「どうしたのです?折角僕が大仰な望遠鏡を持ってきたというのに、そのように月を仰ぎ見られては形無しです。それとも、あなたが見ているのは目前の少女の背中なのでしょうか」
 古泉がやにわに俺へと話掛けると、天空へと視線を固定していた長門はゆるりと振り返り、この夜空よりは明るい漆黒の瞳で俺をジッと見つめてきた。
「お前はなにを見てたんだよ」
 俺は古泉に言う。揶揄したような笑みを浮かべるこいつのハンサム面からは、不思議と不快さは感じられない。
「さて、僕はなにを見ていたのでしょう。今僕の視線の先にはあなたがいるようですが、先程までは長門さんを見ていたような気もしますね。ですが、何を見ていようとも、僕の頭を支配している考えは全て一緒なのです。脳が情報を得るために外界のものを認識するのであれば、僕は何も見ていなかったとも言えますね」
 なげやりな言葉でおざなりな返答をする古泉。こいつの思考を支配しているものをわざわざ聞く俺でもない。
「……この世界を変えること、か」
 そう呟き、また頭上の月を仰いだことによって、俺の頭の中では一つの思い出が想起されていた。


 あれは中三の頃だ。俺は高校進学を危ぶまれた結果、母親から学習塾へと放り込まれた。
 そのクラスに佐々木という奴がいて、そいつは俺と学校も一緒だった。
 たまたま塾での席が近く、まさに学校が一緒だったというだけで、どちらともなく話しかけて話すようになったんだっけ。
 佐々木はパッと見だと男共の視線を引っ掛けるような女の姿をしていたが、あいつの一人称は僕であり、また、世間を斜に見ているような考えを持っていたためかは知らんが、話し言葉も男口調だった。ハルヒと同じ恋愛観の持ち主でもあったが……こんな月が出ている夜、あいつは一度だけ結婚願望じみた話をしたことがある。
 それは塾の帰り道、自転車を押しながら歩く俺が、隣で空を見上げながら歩いていた佐々木に話掛けた時――。




