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Close Ties(クロース・タイズ)

番外編

 

Close Ties(クロース・タイズ)の少し後で
 
 
 
 小学校の頃に黄色いバケツを使った記憶は無いだろうか。絵の具の筆を洗う中が仕切られてるヤツだ。授業が終わる頃にはどんな律義な奴のバケツの水も「混沌」というタイトルをつけたくなるようなオブジェの如くまがまがしい色に染まっていただろう。
 その水と同じくらい山ほど複雑な事情が絡みに絡みまくってしまった結果、その、まあ、なんていうか、うむ、まあ、ハルヒの奴が俺の膝を枕にして寝ているのだ。
 いや、決して長門と古泉という初々しいカップルが初めて一線を越えるシーンを目撃しただけでってのはなんというか、ハルヒのプライドが許さんだろうから、そうではないという事にしてなくちゃならん。
 しかも目の周囲と鼻の頭を真っ赤に染めてな。俺の一張羅のジーパンはこいつの鼻水までついてかっぴかぴになっちまう事請け合いだ。どうしてくれるんだ団長さんよ。
 全く、俺もハルヒも私服でしかも休日だってのになんでまた学校の、しかも文芸部室なんぞいう場所にいなきゃならんのだ。
 まあ、ここしか人がいない場所なんてないからだが。
 電気ストーブの電源を入れ、熱いと感じるくらい近くに寄せてあるお蔭で凍えそうな寒さはなんとか凌げている。
 ハルヒは椅子に座れるような状態じゃなかった。殆ど千鳥足状態でここまで来た。
 仕方がないのでカエルスーツの胴体部分を床に敷き、そこに寝転がるようハルヒを促したのだが、こいつは俺のジーパンのポケットあたりをがっちり握りしめて離してくれやせん。仕方がないので俺は冷たい床に腰を下して、ハルヒには寝転がるように促した。
 で、ハルヒの頭はカエルの頭部を枕にさせようとしたんだ。誓ってそうしたんだよ俺は。
「お、おい、ハルヒ!」
「…うるさい」
 なのにこいつは蛇みたいに体をくねらせて俺の胡座をかいている足に頭を潜り込ませて来やがったんだから、俺の精神も絵の具のバケツ(使用後)状態な訳だ。
 落ち着け俺。おなごにこんな事されるのは初めてだ。やや興奮しちまうのも肯ける。だが、待てよ我が脳細胞及び感覚器官。こいつは涼宮ハルヒだぞ。こいつとどうこうなりたいのか。それはないだろ。
 しかももしだ、もしだぞ、もしもの更にもしもの場合だ。
 ハルヒの奴とどうこうなりたいと思って失敗でもしてみろ。地球滅亡六十億総虐殺だ。
 俺はそんなリスク背負いたくないね。
「言う事…聞いて」
「な!…いや、なんだ?」
 妙にしおらしい声で命令されるのは調子が狂うな。
「頭触って」
 俺は言われた通り膝のうえに転がっている頭に手を乗せた。
「違う。手が止まってるじゃない」
 なぜ撫でろと言えんのか。
 まあ仕方ない。手を動かしつつ、月9ドラマの受け売りで適当に髪の毛を指に絡めたりしてみる。意外に俺はこういう事を冷静にこなせるタイプの人間なんだろうか、ハルヒの柔らかい髪の毛を指先で堪能してみても、心臓が破裂するくらい緊張したりなんて事は全くありゃせん。
 こいつは涼宮ハルヒとはいえ、何も喋らず何も行動しなければ学校内でベスト5には入る(谷口調べ)ビジュアルをしてやがるんだ。
 それが泣いてるなんていう身も心も無防備になっている状態で俺にすがりついているんだというのに、俺の心臓はどきりともせん。
 ただ、ハルヒの髪の毛は妙な安心感を与えてくれるのは不思議で仕方ない。
「なんか手慣れてない?エロキョン」
「な、なんだよいきなり!」
 意外と女泣かせの才能を持ってるのかもな、俺。
 俺のジーンズで涙と鼻水、そして少々の涎を拭きとってからハルヒは仰向けになった。
