尋問、国木田と谷口、屋上にて。

 


その後もまた、色々と話して。昼休みはそんな感じで終わって、教室に戻ってきた。
国木田から言われた一言で随分気持ちが楽になった気がした。
俺はどうしたいのだろうか、という回答はまだ出せないが。
ゆっくり考えればいいじゃないかと、国木田は言ってくれた。正直その言葉にどれほど救われたかわからない。
本当に。本当に、感謝するぜ、国木田。
谷口? だれそれ。おいしいの?
まだ灰色から復活していないその人物の背中は、なんとも哀愁漂うものだった。
俺は、時間をかけてゆっくりと自分の気持ちの整理をしようと思った。
「時間が解決してくれる」って、誰が言い出したのかわからないけれど、そうなのかもしれないって思った。

 


ところがどっこい。

 


なんていう古臭い台詞の一つでも言いたくなるような事態に陥ってしまった。
午後一発目の授業が「生物」だった事で、俺は何か大事な事を忘れてやしないかと記憶を辿った。
何か、そう。
なにか、大切な事を見落としている気がする。
そりゃもう、すごく大切な何かを。
おそるおそる、生物の教科書の裏面を確認する。そこには高確率で名前を書く欄があるはずだ。
ほら、小学生の頃親からよく言われただろ? 自分の持ち物にはちゃんと名前を書きなさい! ってな。
俺もお袋から口酸っぱく言われたさ。だから、自分の持ち物にもちゃんと名前を書いてる。妹にもそう言ってるぞ。
だからそこにはちゃんと俺の名前が記してあるはずだ。 
恐る恐る教科書の裏面を確認する、そこには。
そこには、ちゃんと。
俺じゃなくて綺麗な明朝体で「長門有希」と、長門の名前が記してあった。
眩暈がした。
意識を手放しそうになったが、なんとかこらえる。
がんばれ。
がんばれ、俺。
日本代表のサポーターが全て応援してくれるというポジティブな妄想を描きながら、なんとか踏ん張った。
俺は机の上に両肘を付いて、頭を抱えた。
そういえば長門って上履きにも、ちゃんと名前書いてるんだよな。教科書にも、ほらこうして名前が。
いつぞやの朝倉との一戦の事が思い出される。思い出してゾっとした。
いや、ゾっとした原因はたぶん別のところだけど。

 


「本日の主役」という襷が、いつのまにか俺の肩にかかっているのに気がついたのは、ずっと後のことになる。
谷口からそれを強奪したハルヒが、俺をからかおうと掛けたものらしいが、正直いつ掛けたのか、いつからかかっていたのか、俺はそれに気がつかなかった。
普通は気づいとくべきなんだよ、そこで。ハルヒもそれを望んでいるんだろ? いや、望んでいないのか?
閑話休題。長門に昨日借りたものを、まだ返してなかった。
俺は自分の浅はかさを憂いた。
「明日返せばいいか」と、その時は気楽に考えていたからである。
まぁ確かに、五組である俺と六組である長門との物理的距離はそれほど離れているわけではあるまい。
しかし、タイミングが悪い。
なんとなく今はマズイ気がする。
それは宇宙的、未来的、超能力的に言う「マズイ」とはまた違った意味合いで。
俺は今、長門を目にしたら平常心を保てる自信が無い。
でも、返さなくてはいけない。
なぜって? この生物の授業、次は六組だから。
長門には何回か教科書を借りている関係で、六組の時間割というのをコピーさせてもらったのだ。
それを見ればいつまでに返せばいいか一発でわかる。というか、授業終わったらすぐ返せばいい話なのだが……。
移動教室とかの関係で、どうしてもそれができない時もあるとかで、長門が用意してくれたものだった
ありがとう、長門。
役に立ったよ、この時間割。
これで間違いなく次の時間、長門の元へと向かわなければならない。
心拍数が上がる。
まだ俺の中で答えが出せたわけではない。
だったら、中途半端な事を言うわけにもいかない。
と、とにかく。
教科書を返そう。
これがなかったら、長門は困るだろうし。

 


その日の生物の授業、珍しく寝ずに起きていた俺を見て教師は驚いていた。
「キョンも、とうとう真面目に授業を受ける気になってくれたのか」
涙ちょちょぎれだった。その時俺は気がついていないが、彼なりに「本日の主役」という襷に込められた意味を積極的に理解してくれている様子だった。
ただ俺は、ドキドキして眠っている場合じゃないだけなのだが。
そんな様子を見た教師は改心と取ったのか、なぜか勝手に喜んでいる。勘違いって恐いと思った。
相変わらず授業は呪文にしか聞こえないし。リボソームだのバクテリアだの、メタミドホスだの、マクロファージだの。
俺にはわからん、あほじゃけえ。

