涼宮ハルヒが小説を書き始めたは、十一月も終わりに差し掛かった頃。
 人々が灼熱に喘いでいた日々を完全に忘れ、冬の厳しさを身を持って思い出し始めた頃だった。
 閉塞的な服装でとぼとぼと行き交う人々が世界に溢れ帰り、北高内はといえば、生徒たちは口々に学校指定のコートへの不満を漏らし、先日終わった文化祭での思い出を語り合い
 これより到来する冬を謳歌するべく、気早に道楽の計画を立て……極めて平穏で、ありふれた日々が流れていた。


 ハルヒが小説を書くのだと宣言した時、俺はそれを止めようとはまったく思わなかった。小説を書く。それはハルヒがこれまでに企ててきた催しものと比べれば、遥かに大人しく、平穏な事のように思えたのだ。
 少なくとも、ハルヒが一人大人しく執筆に勤しんでいる限り、俺を初めとするsos団の面々が面倒な作業に借り出されることもないだろう。
 とは言え、あの涼宮ハルヒのすることである以上、そのうちには俺たちに、何らかの形で火の粉が降りかかる事もあるだろうとは思った。

 が、しかし、それを理由にハルヒを止めようとした所で、ハルヒが俺の提言を聞き入れ、胸に咲いた花を散らせてくれるとは思えないし、そもそも、もしその時ハルヒを止めたところで、どうせすぐにまた新しい何かを持ってきて、騒ぎ立てるに決まっているのだ。
 だったら、一先ずの実質的な被害は被らずに済みそうだと思えるあたりで妥協しておいたほうがいいじゃないか。
 兎に角。俺たちにそれを宣言した翌日、ハルヒは学生鞄の中に、今の流行とは思えない、分厚いノートパソコンを詰め込んで登校してきた。


 「こういうのは、慣れたやつじゃないと上手く行かないのよ」


 ハルヒはそう言った。これまでの人生の中で俺は、パソコンを使って小説を書こうとした事はない、なので、ハルヒの云うそれが本当なのかどうか分からない。しかし、ハルヒにとっては、それは少なくとも正しいことなのだろう。
 放課後の文芸部室で、ハルヒは団長席に腰を掛け、据え置きのパソコンのキーボードを脇に追いやり、そこに持参したノートパソコンを広げた。


 ハルヒはそうして小説を書き始めた。これまでで一番平穏な始まりだった。

 

 

     ◆

 

 

 一体どういった経緯で、小説を書くということに、涼宮ハルヒが興味を持ったのか。俺はそれについてハルヒから聞き出そうとする事が無かったし、ハルヒはそれについて、俺に口頭での説明をしようとは思わなかった。
 そのことについて、長門はこんなふうに語った。


 「涼宮ハルヒはあなたに対して秘匿している何かを持っている。涼宮ハルヒが創作しているものは、それの象徴」


 掻い摘んで云うと、ハルヒの書いている小説とやらは、ハルヒが俺に知られたくない何かをテーマにしたもの。だということらしい。


 「分からん。だったら初めから、俺たちに宣言なんかしなければいいだろ」

 俺は言った。

 「ハルヒが小説を書こうが円周率を暗記しようが、俺はそんな事知ったことじゃない。俺に知られたくなければ、初めから俺に知られないように、こっそりとやってたらいいんじゃないのか?」
 「そのほうが効率は良い」


 長門は頷き、俺の目を見た。


 「しかし、涼宮ハルヒは、あなたの前で、小説を書くのだと宣言した。

  その理由は、私の情報処理能力では、適切な理由は見つからなかった。
  恐らくそれは、有機生命体特有の習性によるもの。
  ……感情」


 感情。


 「私が考えるよりも、あなたが考えた方が、答えが見つかる可能性は高い」


 考える頭と感情があるなら、自分で考えろ、コノヤロー。
 掻い摘んで云うと、そういうことらしい。
 有機生命体の俺は、それについて暫く考えてみた。しかし、俺の情報処理能力を持ってしても、適切な理由は思い当たらなかった。果たして俺は、本当に有機生命体なのだろうか?


 「感情があるから、人は小説を書く」


 オマケにように、長門はそう言った。
 もしも長門が小説を書くとしたら、どんな理由で書くのだろう?

