「おはよう。今日は目が覚めてる? だといいんだけど」
 

 朝。敵は不機嫌の象徴のような表情で私の前に現れた。先制攻撃として、私は例によって『至極まともなクラス委員の朝倉』を気取って、一晩かけて考えた、彼が一番気分を害するであろう言葉を浴びせかけてやった。
 彼は自分に関係のない音楽を鳴らし続けるラジカセを見るような視線で私をにらみつけた後
 

 「まあな」
 

 疲れているわね。キョン君。私には良く分かるわ。何しろ、出鱈目な世界に放り込まれて一晩を明かしたうえに、一度自分を殺そうとした人間を前にしているんだものね。
 私にはよくわかる。でもね。クラス委員の朝倉涼子には、そんなことは知ったことじゃないのよ。
 

 「でもね、目が開いているだけでは覚醒してるって事にはならないのよ。目に映るものをしっかり把握して、それで初めて理解の助けになるの。あなたはどう? ちゃんとできてるかしr」
 「朝倉」

 
 同じく、一晩かけて考えておいた、キョン君の気を逆撫でするセリフを、大仰な手振りと共に口にする。
 そのセリフが終わるより、すこし早く。
 さきほどまで身を低くしてうなっていたライオンが、突如として体を起こし、人間に襲い掛かるかのように、彼は音を立てて椅子を引きながら、私のすぐ目の前まで顔を近づけ、例の低い声で、私の名前を呼んだ。
 距離にして数センチ。午前八時台では、たとえ恋人同士でも、そうそうこの距離まで顔を近づけはしないだろう。彼は厚ぼったい眉を顰め、大地のそこまで真剣そのものと言った視線で、私の顔をにらみつけている。
 思わず、耳の後ろを冷や汗が通過してゆく。冗談抜きに、今にも噛り付かれそうな剣幕だった。

 
 「……」
 

 彼はしばらく沈黙した後で
 

 「本当に覚えがないのか、しらを切っているのかもう一度教えろ。お前は俺を殺そうと思ったことはないか?」
 

 実は昨日、ちょっと思いました。
 などと言えるわけもなく。私は目の前の男の予想外のテンションにすこしうろたえながらも

 
 「……まだ目が覚めてないみたいね」
 

 お決まりのスタンスに舞い戻り、できるだけ意地の悪い口調で、彼の問いかけを一蹴した。
 

 「忠告するわ。早めに病院に行ったほうがいいわよ。手遅れにならないうちにね」
 

 仮に、この言葉で彼の怒りが頂点に達し、私に襲い掛かってきたとしても、周囲にクラスメイトたちが居るこの状況であれば、私がまともに危害を加えられる前に彼を取り押さえてくれるだろう。
 更に、それによって、彼が本当にアタマの病院か、あるいは少年院あたりに放り込まれることになれば、私と長門さんの生活を阻むものは晴れていなくなり、万々歳。などと考えていた。
 しかし、彼はこの期に及んで餌を取り上げられた犬かなにかのように、不満そうに口をつぐんだまま、黙り込んでしまった。
 

 ……結構、本当にきついだろうな。
 

 一瞬、彼の心境を思い浮かべ、心が痛む。
 しかし。そんな考えはすぐに捨てなければならない。
 彼はきっと、できるならば、この世界を元に戻そうとするだろう。
 それを許すわけには行かない。
 彼の思い通りに世界が動いたならば、私はきっと、再びこの世から消されてしまうのだから。

 

 

     ◆

 

 

 同調する人としない人とが居るとは思うけれど……少なくとも私の知る限り、人気者とはつらいものであり、私はこの日の放課後も、友人たちに捕まってしまい、長門さんの部室に行くことは出来なかった。それは純粋に、長門さんと共に過ごす時間を増やすということだけでなく、あの間抜け面を今の長門さんに近づけないためのボディーガードの意味もあったのだけれど。
 もっとも、きっと今の長門さんが、あの男がするであろう荒唐無稽な話を受け入れるとも思えないし、せいぜい奇異の視線を全身に浴びせられて、絶望に打ちひしがれることになるだけだろうけど。

 
 ……ちょっと待った。
 

 今朝、あの男が、煮詰まった様子で私に見せた、あの飢えた猛獣のような様相。
 もし、周囲に人の居ない文芸部室で、長門さんと二人きりの状態で、あの男があのような態度を見せたら?
 そして……私の軽口ではかろうじて切れなかった奴の血管が、長門さんのドンビキを前に、対に決壊の時を迎えてしまったら……?
 

 駅へと続く通りの歩道を、クラスメイトたちと歩いていた私の足が、その予感に推し止められる。
 

 「……あ、あの」
 「え? どうしたの、朝倉さん?」
 「私、ちょっと……ごめんなさい、どうしても急用がっ!」
 「え、朝倉さんっ!?」
 

 背後から名前を呼ばれるけれど、もう私は、それどころではなかった。私の頭の中では、すでにあの男の両手が、長門さんの両肩にかけられている。

 間に合って、お願い!
 

