1

 見知らぬアナルの話を聞くのが猛烈に好きだった。
 ある時の俺は大学生であり、適度に遊び、適当に酒を飲み、セックスをし、音楽を聴いた。
「どうにも合わないな」
 マジカル・ミステリー・ツアーのCDを止めた俺は嘆息し、窓の外を見た。ちょうど昼前で、曇り空に太陽が輪郭を曖昧にした光をぼんやりと放っていた。
 俺はシステム・キッチンに出向き、昼食にコーヒーを淹れ、BLTサンドとポテト・サラダを作った。テレビをつけると、ちょうどアナウンサーがベルリンの壁跡地から歴史にまつわる薀蓄を披露しているところだった。
「やれやれ」
 俺は不意に古泉のことを思いだした。古泉一樹は高校時代の友人であり、ガチホモだった。奴は高校の男子をあまねく掘りつくし、俺も掘られかけ、何回かは実際に掘られた。
 思い出せる限りカウントすれば、奴は315人の男子を掘り、俺を158回掘ろうとし、そして実際に32回掘った。
 今頃奴は何をしているのだろう。卒業と同時に海外に渡ったと聞いたが、それがどこなのかまでは聞かなかった。あいつならこのニュース画面に映っていてもおかしくない。

       *

 猫について話す。
 シャミセンという名の猫を飼っていたことがある。シャミセンは稀有なオスの三毛猫であり、高校時代の奇矯な部活動のおかげで当時の俺が飼うことになった。
 シャミセンは日に二度我が家で飯を食べ、秋の一時期人の言葉を喋った。彼は延々言語の不完全性について講釈をたれ、その期間俺は人の話を聞くことに対し軽くノイローゼになった。
 しかし、冬が来る頃シャミセンはぱったりと喋るのをやめた。以来一度も人間と話したことはなかった。さらにシャミセンは俺が高校を出ると同時に行方をくらまし、以来一度も家に帰ってこなかった。

       *

 七年間、ということを思う時、俺はいつも営業課長の言葉を思い出す。
「七年間は長すぎる。それはいくら年を取っていても変わらない」
 そうだろうか。そうなのかもしれない。しかし当時二十五だった俺には解らない話だった。今ならどうかと言えば。やはりまだ確信は持てない。
 時間の感覚は確かに速くなり続けていた。高校時代、先輩の朝比奈さんに聞いたところによれば、人間の体感時間の加速こそが、タイム・トラベルを実現するための大きな一歩であったらしい。
 やれやれ。
 確かに時間の流れは速い。三輪車を漕いでいたのが、やがて自転車になり、バイクになり、自動車になる。あるいはそれは気がつけば新幹線になっているのかもしれないし、ジャンボ・ジェットになっているかもしれない。
 人の体感時間が加速する理由は、記憶の蓄積にあると誰かが言った。ならば記憶喪失になれば子供時代に戻れるだろうか。
 そう古泉に話すと奴は、
「三秒であなたをいかせる自信があります」
 と述べたので、俺は首を振った。やれやれ。

 この世のあらゆる問いは形而上学的なものであるかもしれない。
 例えばケツの穴が空間であるか存在であるかというのは、まさしく形而上学的な問いに過ぎず、議論するだけ無駄というものだ。それぞれに解釈があればいい。
「そうね。あなたが今まで何回不倫したのかということと同義だわ」
 妹はある時突然そんなことを言った。俺は大いに当惑したが、そんなこともあるだろうとしまいには自分を納得させた。そうせざるをえなかった。
 妹は大学に入ると同時に三足跳びの急成長を見せ、その頃にはもはや昔の面影はどこにもなかった。俺に対する呼称はお兄ちゃんからキョンくん、最後に「あなた」になった。まるで夫婦みたいだな、と言ったら、
「すべての物事は変わっていくの。そしてそれは止められないわ」
 その通りだと思う。そうでなければならない。


