◇◇◇◇
 
 翌日から決意も新たに卒業歌制作が続けられていたわけだが、その作業は難航を極めていた。最大の障害は朝比奈さん自身である。
「ちがーう! ダメよ、こんなんじゃ! 全然何も感じられないわ。まるで無理矢理書かされた読書感想文みたいじゃない。
いい? これはみくるちゃんの卒業を歌ったものになるのよ? それが全く感じられなくてどうするのよ」
「で、でもぉ……」
 もう何日も同じやりとりが続いている。歌詞については俺もチラ見させてもらったが、確かにハルヒのいうとおり、
なんつーかやる気が全く感じられなかった。大体何度かこなしていけば要領もつかめてくると思うんだが、
まるっきり進歩がないのはどういうことだろうか。朝比奈さんにそこまで学習能力がないとは思えない。
 一つ考えられる可能性は――
「ねえみくるちゃん。まさかと思うけど、わざと落選しようとか思っていないわよね?」
 ハルヒの言葉に、朝比奈さんがびくっと反応する。そして、すぐさま両手を振って、
「そ、そんなことはないですっ……そんな……ことは……」
 次第にトーンダウンしていく声に、俺はある程度の確信を得ていた。朝比奈さんは落選することを望んでいる。
それが一番確実で自分の任務をこなせるからだろう。
 これは参った。俺たちがいくら忘れたくないといっても肝心の朝比奈さんがこんな調子ではどうにもならない。
やはり朝比奈さんにとってはSOS団よりも未来を選ばなければならないという縛りが大きすぎるのだろうか。
だが、忘れられたくないという気持ちは必ずあるはずだ。それをうまく引き出せれば、きっと両者の隙間をつくようなことだって
できるんじゃないだろうか。
 席に戻り、またうつむき加減で考え込む朝比奈さんのそばに俺は座り、
「元気出してください、朝比奈さん。俺も及ばずながら手伝いますから」
「いえ……いいんです。あたしがやらなきゃ……」
 以前にも何度か手伝いを申し出たが、やっぱり今回も同じように断られてしまった。
 そんな様子の朝比奈さんに、ハルヒはたまらなくなったのか飛び出し、
「いい? このままだとみんなみくるちゃんのことを忘れちゃうのよ。そんなの嫌でしょ? だから歌を完成させて、
全校生徒にみくるちゃんの存在を焼き付けなければならないのよ。わかる? 全ての人から忘れられるなんて
そんなのは死んだも同然よ。だからお願い。がんばってきっちりやって」
 その言葉を朝比奈さんは黙って聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「……いいじゃないですか……」
「え?」
 よく聞き取れなかったのか、ハルヒが聞き返す。朝比奈さんはもう一度口を開く。
「……卒業したら誰とも会えなくなっちゃうんです。憶えてもらっている必要なんてないじゃないですか。
会えないのに憶えてもらっていてもお互い辛くなるだけで――」
 俺は朝比奈さんが言い終える前に気がついた。ハルヒの顔がみるみる紅潮していっている。いかん。こりゃ導火線に火がついて
大爆発寸前だ。このままだとハルヒは何をしでかすかわからんぞ。
 あわてて朝比奈さんとハルヒの間に俺は割っては入り、
「おいハルヒ。落ち着け。いいか落ち着いて冷静になれよ?」
 しかし、俺の呼びかけぐらいでは一度火のついた導火線は消せなかった。ほどなくして引火して大爆発が起きる。
「なんでっ……何でなのよ! どうしてそんなに簡単にあきらめちゃうのよ! 例えみくるちゃんが宇宙の果てだろうが、
ブラックホールの中心だろうが、どこに行っても生きていれば――お互い憶えていれば会えるチャンスはあるのよ!?
忘れちゃったら、たとえ何十年後に会ってもお互いがわからないまま素通りしちゃうじゃない!」
 ハルヒは朝比奈さんに飛びかかろうとするもんだから、俺は必死にその身体を押さえつけて阻止する。
「落ち着けハルヒ!」
「答えて! 答えなさい、みくるちゃん!」
 そんな絶叫に近いハルヒの言葉に、朝比奈さんはうつむいたままじっとしていたが、やがてすっと立ち上がると、
「……いいんです。もう絶対に会うことなんてなくなるんですから。忘れてくれちゃっていいです!」
 そう言い放つと、自分の鞄を持って部室から走って出て行ってしまった。
 その光景にハルヒは目を見開いて唖然としてしまう。俺も同様だ。
 ……朝比奈さん、いくらなんでも酷すぎます。俺たちはただあなたのことを忘れたくないだけなんです。
どうしてわかってくれないんですか?
 ハルヒはしばらく俺に押さえつけられたまま目を伏せて何もできないでいたが、やがてどんと俺を突き飛ばすように離れると
自分の席に勢いよく座り、
「もう――知らないっ!」
 やけくそ気味に言い放った。
 ……最悪な状況になってしまった。
 
