『涙』

SOS団の活動の一環として毎週土曜日に駅前に集まり、不思議探索をする。という
涼宮ハルヒの提案――発言した時点で既に決定事項なのだが――に誰も反発する事
は無く、勿論キョンは反対したがハルヒは聞く耳を持たなかった。半強制的に決定
された不思議探索の第一回目の午前の活動時にキョンはある少女に驚愕の事実を伝
えられた。
その少女というのは、愛玩動物の様な愛らしさを持つ朝比奈みくるであった。
みくる曰く、「私は未来から来ました」という突拍子の無いものであり、例の如
くキョンは戸惑いながらも、先の長門の件があった為、彼女の言葉をすんなりと受
け入れる事は出来た。
週明けの放課後、文芸部室から古泉一樹を連れだしたキョンは、彼の素性を聞き
出し、いわゆる超能力者と閉鎖空間なるものの存在を知る。
その後、古泉一樹が閉鎖空間へとキョンを伴い、そこで現在起きている事象の一
部である、異層空間である閉鎖空間にて"神人"と呼ばれる巨人、それと相対する超
能力者により戦闘を目の当たりにする。
──この世界は、何処で歯車が壊れてしまったのだろう。

*

とある放課後、文芸部室にて暇潰しにでもと、SOS団で唯一の同性である古泉一
樹との将棋を飽く事無く繰り返していた。
初めは、単なる暇潰しの為に自室の押し入れの奥にしまいこんだオセロを持って
きて、朝比奈みくるに手解きしながら暇を潰していた。それで興味深そうに眺めて
いた古泉と打ち合った事がきっかけになったのだろう。
古泉は趣味の合う相手が身近に居た事に歓喜に震え、多種多彩のボードゲームを
持っていると言って、部室の一画に一つ、又一つとボードゲームを積み上げていっ
た。
そんな姿に内心苦笑しつつも、付き合っているキョンであった。
現在の盤上はキョンが優位に進めている状態であり、古泉は予想外の戦略に翻弄
されながらも健闘を見せている。
「飛車は頂いた」
「くっ……、その手はお見通しでしたよ」
痛恨の一手に僅ながらも張り付けた澄まし顔が歪む。
古泉は、痛手を負った自分の布陣を目線だけで確認し、次の手を練る。若干皺の
寄った眉根が彼の苦心を露にしていた。
そんな、古泉の一挙手一投足に目を見張っていたキョンは、口角をにやりと上げ
た。
連勝に加え優勢に心のゆとりがあった為か、部室内に目線を泳がせた。
団長席と書かれた三角錐の乗る机で一人何かをごちながらコンピ研から略奪した
最新型のデスクトップでネットサーフィンでもやっているのだろう人物を視界に入
れる。
マウスをカチカチとせわしなく叩き、目当ての物を見付けたのだろう、「ふふん」
と満面の笑みで吐息を洩らす。
(いつ見ても忙しそうだな、お前は……)
その隣では、パイプ椅子に腰を下ろし、茶葉に関する専門書をいつにも増して真
剣になり読み耽っている朝比奈みくるを見た。
(朝比奈さん、何であなたは律儀にもメイド服を着続けるんですか?)
どうでもいい疑問が浮かぶ。
彼女は涼宮ハルヒが、「明日から部室に居る時はこれを着る事!いいわね?」と
命令口調で言われ、さながら小動物の様に小刻に震えながらも必死に首肯を繰り返
し、それを承諾してしまったのだ。
以来、朝比奈みくるはSOS団専属のメイドになってしまったわけだ。
(本人が気に入っているなら……、それでいいが)
それに目の保養にもなる。
最後に部室の窓際の指定席で分厚いハードカバーを読んでいる眼鏡娘を見た。
相変わらず、視線は文字を追うだけの作業に徹している。一体、何を読んでいる
のだろう。気になったキョンは両目を眇たが、長門の小さな手が阻んでそれを確認
する事は叶わなかった。

