人間の生理現象に対する欲求というものは、意識していても抗いがたいものである。
三大欲求は言わずもがな。体の一部分がむず痒くなったり、違和感を覚えればついついかきたくなってしまう。しかも、TPOによってかくのが躊躇われる場合だと尚更その欲求は強くなって歯痒い思いを強いられる。
考えてみれば人間、いや、ありとあらゆる生物は、欲求によって支配され、成立しているのではないだろうか。
腹が減って何か食べたいと思うから餓死を免れるし、眠いと思って寝るから体の疲れが癒せる、そして性欲があるから自分がある。
生きている以上切っても切り離せない物なのだ。
さて、人類は文明を発達させると共に、生理現象と戦ってきた。
いつでも食べ物を食べられるようにインスタント食品を発明し、より快適に眠れるように寝具の性能を高め、性生活を豊かな物にするために――まぁ色々なものを作った。他には、と挙げていけば切が無い。
結論から言えば、人類の最大の敵とは己自身なのだ。
俺たちは、それを文字通り身に染みて知る事となる。




放課後の文芸部室というと、その中に居る人間は言わずとも察しが付くだろう。
今日のハルヒは朝から妙な様子だった。
ホームルーム前から口数が少ないと思ったら、授業が終わった途端妙に絡むように話かけて来たり、突然立ち上がって早足で教室から出たと思えば引き返してきたりと一日中落ち着きが無かった。
放課後部室に来てからは無言でマウスを掴みながらディスプレイを睨んでいる。さっきよりは大分落ち着きは取り戻したらしい。
古泉とのボードゲームにも飽きた俺は何ともなしにその事をハルヒに尋ねてみようと思い、ハルヒの横に行くと同時にハルヒが椅子から立ち上がった。
「何」
「いや、こっちこそ何? なんだが」
「は? 何か用?」
「用と言われればそうでも無いんだがな」
「何よ、男ならウジウジしないでさっさと用があるなら言いなさい、さっさと」
「いや、ちょっと気になってる事があってな」
「だからそれが何かって聞いてんのよおお、早く言いなさいよおおおお」
ハルヒはパタパタと足踏みをしてイライラを隠そうともしない。鼻の頭に汗までかいている。短気は損気だぜ。
「今朝から気になってた事なんだがな。普段のお前が普段なだけに、どうって事無いだろうと思ってそのままにしておこうと思ってたんだが、まぁ退屈になってきたのでお前に尋ねようと思った次第なんだが」
「で?」
「聞いていいか?」
「いいからさっさと言いなさいよ、何? 何? 何なの? 何?」
ハルヒは椅子に腰かけ、くるくると回転しだした。
さて、どう尋ねたものだろう。俺は顎をつまみ、少し考えた上でこう言った。
「お前が今日履いている靴って、もしかしておろしたてか?」
「は? これが今日おろしたての靴に見えるならあんたの目は節穴ね」
ハルヒは回転をとめ、足を俺の眼前に掲げた。
ふむ、確かに汚れがついて、鼻を近づければ臭いとは言わないがそれなりに汗や油脂が混ぜ合わされて熟成された芳香が漂ってくる。新品ならまず、ゴムの臭いがするはずだ。よって、これは新品ではない事になる。
しかし、靴がおろしたてで合わなくて落ち着かなかったのが理由じゃないとすると何が理由だったのだろうか。
俺が深い思索の海で腕を広げて泳いでいると、ハルヒが搾り出すような声で、
「言いたい事は……それだけ?」
「いや、もうちょっと待ってくれ。頼む、重要な事なんだ」
「ぐう……」
ここまで来たら自分の力で真相に辿り着かなければハルヒに負けた気がして悔しい。
ハルヒは一瞬天を仰いだかと思うと、今度は深呼吸をして椅子の上で体育座りの格好になり縮こまって回転。カチューシャが飛んで長門の頭に乗っかった。おお、似合ってるぞ、長門。
「そう?」
カチューシャを直し、長門が読んでいた本を閉じて俺の目を真っ直ぐに見つめてくる。
俺はハルヒを更に回転させ、長門の前で、目線が合うようにしゃがんだ。
「ああ、眼鏡属性は無かったがどうやら俺はカチューシャ属性があったらしい」
「……そう」
「長門は、嫌か?」
「そうではない」
「そうか、俺は似合ってると思うんだが」
「……」
後ろから聞こえる「ヴェー」というのはハルヒから出た音。
「……あなたが、そう言うなら」
呟くように言葉を吐きだすと、長門は本を開いて読書の体勢に戻った。
開いた窓から爽やかな風が吹きぬけて、長門の髪とカチューシャに付いたリボンを微かに揺らす。
一見、長門の平坦な表情には何の情報も無いが、なぜか俺にはある感情がその顔の奥に見えた。
そう、
嬉しいという、そんな感情が俺には見えたんだ。