       2

 スプートニクの変人

 2歳の春にいつきは初めて恋に落ちた。深遠なアナルをどこまでも深く掘り進むイチモツのような激しい恋だった。
 それは行く手のおとこどもを跡形もなく掘りつくし、片端から絶頂に押し上げ、理不尽に引き戻し、完膚なきまでにやりつくした。
 そして勢いをひとつまみも緩めることなく海洋を渡り、ストーンヘンジをどたんばたんひっ倒し、ペルシャ湾を気の毒なイルカごとついでに掘って、アラスカのオーロラとなってどこかのエキゾチックな針葉樹林をまるごとひとつ同性愛者にしてしまった。
 見事に記念碑的なゲイだった。
 恋に落ちた相手はいつきより42歳年上で、独身だった。さらにつけ加えるなら、おとこだった。もっとつけ加えるなら、ダンディだった。
 それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほも)すべてのものごとが終わった場所だった。

       *

 という話を転校してきた古泉に聞かされた時、俺はとうとう自分の頭がおかしくなったと思った。
 あまりの衝撃にそこらにあった中庭の丸イスを手当たり次第になぎ倒し、冷めたコーヒーを飲み干し、頭をかきむしって今のをなかったことにした。
「お察しの通り、ガチホモです」
 しかし現実は目の前にあった。依然として横臥していた。
 それが俺と古泉一樹の出会いだった。

 七年間、ということを俺は思った。
 七年間、あらゆる物事が俺の前を通りすぎて行った。それは入れ替わるバーの客のように、あるいは回転ドアを行き来する人々のように、常に絶えることなく俺の前に現れ、通過し、去っていった。
 そのなかには宇宙人や未来人や超能力者が含まれていたこともあった。
 あるいはごく普通のサラリーマンだったり、主婦だったり、OLだったり、果てはツナギを着た男性だったりした。

 家に帰ると、今朝のテレビがつけっぱなしになっていた。
 ニュースはパレスチナ自治区の情勢を緊迫感とともに伝えていた。さすがにそこに古泉はいないだろう、と俺は思った。

「ある日突然、僕は自分の性癖と力に気づいたんです」
 それが奴の告白だった。そして俺は三秒後にヴァージンを喪失した。

 俺はテレビを切ると、ボンゴレ・スパゲティを作るべくキッチンへ出向いた。
 その前にCDラックからスガシカオのSMILEを取り出してかけた。
「ねえ、明日――」
 ハルヒがいつかそんなことを言っていた気がする。
 しかし今俺のところに彼女はいない。高校時代の友人は誰一人近くにいない。
 それらはすべて過去の出来事として記憶の中に沈み、遠くへ去っていった。

 しかしながら俺は思うのだ。
 あいつらは今何をしているのだろうか、と。


       3

 図書館奇男

 図書館はとてもしんとしていた。本が音を全部吸い取ってしまうのだ。
 俺は長門有希と待ち合わせをしていたのだが、宇宙人の同級生は時間になれど現れない。
 変わりに変なおとこが現れた。
「お前の探し物はこっちにあるぜ」
 男は言った。男には顔がないように思われた。いや、あるのだが、顔を構成するパーツのひとつひとつ――目、鼻、口、耳といったそれぞれが、ひどくいびつなのだ。

 長門がいるのだろうか、と思った俺はおとこについて行った。
「ちょうどいいのが入ったところなんだよ」
 おとこはそう言った。よく考えればおかしな話だったものの、俺は別段不思議に思わなかった。
 おとこは図書館の地下へと俺を導いた。ほんの数分のうちに、くねくね曲がった道やら階段、T字路などをひたすらに進んで、図書館にいるという実感はどこかへ吹きとんだ。
 どう考えても普通の市立図書館にこんな地下道があるはずがない。俺はようやく男に質問した。
「本当にこっちに俺の探し物があるのか?」
 おとこは笑っただけだった。