その何でもない平穏な日常を一通り眺めた後、キョンは嘆息を漏らした。
(こうしていれば、皆普通に見えるのにな……)
キョンは長門の言葉を反芻しながら、情報を整理し始めた。
(「涼宮ハルヒは意識的にしろ無意識的にしろ、自分に都合の良い環境を造り出す」)
その言葉の通りになっている。現に、SOS団のメンバーの中に、曰く宇宙人、未来
人、超能力者が集っている。
それはまさに、涼宮ハルヒの願望の現れでは無いのか?キョンは入学早々、涼宮
ハルヒの自己紹介を反芻した。
(「この中に、宇宙人、未来人、異世界人、またはそれらに準ずるもの」)
まさか、本当なのか?
キョンは疑念を抱いたまま、またそれらの明確な証明が何も成されていないため、
どうにも信憑性に欠けてはいたが、少しずつ長門の言葉を信じ始めていた。
「どうされたんですか?何か……悩み事でも?」
不意に掛けられた言葉に思わず体がびくり、と上下に揺れる。
「いや……ちょっとな」
「僕で良ければ相談に乗りますよ?」
「断固、遠慮させてもらう」
「そうですか。それは残念だっと……」
パチッと乾いた音が部室に響く。
「その手は読んでたぜ」
古泉の閉じられていた切長の双眸がゆっくりと開かれた。自ら敵の策中に陥った
古泉であった。

その日の団活も、部活動終了を告げるチャイムより、一拍程早い長門の本を閉じ
る音を合図に解散する事になった。

*

「遅いな……」
夕陽が辺りを茜色に染め上げ、虫の羽音が奏でる音を堪能しながら昇降口の前で
佇む少女、朝倉涼子は嘆息混じりに一人ごちた。

涼子は一人の少年を待っていた。
今日は帰りに買い物に付き合ってくれると約束していたのだが。その事に聞耳を
立てていたハルヒが、無理矢理SOS団の活動に連れ去ったのだ。
ハルヒに対して、キョンは今日は予定があるから帰ると申し出たが、「駄目よ。
団員としての自覚が全然なってないわね!」と逆に叱咤されてしまう。
特に、何をする訳でも無いのだが。
ハルヒは自覚の無い、理不尽に胸を締め付ける感覚を振り払う為にやっただけだっ
た。

涼子は空を仰いだ。
茜色に染まる雲の切れ間から覗く、うっすらと光る星の海。
個体として酸化惑星の自然を感じるというのは、実に悪くない気分だった。
産み出されて三年の時しか経てない涼子には全てが新鮮に感じる事が出来た。
「朝倉……?もしかして待ってたのか?」
待望していた声が耳朶を叩いた。
ゆっくりとした動作で振り返ると、そこには不機嫌そうに顔を顰めた涼宮ハルヒ、
何事かと視線を慌ただしく動かす朝比奈みくる、澄まし顔で涼宮ハルヒを宥める古
泉一樹、視点を本に納めながら微動だにしない長門有希。そして、異能者の中に居
る、唯一一般人となんら変わりない少年キョン。
言わずと知れたSOS団の面々がそこに居た。
涼子は頬にかかった髪を耳に掛ける。
さて、何と言って困らせてやろうか。散々待たされた上に、このまま置いていか
れたら堪ったものではない。
今日の買い物は二人の共通の友人の少女に関しての物だ。
その少女の名は長門有希。
先週の土曜日、不思議探索を行うという涼宮ハルヒの提案の元、SOS団の野外活
動が行われた。
その時、長門の服装は北高の制服に黒のカーディガンを羽織ったものだった。
休日に制服姿、というのは特に珍しいものではないのだが、私服姿の連中に混じ
って行動するのは如何なものか。と、長門の私生活を目の当たりにしたキョンが、
長門の今後を懸念して涼子に相談を持ち掛けたのだ。
そう、今日は長門有希の私服を購入する為に市外のショッピングモールに行こう、
という約束をしたのだ。
だが、思わぬ邪魔が入った――涼宮ハルヒがキョンを強引に連れていった――為、
涼子は今日は諦めて帰ろうと一時考えたが、しかし涼子は待つ事に決めた。
無粋な長門有希の為、というのもある。だが、キョンと一緒に出掛けられるとい
う事に心踊る思いでいた為に諦めずにはいられなかった。
だが、キョンにとっては予想外の事態であろう。故に、今も困った顔をしている。
そんな彼をこれ以上困らせていいものか?もし、それが原因で彼が自分を避ける
様になってしまったら?自分に宛がわれた任務には支障はない。が、駄目だ。彼に
は嫌われたくない。
そんな想いが錯綜する中、涼子は躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「遅いよ」