 

 

生物、か。
そういえば、ハルヒに聞いた話だが。
マクロファージってのは宇宙から来たという説があるらしい。
なんでも本来地球の生命体としてはありえない構造をしているからだそうで、古代の隕石に乗ってやってきたのが人体に住み着いているとか何とか、そういう仮説があるそうだ。
それならば誰しもが地球外生命体を体内で飼っている事になるのだが。
現時点で、詳しい真相はまだ闇の中らしい。それをあの大きな目をキラキラ輝かせて語ってくれた。
正直、俺にとってそれは生物の授業よりも興味深いもんだった。今でも覚えているのがその証拠だ。

 


ほんっと、ハルヒと一緒に居ると飽きないよ。
飽きない……、よな。
最初こそ、なんて奴だ! なんて思ったけどさ。
いや、今でも思ってるけどさ。
ちょっと発想が突拍子なくて、行動力がありあまってるっていう点を除けば普通の女の子なんだよ。
俺はそんなハルヒに感謝してる。
ハルヒに関わったせいで、何回か三途の川を渡りそうになったり、世界が変わっちまうような事件に巻き込まれたりしたが。
ソレラは今となってはいい思い出だ。

 


SOS団。
世界を大いに盛り上げる為の涼宮ハルヒの団。
なんてネーミングセンスだと最初に思ったが、まさかハルヒにジョン・スミスとしてヒントを与えたのが俺とはね。
ほんと、世界ってのはよくできてるよ。
よく、回ってる。

朝比奈さんが未来の為に奔走する理由も、最近になってだいたいわかってきた。
俺の知らないところでも、俺の知っているところでも。
ハルヒに関わったおかげで、俺は今こうして毎日を退屈せずに過ごせている。
たとえ喫茶店の支払いが全部俺になろうが、構いやしないね。いや、実際かなりの痛手だけどさ。
俺の世界は、大いに盛り上がってる。
古泉や、朝比奈さん。それから、長門に出会えた。
宇宙人や未来人、超能力者。俺が一度は否定した存在が、いっぺんに現れた。
そりゃあ、最初は疑ってかかったさ。
当たり前だろ? 私は宇宙人です。っていわれて、はいそうですかと信じるやつ、間違いなくマルチ商法とかにひっかかるぞ。気をつけろよ。

で、まあ。
色々あって三人は三者三様に律儀に自分が宇宙人、未来人、もしくは超能力者だという証拠を見せてくれたわけで。
俺は割りとあっさりその事実を受け入れたわけだ。
人間の環境適応能力ってのは、割合高いんじゃないかと思う。なにせ、あの恐竜が絶滅した氷河期を生き残ったくらいだ。

 


ここは、いつかの俺が望んでいた世界なのだろうか。
少なくとも、宇宙人? 未来人? 超能力者? そんなの居るわけないだろ、って考えていた頃の自分からしたら考えられないだろうな。
もし俺があの時ハルヒに話しかけなかったら? 髪型の変化に気がつかなかったら?
今この自分は存在しないのかもしれない。
ニヤケ顔の超能力者にも、可愛い未来人にも、文芸部員の宇宙人にも出会えなかったのかもしれない。
俺は、ハルヒに感謝した。
口には出せないから、心の中で。
ありがとう、ハルヒ、と。

 


キーンコーンカーンコーン。
キーンコーンカーンコーン。
キーンコーンカーンコーン。
キーンコーンカーンコーン。

 

 

オーソドックスなチャイム、授業の終了を告げるチャイムが鳴る。
だが、俺にとってそれは始まりを告げるチャイムだった。
「さて、行くか」
長門に教科書を返しに、隣のクラスまで。
距離にすれば十メートルも無いだろう。
だが、なぜか俺にはそれがマラソンコースよりも長く感じる。
気のせいかもしれない。
ぶんぶんと頭を振る。
谷口がこっちを見てニヤニヤしている。
ええい無視だ無視。

 