「どうしたんだ。ちゃんと前向かないと転んじまうぞ?」
「……ん、ああ。じゃあ僕が転ばないように、気をつけていてくれよキョン?」
 まがいなりにも気遣って声を掛けたのだが、これ以上何を俺が注意出来ることがあるというんだろうか。
「では、僕が地面と親交を深めるような事態が起きそうな場合に、キミはそれを防いでくれたまえ」
「……お前の顔面と地面がキスするのを見たいと思わんが、そりゃ不可抗力だ。俺には何も出来ねえよ」
 佐々木はクツクツとした独特の笑い声を立て、
「そうかい。それは残念だと思うが、不思議と嬉しい気もするね」
 なおも空を見続けながら、とりとめのないように佐々木は話す。
「お前、月がそんなに珍しいか?そんな夢中になることもなかろうに」
 若干皮肉を入れた俺の言葉だったが、
「うん、これほど珍しいものはないね。えらく神秘的で、真に唯一で、千篇一律でありながらも人の情をかり立てるような……月の姿というのは」
 俺も空を仰いでみる。そこには淀んだ空気の中に佇む銀盤が太陽の光を受け、きらびやかに輝く姿があった。
「お前が言ってるのは、月の光のことなのか?確かに、満月の夜には変質者だとか子供が増えるだとかいった話があるが」
「いや、そんな形而下の事象ではないんだ。キョン、僕が言っているのはね、ひどく形而上のものでありながら、それは確実に証明されるような月の曰くについてさ」
 佐々木は歩きながら今度は俺へと体を向けつつ、
「僕は求道者でもなければ、心の拠り所に神的存在を置いているわけでもない。だがね、旧約聖書に書かれている物語やギリシャ神話、はたまた仏陀などの逸話には、僕という人格形成上においてすべからく影響を受けている部分もあるのだ。そして、とあるキリスト教徒の方が書かれた本の中にとても惹かれるような一文があってね。もちろんそれはキリストに対しての話だったんだが、僕はそれよりも、そこに使われていた月の性質について感銘を覚えてしまったんだ。それは何かというと……」
 下げていた右腕の肘を曲げ、人差し指を月へ向ける。それに追従するように俺と佐々木は月を視界に入れ、
「その教徒の方は、月を見てキリストを想ったんだ。かのキリスト様も、この同じ月を見ていたんだとね。これは、とてもロマンチックでありながら、リアリズムに富む感性的認識じゃないかと僕は考える。これについて、キョンはどう思うのか教えてはくれないか?」
 俺は顔を下ろし、微笑を湛えている佐々木を視認すると、
「……確かに、キリストが実在したってんなら、あの月を見てたんだろうな」
 目前の文学少女はこくりと顎を引き、
「そうだね。月という存在は、かつて他の何物にも取って変わられたという歴史はないだろうから、あの月は地球の創世からあまねく世界を見渡してきた隣人なんだ。あわせて、始原の生物が現在の体系へと歩みを進める間中、僕らの祖先とも言えるべき存在がずっと認識していたであろう星でもある。これはつまり、コペルニクスやソクラテス、モーゼや孔子もあの月を見ていたということで、言ってしまえば歴史上の不鮮明な登場人物でさえも月に抱く概念は一緒なのさ。月は他に存在しないからね」
「へえ。そう考えてみると、月を見てるのも良いような気がしてくるよ」
 俺が感心したように述べると、佐々木は嬉しそうにくっくと笑い、
「ここからが面白いんだ。月は唯一無二であるのだから、架空の人物が見ていたとされる月もあの月と変わらない。いやしない正義のヒーローが呼ばれて飛んでいく空、フランケンシュタインが闊歩する世界においても月は同義なのさ。絶対的に不変なものというのは、かくも超越した存在だと思わないかい?そう考えて月を見ているとね、もっと漠然とした存在との意識共有を感じることができるんだ」
「どんな奴だ?」
 この俺の質問に、佐々木は意外にも爛々と輝く瞳をもってこう答えた。
「己の人生のうちで、伴侶となるべき人さ」
「……結婚相手だってのか?」
 よもや、こいつの口からそんな夢見少女のような発言が飛び出すとは思わなかった。赤い糸伝説でも信じているのだろうか。
「まさか。定義上から知覚外の存在でしかない赤い糸なんてのは、もとより信じちゃいないね」
 呆れ返ったように言うと、 
「けどねキョン、月は違うんだ。例えば、僕が将来誰かと一生の契りを交わすとしよう。その相手は、現時点での僕が求める理想像から予見すると、年齢的には僕とそう変わりないはずだ。よって、現在何処かにいる彼も、月の存在を知っているに違いない。これは面白いことで、時既に、僕とその見知らぬ伴侶は月の概念を同じくしているのだ。これは憶測でしかないのに、これほどハッキリと言いきれるものは他にないだろうね。この繋がりは弱いようでいて、限りなく真であるという奇特な接点だと言えるんだよ」
……そういえば、俺にもそれと似たような考えがあるな。
「へえ、興味あるな。それはなんだい?」
 思わず視線を逸らしてしまう程に瞳をきらめかせている佐々木に、俺はジュースを片手に映画を見ているとき、丹念に構築された世界観の中で動く役者に対して、こいつらもこのカラメル着色された炭酸水を飲んだことがあるんだなと思うことによって現実を取り戻すという話をした。
「面白いね」佐々木はまず一言感想を言い、「それは対照が極身近なものであるために、より相手に対して親近感を覚え易いだろう。いささか現実味を帯びすぎている感も否めないが、いかにもキョンらしくて僕は好きだな」
 明朗と佐々木は答える。なに、月並みには及ばないさ。そいつが健康志向だったら終了だ。やっぱり俺は、幻想的絶対的な月の方が良いと思うぜ。……と言いつつ、
「ってゆーか、お前も結婚とか考えてるんだな。俺はてっきりしないもんだと思ってたよ」
「それは心外だな。僕は、なにも異性を忌避しているわけじゃない。そんな女性が辿る末路は、僕にだって正直あまり良いものとは思えないしね。ただ、僕は恋愛関係というものに重きを置いていないだけなんだ。生物学的観念と社会的見解においての夫婦という関係は、重要で必要なものだと感じているということさ」
「じゃあ、見合いで結婚するつもりなのか?」
「わからない。今の僕からすれば、どんな過程で結婚まで至るのか想像すら出来ないんだ。ただ、結果としてそうなるというのは感じるというだけでね。というより、行き遅れてはたまらないという気持ちも多少ある。これについては現在どうしようもないんだがね、月を見ていると、どうにかなるような気もしてくるのさ」
 なんでだろう。
「何故なら、月が見ているこの世界は、常に変化しているからだ。僕ももしかすると、いずれ己の見識が変容するような事態に遭遇するかもしれない。そのときの僕が恋愛についてどう考えるかは誰にも与り知るものじゃないが、まあ、僕が考える恋愛の本質については並大抵の問題じゃ変わりようがないだろうね。僕が望むのは、月のような立場に身を置くことなのだから」
 佐々木が言う月の立場というのは何だろうとしばらく考えていると、
「つまり、常に理性的で論理的な自分で居たいということさ。これは前にも話したけど、何故そうありたいと僕が願うのかといえばね、ゆるぎない自己を確立すれば、変化する世界を偏見の入る余地なく見つめることが可能になるからなんだ。もっとも、これを僕がキョンに言うのは若干気が引けるけどね。だって、」
 思案顔を浮かべる俺が佐々木を見やると不意に視線がぶつかり、佐々木は目を逸らさぬまま、
「僕はね、キミをまさに月のような存在だと感じているんだ。だから、わざわざ僕が言うまでもない。釈迦に説法を説くような行為は慎みたいのさ」
 その言葉と裏腹に俺はあまり理解していないので申し訳なく思っていると、佐々木はまた月へと視線を戻した。俺もそれに習い、なんとなく……
「何処かの想い人……ね。お前のそんな人も、この月を見てると良いのにな」
「それは確率を論じているのかい?それとも、結果論に基づいた発言なのかな?」
 さてね。なにを言っているのか俺にもわからん。
「そうかい?」
……この言葉を最後に、俺達はただ、月を望みながら歩くことに残り時間を費やしていた…………。




