…硬い。
まず始めに思ったのはそれだ。
ジャリジャリとしていて、それでいて妙に冷たい。

次に思ったのは暗い。
あまりに暗い。真っ暗だ。
そりゃそうだ。俺は目を瞑っていたらしい。

それに気付いたのは、俺の体が意識の覚醒より早く、自然と目を開けた時。



だが。

目を開けた先も。

薄暗い灰色の空間だった。





…おいおいおいおいおいおい。

「………マジかよ」

その光景に瞬時に頭が冷える。
思わず額に手をやり、再び目を閉じてしまった。

…頼む。夢なら覚めてくれ。
…夢だっつっても一級品の悪夢だけどな。

肌に感じるのは冷たいのか暖かいのかも分からないような空気。
音がまるっきり聞こえない。
世界から隔絶された空間。

しかし、目を開けても頬を叩いても灰色の世界にそびえる校舎は消えなかったし、俺の制服姿も変わらなかった。

…やれやれ。
…こんな所に何度も来るハメになるとはな。
10泊11日、閉鎖空間ツアー。

「…ボンビラス星の方がまだマシだな」

確かに俺は寝ていたハズだ。それは間違いない。
歯を磨いた事も覚えているし、妹が歯磨き粉をこぼした事も、寝巻きに着替えベッドに入った事も覚えている。
が。現に今、俺は制服を着て、学校の敷地内のコンクリートの上に寝っ転がっていた。

「…あの馬鹿」

身を起こしながらも、この冗談みたいな空間の主へと向けて、自然と悪態が口をついて出た。
デートにしちゃ気が早いぞ。今度の休みって言っただろ?
それにもう少し雰囲気のある場所が良かったね。お前の場所選びのセンスは最悪だ。
つか、地ベタに俺を置いておくな。せめて保健室のベッドとか何かあったんじゃねぇのか。


…って、そんな事思ってても始まらんな。
…少なくともハルヒはこの空間に居るハズだ。

……居るよな?
…俺だけがこの空間に放り出されたとか、ガチで笑えないぜ?

……やべ、何か不安になってきた。
ちょ、頼む。マジで居てくれ、ハルヒ。

だが、俺の目に見える範囲にはその姿は確認出来なかった。


「…ハルヒッ!!」

とりあえずデカい声で呼んでみる。
音の無い世界に俺の声だけがこだました。

…しばらく待ってみるも、返事は無し。
…つか、何か俺、馬鹿みたいじゃないか?

小さい頃、友達の家に行ってソイツの名前を大声で呼んだら、ソイツの母親が出て来て「息子は出かけちゃってるの」とか言われた気分だ。
…分かりづれぇよ。俺。



「…ん?」

そんなくだらない事を考えていた時、ふと何か違和感を感じた。

…って違和感って何だよ。
違和感もクソも、この世界は違和感まみれだ。
どこも正しい所なんかありゃしねぇ。

…だが、この前来た時とは決定的に何かが違う。
…なんだ? …俺は何が気になってるんだ?



…分からん。
しばらく辺りをさまよってみたが違和感の正体は突き止められなかった。
…ハルヒの姿も無い。

…どこだ。
どこに居るんだ。ハルヒ。

…俺はお前に、会わなきゃいけない。





















ガチャ


誰も居ない暗い校舎を歩き、とりあえず部室に来てみる。
…だが、扉を開けた先は無人だった。

「…くそ」

てっきりここに居るもんだとばかり思ってたが。
…ハルヒが居ない事を理解するとジワッと妙な汗が滲んで来た。

…OK、落ち着けよ、俺。
ハルヒが居ない訳無いだろ。

…だが…もしも。もしもだが…この空間に俺一人だとして、どうなる?
…そんなの決まってる。…答えは緩やかな死。
どっかに飲み水や食う物はあるかも知れない。
だが、それもいつかは尽きる。
つーか、こんな空間に俺一人なんてくたばる前に気が狂っちまう。


…いいから落ち着け。
そんな事考えるなよ。
ハルヒはこの空間のどこかに居る。居るハズだ。

この空気のせいかも知れない。
そう思い気を紛らわすために部室の窓を開けてみたが、風は皆無だった。
…いや、どうやら大気の対流自体存在していないらしい。
…相変わらずとんでもねぇ世界だ。



………前は、ここで古泉が現れたんだっけな。
…あの時、古泉は何て言っていた?

