『プログラム起動条件・鍵をそろえよ。最終期限・二日後』
 

 

 
 花柄のしおりの裏には、明朝体に似た几帳面な文字で、箇条書きのように、そう書かれている。
 
 ……さて。
 
 「長門、これお前の字か?」
 「……似てる。でも、私はこんなの、書いたこと」
 「だろうな」
 
 鍵。
 これまで俺が闇雲に使っていた表現が、晴れて公式に認定されたわけだ。
 俺は鍵を探さなければならない。
 ……その事を教えてくれたのは、俺が今まで『鍵』と呼んでいたものだった。
 ……冗談だろう?。
 
 「二日後……?」
 
 ふと。栞の文字を見つめていた長門が呟く。
 そうだ。この栞は、朝倉がこの本を持ち去った一月前のあの日から、ずっと本に挟まっていたとしたら。この栞の示す二日後というのは……十二月二十日か、前後があっても数日と言ったところだろう。
 ……時間切れにもほどがあるぞ。
 

 
 「いまさら、どうしろってんだ」
 

 
 鍵探しの果てに見つけたのは、新たな鍵探しの任務。
 そして、示された期限は、とうの昔に過ぎ去っている。
 
 なあ、気のせいだろうか? 俺にはこの状況が、完全なる『万事休す』であるような気がしてならないのだが。

 
 「あの……これ、そこのテーブルの上に」
 「ん?」
 
 ふと。頭を抱える俺に、長門が何かを差し出す。
 それは、今はすっかりお目にかかることもなくなった、黒く、古びたフロッピーディスクだった。
 中央に貼られたシールに、栞の字と似た筆跡で、『SELECT?』と書かれている。
 
 「長門、それは……」
 「……私があの日、本と一緒に、朝倉さんに渡したもの」
 「なんだって?」
 

 
 思わず、声のトーンが高まる。
 

 
 「私の書いた小説を、この中に入れて、朝倉さんに渡した。
  ……何故、今、この部屋にあるのかは、わからない。」
 
 長門はすこし恥ずかしそうに目を伏せながら、フロッピーディスクを俺に差し出して来た。
 薄く、軽く、小さな正方形。
 

 

 
 ああ――朝倉。お前って奴は。
 なんでこうも紛らわしいことをしてくれるんだ?
 俺の前から、手がかりを隠したかと思えば、今頃になって……
 
 「長門、これを作ったのは」
 「……あの日、朝倉さんに頼まれた時。十二月十八日の、放課後」
 
 俺はふと、三年前の七夕の夜を思い出した。
 あの日、俺が長門の部屋で、眠りに付いたように。
 このディスクの中でも、今、何かが眠っているというのだろうか?
 
 「……長門。お前が多分、恥ずかしがるということは分かっている。
  無礼を承知で、頼みが有る。どうか、このディスクの中身を……」
 「かまわない」
 
 俺の言葉を途中で遮るようにして、長門は―――気のせいだろうか、此れまでで一番はっきりした声で―――そう言った。
 
 「……いいのか?」
 「構わない。……あなたになら」
 
 内側からあふれ出そうとしている恥じらいを、真顔の表皮で必死に覆い隠している。
 そんな複雑な表情を浮かべた長門は、俺が動き出すよりも先に、俺の手の中からフロッピーディスクを奪い取り
 
 「それがあなたにとって、必要な事なら」
 
 そう言って、コンピューターの電源を……
 

 

 
 「……え?」
 

 ……電源を入れようとしたところで。長門はコンピューターの画面を見つめたまま、硬直してしまった。
 なんだ? どうした、何があった?
 
 「……パソコンが、勝手に」
 

 
 長門の返事を聞き終わらないうちに。俺は長門の傍へと駆け寄り、ダークグレイの光を放つディスプレイを凝視していた。
 うろたえる長門と二人、息を呑み、その光景を見つめる。
 しかし、ディスプレイには何一つ表示されない。ただ、真っ黒な画面が、延々と表示されているだけだ。
 
 ……長門、フロッピーだ。フロッピーを入れてくれ。
 俺が言うよりも早く。長門は先ほどのフロッピーを、モニタの傍らに取り付けられたドライバへと挿入していた。
 
 「……長門」
 「?」
 「もしかすると、今からお前の目の前で、色々と信じられないようなことが、起きるかもしれん。
  ……できるだけ、驚かないでいてくれるか?」
 「分かった」
 
 ドライバにフロッピーディスクが挿入されてから数秒ほどの沈黙を経て。
 俺たちの目の前に……音もなく、文字が表示されだした。
 

 

 

 

 
 YUKI.N>これをあなたが読んでいるとき、わたしはわたしではないだろう。
 

 

 

 

