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国土の半分を鬱蒼とした森が覆い、大海に首都が面する、農業と工業を上手く両立させていたとある一国。
乱世にあって、大規模なものでなくても、国同士の小競り合いは頻繁に起こる。ある国は侵略されないために隣国と同盟を結んで身の安全を図り、ある国は機に応じて領土を拡大するために軍事を増強し、実際に他国を奇襲し略奪を働いた。
……王制を伝統的に採用していた其の『海際の一国』は、王の強い意向によって、後者に傾きつつあった。戦争を吹っ掛け土地を奪い、征服するための戦力の底上げが成された。底辺の民は日の生活に必要な麦まで搾取され、ぼろ雑巾のように国への奉仕を強いられた。圧制にもがき苦しむ人々は地を這うように生き、泥を啜りながら泣いて王を呪った。
しかし、王の息子、第一王位継承者が成人間近となり、政務の幾らかを負担するようになってから、徐々に民の顔には光が射し始める。
―― 一縷の希望を仰ぎ、祈るような姿へ。
彼の人が王とならば、この国も変わるやもしれない、と……。
 
 
 
 
 
「殿下、いらっしゃいますか」
ノックの音に、執務室に篭って唸っていた第一王位継承者は書類の山の中で沈黙した。当人としては、「俺は今この部屋にはいない」と主張したいぐらいだったのだが、まさか窓から大脱出を謀るわけにもいかない。だから、応じないのは彼なりの精一杯の抵抗だった。彼の一番の側近かつ護衛である相手に講じるには、虚しい策ではあったのだが。
「御返事がないということは、いらっしゃるのですね。失礼しますよ」
天使の彫り物が成された扉を開き、室に書の山を携えて立ち入るのは、全身に重たげな白い鎧を纏った痩身の男だ。
鎧に刻まれた金印は、彼が王国直属の騎士であることを指し示していた。
どう答えようがどのみち部屋に入るんじゃねえか、意味のない質問するなと不服を申し立てようか迷い、こいつ相手にそれは労力の無駄だと思い直して、年若い王子は盛大に溜息を吐いた。
積み上げられた追加書類は天井に肉薄する。埋もれてそろそろ死ぬな、と万年筆を折りたい衝動にかられつつ、
「いつから護衛騎士が書類受け渡しの使いっ走りするようになったんだ」
こめかみを押さえながら渋面に投げかけると、茶の髪の下に据えた甘いマスクが視界に映る。よくよく凡庸とその容姿を称される王子にとっては面白くないことに、騎士は白地の正装の似合う美男子だった。顔の良さを見せ付けるように、わざとらしく騎士は微笑む。
「はて。此方の書類を回す様に私に御命令下さったのは殿下であったと記憶しておりますが」
「ああ、確かに頼んだのは俺だよ。だけど、この光景を見ろ。これ以上積まれても、俺の処理能力の限界を越えてるくらい分かるだろお前なら。書類崩落で俺の暗殺でも狙ってるのか」
コイズミ、と王子は騎士の名を呼ぶ。このままでは圧迫死だと語る王子の声は疲労が滲むが、騎士は申し訳なさそうな声を作りつつも、常時貼り付けたような笑顔を変えることなく手を胸に当ててみせた。
「殿下は病み上がりでいらっしゃいますし、お疲れなのは我々としても重々承知しております。ですが、滞っている分を速やかに処理し終えて頂かないと、今後の執政に支障が出かねません。特に此の時期は、……お分かりでしょう?今は隙を見せる訳にはいきませんから」
騎士の言葉に、王子は腕を組んで椅子の背に凭れた。再び息をつく。秘密裏に進めてきた根回しを、確かに今絶やすわけにはいかなかった。怪しまれない為にも、『奴等』に付け入る隙は残すべきではない。
「もう数刻すれば市街の視察の時間になりますから、傍で随従するのが私一人になるよう取り計らいます。気晴らしはその折に、存分になさってください」
労わるように一声を掛けられるが、それは退出を許可しないという宣告だ。王子はやってらんねえ、という態を隠さずに肩を落とした。逃げられないのは分かっていたが、この山を延々と処理し続けるという苦痛をこれから味わい続けなければならないと思うと、自然と意気も消沈するというものである。
騎士はそんな王子の様を眺め、ふと悪巧みを思いついたように口の端の笑みを深めた。王子の怪訝な顔も意に介さない調子で、人差し指をぴんと立てる。
「そういえば、政務に気乗りのしない王子に、朗報がひとつありました」
「……なんだ?」
疑わしさを前面に押し出した半眼に怯まず、コイズミは恭しく告げる。
「姫が『雪原の一国』の騎兵部隊を撃破、撤退させることに成功したそうです。暫くは向こう側の行軍もないだろうということで、二月後には遠征から引き上げて自国に戻られる予定だとか」
王子は声を喪い、――たっぷり一分は保たせた後、マジか、と呆けたように呟いた。

ハルヒが、帰ってくる。
 

「あいつ、本当にあの強軍を退けちまったのか。随分拮抗してるって噂だけは聞いてたが、……そうか」
「二ヵ月後となりますと、以前にお会いしてからは二年になりますね。丁度成人の儀も近いですし、婚姻の『夜の儀式』の準備にも間に合います。忙しくなりますよ」
「そうだな。やっと、か……。ったく、待ってろなんて勝手に言い置いて行っちまいやがって、こっちの身なんかいつも知らん振りな奴だよ。忘れた頃に華々しい戦績を引っ提げてご帰還とはね」
忘れたことなど一時たりともないのだろうにと、コイズミは内心で微笑んだが、その見守る様な笑みは表向きにすることはなかった。そして、コイズミはそんな王子の喜びながらその感情を素直に表すのを躊躇っているような、複雑な心境を露にした顔に思う。王子の婚約相手である隣国の姫君に、彼の訃報という最悪の電報を飛ばさずに済んだことへの、安堵を。
 