…通常の閉鎖空間じゃないとか言ってたな。
それに後は…ハルヒが世界に絶望したとかなんとか…。

…ダメだ。これ以上思い出せん。
「生めや増やせでいいじゃないですか」とかそんなフザけた言葉しか覚えてねぇ。
俺の記憶力が悪いのか。それとも古泉の回りくどい話し方が悪いのか。
…どっちもか。



「…そうだ」

古泉が小さくなって丸い球みたいになって消えたその後に、長門がパソコンからメッセージをくれたんだった。
…スマン、長門。やっぱり俺は結局お前にどっかで頼ってるんだな。

しかし。
天の助けだと思ったパソコンは電源すら入らなかった。

「…くそっ!」

…電源が入らないんじゃどうしようもねぇ。
腹立ち紛れにディスプレイを叩く。



…後は…何か無いか。思い出せ…思い出せ。
…なんでもいい。どんな小さな事でもいい。

そうして大事な事に気付く。

「…当たり前すぎて忘れてたな」

ハルヒの誕生日の夜、古泉と携帯で話した事を思い出す。
こんな当然な事を忘れてたなんて、どれだけ慌ててるかって事のいい証拠だな。
俺は胸ポケットから携帯を取り出し、ハルヒの番号にかけてみる。

…けれど、その通話口からは発信音すら聞こえなかった。

…なんでだよ。
…なんでなんだよ。
あの時は閉鎖空間に居た古泉と話せたじゃねぇか。



……マズイ。
…焦るな。
落ち着け。考えろ。慌てるな。臆するな。
…方法はある。きっとあるハズだ。
ハルヒが俺だけをこんな所に閉じ込める訳が無い。
そんな事してアイツにどんなメリットがあるってんだよ。

しかし現実問題として、ハルヒは居ない。
そうして古泉は現れない。長門とも連絡が取れない。朝比奈さんからの伝言も無い。


…俺はまさか…ここで…一人で…?




最悪の結末が頭をよぎる寸前、目の前がブワッと明るくなった。途端に部室が光に包まれる。

…感じるのは確固たる戦慄。

「…くそっ…始まりやがった…!」

地面からヌメッと馬鹿みたいにデカく、淡い光を放つ青い巨人が立ち昇る。

…何度見ても慣れねぇ。
アイツら何食って生きてんだ?
…そもそもアレって生きてんのかよ。

って。そんな事悠長に考えてる場合じゃねぇ。
逃げなければ。
あの巨人の気が向いて部室を潰されたらひとたまりもないぞ。
…ハルヒ、お前が選んだデートコースはやっぱり最悪だ。



















「はぁっ、はぁっ…はぁっ!」

階段を駆け下り、外に飛び出し、校庭をひた走る。
逃げながら振り返れば、巨人が校舎をガシガシとブン殴っていた。
…とんでもない光景だが、アレがハルヒのストレスの権化だって言われると、どっか納得しちまうから不思議だ。
校舎を破壊している巨人以外にも、湧き出す巨人が見えた。旧館の方にも、街の方にも、まるで地面から生えてくるように。
ハリウッドもビックリの大スペクタクルだ。

だが、残念ながらこれは映画でも無ければ夢でもらしい。
巨人が歩く度、揺れる地面がそれを如実に物語っていた。


…あの時は隣にハルヒが居たんだよな。
俺はアイツの手を握って、今みたいに逃げて。
でもアイツは俺の手を振り払って…、…それから俺はアイツに。

…思えば、あの時から俺は【そう】だったんじゃないのか?
…いや、違うか。本当はもっと以前から。俺は。




ズズゥゥン…!!

「な、なんだっ!?」

鈍い重苦しい爆音と共に地面が大きく揺れ、思考を中断される。
俺は反射的に姿勢を低くし、必死にバランスを取ろうとした。
後ろを振り返れば、どうやら校舎を叩き壊していた巨人が校舎の一部をブン投げたらしい。
校庭にその残骸が叩き付けられた衝撃が俺の足元を揺らす。

…おいおい。シャレになってねぇぞ。
あんなのが空から降ってきた日にゃ、一瞬でペチャンコじゃねぇか。

逃げなければいけないのは分かる。
…だが、どこに逃げりゃいいってんだ!?

