今日の天気は雨、のち曇りでございます。
客足も遠のき、私は日がな一日を送っておりました。
そういえば嫁が言っていたのですが、近くの教育機関や公的機関では休校やイベントの中止が相次いでいるようで。
ヨガ教室も商売上がったりだよと、こぼしておりました。
巷ではインフルエンザのニュースで持ちきりでございます。
皆様もうがいや手洗いをするなどして、お体にはどうかお気をつけくださいね。
おっとすみません、挨拶が遅れてしまいました。
こんにちは。私、喫茶店ドリームのマスターでございます。

 


◇ ◇ マスターの並列 ◇ ◇

 

 
──カランコロン。

 

 
いつものように鈴の音で迎え入れたのは童顔の青年。いらっしゃいと声を掛けますと、彼は二コリと微笑みを返してくださいました。
私も見覚えのあるその顔に少しだけ頬が緩んでしまいました。記憶が正しければキョン君や涼宮さんのクラスメイトの国木田くん、でしょうか。
涼宮さんたちが私のために開催してくれたいつぞやのパーティーは本当に楽しいものでした、彼もその時に一緒になって祝ってくださった事をしかと覚えております。
国木田くんはカウンターテーブルにかけると、ブレンドをひとつ注文しました。彼は何か考え事をしているのか、その表情はどこか上の空といった感じでそこからしばらく黙っておりました。
蓄音機から聴こえてくるのはJAZZのメロディーライン。
シンガーの女性が虹の向こうへ行こうと誘いかけ、コーヒーの香りがそれを包む。
どこか幻想的だとさえ思えるこの空間の中に私と国木田くんの二人。
奇妙な取り合わせだと、いつも思います。
私とお客様は、こういった場所で出会わなければおそらく一生出会う事も無かった事でしょう。
違う価値観、違う思考回路、外見から内面にかけて何もかもが違う二人は一生交わることもなく、平行線のまま。
しかし、神のお導きか今こうして出会うことができた。今は、それそのものに感謝する毎日でございます。
お店を開いていて良かったと思える瞬間の一つでございます。

 

 
国木田くんが口を開いたのは、カップのコーヒーが無くなりそうになった頃の事でございました。
「ねえマスター、ちょっと聞いて欲しいことがあるんだ」
聞いて欲しい事、という魔法のキーワードに心躍ってしまうのはこの歳になれば仕方の無い事なのでしょうか。
冒険をするにはいささか年齢を重ねすぎた私に新鮮な風を送り込んでくれる。
自分では知りもしない世界に連れて行ってもらえる気がして、私はついウキウキとした気分になってしまいます。
「ほほう、何でございましょうか。私でよければお力になりますよ?」
「あのね、ちょっとショックなことがあって」
その様子と声色から本当に何か重大な事があったのだろう、と読み取れる事ができたのはこの職業に就いていたおかげなのかもしれません。
喫茶店を経営するというのは本当に様々な年代、性別、職業の方とお話する機会を得る事だという事に最近気がつきました。
彼らの話の大半は今悩んでいる事であったり、不安に思っている事であったり。どちらかと言えばマイナスの類のものでございました。
私としてはその人のお話を聞く事しかできないのですが、それがその人にとってプラスに働くのであれば私は喜んでそういたします。
それが今この場所、今この時に私ができる事だと思うのです。
何せここは、喫茶店ドリームなのですから。

 

 
「ショック……でございますか」
私は重々しく頷きました。
国木田くんは考え込むようにして沈黙を続け、時計の針が時を刻む音が普段よりも大きく聞こえた気がしました。
しかし、しばらくすると国木田くんは思い至ったかの様にこう切り出しました。  
「ねえマスター」
「はい、何でございましょう」
「ここって、北高のSOS団って人たちがよく来てるんですよね」
SOS団と聞いて最初に思い浮かんだのは黄色いカチューシャの彼女の事。
「確かに、涼宮さんはじめSOS団の方々にはご贔屓にしてもらっていますなあ」
私の頭の中でカチューシャがフワリと揺れ、次に思い浮かんだのは、
「……朝比奈みくるさんって知ってる?」
まさにその人でございました。

 

