俺が部室に入ると、そこは異様な光景を呈していた。
「――デュクシ! デュクシ!」
「ひぇっ! 長門さん辞めて下さい」
あの長門が効果音つきで朝比奈を殴打している。
あまりの事態に思考回路が強制終了した俺はドアの前に立ち尽くした。
「キョ、キョン君。助けて下さい」
「へ? あっ。はい」
その言葉で我に返った俺は、朝比奈さんを襲う悪漢をはがい絞めに捕らえた。
「アババババ!」
俺の腕に捕らえられて尚、長門は両手をわきわきと動かして反抗する。
「おい、長門。どうしたんだ?」
不思議そうな表情を浮かべて、首を九十度に傾けた長門は動きを停めた。
「あでゅー?」
俺は絶句する以外にこの感情を表す術を知らない。
いったい、どうしたんだ。
「分かりません。私が部室に入ったら、長門さんがいきなり襲ってきて……」
とうとう、涙目だった朝比奈さんが泣き出してしまった。
まあ。俺だってこんな宇宙人に殴られたら腰を抜かすだろう。
「あいー」
ふと俺が腕から力を抜いた隙に、長門はその束縛から逃れてしまった。
「あっ。こら」
と、追いかけると長門は脱兎の如くすり抜け、部室の一面に堆く聳える本棚に駈け登った。
「頼むから降りてくれ」
「あうあうあー」
俺の言葉に一切耳を貸さず、長門はチンパンジーよろしく本棚を揺すり始める。
バサバサと降ってくる殺人的な大きさを誇る書物に二の足をふまされていると、落下した本の中に一枚のルーズリーフが挟まれているのに気付いた。
頭を庇いながら書物の雨の中から、そのルーズリーフを抜き取る。
そこには『重大なエラーを発見。本日四時より学習回路の改修を行なう為、一部機能を停止する』と、パソコンで出力したような明朝体の文字が踊っていた。
電気工事みたいに書いてるんじゃねえよ。
グシャグシャに丸めて投げ捨てようとしたとき、その下にも文章があることに気付く。
『尚、不良動作が認められた場合、あなたの判断で停止を願う。部室内の電子計算機に入力済み』
俺は読み終えると、既に立ち上げてあったパソコンを覗き込んだ。そこにはBIOSメニューのような画面が表示されており、Please
Enterという文字が点滅している。
迷わずエンターキーを押すと膨大な文字が一瞬で流れていき、本棚の上で雄叫びを上げていた長門がぴたりと停止した。
危うく落下しかけた長門をゆっくりと下ろしてから、俺は深々と溜め息をついた。
「大丈夫ですか? 長門さん」
「ええ。まあ、ちょっと電源が落ちてるみたいです」
「……そうなんですか。あっ、お茶淹れますね」
変なところでしっかりした朝比奈さんだな。しかし、いつ長門が復活するかも知れんし、その時長門が今みたいに暴れだしたらことだ。
「いえ、俺は長門を家まで送りますから、朝比奈さんはハルヒに俺と長門は帰ったと伝えておいて下さい」
「ふぇ? 分かりましたぁ」
そうなればこの場に長くとどまるのは、いつまでも時限爆弾の上に腰掛けているが如く不味い。
俺はさっさと長門をおんぶすると、外を伺う。幸運にも人影はなく、こっそりと部室を跡にすることに成功した。
「―――うあ?」
長門が自分の部屋で目覚めたのはあれから一時間程経っていた。
俺は出来るだけ人目を避け、惚けかけた管理人に長門の部屋を開けてもらったのだが、もう精魂尽き果てた。
「何とか改修は終ったのか?」
「あでゅー?」
そう言って首を九十度捻る仕草はやはり、いつもの長門ではない。
ってことは、まだ終ってないのか。いつになったら普段の長門に戻るんだよ。
暗澹たる気分で見つめていると、長門は思い切りよく伸びをして大きな欠伸をかいた。
呑気なもんだな。まあ、ここなら多少暴れたところで迷惑にはならないか。
そんなことを考えたのが不味かったのか、長門はむくりと起き上がって本棚に駆け寄った。
「おい、本棚を揺らすなよ」
それが通じたかどうかは怪しいが長門は本棚によじ登ることなく一冊の本を抜き取ると、俺の元へと戻ってきた。
「あいー」
手渡された薄い本には人魚姫と銘打たれている。
長門はこんなのも読むのか、と驚き半分興味半分でぺらぺらと捲っていると長門は当然の如く胡座を組む足の上に座った。
「読んで欲しいのか?」
「あいー」
冗談で聞いたのだが、どうやらほんとうに御所望らしい。
仕方なく、ひらがなばかりの文字を音読する。
むかしむかし。あるところに、かわいらしい人魚のお姫さまがいました。
……そうして、人魚のお姫さまは王子さまをナイフで刺すことが出来ずに泡となって消えてしまいましたとさ。
読み終えて絵本を閉じようとしたとき、ポタポタと水滴が落ちて泡となった人魚姫を濡らした。
「ひっ……うっ……」
見れば長門が声をおし殺して泣いている。その頭を優しく撫でていると、
「うあー」
と、完全に泣き出してしまった。
振り向いた長門は涙やら鼻水やらに塗れた顔を俺のシャツに押しつけてわんわんとぐずる。
一時間もそうしていただろうか。ひとしきり泣き切ったあとで、ふと長門が立上った。
「改修完了」
震える声がそう告げる。たしかに真っ赤な目と、ぐちゃぐちゃになった顔にはいつもの無表情が戻っていた。
「終わったのか」
僅かに首が縦に振られる。
「なあ、原因は何だったんだ?」
「この本」
そう言って長門は俺がさっきまで読まされていた絵本を指差した。泡となった人魚姫の挿絵が半渇きで歪んでいる。
「どういうことだ?」
「この本を読んだ際、私にエラーが生じた。思考が一切停止し、眼球分泌液が異常分泌された」
「自分と重ねたのか?」
長門は答えず、愛しげに本を畳んでからそれを本棚にしまおうと俺に背を向けた。
お前を泡になんかさせないからな。
数ミリ動かされた長門の顔から涙の残滓が落ちてフローリングを跳ねた。
おわり