 俺は地下に閉じ込められた。そこは牢屋のような場所だった。
「ここでお前はアナルをくにゃくにゃ掘られるんだ」
 おとこは俺を閉じ込めてそう言った。俺はだまされたのだ。
 十日ののち、俺はアナルをくにゃくにゃ掘られるのだという。これでは幽閉だ。今ごろ長門有希はどうしているだろう。俺が失踪したことに気づくだろうか。
 そうして七日が経過した。光を見ていた日々が、もうずっと遠くのどこか、触れられない場所にあるように思われた。
 
〈お困りのようですね〉
 聞き覚えのある声、というよりはささやきが記憶の片隅からよみがえった。それは古泉のものだった。
〈こう見えて僕は超能力者ですから、こんな場所からあなたを連れ出すことくらい造作もありません。もちろん代償として一掘りいただきますが〉
「断る」
〈相変わらずあなたも頑固なお人だ。ですが考えてみてください。僕と、あの見知らぬおとこ、どちらかに掘られるとすれば、どちらが得策か〉
「長門が俺を助けてくれるはずだ」
〈彼女は来ませんよ。なぜなら僕が――〉
「何してやがるんだ」
 おとこが鉄格子の向こうから現れた。今やおとこは筋骨隆々という姿をしていた。
〈おや。しょうがありませんね〉

 結局、俺は古泉に一掘りやられることで外に出た。
 図書館の人に訊くと、たくましいおとこも、薄暗い地下室もどこにもないと言う。古泉もどこかへ行ってしまった。
 長門有希も図書館で待ち合わせた覚えなどないと俺に告げた。何もかも俺の勘違いだったのかもしれない。


       4

 ハルヒと海に行った。
 休日の朝、突然電話がかかってきて、
「今から支度して。いいえ、しなくていいから早く来て」
 その三十分後に我々はバスに乗っていた。

 高校生活も終わりに近づいていた。
 朝比奈先輩は未来へ帰り、長門有希は宇宙へ戻り、古泉一樹は卒業を待たずに海外へ飛んだ。後には俺とハルヒしか残らなかった。
 初春のやわらかい陽光がバスの窓から照らしていた。車内にはほんの二、三人しか人がいない。
「すべては過ぎさってしまったのね」
 ハルヒが言った。まったくその通りだと俺は思った。

 海は晴天の下でどこまでも続いていた。地球が丸いため、やむなく便宜的に空と境界線を設けているにすぎないといった風情だった。
 我々の街から南へ下れば、歩きでも海には出られる。しかしハルヒはバスに乗って北へ向かった。そしてここへ到着した。
「えいっ」
 ハルヒは浜辺に転がっていた鋭角な石ころを力いっぱい投げた。豪速球となった石ころは、一度も水を切ることなく沈んだ。水面から高く飛沫が上がった。
「ああもう、おしいわね」
 ハルヒはそれから何度か石ころを投てきし、そのすべてが水を切ることなく海中に沈んでいった。
 途中、どこかの漁船が挨拶するように汽笛を鳴らした。それは長く、遠くまで響いた。どこかの岬に灯台があれば、きっとそこまで届いていただろうと思う。
「えいっ。ああもう、どうして跳ねないのかしら。えいっ」
 俺はほとんど何も言わずに、ハルヒが石ころを放つ様子を眺めていた。その間、高校入学からしばらくのうちにあった様々な出来事が、断片的なピースのように記憶の水面に浮き上がった。
 時に俺たちは雪山にいた。あるいは夏の日射しが照らす孤島にいた。
 あるいは高校の文化祭でバンド演奏を俺が聴いていた。生徒会とひと悶着あった。新入生を歓待した。団員全員で映画を撮った。
 それらはみな、二度と戻ることのない時間の彼方へと去っていくのだ。そう思った。もしかしたら、ハルヒも同じ事を思っていたかもしれない。
「キョン、飽きたわ。帰る」
「そうか」
 帰りのバスを待っている間、ハルヒは二分間だけ、俺の隣で泣いていた。

 高校を卒業した俺は大学へ進み、ハルヒとも疎遠になった。
 友人は街頭の広告のように一新され、俺は彼らと長くも短くもない時間を共にした。
 しかし、あの高校時代のような時間は、一瞬たりとも戻ってこなかった。
 俺は繰り返す毎日の節目節目で、文芸部室での何気ない会話や、風景を思い出した。