 

 

     ◆

 

 

 相変わらず授業の内容は一つも覚えていない。俺が部室を訪れると、俺より遅く教室を出たはずのハルヒが既に到着しており、定位置に腰を据え、例のノートパソコンと激戦のにらめっこを繰り広げていた。白のダウンを着込んだままだった。


 「精が出るな」


 俺が声をかけると、ハルヒは一瞬だけ俺のほうを見たあとで、再びパソコンの画面に視線を戻し、いかにも不機嫌そうに首を傾けた。
 直感的に、ハルヒの精神のベクトルが前を向いていないと悟った俺は、なるべくハルヒを刺激しないように、コートをハンガーラックに掛け、軽い鞄を自分の席の脇に放り出した。室内に朝比奈さんの姿はない。二年は今日、放課後にミーティングがあるのだ。
 まさかご機嫌斜めのハルヒ様にお茶を淹れさせるわけにもいかず、俺は自らポットの前に立った。見ると、ハルヒの手元には、ちゃっかりと自分の湯のみが置かれており、玄米茶と思わしき液体が注がれている。一体こいつは、どれだけのスピードでこの部室までやってきたのだろう。


 「調子はどうだ?」


 そのまま無言で居ることもできず、俺は恐る恐る、ハルヒに訪ねた。ハルヒは画面から視線を外さぬまま返答する。


 「最悪よ、早くもスランプだわ」


 ハルヒが小説を書き出してから一週間強。そろそろ行き詰ってもいい頃だとは思っていた。
 ハルヒはカチューシャを邪魔そうに指で避けながら頭をぼりぼりと掻き、お茶を一息で飲み干した。俺のこの半年間の経験からして、今のハルヒは、一番機嫌の悪いときよりは随分と穏やかな状態を保っているように思えた。


 「言葉はね、お茶みたいなものよ」


 ハルヒは言った。


 「そこらで見つけたもので、これでいいや。と、満足するのは簡単なのよ。でも、それよりもずっといいものがどこかにある、それは確かなの」
 「お前は満足したくない」
 「そうよ」


 ハルヒは少し満足そうに頬を緩ませると、空になった湯のみを、俺の方にすいと押し出した。
 涼宮ハルヒはスランプである。俺はそこらに転がっていた紙切れにそうメモし、頭の浅い辺りに仕舞いこんでおいた。

 

 

     ◆

 

 

 世界は虚ろだ。少し気を緩めると、時間がダムの放流か何かのように流れ出してしまう。うとうとと眠りかけてしまい、その間に随分と長い時間が過ぎてしまっていた時の感覚に似ている。俺はそれに抗おうとする。しかし、それは俺の意識などでは太刀打ち出来ないほど、分厚く俺の意識を覆ってしまう。
 気がつくと俺は、ハイキング・コースの通学路をとぼとぼと登っているところだった。


 「なんだか最近、ボーっとしてる事が多くて」


 俺の心を読んだのは朝比奈さんだ。お互いコートを着込んだ姿で、いい加減に塗りかえるべき煤けた校舎に見下ろされながら、彼女は言った。


 「涼宮さんの動向が落ち着いてるからでしょうか、気が抜けてしまってるみたいです」


 彼女はそういうと、自分の頭を小さなこぶしでコツリと叩き、舌を出し、愛らしく笑って見せた。俺の妹がおどけてするそれによく似ている。そうしていると、朝比奈さんはまるで、小学五年生の少女のようだった。


 「今のハルヒは、落ち着いているんですか?」
 「はい。少なくとも……あたしたちの組織が観測している限り、大きな変動は確認できてません」


 俺は先週の終わりに、部室で頭を掻き毟っていたハルヒを思い出した。つまりあのあと、アイツははじめてのスランプとやらから無事抜け出す事が出来たのだろうか?


 「今のところ、涼宮さんが小説を書き始めたのは、彼女にとって凄くいい事……であるように思えます」
 「そのうち、何かに借り出されるかもしれませんよ。気をつけてないと」


 俺はハルヒが、パソコンの画面から視線を上げ、唐突に傍らの朝比奈さんを捕まえ、なにやら無理難題を喚きたてる様を思い浮かべてみた。
 さしづめインスピレーションを求めての臨時不思議探索といった所か。その場合、せめて校内のみに留まってくれれば、俺としてはありがたい。寒空の下に出て行くのはごめんだ。


 朝比奈さんと別れ、教室に辿りつく。いつもの席のいつもの場所に、涼宮ハルヒの姿は無かった。HRが始まっても、一間目の授業が始まっても、ハルヒは現れなかった。まるでハルヒなど初めから存在していなかったとでも云うかのように。

 

 

     ◆

 