 
 ……そうだよ。その通りだよ。長門……。
 

 
 俺の隣で、長門が、「えっ」と小さく声を上げるのが聞こえた。
 しかし、先ほどの約束の通り。長門は声を押し殺し、驚きと真剣の入り混じったような瞳で、ディスプレイに連ねられてゆく文章を、じっと見つめている。
 

 文章は、一文字一文字、ゆっくりと組み立てられてゆく。
 

 

 
 YUKI.N>このメッセージが表示されたということは
 

 

 
 ……文章は、そこで止まってしまう。
 何だ? これは、何かの演出か?
 それとも……まさか。
 

 

 
 YUKI.N>エラーを感知。プログラム起動に必要なモジュールが不足している。
     システムに致命的なエラーが発生している。緊急脱出プログラムの実行は不可能。
 

 

 
 ―――勘弁してくれよ、長門。
 いきなり起動し出したのはお前のほうじゃないか。

 

 

 

 
 その文面を表示したきり、ディスプレイは凍りついたように動かなくなってしまった。
 ずいぶんと長い間、俺と長門は、その画面を凝視していた気がする。
 
 「……駄目なの?」
 
 どれくらいの時間がたったか。やがて、沈黙を破ったのは、長門の声だった。
 

 分からない。
 

 そう返そうとしたのだが、いつのまにか俺の喉は、声の出し方を忘れてしまったかのように枯れはててしまっており、うまく言葉を発することが出来なかった。
 
 ……もう、打つ手はないというのか?
 俺がディスプレイから離れ、再び、頭を抱え込もうとした、その瞬間。
 

 
 「! キョン君、これ」
 

 
 長門が声を上げた。
 振り返ると、長門は眼鏡越しの瞳を大きく見開かせながら、右手の指でディスプレイを指し示している。
 俺は物も言わず、再び長門の傍らへと舞い戻り、モニタに噛り付いた。
 ……先ほど凍り付いていたカーソルが、再び点滅を始めている。
 そして……俺と長門の目の前で、再び文章を紡ぎ始めた。
 
 
 
 YUKI.N>     
 
 YUKI.N>システムの実行に必要なモジュールを検知しました。
       本プログラムは、非常用デバッグモードへと移行出来ます。
       実行するならば、エンターキーを。その他の場合は、その他のキーを。

       Ready?

 

 

 
  
 「……非常用モードだって?」
 
 新たに俺たちの前に現れたその文章を見て――俺が一番に気が付いたのは、そのメッセージが、今までの長門からのメッセージとは決定的に異なる『何か』を持っていると言うことだった。
 何かとは、何だ。と言われても、返事に困る。言葉では説明のしようの無いものだ。ただ、文章から発せられるオーラのようなものが、まるで異なるのだ。

 

 何なら断言してもいい。

 新たに現れたそのメッセージは、間違いなく、長門有希が残したものではない。

 

 まるで後から付け足されたかのように現れた、俺を導かんとするそのメッセージ。
 そのメッセージを俺に残したのは、一体誰だ?
 可能性が有るのは……俺が思いつける限りでは、たった一人しか居なかった。
 

 
 「長門」
 

 
 俺が声をかけると、長門は何も言わずに俺を振り返った。
 先ほどまでとは何かが違う。何かを悟ったかのような、不思議に落ち着いた表情。
 
 「……もしかすると俺はこれから、この場から消えちまうかもしれない」
 「分かっている。なんとなく」
 「もしそうなったら……ごめんな。なんか、何から何まで勝手で……振り回してばかりで」
 「いい」
 
 俺が謝罪の言葉を述べると、長門はそれを拒否するように首を振り……
 

 
 「きっと、それは正しいこと。……あなたにとっても、私にとっても」
 

 
 どうなんだろうな。俺にはわからんよ。
 だが……お前がそういうのなら、そうなのかもしれん。
 

 

 

 

  
 最後に、長門に何かを言うべきだったのだろう。
 しかし、一体何を言うべきなのか、俺には分からなかった。
 だから俺は、無言で指を伸ばし、エンターキーを押し込んだ。

 

 

 

 

 

 
 
 ―――
 
 
 
     ◆
 

 

 
 
 
 自分を含めた全てが渦を巻くかのような、強大な違和感の果てに。
 俺がたどり着いた先は……一切の色を奪われた、灰色の文芸部室だった。
 
 「……長門?」
 
 たった先ほどまで、俺の傍らに居たはずの長門は、跡形もなく消え去ってしまっている。
 窓の外には、夜の闇から更にわずかな彩りさえもを抜き取ったかのような、完全な暗闇が広がっている。
 ……俺はその全てに見覚えがある。
 灰色の空にも、色を失った文芸部室にも。
 俺の知るある男は、この世界を、こんなふうに読んでいた。
 
 
 「閉鎖空間……」
 
 
 そして。俺の知る限り、その世界を作り出せるのは、この世界にただ一人であったはずだ。
 
 涼宮ハルヒ。
 
 
 ……俺は、今度は一体、どこにやってきてしまったと言うのだろう?