 いくら思い出しても、やはりそれは戻ってこなかった。 


       5

 記憶を遡ることで得られる映像は、中学生時代のものが最古だ。
 それも中学三年より昔のことはほとんど思い出せない。幼少期の記憶といえば、年上の従姉妹が、記号化された断片のように頭の片隅に残っているだけである。

 まあそれはいい。肝心なのは中学三年の頃の記憶だ。
 そこには佐々木という名の女子が出てくる。自分のことを「僕」と呼ぶ、少し風変わりな女の子である。
 しかし当時の俺は彼女のことをそこまで実際的に――現実的に、と言い換えてもいい――風変わりだとは思っていなかった。
 大抵の場合、そうした観念は時間の経過による認識の変化とともに、ある程度の客観性を持って思い返すことができる。

「キョン。君は何を持ってして『今自分がここにいること』を把握しているかな?」
 哲学的な問答だった。佐々木はこのような問いかけをほとんど日常の些事同然に投げかける少女だった。
 彼女は休み時間にヘーゲルとカントを読み、そうかと思えば自然科学にまつわる諸々の学説をそらんじ、不意に自由恋愛に関して一石を投じるような懐疑論を唱えた。
 おかげで(と言うべきだろう)、俺の知識はこの時期を境にひどく偏狭なものになり、自我形成に少なからぬ影響を及ぼした。少なくとも今はそう思っている。
「そんなもの解らない。今こうして話していることが理由じゃないか」
「『我思う、ゆえに我あり』か。ふむ」
 そう言って佐々木はまるまる十分思索にふけり、そのあともう十分かけて考察結果を俺に披歴するのだった。

 また、先にも述べたように彼女はジェンダーによる恋愛というものをまるごとすべて放てきし否定した。
 佐々木は理性によりすべてを自制しているようであった。しかし、その反面彼女はひどく蠱惑的な少女でもあった。
 まず顔立ちが麗容であった。同世代の女子より大人びている。鼻梁はすっと通り、大きな瞳は長い睫毛に縁取られて輝いていた。
 特に唇がつややかであり、当時の俺は三秒以上彼女の口元を見ることを危険なものだと自警していた。
 佐々木が自分の考えを述べる際、微細に動く彼女の唇を奪う妄想が、何度か俺の頭を駆け抜けた。
 ちょっとした仕草にも彼女のあてやかさは見て取れた。いや、感じ取れたと言うべきだろうか。そこには何か官能的な含みのようなものがあった。

 もちろん彼女は意識していなかっただろうし、当時の俺もそれが何から来るものか解っていなかった。
 彼女が指先を顎に当てる時、あるいは人差し指をすっと立てたり、人に握手を求める際、目に見えない光のようなものが発せられていた。
 あいにくそう呼ぶほかない。それは俺の内奥にある、こそばゆい箇所をくすぐるような危うさを伴っていた。
 普段はまっすぐ延びている繊維の先が、ふとした拍子に曲がり、それが抗しがたい力によって次第に歪められていき、しまいには帰ってこられない、そんなイメージがあった。
 佐々木は中学三年としては平均か、やや小さいくらいの胸のふくらみを有していたが、俺はそれを頭の中で「存在しないもの」として扱わねばならなかった。
 さもなければ、当時の我々の間に友情は成立しなかっただろうし、俺が今ここにいることもなかっただろうと思う。

 佐々木とは高校の時点で別々になったが、高二の初めに再会した。
 彼女は一年の間に、自らの持つ目に見えない輝きを、意識か、あるいは無意識によって調節できるようになっていたようだ。
 再会してすぐ、俺は佐々木の外見に対して「ごくまれにいる美人」という認識にしか至らなかったからである。
 しかし、今にして思えば、彼女は明らかに中学三年次に持っていた己が特性を扱い、隠していた。
 回想のなかでだけ、俺は佐々木に告白する場面と、その先にある未来を描いた。それはまったくもって無意味な想像だった。 