 

 授業はいつの間にか終わっている。校内に昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた直後だ。眠ってしまっていたわけでもない。ただ、まるでタマシイが一人で旅に出てしまっていたかのように、俺の頭の中に空白が存在している。


 「寝坊したのよ」


 昼休みの文芸部室に、朝から見かけなかったハルヒの姿があった。
 ハルヒは弁当の中身を、律儀に箸で摘んで口の中へ移動させながら、昨日から引き続き心持ちのよくなさそうな声色で吐き捨てた。


 「夢の中にね、小説の事が出てきたの。どうしてもうまい表現が見つからない部分を、何度も何度も書き直す夢。何度書き直しても終わらないのよ。そして、何か相応しい言葉が見つかるまで、あたしは目を覚ませないの」
 「それで、見つかったのか」
 「多分ね。」


 どんなんだったかは、覚えてないわ。ハルヒはそう言って、又つまらなそうな顔をした。

 

 

     ◆

 

 

 気がつくと時間が経っている感覚にも、だんだん慣れてきた。慣れてしまえば、時間が早く過ぎると言うのは悪くないものだった退屈な時間をごっそりと省く事が出来る。
 時々考える。俺の脳が記憶していない過ぎてしまった時間というものは、果たして本当に存在していたのだろうか。などと。


 「変わったこと、か。別に何もないけどな」


 俺は電話口の古泉の問いかけに対して、大して考えもせずに返答した。時刻は午後十時二十分。まだ浅い時間だと云うのに、俺は不思議な眠気を感じていた。


 「そうですか。でしたらよろしいのですが」
 「何か問題でもあるのか? ……ハルヒの動向について、とか」
 「いえ、何もありません。むしろ、このところはとても落ち着いていますよ」


 朝比奈さんが言っていたのと同じ事を、古泉は言った。


 「ただね。それが奇妙なんです。これまでにも、閉鎖空間の発生件数が落ち着き

  変わった動向も見受けられず、平和な期間と云うものはありました。
  しかし、そういった場合、決まって涼宮さんの機嫌はこの上なく良好だったのです。

  しかしこのところ、涼宮さんの機嫌は……悪くはありませんが、そう良好とも思えませんよね?」
 「そうだな」
 「それが少し奇妙で……気になったんです。普通に考えれば

  外からの要因でなく、自己の内部でわだかまりが発生している場合
  それを発散させる宛てもなく……つまり、一番閉鎖空間が発生しそうなケースなんですよ。今回のようなケースが」


 俺は古泉の話したことについて、色々な考えをめぐらせて見る。


 「つまり、ハルヒはアレで意外と機嫌がいいのか?」
 「単純に考えると、そうなのかもしれません。ですが……そう思って彼女に話しかけてみたところ、どうも機嫌が良いとは思えない返答をされてしまいまして」


 電話の向こうで、古泉がすこし寂しそうに笑っている様子が、俺の頭に浮かび上がってくる。


 「それと、個人的な事なのですが……このところ、何と言いますか。意識が不明瞭なのです」
 「何だって?」


 古泉は言った。


 「何と申し上げたら良いのでしょうかね。妙にぼんやりとしているといいますか……

  ただ注意力が散漫になるというのでもなく、気がついたら、随分と長い時間を

  過ごして居る事があるんです。授業中とか、登校中だとか、そういう場合に」
 「ボケたんじゃないのか。閉鎖空間の行き過ぎだ」
 「ははは。だとしたら、責任の二割ほどはあなたにありますね」


 古泉の軽口に何かを言い返そうとした直後、電話は切れてしまった。
 プツリ。そんな音が聞こえたような気がする。

 

 

     ◆

 

 

 夢を見る暇もないくらいに、深く、純度の高い眠りだった。いつの間にか眠ってしまっていた俺は、同じく、いつの間にか目覚めていた。
 雑な朝食と、冷えた朝一番の空気を乗り越え、登校路を歩いている途中で、ハルヒの後姿を見つけた。朝食代わりのつもりなのか、片手にナッティ・チョコレート・バーをぶら下げ、それを齧りながら登校していた。


 「昨日は早く寝たの。驚いたわ、早起きになっても良いって思ってたのに、きっちり目覚ましの時間まで寝ちゃったわ」
 「またスランプの夢を見たのか?」
 「昨日は何も見なかったわ。ただずーっと眠ってただけ。」