どうする。どうすりゃ、いい。
ハルヒ、お前はどこに居るんだ。



ズズゥゥゥンッ…!!!

再びの衝撃。今度は校舎の三階らしき物が校庭に降ってきた。
つかよ。三階が降ってきたって何だそりゃ…!

「…ぐっ…!」

激しく揺れる地面に立っている事すらままならず、倒れこむ俺。
校庭の土が制服を汚し、口の中に砂が入った。
…くそったれ。砂うめぇ。口の中がジャリジャリして気持ち悪くなるぐらいにな。

…あぁっ、もう、なんなんだよ、これはっ!?
なんでこんな訳の分かんねぇ世界で俺は一人、土に塗れてんだよっ!?


…くそ。分かってる。分かってるって言ってんだろ。
俺は冷静だ。
そんな事を言ったって始まらない事ぐらい分かってる。
今、一番大事なのはすぐに立ち上がって逃げる事だ。















そうして。

気付いた。

立ち上がろうと上を見た時。

それはそこにあった。

灰色の景色。
青い巨人。
破壊される校舎。

それらを全て煌々と照らし出す。


真円の月。







「…なんだよ、ありゃ…」

…同時に今まで感じていた違和感に気付く。
……妙に明るすぎたんだ。辺りには柔らかな月光が降り注いでいる。
以前来た時は、ぼんやりと空が光っているだけで月も太陽も存在しなかった。
けれど、今はそこにそれがある。

…どういう事だ。
古泉の言葉を信じるならこの空間はハルヒが作り出した物。
…ハルヒが、望んだから? …ハルヒが月を創ったってのか? …それなんて弾けて混ざれ?

…フザけてる場合じゃねぇ。

…分かった。認めよう。認めてやろうじゃねぇか。
ここは閉鎖空間で。
今、巨人達は通勤ラッシュの真っ最中だ。
そして、満月。



…ちょっと待て。
…満月?

昨日見た月は…古泉が見上げた月は、確か三日月だったハズだ。

…じゃ、アレは何だ?
俺は何を見てるってんだ?

……よし、落ち着け。
この世界に来てから自分に言い聞かせるのが何度目か分からんが、とにかく落ち着け。

……月は自分で輝いてる訳じゃない。
月の満ち欠けが起きるのは、太陽に照らされる部分が変化するからだ。
…そうして、それが変化する条件は場所。それともう一つ。

暦。



素早く携帯を取り出す。
先程はよく確認しなかった。

…そうして、そこに表示されていた時刻は。


………10月、8日。23時52分。


「………いつから俺はマイケル・J・フォックスになった」

頭の中が真っ白になる。

…俺は確かに11月中盤を生きていた。それは間違いない。
それがどうして過去に戻って来ちまったんだ?
…どうなってやがる。何もかもがデタラメだ。
…訳が分かんねぇ。

…あー…ダメだ。なんか、考えるのとかめんどくさくなって来た。
いくら考えたって分かんねぇ事だらけじゃねぇかよ、ちくしょう。















…ピリリリリッ


…なんだよ?
何の音だ?
ほっとけよ、くそ。
めんどくせぇんだよ。
つか、どっから鳴ってんだよ。
俺の携帯の音じゃねぇ。
誰か、電話鳴ってんぞ。
…誰かって誰だよ。
この世界にゃ俺しかいねぇんだろ?
なのになんだよ、この音は。
明らかに電話の着信音じゃねぇか。
しっかも初期設定とは恐れ入るぜ。
よっぽど機械に疎い人間か、それともそんなのどうでもいい人間の携帯なんだろうな。


………つか。待てよ?
…どーやら俺のズボンのポケットから鳴ってやがる。
…なんでそんな所から?
俺の携帯はここにあるぞ?
………って携帯?