◇◇◇◇
 
 結局その日、朝比奈さんは戻ってくることはなく、嫌な空気のまま解散となった。ハルヒはまだ怒り心頭なのか、
口をふくらませたままとっとと帰ってしまう。残りの団員たちもそそくさと帰っていった。
 夜になってから。
 俺がどうしたものかとベッドに寝っ転がり考えていた時、携帯電話が鳴り響く。発信相手を見れば――朝比奈さんの名前が。
即座に俺は通話ボタンを押す。
『……こんばんわ、キョンくんですか?』
「ええ」
 まだ今日のことを引きずっているのだろう、どこか声が陰気に聞こえる。
 朝比奈さんは続けて、
『今日はごめんなさい……そんなつもりじゃなかったんです。でも、つい……』
「大丈夫ですよ。ハルヒの奴はだいぶおかんむりのようですが、明日にでもなれば元通りになっているんじゃないですか?
あいつは切り替えが早いですからね」
『それからあたしに関する記憶の消去についても、こないだ黙っていてごめんなさい。伝えたら、逆に別れが辛くなりそうだったから、
言いたくても言えなかったんです』
 だろうな。結局は朝比奈さんの口から聞く前にハルヒがそれに気がついてしまったために起きたのが、今日のいざこざだ。
黙っておきたくもなるさ。別にそれに気がついたハルヒが悪いってことはないが。
『あの……それでですね……』
 何か言いづらそうに朝比奈さんが口ごもる。
 しばらくその状態を続けていたが、やがて、
『いえ、やっぱりなんでもないです。今日はごめんなさい……』
 と、いきなり電話を切られそうになったので、俺はあわてて呼び止め、
「朝比奈さん! 一つだけ聞いていいですか?」
『……あ、はい。なんですか?』
「朝比奈さんは俺たちに忘れられてもいいと本気で思っているんですか?」
 この問いかけに朝比奈さんはしばらく沈黙は続けていたが、ほどなくして、
『あたしは未来人でいつか未来に帰らなければならないんです。そして、その日がついに来た。それだけなんです。
自分の意志とかそんなのはどうでも……』
 やっぱり朝比奈さんは未来人としての立場に自ら縛りついてしまっている。俺が聞きたかったのは立場の話なんかじゃない。
彼女がそういったものを考慮しなかったらどうなのかと聞きたかった。
 ――だが、俺はさらに落ち込んでいく朝比奈さんの声に押され、それ以上尋ねることはできなかった。そんなことを言っても
朝比奈さんをただいたずらに困らせるだけじゃないかと思ったからだ。だから、代わりに、
「朝比奈さん、俺は諦めませんから。絶対に朝比奈さんのことを忘れたりはしません。それが未来の意志だろうが何だろうが、
知ったこっちゃありませんから」
 そう宣言した。それを聞いた朝比奈さんは少しだけ声のトーンをあげて、
『ありがとう……キョンくん』
 それだけ言うと電話を切った。
 やはり朝比奈さんは自分の立場に縛られている。いや自ら縛っていると言ってもいいだろう。何とかその重荷を外す方法はないだろうか?
そうすれば、朝比奈さんの本当の気持ちが聞けるはずだ。
 俺はしばらくツーツーツーと通話終了後も携帯電話をつけっぱなしで考えていた。
 
◇◇◇◇
 
 翌日、俺が教室に入ると真っ先にむっつり顔のハルヒに遭遇した。この調子じゃ機嫌はまだ直っていないみたいだな。
「全く……みくるちゃんは何を考えているのよ……」
 背後で終始そんなことをぶつくさ言ってくるモンだから授業中もろくに集中できやしない。まあ、とりあえず、放課後までの辛抱だと
我慢していたんだが――
「来ないですね、朝比奈さん」
 すっかり夕日でオレンジ色に染まった部室内で古泉がつぶやく。もうあと10分で下校時刻になってしまうが、
朝比奈さんは一向に部室に姿を現さなかった。ハルヒ曰く、昼休みにちらっと見かけたから来ているはずとのことだったが、
なんで来ないんだ? 昨日のケンカ寸前が原因で来たくないのだろうか?
 その原因の片翼だったハルヒは、ぶすーっとしたまま特に朝比奈さんに連絡を取る様子もない。かけづらいのだろう。
意地っ張りな性格が災いしているんだろうな。
 その日、朝比奈さんは部室に姿を現さなかった。
 
 しかし、それだけではすまない。その翌日もそのまた翌日も朝比奈さんは部室へやって来なかった。
 ハルヒもやっぱり不機嫌モードのまま。他の団員も朝比奈さんのことを口に出しづらい雰囲気が蔓延し、
全く話題にも上がらなくなっていた。
 