心が暖かくなる事を感じながらハルヒに振り向くと、回転を終えて犬のような呼吸で椅子から立ち上がり部室から出ようとしていた。
「待てよハルヒ、俺の話は終わっちゃ居ないぞ」
「………。グー!」
……ハルヒ?
「ワーワー」
どうしちまったんだ、ハルヒ。
「古泉! これはどういうことだ」
「……恐らく、何らかの障害が涼宮さん自信に発生して言語中枢が破壊されてしまったようですね。何か僕達に伝えたい事があるみたいですが、これでは何とも」
ハルヒは人形のように膝から崩れ落ちると、口を開けて「ドー」とか「ヴィー」と言った言葉にならない言葉を発している。
なんなんだ、ハルヒ。お前は一体俺たちに何を伝えようとしているんだ……?
俺は長門に振り返り、助けを請おうとするが長門は力なくを首を横に振る。打つ手、無しかよ。
どうしてこんな事になっちまったんだ。俺が異世界人だったらこんな事にならなかったんじゃないか。ああハルヒ。
鼻のあたりがツンとなる。涙を堪えようと歯を食いしばる。しかし、とめどなく涙が溢れてくる。
目の前には虚ろな目で『声』ではなく『鳴き声』を発しているハルヒ。
せめてもとハルヒの肩を抱こうとすると、ハルヒの腹部から雷鳴のような音が響いた。
音は腹部から胸部にせり上がり、ゲップとなってハルヒの口から放出された。臭い。
突然の事に呆気に取られていると、今度は下の方――股間――からスカートを翻すほどの勢いでガスが噴射される。
一通りのガスが出終わると、それは始まった。

「ぶりっ」

これを産声に、めくれて丸見えになっているハルヒのパンツは下の方から見る見る内に盛り上がり、茶色い染みを広げていく。
ハルヒから―――正確にはハルヒの肛門から―出る大量の排泄物。そしてそれから出る悪臭はあっと言う間に部室に充満した。
その光景を前に、俺は一言も口を開くことは出来なかった。
もちろん圧倒されていたのもある。窓を開けていても尚、質量さえ感じさせる臭いが鼻腔を爆撃していたので口を開くことが躊躇われたのだ。
「ハルヒ?」
パンツの盛り上がりが収まるとハルヒはぱちくりと目を瞬かせ、その瞳に精気が戻った思えば、すっくと立ち上がり「トイレ」と言い残し部室から出て行った。
「……恐らく、涼宮さんはトイレを我慢したのでしょう。アレ」と指差すのは部室の床に零れ落ちた大量の排泄物「を見ると、どうやら便秘気味だったようですね。ここ数日間の涼宮さんの精神が不安定だった原因が理解出来ましたよ」
漏らすまで我慢する事は無いだろうに。
「本気で言っているんですか?」
俺のせいだとでも言うのか。
「ええ、満場一致であなたの責任ですよ。ね、朝比奈さん」
「はい……わたしもキョンくんが、その、悪いと思います。女の子はデリケートなんですよ」
「朝比奈さんまで、長門は擁護してくれるよな?」
「凝視していた」
「え?」
「あなたは涼宮ハルヒの股間部分を凝視していた」
「えっ……」
「それは本当ですか、長門さん」
「間違いない。脱糞が終わるまで凝視していた。全神経を視神経に集中させて凝視していた」
絶句する朝比奈さん。尻をかばうように後ずさる古泉。
「違うんだ」という言い訳すら吐く事も許されない雰囲気がここにあった。
だが、嗅覚は物理的に破壊され、聴覚はレイプされた状態で俺は何の感覚を頼りにしたら良かったのか。
味覚と触覚は論外だ。第六感さえ最初からあるはずもなく、そんな中で唯一働いていたのが視覚となればそれに全神経を集中させるのは当たり前の事だろうと思う。
窓から大分ガスが出たのだろう。鼻に感じる鈍痛も和らいできた。
しかし、コイツらがこの環境の中でも平然とした顔でいるのはどうしてだ。長門や古泉はともかく朝比奈さんはか弱い普通の人間だぞ。
「大丈夫ですか、朝比奈さん?」
「はい? ……あっ」
「ど、どうしたんです? 鼻が曲がりましたか!?」
「なんでもありません!」
そう言って朝比奈さんは廊下に駆け出して行った。
思わず追いかけようとした、その刹那。
腹部に違和感が走った。
「これは……」
「あなたもですか」
「一体なんだこれは」
俺は今、猛烈に便意を催している。かつて無いほどに激しいそれだ。
そしてこれは経験上ゆるく(YURUKU)キレ(KIRE)が悪い事がわかった。
つまり、最悪の状況ということだ。
トイレに急ごうにも、この階のトイレは文芸部からかなり離れた場所にある。それまで持つかどうかは微妙だ。
しかし、ここで考える余裕もない。まずは行動である。
ちょっとした衝撃でも決壊する危険があるため、すり足で少しずつ前進する。古泉も青い顔で追随してくる。
部室を出る時、部屋の片隅で読書を太ももの間から出た排泄物で小山を作る長門が見えた。