 ハルヒはチョコレートをもぞもぞと噛みながら、むやみやたらに疲弊した顔をこちらに向けた。


 「でも、スランプは抜けたのよ」
 「そりゃあ良かったな」
 「良かったわ。早寝して、朝起きたら、いきなり思いついたの。大急ぎでパソコンを開いて、その部分だけ書き上げてきたわ」
 「だから、朝飯も食えなかったのか」


 俺がそう茶々を入れると、ハルヒはきっと強張らせた視線で、俺の顔面を射抜いた。


 「一回ぐらい朝ごはんの手を抜くだけで、スランプが乗り越えられるなら、安いもんよ。それに、糖分は大事なのよ。小説を書いてると、すごく頭を使うんだから。コレは栄養的に優れた補給食なの」


 ダイエットに勤しむ同年代の女性達に聞かせたら、火でもつけられそうな言い分だった。


 「早く続きが書きたいな」


 独り言のように呟くと、ハルヒはダウンのチャックを胸の辺りまで降ろし、首をポキポキと鳴らした。風が吹く。冬の朝である。

 

 

     ◆

 

 

 「古泉一樹が感じているもの。朝比奈みくるが感じているもの。あなたが感じているもの。そして、私が感じているもの。それらはすべて同一の必然」


 放課後、部室以外の場所に存在してる長門。そんなレアモンスターと俺は、いつだか古泉と話をした中庭で、そのいつだかと同じように、丸いテーブルを挟んで向かい合って座っていた。


 「しかし、我々の意識に発生している現象が、一体どのようなものなのか。何が要因となって発生しているものなのか。すべては不明。情報統合思念体の情報処理能力では、適切な説明が出来ないもの」
 「それはやっぱり、ハルヒが原因なのか」
 「そう。と、言い切れるだけの材料はない。しかし、そうとしか考えられない。しかし、観測はできていない」


 何から何までが分からない。多分ハルヒの所為。そんなところだろうか。
 具体的な被害は、どう言ったら良いんだ?


 「……ランダムで発生する、突発的な意識の消失。しかし、意識自体には何の以上もない。我々の肉体は、我々が意識を失って居る間も、問題なく動作を続けている」
 「話だけ聴くと、二重人格みたいだな」
 「症状としては、有機生命体の陥る解離性同一性障害の軽度の症状と似通っている。しかし、本質的には異なるはず」


 要するに何も分からないのだ。分かったのは、やっぱりハルヒは、只で転んではくれないのだと云うことぐらいだ。


 「対処法は、現段階では適切なものが提示出来ない。大きな実害は発生していないから、このまま暫く様子を見るほかない。……あなたは、問題ない?」
 「ああ、大丈夫だよ」
 「……そう」


 長門は最後に一言だけ言い残すと、コーヒーの紙コップをテーブルの上に残したまま、ゆらりと立ち上がり、そのまま校舎へと消えて行ってしまった。
 後に残された俺は、二人分の紙コップをゴミ箱へと放り捨てた。

 

 

     ◆

 

 

 「強引にお連れしてすみません。タイミングが重要だったものでして」
いま
 俺はいつだかのようなタクシーの車内で、意味の分からない古泉の言葉を聴いていた。辺りは薄暗い。


 「午後九時です。お食事中のところを呼び出させていただきました。覚えていらっしゃいますか?」
 「さっきのことだろ」
 「そう、さっきの事です」


 古泉は言った。


 「先に申し上げておきますが、今日は別に、貴方をどこかへ連れて行く気はありません。ただ、外は寒いですから。お話をするなら、いっそ車の中のほうがよろしいかと思いまして」
 「喫茶店でもどこでもよかったんじゃないのか」
 「次回からはそちらをチョイスいたしますよ。ですが、今回は本当に、できるだけ早く本題に入りたかったので」
 「なら、こんな無意味な問答をしてる場合じゃないだろ。……そもそも、お前が何故そんなに急いでるのか、俺には見当がつかんのだが」
 「何と言いますか。早くしないと、またお互い、ぼんやりとしてしまうではないですか」


 穏やかな声色を保ったままで、古泉は言った。


 「……実のところ、僕はどうしても気になっていたんです。

  これまで経験したことのない奇妙な意識の欠落。

  僕はそれが、どうしても、涼宮さんに由来する何かであるような気がしたんです。
  調べてみたんですよ。僕と涼宮さんの生活を照らし合わせて

  僕が件の『ぼんやり』を感じている時、涼宮さんがどうしているかを」


 俺に何か相槌を求めて居るのだろうか。特に相応しい相槌が思いつかなかったので、俺はそのまま黙り、古泉が話すのを待った。


 「それで、分かったんです。……僕らが意識を失って居る間、涼宮さんの意識は、僕らではない、他の何かに向けられているんです」
 「……もう少し分かりやすく話せ」
 「失礼。そうですね……逆に。涼宮さんが僕らの事を考えて居るあいだ、僕らは自分の意識を保っていられている。とでも言しょうか」


