young



 部室から見えるその空は、曇っていた。曇っていたが、青かった。快晴よりも晴れらしい。部室の皆がそれを見ていた。開けられたカーテン。冷えたままのテーブル。青臭い衝動で満ちていた。
 梅雨は昨日を最後に終わったと、気象予報士が言っていた。誰も口には出さなかったが、朝比奈さんを除く部員たちは、二度目の夏に心を浮かせていたのだろう。
 見たことも無い模様のうちわが、元文芸部のタンスの中に入っていた。三つテーブルの上におかれたそれ。出番は無いようだ。夏風が、彼女の黒い髪を揺らしていた。
 彼女は顔を背けるようにして、窓のほうを向いている。さらさらと髪がゆれ、肌を撫でているようだ。きっといつもの、仏頂面であろう。そう思った。
 土曜講座の後の部活にしては、みなの気分が低いようだった。それは彼女が、原因かもしれない。いつもと、逆の気分。夏の空気のような彼女の、気まぐれで爽快。上にさらりとした行動は見られなかった。
 それはうちわも物語っている。鎮座するようにあるそれは沈黙の象徴のようにもとれるのであった。
 俺はテーブルに肘をつけて、そして寝そべった。俺の中で、倦怠感と青臭い衝動が戦っていた。肘の上に頭を乗せると、風が一層強く吹いてきた。どこかの部室にかかった風鈴が揺れたのか、チリリと声を上げる。
 向かいの校舎に人影が見えて、別に何も不審では無いのだけど、俺はそれを目で追った。それほど退屈だったということだ。それがさっと見えなくなったときに、彼女はこちらを向いた。何か話すのかと思うと、薄紅の口を尖らせ、息を吸う。彼女もまた退屈だったということだ。
 議論する点はいくつかあった。明日のこととか。あるいは三日後に始まる夏休みのこととか。
 夏に心を躍らせない人だっているのだろうが、彼女の顔はむしろ憂いを秘めていた。目は、なぜか優しく悲しかった。
「なにか、あるかしら」彼女は少し面倒くさそうにおう言った。
 返事は無いようだ。みな不意をつかれたような顔をして、彼女の元気の無い姿を見ていた。
 それに気づいたのかどうか、、わからないが、彼女はまた窓のほうを向いた。明らかにいつもの彼女ではなかったし、それは彼女も気づいているようだった。それはそうとうな悩みがあるということに違いないのだが、それを聞く勇気は、部員の誰もが持ち合わせていなかったのだ。
 影が、目立つようになった。太陽が更に顔を出し、外と内を断片的に区切る。俺は埃っぽい空気を吸って、何かを置いたまま部室を出た。廊下が長く感じた。
 戸惑いを隠せないわけじゃない。だがそれをしたら今までの関係が崩れてしまいそうな気がした。彼女が、そんな姿を見せるなんて初めてのことだったから。何か言って欲しそうにしているなんて、全く初めてだったから。
 でもきっと誰かが、それを聞いてくれるんだろう。なんて、そんな気持ちもあった。だから俺は部室を出たのかもしれない。
 廊下は暑い。窓は全て閉じていて音も無い。開けていくと、仄かに線香の匂いがした。
 トイレに行く廊下の中、俺は今日の彼女について考えてみたりした。何か不審なところはなかったか、何か匂わせていなかったか。思い出そうとしても、出てくるのは、ノートと鉛筆の幻影だけだった。
 トイレの鏡に映った俺は、なんだか根の暗そうな、あるいは冷たそうな顔をしているように見えた。それは全くもって嫌な顔であった。本当に気の弱そうな、そんな人間が見得を張ったような目。昔隣に座っていた、暗い奴の目にそっくりだった。
 俺は不安に襲われた。彼女にもこんな顔をしてはいなかったかと。嫌われなかったかと。とりとめのない、愚にもつかない不安に。
 もしかしたら、俺は彼女に嫌われ始めたのかもしれない。そんなことを思ってみても、鏡に映る顔は俺の一番嫌いなそれだった。それはいくら髪をいじっても消えなかった。
 トイレのドアの向こうに誰か立っているのが見えた。彼女かと思ったが、それは俺の勝手な想像だろうと思った。知らない女子だろう。そう思った。
 ドアを開けて、部室に向かうと、10歩歩いたところで呼び止められた。果たして、それは彼女だったのだ。
 その目は先ほどと変わる。心細そうな表情を隠せないでいる。強がりも意味をなさないほど、切なそうな顔をしていた。
 何も話さない。何か言いたそうにしているが、それを聞いてしまったら、今までの関係が壊れてしまう。かといって彼女から視線を離すことはできなかった。話したら砕けてしまいそうな、それほどにか弱い。
 「何でも話してみろ」なんて言わないし、言えない。彼女が何か重要なことを言おうとしていることがわかったから。それでいて、それを聞くのが怖かったから。なぜ今なんだ?何故それを今言わなければいけないんだ?なんて。
 「なんかようか?」とでも聞くしかなかったのだ。それが彼女を失望させると知っていても。だ。
 彼女の顔の色がさあと冷めて、少し厳しい一瞥を与えられた。廊下には線香の匂いが立ち込めていた。静かというより、無音。
 上履きがキュキュと鳴る。彼女は振り返って去った。その後姿は恐ろしかった。
 俺はなんとなく悔しくて、同じように上履きを鳴らして振り返った。廊下に二つの足音が響いた。
 部室の前に古泉が立っている。なにもかも聞いていたようで、俺に話しかけてくる。
 俺は力いっぱい胸を押して、突き飛ばした。何故、自分がそれほど憤っているのかわからなかったが、ささと帰り支度をして、転がっている古泉に目もくれず、できるだけ冷静に歩いて去った。朝比奈さんはその騒動に気づいていないようだったが。長門は気づいたかもしれない。
 そも、古泉が立ち聞きしていたかどうかなんてわからない。あいつはいつも知ったような顔をしているのだ。何か違うことをいいたかったのかもしれない。
 少し、俺の大事な部分にひびが入ったような気がした。戻って、古泉にあやまろうかと思った。あいつは許してくれるだろう。
 笑って許してくれるに違いない。それでも俺は戻らなかった。もしあいつが立ち聞きをしていたのであれば、一つの友情が壊れてしまう。俺にはあいつが謝るのを待つか、時間に任せることしかできなかった。
 過去に、こんなことはあっただろうか?考えるだけ無駄だ。俺達は、一定の間隔を置いてこそ付き合ってきた。なのに彼女は俺に近づこうとする。そして俺は古泉を突き飛ばしてしまった。重い重い足で階段を下る。彼女が待っていてくれるかと思ったが。それはなかった。深い喪失感を味わった。昇降口は相変わらず、暗くて広かった。