意を決し、俺は立ち上がった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 

綺麗な明朝体で「長門有希」と書かれた教科書を右手に俺は教室を出た。
断固たる決意を持って、諦めたらそこで試合終了だ。
安西先生……、俺はやります! 安西って誰だっけ? そんな簡単な答えすら、思い出せなくて。
どうにかこうにか。その場所にたどり着いて、適当に入り口付近に居た女子に用件を短く簡潔に伝える、長門を呼んでくれって。長門じゃない女の子だったら、こうも簡単に話す事ができるのに。
別にこれが初めて! という事じゃないのに、無駄にドキドキしている俺、ああ情けない。
自分のクラスの方から、なにやら意味ありげな視線を感じたが無視だムシ。
わかったーと言い残して、女子は長門を呼びに小走りで向かってくれた。ありがとう。
長門っ、早く……、はやくきてくれ。
教科書を持つ手に自然と力が入る。
今なら素手で林檎を潰せそうだ、実際やれと言われたら無理だとは思うけれど。
しばらくして、長門が廊下に現れた。
随分と長い時間だったと思った。
死刑をひたすらに待ち続ける死刑囚のような気持ち……、例えるならこれだ。例えが悪い気がするが、あながち間違いではないと思う。
「こ、これありがとうな! 長門っ……」
俺は両手で教科書を差し出した。目線は明後日の方向に向いている。
なんか声でかくなっちまった。しかも裏返ってるし。
しかし、長門はそんな俺を気にした様子も無く、眼前に差し出した生物の教科書を受け取るとそそくさと教室へと戻っていった。
あまりに、普通すぎた。いや、それはそれで良かったのだが。どちらかというと、今はそういう反応の方がいつもの長門らしくて嬉しかった。
でも、あれ? なんか拍子抜けしちまった。

「なにが抜けたの?」
うわっ! な、長門さん? 教室に戻られたのでは……。
「資料集」
短く呟いて長門はロッカーを指差した。
あぁ、なるほどね。
俺が邪魔で取れないからどけって事なんだろう、すまんな。
俺は軽くジャンプしてその場から飛び退いた。
って、明らかに不自然だろ。だめだっ、しっかりしろ、俺。
本人を目の前にしちまうとどうもさっきまで考えていた事がどっかに飛んでいってしまう。
断固たる決意はどこへやら、だ。
谷口はアテにならなかったが。国木田先生曰く、俺は俺なりの答えを見つけろという事だった。
だが、一時間やそこらで見つかるような答えならとっくに見つけているさ。
昨日告白された時、即答できないような俺だしな。優柔不断もここまでくるとひどいもんだ。
俺は、長門に。迷惑かけっぱなしだな……。
ふと目線を戻すと、液体窒素の様な目が俺を見つめていた。瞬間、自分と長門以外の時間が止まった様な錯覚に襲われる。
カチカチと、隣のクラスの時計の音が聞こえたような気がした。

 


何回か視線を上下させて、長門は、その手を俺の右肩に乗せた。反対の手ではしっかりと生物の資料集を抱えている。
もう、わけがわからない。
説明できる奴がいたら、いますぐここに来てくれ。交通費くらいは支給してやるさ。
長門の小さい手が俺の肩に触れた瞬間、自分の心臓の音が一際大きくなったのがわかった。
服の上からなのでわからないが、なぜか長門の手が触れたそこだけ、ひんやりとした感覚があった。
ひんやりとしていて、だけども、なぜか暖かい。
不思議な感覚だ。
視線を泳がせた先には国木田と谷口が居た。
谷口がニヤニヤと、間違いなく今世紀最大級くらいのニヤニヤスマイルでこちらを見ている。
国木田からは「ちょっと、見すぎだよ谷口」などと釘を刺す声が聞こえる。
長門の部屋で見たエジプトの土産品らしき謎のオブジェと谷口の姿がダブる。ちっくしょう、あとで覚えてろよ谷口。
とにかく、俺は足から根が生えたんじゃないかと思うくらいに、動けなった。
ひょっとして長門が何か宇宙的なパワーを使っているのではないかと思ったけど、どうも違う様子で。

 


目と目が合う。
あ、あの、長門さん? 
「……、大丈夫」
大丈夫?
何が大丈夫? 大きい頑丈な夫、略して大丈夫。
つまり、早く夫になれと。いやいや、違うだろ。落ち着け俺……。
長門だっていつもと違う様子の俺を落ち着かせようとしてくれたに違いない。
でも、長門は大丈夫と呟いて、黙ってしまった。
長門は俯いて、下を向いた。その肩は細かく震えている様に見える。
それきり沈黙がやってきた。
廊下なので、周りの生徒の視線がチクチクと刺さっているのを感じる。
もうだめ、死にそう。

