―――当分の間、忘れられそうにもない二人の姿を網膜に焼き付けた俺は、

それから間もなく『眼を覚ました』。




「ちょっと、バカキョン!そろそろ起きなさいよ!」
客観的には小気味いい音と言えなくもないのかもしれないが、当事者からすりゃ激痛を走らせる理不尽極まりない音に間違いない。それくらい酷い衝撃だ。寝耳に水を通り越して天上方向からバケツが突如大量落下してきたようなレベルの目覚ましに、俺はいてぇ!と叫びながら机に突っ伏していた上体を捻り起こさない訳にはいかなかった。要するに俺は、ハルヒの遠慮のない一撃に叩き起こされたのである。
頭蓋骨が陥没したらどうしてくれる。いやそもそも人の頭は一回の衝撃で大量の細胞が瞬時に死滅しちまうわけで、ヘディングを宿命付けられたサッカー選手ならまだしも一般ピープルの俺が毎度叩かれては行き着く先はただの馬鹿だ。最低じゃねえか。
そこまで口には出さずに並べ立てたところで、俺はハルヒを目の当たりにした。教室だ。何時もの座席配置。ざわめく生徒達は帰り支度真っ最中、どうやら授業が終わってこれから掃除当番だけにやや憂鬱な一時が待っている放課後一歩手前。

……現金な話だが、俺はその瞬間に綺麗さっぱり文句の方を忘れちまったのさ。

「な、なによ。あんたがグースカ寝てるのが悪いんじゃない授業終わりに起こしてあげたんだから感謝しなさい大体団長の前で居眠りするなんて行為そのものが懲罰ものなんだから今日のところは赦してあげるあたしの寛大さを噛み締めなさい!」
拗ねたように唇を尖らせてノンブレスで捲くし立てたハルヒは、息を切らしてふいと視線を避ける。怒りに吊り上った眉と、反対に輝く星を閉じ込めたような黒瞳。

「……昨日の今日のくせに、キョンのくせに」
そのキョンのくせにってのは何だ。あと顔赤いぞ。ちらちら此方を斜めに窺うようにするハルヒは、なんというか、ハルヒだった。紛うことなく昨日俺が抱き締めたハルヒだった。

―――世界が、戻った。

古泉のあれだとかハルヒのあれだとかが全部夢だったってことはないだろう。どのみち、部室に行けば分かることだが。ただ俺は疲弊感と安堵がごちゃ混ぜになっちまい、深く息をついた。まあ、なんというか――

「ありがとよ」
「へっ?」
「起こしてくれたんだろ?」
言うと、ハルヒの顔がますます茹で上がった蛸が更に酒盛りをした後のように赤くなり、「そっ、そうよ!」と大声でのたまった。一応成立の形を見たばかりの恋人関係、意識しだすと止まらないのは俺よりハルヒが上のようだと知って、一山超えて冷静さを取り戻し始めた俺はそのギャップを楽しんでおくことにする。
その後少し話をしたところによると、ハルヒは昨晩デートを終えた帰り道にて偶然に古泉と鉢合わせし、それから雑談がてらに俺と正式に付き合うことになった報告をし――古泉からは、「おめでとうございます」と嬉しげな笑みをオプションに祝福されたという。どういう改変の結果そう落ち着いたのかは分からんが、ハルヒは自身の性格を弄ってからの事は一切記憶にないようだ。下手に覚えていられても誤魔化すのに苦労するから、ありがたいと言えばありがたい。

「で、長門や朝比奈さんには俺達のことはどう説明するんだ?」
「うーん、古泉くんに喋っちゃったし、他の皆に隠しとくのもフェアじゃないわね。……今日のSOS団会議で、あたしから直々に発表するわ。ついでに団内恋愛禁止令も解禁しなきゃね」
不運にも掃除当番を指名されていたハルヒは、先に文芸部室に向かう俺に厳命した。
「あたしが行くまで、ぜーったい喋っちゃ駄目よ!良いわね!」

指を突きつけられての命令がこんなに馴染んじまってるってのは、俺も相当毒されてるってことなのかね。






ハルヒを置いて辿り着いた部室には、長門と古泉がいた。長門は静かに頁を繰り、古泉は一人手持ち無沙汰なのか、オセロの駒を弄びながら白黒にひっくり返して物思いに耽っている。目元が赤いのは、まあ、今は見ぬ振りをしてやるか。
此方に気付くと、「どうも」と苦笑してみせるが、すぐに神妙な表情に切り替わる。古泉に漂う哀愁は、決別した感情を惜しんでいるようでもあった。刺をすっかり抜き取られた茨の如く。まるで毒気を抜かれたついでに悟りを開いたお釈迦様である。