「僕の推測なのですが、涼宮さんはこう願ったのではないでしょうか。『みんなうんこもらせ』と。
確かに、漏らしてしまった場合そう思う事は少なくはありません。僕も経験が無いわけではありませんからね。
しかし、本気でそう思う事はそうそうある事ではありません。が、今回は場合が違います。
便秘とあなたの妨害で溜まっていたストレスと、皆の前で放屁脱糞したという多大なる恥辱。
これだけの条件がそろえば本心で『みんなうんこもらせ』と思ってしまうのは無理もないと思います。
ただ不幸なのが、涼宮さんという方はそれを実現させてしまう能力があったという事です」
「……」
別に無視してる訳じゃない。単に古泉に言葉を返す余裕が無いだけだ。
ああそうかこれも全部ハルヒのせいか。今回ばかりは本気でとんでもない事をしてくれたなぁハルヒ。
廊下にはトイレへ向かって排泄物が落ちている。それは一筋だけでは無く、他の部室からも伸びている。
「そして――更に不幸なのが、その『みんな』がSOS団の『みんな』ではなく広い意味での『みんな』だったという事です。
先ほど来た機関からの連絡によりますと、この学校だけではなく日本中はおろか世界中の人間が同時に脱糞、または漏らしているそうです。
参りましたね。やられました。漏らしました」
歩みを止めて、完全に諦めの表情になる古泉。
「せめてあなただけでもトイレに辿り着いてください。僕は引き返して長門さんに対処法を伺って見ます」
俺は振り返る事もせず、全身する。……無事に、辿り着けるのだろうか。
もう肛門は決壊寸前、全身から冷や汗が流れている。
糞まみれの気力を振り絞り、足に力を込める。その際少しはみ出たが、こんなの漏らしたのには入らない!
「おおおおおおおおおおおおお」
もう少しだ、もう少しで男子トイレに着くという所で後ろから呼びかけられた。
「やぁキョン君! お急ぎかい?」
鶴屋さんだった。
「どうも鶴屋さん、申し訳ありませんが今は取り込み中で……」
「あっはっは、実はあたしもそうなのさっ! 変な物でも食べたのかおなかの調子が、」
と言葉が詰まった瞬間。
ボトボトとスカートから排泄物が雪崩落ちてきた。ノーパンですか、鶴屋さん。
「すこぶる調子よくてさあ、あはは、漏らしちゃったよ、あははははは、ははははははは、あはは、あはあはあはあはあはあは」
俺は俯きながらポケットにあったハンカチをそっと手渡し、その場を後にした。


やっとトイレに着き、便器に腰かけると怒涛の勢いで便が噴出してきた。お釣りの量も凄い。
その勢いは一分経っても衰えず、むしろ勢いを増していた。
頭に疑問符を浮かべると同時に、携帯が鳴る。
『どうも、古泉です。トイレには無事到着しましたか?』
「ああ、多少の損害は出たがなんとかな」
『なら話は早い。ずばり言います、うんちが止まりませんね?』
「……あぁ」
『長門さんに伺ったところ、どうやら一度排泄行為を行うと無限に排泄が終わらなくなってしまうようなのですよ。部室の足元はもううんちの海ですよ』
トイレのレバーを捻りながら、
「どうにか出来ないのか」
『長門さんにもお手上げだそうです。涼宮さんが受けた屈辱は想像を遥かに超えるものだったようですね』
「つまり、俺たちは一生垂れ流しのまま生きるのか?」
『そうなりますね』
という事は、こうやってトイレに居る事も無意味か。
ならばと俺は後ろ髪を引かれつつも、トイレを後にした。