 日曜に開放感を感じないのは、ハルヒと古泉のせいだった。俺はなにか全てをクリアーにするものを探したが、生憎ない。
 ベッドに横たわったまま、右手を上げる。毛布は熱くて邪魔だ。今日も暑いらしい。身体は習慣で目覚めたが、それを起こす気力が無い。一種の金縛りのように、ベッドにへばりついているのだ。
 開かれた窓から、車の騒音が入ってくる。歌手の生まれ変わりの蝉が、狂おしく鳴いている。それは不快ではなく、俺の存在する場面を彩った。
 上げた手をさらに伸ばす。それを推進力として起き上がる。だんだん狭くなっていく部屋。俺はどこかへ行かなければいけないような気がした。
 罪悪感に耐え切れなかったのかもしれない。自分を正当化する自分に、少々の不安と嫌悪は持っていた。彼女の勇気を裏切った自分は、俺の中に存在した。
 それに古泉を突き飛ばしてしまった俺の表情が、とても幼かったのではないかという不安もあった。
 そんなことを思うと、自分がとても小さく見えてやりきれなかった。それに相反してどんどん身体は大きくなっていく。その成長にまだ追いつけていない自分を認めるのは、どうしても嫌だった。
 ベッドにこうしている自分が、寝転がった巨大な幼児のように見えた。それは幻想であったが、うまく自分を直喩している。自嘲の笑みを浮かべて、俺は歯を磨いた。




 そうして日曜日をどう過ごそうか決めるわけだが、飯を食ってあてもなく家の中をふらついていると、図書館を思い出した。がしかし、それではいけないような気がした。その隣、図書館の隣にあるホールで、北高のオーケストラ部が、なにかやっているのだ。といっても演奏に決まっているけれど。それは、今日限りなのだ。時計を見ると、九時には間に合いそうも無い。さてどうしたものかと思う暇もなく、今まで溜めてきた衝動を全て発散するかのように家を出た。
 玄関のドアノブは冷えていたが、入ってくる風は真夏のそれであった。庭の長い草が一束になって揺れていた。坂を駆けると、風は向かい風になり、追い風になり、頬に打ち付ける。足が惰性で動くようになったころ、空を見ると、何かを予見するような入道雲がでんとそこにあった。
 街は遠くにあるように見える。それは白く光を反射し、すっと消えてしまいそうでもあった。
 走る俺の後ろから、バスがやってきて追い越した。その後姿はおもちゃのようにおどけているように見えた。だんだんとそれと自分との距離が開き、視界から消えた頃、俺の体力は限界に達した。
 暴力的な息を、喉いっぱいから吐くと、汗が頬を伝っているのに気づく。暑い。
 ホールまでの道を、軒下を経由して歩いていく。いくつかの生徒の影が、ホールへと歩いていく。知る顔はいなかったので、半ばうつむきつつ、太陽に手を翳して歩いていく。
 そんなこんなをしているうちに、長門の家までそう遠くないことに気づく。行ってしまったらそれこそ新しい観念が生まれてしまいそうだったが、誘わないのは少し残酷だと思ってしまった以上、俺の足はそちらへと向かうのだ。
 ふらふらと千鳥足で炎天下を歩き、彼女の部屋に入ると、びっくりするほど涼しかった。
 冷房がついているわけではないのに、この涼しさはどうしたものか。魔法使いか。と、半ば昂揚した頭で突っ込みを入れると、彼女は軽くうなずいてみせた。
「水打ち。」
 フローリングに反射するのは太陽光だけだった。彼女はあまり電気が好きではないのかもしれない。小さなテーブルの上でちょこんと、うちわと麦茶と単行本がお話をしていた。
 簾がかかったベランダのドア。そのむこうに少しだけ水が打たれている。
 彼女は黒いシャツと黒い短パンという格好をしている。実に省エネで、実に有意義な休日を過ごしている。そんな風情であった。
 熱い熱い靴を脱いで、そこに上がらしてもらう。もしかしたらあのベランダから海が見えるんじゃないかと思うほど、ざっくりとした空気。彼女の着た黒いシャツに、乳首が軽く浮き立っていた。それは見るからに切なかったが、彼女に性感というものがあるのかわからない以上、咎めるのもおかしいという気がした。
 彼女は用も聞かず、青いグラスに茶を入れてよこした。そしてちょこんと座り、また本を読み始めるのであった。
 それは同時に俺の幼児的な部分をくすぐった。かまってくれというのではないが、なんだか彼女のその様子は絵になりすぎている。
 ただその様子がいつもより軽く、明確に楽しそうなように見えた。その様子は天使が鳥と戯れているように、神聖で静かだった。俺は、それを黙ってみていた。
 こういう静かな空気は嫌いではなかった。壁に寄りかかっていると、彼女が不意にこちらを向いて、また目を本に戻す。
「ふう」
 と言ってみても、ベランダに出てみても、その空気は壊れなかった。それは俺を全肯定するようであった。この存在と空間を、彼女と俺が寸分の狂いもなく好いていた。
 彼女が本を読むのをやめたときには、もう10時を過ぎていた。彼女が解説を読み終わり、しおりを一番前のページに挟むと同時に、俺は身体を起こして声をかけた。他愛もないことを話した後、本の感想を聞く。
「おもしろかった」口だけ動かして話す。
「どこが」
「いろいろ」
 彼女の胸。少しだけあるふくらみの、その先端の突起に、Tシャツが引っかかっている。それは全くもって淫らではなかった。彼女の心、目のように、若さを象徴しているようでもあったのだ。
 当初の目的を忘れかけたころ、彼女が用を聞いてきた。もしかしたら彼女は俺にいて欲しかったから用を聞かなかったのかもしれない。それを聞くとき、少しだけ寂しそうに見えたから。
 だがその目はまた嬉しそうになった。ように見えた。彼女はそのままの格好で家を出ようとした。俺がそれを止めると、気づいた彼女は赤面した。体育のときはブラジャーしているんだし。気づかなかっただけなのだ。少し玄関前で待って、着替えてくるのを待つ。音もなくドアを開けて、俺に話しかけた彼女の姿。小さな上着を羽織っているのが、俺に秘密を共有した中のような気分にさせた。
 なんて、俺の思い違いかもしれないけど。