【………気をつけて】

頭の中に、声が聞こえた。

「…長門!」

ズボンのポケットから携帯を取り出す。
それは俺の物じゃない。今日…いや、正確には昨日の、つか一ヶ月以上後の、そんな事はどうでもいい。
とにかく長門から預かった物。

ディスプレイを覗けば、着信・朝比奈みくる。


ピッ


「もしもしッ!!」

『ひくっ、キョ、キョンくんですかぁ!? えくっ、ぶ、無事で良かっ、良かったですぅ!』

長門の携帯から聞こえる涙交じりの朝比奈さんの声。
…電話がこんなにもありがたいと思ったのは初めてだ。
マジさんきゅー、グラハム。

「朝比奈さん、今どこに居るんですか!?」

『キョンくん、落ちつい、えくっ、落ち着いて聞いてね? ひくっ、今、は一ヶ月前、えくっ、過去で…!』

………あの。すみません、朝比奈さん。
全く意味が分からないんですが。



『………失礼』

電話口の向こうから、かすかに朝比奈さんとは別の声が聞こえた。
かと思えば、妙にガサガサした音が聞こえる。その数瞬後、

『…どうですか? そちらの調子は』

電話口から聞こえるスカした声。
…あぁ、コイツの声を聞いてこんなに安心する日が来るとは。晴天の霹靂ってのはこういう事をいうのか。
つか、コイツ、朝比奈さんから電話を奪いやがったな。
その証拠に遠くで朝比奈さんの慌てる声が聞こえた。

「古泉、これはどうなってやがる!?」

『まぁまぁ。とりあえず、落ち着いて下さい』

無茶言うな。

『…三度目の閉鎖空間は如何ですか?』

「…何度来てもロクなもんじゃないな」

『そうですか? そこはそこで僕は結構気に入っている所もあるのですが…残念ですね』

そんな変態はお前だけだ、古泉。


「…今、どこに居るんだ?」

もしかして古泉達もこの空間に来ているかと思ったが、どうやらそれは甘かったようだ。

『我々も学校に居ますよ。ただし、その空間とは全く別の次元。
…そしてあなたが居る時間軸からは一ヶ月後の、ですが』

…やっぱり、か。

「…らしいな。さっき気付いた」

『…おや。あまり驚いていませんね』

電話口からは古泉の意外そうな声。
…驚いてるさ。充分に。

「…お前だけでも、こっちには来れないのか?」

『…えぇ…済みません。前回もそうでしたが、今回の空間もまた非常に特殊なものでして。
…仲間の力を借りても入り込む事さえ出来なかったんですよ』

申し訳なさそうに答える古泉。
…マジかよ。

「…つーことは、だ。…前、ここに連れてこられた時よりも更に状況は悪いって事か?」

『…そう…ですね。ある意味ではそうとも言えます。ですが、それは心のベクトルが問題なのでしょう』

…心のベクトル?
心をユークリッド空間にたとえてみようってか?

『あの時の涼宮さんは、現実世界に退屈し、絶望し、悪戯に全てを作り変えようとしていた。
言うなれば閉鎖空間は、世界を一から構築する為の彼女の砂場だったんですよ』

とんでもねぇお遊戯だな。

『…でも、今回はそうじゃない。今の閉鎖空間は…差し詰め彼女の、殻とでも申しましょうか』

「…殻?」

『えぇ。全てを遮断し、全てを廃し、全てを断絶する為の比類無き鉄壁の防壁としてその空間は存在します。
…ですが、そんな空間でさえも、あなただけは再び必要とされた。
拒絶しつつも欲する。そんな相反した感情が彼女の中でせめぎ合っているのでしょう』

……全く似合わない事してるな、ハルヒ。
つか。

「…そのハルヒは? ハルヒはここに居るんだろ?」

『…恐らく、ですが。
調べた所、彼女はあなたと同じ様に、今こちらの世界に存在していない。
そうなれば、そちら側に居ると考えるのが自然です』

…助かった。
ハルヒはこの世界のどこかに居る。
それを考えると妙に気持ちが安らかになるのが分かった。

…つかさ。
よく考えれば閉鎖空間に来た事も、過去に来た事も前にもあったじゃねぇか。
それでも俺達は【今】に戻れたんだ。

この空間に俺一人なんて言われたらどうしようも無いかも知れない。
でも、この灰色の世界のどこかにハルヒが居る。
それを思えばきっと何とかなる。…なんくるないさ。





『………あまり時間が無い。急いで』

古泉以外の淡々とした声が聞こえる。
それは朝比奈さんの声じゃない。

「…長門もそこに居るのか?」

『はい。この通話自体が長門さんの持つ次元と空間に干渉する能力、それと朝比奈さんの持っていた時間軸に関連するデバイスに因るものです。
…詳しい話は…僕に聞かれてもちょっと困りますが』

