心電図の音がしている病室。
元々華奢な橘はもうこれ以上細くなるのか、と疑問に思えるぐらい細くなってしまった。
目の前で病院の食事を食べている大好きな少女。普通の光景なのに、じつはとても必死に頑張っている。
「あ・・・」
ふと橘の手からスプーンが落ちる。
 
カラーン。
 
堅い床に当たって高い音を立てて転がる。俺はそれを拾ってあげる。
「俺が食べさせるよ」
「ううん、いいの。自分でやれる事は自分でやりたいから。ごめんね」
橘はそう言って気合を入れるようによしっと小さく呟いてスプーンを再び握った。
 
 
橘の香り 第六話「満開桜花柑橘類型」
 
 
四月。
窓の外ではやや咲き遅れた桜の花が全力で笑っている。
たった数日で淡々と弱っていく橘は、花のようにもう力強く笑うこともできない。
だが、それでもやっぱり笑う。できる範囲内での全力で。
それを見る度に心が痛くなる。何も出来ない自分に腹が立つ。
「キョンくん?」
ふと視界にすっと橘の顔が入ってくる。
大きな双眸がまっすぐに俺の顔を見つめてくる。
「ん? あぁ、すまん。ちょっと物思いに老けてしまったみたいだ」
俺がそう答えると、橘は途端に噴き出した。何事か。俺は今何か面白いことを言ったか?
「・・・オヤジ臭いですね」
ちょっとカチンと来たね。
「そんなことはない。俺はまだまだ高校生だからな」
「その発言がもう年寄りじみてます」
「なんだとー」
「きゃー。お助けー」
橘の体をぎゅっと、しかしそっと抱きしめてベッドに二人で転がる。
パジャマ越しに感じる体温。まだ温かい。それに安心を覚えた。
「橘・・・」
細い。抱きしめるとスッポリと収まってしまうぐらい。
まだ古泉に呼び出されて、橘に告白された頃から華奢だったからな。
「ねぇキョンくん」
「ん?」
「幸せですか? 私と居て幸せですか?」
「もちろんだ」
「なら・・・良かったです」
ぎゅっ、と橘の腕に少しだけ力が入る。
「お前と居て不幸になるわけがない。今までも、今も、これからもな」
「・・・私はきっと貴方を泣かせてしまいます。それでもこれからも私で幸せになれますか?」
珍しい。
橘がネガティブになることなんて屋上でのわかれて下さい発言以来無かったのに。
どうしたんだろうか。何か不安になることでもあったのか。
「俺は橘で幸せだ。ずっとな」
そんな不安になることはないのにな。
「キョンくんは優しいですね。だからこそ、愛してます、ずっと」
「あぁ、俺もずっと愛してる」
考えれば、橘は気付いているのかもしれない。
自分の体の事だから多分一番解っているからこそ不安になっているのかもしれない。
それが何かは俺には解らないけどな。
そのまま抱き合っているうちに面会時間も終わり、俺は橘の病室を出た。すると
「こんにちは」
と、まぁ、いつも通りの古泉が立っていた。横には知らないおっさんを一人携えて。
何だコイツ。まさか橘のように・・・いや、やめてくれ。それだけはだめだ。
「・・・誰ですか?」
「おぉ、これは失礼。私は橘京子の居る機関の上司、とでも言えば良いかな」
何でそんな奴がここに。まさか、橘を連れ戻す為にか?
警戒心を隠さない、というより隠せない俺を見てその橘の上司は笑った。
「私は別に彼女をどうにかしようとしているわけではない」
そうは言っているが油断は禁物だ。いつだって言葉には裏というものがあるからな。
「では、何をしに来たのですか?」
「橘の恋人の顔を拝見しようと思っただけさ。君の顔をね」
「へ?」
そんな目的ってアリか? んなアホな。
「僕達の機関と、橘さんの機関は一応仲直りをしたのですよ。だから大丈夫ですよ」
古泉がいつもの笑顔を浮かべながら言う。
仲直り、か。
そう言えば敵対している同士だったっけか。すっかり忘れていたが。
「それはまた随分唐突だな」
「他の誰であろう、貴方達のおかげですよ」
「貴方達って俺・・・と、橘?」
「えぇ。貴方と橘さんの愛の力が架け橋を作ったわけです」
それはまた何と言うかありがたい話というか、有り難い話というか。
まぁ、平和を一つ生んだのならまぁ、別に悪い気はしないけどな。
「キョンくん、と言ったかね?」
「え? あ、はい」
俺の本名よりもあだ名が有名なんだな、もう。
・・・そもそも古泉達も俺の本名知っているのか怪しい気がしてきた。
「これからも橘をよろしく頼むよ?」
「任せて下さい」
「頼もしいな。さて、私はこれから森と話し合いをすることがあるので失礼するよ。古泉くん、案内を」
「はい。では、また」
去り行く二人を見送って、ふと森さんとわざわざ病院で話し合いってなんだ、と俺は疑問を浮かべた。
が、そんな疑問なんぞあっという間に圧縮されてゴミ箱に捨てられて消えうせた。
 