 そうしてやっとホールに着いた、、。と思うと、図書館がそこにあるのだった。
 が、彼女はそちらには目もくれず、ホールのほうに歩いた。9時から12時までだから、もうすぐ半分を超すわけだけど。ホールの中の空気は一味違うのか、彼女は軽く驚いた。紅い席に腰を下ろす。隣に座るのが少し恥ずかしかったが、そんなことは言ってられない。なるべく人の少なそうな、二階の右端に座った。周りに知る顔はなかったし、これから入ってくる客はそういないだろう。ちょっとテンポを遅らせて帰れば、誰とも会うことはないだろう。
 彼女は隣で「熱心に」聞いていた。何かを得ようとするその姿勢は、賢い子どものようだった。彼女が何を感じているのか聞こうとしたけれど、それがなんだかとても恥ずかしいような気がした。
 かくいう俺は、ただなんとなく耳から入るそれを、彼女とともにいる風景のバックグラウンドミュージックにしていたのかもしれない。少々陳腐なBGMだが、それも少し、俺達二人の大人びたような空気をくすぐった。
 客層は生徒が主だった。半分の半分以上の生徒がいた。もしかしたら古泉もいるのではないかという不安が、俺の孤独の部分を軽く突いた。
 それと肉親たちが集まって、数はなかなか多いように感じた。演奏をするのは生徒だけでなく、OBの音楽家もするということらしいから、あるいはその人のファンかなにかが、席を埋めているのかもしれなかった。
 空気は、演奏会という雰囲気を感じさせるに十分であった。適度な緊張感を感じているであろう壇上の生徒たちが、大人びて見えた。隣に座る彼女は何を考えているのか表情からは解しかねたが、俺のような、嫉妬に近い暗い感情は持ち合わせていないようだった。
 拍手が会場を包むと、演奏が区切られ、生徒の司会によって、更に大きな拍手が起きた。OBの登場らしい。
 OBの演奏、彼の演奏が始まると、会場内はしんとし始めた。
 照明もいきいきとなり、ピアノの低い音に会場が震え、高い音に驚く。テンポが速くなると体がつられる。その感覚を感じたのか、彼女の顔が少し変わったように感じた。俺はOBに嫉妬を感じずにはいられなかった。落ち着いて座る彼は間違いなく大人だった。
 彼女がそれに惹かれているのではないと感じつつも、嫉妬はだんだん大きくなった。それは彼がうまくピアノを弾くたびに、自責の念に変化する。
 それに引き込まれている自分もいた。それを嫌う自分もいた。「それ」は、大人という観念だったに違いない。それがわかるからこそ、彼女の目が俺に向くたびに、比較されているような気がするのだ。
 それでも自分に優越感は持っていた。彼女を笑わすことができるのは、自分だけだろう。と。そんな小さな妄想も、若い心の中では自身になりうるのだ。その矛盾は、自分の脳内をくすぐった。快感だった。
 OBの演奏が終わり、拍手の中に入っていく感じがした。それはとても気持ちがよかった。もしかしたら彼女も、鳥肌を立てているのかもしれない。そんな想像が更に俺の優越感を阻害するのであった。
 ちょこんと置かれた手を握ろうとしている俺がいた。それは彼女の目を自分に向けさせたいという幼児的な考えも秘められていたのかもしれない。ただ切なかったのだ。彼女の前では大人でいたかった。それで俺は、開いた手をそのまま閉じたのだ。
 あるいはそれは、子どもと手を繋ぐ父的な意味を秘めていたのかもわからなかった。
 ワンテンポおいてから、会場の外へ出る。いつもよりまぶしい太陽が、図書館の脇の噴水に反射していた。
 図書館に入ると、冷房で冷えすぎた空気がうるさかった。彼女の肩に、俺のシャツをかけた。すっぽりと入る彼女は少し驚いていたが、すぐに礼を言った。
 とんとんと流れていく空気がとても気持ちよいのであった。俺は今朝のやるせなさを全て忘れていた。大きな窓から噴水を見ながら、彼女の目当ての本を探していた。
 一つが見つかり、もう一つを見つける。
 彼女も見つけたのか、後ろに気配がした。と思い振り返ると、そこにいたのはハルヒであった。
 何故引きつった顔なのか解しかねたが、自分の目が泳いでいることにも驚いた。場面は最悪だった。凍りついたという表現がぴたりとしていた。
「おう、ハルヒ」
 と言った途端、長門がハルヒとは反対側から現れた。つまり俺は、本棚の中二人に挟まれたのである。が、長門と俺の距離のほうが近い。それが更にハルヒを怒らせた。
「、、、、、、、!」
 彼女はまた靴を鳴らして去っていった。わざとか?と思い裏にいる長門を見ると、いつもどおりの無表情なのであった。


 そんなこんながあって、月曜日は終業式。ハルヒと顔を合わす機会が多い。というか、「話していてもおかしくない時間」が多すぎた。それを繕うのは本当に至難の業なのだ。
 だから俺は早く仲直りをしようと、朝早くに学校に着いたのだが、彼女は最後に来て、すたと座るのであった。背中に殺気を感じつつ、俺達は体育館へと向かった。
 危険因子、、古泉と長門のことだが、、、が多すぎて、俺は背を低くして歩いたのだが、国木田がヒョイとやってきて、演奏会のことをからかうものだから、わりと本気で彼を殴った。
 彼女の目が一層厳しくなった。しかし、あれ?と思って振り向くと、切なく悲しい目をしているのである。本当にたちが悪いというか、なんだかわからない。
 氷漬けにされたように立っていると、長門と目があってしまった。割と遠くなのに、彼女はこちらを見ていた。そしてそれは救いの目ではなく、悪魔の目になるのであった。
 ハルヒが、おもちゃをなくしたと気づいた子どものように、目を伏せたのがわかった。
 そしてそれが元通り、、、つまり三日より更に前の、俺が思ういつものハルヒの目に戻ったのがわかった。それは俺にはただならぬことのように思えた。
 そしてその日の部活でも、彼女は「いつもの」彼女のままであり続けた。それがたまに、「今日の朝の」ハルヒに戻ったりするのだ。なんだか不安になった。空には夕立、、もとい昼立を予感させる積乱雲があった。
 彼女は合間無く夏休みの予定を話し始めた。予定と言っても、天気のよい明後日に、静岡のどこそこ、海の近くのどこかに泊まるという、決定事項の確認だった。俺が。
「おいおい」と突っ込みを入れると、うるさいわね。と返されるそれはいつもの寸劇のようで、少し、リアリティに欠けた。
 古泉は、そのままであった。もちろん身体に傷はないし、いつもの目であたりを見回していた。その目が俺に向けられると、俺は少し目を逸らしてしまう。
 長門は長門で本を読んでいる。音楽の本、昨日借りた本を熱心に読んでいた。
 朝比奈さんは、傘がないから、と言って積乱雲の出方を凝視していた。風も強くなり、雨が降るのは確実だろうと思われた。
 ぽつぽつと窓に雨粒が当たると、彼女は落胆した。
 そんなそれぞれをよそに話はだんだん進み、集合時間を告げて終わった。
 空はいつの間にか灰色になっていた。校舎は少し不気味になり、もしかしたら停電が起こるかもしれないとうスリルが皆を昂揚させた。
 無駄話もだんだんと間が開くようになってきて、そして話が途切れたころ、解散という言葉で終わった。古泉に話しかけると、彼はいつものように応対した。
 古泉と共に帰ることになって、二つの傘をぶつけながら歩いた。別れ際に謝ると、なんのことかという顔をして見せた。
 こうして自体は収束した。かのように見えた。

 二日は淡々と過ぎてゆき、旅行の日がやってくる。洗われてぴしゃりとした起きかけの顔に、夏の上昇気流が吹き付ける。幾分熱い気もしたが、間違いなく旅行日和だった。
 日がそろそろ真上に行くというころ、彼女らの荷物を電車から降ろすと、駅から海が見えるのだった。水平線が、少し曲がっていた。地球は丸いと言っていた。なにもかも受け入れるようだった。
 知っている人以外から見れば、間違いなくひと夏の恋に落とすような、大人びた格好をした朝比奈さん。それが印象に残った。
 五人一緒に旅館へ向かい、二つの部屋に別れた。以降更に仲良くなった古泉と、二人海を見ていると、彼女らが散歩を提案した。
 旅行は平穏に始まった。
 その間も、砂時計は音を立てていた。