「…いや、いい。どーせ聞いても全く分からん」

俺がそう言うと古泉は「僕もです」と、少しだけ笑った。
それから咳払い。

『…こほん。…端的に申し上げます。…彼女の心を占めているのは恐らくは後悔。その感情が時間跳躍に至る原因となったものと思われます』

…後悔、か。

『あなたにも覚えがありませんか? あの時、あぁしていれば良かった。あの時、こうしていれば良かったと思うような事が』

そりゃいくらでもあるさ。

『彼女の中でその気持ちが膨れ上がり、不安や苛立ち、それらと混ざり合い、その空間を形成した。
…あなたなら理解なさっているのでは? 何故、あなた方が再びその日に舞い戻ったのかを』

………なるほどな。月は象徴、みたいなもんか。

『…屋上で話した事を覚えているでしょうか』

…嫌ってほどに。

『…恐らく、それが答えです。あなた方が再びこちらの世界に戻るには、それしか方法は無い』

…分かってる。分かってるさ。



「…なぁ、古泉」

『…はい、なんでしょう』

「今、そっちは何時だ?」

学校に居るとか言ってたけどな。

『時刻…ですか? 午前二時を回った所ですが』

「そうか。…ちゃんと二人を送ってやれよ?」

俺がそう言うと古泉はふっと笑った。
顔は見えない。見えないが、いつもの爽やかスマイルがそこにあるであろう事は容易に想像出来た。

『…あなたも、しっかりと涼宮さんを送り届けて下さい』

やっぱりキザだコイツは。
…だが。俺はそう言われたかったのかも知れん。

「…あぁ。家出娘を必ず連れて帰るさ」

…俺もキザになったもんだな。古泉の影響かね?

『…お待ちしています。………どうかご武運を』

それにしてもコイツはどうにもそういう言い回しが好きだね。



その後、長門に代わってくれるよう伝えた。
しばらくして電話口から落ち着いた声。

『…わたし』

長門の声。
なんだかずいぶん久しぶりに聞いたような気がするな。

「…長門。ハルヒはあそこに居るのか?」

10月8日、長門との電話。
そこから導き出される答えは一つ。

『次元断層が不安定になり過ぎている。時間偏差焦点のずれが正しい座標を認識させない』

…えぇい、朝比奈さんとは違った意味合いで全く意味が分からん。

「スマンが簡単に教えてくれ。…出来るならお前の言葉で」

…俺がそう言うと長門は少し黙った。
その細い息遣いが電話口から聞こえてくる。
そうして長門は…淡々と、だが力強く答えてくれた。

『…恐らくあなたの考えている場所。そこに彼女は居る』

…長門、最高の答えだっぜ。



『…少し待って』

突然、長門がそんな事を言い出した。
…待つ? …何をだ?

『あ、あのっ! キョンくんっ!? ひくっ、ぜったいに、絶対に戻って来てくださいねっ!
わたし、信じてますからっ! 絶対に涼宮さんとキョンくんが戻って来てくれるって、えくっ、信じてますからっ!
そ、そう、おいしい紅茶が手に入ったんですっ! せかんど…ふらっしゅって言う珍しい…ひくっ…葉っぱなんですよ?
だから、あったかい紅茶を用意しておきます…からっ! ひぇ…あ、紅茶に合うようにケーキも焼い、焼いちゃいますっ!
だから…っ…えぐっ…だからぁ…、おねが…ぐすっ…お願い…しますぅ…っ…!』

考えるまでも無く、電話口から朝比奈さんの必死な声が溢れる。
……胸があったかくなるのを通り越して熱くなった。
…ハルヒを連れて絶対に、戻ります。

『…聞こえた?』

朝比奈さんの涙声が聞こえたかと思えば、今度は冷静な長門の声。
…どうでもいいがすげぇ温度差だな。おい。



『…ザー…わたし個人も戻って来て欲しいと…ザ…思っている…』

突然聞こえる妙なノイズ。

「長門?」

『…ザ…時間が……ザー…』

時間切れ。そう聞こえた。

「長門ッ!」

『……来年…ザザ…わたし…ザー…誕生……』

…誕生日?