古泉は指先に挟んでいた駒を弾き、盤上に転がす。黒を上にして、線の境目に倒れた。さっきがささっきだ。気まずさもないわけじゃない。俺は気にしてないことをアピールするに、駒を摘み上げて放り返してやった。
「まあなんだ、一戦やるか?」
「遠慮しておきます。今日はどうあっても、あなたに勝てる気がしませんから」
自ら分かりきった負け戦に励むのもつまらないでしょうしねと零す古泉。お前は普段から俺に負けっぱなしだろう、「今日も」に訂正しろ。何度負けても挑むのだけは止めない意気は汲んでやるがな。
「ふふ、そうですね。全く、その通りです」
目を細めて同意した男は、どうやら元の古泉だ。不安定な激情を露わにしていた、改変世界の感情を上乗せした古泉ではない。
「あなたや涼宮さんには御迷惑をおかけしました」
「あー」
シリアスに声色のみをスライドさせて、古泉は微笑みのまま目線を合わせてくる。適当な慰めじゃかえって傷心を抉ることになりそうだが、俺には上手い口上が思いつかん。話の矛先を意図的にずらして誤魔化しておくことにした。

「……機関には、今回の件はどう説明するんだ?」
「ありのままを。処分も検討されるでしょうが、その上で、団に残れるよう土下座でも何でもするつもりです。厚かましい話かもしれませんが……僕は、居られる限り此処に居て貴方がたと共に過ごし、行く道を見届けたいと思っているのです。赦されるなら、その手助けもね」
「そうか」
吹っ切れた古泉の表情は、やっちまったことに対しての責任感はあるにせよ、何処か晴れ晴れとしていた。
隠していた本音をぶちまけるだけぶちまけて、胸の支えが取れたのかもしれないな。
「心配しなくても、機関がお前をこっちに戻さないなら、俺達の団長様が機関に突撃をかますだけのことだ。機関の上司にもそう、啖呵切っとけ」
古泉がどうにかなりそうなら、ついでに顧問の鶴屋さんも巻き込んで、SOS団総出でデモ行進してやろう。ハルヒのことだ、今や団に必要不可欠な副団長殿を取り返すまであらゆる手を惜しみはしないさ。行き着くところ閉鎖空間乱発くらいはやりかねん。そうなりゃ否が応にも古泉を返却せざるを得ないだろうからな。
「……ありがとうございます」
睫毛を伏せる古泉は、珍しく口数少なく、穏やかに微笑んだ。すると、定位置で書物を手にしていた長門が不意に、面を上げた。眼鏡オフの見慣れた姿に戻った長門は、此方を――というより古泉を見つめ、ぽつりと零す。

「あなたに本来、責はない」
平坦な調子に、しかし悔恨を見て取ったのは俺だけじゃなかったようだ。古泉が「……長門さん?」と訝しんだ声を発する。
「――元は、わたしが暴走して生み出した改変世界が原因。あの世界が存在しなければ、あなたも感情の急変を強いられることはなかったはず」
文芸部室で待っていた長門が罪悪感を感じてる様子だった理由は、それか。
そう、思えば長門には今回の発端もハルヒや古泉の変貌の理由も総て分かっていたのだ。分かっていたけれどどうにも出来なかった、あの冬の日と同じように。長門はそれを己の力不足と認識しているらしい。

「責任はわたしにある」
「いいえ、長門さんのせいではありませんよ。勿論僕の行為に関して言い訳をするつもりもありません。あれも確かに僕でした。有り得たかもしれない僕の形でしたから」
かぶりを振った古泉はそう、長門の詞を否定する。
「あのままでいても、いつか、同じ事をしたのかもしれない。心は分からないものです。……けれどそれでも、抱えていく覚悟は出来ましたから」
「……そう」

長門は呟いて無言に返った。見詰め合っていた視線を逸らして落ち着くに、微妙なムードだ。何となく居心地が悪いな。
……俺はふとした思い付きに、背筋がうっすらと冷えるのを感じた。
長門、もしかしてお前は覚えてるのか?
寡黙な眼鏡の少女。俺の裾を引き、控えめにはにかみ、入部届を差し出してきたあの長門の感情を。俺にどちらの世界を取るかの選択を委ねこそすれ、お前が密やかに望んでいた日常の在り方を体現する存在だったのだろう「あの長門」であった自分のことを、今でも――
『解凍』された感情は、ハルヒの改変終了と共に、何処かへ姿を消したのだろうか。それともまだ、隅のほうで不完全燃焼を起こして、燃えカスが転がって起爆剤を待ってでもいるんだろうか。俺としては是非とも、前者を願いたいね。 