翌日。
いつもどおり学校の帰り道、まだほんのりとしか桜の散っていない道を通る。
向かうのは当然病院。愛しい彼女のお見舞いだ。
「橘、来たぞ―――」
いつもはまず心電図の音が残念な事に出迎えてくるのだが、今回は音が増えていた。
「・・・あ、キョンくん」
人工呼吸器が、そこにはあった。
「橘、どうしたんだ、これ・・・」
「えっと・・・治療の一環ですよ」
嘘だな。バレバレの嘘だ。でも騙されてやらなきゃいけない。
橘の努力を踏みにじる事になるからだ。普通の生活を望む橘に同情は禁断行為。
解っている。お互いに偽りの普通だって事ぐらい。
だけど、それがお互いの為でもある。だから仕方が無い。
「そうか」
考えたくもない。橘の居ない世界。
愛する人を失った世界にはどんな色の花が咲くのだろう、という歌詞があったが、きっと花すら咲かないと俺は思う
「・・・キョンくん」
「ん?」
「私はきっと、外に咲く桜が散る頃に、どのような形であれ、もうこうして会話も出来なくなると思います」
「・・・橘?」
ふと橘が、今まで暗黙の了解ともいえたタブーを口にした。すなわち、自分の病状について。
「現実を避けるのは難しいの。だから、現実を今のうちに把握して」
「・・・・・」
医療器具の稼動音がうるさく思える。今すぐぶっ壊したいぐらいうるさい。
橘がこう言うって事は、恐らく覚悟するべき事態が近いという事なのだろうか。
俺はあまりにも冷静だった。冷静にそれを考えていた。
「佐々木さんと出会って、九曜さんと出会って、藤原さんと出会って、貴方と出会った。この奇跡はとても大切なものです」
「・・・あぁ、そうだな」
「そして貴方に恋をして、貴方に告白して、貴方とこうして恋人同士になれた」
「あぁ・・・」
声が、震えてくる。お互いに。
「私は・・・私は・・・とても、幸せ、です・・・グスッ・・・ふぅ・・・。涼宮さんには、感謝しなくちゃいけませんね」
「そう、だな・・・あぁ、そうだ・・・あいつは俺達をめぐり合わせた、キューピッドだ」
心の底から感謝する。俺は本当に感謝していた。
あの暴れ暴君が居たおかげで、俺達はこうして居られるのだから。後悔も何もしないこの状態に。
「キョンくん・・・貴方に出会えて本当に感謝しています」
「俺も、橘に出会えて本当に感謝してるよ。今までも、今も、今から先も、ずっとずっと」
「・・・キョンくん、私のわがまま聞いてくれますか?」
「何でも言え」
「私のこと、絶対に忘れないで下さい。あと・・・私以外に彼女なんて作らないで下さい」
「約束する」
橘は、もう泣いていない。俺も、涙を拭いて笑顔を浮かべてあげなきゃな。
「本当は、私を忘れて、とか言うんでしょうけど私はそんなこと言えません。やっぱり死んでも貴方の傍に私だけが居たいんです」
「俺だって、忘れてやらないしお前が死んでも他の女なんか作らないというか作れないさ」
「本当ですか? 約束破ったら呪いますよ?」
「あぁ、約束だ」
俺が小指を立てて、橘もそれに習って小指を立てる。
お互いの小指を絡ませて、しっかしりと離れぬように絡ませて、言う。
「「指きり拳万嘘付いたらハリセンボン飲ます。指切った」」
俺達は約束をした。
死を前提とした、悲しい約束を。
 
ひらり。
 
桜の花弁が、忘れ雪のように窓の外で静かに散っていく。
 

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最終更新:2008年07月16日 23:28