 そんな状態が土日を通して一週間ほど続いた――
 
 ………
 ……
 …
 
◇◇◇◇
 
 外も陽気も少々変化し、暖かさを取り戻しつつ新春の日、いつものようにSOS団の根城である文芸部室で
俺は古泉と暇つぶしにコンピ研からせしめたノートPCでマインスイーパー上級をどっちが先にクリアできるかなんていう
遊びに興じていた。長門はいつもの席で春の光を背に読書に没頭し、ハルヒは週末の予定を立てるために、
出かける場所の検索作業を続けていた。
「最近は便利になったわよね。うちの周辺でも飲食店やイベント会場なんかすぐにネットで検索できるし。
おかげで不思議なことも探しやすくなったってものよ。ふふん、これなら隠れている連中を捜し出すのは時間の問題かもね」
 そんなことを言いながらGoogleMAPとGoogleEarthの地球儀をぐりぐりといじくり回している。
確かに情報共有っていう面ならかなり便利になったわけだが、それで見つけやすくなったならとっくに俺たち以外の誰かが
探し出しているだろうよ。世界中にはトレジャーハンターやら行動的なUFOオタクも数百万人ぐらいはいそうだからな。
 ふと、ハルヒは湯飲みを差し出して、
「キョン、お茶入れてよ」
「何で俺が。自分でやればいいだろ? 俺の入れた茶なんてうまくないぞ」
「いつも入れてくれていたじゃん。いいから雑用係は与えられた仕事をこなしなさい」
「へいへい――って、いつもやっていたか?」
 そんな違和感を憶えつつも、俺はちゃっちゃとお茶をついでハルヒに手渡す。
 が、湯飲みに口をつけたとたんハルヒは、
「熱っ! 苦っ! 何よこれ! ちゃんと入れなさいよ!」
「だから俺の入れた茶なんてうまくないぞと言っておいただろうが。せっかく注いだんだからちゃんと全部飲めよ」
「むー」
 ハルヒはうなりつつふーふーとさましながらお茶をすすり始める。
 ふと何かに気がついたのようなそぶりを見せて、
「あんたってお茶入れるのこんなにへたくそだったっけ? 何というか普段はもっとおいしいやつを飲んでいたような気がするんだけど」
「へたくそも何もお茶なんて滅多に入れねえよ」
「そうだっけ? あれ? じゃあ誰がいつも入れてくれていたんだっけ?」
 そう言ってハルヒは団員たちを見回す。
 ここで長門が本に視線を向けたまま、
「それは彼でもわたしでも古泉一樹でもない」
 そう言ってきた。ん、おかしいな。俺もいつもうまいお茶を出してもらっていた憶えがあるんだが、ハルヒでもないなら
いったい誰に出してもらっていたんだっけ?
 古泉に確認するように視線を向けるが、返ってきたのはさあ?という肩をすくめたポーズだけだった。
何だよ、部室もおかしな異界とかしていると聞いていたが、まさか今まで俺は座敷童にでもお茶を出してもらっていたのか?
うまいと思って飲んでいたのが、掃除用具入れに入っているバケツにくまれた水道水だったなんていうのは勘弁だぞ。
 と、そんな会話を続けていたときだった。何の前触れもなく、部室の扉が少しだけ開く。座敷童なんていう想像をした直後だったため、
俺は一瞬悲鳴を上げてしまいそうになったがあわててそれを飲み込んだ。
 しばらく少しだけ開いた状態のままで何も起きなかったが、ほどなくしてすっと髪の長い少女の顔が部室内をのぞき込むように
少しだけ現れて――すぐにまた引っ込んでしまった。何なんだ、本当に座敷童の出現じゃないだろうな?
 扉の窓越しにおろおろとしている人影が見るところから、なんかSOS団に用事があるようだが入りづらい様子だな。
まあこんな異様な連中が集う場所に入りたくないっていうのもわからんでもないが、お客さんを放っておく訳にもいかん。
 俺は椅子から立ち上がり、部室の扉を開けてみた。
 そこには――何というかまさにエンジェル降臨!と讃えたくなるほどのものすごい美少女の姿が。歳は俺よりも低そうだ。
というか中学生ぐらいに見える。一年か? しかし、こんなスーパー美少女がいるなんてこの一年間聞いた憶えもないが……
 少女はびくびくした表情でこちらを見ている。俺はとりあえず、
「あ、ええっとなんかご用でしょうか? ここは文芸部室とは名ばかりのSOS団という変人涼宮ハルヒが作った団が
占拠している部室なんですが」
「え……?」
 俺の言葉に少女はいったん驚きの表情を見せたかと思うと、みるみるうちにその顔を青ざめていった。
なんだなんだ? どうしたっていうんだ。なんかまずいことでも言っちまったか?
「何よ、お客さん?」
 そんなことをやっているうちにハルヒもやって来て――その少女を見るや否やいきなり抱きついた。
「うわっ! 何よこれかわいすぎ! あーもう、抱きしめないと気が済まないわ! ねっ、うちのSOS団に入らない?
今なら特別待遇で入団を許可するわよ!」
 じゃれ合うようにその少女への頬ずりまで始める。
 さすがに初対面の相手に失礼すぎると、俺はハルヒの襟首をつかんで強制的に引き離すと、
「おいお客さんかもしれないのに、勧誘してどうするんだ。すいません、こいつあなたのような人には目がなくて――あのちょっと?」
 その少女の様子がますますおかしくなっていることに気がつく。失望に染まりきった表情に、身体を小刻みに震わせてまでいた。
 まずい。驚かせてしまったのだろうか。早めに謝っておかないと教師沙汰に……
 しかし、次に少女の口から出た言葉は全く意味不明なものだった。
「いえっ……何でもないんですっ、これでいいんですっ、あ、あたしは行かないと行けない場所があるので……!」
 そんなことを言うと、一目散に部室棟の出口に向かって走って行ってしまった。
「何だったの、今の?」
「さあ……?」
 俺とハルヒはそう顔を見合わせて――すぐに顔をしかめた。
 何だ? 今すごい違和感を感じたぞ。どの部分だ。あの少女について……
 ハルヒも同様に何か頭に引っかかるものを感じているのか、壁に手をついて頭を抱えている。
 明らかに俺たちは重要なことを忘れている。しかも、絶対に忘れてはならないとんでもなく大切なことだ。
くそっ、もう一歩のところまで出かかっているのに、もどかしいったらありゃしねぇ。
 ふと、そんな俺たちの背後に長門が立っていた。そして、交互に俺たちを見渡すと、一言だけ、
「朝比奈みくる」
 その言葉の意味するところを、最初は俺たちは理解できなかった。
 だが、すぐに気がつく。
「みくる……ちゃん」
 ハルヒは目を見開き、愕然とした表情を浮かべた。そして、力なく床にへたりと座り込むと、自分の頭を抱えて苦しむように、
「あ、あたし――あたしあんなに忘れないって誓っていたのに――それなのに、どうして忘れて……!」
 あまりのショックに錯乱気味になってしまっていた。
 一方の俺もはっきりと思い出した。さっきまで俺の目の前にいたのは、正真正銘のSOS団団員で俺の癒しであり、
ずっと二年間極上のお茶を注いでくれていた人、朝比奈さんだった。何でだ? なぜ忘れていた……
 古泉も唖然と口を開き、その現実にただただ驚愕していた。憶えていたのは長門だけか。
 俺は慌てて部室内に戻ると、壁に掛けられているカレンダーを日付を見始める。いつだ。いつから俺たちは忘れていた。
 ハルヒと朝比奈さんがケンカ寸前まで行ってから数日は憶えていた。そして、週末を超えて――そうだ。週明けから
俺たちは完全に朝比奈さんの存在を忘れていた。一瞬でも疎遠になったせいだろうか。まるでその隙を突かれたかのように
