やつがいる。
俺の第六感が唐突に耳元でささやいた。せまっ苦しい部室の中を見渡す。やつの姿は見えない。
「まあ、いるわけないよな」
口に出して否定する。そうだ、第六感なんて正体不明なものなど当てにできないし、季節的に考えてまずありえない。うむ、今のは気のせいだ。
頭の中で自己解決した俺は、自分でいれた美味くも不味くもないみょうちくりんな味のするお茶をすすった。お茶ってのはいれる人が変わるだけで、こんなにも味の変わる飲み物だったのか。改めて大神朝比奈さまのありがたさを実感するね。
現在この部屋の中には俺しかいない。ハルヒは掃除当番で、朝比奈さんは進路相談。長門は情報操作で進路相談をサボった喜緑さんと買い物だそうだ。古泉にいたっては機関の飲み会があるとかでさっさと帰っちまった。いくら閉鎖空間の発生数が減ってるからってのんきすぎやしないか?しかも飲み会といえば恒例の野球拳。あいつや新川さんが負けるのはともかく、森さんが負けてしまった場合・・・・・・古泉め、羨ましいぞ畜生。
明日はボードゲームで負けた古泉をどのように料理しようかと頭の中でシュミレーションしていた刹那、俺は確かにやつの羽音を聞いてしまった。人を不快にさせるあの独特の羽音。もう間違いない。やつはこの部屋の中にいる。
俺は無言で立ち上がって黒板の前まで歩き、のしかかるような黒を背にして仁王立ちになった。やつの黒褐色の体は黒板に擬態するのにちょうど良い。だから人類は黒板を背にして立つことにより、やつより一歩有利になれる。さあ、次は眼球の仕事だ。目を凝らして部屋の隅々まで観察すると・・・・・・いた。六本の足を器用に使って天井にへばりついてやがる。
俺はそっとカバンを引き寄せ武器を求めて中をまさぐる。本当なら殺虫剤でも使いたいところだが、この文芸部室には冷蔵庫からカエルのきぐるみまであるくせに、必要なものに限って無いというスペクタクル。駅前より秘密が詰まってるぜ。
よし、数学の教科書に決めた。大きさも内容もぴったりだ。機動力において人間をはるかに凌駕するやつに勝つためには一瞬で勝負を決めなければならない。すなわち奇襲攻撃なり。
音を出さぬよう忍び足でやつの真下、最高の攻撃ポイントにつく。やつはまだ気づいていない。いや、気づいていないふりをしているのかもしれない。教科書を握る手に力が入る。たまった唾が喉を流下する。ここまできたらもう、そんなことは関係ない。
「そりゃあっ!」
目標めがけて教科書が一直線に飛ぶ。数瞬の空白後、
「くそっ」
鈍い音がして教科書が運動エネルギーを失い、宙に踊る。しかしやつはすでに天井を離れていた。奇襲失敗。なんてこった。
しばらくの間、やつは意味もなく部屋の中を飛んでいたが、ふいに急加速して俺に向かってきた。まるで桶狭間の戦いで今川義元の首を狙って命がけの突進した織田信長のごとく、やつは俺の血を狙って突進してきた。よろしい、本懐である。
「ふんっ!」
両の手を左右に広げ、空間ごと力の限り叩き潰す。“飛竜圧殺拳”長年やつと戦い続けた俺が習得した必殺技だ。手のひらに入らなくても至近距離を飛んでいれば衝撃波で落とせる、はずだった。
「ばっ馬鹿な!?」
やつは百戦錬磨のエースだった。でなければあんな軌道を描けるはずがない。両手の予想会合地点すれすれで急上昇。“飛竜圧殺拳”を避けてから急降下。急激な遠心力によるGをものともせず、俺の肩をかすめて後方へ抜ける。やつの方が一枚上手だった。だが、
「まだまだぁっ!」
右足を軸にして高速回転。やつのさらに背後を取れば勝機はある。関節がみしみし鳴るが気にしてちゃいられない。
「勝った!!」
やつは直線飛行をしていた。まるで撃墜してくれと言わんばかりに。俺は躊躇なく再び両の手を広げ、そして、
「遅れてごべしぅっ!?」
幾多の偶然と気まぐれによって構築された運命は、芸術の領域まで洗練されていた。やつの向かっていた先にあったドアが勢いよく開き、風圧によってやつはいずこかへ吹き飛ばされる。目標を失った俺の両手はやつの代わりに、ドアから入ってきたハルヒのもちもち感あふれる両頬と濃厚な接吻を果たす。
「こっ・・・こんの・・・バカキョン!!」
端っこに涙をため、復讐に燃えるハルヒの瞳に貫かれた俺は、抗弁の余地はどこをどう探しても無いことを悟った。すまん、機関の皆さん。飲み会の最中に仕事を作っちまって。
唸りを上げて顔面を直撃したハルヒの鉄拳によって、俺の意識は夕焼けによって赤く染め上げられた地平線まで吹っ飛んでいった。

 

 


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