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一月前の大荒れが嘘のような、美しい晴れ模様だ。
大雨に崩れた畑や家を元のように修復するには相当の根気がいる。汗水を垂らして働く民たちの姿を、次期国王たる少年は己の足で道を辿り、順繰りに、その瞳に焼き付けた。川が大氾濫を起こした被害状況を見て回ったのは十日ほど前のことだったが、瓦礫と土砂で酷い有様だったあの頃から、随分と市井は様変わりしている。
「視察ですか、王子さん!」
赤ら顔の武器屋の主人が、壊れた塀の修繕をしている最中に視察中の男に気付き、帽子を取って頭を下げた。王子は、見慣れた顔に鷹揚に頷いた。
「捗ってますか、修理の方は?」
「ぼちぼちってとこですわ。雨で随分押し流されましたもんでね。これでも復旧した方ですよ。道は完全に塞がりましたからねえ。王子さんが、早々に手配してくれたおかげですわ」
「当然のことをしただけですよ。誉めてもらうようなことじゃない」
王子の物臭なようでいて動くときは迅速な政策の数々は、多くの民衆に支持されていた。よく街に降りて、平民と雑談をする貴族など彼くらいのものだろうと、付き人の騎士は思う。
それは彼の美点であり、また欠点ともいえるべきところだが……愛すべき特性なのは間違いない。彼だからこそ、己も騎士であろうと心を保っていられるのだ。
――彼が王となれば、必ず国は変わるだろう。それを、誰もが期待している。
「そういやあ、王子さんはもう数月で成人の儀だろう?」
武器屋の主人との話に割り入ってきた果物屋の老女が、にこにこと笑って騎士に問う。白の甲冑を纏った姿はともすれば敬遠される材料ともなるだろうが、騎士の持ち前の柔和な笑顔は、王子とはまた別に破格の人気があった。
「ええ。もう暫くで王子は二十歳になられますので……それは盛大な式が催されると思いますよ」
「ふふ、楽しみだねえ……あたしゃ、息子夫婦を引っ張ってお祝いにいきますよ。年寄りにできた楽しみだね」
朗らかに笑う老婆に、騎士は「本当に」と、笑顔で賛同した。
本当に……その日は、この国にとって、大きな分岐点となるだろう。
「コイズミ、そろそろ引き上げたい。寄り道もしたいしな」
王子が半ば街周りを終えて言うと、呼ばれた騎士も「それがいいですね。暗くなる前に戻らなくては」と頷きを返した。
そして、王子の出立前の希望通りに、大嵐の後に王子が発見された海際へと立ち寄る。
……人気はなかった。
静けさを取り戻した大海原は、紺碧の光を表層にうっすらと湛え、陽光の反射も相俟ってなお美しい。
騎士は海が好きだったし、それは王子も同様のことだった。濁流に揉まれて命を繋ぎとめたあとも、「しばらく船はこりごりだ」と言ってはいたものの、海そのものを厭うような発言はなかった。彼は海際の一国に生を受け、海と隣接して生きてきた人間であった。この国に生まれ、海を愛さぬ者はない。
「よく生き残ったもんだと、常々思うな。この海に放り出されて……」
彼は慨嘆口調だ。騎士は微笑んだ。
「それはあなたが、海に一際愛されているということでしょう。もしかしたら、人魚の加護があったのかもしれませんよ」
「人魚の加護か。それなら有難いな。人魚の護りが受けられるなら、国も安泰だ」
肩を竦めて、騎士の冗談を笑う王子。
政務から一時離れているからこそできる、友人同士としての掛け合いだった。
「……帰るか」
波打ち際に何かを捜すような眼をしていた王子は、やがて、その答えの算出を諦めたように瞼を伏せる。
騎士にとっても気掛かりなことではあった。王子が茫洋と、一体何を求めているのか……。彼の婚約者が不在の今だからこそ、彼の精神を気遣うのも騎士の役目だ。
だが――何もないなら、それに越したことはない。
己の不安を掻き消そうと、騎士は首を軽く振る。
「……そうですね」
海を一望する王子は、それから踵を返し、歩き始める。
騎士もそれに続き――ふと、彼は海面に揺らめく白に、その眼を奪われた。
水仙の化生の如き、白い光が。
その日その瞬間、騎士の目の前で、砂浜へと流れ着いた。
幻のように。