未来人どもは俺たちから貴重で欠かせないものを盗み取ろうとしていきやがったんだ。
 近くに来ていた長門に気がつき、まるで怒りをぶつけるようにその肩をつかむと、
「どうして教えてくれなかったんだよっ! 長門は憶えていたんだろっ! だったら教えてくれればよかったじゃないか!」
 だが、長門はあくまでも冷静な口調で、
「あなたたちが朝比奈みくるの情報を欠落させられていたことには把握していた。しかし、例えわたしがその名前を告げても、
その意味をあなたたちが理解することはなかっただろう。朝比奈みくる本人と直接接触した瞬間にそうしなければ
あなたたちの記憶情報の欠落は修復されなかった」
「……っく」
 その指摘に俺は苦渋のうめきをあげる。確かのその通りだ。週明けからの俺とハルヒの様子を振り返ってみれば、
朝比奈みくる?誰だそれ、とか平然に言っていただろう。長門の言うとおり、思い出すなら今しかチャンスはなかった。
「すまない長門。お前は最善を尽くしてくれたのに、八つ当たりみたいなことを言っちまって……」
「それは別に問題ない。だが、あなたは今すぐやるべきことがある」
 ああその通りだ、長門。
「ごめん……みくるちゃんごめん! あたし――あたしはあんなに……!」
 床に伏せたまま錯乱状態で謝り続けるハルヒ。あれだけ決意していたのに、してやられてしまった現実に耐えられなくなっているのだろう。
しかし、ハルヒも心配だがそれ以上に問題なのが朝比奈さんだ。今すぐ追いかけないと。
「古泉! ハルヒのことを頼む! 俺は朝比奈さんを追うから!」
「は、はい!」
 俺は古泉にそう告げると、一目散に外に飛び出した。
 朝比奈さんに言わなければならない。俺たちはまだ憶えていると。さっきまで忘れていたが、今でははっきりと二年間のSOS団の
思い出を憶えていると。
 すでに鞄を持っていたところを考えれば、そのまま帰宅の道についたと考えるべきか。
 俺は校門と飛び出て下り坂を走って下り始める。
 その間、俺の脳裏に朝比奈さん(大)の言葉が蘇っていた。ハルヒが何とかデータとやらをロックしているせいで
その書き換えができない状態だと。恐らく週末かその辺りに一瞬ハルヒに隙ができたのだろう。あのケンカ寸前の後、
二人は全く顔を合わせていなかったし、ハルヒも相当怒っていたから無理もない。朝比奈さん(大)たちはその隙を
決して逃さず、いっきに俺たちから朝比奈さん(小)の記憶を奪い去っていった。だが、不手際かそれともハルヒの執着心が
まだ残っていたのか完全にはできなかった。そのおかげで長門の一言で俺たちは全てを思い出すことができたんだ。
 息も絶え絶えになりつつ、長い坂道もちょうど半分ぐらいに差し掛かったところで――いた。肩を落とし、うつむいた状態で
坂をゆっくりと下る朝比奈さんの後ろ姿が。
 俺は暴走トラックのように全速力でその元に駆け寄り、
「朝比奈さんっ!」
「えっ……あ、キョンくん……」
 俺の呼びかけに、朝比奈さんは喜びとも失望ともとれる複雑な表情を浮かべる。
 すぐに彼女の前に俺は立つと、切れる息も放ってその肩をつかむと、
「俺、絶対に忘れませんから!」
「…………」
「さっきまで忘れていましたけど、全部思い出しました。もう二度と同じミスはしない! 絶対に朝比奈さんのことは忘れない!」
 その俺の言葉に、朝比奈さんは落胆したようにうつむくと、
「やっぱり、思い出しちゃったんですね……」
「当たり前です! SOS団には朝比奈さんがいたんです。この北高にもいたんです。それは絶対に変えようのない事実なんです!」
 俺は思わず朝比奈さんにさらに顔を近づけて、続ける。
「聞かせてください。朝比奈さんは本当に自分の存在がなかったことにされてもいいんですか? 
未来人とかそんなことはどうでもいいんです。朝比奈さん個人の考えを聞かせてください!」
 俺の絶叫じみた呼びかけに、朝比奈さんは決して俺とは目を合わせようとしない。そして言う。
「あたし個人の考えなんてどうでもいいんです。あたしのいるべき場所は未来であって、そこを守るためにこの時間平面にいます。
その役目が終わり、あたしの存在の痕跡が未来に有害というなら消すしかないんですっ……!」
「そんな……」
「いいんですっ……それでいいんです。だから、あたしのことはもう忘れて……」
「嫌です! そんな未来人の一方的都合に、俺もハルヒも長門も古泉も翻弄されたくありません。朝比奈さんだってそうだ。
未来の都合どうこうで考え方まで左右されている。そんなの納得できない!」
「でもっ……でもっ……!」
 ――そんなやりとりをしているときだった。
「やっぽー! キョンくんにみくるっ! 何をやっているんだいっ? 何かめがっさ大変そうだけどっ」
「鶴屋さん!?」
 仰天の声を上げたのは朝比奈さんだった。まさか鶴屋さんも?
 鶴屋さんはいつものハイテンションモードで後頭部をかきながら、
「いやー、ここ数日なんかとんでもなく重要なことを忘れているような気がしていたんだけどねっ、ついさっきそれが
みくるのことだって思い出したのっさ。何で忘れていたのかさっぱりだよっ。ひょっとしてこの歳で健忘症になっちゃったかなっ」
 そう自虐的なんだろうけど、豪快で笑い声を上げる。
 さっきというとハルヒが思い出した時か? 確かにハルヒが思い出したと同時に俺も思い出せた。そう考えれば、
ハルヒの能力の影響により朝比奈さんに関する記憶が一斉に復活したのかもしれない。
「そんな……せっかく、せっかく忘れてくれたと思っていたのに……」
 朝比奈さんは絶望的な声を上げて、ふらふらと地面に倒れ込んでしまいそうになり、俺は慌ててそれをキャッチした。
顔面蒼白で失望の色に染まった彼女の顔は痛々しくすら感じる。
 俺はそんな彼女を抱きしめると、
「みんな忘れたくないんです、朝比奈さんのことを。だから、俺たちの思いを受け入れてください。お願いです……」
「…………」
 その呼びかけに朝比奈さんは何も答えない。代わりに身体を小刻みに震わせていた。
 と、ここで鶴屋さんがすっと朝比奈さんに顔を急接近させ、
「いいんだよっ、みくる。我慢なんてしなくてさ」
「え……」
「つらいなら――泣いちゃえ」
 この鶴屋さんの一言に朝比奈さんはしばらく首を振り、何かを耐えようとしていたが、やがて目に涙が浮かび始め、
最後には大声で泣き叫びながら俺から離れ、鶴屋さんに抱きついた。どうやらその一言で心の堰を切らせてしまったらしい。
「誰だって忘れられたらつらいよ――立場とか使命とかそんなことは関係なくさ。それが一度忘れられて、再度思い出されれば
つらさも倍増するってものさ」
 鶴屋さんは朝比奈さんの背中を優しくなでていた。
 一度忘れられて寂しさを味わい、そしてその後に思い出されて、さらに忘れられたときの恐怖が蘇る。これはどんな人間でもきつい。
まるで拷問されているような気分だろう。当然だ。朝比奈さんはつらかった。それでもやっていた。俺やハルヒは鶴屋さんと違い、
自分の思いを伝えることで精一杯で、そこをきちんと理解できていなかったんだ……
 ふと鶴屋さんは俺の方を振り向き、
「キョンくん、今日のところはみくるはあたしに預からせてもらえないかな? 大丈夫、悪いようにはしないよ。
この子には今は考える時間が必要だと思うからね」
「……お願いします」
 俺は鶴屋さんに一礼すると、北高へ戻り始めた。
 