 別れは突然だったなあ。と、思う。
 彼女の口が、切なく閉じたとき、俺は聞き取れずにいた。
 本能が働いたのだ。
 こうしてベッドに横たわっていると、長門と遊んだ日の朝を思い出す。
 しかしあの時の気持ちは、ただの不安、であり、今のような絶望ではなかった。
 朝。騒音はやかましく、蝉は鳴いてすらいなかった。
 俺は何もする気になれず、重い身体をそのまま地面に貼り付けさせている。
 涙も出ず、目が地面を見つめることしかできなくなる。
 ドアの外もやかましく、頭は石より重い。彼女は、もういない。

 散歩は浜辺へと向かい、少々の波遊びの後、海の家の進化したような建物で、それぞれの腹調子で食事をした。
 長門はフォークで焼きそばを食べ、ハルヒは箸でスパゲティを食べていた。朝比奈さんはナンパをかわせず、俺に助けを求めているようだったが、なんとかしなさいと目で合図し、自分のスパゲティをフォークで食う。
 古泉は逆ナンのお姉さんがたをさらりとかわし、それでもかわせず、水着美女に囲まれていた。
 こっけいな男達がうろうろしていた。目をあわさないようにしていると、それらが朝比奈さんに目をつけた。
 瞬間俺は立ち上がり、彼女を助けた。ただ手を引っ張っただけだが。そして俺の麦藁帽子をかぶせて上げた。可愛すぎる顔は、帽子の影の中で照れくさそうに笑った。
 そのまま海辺まで出て、バイクが走る音を二人で聞いた。もしかしたら口紅を塗っているのかもしれない。直視することができないのは、そのせいかもしれなかった。
「あ、あの」と、朝比奈さんが口を開く。
「え?」
「これが最後の夏ですね」
 、、、、、。
「そうですね、、、。」あなたと、私にとっては。という言葉が隠されていることに、気づかないフリをした。
 憂う顔はまさに天使だった。
「キョンくん。今までありがとうね」
「こちらこそ。」
「もっと二人でお話したかったなあ。」
「、、、。」
「キョンくん。もしよかったら、五時ごろ、あの岬まで来てくれません?」
「え?」
「あの、岬です。」
 岬、、。なかなか高い岬だった。塀が少しだけあって、落ちたら死ぬだろうな。という風だった。岩石の男らしさと、岬の曲線がアンバランスというか、少し浪漫チックな岬であった。俺が返事に苦しんでいると、ハルヒ達が駆けてよってきて、朝比奈さんを連れ去ってしまった。残された俺は、古泉とともに、波を見ていた。水着美女達は遠くで、違う男をナンパしている。
「なあ」
「なんですか」
「お前、あのとき立ち聞きしていたのか?」
「ええ」
 ちっとは悪びれろ。
「聞く気は無かったのですが。」
「いいよ。もう」
「そうですか」
 その言葉たちは、波に吸い込まれて消えた。
「なんだったんだろう、ハルヒ。」
 彼は意外な顔をした。
「手紙を受け取ったんじゃないんですか?」
「え?」
 彼はあちゃーという顔を、いささかアメリカ風にして、肩をすくめた。
「手紙って」
「さあ
僕たちも行きましょう。」
「おい」
「さっき、いいよと言っていたじゃないですか。行きましょう。」

 そして、泳ぎを終えた。俺はいつのまにかハルヒと二人になっていた。髪はすぐ乾き、少しベタベタとした体。
 元通りの俺達は、海の成分のことなんか話して、去年の夏のことを話した。
 楽しかったねえ。
 今になってみれば、このときハルヒが悲しそうだったことに気づかなかった自分が悔しい。
「楽しかったな」
「ええ」
「いろんなことがあったな」
「そうね」
「何が印象に残ってる?」
「、、。」
 彼女は時計を見て、立ち上がった。
「五時に、あの岬にいて。」
 頬は赤かった。それはあのときの顔と同じだった。何かを言おうとしたときの顔。指差す岬はもちろん、先刻のそれと同じであった。
 俺はまた打ちひしがれて、声をだすことも忘れて呆然としてしまっていた。
 これはただごとじゃない。ただごとじゃなさすぎる。もう4時半なのだ。ハルヒの背中は追いかけるなと言っていた。しかし、朝比奈さんはまだ、、泳いでいる。通りかかった古泉に事情を話すと、彼は冷静に、作り話を作った。
 俺が行かなければいけない用事ができた、ということにして、それを古泉が朝比奈さんに伝えるということだった。もし彼女がそれでも岬へ向かうようだったら、彼が入り口で待ち伏せし、彼女を止める。
 改善の余地はありそうだったが、俺は本当に忙しかった。走って岬へ向かった。岬への道が二つあることにどうして気づかなかったのか、疑問だ。きっと焦燥でそれどこではなかったのだろう。
 夕暮れの方に、細い道を駆けていく。海と一緒に彼女たちが現れた。
 古泉、、。お前って奴は。
 息を吐いていると、複雑な顔の朝比奈さんが耳打ちをした。「残念ですね」と。
 ハルヒは黙っている。どうやら状況を一瞬で理解したようだ。失望の色をした目で俺を見下し、口を開いた。
「私、転校するんだ。ここの近くに」
、、、、、、、、、、、、。
 夏が終わる。始まったばかりの夏は、そのとき一瞬にして無に帰った。





 重い頭を毛布で包み、また眠りにつこうとしたが、無理だ。
 思い出すのは昨日のこと。昨日の朝、駅でのこと。
 彼女は見送る側に移っていた。
 だんだん離れていくときの失望感。
 そして電車の、冷たすぎる冷房。
 俺はそのまま、家に入ってベッドに倒れこんだ。徹夜越しの頭は重く、ベッドが包み込んでくれた。
 悪夢を経て、現在に至る。