 

 

 心臓破りの通学路を駆け戻り、学校内へと戻った私は、そのまま部室棟へと直行しようとし、ふと思いとどまり、中庭へと走った。中庭から部室棟を見上げれば、文芸部室の室内を、わずかだが、覗くことが出来るはずだ。
 彼女はいつも、窓際に腰をかけ、本を読んでいる。めったなことがなければ、そこを動かないのだ。……もっとも、それは私の知る、以前の長門さんのことであり、今の長門さんが、同じように窓際で本ばかり読んでいるという保障は、どこにもなかったのだが。
 それでも。私の思惑通り、彼女は中庭から見渡せる、窓際の椅子に腰をかけて、そして、おそらくだけれど、私の考えていた通り、本を読んでいてくれた。
 彼女のカーデガンを着た肩から上の後姿が、閉じた窓ガラスの向こうに、確かに佇んでいたのだ。
 ……よかった。少なくとも、あの男が彼女に危害を加えていることはなかったようだ。

 念のためと、その後もしばらく、私は中庭の木陰に身を隠し、窓際に腰をかける長門さんを観察していた。
 三十分ほど余裕をみて待ってみても、彼女の振る舞いに不審な点は見受けられなかったので、それでようやく、私は安心し、その場を離れることにした。

 
 本当なら、そのまま文芸部室へ向かい、長門さんとの時間を楽しんでも良かったのだけれど、その日、私は久々に、長門さんのために晩御飯を作り、夕食時を二人で過ごしたかったのだ。
 以前の彼女が好きだったおでんあたりを作れば、今の長門さんだったなら、微笑んで喜んでくれるだろうか?
 きっと喜んでくれるはずだ。彼女は、私と共に過ごすことを望んでくれていたはずなのだから。
 ……多分。
 私は窓際の後姿に名残惜しさを感じながら、夕食の材料をそろえるために、スーパーを目指し、学校を後にした。

  

  

     ◆

 

 

 なんやかんやで夕暮れ時。正直どうかと思うほどたくさんのおでんが、私の手によって、この世に産み落とされていた。おでんは一度にたくさん作るほうがおいしい。という話をよく聞くけれど、別に私は、できるだけおいしいものを作ろうとしたわけではなく。

 ただ、単純に、久々に台所に立ち、長門さんの顔を思い浮かべながら料理をした結果、私のテンションは止め処を知らずにあがり続け、結果として、このような過剰積載鍋料理が完成してしまったのだ。
 そもそも。私の知っているかつての長門さんは、これぐらいの量のおでんならば問題なく食べてしてしまったのだが、今の長門さんが、かつての長門さんほど大きな胃袋を持っているとは、ちょっと思えない。
 

 「ま、いいわよね。保つものだし」
 

 私は明日の自分の分と考え、小鍋に一杯分ほどのおでんを取り分けた後、余ったなら余ったときに考えればいいと、残りのおでんを入れた大鍋を、鍋掴み越しの両手で持ち上げた。
 

 「長門さん、今行くわよ」
 

 ……思えば。私はこの時点で、どう見ても二人分です。とでも言った量だけを持っていくべきだったのだ。

 

 

 

 

 

 『あの……でも、今は』
 

 インターホンの向こうから帰ってきた彼女の返事は、私の期待してたものとは大きく異なっていた。
 

 「え……でも、長門さん、食事、まだでしょう? ……つくりすぎちゃったし、よかったら、食べてほしいんだけど」
 『その……』
 

 ここ数日で慣れ始めた、長門さんのためらうような態度。
 私はその時、閉ざされたドアの向こうから発せられる、何か嫌なにおいのようなものを感じていた。
 

 ……まさか。
 

 『分かった、待ってて』
 

 すこしの沈黙の後、その言葉を最後に、インターホンの通信は切れた。
 数秒後、小走りの足音が聞こえて、ドアロックが解除される。
 セーラー服の長門さんが、私を迎え入れてくれた。眼鏡越しの、すこし戸惑ったような表情。
 

 「あの……友達が来ていて」
 「ふっ」
 

 私の嫌な予感を、すべて惜しみなく取り入れたかのような展開に、私は思わず、理由の分からない笑みを零した。
 

 「大丈夫、気にしないわ」
 

 私はどんな表情をしているのだろう。長門さんが、何か珍しいものを見るような表情で、おでんを抱えた私の顔を見つめていた。

  

  

     ◆

 

 

 長門さんが、一体どんないきさつで、この世界を変えてしまうほどの力を手に入れたのか、分からない。
 けれど。この世のすべてが、今、彼女が望んだように在るとしたならば。

 

 私は彼女に選ばれたのだ。

 

 そうよ。
 そして。今、再び私の手の中にある、このナイフの意味。
 

 分かってる。

 

 彼こそが、あなたにとってのエラーなのよね。
 

 私は戦うべきなのね。
 

 そうでしょ、長門さん?

 

 

 

 すべてはあなたが望んだこと。
 そうでしょう?

 

 

 

 つづく

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最終更新:2008年09月02日 22:50