 流石に視線が絡むのは気恥ずかしい。俺は目が合わないように別の方を眺めていたが、ハルヒがそれを許してはくれなかった。
「顔見せて」
 なんでまた俺の顔なんかを見たがるんだこいつは。
「いいからこっち見て。お願い」
 おかしい。何かがおかしい。「見て。お願い」なんていう台詞がハルヒから出るとは。「見せなさい」の間違いじゃないのか。いつものお前はどこに行ったんだ。
 とにかく俺は仕方なくその通りにした。ハルヒの奴はなんの表情も浮かべる事無く俺の顔を眺めていた。
 ハルヒが少し身を震わせたので。俺は自分の着ていたコートを脱いでハルヒの体にかけてやった。
「ありがと」
 そう一言言うだけで、相変わらずハルヒは表情も変えずにじっと俺の顔を見ている。一体どうしちまったんだか。
「頭…触って」
 その一言で落ち着き払っていた俺の神経は一気にトップギアに入ってしまった。
 ハルヒの頭は俺の膝の上にあってだな、しかも仰向け、つまり顔が上を向いてるんだよ。上を。撫でるとしたらどこだ。俺は辛うじて触れられる側頭部を撫でてみた。
「うお!」
 一瞬耳たぶに触れてしまった事で、思わず急いで手を退けてしまうのは我ながら情けない事この上無い。
「別に触ったくらいで何よ。エロキョン」
 再びばっさりと切り捨てられた。
 本当に調子が狂うな。いつも調子を狂わされている気もしないではないが、『いつものハルヒ』にはそれなりのペースがあったんだなという事を実感した気がした。
「もっと触って。耳とか、頬とか」
 全く何を言いやがってらっしゃるのでしょうかこのお嬢様は。
「い、いいのか?」
「アタシが触って欲しいの」
 ええいしかし俺も一応は男だ。
 据え膳食わぬは男の恥というではないか。
「…触りたくないってなら、今のは忘れて」
 相変わらず目はしっかりと俺を見据えたままでなんの表情も読み取れないが、急にトーンが低くなった声に、ハルヒの気持というか、感情が全て俺に伝わって来てしまった。うぬぼれかもしれないが、確かに感じたんだ。
 こいつは本気で言ってるんだ。俺をからかってる訳でも何でも無い。
 俺の手は自然とハルヒの頬に添えられていた。ああ、別にここをこうしようとか、そんな事は少しも考えずにだ。俺の手は極々自然にハルヒの頬に添えられていた。それ以上説明のしようがないから勘弁してくれ。
 ハルヒの頬は冷たかった。そのせいか、やましい感覚なんて少しも生まれて来やしなかった。耳も随分と冷たい。せめて人肌くらいの温度に暖めてやりたい。
 俺は指でハルヒの耳たぶを軽く挟んだり、頬を包むようにして暖めてやった。
「…気持ちいい」
 小さな声でハルヒがいう。相変わらず俺の方を見続けてはいるが、ハルヒの目は焦点を失いかけていた。部屋が暖まり始めたからだろうか、確かに少々眠気を誘う。
「寝ててもいいが風邪ひいちまうから少しだけにしろよ?」
「うん。ありがと」
 ハルヒが目を閉じると、俺の目は逆に冴えてきた。あまりにも危うく見えるハルヒの姿に、俺の気分は波立っていた。なんで俺にはこんな姿を晒すんだこいつは。
「二十分くらいで起こすからな」
「うん…」
 泣き疲れたガキみたいな声を出すな。
 しかしまあ、随分と安全な人間と見なされてるというか、信用いただけて感謝というか。
 とにかく、俺がハルヒにとってこういう気を許せる存在だというのはなんだか嬉しいもんだ。なんでか分からんが、おそらく人間ってのは他人に信用されるという感覚がとても気持ち良いんだろうな。
 谷口によれば、ハルヒは高校に入るまで恐ろしく孤独だったらしい。まあ、誰もハルヒの事なんざ理解できないだろうからな。
 まあしかし、今のこいつは俺達みたいな訳分からん仲間を手に入れたんだ。