 なんてね。思い返してみたら、佐々木は俺との帰路に退屈して月なんぞを見ていたのかも知れないな。
「……んみゅ?」
 と、妙に可愛らしい声を上げて我がSOS団団長は浅い眠りから目を覚ました。俺は雑用係として気遣うように、
「ハルヒ。そろそろ風邪引いちまうぞ。起きたほうがいいんじゃないか?」
「んっ……んん……」
 忠告虚しく、こいつはまた眠りやがった。
「良いではないですか。僕が見張っておきますから、あなたも寄り添われては如何ですか?」
 朝比奈さんになら喜んでダイブして行きたいがな。そんなことしちまったらハルヒ大魔神が怒りと共に目覚めちまうだろうよ。
「それは困ります。ですが、現状を打開する一つの方策として考えてみても悪くは……」
「良いんじゃないか?お前がやる分には俺は止めん」
 その後お前には地獄が待っているがな。とは言わず、俺はハルヒの寝顔を見る。すうすう寝息を立てている姿からは、とても昼間の活動エネルギー量が同じ人物から出ているとは思えない。うん。こいつは太陽って所だろうな。


 そして俺は月を仰ぐ。佐々木は今、この月を見てるんだろうか?あいつは俺を月のようだと言っていたが、俺よりもお前のほうがずっと月みたいだったと思うね。



 ん?月と太陽はどっちが好きだって?そんなの、俺に聞かれても困る。なんの関係があるんだろうか。ただ……、
 どちらかがなくなってしまえば世界は悲しむだろう?その世界の中に、俺もいるってことは確かなのさ。


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