 
――王子の乗船していた外交船が、大嵐に巻き込まれ難破したのは、一月前のことだった。
海は時に無情である。波が沈静化してから漸く捜索が始まったが、荒れた後の海の濁りは激しく、捜索は難航した。
軍が総出であたるも無為に終わり、さしものコイズミも彼の死を覚悟した。
遺体を探り当てることすら絶望的といわれた状況下だった。嵐の日から三日後、海浜に伏せって気を失っている彼の姿を見つけた臣下は狂喜し、咽び泣いたという。
目覚めた王子は、「女の子がさっきまで寄り添っていてくれたような気がするんだが…」と首を捻ったが、近辺の住民に王子が特徴を上げたような娘の姿はなく、臨死体験のうちに王子は夢でも見たのだろう、という見解に落ち着いたのだった。
正直その娘の話に関しては、コイズミもかなり気に掛かってはいた。短い髪をした、白い肌の、綺麗な娘。知人に似たような女性が居たのならばまだしも、眼にしたこともないような女性を夢とはいえ幻視することがあるものだろうか。それも、あの朴念仁だの鈍感だのと散々婚約者に尻に敷かれていた王子がだ。

「――そうだ、コイズミ。今日の視察だが、海に寄っても構わないか」
姫の案件からいつものペースを取り戻したらしい王子が、顰め面で書の文面を睨みながら、まるでコイズミの思索を 読み取ったかのように言い、コイズミは王子の言葉にざわめく胸中を感じた。
何かが起こりそうな、予感がした。 






* * * 
 
 
 
 
 
 

黒くごつごつとした岩が地底から樹木の如く生えのぼり、まるで森のようにうねり広がった海底の一角。
歌い踊ることを趣味とする海の乙女たちは、日中、拓けた宝珠の宮の遊び場で過ごす。彼女らの陽気でありながら美しい歌声が、微かに耳に届く……其処は、そんな仲間たちの群れ場とは離れた、人魚の墓場。
人魚たちからは、『死の巌』と呼ばれる。

「……反対よ!」
いつもは甘く聞き惚れる様なメゾソプラノが、強い反抗の意思を叩き付けた。
蒼い尾、蒼い髪。三姉妹の内の、二番目の姉。同輩すら見惚れるほどに人魚の中でも取り分け美しく、芸術品のような優美な造形を保ち、年少の人魚からは憧れの眼差しを一身に受けていた。特に若い人魚を取り纏める任う、穏やかな気性で知れた次女が、その時は激しく声を荒げた。
「人間に接触するだけでも罪なのに、ましてや人になりたい、だなんて……!赦せるわけがないじゃない!」
「リョウコ、落ち着いて下さい。あまり大声では、いくら此処が離れとはいえ、誰かに聞こえてしまうかもしれません」
次女の人魚の形相に、困ったように、深緑の尾をし、髪も宝石のようなエメラルド色をした人魚が微笑む。長女、エミリ。落ち着いた物腰と丁重な助言は、宮殿でも重用され、明晰な頭脳は多くの人魚に頼りにされていた。
二匹のやり取りを、白い尾をした年若い人魚は、口を挟むことなく沈黙し見守っていた。
三女、ユキ。
口数少なく、笑みすら滅多に浮かべることはない。人魚の中でも特に若く、あまり他の人魚に懐かなかったが、それでもその心優しさと繊細さは誰もが知るところだった。また、『魂の聲(こえ)』を聴く力に関しては、並々ならぬ才能を秘めた子でもあった。
人気のない墓場を密会場に選んだのは、他の人魚に話を聞かれないためだ。もし人魚が人間を手助けしたことが知れたならば、ユキは罰則を受けることになる。だが、一月前にふらりと出掛けてから、ユキの様子がおかしい事は既に人魚達の合間ではよく噂されるところとなっていた。焦りを募らせたユキの二人の姉は何度かユキに事情を訊ねたが、 ユキは決して口を開かず、塞ぎ込んでいた。――それが、今日だ。
『わたしは、人になりたい』
一月の間、悩み続けた後。
決意の眼差しで訴えた末の人魚を、リョウコは赦すことができなかった。

 
 
 
 
「あなたは、人間が如何に恐ろしい生き物なのかを分かってないのよ。人魚は海の水と光さえあれば生きていけるけれど、人間は他の生き物を虐殺し血肉を食らう生き物なのよ。あなたも、そんな風になりたいっていうの?」
「……違う。人の魂は美しかった」
ユキを翻意させたい一心で説得をしようとするリョウコに、ユキはやっと口を開き、哀しげな眼を湛えて首を横に振る。リョウコはその言葉に愕然とした。
エミリは首を傾ぎ、「そうですか」と囁くように零した。そこに含有されたのは、悲哀に満ちた諦めであった。

「……人の、魂を聴いてしまったのですね?」
「そう。我々にはない響きが、彼の魂にはあった。わたしは……」
誰が何を彼女に押し付けようと、彼女は意思を曲げることはないだろう。末の妹は頑固で、一途で、……だからこそエミリとリョウコの、可愛い妹だった。

「あの人に、もう一度会いたい」

その一瞬の愛とも恋ともつかぬ想いのために、小さな人魚は、人になることを決めた。
それが己のあらゆる近しいもの達への訣別となると、知っていても。 





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