 涼宮ハルヒを理解してやれて、それでいて一緒にいる事を疎ましく思わない典型的マゾヒストである俺達SOS団みたいな存在が必要なんだろうに。
 いや、俺は他の三人よりずっとそういう存在になれていると請け合えるね。なんせ俺は宇宙人でも未来人でも超能力者でもましてや異世界人でもないんだからな。
 俺はただの高校生だ。何の指令だの命令を受けもせずにこいつといる唯一の存在かもしれんからな。
 お、こう表現するとなかなかイケてる存在に思えてくるぜ。
「寒い」
 そりゃそうだろうよ。そうだろうけどな、俺の英雄妄想を妨げてくれるのはちょっと悲しいぜ。
「早く言ってくれ。こんなとこにいても風邪ひくだけだろうが。どっか移動しねえと…漫喫とか、カラオケとか」
「ホテルなんてどう?」
 なんて事を言いやがるんだこの阿呆は。冗談なのは分かってるがびびるだろうが。
「帰るって発想ないわけ?もう有希はそんなに心配しなくても平気そうだし」
「俺が心配なのはお前だよ。家まで送ってはいさようならなんて出来るか」
 考えるよりも先に口が動いていた。なんでとっさにそんな考えが浮かんだのかさっぱりだ。
「へぇー」
 ジト目で俺を見るな。しかもにやけ面で。
 だけどまあ、俺の考えは間違ってはいなかった。
「意外と…分かってんじゃん…」
 ハルヒの顔に触れていた俺の手は、潰れそうになるくらい握りしめられていた。爪を立てるのは勘弁してくれ。お前は意外と力あるんだぞ。
 手が痛い。マジで痛い。だけど今はとにかく我慢だ。血が出ようと骨が飛び出してくるほど砕けてもだ。
 しかもなんだ、また顔がぐしゃぐしゃじゃねえか。こっちまで泣きたくなるような顔しないでくれよ。なんでそんなに自分に対しても素直じゃねえんだお前は。だから放っておけねえんだ。分かったか。
「…でも、でもアンタに心配される程じゃ…ないから」
 平静を装えない程手が痛むが、なんとかこいつに余裕を見せておかんとな。こいつのプライドを傷つけないようにするにはどういう言葉が適当なんだろうな。まあ、思いつくままで構わんか。
「いや…俺がこうしてたいだけだ」
 なんだ、急に鳩が豆鉄砲食らったような典型的なびっくり顔しやがって。
 お前のプライドという名の鼻っ柱をへし折らないようにしてやってんだ。少しは分かれってんだ。
 いや、待て俺。今の台詞はつまり俺がハルヒを求めてるとも取れちまうじゃねえか。なんて事ぬかしてんだ俺は。
「し、し、仕方ないわねほんと。アンタ以上に甘えるの下手なヤツ見たこと無いわ」
 その台詞そっくりお前に返してやると言いたくなる前に、俺は自分の心境に驚いた。子供みたいな強がりを言う涼宮ハルヒが異常に、本当に異常に可愛く見えちまった。
 これはまずい。本当にまずいんじゃないのか。いや待て、何がどうまずいんだ。
 別にこいつがもんのすごく可愛く見えたってだけじゃないか。何をまずいと感じる必要があるんだ全く。
「ねえ、寒い」
 会話が堂々めぐりになってきたな。
「なんだ、抱きしめて欲しいってか」
 少しは自嘲しろ俺の口よ。
 急にハルヒは体を起こして俺の顔を覗きこんできた。
「言うじゃない。そんな甲斐性アンタにあるの?」
 無い。断じて無い。
 まあ、お前が寒いってんなら寄り添ってやるくらいの事はまあ、頑張りゃできるだろうけどな、正面からお前と抱き合うなんて本当にできん。全くもってできんからな。
  だから、だから俺を押し倒すな、頼むからのしかからないでくれ。
「あったかい。うん、満足」
 そりゃあお前は満足だろうさ。人を敷き布団扱いしよってからに。人間ってのは六百ワットのストーブに相当するらしいからな。
 まあとりあえずストーブ扱いしててくれ。俺を人間として見ないでくれ、な、頼む、そんな目で見ないでくれ。