 第一幕 終



 そして、三日が過ぎた。
 四日目に、久しぶりに外に出た俺は、妹とデパートに向かっていた。
 夏期講習を黙って休んだということが、恥ずかしながら尾を引いていた。誰かに会うのが怖かった。自意識の念が、ハルヒのせいでか、高まっていた。
 俺は彼女を悪く思おうとしていた。そうしていずれ、「ああ。あいつね。いろいろあったなあ。」と言える日を待つ、、、。
 彼女の家には、まだ荷物が置いてあると聞いていた。行けば居るのかもしれないが、そのとき俺は行くなんて少しも考えなかった。いや、考えないようにしていた。自分が傷つきそうで怖かったのかもしれない。
 なんで俺がいかなきゃいけねえんだ。俺は何も言うことなんかないし。彼女だってそうだろう。
 それは全て嘘だと、自分さえもが知っていた。口にすることで自らに暗示させようとしていたのかもしれない。そんな考えばかりが三日を過ぎさせ、気がついたら俺は、ハルヒのことを、少しづつ忘れているのであった。
 俺を案じたのか、妹は明るかった。演技のそれから、本当のそれに行くまでは短かったが、俺は少なからずその気遣いに喜び、感謝もした。
 交差点で、人の量に驚いた。俺は彼女の手だけを持ってそれに流された。ハルヒの顔が忙殺されたり、突然現れたり、信号のように瞬いた。見送るときの、感情が大きすぎて訳のわからない顔だった。
 人の流れに乗りながら歩くと、空を見ていられた。そろそろ街灯がつく、夕暮れの前で、俺だけが群集から顔を出して、月を見ていた。いつまでも見ていたいと思ったのは、優しく、全てを受け入れてくれたからだ。
 彼女の少し暖かい手に引かれ、思い出したのは子どもの頃、同じようにして見た月だった。人の頭と雲に隠された月が、ちらちら現れるのが嬉しかった。
 俺は自分が子どもじゃなくなっていると思った。俺はきっと、大人になっているんだと思った。なぜなら俺はもう、月を見るのをやめてしまっていたから。
 人の流れに乗って、前の人の頭だけを見たから。しかも背景も、遠近法も無い、一枚の絵のような景色を。
 俺は二次元の中を歩いているようだった。俺はもう、遠さもわかるようになってしまっていた。手の先にいる彼女の手の暖かさから、若さを感じずにはいられなかった。
 若さ、、ハルヒのあの顔を思い出した。彼女の顔に浮かんだ、あの勇気に満ちた、紅い、躍動感のある表情を。
 俺は季節を感じていた。彼女と一緒にいた季節を。それは大人になってから気づく若さのようなもので、一度消えないと存在を理解できないものだった。そして、二度と戻らないものなのだと感じた。
 彼女のことが思い出された。それは間違いなく思い出だった。悲しさと切なさだけをもって、俺の頬を熱くさせた。
 彼女と、その後ろの景色が。めぐる、廻る。
 涙も拭かずに月を見た。誰もそれには気づかなかった。目だけが熱く、今までの涙とは違った。
 コンクリートを踏む俺は、彼女と、全ての思い出の中で歩き回っていた。古ければ古いほど、俺に感傷を与えた。
 廊下を歩いたとき、彼女の髪が動いたとき、踏み切りを待ったとき、振り向くと、仏頂面のあいつが、座っているときの空気。
 石畳を歩く俺の、後ろを束になってついてくるそれは、だんだんと少なくなって、そして消えた。思い出すらも消えた。それは全く嬉しいことじゃなかった。思ったよりも、ずっと、喪失感の大きいものだった。かけがえのないものだった。
 俺は妹の先を歩いた。涙は止まっていたが、彼女は少し、不思議そうな顔をした。
 振り向いて笑うと、ささあと夏風が顔に吹いた。見れば遠くまで、ずっと遠くまで見えた。
 俺は彼女を忘れた。
 そう、思った。
 新しい人生を始めようとすら思った。
 そう考えて一番に思い出したのは、長門の顔だった。
 この夏空の下、彼女の細いからだを抱きしめたいと思った。
 俺はこのときから、長門に恋をした。

 長門は、その提案を、とても簡単に受け入れてくれた。うん。とそれだけだった。これ以上の肯定はないと思った。恋をしてまだ一日しか経っていない、夏期講習の日だった。暑すぎて、無人の教室は妙に恥ずかしかった。狂ったように鳴く蝉の音とともに、長門を抱きしめた。彼女は何も言わずそれを受け止めた。なんだかそれが、恋人のそれより、少し、迷いが感じられるような気がした。その証拠に、俺は彼女の顔を見ることができなかった。目が、慰めるような目をしているような気がして。
 提案というのは、何も告白ではなく、夏祭りへの誘いだった。抱きついたのは俺の衝動だけであったが、SOS団という繋がりが消えた以上、こうしてもし嫌われても、一人からだけだから。というのもあったし、こうでもしないと離れていってしまいそうで不安だったからでもあった。
 思えば、今まで俺は、SOS団としか付き合っていなかったのだ。それから外されるのが怖くて、個人的な関係を持つのを恐れた。
 でも、ハルヒとはどうだったろう。
 あいつと俺は、間違いなく似ていた。その二人は、あるいは一番深かったのかもしれない。
 そう思って、それをすぐ消し去った。
 なんにせよ、彼女とこうした思い切った行動ができるのは、とても嬉しかった。
 玄関で古泉に呼び止められて、二人横にして歩いた。彼と二人きりになるのも、、、精神の上で、、、初めてなような気がした。
「古泉、よお。」
「なんでしょう」
「俺、長門と、祭り行くんだぜ。」
「ほほう」
「楽しみだなあ。マジ」
「何時でしたっけ。」
「三日、かな」
「それじゃあ、涼宮さんの引越しの日ですね。」
「え?」
 初耳だった。驚いた。それに驚いている自分に。
「最後の引越しですよ。借家の荷物を運び出すんですって。」
「へえ、、。」
 無感動だった。そう感じた。
「何時からは言いませんでした。彼女。きっと見送らないで欲しかったんでしょう。悲しいですね。僕たち」
「はは、、。」
 似ているな。俺達。似ていたな。そうだ。
 そっくりだったんだ。あいつと俺。
「まったく、、だな。」
「長門さんのこと好きなんですか」
「ん、ああ。」
「へえ。」そういって手を広げるのは、古泉。
「いい天気だな。明後日、晴れるかな。」
「どうでしょうね。お祭りに、雨降りは困りますよね」
「お前は行かないのか。」
「一人で行っても面白くありませんからね。きっと、SOS団で行くものだと思っていましたから、少し切なすぎます」
「、、嫌味か」
「いえいえ。応援していますよ。二人でおしあわせに」