 古泉は話した。


 「僕らが意識を失っている……この表現もおかしなものですが。

  その期間の涼宮さんの行動をチェックしてみたんですが
  主に登校中、或いは授業中。そして、睡眠中。

  大体の場合が、この三つのケースのうちのいずれかに当てはまりました。
  逆に、僕らが現在のように、明確に意識を保っていると言えるとき。
  涼宮さんは、文芸部室に居て、僕らと会話をしている。そして、或いは……小説を書いたり、小説についての事を考えていたりする。」


 どうも古泉は大マジメらしい。
 なんだ? ハルヒ、思う。故に、我有り。コギト・エルゴ・スム。とでも言いたいのか?


 「冗談のように思っていらっしゃいますか? ですが、これは結構マジですよ」


 やがて、タクシーは止まった。俺たちの街から電車で五駅ほど移動した街にある、中くらいの規模の自然公園の門の前だった。
 当たり前のように古泉が降り、俺も其れに続く。冷たい空気が、パジャマの上にコートを羽織っただけの体を甚振る。


 「彼女の書いている小説が一体どんなものなのか……

  僕にはわかりませんが、それは恐らく、我々……と、言っておきましょうか。

  我々にまつわる何か、なのだと思われます。
  そうすれば、線引きは容易くなります。
  即ち。彼女が我々を意識している間、我々は明確に意識を保っていられている。
  分かっていただけますか?」


 分かりたくないな。
 一体何故そんな事になった?


 「さあ……それは僕にも見当がつきません。

  ……そうですね、或いは。いつからか、我々は

  涼宮さんの創り出した世界に入り込んでしまっているのかもしれませんね」
 「あいつが小説を書き出してからか」
 「恐らくそう思われます。が、本当はもっと早くからだったのかもしれません。
  ……彼女が小説を書き始めた理由はわかりませんが
  考えようによっては、小説を書くことと、閉鎖空間を作り出す事は

  似ていると思いませんか?」
 「……似てる、かもな」


 俺はハルヒが、自分の想像した理想や、自分の感じた世界への不満や……兎に角いろいろな事を、文章にしてノートパソコンにぶつけている様を想像してみた。
 なるほど。それは閉鎖空間と同じメカニズムだ。完全に自分の思うとおりになる世界での、ストレスの発散。
 きっとハルヒの書いた小説には、主人公が居る。その主人公は、閉鎖空間における、あの青の巨人に当たる役割を果たすのだ。


 「彼女がこれまで作り出してきた閉鎖空間とは違う

  彼女が自ら意識して作り出すものです。

  ……多分、そこに力が作用してしまっているんでしょう。
  僕らは今、彼女の小説の中に居るのですよ。そう考えると、なかなか素敵な事だと思いませんか?」
 「迷惑な事だ」
 「そうですか? 悪くないと思いますよ。

  意識が飛ぶといっても、本当に眠り込んでしまうわけではありませんし。
  僕の仮説が正しければ、涼宮さんの小説が完成したとき

  この奇妙な現象は収束するはずです。
  そして……小説は、閉鎖空間とは違い、後に残ります。

  彼女が自分の中に生まれたわだかまりを
  自分の力で乗り越えた、その証です。
  ……素敵だと思いますよ、僕は。本当に」
 「……そうかもな」


 俺は白い息を漏らしながら、空を見上げた。猥雑とした街の空にしては、今日は星がよく出ている。ここが、ハルヒの小説の中?
 ……不思議なことじゃないな。俺はハルヒの創り出した世界の中にさえ行った事があるのだ。小説よりも実体のない、どこか宇宙の端っこに生まれてしまった、適当な世界だ。


 「何を書いているんでしょうねえ」


 隣を見ると、古泉が随分と楽しそうな様子で、俺と同じように夜空を見上げていた。
 俺は目を閉じて、ハルヒがキーボードを叩く音が聞こえないかと、耳を済ませてみた。しかし、遠い街の車の音と風の音以外、何も聞こえはしなかった。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 

 ハルヒ、思う。

 

 