「ほんと…あったかい」
 なんだこの匂いは。リップクリームの匂いじゃねえか。もう髪の毛やらの香りなんざ十二分にする距離だ。ここまで接近するとリップクリームの甘い香料の匂いまでするとは予想外だ。
 鼻が、鼻がこすれ合ってやがる。
 何がしたいんだこいつは。俺の顔をじっと見ていて満足なのか。
 第一ここに来た理由は長門と古泉のヤツが心配半分やじ馬半分で見に行ってやつらのその、まあ、ああいうシーンを見た瞬間に、お前が腰を抜かした上に泣き出したからだろうが。
 そんな弱々しい姿を見せてたくせに男一人押し倒せる力を残していたのかこいつは。
 本当に、本当になんだってんだ。
 まあ正直、コートを脱いじまった俺の体もかなり冷えちまっていたから、こいつの暖かさはありがたい。
「アンタの息のど飴臭い。しかも漢方のやつなんてオヤジみたい」
「こいつが一番効くんだよ。ゴホンといえばってやつだ」
 世間話めいた話題になったので少し冷静にはなれたのは幸運だった。いかな俺でもここまで女性ってものを意識せずにはいられやせんからな。
 それに気になっていたんだ口臭って奴が。ハルヒからは別になんの匂いもしなかった。
 何食ってりゃこんなに匂いがしなくなるんだか。
 ハルヒは俺にのしかかるのをやめて自分も横向きで寝転がった。俺の片腕を脇腹の辺りで思いっきり押し潰してくれているが。
「ちょっと、離れたら寒いじゃん!」
 俺自身は仰向けのまま顔だけをハルヒの方に向けていた。離れたのはそっちの方だろうが。
「こっち向いてもっとくっついてよ」
 へいへい仰せのままにしますよ、と心の中で思いつつ、俺はハルヒに従った。
 ハルヒは手探りでカエルの頭部を探し当て、枕にして俺と同じ位置に顔を持ってきた。
 俺の頭もカエルの頭部の恩恵に預かる。二人分の枕とするには小さいが、俺とハルヒの頭はなんとか乗っかった。
「…まだ寒い」
 仕方なく俺はハルヒの体を抱き寄せた。ハルヒの色々な部分の感触が伝わってくる。
 しかし、俺の心はやたらと冷静に心地良さを感じていた。とにかく気持ちがよかった。
 ハルヒの顔は相変わらず俺の目の前、鼻が当たるくらい近くにあって、焦点は俺の目に合っているようだ。
「やっぱ、もう少し寝る」
「あ、ああ」
 ハルヒの大きな瞳、そうだ、こいつは喜怒哀楽が激しくていつも妙な視線を向けてはくるが、この大きな瞳を見るとなんだかこいつにされた馬鹿馬鹿しい事全て許してやろうという気分になっちまうんだよな。邪気が無さすぎるんだよこいつの目は。
 その目はゆっくりと閉じられて、俺は少し残念な気分になった。
「やっぱ眠れない。アンタも眠ってよ」
「何言ってんだ。俺は眠くない」
 ハルヒは再び目を開け、俺を見た。
「じゃあ、目閉じて。眠ったら眠りましたって言いなさい」
 なんだその要求は。
「寝た。眠ったぞ」
 俺は両目を閉じてそう言ってやった。
「眠ったなんて馬鹿な返事するヤツほんとにいるんだ」
「ああいるさ。ここにな。寝てるぞ」
 手のひらを返されて少し恥ずかしくなった俺は、恥の上塗り覚悟で開き直ってやった。
 全く本当に俺はスケコマシに生まれついたんじゃないのか。ハルヒの顔が目の前にあるってのに眼を瞑って落ち着き払ってやがる。
 それとも、一緒にいる時間が長すぎたっていうのかもしれないな。
 まあ、お互い知り合ってから大して時間が経っている訳じゃあないんだが、でもSOS団の時間ってのは酷いってくらいに濃密だからな。
 ほんとに濃厚すぎちまってここまでお互い気を許せるような間柄になっちまったんだろうかね。
「眠った?」
 また馬鹿な質問をしてきやがって。
「ああ、寝たよ」
 本当にちょいと眠くなってきた。適当に暖かいしな。
