水が走る。まるで餌を捕らえた獣のように。
 
気を緩めれば、一時にして方角を見失いかねない。
白尾の人魚は、激しい潮流に揉まれながらも懸命に波に抗し、針路を変えることなく突き進む。海を住処とし、その為の尾鰭を持ち合わせているというのに、海流はその人魚すら寄り付かせまいと水を泡立てているのだった。
一寸先は闇。――これより先は死海。
あらゆる魂が死後集うとされる救済と滅びの底。清らかな水を保たねばならぬ故に、誰であろうと無遠慮に立ち入ることは赦されない。これもまた、人魚界での、そして人間界での決まりごとであった。
もし「禁域」に入りたいのならば、幾ら水の刃が珠の肌を切り刻み、鱗を食い千切って血を海水に滲ませようとも、定められた順路を辿らなければならない。
迂回はならない、とユキは愛する姉たちに言われていた。
痛みから逃れるべく迂回すれば資格を奪われ、二度と禁域に入場すること能わず。逃げ道を間違えば彷徨う魂に身も心も食らい尽くされ、亡霊の仲間入りをすることとなるだろう、と。
 
『そのリスクを負ってでもあなたが人間になりたいというなら、他にいう事はありません。……「魔女」に会いにいくといいでしょう。
禁域に住むという「魔女」ならあるいは、あなたを人にする方法も知っているかもしれません』
『……だけど、エミリ……!』
『諦めるしかないわ、リョウコ。ユキは、一度決めたことを曲げたりはしません』
 
白の人魚は、姉達の言葉を思い起こした。諦めの表情をしたエミリと、最後まで反対を続けていたが、ユキが禁域に向かう決意を示すと、拗ねた様にそっぽを向いていたリョウコ。
……申し訳ない、という思いは強くあった。
禁忌に触れた己はどちらにせよ排斥される。そうなれば、自分を可愛がってくれていた姉達がどれだけ悲しむか。考え続け、何度も己を諌めたけれども、駄目だった。会いたいという気持ちを覆すことができなかった。 


魔女は、「禁域」の何処かの島に隠れ棲み、人からも人魚からも外れた異端の生き物と言い伝えられる。
人はその力を欲するとき、もう故郷の地は踏めぬことを覚悟して船出するという。魔女と契約することは魂を束縛されること。魔女に対価を差し出してまで願いをかなえようとする者の命は、かの者が海に漕ぎ出でた瞬間にないものと思え。往生したいのならば、決して、魔女を頼ろうなどと血迷ってはならない。――人の世の書にすら、実像も定かではない存在に対して、そのような固い戒めがある。
それでも――
白尾の人魚は泳ぎ続けた。
 
 
 
 
 
 
三日三晩に及ぶ遠泳の果て、人魚は、傷だらけの身を陸に横たえた。 
 
「禁域」を突っ切った先にあった、孤島。
入場のラインを越えて身を切り刻む水から逃れれば、波は不思議と穏やかになった。だがそこは微生物すら居ない孤独の海だ。寒いなどと感じることのない人魚の肌にすら、怖気が走るほどの不気味な静寂。
魚一匹、姿は見えない。時折揺らめいてみえる光は、何かの魂の痕跡だろうか。
負傷した身から、血は海水に溶けてゆく。疲弊しきった体をどうにか土の上にたどり着かせて、人魚は浅く呼吸した。
 
――闖入者を出迎える人影は、すぐに差した。
 
「久しぶりのお客様ですね」
 
警戒すら解きほぐしてしまう様な、女の美声だった。人魚はくたりと力の入らぬ身を叱咤し、眼を抉じ開け、のろのろと顔を仰向かせる。
黒い羽織物をした、女だった。
姿は――まるで人間と変わらない。二本脚で立ち、人魚を見下ろしている。
ふわりとした栗色の髪を背程に伸ばし、蠱惑的な微笑を口元に浮かべている。豊満な胸を押し上げるぴったりとした黒のドレス。黒い手袋。
凄絶な美しさを纏った女だった。

「あなたが……魔女」

人魚の声は、断定的なものとなった。
只人ならざる気を、人魚は目の前のその者に感じ取っていた。それに、魂の聲(こえ)も、人間の形状とは異なって聞こえる。朝礼に鳴らされる貝殻のベルよりも澄み切っていながら、そこにある感情の波状が聞き取れないのだ。海洋生物に対しても人間に対しても、有り得ないことだった。
女は砂地に膝をつき、人魚との距離を縮め、肯いた。