 部室に戻ってみれば、ハルヒは何とか錯乱状態は収まったようで、団長席で顔を伏せていた。ショックはまだ抜けきっていないのだろう。
近くでは古泉もいつものスマイルを消失させてじっと難しい表情を浮かべている。長門も読書をやめて俺の方をじっと見つめていた。
「……みくるちゃんは?」
 ハルヒは顔を上げずに、俺に言ってくる。とりあえず、俺は椅子に腰掛けながら、
「鶴屋さんにいったん預かってもらうことにした。今後どうなるかは――朝比奈さん次第だ」
「そう……」
 ハルヒは力なくつぶやいた。そして続ける。
「あたし、最低よ……あんなに忘れないって心に誓っていたのに、あっさりと忘れちゃうなんて最低も最低だわ……。
こんなんじゃみくるちゃんに説教する資格なんてないわよ……」
 自分を責め続けるハルヒ。
 そんなハルヒに俺はそばによって肩に手を置いてやり、
「まだだ。まだ終わってねえぞ。俺たちは長門のおかげで思い出せたんだ。まだチャンスはある。朝比奈さんを信じよう」
 俺の言葉にハルヒは顔を少しだけ上げて、こくりと頷いた。
 その目にはうっすらと涙が浮かんでいた……
 
 翌日の放課後。
 一週間ぶりに朝比奈さんが文芸部室に姿を現した。
「あの……」
「みくるちゃんっ!」
 朝比奈さんが言葉を発する前にハルヒが飛びつき、
「ごめん――本当にごめんね! あれだけ忘れないっていっていたのに……あたし、あたし……!」
 そう言ってハルヒは泣きじゃくる。
 それに朝比奈さんも呼応するかのごとく、目に涙を浮かべ、
「いいえ、いいんです。思い出してくれただけでも感謝しています。あたし、本当は忘れられても仕方がないとずっと思っていました。
会えなくなるんだから憶えていられても仕方がないって。でも、実際に――本当に忘れられて初めてその寂しさがわかりました。
あたしは嫌です。あんな思いなんて引きづったまま、みんなとお別れなんてしたくありません。そして、またいつか会える日が
来ることのために誰にも忘れて欲しくない……」
 しばらくハルヒは抱きついたままだったが、やがてすっと朝比奈さんの方から離れて、
「一週間も来なくてごめんなさい。でも、またSOS団にあたしいてもいいですか……?」
 そう恐る恐る言ってきた。
 それに対してハルヒは、ぐっと親指をあげて、
「――あったり前じゃない! みくるちゃんは大切な団員なんだからね!」
 ハルヒの黄色い歓喜の声が部室内に響いた。そして、続けて、
「さあやるわよ! 卒業歌作り! もう時間がないから突貫作業・総動員で行くんだからね! みんな一致団結してやりきるわよ!」
「はいっ!」
 
 ――遠回りや空回り、トラブルがあったが、ようやくここに来てSOS団は卒業歌制作に向けてようやく一つになった。
 
◇◇◇◇
 
 それから数日間は濃密で怒濤の日々が続いた。何せごたごたのせいで来週初めには卒業歌募集の締め切りが迫っている。
歌詞は完全なやり直し状態だし、作曲は未着手状態だ。文化祭の映画作りのように徹夜も辞さない覚悟で進める必要があるだろう。
 歌詞の方は一人ではもう間に合わないと言うことで、ハルヒがつきっきりで作製している。今までのような不和は全くなく、
二人とも笑顔で、また真剣にどんどん進めて行っていた。
 この様子に古泉も満足げな笑みを浮かべていた。
「よかったですね。二人とも仲直りできて」
「そうだな……この調子ならぎりぎりながら何とかなりそうだ」
 俺も頷いてそれに同意する。
 と、古泉は興味津々な顔に変形させると、
「しかし、どうして朝比奈さんは考え方を翻したのでしょうね? 未来に対する悪影響は自分の存在自体を
危うくするかもしれないというのに」
「簡単な話だ。朝比奈さんにとってもこの二年間はあっさり切り捨てられるようなものじゃなかったってことさ」
 だが、この朝比奈さんの行動に朝比奈さん(大)――あるいはもっと上にいる連中はどう思うんだろうか。
もっと強硬な姿勢で朝比奈さんを無理やり帰還させたり、卒業歌を作ってもそれを無かったことにしないだろうか。
 そんな疑問を読み取ったかのように、長門がこちらを向き、
「それなら問題ない。彼らはこれ以上の介入を行うつもりはないと判断している。理由は不明。それに――」
「それに?」
 ――少しだけ長門の表情が引き締まったに見えた――
「例えそうしてきても、わたしがさせない」
 
 そして翌日――
「できたわっ!」
 ハルヒの歓喜の声。一同の視線が集まる中、ハルヒは歌詞のかかれた紙を高々と掲げていた。隣では朝比奈さんが
柔らかい笑顔でそれを見つめていた。
 俺はハルヒからそれを受け取ると、一通り眺めてみる。脇からは古泉と長門がのぞき込んでいた。
 …………
 何となくもう一度それを読んでいく。
 …………
 もう一度。
 …………
 もう一度――いかん、なんだこの歌詞。俺のハートにクリティカルヒット過ぎて目頭が熱くなってきた。それは歌詞がいいというより、
朝比奈さんの卒業と別れに重ねてしまうからかもしれないが。
 古泉も相当堪えているようで、目頭を押さえてしまっているほどだ。
 長門は無表情だが、全身から発せられるオーラが激しい変化を示しているのを俺のレーダはキャッチしていた。
 これに曲がついたらどうなるんだ? 俺の涙腺は阻止限界突破確実だろう。そんなに外れたものをハルヒが作るとも思えないからな。
 そんな感慨に浸っていると、ハルヒは歌詞の紙を回収し、
「よっし、時間がないから今すぐ軽音楽部に行ってくるわ。楽器を借りて、とっとと作曲しないとね。
さっ、みくるちゃんも共同制作者なんだから一緒に来て」
「は、はいっ!」
 そう言って二人は小走りに部室から出て行った。やれやれ、これで第一段階は終わりか。何とか期限まで間に合いそうだな。
 