 
「朝比奈さんでございますか? あの可愛らしいお方の事でしょうか? その方の事でしたらもちろん存じ上げてございます」
「……そう」
「一度私の家に泊まられたくらいで、私の嫁ともとても仲良くしておりましたよ」
「え? じゃあマスターもあの人の秘密知ってるの?」
はて。
秘密といいますと?
と、私は少しばかり思考を巡らせましたが、すぐに一つだけ思い当たる事がありました。
「秘密……、というと。……ひょっとしてあの事ですかな? 確かに最初は驚きましたが、最近の女の子ではさほど珍しいものではない気がしますが……」
あの事は秘密になると言えば、秘密になるのでしょうか。たしかにあの様なことを触れ回られて良い思いをする人は居ない事でしょうが。
朝比奈さんが私の家に泊まる事になった原因といえば──
「――やっぱり、さすがマスターだね。あなたを見た瞬間から、もしかしたらって思ったんだ」
どこかうそ寒いものを感じつつも、私は国木田くんの言葉に耳を傾けました。
「だけど、僕はそれを許容できるほど大人じゃなくて、むしろ期待が大きかっただけにどうしても許せなかったんだ」
どうしても許せないと国木田くんは言いました。
どうしても、許せない……ですか。
「期待でございますか。……たしかに知らぬが仏で、知らない方が幸せで居れた事も世の中には間々あるのかもしれませんな。現実は往々にして冷たく、それでいて無情なものです」
「じゃあ、マスターはあれを知ったときどうだったの?」
「私でございますか?」
あれ、というのはやはりあれの事でしょうか。
「うん。だって朝比奈先輩、すごく可愛いから」
たしかにそれには同意致します。
大いに頷いた後、思わず嫁が居ない事を確認してしまったのはご愛嬌というもの。
この瞬間を目撃でもされていたら……、後でどんな目に合わされる事でしょうか。そうならない事を願うばかりでございます。
閑話休題。
「はは、朝比奈さんも罪なお人だ。こうやって一人の男性を虜にしているのですからな」
私は続けました。
「ですが、罪を憎んで人を憎まずという言葉があります。私は狼狽するばかりでしたが、朝比奈さんにとって一番良い事をしたつもりでいます。その判断が間違っていなかったとは言い切れませんが、結果として朝比奈さんはとても喜んでくださいました」
貧血の処置にあたふたしてしまったとは口が裂けても言えない私でございました。

 

 

反省と後悔は往々にして一過性のものにすぎないとは私にコーヒーのイロハを教えてくださった師匠の言葉でございます。
「……そっか、そうだよね。思い返してみると、僕がいけなかった気がする」
だから、私は続けました。
「その様な事はありませんよ」
「……え?」
「大切なのは後悔や反省ではなく、これから先どうするかでございます。過去よりもむしろ未来の方を見るべきです、黒木田くんはもうそれが出来ているではないですか」
いけなかったと思ったのならば、後は次にどうすれば良いのかを考えるだけ。
国木田くんも、ひょっとしていざという場面に何もできなかった自分を悔やんでいるだけなのかもしれません。
しかし、今はこうやって私と話をする事で一歩でも解決に近づけるのなら。
私は協力を惜しみません。
それが私の役割の様な気がするのです、というのは少し大げさでしょうか。
「マスター。なんだか僕、目が覚めた気がするよ」
「はっは、すみません。年寄りの戯言です」
いつもながら説教染みた話になってしまい申し訳ないと思った私はこう続けました。
「どうですか? 目覚めの一杯、私が持ちますよ」
「じゃあ……エスプレッソで」
国木田くんの弾ける笑顔が印象的で、どこか吹っ切れた様子でございました。

 

 
外はいつの間にか晴れ、空には虹の足跡。
女性シンガーは私達に「虹の向こうへ行こう」と語りかけます。
国木田くんがこれから向かう虹の先には、一体何が待っているのでしょう。
私はいつもそれを想像しながら、コーヒーを淹れる。
何もできない私ができる唯一の事、それは願う事。

 

 
さて、喫茶店ドリーム。

 

明日はどんなお客様がご来店になるのでしょうか。

 

美味しいコーヒーを用意してお待ちしております。

 

 

 

 おわり。

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最終更新:2009年05月24日 21:27