あれから十数年。世界は混乱に包まれた。
排泄物の処理が追いつかず、感染病の流行で壊滅寸前に追いやられた途上国は一国二国ではなかった。
世界はそんな国を助ける事はしなかった。
逆に他国への感染拡大を防ぐためという名目の元に核を打ち込み、燃やし尽くした。
地図から名前を消した国は数知れず、中国も国土の9割が焦土と化している。
そんな中でも、俺は奇跡的にまともな生活を送ることが出来た。
なぜか?
父親がおむつメーカーに勤めているからだ。
容量の増えた紙おむつから、背中に背負うタンクと繋がったおむつと次々に新しいおむつが開発され、それが黙っていても売れる世の中。
結果的に父親の収入はあがり、新製品のおむつもいち早く回ってくる。
将来絶対安泰。そんな俺の家に嫁がせ楽な思いをさせたいと思うのが親心だろう。
新製品のおむつをハルヒに分けていた繋がりで、親同士の交流が生まれ俺とハルヒを結婚させる事に決まったのだ。
俺も、ハルヒも反対は出来なかった。
親の気持ちを考えれば、これが一番の選択だったからだ。
だからと言って、嫌だった訳でも無い。
少なくとも俺とハルヒは幸せな結婚生活を送っている。
そして、来週は妹とハカセくんの結婚式だ。
ハルヒは俺と結婚してからもハカセくんの家庭教師を務め、超難関大学に合格した時には自宅に招いて祝った事もある。
それを機会に妹と知り合い、交際へと繋がったらしい。
結婚する事を知らされるまで、俺は交際している事さえ聞かされていなかったのには少し腹が立ったが。
何にせよ、めでたいことには違いがないさ。

そして今、俺の手には一通の封筒が握られている。
夕方ポストに放り込まれていたものだ。
切手も消印もなく、ただ宛名欄に「キョンくんへ」と書かれ、裏には懐かしい名前が記されている。
あの日以来、彼女たちは忽然と姿を消してしまった。
もう二度と会えないと思っていたが、こうした形で彼女たちと繋がりがある事を知れたのは嬉しい。
俺は例のごとくトイレ(今はほぼ小便専用で、大便はタンクに溜まったものを捨てている)に篭り、鍵をかけ手紙を開く。
丸っこい文字で、手紙にはこう書かれていた。


お久しぶりです。
わたしがキョンくんにちゃんとした手紙を書くのは初めてなので、なんだかドキドキしてしまいます。
突然姿を眩ました事にあなたは驚いて、怒っているのではないでしょうか。
ごめんなさい。でも、仕方が無かったんです。
少なくともあの時点でわたしの任務は無くなってしまったから……。
お別れも出来なかったのは、わたしも心残りでした。
さて、言い訳はここまでにしましょう。
妹さん、ご結婚しますよね。おめでとうございます。
実はそれがわたしたちの未来に繋がる最も重要なスイッチだったのです。
ハカセくんが、今、何の研究をしているかわかりますか? そう、排泄物の処理を効率的に出来ないかという研究をしていますね。
今ではありませんが、近い将来ハカセくんは涼宮さんが以前作った冊子からヒントを得て、ある発見をします。
そしてハカセくんは妹さんと結婚する事で、キョンくんのお父さんの会社とのコネクションが出来ますね。
その発見は応用されて、おむつに搭載されました。
もう、わかりますよね? う●ちを時空の狭間に送る機能が搭載されたおむつが将来出来るんです。
この発見から派生として、TPDDの原型も出来ます。
そして、異空間を経由して移動出来る装置も生まれ、わたしたちの時代では乗り物という概念がありません。
全ては既定事項だったんです。
あなたの時代から、わたしの時代をつなぐ、大切なこと。
そちらの時代は今、とても大変だと思います。
でも、きっと救われる日が来るわ。それを信じて。お願い。
そして、これでわたしがキョンくんと涼宮さんに関わる任務はお終いです。
次からは、昇格して(管理職ですよ!)別の任務にあたる事になるので、もうキョンくんと涼宮さんには会えないでしょう。
わたしの事は忘れてください。
それでは、お元気で。

みくる


読み終えて、溜息が出た。こうなる事が既定事項か。
妻の名を呟き、俺は漏らした。
「これも、お前が望んだこと……なわけないよな」

おわり

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最終更新:2008年01月05日 22:04