったから、キョンの前でもごく自然に振舞えた。まるで、いまのあたしは高校生の頃に戻ったみたい。告白する前の自然にキョンとつきあえた、あの頃に……
坂道を半分登った頃、さすがに自転車の動きも鈍くなり、自転車を漕いでいるキョンが息切れしているのがわかった。無言のままあたしが荷台から降りると、キョンはびっくりしたようにこちらを振り向く。
「そんなんじゃ学校に着く前にバテてしまうわ。ここからはふたりで歩きましょう」
振り向いたキョンに微笑むと、キョンも納得したように自転車から降りる。
「……そうだな」
無言のまま自転車を押して坂道を登るキョンと、その後につづいて歩くあたし。何か話そうとしたが適当な話題が見つからない。そうこうしている内に、あたし達は北高の校門前へとたどり着く。
「誰もいないわね」
「当たり前だろ。今日は休日なんだから」
校門からまるで勝手知ったる我が家のように敷地内に入り、グラウンドの方へと向かう。キョンも自転車を押しながらあたしの後について来た。
高校生活の三年間、何度もこの校舎に通ったはずなのに……周りに見えるものすべてが見慣れたものばかりのはずなのに……なんだろう、この気持ちは。まるであたしの通っていた頃の北高とは違うみたいなこの感覚……
郷愁のような感覚を胸に抱きながら、あたしはグラウンドの中央まで歩いてきた、確かこの辺だったかな。夢の中でキョンとキスをしたのは。もしかしたら、あの夢を見た日からキョンのことを意識していたのかもしれない。
「ハルヒ……」
懐かしい想い出をひとつひとつ辿りながら校舎を眺めるあたしに、キョンはさっきまでとはちょっと違った雰囲気で名前を呼んだ。声色からして、キョンの真剣な気持ちが、決意が伝わってくる。
「俺達、もう一度……」
「あたしね……」
キョンの方を振り返ることなく、キョンの言葉を遮る。
「学生の頃は……この街にいた頃は、ずっとあんたのことばかり考えてた。どこに行くのもあんたといっしょだったし、それがあたしにとっての幸せだった。
いつか、あたしはあんたと結婚して、家庭を持って……そんなことを何の疑問も抱かずに考えていたわ。あの頃は……あんたがあたしの世界のすべてだったの」
「…………」
「でも……いまは違うわ。この街を離れて、あたしは外の世界があることを知ってしまった。この街の外であんたの知らないたくさんの人と出会って、あたしは変わってしまったわ。
いま、ここにいるあたしは、以前あんたとつきあってたころのあたしとは違う。そしてあんたももう、あたしの知ってるキョンじゃない。あたしが変わってしまったように、あんたもきっと変わってると思うわ。
だから……もう昔には戻れない……外の世界を知らなかった、あんたが世界のすべてだった、あの頃には……」
空を仰ぎ見ながら、自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。キョンは無言のままあたしを見つめていた。
「そっ……か、やっぱり……あの頃には戻れないか……」
少し沈黙した後、ちょっとだけ落胆したようなキョンのつぶやきが聞こえた。
しかし、その表情は絶望の色には染まっていない。むしろ、こうなることをどこか予想していたような表情で、自分に言い聞かせるようにつぶやいている。
きっと、キョンも心の片隅では気づいるのだろう。やり直したところで上手くはいかないと。ただ、あたし達は日常の生活に疲れて、過去の想い出にすがっているだけなのだと。
「ハルヒは……いいんだな、それで……」
問いかけるキョンに、あたしはキョンの目をじっと見つめて、決意を込め、静かな声ではっきりと答える。
「うん、それでいい」
あたしがうなずく姿を見て、キョンは少し寂しそうに微笑んだ。それでも、この時キョンが見せた微笑は、つきあい始めたあの日からずっとキョンのことを見てきたあたしにも、いままで見た中で一番優しいと思えた。
 
 
 