「仰るとおり、私が魔女と呼ばれる者です。……何か強い望みがあって此処まで来たのね、人魚さん」

世に噂されるような、善を搾り取る者とは思えぬほど、優しい声が降り注ぐ。女の手が伸ばされ、そっと人魚の髪を撫でた。

「言ってみて。きっと叶えてあげることができるから」

白尾の人魚は、簡潔な言葉で、魔女に促されるまま願い事を口にした。
魔女はゆっくりと微笑み、いいですよ、と応じる。あっさりとした答えだ。人魚の願いはただ己の欲求に起因するもの。まさかそれほど簡単に、応じて貰えるとは思っていなかった人魚は、無表情の内に強く意思を主張する眼を、驚きに丸くした。

「……なぜ」
「だって私は、そのためにここにいるんです」

幼くも映るような甘い微笑みを浮かべ、魔女が言う。

「でもね、……人魚さん、よく聴いて下さい。
わたしが願いを叶えるということは、あなたはわたしと魂の契約をするということなの。契約を裏切れば、あなたは死ぬことになる」
それは元より承知の上のユキだったが、魔女の言葉には続きがあった。

「それは、あなただけじゃないわ。
もしあなたと契約した者がいたなら、その者も同じ魂の縛りを受けることになる……。あなたと契約し、あなたを裏切った者も死ぬの。
……それでもいいなら、あなたを人にしてあげることができます」
 
 
笑みに哀しみが意図的に混ぜられた、そう見えた。人魚はその魔女の、総てを見透かしたような瞳に、心臓の高鳴りを覚えた。ここで選べば、もう戻れないのだと、魔女は最後の忠告をしているのだ。
それでも、人魚は引き返す訳には行かなかった。
胸をひり付かせる、愛慕は何れ人魚を焼き滅ぼすだろう。それを分かっていたからこそ、姉たちは彼女を送り出したのだから。

己と契約をしたとして、あの青年が自分を裏切ることは決してないと、人魚は信じていた。清らかな、あの魂の聲は、決して嘘を吐くことはない。彼が死ぬことはない。
 
「……契約をする。わたしを、人にしてほしい」
 
「そう言うと思っていました。……あなたなら」
 
魔女は予期していた通りの答えに微笑む。――分かり切った結末を惜しむように、寂しげに。 
 
 
 
 
魔女は人語ではない言葉を口頭にて呟くと、人魚の額に口付けた。裂傷の走った血の滲むそこに、そっと触れる。瞬く間に、擦過傷、切り傷が癒えていった。
――額に口付けること、それは人魚界の作法であり、儀礼である。それは魂の契約を表わすものだった。
人魚もまた、接近した魔女の額に口付ける。鱗粉のような光が人魚と魔女を包み込み、やがて散り散りに消えた。
 
「……あなたに、祝詞を」
 
魔女の一声を最後に、魂の契約は終了した。
間もなく――、人魚の尾鰭を、激痛が貫いた。
 
 
 
 
 

 
 
* * * 
 
 
 
 
 
 
あなたは、本当に、いつも頑固よね。
私の意見なんて、聞きやしないんだわ。
喧嘩した日だって、私が折れてばっかり。
あなたから謝ったことあった?
 
ううん、でも、それでいいの。
私はそういうあなたを、誇りに思うから。
 
 
……わかってたわ。どうしようもないってことは。
 
人間にあなたを盗られる日が来るなんて、思いもしなかったけどね。
 
ねえ、……ねえ。
 
 
私は、あなたを愛してるから。
どれだけ季節が巡ろうと、あなたは、私の可愛い妹だから。
 
 
……つらいときは、呼んで。
きっとあなたの傍に駆けつける。
 
そのために、一方的だけど、「契約」……しておくね。
さようなら。
 
 
私の、Snow.
 