 

 

 
 ―――いつかの春の夜に倣うならば。
 いずれ、窓の外に赤い光の玉がやってきて、俺に助言をしてくれるはずなのだが
 今、その展開への期待を募らせたところで、おそらく、俺の気持ちは盛大に泡と散るだけであろう。
 
 
 「……ん?」

 
 
 窓の外から視線を外し、室内を振り返った俺は
 パソコンの画面に、なにやら文章のようなものが表示されていることに気が付いた。
 近づいてよく観察してみると、画面にはテキストエディタが開かれており
 そこに、小さく設定された文字で、何かの物語が記されているようだ。
 
 
 
 
 

 

 
 『SELECT?』
 

 

 
 
 
 
 
 
 それは、長門の書いた小説だった。
  
  

 

 

 
      ◆

 

 

 
 
 物語は、図書館のシーンから始まっていた。
 
 主人公は、生まれたときから笑うことのできない、幼い紋白蝶の少女。
 少女は本が好きであり、幾度も幾度も、その図書館から本を借りたいと願っている。
 しかし、少女は笑うことができない。
 そのため、誰も虫の少女が本を好きだという事を分かってはくれない。
 だから、少女はいつも、本を借りることが出来なかった。
 
 しかし。少女は、ある日出会った蓑虫の青年から笑顔を作りかたを教わり、必死で練習をすることで、ある日、本当にわずかだけれど、笑顔を作ることができるようになった。
 少女はそれを喜び、再び図書館を訪れる。
 しかし、少女の笑顔は本当にわずかなものでしかない。
 それが笑顔と分かってくれる人は少なく、やはり、少女は本を借りることができない。
 少女は悲しみ、そして、自分に笑顔を教えてくれた人々のことも、悲しませてしまったと嘆いた。
 

 

 
 やがて。少女はついに、あふれるほどの笑顔を浮かべることの出来る魔法を、魔法使いの女王蟻のもとから盗み出してしまう。
 その魔法を使えば、世界中の誰もが、笑顔のない彼女を忘れ、新しい彼女を受け入れてくれる。
 

 少女は、幸せになれると思った。
 笑顔を教えてくれようとした人々も、きっと、生まれ変わった自分を喜んでくれると思った。
 

 

 
 しかし、無限の笑顔を浮かべる自分を想像し、少女は思う。
 笑顔を手に入れた時、自分は、自分ではなくなってしまうかもしれない。
 少女はそれが正しいことなのかどうか、分からなかった。
 

 

 
 少女は、誰もが幸せになる世界を望んでいた。
 しかし、自分が自分で無くなってしまうことを望んでいるのかどうか、少女には分からなかった。

 

 

 

 
 
 考えた末に。少女の出した決断はこうだった。
 

 
 少女は、一部の人物を覗いた、世界中の全てのものに魔法をかけた。
 人々を悩ませる要因は全て消してしまい、そして、自分自信を、笑顔の似合う黒揚羽蝶へと変えた。そして、人々の記憶から、笑わない紋白蝶の記憶を消し去った。少女自身の記憶からもだ。
 

 
 少女が魔法をかけなかったのは、この世でたった二人だけ。
 

 

 一人は、少女にわずかな笑顔を教えてくれた、蓑虫の青年。
 少女は、魔法によって手に入れた笑顔が、少女にとって正しいものなのか、どうなのか。それを、蓑虫の青年にその判断をしてもらおうとする。
 しかし……もしも、蓑虫の少年が、自分を見つけられなかったときのために。

 蓑虫の青年に教わった笑顔に、ただ一人気づいてくれていた、雀蜂の少女にも、魔法をかけなかった。

 
 もしも、少女が蓑虫の青年の周りを飛んでも、青年が蓑の中から顔を出さなかったとき。
 その時には、雀蜂の少女の針が、彼を目覚めさせてくれる。

 

 もしも、雀蜂の少女が、知らない花畑へと迷い込んでしまったとき。

 その時には、蓑虫の青年が目印となり、少女を在るべき場所へ導いてくれる。


 

 少女が信じる二人ならば、きっと答えを出してくれる。
 そう考えた。

 

 
 

 
 そして。少女は二人から良く見える場所に、女王蟻の魔法のかけらを隠した。
 もしもこの世界が正しくないのならば、その魔法で、全てを元に戻せるように。
 
 
 
 
 

 

 そうして、少女は世界を作り変えた。
 

 

 
 物語は、そこで終わっている。
 
 

 

 

 

 

 

 つづく


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