       6

 橘京子に呼び出されたのは、冷え込む高二の秋の夜だった。
 古くからある探偵小説に出てくる街並みのように、秋雨で辺りは霞みがかり、まばらに通る人のシルエットは街頭に薄くぼやけた。
 俺は最近購入したダッフル・コートを着込み、他校の元超能力者の女を待った。
「お待たせしました。行きましょう」
 まったくの突然に彼女は現れた。
 橘京子という女は平素から笑みを絶やさぬ人物であったが、この時は表情と呼べるものをほとんど浮かべていなかった。
 我々は雨に煙る街を連れ立って歩き、レイト・ショウをやっている映画館に入った。

 映画館は時代の感覚を希薄にするつくりをしていた。
 入り口は歴史を感じさせる赤レンガと、深緑色の小さなアーケード。扉は黒に近い茶。取っ手のメッキは剥げかかっていた。
 中に入ると、昭和初期の社交界を思わせる瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいのロビー・ホールがあった。カーペットはワイン・レッド。
 そこはとても小さな空間だった。ことさらに印象的だったのは、俺と橘京子以外に誰もいなかったことだ。
「チケットを二枚」
 高校生が入場するはずはないので、当然大人料金である。深夜割引を含めてもやや高い。
 チケットカウンターには木造の遮蔽壁のようなものがあり、小窓の向こうには黒い闇があった。橘京子が代金を置くと、それはふっと向こうに消え、代わりにチケット二枚が出現した。

 上映はすでに開始されている。我々は二つあるシアターの一つに入った。客は三名ほどいたが、誰も映画を見ていないようだった。
 暗い空間に、青い、焦点の定まらない光がぼんやりと照り、それがまた俺の感覚を蒙昧(もうまい)なものにした。
 俺と橘京子は中央端の席に座った。後列の反対側から、カップルの押し殺したような嬌声が聞こえたように思った。しかし俺はそれを確認しなかった。
 もう一人の客である中年男性は、我々の一列前、中ほどの席で画面に見入っていた。
 しかし、彼の視線は映画というより、その向こうにある何かに当てられていた。男性は生気に乏しく、この世の存在ではないようにも見えた。

 席に落ち着いた俺と橘京子は、三十分ほど映画鑑賞にふけった。
 モノクロのフィルムは、どういうわけかやはり青みがかっていた。音声はところどころ穴が開き、焦がしたようなノイズが時折混ざった。
 欧州のどこかで、男女が恋愛に落ちていく様が描かれていた。街はパリであったかもしれないし、ロンドンだったかもしれない。正確には思い出せない。
「すべては終わりました」
 橘京子は、不意にそんなことを言った。
 そうか、と俺は思った。すべては終わったのだ。
「日常がやってきます。あたしたちはそこへ戻っていきます」
 青い光が一段と強くなったようだった。スクリーンは光の強さでほとんど直視できなくなり、周囲にいたカップルと中年男性の気配はどこかへ消失した。
「さよなら」
 確かに、彼女はそう言った。そして、どこかへ消えた。