 時間の流れがもとに戻った。街灯の下の雑草で、虫が絶えず鳴いている。戻った。あるいは長門が、ハルヒの代わりをしているだけかもしれないのだけれど。
 朝が待ち遠しくなった。俺はそれを喜んだ。これが生きるということなのかもしれないと思った。
 明日は何をしよう、という想像が溢れてくる。生命の氾濫とも言えるような、それほどにまで大きい期待。
 俺はハルヒに恋をしていたのだ。失ってから気づくそれは、思い出でしか無かった。
「勝手なものだ。恋なんて。失ってみりゃあ、なんにもありゃしない。」
 口に出したのは、迷っていたから。明後日の目的地を。ハルヒと長門を。
 街灯の光が瞬いた。また一つ時間が過ぎた。夕焼けの奥に太陽があった。明日は晴れるんだ。
 でもきっと俺は、あいつの方に行くのだ。それは心のどこかで思っていた。
 明後日が待ち遠しかった。
 次の朝、起きたとき、迷いは振り切れた。俺は間違いなく、あいつのほうに行くだろう。その日の夕焼けも美しかった。きっと全てうまくいくというような、肯定的な大空だった。俺は長門に言う言葉を思い描いていた。
 それでも、ハルヒの顔がちらついた。駅での切ない顔がちらついた。
 俺は、悔しくて長門を好きになろうとしている訳ではなかった。長門を好いていた。なのにちらつくハルヒの顔は、不思議に俺の心を震わせる。
 俺はそのとき公園にいる。俺の部屋には、ハルヒの思い出が多すぎたのかもしれない。
 ブランコがきしむ音を聞きながら、夏の匂いを嗅いでいた。きっとこのうちこの嗅覚も、消えてしまうに相違ない。
 過ぎ去った時間を思い出すのは、とても切なく心震える。
 その心の奮えを追い求めるのは、悪いことでは無いけれど。
 俺の心は戻ることを拒む。俺はハルヒを忘れようとする。それも全然悪いことではないだろう。
 過ぎた時間を掴まえてみても、そこにあるのはただの、場面でしかないかもしれない。
「それなら、新しい一歩を踏み出そうと思うんだ。悪いことではないだろう?俺」
 独り言は公園の土に吸い込まれて消えた。
「ハルヒ。お前はこれでいいんだよな」
「お前は俺と似ているから、きっとこれでいいんだよな」
「なあ」
 溢れ出す独り言は、遠くの工場の煙のように、やがて別れて見えなくなる。
 俺はあいつの家のことを思った。一度も行ったことのないその家だが、場所は知っていた。
「私の家の前のスーパーで、接触事故があったのよ。」
 そんなことを聞いたことがあった。
 ハルヒの話によくでてくるスーパーの名前。サカタ。サカタスーパー。
 彼女がよく口ずさんでいたメロディ。
 こんな思い出も、知らぬ間に大きくなってくる。
 でも、そう。
 長門との思い出は、これから作ればいい。
 そう思うと、悩みは少し軽くなった。
「これでいいんだよな。ハルヒ」
 俺は。学校に行ってみよう。と思った。あいつとの思い出の一切に、決着を着けてしまおうと思った。
 教室、廊下、玄関、部室。
 あいつのいないその空間を、じっくりと見てやろうと思った。そうしないと、長門に失礼な気がした。
 いつのまにか走っていて、時計屋の前を通り過ぎるとき、時刻は5時を過ぎていた。施錠は6時だから、間に合うはずだ。商店街を走り抜け、右に曲がれば学校だ。車にぶつかりそうになりながら、全速力で駆け抜ける。
 玄関や階段を、飛ぶようにして走り抜ける。どこからか合唱部の声が聞こえた。
 息を整えながら歩くのは、あいつと歩いた廊下だ。
 ファースト・インプレッションは強烈だった。ここを引きずられたとき、俺は驚きながら喜んでいた。彼女は、不普通の象徴だった。それはあのときの俺の心の中の、深く深くまで震えさせた。
 教室、仄暗い、夕焼けの教室はまだ、カーテンが閉じられていなかった。教室からそれを見るのは初めてだと、気づいた。
 俺の席の後ろ、一つ、取り払われていた。いつの間にやったんだろう。ついに彼女は、教室にさよならは言わなかったようだ。
 そのぽっかりと開いた空間は、彼女が去ったことを明確に教えてくれた。教室のみんなは気づいたろうか。一番後ろ、窓際の一番後ろの席が、大きく開いたということに。
 涙を堪えて、部室へと歩いた。部室までの道に、期待を感じることはもう無いに違いない。そんな思いで。
 ぽろりと出た涙を、拭くのはいけない気がした。熱くなった胸と目はそのままにして、歩いていかなければいけないと感じた。
 涙がどんどん出た。俺は立ち止まらずに、風を受けて歩いた。廊下は長かった。仄暗く、電気も着いていなかった。
 でも、部室に電気が着いていて、笑い声が聞こえるような気がした。そこだけ明るいように感じた。俺はそこに歩いていった。
 部室から光が漏れているように感じた。開いたらそこに、長門と朝比奈さんと古泉、そしてハルヒが、テーブルの真ん中を見て話している気がした。
 冷えたドアノブを廻す。力強く押すと、埃っぽい、冷えた空気があるだけだった。
 俺は自分の席に座って、泣いた。冷たいテーブルの上で、暑かったあの、みんなで見た空を思い出しながら。
 涙はどんどん溢れた。隣に座っていた朝比奈さん。本を読んでいた長門、前で笑っていた古泉、そして右で空を見ていたハルヒ。
 全てが思い出されて、消えた。袖を濡らす涙はとても熱かった。
 団長と書かれたポールの下に、小さな便箋があった。
 手紙に書かれた言葉を読んだ。これを読み終えて涙が止まったとき、俺はあいつを忘れられると思った。
 そこには、別れの言葉が書かれていた。
 解散します。と終わる。
 じゃあね、キョン。

 涙が止まる。
 俺は廊下に出て、精一杯空気を吸った。涙を拭きながら、廊下を戻った。
「じゃあな
 ハルヒ
 部員第一号
 キョンより
 ばいばい
 SOS団」
 SOS団はここに終わった。
 、、、、、、、、、、、、、、、そして、一夜が過ぎて、また夜が来た。
 ハルヒを思い出す余地は全く無かった。俺はいそいで河川敷へと向かった。そこに、長門が待っているのだ。



 余裕を持って行ったから、まだ彼女はいなかった。待ち合わせ場所の、河川敷の公園には、色とりどりの浴衣があって、日本に来た外国人が見たら、きっと異国情緒を感じさせるものだろう。
 6時半になった。待ち合わせは40分だ。晴れていた。
 暗い空の下、屋台と提灯の赤い光は、確かに何かを崇めているようだった。
 いくつかの男女が、行き来している。周りから見ればああなってしまうのかと思うと、少し、恥ずかしかった。
 Tシャツ一枚の薄着だけれど、少し暑かった。彼女の服装が楽しみだった。
 妙にさらりとした風が吹いていた。虫も途切れ途切れ鳴き、特に切なさ満点なのは、ビルの合間の月だった。
 俺は一つの緊張があった。長門に告白する、ってことだ。
 でも、思ったほどの緊張じゃなかった。
 吹っ切れたからかもしれない。彼女のことを。
 緊張は心地よかった。ぴりりぴりりと、遠くで聞こえる祭囃子のように、心地よかった。
 彼女が歩いてくるのが見えた。しずしずともすたすたともつかぬ様子で。
 出店の真ん中を歩いてくる。俺には彼女が綺麗過ぎて、彼女のためだけに、祭りが行われているかのように感じられた。
 二人で歩き出す。彼女はいろいろな匂いに驚いているようだった。彼女が子どもの顔になったり、大人の顔になったりするのが、なんとも嬉しかった。同じリズムで、囃子が鳴っていた。歩幅を合わせて歩いていると、何かいい匂いがした。
 飴屋さん。
 彼女はそこで止まった。財布からお金を出して、いくつかの飴を選んでいた。
 頬に入れると、頬の内側がじわじわ熱くなる。俺にとっては懐かしい感じだったが、彼女は始めての感じかもしれない。
 ビニールの中のその飴玉は綺麗だった。
 少し膨らんだ頬のまま歩くと、なんとも懐かしい。右頬から左頬に移動させるのも一苦労。
 囃子の音も昔の通り。いつか憧れた、美人の女の子もいる。
 彼女の頬も膨らんでいて、可愛かった。
 静かに過ぎる時間が心地よい。何も考えなくても良い、賛美。
 彼女を抱きしめたくなった。黒いワンピースごと。
 なんてな。
「これからどうする?」
「?」
「なんか食べるか」
「ええ」
「お好み焼きでも食うか。」
「なに、それ」
「、、、、お好み焼き」
「?」
「また図書館に行こうな」
「ええ」
「長門」
「なに」
「有希ってどういう意味だか知ってるか」
「?」
「いい名前だよな」