 

 故に、我有り。

 

 

 

 

     ◆

 

 

 「家に帰る道がね。すごく嫌いだったの、昔」


 夕焼けを背中に浴びながら、ハルヒは言った。


 「丁度今くらいの時間。学校が終わって、みんなで目一杯遊んで……

  夕焼けの放送を聴いて、みんなで分かれて、家に帰るとき。
  どんなにそれまで楽しく遊んでいても、その瞬間、現実に戻るの。
  それは抗いようのないことなのよ。楽しい時間を過ごして居る間は

  そんな事は忘れちゃう。でも、そのときは必ずやってくる
  ……それがすごくいやだった」


 振り返るハルヒの顔は、以前のようにハツラツとはしていないものの、ここ最近のやつれきった様子と比べれば、随分と健康的だ。


 「中学に上がって、友達と馬鹿騒ぎもしなくなって……

  そしたら、それが世界の全てだと思えば、それで楽だった。
  もう二度と、あんなぽっかりとした気持ちにならなくて済むと思ったの。
  でも……いつからか、また楽しい事を知りたくなった。

  寂しくなるのは分かってるのに、馬鹿よね。
  でも、私が楽しいと思う事を目一杯楽しむことは

  私の行っていた中学校じゃ難しかった。……話したわよね」
 「ああ」
 「中学校の三年間は、そんな感じのまま過ぎて……

  高校に入学して、SOS団のみんなと会った。キョン、あんたが最初だったわね。
  ……楽しかったわ。野球大会も、夏の旅行も、すごく楽しかった。
  でも、やっぱりやってきたのよ。例の、どん底みたいな寂しい時間が。
  ああ、やっぱりなって思ったのよ。

  ……でも、もうあたしは、それを寂しいと思うだけの子どもじゃないの。
  立ち向かおうとしたのよ。悲しみなんてどっかに押し寄せるくらい…

  今以上に楽しい事を探そうとした。
  ……それで、書いてみたの。……小説をね」


 冷たい風が吹く。


 「でも、本末転倒よね。小説を書いてばっかりで、みんなと遊ぶのもおざなりになっちゃってたし。キョン、構ってあげなくて寂しかったでしょ?」
 「ぬかせ」
 「何よそれ。正直に言いなさいよ、あたしが遊んであげなくて寂しかったでしょ? ふふん、あんたも書いてみれば? 小説」


 背中に夕陽を浴びるハルヒを、細めた目で見る。その上機嫌な表情を見る限り、小説療法とはなかなか効果が期待できるもののようだ。


 「で、どんなのができたんだ?」
 「それはヒミツよ。あとちょっとの辛抱でしょ、家までガマンしなさい」
 「学校に持ってくりゃ良かったじゃないか」
 「いやよ! 誰かに盗み見られたらこまるでしょ」


 誰もそんな物を見やしないだろう。


 「……そうそう、その話で思い出したわ。一つだけね。思ったんだけど」


 ハルヒが口を開く。


 「あたしね、結婚。って、どういう事だか分からなかった。
  っていうか、人を好きになる、惚れた腫れたも、いまいち分からなかったわ。
  例えば好きな人とデートしたって、結局帰らなきゃいけないときが来るんだし。
  そもそも人を好きになる事が分からないのに

  結婚ってのは一体何なのよ? って思ってたの
  ……でも、違うのよね。考えて見たら。
  楽しい時間の後の、家に帰るその時間さえ、一緒にいちゃえるようにする。……そのために、人は結婚するんでしょ?」
 「……俺に聞かれても困るな」
 「あんた、ロマンが無いからね」


 ハルヒが笑う。知らぬ間に、随分と少女趣味になったようだ。


 「そろそろよ」


 本格的に夜の帳が折り始めた頃、ハルヒは俺の傍から駆け出し、進行方向から右に逸れる横道の前で俺を振り返った。


 「早くしなさい、キョン! ありがたく思いなさいよ、あたしの部屋に上がるのは、SOS団で一番乗りなんだから!」
 「ああ、はいはい」


 子どものようなハルヒの振る舞いに苦笑しながら、俺は小走りで、ハルヒの元へと駆け寄った。白い息が揺れ、赤い色に反射する。


 「いい? 笑わないで読むのよ? 笑ったら、死刑だから」


 ハルヒは追いついた俺を更に引き離すべく、閑静な住宅地の奥へと駆けていった。白のファーが揺れる。遠くで鳥が鳴く声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 


 おわり

 

 


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