 俺が橘京子に会うことは、それから何年もなかった。 


       7

 仕事が終わって帰宅すると、長らく置物となっていた自宅の電話が鳴った。
「もしもし」
『もしもし』
 俺は突如強烈な既視感を覚えた。眩暈(げんうん)感にとらわれ、立っているのがやっとだった。俺は額をおさえ、吹き出す汗を拭った。
『お久しぶりです。頃合いだと思ったのでね。電話させていただきました』
 古泉一樹だった。記憶している高校時代の声とまったく変わらなかった。
「何の用だ」
『おや、七年ぶりなのにその挨拶はあんまりですね。これでも苦労したんですよ、ここまで来るのに』
 どこにいるというのだろう。
『残念ですが、それを伝えるわけにはいきません。情報が漏洩した結果、僕の命が危機に晒されるということもありうるのですよ』
 特別危急を告げる口調でもなかった。
「元気か」
 何とか考えて出た言葉がそれだった。俺のほうは元気とは言えない。
『ええまあ。おかげさまで刺激的な毎日を送っていますよ。あの――』
 ノイズが入った。何も放送していない帯域にラジオの周波数を合わせたようなノイズだった。
『失礼。とにかく元気です。今月に入ってから、すでにおとこを180人ほど掘りました』
 俺は薄暗い室内にかかるカレンダーの日付を、目を凝らして確認した。七月の三日だった。
 やれやれ。
『高校時代と比べてどちらが魅力ある生活かといえば、どうでしょうね。主観としてはこちらでしょうか』
 古泉は聞いてもいないことをべらべら話し始めた。俺は床にあぐらをかいて座り、持ち帰った仕事の資料に目を通し始めた。
『ああそうだ、すずみ――』
 またノイズが入る。今度は先刻よりも強かった。まったく何も聞こえない。
『なんです。お解りですか?』
「すまない。聞こえなかった」
『――――』
 またノイズが入る。これでは通話にならない。
『というわけです。彼女はまだどこかにいるのですよ』
 「彼女」が誰のことを指すのか解らない。
『おや、もうこんな時間ですか。失礼ですがまたいつか。ええ、きっと』
「そうか。何事もほどほどにしとけよ」
『はは。解ってますよ』
 ノイズが発生した。三度止むころには、電話が切れていた。

 「彼女」というのは恐らくハルヒのことだろう、と俺は思った。二年前に失踪したハルヒの。


       8

 圧倒的なまでの夏が、俺の周囲にあるすべてだった。
 蛙鳴蝉噪という四字熟語の元になるかのように、セミの鳴き声が反響していた。
 大気はむっとするほどに湿気を帯びて、半袖ワイシャツ一枚でも暑すぎるほどだった。
 空はたいへんに晴れ渡っていて、遠くに幻の城のように入道雲が立ち込めていた。
 やれやれ、という言葉では、何か決定的なものが欠けてしまうように思われた。それほど果てしない存在感とともに夏があった。
 バス停に降り立った俺は持参した地図を確認し、目指すべき方角を見定め、歩き出した。

 大学を出た俺は就職し、それから二年が経過していた。
 あらゆるものごとはよりいっそうの速度とともに後方へ去っていく。
 たとえば食べ残しのシナモン・ロール、二回ツケたままなおざりになった飲み会の勘定、貸したままになったラバー・ソウルのCD、約束をしたままついに再会しなかった女性など。
 その中には一般的な現実とはおよそかけ離れた存在――宇宙人や未来人や超能力など――もあった。

 一本の電話がかかってきたのは昨日の夜九時だった。
 坂本龍一の青猫のトルソを聴いていた俺は、CDプレイヤーの停止ボタンを押し、受話器を取った。
「もしもし」
『……涼宮ハルヒがいなくなった』
 何者かの声がした。しかし俺はそれが誰だか解らなかった。
『行方不明になった場所を言う。そこへ行って』
 端的に告げた声がここからほど遠い海辺の名を知らせた。俺は慌ててメモを取った。
『……』
 俺が何か思い出しかける頃、電話は切れた。
 いつだったか、二人で出かけた海とは様子が違った。
 そこはどこか西洋的な風情を持っていて、ここが日本であることをしばし忘却させた。
 高さのある断崖の縁には、真っ白な墓石が三つ並んでいた。それはやはり日本の様式ではないものだった。
「暑い」
 本当に暑い。地球の温暖化は七年前から進む一方だった。エントロピーの増大に同じくして、それは誰にも止められないのだ。

 岬に立って、俺は海洋を眺望した。
 ブルーとだけ呼ぶにはあまりにも短絡的な、折り重なった色相による水面がどこまでも続いていた。
 それは緑色にも、水色にも、紺色にも見えた。ラピスラズリ、群青、パーマネントグリーン。青から緑のあらゆる色を内包しているようだった。
 ワールズ・エンド――。
 世界の果てがこのような場所であったなら、それはどんなにか素敵なものかもしれない。そう思った。