いま、俺のマジックポイントは確実にゼロに近づいている。 
俺はなんだか沈黙に耐えられなくなって、その場に長門を残して踵を返した。
教室へ逃げ込んで机に突っ伏した。
だめだ俺、なんてヘタレなんだ。
谷口が終始ニヤニヤしてこちらを見ていたが無視した。
ハルヒはどっか行ってた。
もうだめ、死ぬ。
マジックポイントどころか、ヒットポイントさえもゼロに近づいてそうだ。

 

 

そんな事もあり。
次の時間、古泉のクラスは数学だというのに、古泉に数学Aの教科書を返すのをスッキリサッパリ忘れていたわけなのだが。
それはまた別の話だ。
その後の授業の内容? まったく記憶にございません。
どこかの政治家の言い訳みたいだな……。

 


放課後。
「キョーン」
谷口がニヤニヤしていた。古泉のソレよりも、もっとずっと。
肩をつかまれる、逃がさないってか。逃げねえよ。
「あんだよ」
いつの間にか谷口は灰色から復活し、再び「本日の主役」という襷をかけていた。
そういえばさっきまでその襷はどこにあったんだ? 
「見~て~た~ぞ~。で、さっき何話してたんだよ? 教えろよキョン」
「何って。ただ、教科書ありがとうなって言っただけだよ」
本当にそれだけなのだ。
あとは大丈夫と呟かれたくらいで。
「嘘だね。長門がお前の肩に手を回した時のあの顔、俺は忘れねぇぜ!」
キラキラと谷口の顔が輝いている。
どうしてこいつは他人の恋愛の話となるとこうも元気が出るんだろうね。
手を回したって、こうポン、とだな。肩に手を置いただけじゃないか。
「びっくりたよキョン、ここ学校なのにそのままキスしちゃうんじゃないかと思ったよ」
キキキキキスってな、おおおおおおおおおい国木田っ!
お前まで何を言い出すんだよっ。

「そんな事したら俺が校長だったら停学……、いや。退学させてやるぜ! 校外追放だ! 二度とうちの敷居を跨ぐなってな」
谷口はその拳を強く握り締めた。お前が校長になったら恋愛禁止令でも出すつもりか。
生類憐みの令なんていうのを作った綱吉のソレは天下の悪法なんて言われてるらしいが、谷口のソレは何て呼ばれるのかね。
今時そんな高校があったら色々な人権団体から抗議の電話が鳴り止まないだろうよ。
「まぁ。とにかく、俺の見立てじゃもう長門はお前にゾッコンだな。もう間違いねえよ」
谷口の見立てというのが不安で不安で仕方ないのだが。
「でも長門さん、何か様子がおかしかったよね。泣いてたのかな?」
泣いていた?
長門が?
「だって、ずっと下を向いてたよね?」
……た、たしかに。
国木田の冷静な分析により、俺はぼんやりとだが先程までの光景を思い出す事に成功した。
俯いた長門の小さなその肩は、確かに震えていた。
「おいおい、キョン。女の子を泣かせるなんておまえ最低っだな~」
うるさい、谷口に最低と言われたら末代までの恥だ。
ともかく。
泣いていたのなら。
泣かせてしまったのは……、俺か?

「キョン、長門さんに何て言ったの?」
「何って、俺は本当に何も言って無いんだ。長門を傷つけるような事は何も言ってない」
「案外それがだめなんじゃねえか?」
谷口がいつになく饒舌になった。
「それって、何がだよ?」
精一杯反論してみたが、俺のせいという事は間違いなさそうなので強くは言えなかった。
「だから、何も言ってないってのが問題なのさ。考えてもみろよ、自分が告白した相手がわざわざ自分に教科書を返しにきてくれたんだぜ? 普通何かしら言葉をかけてくれるって期待するもんだぜ? それがなーんにもなかったってんだからよ。ショック受けたんじゃねぇか? だから泣いたんじゃねえか?」
谷口の言っていることは谷口としては珍しく、至極もっともなものだった。
俺が何も言わないで、可も不可も無い様な曖昧な態度のままでいたから。
長門は……。
「ちょっと。谷口、言いすぎだよ。それに、そうと決まったわけじゃないだろ?」
国木田が庇ってくれたが、俺はそれを制止して。
「いや、国木田。いいんだ」
泣かせてしまったという事実は、変えられないのだから。
「キョンも罪な男だなあ、ったく。あぁあ、俺はいつ幸せになれるのかなー?WAWAWA」
腕組をして誰かの物真似をしながら谷口は言った。
俺はどうするべきなのだろうか。
答えは、もう。
在るのに。
俺はその可能性を、見て見ぬフリをしていたんだ。


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