◇◇◇◇
 
 週明け、締め切り日ぎりぎりに卒業歌のサンプルを作り上げた俺たちは、生徒会室へ足を運び、それを録音したCDを手渡した。
 俺は直前にハルヒが歌っているそれを聞いてみたが――もう気分は卒業式になり、ハンカチ片手に聞くことはできない代物だった。
朝比奈さんの思いが詰まった歌詞に、その効果を何百倍に引き上げるハルヒの歌声と曲。J-POPとか今時の歌とは違い、
思いの外合唱曲っぽい渋めのものだったが、それが余計に別れというキーワードを際だてていた。あまり歌は聴かない方だが、
恐らく一生の間でもこれほどのものは早々巡り会えないと断言できるね。
「あー、終わった!」
「さ、さすがに疲れましたぁ~」
 部室に戻ってから、ハルヒと朝比奈さんは机に突っ伏した。何でも土日も出ずっぱりで作業に明け暮れていたらしい。
しかも、朝早くから夜中までずっとだ。
 しかし、口にしている言葉と裏腹に二人の表情は満足げで心地よさそうである。
 ここで古泉が最近お茶くみ代理と化していた役割に従い、
「お疲れ様でした。どうぞ」
 そう言ってお茶を二人に差し出した。
 ハルヒはビールを一気飲みするように、あっという間にそれを飲み干し、朝比奈さんはさましながら少しずつ味わうように飲んでいった。
 
 そして、数日後運命の選考結果が出る。発表の予定時刻は昼休みだった。
 俺は採用の確信はしていたが、はらはらしつつ結果を記された紙が掲示板に貼られるのを見つめていた。
もちろんハルヒは授業を途中で脱走して掲示板の前で仁王立ち状態で、厳しい視線を向けていた。
 そこには――
「あった――あったあった!」
 ハルヒの歓喜の声が廊下中に響く。
 そう、そこの採用結果には、俺たちSOS団が作った歌の名前が記されていた。
 遅れて駆けつけた朝比奈さんもそれを見て、歓喜の笑みを浮かべる。同時にハルヒがすぐに彼女に抱きついて、
互いに祝いと感謝の言葉を語り合い始めた。
「やはり採用ですか。予想通りですね」
 気がつけば、俺の隣には古泉と長門の姿もあった。
 予想通りって何だ。まさか、またお前が余計な茶々を入れて裏口入学みたいな手を使ったんじゃあるまいな?
 俺の疑惑の視線に気がついたのか、古泉はすぐに首を振って、
「いえいえ。そう言う意味ではありません。はっきりと断言しておきますが、今回の企画こそ、機関の働きかけで
生徒会長が残した置きみやげでしたが、選考そのものには全く干渉していません。純粋に採用されても全く不思議はないという
出来だったという意味ですよ」
 長門は? なんかインチキしたりしていないだろうな?
「それはない。わたしはその必要は全く感じなかったし、それを行えば意味そのものを失うと判断していた」
「……そうか」
 俺はほっと胸をなで下ろす。ここで不正があったと言われたら興ざめもいいところだし、他の応募者に酷いことをしたことに
なっちまうからな。
 唯一、ハルヒがあの変態パワーを使って採用させてしまったという可能性があるが――いや、考えるまい。
ハルヒ自身は採用されることを確信していただろうし、それだけの出来だと俺も思っている。それにいくら傍若無人のあいつといっても、
正々堂々・本気勝負が信条みたいな性格を考えれば、不正行為なんて望まないさ。きっとな。
 と、ここで興味があったんだろうか、谷口と国木田が結果を見にやってきた。
「よっ、キョン。お前も見に来たのか?」
「ああ、うちの団員が絡んでいるんでな。きっちり確認しておきたかったんだ」
 俺の言葉に、国木田が結果をのぞき込んで、
「朝比奈……みくる? そんな人、涼宮さんの団体にいたっけ? 谷口、聞いたことある?」
「いんや、俺はしらねーな。知らない間に新入部員がいたのかよー。しかも、三年が」
 不思議そうな顔を見せる二人に、俺は朝比奈さんの姿を指さし、
「ちゃんと憶えておいてくれよ。俺たちSOS団の癒しにしてマスコットキャラ、なくてはならない団員朝比奈みくるさんだ」
 そう俺は誇らしげに言った。
 
◇◇◇◇
 
 それから、本格的に卒業式の練習が始まる。最初はクラス内で合唱の練習をしていたが、生徒たちの反応が
なかなかよかったことに俺は安堵した。ハルヒの歌がかなりうまいと言うことも話題作りの一環となり、自然と歌詞についても
生徒たちの間で話されるようになる。
 卒業式の合同練習が始まる時期には朝比奈さんが廊下を歩けば、すぐに声をかけられるほどなっていた。
一度は誰の記憶からも消されていた朝比奈さんの存在が、再び認知され始めたのだ。元々容姿は女神に等しいんだから、
ひとたび注目を浴びればそうなるのは必然だな。
 ただ寂しさがあるのも事実。今注目を浴びている朝比奈さんは歌を作ったという点についてであって、この二年間の朝比奈さんに
ついてではないから。
 いやもう贅沢は言うまい。ひょっとしたら一度忘れた俺たちが思い出せたように、朝比奈さんのことを強く意識したために、
記憶を蘇らせられる人間もいるかもしれないからな。今はこれが精一杯だ。
 卒業式を控えるまでの間、SOS団の活動は今まで以上に活発になった。週末は必ず出かけるようになったし、
昼休みも文芸部室に集合して一緒に弁当を食べる日々になった。たまに朝比奈さんが大量の重箱入り手作り弁当を持ってきたりして
みんなでそれを堪能したりもした。
 SOS団はみな楽しそうにしていた。特にハルヒは残された短い間で徹底的にやりたいことをやりきると決めているのか、
徹底的に分刻みのスケジュールでみんなをあちこちへと連れ回した。俺も楽しかったし、朝比奈さんも満面の笑顔でそれを受け入れた。
古泉や長門も楽しそうだった。
 
 いつまでもこんな日が続けばいい。
 別れなんて来て欲しくない。
 俺はずっとそう願っていた。
 しかし、時間の刻みは冷酷だ。
 止まることなく針は進み続け――
 
 ついに卒業式当日を迎えていた。
 
◇◇◇◇
 
 卒業式当日、学校の敷地内の桜は満開になり、少し強い風が桜吹雪を舞わせていた。
 俺たち二年は卒業式の見送る側の席に座っている。
 卒業式のパンフレットをのぞいてみたが、やはり卒業生の名前の中に朝比奈さんの名前は載っていなかった。
やはり未来はどうあっても朝比奈さんがこの北高で二年間を過ごしたことを抹消するつもりらしい。
 しかし、どういう訳だか、パンフレットに載っている卒業生が作った創作卒業歌の欄にはきっちりとかかれていた。
 作詞・作曲朝比奈みくると。
 