 高二の秋、涼宮ハルヒはすべてを知覚した。
 もともと彼女はすべてを持っていたと言っても過言ではなかった。確かに彼女は万能であり、世界に偏在するあまねく総ての概念、場面、情景を知っているようですらあった。
「そうだったのね」
 すべてを知ったハルヒはそう言った。
「何となく、そう告げられる日をあたしは待っていたような気がするの」
 ハルヒの瞳は海の底を思わせた。しかしそれは底のない底であった。深遠のそのまた向こう。
「古泉くんもみくるちゃんも有希も、みんなあたしを見守っていてくれたのね」
「そうさ」
 それは素晴らしい日々だった。そこにはすべてがあった。
 時にカマドウマが現れ、壮年男性が死んだ振りをし、猫が殺されたことになり、先輩が誘拐され、世界が冬とともに一変し、時間を遡り、短冊に祈った。
 すべてはハルヒが俺に見せてくれた風景であった。
 そこには純粋理性批判もプロパガンダもトートロジーもマクロ経済も超ひも理論もファシズムもなく、ちっぽけな団がひとつだけあった。
「そして、みんな去っていった」
「そうだな」
 ハルヒは泣いてもいなければ笑ってもいなかった。俺はそれが終わりなのだと知り、始まりなのだと悟った。
「キョン。あなたが好きよ」
 ハルヒは俺が言葉を返す間もなく抱きつき、キスをした。
 俺はただハルヒを抱きしめて、もう一度キスを返した。
 それがすべての終わりだった。一年半に渡る物語の。

 俺はあらためて海を眺め、ハルヒのことを考えた。
 あいつはどこへ行ってしまったのだろう。新しい世界へ旅立ったのだろうか。
 それは生でも死でもない場所かもしれない。地球でもなければ太陽系でも銀河系でもなく、宇宙の外ですらないかもしれない。

 しかしハルヒはどこかにいるのだ。
 そして、必ず戻ってくる。
 俺はそう信じ、願い、祈っていた。
 そこにはなんの疑念も生じることはなく、あるいは永遠のようなものが存在していたかもしれない。

 俺はあるものを海に放った。
 それはあの頃、ハルヒがハルヒであったことの証だ。
 そこには油性マジックで団長と書かれている――。


       9

 また電話が鳴った。

 海に行った日から二年が経過し、俺は職場も住居も変わってしばらくした頃だった。
 懐かしいような気分で受話器を取った俺は、聞こえてくる声に耳をすませた。
『もしもし。キョンたんですか――』
 切った。
 ノー・グッドだ。リテイクをする必要がある。


       10

 電話が鳴った。
 俺は雑誌をガラステーブルに置き、ソファから立って受話器を取った。
『もしもし。キョン?』
 間違えようはずもない声が耳朶を打った。
 不思議なことに、その瞬間、生まれてから二十数年間の記憶がすべて、正しく、鮮明に思い出せる気がした。
 それは精微な彫刻のようであり、バロック様式の建築物のようであり、鉱脈を掘って得られる宝石のようであった。
「ああ。俺だ。ハルヒ、元気だったか?」
 クスッと笑う気配がして、
『ええ、もちろんよ。元気すぎて困っちゃうくらいよ。今すぐあなたに分けてあげたいわ。早速だけど団長命令、今すぐここに向かえにきて』
 俺は肩をすくめて、久しぶりの言葉を発した。
 やれやれ。
「いいけど、今どこにいるのさ」
『それがね、ちょっと解らないのよ。あたし、この数年の間にちょっと方向感覚とか、そういうのに疎くなっちゃったのよね。解る? この感じ』
「ああ。解るとも」
 しょうがない。
 俺は早速そばにあった財布を取り、ハンガーから薄手の上着を一枚ひっつかんだ。
『なるたけ早く来なさいよ。遅刻したらどうなるか解ってるでしょうね』
 もちろんだとも。

 俺は受話器を置くと上着をはおり、夏の下へ続く扉を開けた――。


 (おわり)

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最終更新:2009年06月22日 18:12