「本当に…寝た?」
 なんだ、急に声音を変えて言うな。しおらしいお前なんて気味が悪いぞ。
「寝ないの?」
「いや、寝た。もうマジで寝たぞ。だからお前も少し寝ろ」
 今の自分の状況を再確認してくれよハルヒ。俺達は今、その、だ、だ、抱き合って寝転がってるんだぞ。なんていうか、その、甘ったれた様な声は辞めてくれ。頼むから俺をからかわんでくれ。
「そう…じゃアタシも寝る」
 薄目を開けると、ハルヒは両目を開いたままで、俺が薄目を開けた事に気づいているのか、それとも気づいていても関心が無いのか分からないが、ただ俺の顔をじっと見ている。
 俺は慌てて瞳を閉じた。
 ハルヒの顔は何故か沈んでいる様に映った。
 その瞳の色は物憂げで、しかも妙に艶めかしかった。否定しようがない。確かにそう見えちまったんだ。
「…寝た?」
 また同じ質問だ。
 俺は答えなかった。また変に受け答えをしてしまったら、ハルヒに悪い。
 胸の真ん中辺りに畳みこまれていたハルヒの両手が俺の首に絡みついてきた。驚いて一瞬体を震わせてしまっていたが、ハルヒの動きが止まる事は無かった。
 顎の辺りにハルヒの恐らくは額と前髪と思われる部分がくっつく感触がした。
「寝てる?」
 俺はまた答えなかった。
 それ以前に、ハルヒが密着している感触に酔い痴れていた。
 俺は、初めて味わう心地よさをもっと長く続かせるには寝たふりしかないと判断したからだ。
「…ほんとに寝てる?無防備な女目の前にして」
 俺の体に顔を押し付けているからか、少しくぐもった声でハルヒは言った。
 またハルヒは体を動かす。
 少し鼻をすする音がしてから、その息が俺の顔にかかった。
「アンタも無防備にしてるから悪い」
 何を言ってるんだこいつは。男の俺が何を警戒しなきゃならんのだ。
 鼻に何か固くて濡れた物に挟まれるが当たる感触がした。まさかこいつ俺の鼻をかじってでもいるのか。
 俺の心臓は高鳴りだした。両手が震えてきた。
 両手じゃ収まらない。体全体に緊張が走っていく。
「…アンタは寝てるの。だから、起きたらなんにも覚えてないの」
 そして、俺の世界が反転した。
 行きすぎた表現じゃない。本当に、世界が音も無く反転したんだ。少なくとも俺にはそんな感覚だった。
 俺の唇には、粘性のある物が残った。匂いはハルヒの唇からするそれと同じだった。
「アンタは…寝てんの…だから…なんにも…おぼ…えて…ない」
 俺の口は再び塞がれた。濡れた物が俺の口の中へと割って入ってくる。俺はそれをただ受け入れる。
 俺は寝ているという設定だ。何もできない。
「はぁ…はぁ…」
 荒い呼吸をしながら、ハルヒの唇が俺の唇を解放する。
「やっぱ…起きて…くれ…ない…か」
 ハルヒは泣いていた。何故泣いているのかなんて簡単な事だ。こいつは気付いちまったからだ。
 俺が、ハルヒを受け止めきれていない事に、今はっきりと気付いちまったんだ。
「ごめん…キョン…ごめん…」
 なんで俺の体は動かないんだ。こいつの事が嫌いなのか。違うだろう。なら、どんな感情を抱いてるのかはっきりしろ。今だ。保留なんて汚い真似ができるのか。
「ごめん…いっつもアタシの我がまま付き合ってくれて…」
 変わったなハルヒ。
 俺は素直にそう感じた。別に上から目線で言ってるんじゃない。むしろその逆だ。俺は変わっていくハルヒに翻弄されっぱなしだ。
 ハルヒは今、自分から行動を起こしたんだ。言葉じゃなくて、行動で全てを俺にぶつけてきた。俺は、それに答えなけりゃならない。そうじゃないのか。イエスでもノーでもだ。
 遠くに行っちまう。ハルヒも皆も遠く見える。
 だったらどうすれば良いかなんて分かってるだろう。なのに、何故俺の体はぴくりともしないんだ。