こうして、あたしの初恋は終わりを告げた。
思い返してみれば、あたしとキョンの関係は織姫と彦星のそれに似ていたのかもしれない。織姫と彦星は一年に一度、たった一日だけの短い時間しか巡り会えない。
あたしとキョンも、7月7日の七夕の日につきあい始め、長い長い一生のうちでたった四年間しかつきあうことができず、7月7日に別れの刻が訪れたのだから。
いまでもキョンのことを好きかと尋ねられたら、好きではないと言えば嘘になるだろう。それでもあたしはあの日、自分からこの初恋のすべての未練にけじめをつけたはずだった。
だからもうキョンとの関係は終わってしまった淡い想い出の出来事のはず。なのに、なのに、どうして過去の想い出に、いまもこうやってすがりついているのだろう。
こみ上げてくる感情を制御できない自分がいる。この席でいつまで待っていてもキョンが来るわけないのに、心のどこかであの自動ドアをキョンが入ってくるような幻想を夢見ている。
たった一枚の手紙が、あたしの心をこれほどにまで揺さぶるとは思ってもいなかった。自分がいかに弱く脆い人間かということをあらためて知ることになった。
雨はさっきよりも一際強くなり、目の前の窓に叩きつけるように降っていた。腕時計で時間を確認した後、ティーカップを手に取り、シナモンティーを飲み干した。
窓の外を一瞥し、伝票を持ってレジへと向かうと、レジにはハカセ君がいた。
「ありがとうございました」
「ハカセ君……このアルバイトは長いの?」
「ええ、大学に入ってからずっとです」
「そうなんだ」
会計を済まして、他愛ない会話を交わしてから立ち去ろうとするあたしに、ハカセ君は傘を差し出した。
「使ってください」
「え、でも……これは忘れ物じゃないの?」
「いいんですよ。この店も今月いっぱいで閉店だそうなので、店長にも了承をもらってます」
ハカセ君から告げられた予期せぬ事実に、あたしは驚きを隠せなかった。一瞬言葉を失いハカセ君の顔を見つめる。
「そうなんだ……知らなかった……」
「だから、ハルヒさんが来てくれた時、嬉しかったんです。いつか僕がここでハルヒさんにケーキをご馳走しようと心に決めてましたから」
ハカセ君がニコッとあたしに微笑む。そんなハカセ君の表情を見て、胸に切ない想いがこみ上げる。
「寂しくなるわね。だんだんこの街も変わっていくわ。知り合いも友人もいなくなってしまったこの街は、もうあたしがいたころの街じゃないみたい」
寂しそうに店内を見回すあたしを、同じく少し寂しげな表情でハカセ君が見つめる。
「でも、僕はこの街が好きなんです。だから、例え街が変わってしまっても、僕は一生この街で暮らしていくつもりです」
笑顔であたしを励まそうとしてくれたハカセ君だったが、その瞳には信念のような力強い何かが宿っているように感じた。その姿は、あたしが家庭教師をしていた頃のハカセ君とは、まるで別人のように思えた。
そんなハカセ君の姿を見て、いつまでも過去の想い出にとらわれてウジウジしている自分が惨めで情けなく感じる。前を向いて生きていこうと、あの日心に誓ったはずなのに……
過去への未練はこの喫茶店に残していこう。そう決意して、手元のバッグから手紙を取り出し、ハカセ君に手渡す。
「これ、適当に処分しといてくれないかしら」
「え、何ですかこれ?」
「あたしの未練……かな。想い出といっしょに、この店に残していくわ。初恋の想い出といっしょに……ね」
「わ……わかりました」
きつねにつままれたような表情であたしを見ているハカセ君を後にして、あたしは喫茶店の自動ドアをくぐる。夕立の中、ハカセ君から手渡された傘を差して駅へと向かった。
突然降り出した雨は、まるであたしの代わりに空が泣いてくれている涙のようにさえ思えた。そしていつの間にかあたし自身も涙を流していることに気づく。
だが幸いなことに、黒く大きな傘と夕立が道行く人々からあたしの涙を隠してくれた。そういえば、キョンといっしょに一つの傘で帰ったときも黒く大きな傘だったっけ。
もしかしたらこの傘は……ここまで考えて、あたしは考えるのを止めた。想い出は、未練はあの喫茶店に残してきたはずだから……
ハカセ君に手渡した手紙の裏には、キョンと佐々木さんが少し照れながらお互い身体を寄せ合って笑っている様子が写っていた。そしてその片隅には一行の文字。
『7月7日、わたしたちは結婚したのでご報告いたします』と。
 
 
~終わり~


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