 ほどなくして、卒業生たちが会場である体育館内に入ってきた。吹奏楽部の壮大な音楽とともに、次々と席に着いていく。
事前に確認した限りでは卒業式にはまだ帰還しないと朝比奈さんは言っていた。ただ参加できるとまでは言っていなかったが。
 卒業生の一団の中には鶴屋さんの姿はあった。しかし、やはり朝比奈さんの姿はない。まさかもう帰還させられてしまったのだろうか……
 
 その後卒業式は粛々と進んでいく。
 はっきり言って校長の長い話とかには興味ない。俺の注目点はラストの卒業歌だけだ。
 
 そしてついにやってくる。朝比奈さんの――俺たちSOS団が作った歌が。
 吹奏楽部の演奏が始まる――
 
 ♪初めて見た水 変わらない空
 ♪見たこともない世界で どこか見たことのある景色
 ♪知らない人が道を行く その色は様々に異なる
 
 ――朝比奈さんは未来から来た。その時この世界はどう映ったんだろうか。
 ――この歌のように知らない世界なのに、どこか見たことあるものがあるというぐらいだったのだろうか。
 
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 
 ――ここを歌ったとたん、唐突に俺の目から涙があふれた。朝比奈さんの思いそのまま。忘れたくない。忘れられたくない。
 
 ♪旅を続けて来た場所 知らない月に知らない森
 ♪その下でわたしの手を引く人がいる わたしを知らない場所連れて行く
 ♪不安なわたし その気持ちを笑顔で振り払う そんな人たち
 
 ――手を引いたのはハルヒだろう。いやSOS団か。知らない世界でひたすらあちこち連れて行ったしな。
 
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を

 ♪一人でいることのはかなさ 誰もわたしを知らないことのつらさ
 ♪ただ募らせる 人の恋しさばかりを
 
 ――そうだ。一人は辛い。誰も自分のことを知らないのはもっと辛い。朝比奈さんはそれに気がついて未来という枷を外せた。
 
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を
 
 
 …………
 …………
 吹奏楽部の演奏が終わる。保護者席からは賞賛の意味があるのか、拍手がまばらに起きていた。
 
 俺はそれを聞きながら、ぼろぼろの涙をハンカチで拭うので必死だった。
 
◇◇◇◇
 
 卒業式も無事に終わり、俺とハルヒはすぐさま中庭に飛び出す。
 そこは卒業生と在校生でごった返していた。二人で必死に朝比奈さんの姿を探し続ける。
「すいません遅れました」
「…………」
 その間に、古泉と長門も駆けつけてきた。4人がかりでその姿を探すが、どうしても見つからない。
ちくしょう、本当に一足先にかえっちまったんじゃないだろうな……?
「キョンくんっ。ハルにゃん」
 その声に振り返ってみれば、そこには鶴屋さんの姿が。朝比奈さんのことでどたばたしてしまったが、鶴屋さんも卒業なんだよな。
あとでお別れの一言もかけておかない。
 と、鶴屋さんはいつもの笑みで中庭の隅の方を指さす。そこには――
「みくるちゃん!」
 すぐさまハルヒが駆けだした。俺とその他もそれに続く。
 そこにはいつものセーラ服姿の朝比奈さんがいた。他の卒業生が持っている卒業証書の入った筒は持っていない。
やっぱり卒業式には参加できなかったみたいだ。無理もない。一覧にも載っていないんだから。
「みくるちゃん――みくるちゃんっみくるちゃん!」
 ハルヒは叫びながら朝比奈さんに抱きつき、止めどなく涙を流し始めた。朝比奈さんも涙を浮かべつつ、それを抱き返している。
 一歩遅れて、俺たちも朝比奈さんの周りを取り囲んだ。よかったっ……まだ間に合った……!
 朝比奈さんは俺たちを見回すと、
「本当は卒業式の前に行かないといけなかったんですけど……ちょっと無理を言って待ってもらいました。
卒業式には出られなかったけど、ここからでも十分に歌は聞こえたから……」
 そうか。聞いてくれたんだ。俺たちの呼びかけが朝比奈さんにきちんと届いてくれたんだ。
 ハルヒはしゃくり上げながらしばらく抱きついたままだったが、ほどなくして何か思い出したようにポケットから一枚の紙を取り出し、
「卒業証書なんて下らないわ! 代わりにこれをみくるちゃんに授与します!」
 名刺二枚分ぐらいのそれは、ハルヒが作った手書きのSOS団の卒団証明だった。
 朝比奈さんは涙をぬぐいながら、それを受け取り、
「はい。ありがとうございます!」
 そうはっきりとにこやかな笑みを浮かべた。
 ふと、鶴屋さんが遠巻きにいつもの笑顔でこっちを見ていることに気がつく。すぐに彼女も呼ぼうと思ったが、
朝比奈さんが制止してきて、
「鶴屋さんとはさっきお別れしました。あとはキョンくんたちと一緒にいてあげてと」
「そうですか……」
 そう言えば、鶴屋さんはいつも一歩引いた場所にいるのがいいって言っていたな。だから、先にお別れを済ませて、
後は俺たちの別れを見ている。らしいといえば、そうかもしれない。
 ここで朝比奈さんは俺に胸に頭を当ててきた。次にハルヒ、古泉、長門と続けていく。
 俺はこの行為を唖然としてみていたが、
「最後です。あたしのぬくもりを忘れないでください」
 この言葉と同時に、さっき朝比奈さんの額が当てられた胸のところをさすった。ええ、忘れません。この感触、絶対に忘れません!
 この時点で俺も気がつかないうちに、涙がだらだらとたれていることに気がつき、慌ててそれをぬぐった。
もうすぐお別れだって言うのに、涙で朝比奈さんの姿がぼやけさせてたまるか。二度と忘れないぐらいにしっかりと視界に焼き付けてやる。
 と、ここで朝比奈さんが少し寂しげな表情になると、
「そろそろ……お別れの時間です」
 そう言ってきた。
 ハルヒは自然とその手を握る。
 俺も開いている方の手を握った。
 長門と古泉は肩を掴む。
 最後まで一緒。これが俺たちの共通の意志だという現れだった。
『みなさん、憶えていますか? 今までSOS団としての活動のこと』
『あたしが一人でいると涼宮さんが現れて、手を引いて行きました。こんなところで何をやっているのよ、ついてきなさいって』
『それからキョンくん、長門さん、古泉くんと出会ってから、ずっと手を引かれ続けていました。行く先々がすごく楽しくて
明日はどこに行くんだろう、どこに行けるんだろうってそんなことを考えている毎日でした』
 ――次第にハルヒがしゃくり上げ始める。
『海に行ったり』
『山に行ったり』
『宝探しもしましたよね』
『孤島でたくさん遊びました』
『雪山でスキーもしました――遭難したのはちょっと驚きましたけど』
『バレンタインデーにチョコを作ったのもいい思い出です』
 ――ここまでで俺の涙腺はもはや制御を失っていた。止めたくても涙が止まらない。
 ――隣では古泉も目に浮かんだ涙を手でぬぐいつつ、鼻をすすっていた。
 ――長門も表情こそ変わらなかったが、悲しいという別れを惜しむ思いはひしひしと伝わってくる。
『毎日がまるでお祭りみたいでした。涼宮さんたちにはすごく感謝しています』
『あたし、この二年間のこと絶対に忘れません』
『今まで本当にありがとうございました。あたし、すごく楽しかったです』
 ――――
 ――――
 ――――
 一際強い風が吹いたと同時に、俺が握っていた暖かい感触が消えてなくなった。代わりに飛び散った桜の花びらが全身に降りかかる。
 ハルヒは崩れ落ちるように地面に座り込み、顔を手で覆って激しく鳴き始めた。俺も周囲も気にせず涙をひたすら流す。
 
