「大丈夫ですか? 朝比奈さん」
薄暗い洞窟の中で、心配そうにわたしの顔を覗きむ、懐中電灯の明かりに灯されたキョンくんの顔がいつもよりもずっと凛々しく見えて、胸の鼓動は早くなるのが分かった。
「大丈夫です。ごめんなさい、心配ばかりかけて」
「いえ、そんな……俺の方こそ頼りにならなくてすみません」
少しホッとした表情で微笑みかけるキョンくんを見て、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じ、慌ててわたしはキョンくんから視線を逸らした。
外には一メートル先すら確認できない暗闇があり、びょうびょうと吹きすさぶ吹雪の音だけが聞こえてくる。懐中電灯の薄暗い明かりに灯された洞窟の入り口は、まるで巨大な魔物が口を開けているようにさえ思えた。
わたしが無事であることを確認した後、キョンくんは洞窟の入り口付近まで歩いて行き、しばらく外の景色を眺めると、
「ふう」
落胆したような様子で大きく溜息をついて振り返り、もう一度わたしに優しく微笑みかけながら、
「どうやらしばらくここで助けを待つしかなさそうですね。ハルヒ達が無事だといいのですが……」
まるで自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。
「涼宮さんのことが心配なんですね」
わたしがそう問うと、一瞬だけ虚をつかれたような表情をわたしに見せると、それを誤魔化すように、
「いや、心配はしてないですよ。アイツは殺したって死ぬようなタマではないですからね。それに長門や古泉がついているから最悪どうにかなるでしょう。それより俺達のほうが問題ですよ」
そう言って、まったく心配などしていないとわたしにアピールした。
口ではそう言いながらも、キョンくんが涼宮さんのことを心配していることは、手に取るようによくわかった。なぜなら、わたしはキョンくんへの想いに気づいてから、ずっとキョンくんのことを見つめ続けてきたのだから。
自分が遭難しているときでさえ涼宮さんの安否を心配しているキョンくんの姿を見て、そんな風にキョンくんに想われている涼宮さんが羨ましく思えた。
「まったく……雪男などいるはずがないのに、こんな山奥まで来たら帰ることもままならないんじゃないのか」
涼宮さんへの愚痴を口にしながら、キョンくんはもう一度大きく溜息をついた。わたしはそんなキョンくんの様子を複雑な心境で眺めていた。
「すみません、朝比奈さん。あの時俺がなんとしてでもハルヒを止めるべきでした。そうすれば、こんなことにならずにすんだのに……」
「そんな風に自分を責めないでください。雪男を探すのは楽しかったですよ。この吹雪はキョンくんや涼宮さんのせいではないです。ただの不慮の事故ですよ」
「そう言ってもらえると、俺も救われた気になりますよ」
しばらく他愛ない会話を交わした後、お互い話す話題もなくなり洞窟の中に沈黙が漂い始める。キョンくんは洞窟の壁の一点を見つめ、深刻な表情で何かを考え込んでいた。洞窟の中にはびょうびょうと吹きすさぶ風の音だけがあった。
いま、キョンくんはいったい何を考えているのだろうか。
山のふもとに残してきた妹さんのこと、それともはぐれてしまった涼宮さんの安否、それとも…………
ただ一つ言える事は、いまキョンくんが持っている現状の認識と、わたしの持っているそれには大きな隔たりがあるということだ。わたしはそのことを知っている。なのにキョンくんにそのことを告げるのを躊躇っている。
これはキョンくんに対する背信行為だろうか。後ろめたい気持ちが心にひっかかりながらも、わたしは微動だにせず、洞窟の隅にしゃがみこんでキョンくんを眺めていた。
どれぐらいの時間そうしていただろ。
やがて時間が静止しているかと思われた洞窟の中の状況に変化が訪れた。わたし達を照らしていた懐中電灯の明かりがうっすらとではあるが確かに弱くなったのだ。
そのことに気づいたキョンくんが慌てて立ち上がり、懐中電灯が置かれている場所へと歩み寄る。
「どうやら、そろそろ電池が切れかけているようです。ちょっと不安かもしれませんが、いざという時のために電気は消しておきましょう」
懐中電灯を手に持ち、しばらくそれを眺めた後、わたしの方を向いてニコッと笑いながらそう言った。その微笑からは不安の色はまったく微塵も感じられなかった。
そして、それ故にわたしの心は大きく揺さぶられた。いまのこの状況でキョンくんが不安を感じていないわけはない。わたしを怖がらせないために必死で無理をしている。
そんなキョンくんの心遣いを感じて、言葉を返すことができず、ただうつむいていると、キョンくんはわたしが怖がっていると思ったのか、傍に来てしゃがみこみ、覗くようにわたしの顔を見た。
「大丈夫ですよ、朝比奈さん。きっと夜が明ければハルヒ達が助けに来てくれますよ。だからそんなに気を落とさないでください」
わたしの肩を抱くキョンくんの手が震えているのがわかった。キョンくんも怖いのだ。なのに、わたしを励ますために必死でそれを見せないようにしている。
そんなキョンくんの心遣いが愛しい。その優しさが…………なのに、なのに……わたしは…………
考えるよりも早く、わたしはキョンくんの胸に飛び込んだ。キョンくんの胸に顔を埋め、そのまま腰に腕を回す。
「朝比奈……さん!?」
戸惑ったようなキョンくんの声が聞こえた。
「しばらく……夜が明けるまでこうさせていてください。キョンくんの温もりがあれば、わたしはどんな暗闇も怖くありません。だから……」