「じゃあ、最後のお願いに…するから、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ強く抱きしめてよ」
「最後なんていうな」
 言葉が出ると同時に、俺の体は動いていた。
 ハルヒの体を思い切り抱き寄せ、力の限り抱きしめていた。
「痛い」というハルヒの小さな悲鳴で正気を取り戻したが、俺は腕の力を完全に弱める気などなかった。
「…な、何?アタシ勘違い…するかもよ?」
「勘違いってのはどんな勘違いだ?」
 俺の口調は少々意地の悪い口調になっちまった。
「勘違いって、その…精神病にかかっちゃったかもしれないって事よ…」
 俺にとっては最良の回答だった。
 ハルヒにとっての精神病の一種ってのは何なのか、俺は良く知っている。そして、未だにそんな言い方をするハルヒの変わって無い一面も確認できた。それって、最高の答えじゃないかよ。
「俺もお前のせいで精神病にかかっちまった。勘違いじゃないなこりゃ」
「…ふん。アタシもアンタのせいでかかっちゃったんだから責任取りなさいよ」
 俺とハルヒはどちらからとも無く、唇を重ねた。
「じゃ、一緒に病院通うか」
「…治す気なんて無い。アンタの病気だって治ってもらったら困る」
 そうだな。そりゃ困る。
「ずっと…変な夢見てた。起きると忘れちゃうんだけど、どんな夢だったかはなんとなく覚えてるって感じ」
 少し泣き腫らしたせいか、震えた声でハルヒは言った。
 変な夢ってのは、実は俺にも心当たりがあった。
「夢の中でも、膝枕させてもらって、すごく…えと…」
 今更言葉を選んで話さなきゃいけない間柄でもないだろ。
「うん…その…すっごく気持ち良くって…でも、夢の中のアンタはいっつも何も言ってくれなくて。ほんと、びくびくしてて一言も話してくれなかったり、世間話めいた話しかしてくれなかったり。何度も同じ夢見てる気がしてた」
 俺は一瞬気味が悪くなった。
「俺も…似たような夢を見ていた気がするな」
 俺も幽(かす)かにだが、にそんな夢を見ていた気がする。
「なんで、答えてくれなかったのかな?現実のアンタはちゃんと…答えて…くれたの…に…あれ…?なんで?なんで泣いてるんだろアタシ」
 俺はハルヒの両目に浮かんだ涙を片方ずつ、口で拭ってやった。
「ありがとう…すっごい気持ちいい」
 俺達は、時間が許す限り、お互いの繋がりを堪能し続けた。
 俺とハルヒの時間は、こうして、本当の意味で交わりだしたんだ。
 
 
 
 以前のシルバーフレームよりもずっと良く似合う黒フレームの眼鏡を掛け直しつつ、長門は一言、「そう」と答えた。
 眼鏡属性の無い俺にとっては非常に残念な事だが、有機生命体へと変換された際、目のスペックは平均を下回る設計にされてしまったようだ。
「そう…だけかよ?」
「それ以上の返事が欲しいといわれても、すぐにはできない」
 なんだってんだ。
 休みの明けた昼休み、俺は長門が読書に精を出すSOS団のアジトもとい、文芸部室でパンを貪りつつ長門に事の顛末を掻い摘んで報告した。当然電話やメールで先に報告はしていたが、俺は是非とも自らの口で皆に告げておきたかった。
 古泉に朝比奈さん、そして鶴屋さんと、授業の合間の休み時間をフル活用して個別報告を済ませたのだが、長門にはしっかりと時間をかけて話をしておきたかった。
 正直な事を言っちまえば、ハルヒのために生まれ、ハルヒのために行動し、ハルヒのために人間として生きる事となってしまったという、極めて数奇な運命の末に誕生した長門の現状もしっかりと確認しておきたかったのだ。
「まあ、ゆっくり祝福の言葉を探してくれ。俺もお前らへの祝福の言葉ってヤツを考えるさ」
 長門は世にも珍しい珍獣でも発見したかのような顔で俺を見てきた。