俺がそんなことを思いながら頬を掻いていると、そんな雰囲気を吹き飛ばす絶妙のタイミングで、まるでアクション映画か何かで蹴破られる見本を見せ付けるようにドアが勢いよく開け放たれた。
「よーっし、みんな、揃ってるわねっ!」
「こ、こんにちはー」
解説は不要だろう。すっかり元通りの元気溌剌な涼宮ハルヒと、此の度の改変事情も恐らくは関知せぬままのエンジェルスマイル朝比奈さんだった。ハルヒの髪はさっき確認したから当たり前だが肩までの長さのまんまで、あの長髪ポニーテールをもう一度拝みたかった俺としては残念な気持ちがないわけじゃないが、ここは喜んどくべきなんだろうな。
ひやりとする事もあったが、恙無く部室にまた五人が揃ったんだ。今ぐらいは、楽観的に口元を緩めたって文句は出ないだろう。

「遅れちゃってごめんなさい。すぐに着替えてお茶を淹れますね」
「みくるちゃん、それより前に告知よ。今日はSOS団緊急会議!色々と話すことがあるの」
俺をちらりと見て顔を一瞬赤らめ、ぷいと分かり易く顔を逸らしたハルヒは、メンバーを順々に見渡し、最後に古泉に太陽みたいに笑いかけた。
「古泉くん!前に相談しておいた、今度の合宿の企画表も一緒に発表しちゃうわ。準備はできてる?」
「はい、かしこまりました」 

大仰に手を胸に当て笑う古泉。それはごく自然な、敬愛する者に対する、優しい承知の一言だった。




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事態を把握していた奴が極々限られていたその改変劇は、世界を破滅間際に危ぶませるようなこともなく、そうやって痕跡も綺麗に拭い去ってひっそりと幕を降ろした。如実に変化を来したものといえば、例えばそれは俺が消失世界の選択に負った責務をふとしたときに思い返したりするようになったことで、古泉が晒す素の顔を、ほんの僅かに知ったことぐらいだろうか。 

平穏な日常を蹴って、非日常で理不尽な団長様、台風の目そのものに周囲を引っかき回し滅茶苦茶にして吹き飛ばしちまうハルヒの世界を俺は望んだ。これが俺が選んだ世界だ。ただ俺はきっと、忘れちゃならなかったんだろう。そこにいた奴らの事を、俺は切り捨てたも同然に踏み台にして元の世界に帰ったのだということ。
あの世界にも確かに人格を持ち堅実に生きていた、長門や古泉や朝比奈さんや、理想を求めて全力疾走していた涼宮ハルヒがいたことをさ。

シュレッダーにかけられた原稿に刻まれた文字の羅列が、破棄された恨みを抱えて舞い戻ってくる、なんてことは普通に考えて有り得ない話だ。だが今回の事はどうだったんだ?偶然に偶然が重なり合った事象による必然であったのだとしても、俺は改変世界のあいつらの恣意を思わずにはいられない。
選ばれなかった世界が、選ばなかった男に忘れられちまうのに腹を立てて感情をご丁寧に運び込んで復讐にやってくる。そんな馬鹿げたファンタスティックなことも有り得たかもしれないなんて、そんな風に疑ったりな。 

勘違いしないでくれ、もしそんな誇大妄想が真実だったとしても今の俺は恐れちゃいない。消したのは俺だ、怨念だか恨みつらみだかがあるならそっくり受け止めてやる覚悟はできてる。だが、ひっくり返されるのだけは勘弁だぜ。俺には選ばなかった世界と同じ分だけ、選んだ世界にも責務がある。捨てるわけにはいかないんだ。中途半端が一番格好悪いってんなら、俺は俺が選んだ世界を背負っていく。覆そうとする奴らがいたら、真っ向勝負してやるさ。

ただ、忘れない。俺が選んだ世界と、選ばなかった世界を忘れずにいることは、保証するとも。だから――
俺に出来るのはどうかいい夢を見てくれよと、空に向かって祈ることだけだ。


ジョン・スミスが旅立った、あの消失世界に。 



(終)


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