胸に顔を埋めたままそう告げる。キョンくんの胸の鼓動が早くなっていくのがわかった。
キョンくんは、しばらく一言も発することなく固まったままだったが、やがて身体の力が抜けてわたしの意見を承諾してくれたのがわかった。
電気が消え、キョンくんの手がわたしの身体を優しく包む。洞窟の中にはわたしとキョンくんの二人きり。キョンくんの温もり、息遣い、胸の鼓動、そのすべてが愛しい。
絶え間なく聞こえてくるびょうびょうと吹きすさぶ吹雪の音さえ、いまのわたしには、どこか非現実的な出来事のように思えた。いまのわたしにとって、目の前にある現実はキョンくんの温もりだけ。
涼宮さんの顔が脳裏に浮かぶ。この温もりがわたしのものではないことは知っていた。それでも、いまのこの刹那の時間、この洞窟で過ごす間だけは、わたしだけのもの。
いまだけは、涼宮さんにもこの幸せを邪魔されたくない。いまだけはわたしの、わたしだけのキョンくんだと思わせて欲しい。たとえその幻想が偽りだとわかる時が来る運命であったとしてもかまわない。
この刹那の時間のために、他のすべてを投げ出してもよいとさえ思えた。それほどに、わたしはこの時が来るのを渇望していたのだ。
だが、現実は非情だった。予想だにしなかった出来事がわたしの幸せの時間を引き裂いた。
ピリリリリリリリリリリ
突然、場違いなけたたましい電子音が洞窟の中に鳴り響く。わたしはキョンくんの胸から顔をあげて、慌ててポケットから携帯電話を取り出す。
「やっほーい、みくる元気かい。いまどこにいるにょろ?」
「つ、鶴屋さん?」
「おんや~、もしかして取り込み中にょろか?」
「あ、朝比奈さん?」
何事が起こったのかと懐中電灯の明かりを点けたキョンくんが驚愕の表情であたしを見つめていた。
「あれ、キョンくんの声が聞こえるねぇ。もしかしてみくるはキョンくんと二人っきりなのかな? 男女の仲をとやかく言うのは野暮だけど、ハルにゃんを裏切るようなことをしちゃ駄目っぽよ、みくるー」
「え、えっと、あの……」
「あははは、わかってるっさ。みくるがそんな娘じゃないってさっ。じゃあ、お邪魔虫はこれにて退散するにょろよ。ハルにゃんによろしく言っといてっ」
電話が切れると、洞窟の中には沈黙が戻ってきた。キョンくんは状況が把握できないといった表情でわたしを見つめている。あまりの気まずさに身体が震え、涙が溢れてきた。
「え、えっと……朝比奈さん?」
「ごめんなさいっ」
わたしに手を伸ばそうとしたキョンくんの手が触れる前に、わたしはその場に土下座をして頭を下げた。キョンくんはなお状況がわからない様子で目を白黒させてわたしを見ている。
「実は……わたしは最初から連絡の手段を持っていたの。でも、それを言い出すことができなくて……」
「い、いえ、それは別に……それより、電話が通じるのでしたら助けを呼ぶこともできるのでは……」
「待って!」
携帯に手を伸ばそうとしたキョンくんを、わたしはその手を掴んで静止する。
「夜が明ければ涼宮さん達が救助に来ます。これは既定事項なんです。わたしとキョンくんが遭難することも、日が昇れば涼宮さん達が来ることも。
だから……だから、一夜だけ、一夜だけでかまいません。このままわたしと一緒に過ごしてください」
キョンくんの手を掴んで必死で懇願するわたしの姿を、最初は唖然とした表情で眺めていたが、そのうちキョンくんの中で結論が出たのか
小さく溜息をついた。
「わかりました。じゃあ、今日は一晩ここで過ごしましょう。だから、もう顔を上げてください。そんな風にお願いされると俺……」
「ありがとうございます」
心なしかキョンくんの表情からはさっきまでの緊張感のようなものがなくなっているように感じた。
無事助かることがわかったからだろうか。涼宮さんが無事だということを知ったからだろうか。それとも、いままでずっとわたしの身を心配してくれていたのだろうか……
答えは……わたしにはわからない。
「じゃあ、電気を消しますよ」
「はい」
キョンくんの問いかけに小さく返事をする。できることならさっきみたいにキョンくんの胸の中で眠りたかった。でも、それはもうできない。それでも、勇気を振り絞って……
「あ、待って」
「え?!」
「あ、あのう、こんなことを頼める立場ではないですけど……寝るときに手を、手をつないでもらえませんか? その……ひとりだと……心細い……」
「……いいですよ」
ニコッと笑いながら、キョンくんはスッと片手を差し出した。その手をゆっくりと握り締める。さっきとは違い大分キョンくんとの距離を感じるが、それでもこの手からキョンくんの温もりが伝わってくる。
電気が消え、わたしもそのまま目を閉じた。目から溢れた涙が頬を伝っていくのがわかった。
洞窟の中には静寂が戻ってきて、びょうびょうと吹きすさぶ風のだけが聞こえる。朝になればこの吹雪は止み、涼宮さん達がわたしとキョンくんを迎えに来る。わたしはそのことを知っている。
それでも、いまだけは涼宮さんよりも誰よりも、わたしはキョンくんの近くにいる。夜の闇と吹き荒れる吹雪がキョンくんとわたしの二人だけの時間を過ごすことを許してくれているのだ。
だから、この吹雪がこの夜がいつまでも続いて欲しい。叶わない願いと知りつつ、わたしは彼の温もりを感じながら夢の世界へと旅立っていった。
 
 
~終わり~
 

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最終更新:2009年05月31日 03:01