 彼女とともに見る山車は、いつもより大きかった。
 いろいろなものを食べて、いろいろなもので遊んだ。彼女は笑っていなかったけれど、なんだか楽しそうで、俺も楽しくなった。
 知らぬ間に時間は過ぎ、8時を超えたころ、俺達は、俺の家に向かった。祭りから離れるとき、彼女は少し切なそうだった。空気全体が切なかった。
 何故俺の家に行くかというと、そこから花火がとっても綺麗に見えるはずだからだ。
 それに、彼女と二人きりになりたかった。
 どんどん囃子の音が小さくなった。
 坂を上り終えると、俺の家がある。玄関を開けると、誰もいない。皆祭りに行っているらしかった。
 俺の部屋に入った長門は、いつもと何も変わらなかった。かくいう俺は、どきどきバクバク。これほど沈黙が痛いのは初めてだった。
 俺は告白しようとしていた。ホームグラウンドで。
 彼女はベッドに腰掛けて、飴玉を見ていた。甘い香りが、部屋中を包んだ。俺は彼女を抱きしめたときの匂いを想像して、いてもたってもいられなくなる。
 好きと言う。
 それだけのこと。
 でも、俺にとって、すばらしく難しいこと。
 花火が、三回鳴った。窓から光が入ってきた。三色の光。それは俺を勇気付けた。そして俺の気持ちを浮き彫りにさせた。
「あのさ、、長門」
「?」
「俺さ。」
 そういって顔を上げると、彼女は花火を見るのをやめて、少しゆがんだ顔をこちらに向けた。
「だめ。なにもいわないで」
「え?」驚いた。
「なんで、、俺のこと嫌いか?」
「、、、!その、服。あなたが旅行のとき着ていた服、、。」
「それが、どうかしたか」
「ポケット。」彼女は、床に投げられた黒いジーパンを指差した。
「あなたは、そのポケットの中を見ていないでしょう」
「それを見ないで私に告白すると、あなたは絶対に後悔する」
「な、なんでだよ。俺はお前が」、、好きだから!、、
「バカ!」
 ビシッ!
 不意に頬が熱くなった。彼女の手が俺の右頬を打っていた。
少しの間が、開いた。
「読んで、その手紙。ポケットの中に入ってる。あの人からの、最後の言葉」
「え?」俺は驚く。
「いいから、読んで」
 俺は旅行のとき着ていた、黒いジーパンのポケットを漁った。
 長門は。外に出た。「早く、、行って」と言葉を残して。
 俺はそれを読み終えると、彼女の家に走って行った。
 間に合うかどうかなんて、気にしなかった。俺は思いっきり駆けていった。
 振り向いて、叫ぶ。長門は切なそうに、俺を見ていた。
「ごめん、、!ありがとう!長門!」
 彼女は泣いているように見えた。それは気のせいじゃなかった。
 祭囃子の音を聞きながら、駆けていく。サカタスーパーまで、息を切らしながら。
「ごめん。長門。でも、俺はお前も好きだった。ごめん、俺、こんなにいい加減な奴だったなんて。でも、もう俺は、あいつを諦めない。あいつも、俺を諦めていなかったんだから。」
「ごめん。長門。俺はお前をあいつの代わりにしていたのかもしれない。」
「俺は、諦めるなんてことを知ってしまったのかもしれない。」
「でも俺は、もう絶対あいつを離さない。」
「絶対掴まえてやる。」
「離さない。絶対」
 俺は走った。
 疲れも知らず走り続けた。
 手紙を握り締めて走った。
 彼女のことだけを考えて。
「キョン。
 あんたにこの手紙を送ります。
 もしも来たければ、七日後の午後八時ごろ、私の家に来てください。
 サカタスーパーの前です。
 もしも来たくなければ、こなくて良いです。
 じゃないと、悲しいから。
 引越しが終わるのはその時間です。
 私は、あんただけと話がしたいんです
 だから、来たければ、八時までに来てください。それ以上は、きっと待てません
 ハルヒ」
 彼女の家まで、思い切り走った。
 サカタスーパーが見えた頃、俺はトラックが去っていくところを見た。
 走っても、走っても追いつかない。
 足が止まった。
 もう動けない。そう思った。でも動いた。ゆっくりゆっくり。
 それでも追いつくはずは無かった。声も出せやしなかった。
 俺は地面に倒れた。スーパー帰りの人たちが、怪訝な顔をして見ていた。
 地面に耳をつけて、バイクの音を聞いた。俺は仮面ライダーを思い出した。ピンチになるとやってくる、正義の味方、、。
 五分もそうして突っ伏していただろうか。俺は、駅に行こうと思った。この前の駅に行けば、どうにかなるはずだ。と。
 いったん家に戻って、財布をとってこよう。お金が無ければ電車に乗れない。
 重い足を引きずって歩いた。
 心はまだまだ折れなかった。が、身体はもう音を上げていた。
「ブロロロオオン」
「ブロロン。ブロン」
「キョンくん!乗ってください!追いかけましょう。」
 古泉、、!