 膝に置かれた本にシオリを挟んで閉じ、ぽんと机に置いた。
「祝福の言葉はハルヒのためにならある。今私が考えているのは、あなたへのあらん限りの罵倒の言葉」
「は…?」
 罵倒といったのか。何故俺が罵倒されなきゃならんのだ。
「あなたは感じているはずなのに、何故気付かないの?」
 全く、こいつは更に婉曲的になったというか、ちょっと嫌味な言い方が上手になってきやがった。
 それにしても、俺が感じているのに気付かない事ってなんだ。確かに俺はハルヒの気持ちに気付くのは、あんなに密着した状況から実に三時間以上かかっちまった訳だが。
「…この鈍感」
「はい…?」
 なんだこの世紀の瞬間を目撃したような感覚は。
 俺は今、長門になんという言葉を浴びせられたんだろうか。
「な、長門、すまん俺にはその言葉を浴びせかけられる理由がさっぱり分からないんだ。ゆっくりこの馬鹿めに分かる言葉で説明して欲しいところなんだが」
「あなたが落ち着いてハルヒの思いを受け入れる事ができた理由は簡単。だけど極めて罪深い」
 なんだなんだ。いきなり訳が分からん。
「998回目だから」
「はい…?」
 長門さん、長門さんや、俺はその言葉を受け入れてしまうと、最強のへたれになり兼ねないんだが。
「ならあなたはそのへたれというカテゴリーに入る。一昨日の土曜日は998回繰り返された。あなたが自分自身の気持ちに気付いたのは371回目。ハルヒの気持ちに気付いたのは710回目。そして、998回目で、ハルヒを受け入れる事ができた。あなたに問いたい事がある。こんな…こんな人物を罵倒するために的確な言葉があれば教えて欲しい!」
 なまじ可愛い容姿をしているせいか、声を荒げて睨み付けてくる長門は極めて恐ろしい。
 きっと俺はこの時、へたれの烙印を押されるに十分なくらい呆けた顔をしていただろうに。それくらい俺は放心状態だった。
 考えても見ろ。998回もハルヒはあの土曜日を無意識に繰り返してたんだ。それはつまり、俺は997回もハルヒの明日への希望を奪っちまったんだ。どれだけ駄目な人間なんだ。
「あなたがすべきはここで落ち込む事じゃない。こんな所で別の女とくっちゃべってないでハルヒの所へ行くべき」
 それはできんのだ。ハルヒのヤツから学校では今までの状態を保つって約束をしちまっている。
 そう告げると、長門は困り果てた顔をしてしまった。
「あなたは…ハルヒが本気でそんな事を言ってると思ってるの?」
 そういえば何故俺はそんな簡単な事に気付かなかったんだ。ハルヒがなんでそんな物言いをしたのかなんて、簡単な事じゃねえか。
「ハルヒがもし本当にそう思っていたとしても、あなたはどうなの?ハルヒの近くにいたいと思わないの?」
 長門の言葉一つ一つが、俺の心に突き刺さる。本当に、なんでそんな簡単な事すら思い当たらないんだ。
「すまん長門…」
「私に謝っていないで早く行け!この馬鹿!」
 始めて聞く長門の大声に驚きながら、俺は部室のドアを開けた。
 そのドアの裏に立っていた人物に、俺は体当たりしそうになったがなんとかブレーキをかけることができた。
 俺はその、俯き加減で不安そうな面持ちで佇んでいた人物を強く抱きしめた。
「ち、ちょっと、学校でこんな事…!」
「俺がこうしたいからだよ!」
 思わず大声になってしまった。いくら部室棟とはいえ、昼休みに人通りが全く無いという訳じゃない。たくさんの好奇の視線が俺達へと突き刺さってくる。
 でも、そんな事気にしてられるか。俺は、ハルヒに回した腕にさらに力を込めた。
 長門、それと古泉に朝比奈さんに誓う。俺は絶対この手を離さないと。

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