 


 
 
   

* * * 






一月前の大荒れが嘘のような、美しい晴れ模様だ。
大雨に崩れた畑や家を元のように修復するには相当の根気がいる。汗水を垂らして働く民たちの姿を、次期国王たる少年は己の足で道を辿り、順繰りに、その瞳に焼き付けた。川が大氾濫を起こした被害状況を見て回ったのは十日ほど前のことだったが、瓦礫と土砂で酷い有様だったあの頃から、随分と市井は様変わりしている。

「視察ですか、王子さん!」
赤ら顔の武器屋の主人が、壊れた塀の修繕をしている最中に視察中の男に気付き、帽子を取って頭を下げた。王子は、見慣れた顔に鷹揚に頷いた。

「捗ってますか、修理の方は?」
「ぼちぼちってとこですわ。雨で随分押し流されましたもんでね。これでも復旧した方ですよ。道は完全に塞がりましたからねえ。王子さんが、早々に手配してくれたおかげですわ」
「当然のことをしただけですよ。誉めてもらうようなことじゃない」

王子の物臭なようでいて動くときは迅速な政策の数々は、多くの民衆に支持されていた。よく街に降りて、平民と雑談をする貴族など彼くらいのものだろうと、付き人の騎士は思う。
それは彼の美点であり、また欠点ともいえるべきところだが……愛すべき特性なのは間違いない。彼だからこそ、己も騎士であろうと心を保っていられるのだ。
――彼が王となれば、必ず国は変わるだろう。それを、誰もが期待している。
 
 
「そういやあ、王子さんはもう数月で成人の儀だろう?」
武器屋の主人との話に割り入ってきた果物屋の老女が、にこにこと笑って騎士に問う。白の甲冑を纏った姿はともすれば敬遠される材料ともなるだろうが、騎士の持ち前の柔和な笑顔は、王子とはまた別に破格の人気があった。 

「ええ。もう暫くで王子は二十歳になられますので……それは盛大な式が催されると思いますよ」
「ふふ、楽しみだねえ……あたしゃ、息子夫婦を引っ張ってお祝いにいきますよ。年寄りにできた楽しみだね」
 
朗らかに笑う老婆に、騎士は「本当に」と、笑顔で賛同した。
本当に……その日は、この国にとって、大きな分岐点となるだろう。
 
 
 
 
 
「コイズミ、そろそろ引き上げたい。寄り道もしたいしな」
王子が半ば街周りを終えて言うと、呼ばれた騎士も「それがいいですね。暗くなる前に戻らなくては」と頷きを返した。
そして、王子の出立前の希望通りに、大嵐の後に王子が発見された海際へと立ち寄る。
 
……人気はなかった。
静けさを取り戻した大海原は、紺碧の光を表層にうっすらと湛え、陽光の反射も相俟ってなお美しい。
騎士は海が好きだったし、それは王子も同様のことだった。濁流に揉まれて命を繋ぎとめたあとも、「しばらく船はこりごりだ」と言ってはいたものの、海そのものを厭うような発言はなかった。彼は海際の一国に生を受け、海と隣接して生きてきた人間であった。この国に生まれ、海を愛さぬ者はない。
 
「よく生き残ったもんだと、常々思うな。この海に放り出されて……」
 
彼は慨嘆口調だ。騎士は微笑んだ。
 
「それはあなたが、海に一際愛されているということでしょう。もしかしたら、人魚の加護があったのかもしれませんよ」
「人魚の加護か。それなら有難いな。人魚の護りが受けられるなら、国も安泰だ」
  
肩を竦めて、騎士の冗談を笑う王子。
政務から一時離れているからこそできる、友人同士としての掛け合いだった。
 
「……帰るか」
 
波打ち際に何かを捜すような眼をしていた王子は、やがて、その答えの算出を諦めたように瞼を伏せる。
騎士にとっても気掛かりなことではあった。王子が茫洋と、一体何を求めているのか……。彼の婚約者が不在の今だからこそ、彼の精神を気遣うのも騎士の役目だ。
だが――何もないなら、それに越したことはない。
己の不安を掻き消そうと、騎士は首を軽く振る。
 
「……そうですね」
 
 
 
 
海を一望する王子は、それから踵を返し、歩き始める。
騎士もそれに続き――ふと、彼は海面に揺らめく白に、その眼を奪われた。
 
 
水仙の化生の如き、白い光が。
その日その瞬間、騎士の目の前で、砂浜へと流れ着いた。

 
 
 
幻のように。 


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