『二人にも…ザー……祝って……ザザ……だから…ザ…………』

…約束する。

「お前の誕生日、きっと俺とあのワガママ娘と、皆で。必ず祝ってやる!」

『………ザザ……待………ザー……る………プツッ』



電話はプツリと切れてしまい、その後も発信音が聞こえる事は無かった。
…けれど最後に聞こえた長門の声。
…ノイズ交じりの優しい長門の声。

…長門だけじゃない。皆の言葉が俺に力を与えてくれるようだった。
皆の言葉に報いる為にも、俺自身の為にも、必ずハルヒを連れて戻らなきゃならない。

…きっとハルヒは神社に居る。
10月8日、ハルヒの誕生日。
俺達はずっとそこで寄り添っていた。
自然とハルヒの暖かさが思い出される。



…それにしてもよ。
こっから神社まで走るのか。
あのさ。
分かる。分かるぜ。
空気とか流れとかブチ壊しなのは分かる。
でもよ。
…ぶっちゃけ遠くね?

あの時は病院からだったから何とかなった。
けれど学校からは神社ってのは激しく遠い。
…いやいや、アレだよ。
疲れるのが嫌だとか、走るのがめんどくさいとか、そういうんじゃないんだ。
やっぱりハルヒを長い間、一人っきりにするのはジェントルロードに反するだろ?

…って俺は誰に言い訳してんだ。


…車か?
…この世界が偽物だとしても、駐車場に行けばたぶん誰かの車がありそうだ。
…いや、ダメだ。鍵が無い。
そもそも免許が無い。
警察は居ないだろうが、運転に全く自信が無かった。
こんな誰も居ない世界で対物事故とか情けなさ過ぎる。

…他に何か移動手段は無いか?
何か…何か。


…待てよ。
……俺は普段どうやって学校に来ていた?

…そう。ここは偽物の世界だ。
ハルヒが作りだした偽物の世界。
…もしかしたら、あるかも知れない。

















学校の校門を飛び出し、長い坂を一気に走り降りる。
ヒザがカクカクと笑うが今はそんな事、気にしちゃいられない。
巨人はゆっくりと、だが着実に数を増やしていた。
…その内、この街が巨人に埋め尽くされるのかもな。
別にこの街が好きって訳じゃない。
じゃないが、生まれ育った街が破壊されるのは見てて気持ちのいいもんじゃないからな。
その前にケリを付けなきゃならない。

坂を降り終えれば、そこには橋。
水は流れていなかった。枯れた川ってのはどーにも不気味だね。

橋の向こうにはちょっとした階段。
真っ暗だったら危なっかしくて降りられなかったかも知れない。
けれど今は月光が俺の足元を照らしてくれていた。
ハルヒよ、月まで召還したのはいい仕事だったな。

階段を二段飛ばしで降りれば信号。
そして、車の通る事の無い信号を渡った先。


「あった…!」


そこにそれはあった。
自転車預かり所、管理ナンバー4番。
乗り慣れた俺の愛車。

…昔、一度だけハルヒを後ろに乗せて帰った事があった。
つか、アイツが無理矢理、乗って来たんだが。
夕暮れの坂をハルヒを後ろに乗せて駆け下りたあの日。
ハルヒはとてもいい顔で笑っていた。

…ハルヒはあの日の事を覚えていてくれた。
だからこの自転車がここにある。
その自転車は俺がここに居てもいいと言ってくれているようだった。
必要としてくれている、その実感。

何やら古びた自転車が誇らしく見えた。
今の俺にとっちゃ、どんな外車や高級車よりお前の方が頼もしい。


自転車に飛び乗る前、もう一度携帯を確認したが23時52分から一分たりとも経っていなかった。
それはアイツを家に送り届けた時間。
そこにある後悔。思い当たる事はたった一つ。

「……あのツンデレがッ!」

勢いよく自転車を漕ぎだす。
待ってろ、ハルヒ。
今、迎えに行ってやるから。



|