 こうして朝比奈さんは未来へと帰っていった……
 
◇◇◇◇
 
 卒業式が終わり、俺たちは三年の進級を待っている状態になっていた。
 期末テストも無事終わり――いや俺の成績は無事じゃなかったが――、あとは終業式・春休みだけである。
 
 朝比奈さんがいなくなってから数日、SOS団は決定的なものが欠けてしまいにぽかんと空白ができてしまっていた。
その影響は大きくハルヒはダウナーで憂鬱な状態を維持しているし、古泉もボードゲームもやらずにぼけーとしていることが
多くなった。長門もいつもは猛烈な勢いでページをめくっていた読書の勢いが50%ダウン状態だ。
 この状態はしばらく続くだろう。こればかりは仕方がない。時が経ち、慣れることを待つしかない。
 
 ……ただ一つ大きな問題が起きていた。
 SOS団で撮った写真から全て朝比奈さんが消え去っていた。まるでそこにいなかったようにされてしまったかのようにだ。
それだけではない。俺がパソコンに密かに隠していたはずのmikuruフォルダもきれいさっぱり消えてなくなり、
その他SOS団にあった朝比奈さんの痕跡が一つ残らず消え去ってしまっていたのだ。
 さらに、俺やハルヒ、古泉から朝比奈さんに関わる記憶の大半が消え去ってしまっていた。孤島に行ったときのことも、
メイド服でお茶を入れてくれたことも、エンドレスサマーで遊び呆けたことも、俺の記憶上に朝比奈さんがその場にいなかったことに
されてしまっている。
 恐らく朝比奈さんの別れ後に、ハルヒの隙を見て未来側が懲りずに何とかデータの改ざんを行ったのだろう。
そのせいでこんなことになってしまっているのだ。
 
 では、なぜ今俺たちは朝比奈さんのことでダウナーになったりしているのか。
 忘れているなら、そんな気分にもならないんじゃないかと言われるかもしれない。
 
 その答えは……
 
 ♪初めて見た水 変わらない空
 
 唐突にハルヒの歌声が響く。今までの思い出を振り返り、別れを惜しみ、例え離ればなれになっても忘れないという強い思い。
その歌からはそれらがひしひしと伝わってきた。
 そう。あの歌に関することだけは消されなかった。今でもこれを作るために奔走した日々のことは憶えている。
卒業式のパンフレットの歌詞には、はっきりと朝比奈みくるの名前がある。さらに、朝比奈さんとの別れの時の記憶も残っていた。
 だから俺たちは例え忘れていても、すぐに思い出せるのだ。
 ひとたびこの歌を歌えばいい。それだけで、写真やものから痕跡が消えてしまっていても、彼女が確かにそこにいたという確証が得られる。
いつもここで笑顔でお茶を入れてくれて優しい癒しを提供してくれた。それは例え記憶を消されても、間違いなくあったSOS団の日常だ。
誰にもそれは否定できないし、させるつもりもない。この歌が証明さ。
 どうして未来側が消さなかったのかはわからん。知りようもないだろう。長門が守ってくれたからかもしれない。
あるいは卒業式で堂々と発表してしまい、多数の人に強い影響を及ぼした上、ハルヒの神的パワーがそれを阻止しているのかもしれない。
 
 ♪見たこともない世界で どこか見たことのある景色
 
 何となくハルヒに続いて、俺も歌い出した。
 それに気がついたハルヒは、ふふっと笑みを浮かべると、さらに音量を上げて歌う。
 長門と古泉もそれにつられるように歌い出した。
 
 ♪知らない人が道を行く その色は様々に異なる
 
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 
 ♪旅を続けて来た場所 知らない月に知らない森
 ♪その下でわたしの手を引く人がいる わたしを知らない場所連れて行く
 ♪不安なわたし その気持ちを笑顔で振り払う そんな人たち
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を
 
 ♪一人でいることのはかなさ 誰もわたしを知らないことのつらさ
 ♪ただ募らせる 人の恋しさばかりを
 ♪わたしは忘れない 側にいた人たちを
 ♪わたしを忘れないで 身を寄せたぬくもりそのままに
 ♪わたしは忘れない 見せてくれた笑顔の数々
 ♪わたしを忘れないで そこにいた姿と足跡を
 
 寂しくなったり、忘れそうになったらこの歌を歌えばいい。
 そうすれば、あの朝比奈さんの姿が蘇り、俺たちは癒される――
 
 ~終わり~


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