茜色に染まった髪が、蒼白い顔が、とても綺麗だった。
キョンは息を呑んだ。
呆然と、一人の少女をただ見詰めていた。
確に放課後、買い物に付き合ってと頼まれた。それも、自分が相談した事が起因
しているとあれば断れるはずもない。
だが、涼宮に強引に団活に参加させられ、朝倉は既に帰宅したと思っていた。
それ故に、キョンは驚愕を隠せないでいた。
「……ほら、何してんのよ。約束してるんでしょ?行けばいいじゃない、さっさと
行きなさいよ!」
さすがの涼宮もここまでされたら折れるのか。と一人得心し、苛立ちと苦虫を噛
み締めた様な表情を見て苦笑した。
古泉の携帯が鳴る。
(すまんな、古泉。これはきっと規定事項なんだろうよ)
心の中で、エスパー少年に謝っておく。
「ああ、すまんな。じゃあ皆、今日はここで」
そう言って、SOS団の面々と別れた後、躊躇いがちに此方を見詰めている少女の
元に歩み寄った。
「すまん、待たせた。すっかり帰ったものかと思っていたしな……。その、今日は
悪かった」
これだけで許してはくれないだろう。
だが、朝倉は違った。
「いいよ、私が待っていたかっただけなんだから」
そう言って、許してくれた。笑ってくれた。
それだけなのに、キョンはその笑顔に心底見惚れてしまった。
脳は熱にほだされ、体中に電気が走った様に痺れる。
「どうしたの?」
「いっいや、何でもない!」
朝倉に怪訝な面持ちで見上げられ、堪らずに視線を逸らした。
激しくなる動悸。
初めて体感する感覚に翻弄され、混濁とした意識の中、朝倉に手を握られた。
「おっ……、おうっ、おうっ」
側から見れば、それはオットセイの喘ぎ声に聞こえたかも知れない。
だが、必死なのだ。
必死で欲望の渦巻く混沌の境地へ旅立とうとする意識を繋ぎ止めているのだ。
「ちょっと、大丈夫なの?」
これにはさすがに動揺したのか、朝倉は目を丸くしていた。
狼狽せずには居られなかったキョンは、必死にかぶりを振り、何とか平静を取り
戻す。
「だ……大丈夫だ」
確りとした言葉で答え、しかし、高揚した顔に脂汗に滲ませ、顔をヒクつかせて
いれば大丈夫では無いのは一目瞭然なのだが、それでも言い張った。
「大丈夫……かも」
「なあにそれ?もう、しっかりしてよね」
二人の笑い声が、暮れ行く空の下、響き渡った。

*

「これなんかどうかな?」 涼子は手に取った薄桃色のカーディガンを、左手に
持っている
白いワンピースに合わせた。
顎に指を添えそれを見つめ、たっぷり十秒唸っていたキョンは、
「こっちのほうがあいつに似合うんじゃないか?」
薄緑色カーディガンを手に取り、涼子の持つ白のワンピースに重ねる。
「あっ、それいいかも」
涼子は納得の頷きで答え、「じゃあ買ってくるね」とレジに向かって行った。
二人は今、市外の駅ビルの二階にあるアパレル専門店にいる。
二人の共通の友人である長門有希の為なのだが、これはデートなのだろうか?
「うぅむ……」
何故か、後ろ髪を引かれる思いでいたキョン。
朝倉涼子、クラスメイトである少女。容姿端麗、成績優秀、運動能力は抜群。比
較の対象にならない程、何の取り得も無く情けない事この上ない自分に、何故か近
付いてくる少女。
(まさか、朝倉も涼宮が目的で……?)
疑念に駆られたのは一瞬、朝倉はすぐに駆け戻って来た。
「お待たせ」
「おう、金は足りたか?」
「うん。キョン君にも出して貰っちゃったし……、本当に今日はありがとうね」
「いいよ、元々は俺が言い出した事だし……、それじゃ行こうか?」
「うん」
キョンが店を出る様促すと、朝倉は満面の笑みで答えた。
ふと、時計に視線を下ろす。十九時を回っていた。それもそうだろう、北高を出
た時点で十七時を過ぎていたのだから。
「もう、こんな時間か。朝倉、時間平気なのか?親御さん、心配するだろ?」
「……え?」
朝倉の表情が固まった。何か、触れてはいけない事情があるのだろうか。
朝倉は二の句を告げずにいた。そのまま顔を顰め、俯く。
「朝……倉?その、聞いちゃいけない事情があったなら……、その……すまない」
「……うん、平気……だよ?それより、キョン君こそ時間は平気なの?」
申し訳なさそうに謝るキョンに、涼子は微笑み、自分に向けられた言葉をそのま
ま返す。
「俺は、まあ大丈夫だよ」
キョンも微笑みで返した。だが、それ以上会話が続かなかった。