 古泉の腹をがっしり掴んで、ハイウェイをぶっ飛ばす。バイクに乗るのは初めてだった。光がどんどん現れ消えていく様は、とても美しかった。オレンジ色の光に照らされた道路の上を、車の合間を駆け抜けた。彼の声は聞こえなかったが、体温で、二人は分かり合っていると感じた。
 ヘルメットを付けた俺は、全てを彼に任せて、呑気に景色ばかり見ていた。
 本当にいろいろなところを駆け抜けた。ビルの合間を走る高速道路の上では、アメリカの繁華街を思い出した。
 海と川の境目も見た。月の光と、都会の光とが、混ざり合う場所も見た。
 東京タワーも見えた。
 空を見上げると、星はひとつも無かった。でも、なんだか綺麗だと、感じた。
 渋滞で、少しバイクが遅くなったとき、やっと彼と話をした。
「古泉い!お前、バイクもってたんか!」
「ええ!」
「ていうかあ!これ、ちゃんと追っかけてんだろう!」
「おそらく!」
「ちゃんとしてくれ!」
「大丈夫です!」
 風が声を途切れさせた。
「古泉!ありがとうな!」
「当たり前のことを、したまでです!」
「ありがとう」
 俺は、古泉を、少し強く抱きしめた。彼の背中は悲しそうだった。
「俺さ!間違っていたと思うんだ!」
「、、何をですか!」
「俺は、あいつに近づこうとしなかった!それに、あいつの勇気を受け取ってやることもできなかった!挙句の果てに、代わりに長門を好きになった!」
「俺はそれでいいと思った!未練なんて持ったら、後で嫌になると思った!俺は、あいつを忘れようとしたんだ!」
「でも、、違うんだ!未練があるから、生きてるってことなんだ!」
「諦めたら、、、そこには何も残らないんだ!それは未練よりも、ずっと、ずっと悲しいことなんだ!」
 自分がなにを言っているのかわからなかった。でも、彼は俺に頷いてくれた。
「俺は、まだ、諦めちゃいけないんだ!俺はまだ、あいつと一緒にいたいんだ!」
「長門がそう、教えてくれたんだ!一発のビンタが、俺を生き返らせたんだ!」
「うまいこと言いましたね!」
「じゃあ。僕も、諦めませんよ。キミを、、、。」
「何?なんかすごいこと言わなかった?お前!」
「しつこくならない程度にね!」
「別に、俺は友達として付き合うからな!」
「ふふっ、しっかりつかまってて下さい!飛ばしますよおおお!」
「はや、、怖いからあ!うわ、ははははふぁああ」
第二幕 終








「ああ、怖かった、、、、、。」
「一般道はちょっと自信ないなあ。地図ちょっと見てきただけですからね。」
「ああ、線路沿いに行ってみるか。標識の方向に行けば着くだろ。」
「そううまくいきますかねえ」
「っていうか、古泉、なんであんないいタイミングで来れたんだ?」
「長門さんから電話がありました」
「へえ」
「それと、走るあなたを見たんです。祭りからの帰り道で」
 地図を取り出し、俺はそれを読む。
「海と線路の間を走ってれば着くだろう。多分」
「じゃあ、ナビをよろしくお願いします」
「うん」
 ブーン
 バイクっていいな
 ええ
 海の音が聞こえた気がした。暗く広い海は少し怖かった。砂浜を右に、駆け抜ける。
 ねえ、お前なんでバイク買ったの?
 好きだからです
 ブーン
「キョンくん、こっちでいいんですよね?」
「うん。海岸が右にあるならオッケー」
「まだ過ぎていませんか?」
「あの岬は覚えてるから、平気」
 ブーン
「キョン君。あなたはなんで、普通じゃないものを求めたんですか」
「一言じゃ、説明できない」
 ちなみに、相当ゆっくり走っているが、声はかなり大きめである。
「俺が生きているということが、すごいことに感じられたから、、、かな」
「だから、それを無駄にさせないために、、かな。何かに反抗するやつってのは、みんなそうなんじゃないかねえ。自分とともに生きてるんだ。だから自分のために何かをできる。」
「なんか、ハルヒみたいに必死な奴ほど、生きてるって感じがするんだ。俺は、そういうやつらが好きなんだ。自分を好きなやつがさ」
「へえ」
「なあ、古泉?かけがえのないものなのにさ、なんでこんなに簡単にハルヒを諦めちまったんだろうな」
「諦めないってことは、若いってことですからね」
「年かあ、、。やだやだ」
「、、、キョン君。戻ってきましたね、自分が。」
「そうかもね」
「着いたらどうするんです?何か手がかりはあるんですか?」
「トラックだけだな。見つからないようだったら、今日はこの辺に止まるよ。金貸してくれ」
「ええ」
 ブーン
「キョン君。」
「なんだ」
「あなたは、涼宮さんにとって、特別な存在です」
「、、、、ああ」
「あなただけが言えることがあります。他の誰にも言えないこと、、。わかっていますよね」
「もちろん」
「もう躊躇いませんね?」
「ああ」
「僕はあなたに手を貸します」
「、、うん。ありがとう」
「もし失敗したら、僕が送っていってあげます」
「、、、そうならないようにするよ」
「掴んでてください。加速します」

「あの岬だ!古泉!止まってくれ!」
「はい!」
「よし、後は俺に任しとけ。お前はどうする?帰るのか?」
「いえ、手伝います。ところで、長門さんの逆算によると、駅から1キロ以内だということは確実だそうです。」
「なるほど。じゃあ、どうしよ。」
「バイクで住宅地を走ってみましょう。」
「なるほど、そうだな。今、何時だ?」
「九時半ですね。多分トラックが来てからそれほどは経っていないでしょう。すぐ見つかるかもしれません。覚悟はいいですね」
「ああ。行こうぜ」
「ん?あれじゃないですか?ほら。いました!」
「ビンゴか!」
「前方100メートル。間違いないです。」
 ぶろろろん。ろん。
「ここからは、一人でどうぞ」
「そのつもりだよ」

 2

 結局
 キョンはこなかった。
 これでよかったのかもしれない
 でも、なんだか周りのものが味気なく見える
 なんでだろう
 あいつのこと、好きだった
 私は、それをつたえようとした
 でも、だめだった
 私は逃げてしまった
 あのとき、私泣いたんだ
 帰り道、泣いてしまった
 勇気のない自分に
 勇気、、、か、私が
 不思議なものが好きなのは
 わたしが、勇気がなかったからかな
 わたし、また、一人になっちゃったなあ
 わたしの好きなもの、どこかへ行ってしまうんだ
 だれかを好きになると、どこかにいってしまうんだ
 キョンは
 違うと思ってた
「あ、流れ星」
 なにか願うことあったかな
 Desire,,,.
 もうひとりになりたくないよ
 もうひとりになりたくないよ
 もうひとりになりたくないよ
「、、、、、キョン」
「ひとりに、、なりたくないよ」
 忘れられるかな、あんたのこと
 追いかけてきてくれていたりして。
 おっちょこちょいだからな
 今頃見つけて、あたふたしているかもね
 好きって、気持ち、大きいね、キョン

「さて、荷物を出そうかしら」
「思い出のあるものが詰まってたら、やだなあ」
 あっ、そうだ
 あの岬に、行ってみようか。
 外の空気、吸いに。
 行ってみよう。
 もう暗いけど、まだ大丈夫でしょ。
 誰かな?階段をすごい勢いで上がってくる、、。
 なんか、聞いたことあるような、どこかで、聞いたことがあるような、足音。
「ハルヒ!久しぶり!」
「?」
「俺、お前のこと好きだ」
「諦めないからな!」
「絶対離さないから!」
「、、ばか」

 そのころ、窓の外。
「さて、帰りますか。」
「やれやれ、とんだ脇役でしたね。僕」
「、、、ご苦労様、みなさん」

「わすれちゃいけねえ気持ちだってあるんだぜ。ハルヒ」
「なに言ってんのよ、あんた」
「ばか、これから始まるんだから、いろんなこと話さなきゃ」
「、、、、、、、、、、、、、、そうね。」







 寝苦しさのリメイク
 長いわりには大したこと書いてねえな、と思う。

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