*

駅前を抜け、辺りは昼間の喧騒が嘘の様にすっかりと静寂に包まれていた。
空を仰げばそこには星々が、夜空というキャンパスに散りばめられた宝石の様に
爛々と輝いている。
ふと、隣を歩く少女に目線をやった。
月明かりは隣を歩く少女の髪を妖しく照らし、微風になびく髪からはシャンプー
の香り。それだけで、緊張もするし鼓動も早くなる。自分がどれだけ異性に対して
免疫が薄いのかが解る。
今までの人生で、この様な希薄な時を過ごした事があっただろうか。
……記憶の残偲に色濃く残るのは一人の少女。
だが、その少女と共に居た。という形での記憶しかない。時系列に沿った記憶等
は無い。過去というものが明確ではなかった。
まるで自分という存在が、現在にしか存在していないみたいな、妙な感慨を抱い
た。
(いかんな、最近どうにも調子がおかしい。涼宮にでも感化されたか?……それは
ないな)
そんな思考を巡らせながら、キョンは馬鹿な事を考えている事に気付き、かぶり
を振った。
「どうしたの?」
不意に声を掛けられ、上擦りそうになる声を必死に抑え、キョンは答える。
「いっいや、何でもない。何でもないんだ」
「そう?ならいいんだけど」
そう言うと朝倉は口を噤み、それきり喋らなくなった。
(なんなんだろうな、このぎこちなさは……)
居心地の悪さだけが身に染みている。
先程、彼女に親の事を聞いた事が皮切りとなったのだろう。以来、会話という会
話が成り立たず、現状に至る。
そんな居心地の悪さを歯噛みしつつ、目前に迫った高級分譲マンションに辿りつ
く。
「今日は、ありがとう。キョン君。きっと長門さんも喜んでくれると思うよ」
「ああ、そうだな」
気のない返事しか返せない。そんな己に自己嫌悪を抱きつつも、キョンは出来る
限りの笑顔で別れを告げる。
「……また明日」
朝倉は一瞬顔を曇らせ、長い睫から覗く瞳に陰りを落として俯く。
(何で……、そんな顔をするんだよ)
胸の奥が痛む。
ややあって、面を上げた朝倉は微笑んでいた。
「……じゃあ、また明日」
朝倉は踵を返し、小走りでエントランスに駆け込んで行く。その後ろ姿を見送っ
た後、深い溜め息が溢れた。これでは、朝倉と居た時間が窮屈であったと言ってい
る様なものではないか。
「……駄目な男だな、俺は」
自嘲気味な言葉を洩らした。
「そういえば……」
そして、駐輪場に自転車を置きっ放しにしていた事に気付いた。

*

何で、失敗ばかりするんだろう。
人間が相手なら何万通りもある状況パターンから、相手の行動を予測し、結果に
応じて動く事は容易い。
しかし、彼に対してはその予測の時点でつまづいてしまう。
解ってはいた。解ってはいるのだが、全てを演算処理で解析する対有機生命体コ
ンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの朝倉涼子には難儀であった。
彼女達は人間を模して創造されたが、人間という生命体の活動の大部分を締める
"感情"が無いのである。
状況に合わせて表情を形成したり、最善と思われる行動を選択するのが常だが。
本来ならば、時間という概念が適用されない彼女達は、時間軸の流れに対して指定
した座標の情報と同期する事が可能なのだが。
ある男が関わる因果は同期の時点でエラーが生じてしまい、正確な情報を得る事
が出来ない。
ある男――涼宮ハルヒに最も近しい位置にいるキョンという綽名の少年。
初めこそ、単なる気まぐれかと思ってはいたが、涼宮ハルヒが行動を起こすきっ
かけを彼が全て与えているのを見抜き、彼が涼宮ハルヒに与える影響力を利用して、
一向に動きを見せない観察対象に対して一石を投じるつもりでいたのだが……。
今は、それどころではない。己を制御するのでやっとだった。
彼女は今、自室のベットに横たわり、唇を噛み締め、シーツをくしゃくしゃに握
り絞めながら、押し潰されそうになる胸の痛みに耐えていた。
「……やだよ、こんなの……」
目尻に溜った滴が頬を伝わってシーツに染み込んで行く。
「……あれ?やだ、なにこれ……。私……、泣いてるの……?人間、みたい……
じゃない……」
そんな訳ないのに。
自嘲笑気味に笑いながら仰向けに直り、袖口で滴を拭った。
「私は……ただのツクリモノなんだから――」
自分で吐いた言葉が、何故か痛い程胸を締め付けた。

──朝倉涼子の軌跡 涙 END──

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最終更新:2009年04月21日 02:31