雲ひとつ無い、澄み渡った空。秋アカネが群れをなして、飛べない俺を嘲笑うかのように飛んでいる。
 木々の葉は麗しい緑色からくすんだ黄緑色へと変化しつつある。
 そう、世間は秋。見紛うことも無く秋一色。
 この前まで全力疾走をしていたお天道様の勢いも、白寿を迎えたご老体の如く衰退し始めていた。


 ああ、秋晴れとは今日のような天気のことを言うんだろうな。


 ――などと、モノローグに浸っている場合ではないのかもしれない。
 何故なら、俺は非常に不可解且つ不明瞭な一通の手紙を手にしているのだから。
 この手紙が意味するものは、まあ俺の脳内遡行をヒントに汲み取ってくれ。

………
……


 本日は木曜日。一週間の中日である水曜日を無事やり過ごし、後半戦に突入して、ああ休日まであと一日もあるじゃないかとやきもきしている日のことである。
 午後の授業――三角関数のグラフは余弦も正弦も位相がずれているだけで全く同じ、俺の脳波と同じだよなと一人ボケを入れ、テラローシャとテラロッサがどっちどっちだったか分からないからもっと分かりやすい名前を付けてくれ学者様、等と一人突っ込みを入れている間に午後の授業は終了した。
 本日の授業はこれで終わり。続くHR、そして不運にも回ってきた掃除当番を効率よく、且つ早急に終わらせた。
 今日の抜き打ちテストでお先真っ暗になった俺の心を癒してくれる、部室の女神様に早く会いたいからだ。
 分かっているとは思うが、一応断っておく。部室の女神様とは決して一部ディファレンシャルギアが抜けたアテーサイーティーエス搭載車の如くオーバーブースト気味に暴走する、自称普通の人間に興味が無いくせに人間味溢れるイベントが大好きな喜怒哀楽の激しい俺の席の後ろの女ではない。
 完全防備状態の具足を装備し、仰角15°くらいでやさしく放物運動を行うスポンジボールが当たって『痛いですぅ~』と仰いそうな部室、いや俺専用の愛玩(ちょっと語弊があるかな)のことである。
 早く至福の甘露を賜って、今日一日の疲れを癒したいものだ。さもないと俺の脳みそと十二指腸と頚椎間板がチアノーゼを起こしそうだ。
 俺は競歩選手に負けないくらいの速度で廊下を歩き(廊下は走っちゃいけません)、部室を目指していた。



 その時のことである。俺は廊下で突然呼び止められたのである。
「フッ、君がSOS団に入団している、通称キョン君、だね?」
 振り返ってみると、俺は一度も会話とした事の無い男子生徒との面会を果たした。

「……ええ、まあそうですが……」
 俺は少々間の抜けた返事とともに、寒気が全身を迸った。
 一度も喋った事の無い人、しかも同性の相手に『キョン君』と言われた俺の気持ちを察して欲しい。あの古泉でもそんなふうに呼ばないぞ。
 てか初顔合わせの人にまであだ名で呼ばれる俺って一体……
「君に頼みがあるんだ。これを涼宮さんに渡して欲しいんだ」
 俺がシナプスの袋小路に嵌っているのを余所目に、彼は俺に一枚の封筒を手渡した。
 特にデコレーションなども無い、普通の封筒だ。おまけに封すらしていない茶封筒。
 受け取った俺は、「これをハル……涼宮に渡せばいいんですか?」と言葉を返した。

 今思い出したのだが、彼は何度が見たことのある有名人だった。 
 彼は上級生……確か、朝比奈さんと同じ学年の、サッカー部所属のNo.9、エースストライカーだったはず。生徒会の体育部長を務め、その上成績優秀、容姿端麗。北高内でも五指に入るくらいモテモテの御仁である。
 実際俺のクラスにも何人か彼のファンクラブ(勿論非公式)に所属しているとかしていないとかと言う噂もある。
 まさかとは思うが……念のため、聞いてみよう。
「もしかして、これはラブレターというやつでしょうか?」
「君に答える必要は無いが……まあ、そんなところだ。僕の気持ちを連々と書いた、この文を彼女に届けてくれたまえ」
 彼は左手で髪をかき上げ、ニヒルなスマイルを一つ俺に差し向けてそそくさとその場を立ち去った。
 粘着せず用件が済んだら立ち去るその姿は中々渋いのだが、ナルシストなその言動は止めて欲しいものである。もっとかっこいい人だと思っていたのに少し幻滅である。
 ……ラブレター、か。古典的な方法ではあるが、相手に思いを伝えるにはまあ良い方法だろう。ただし、ハルヒ曰く、告白は面と向かって言わないとダメなのよとかなんとか……俺の知ったこっちゃないか。
 とはいえ、彼もなかなか面白いキャラである。このままハルヒと付き合ってもらうのも悪くないかもしれない。
 ハルヒの暴走を止めるために、彼を部員として歓迎するものもいいかもしれないな。
 ただ、個人的にあまり顔を合わせたくは無い。なんとなくだが、俺の神経が絶えられないような、そんな気がするからな。


……
………

 うん、思ったより短く話を纏め上げる事ができたようだ。
 つまり、俺はハルヒ宛のラブレターを受け取り、ハルヒに渡すように指示されたって訳だ。
 しかし、何で俺がそんな事をしなければいけないのだろうか?
 考えてきたら腹が立ってきた。俺はハルヒの付き人でも召使いでもない。

 ――おいそこ。何で変な顔をして笑っている?全く持って意味不明だ。
 俺とハルヒの関係を疑っているのか?残念だがそんな関係はさらさら無い。俺が親密な関係を築きたいのは朝比奈さんのほうだ。
 誰だってそう思うだろ?次点で長門を加えてやってもいい。
 ハルヒに関しては、あの性格が真逆になるまで無理だろう。もし真逆になったのならこっちから……いや、それはないか。第一ありえないし。

 くそったれが。考えれば考えるほど腹が立ってくる。それもこれもあいつが悪いんだ。
 なんだか異様にむしゃくしゃしてきた俺は、封筒の中身を見てやることにした。
 大事な恋文に『〆』の文字を入れて封止してないほうが悪いんだ。うらむなよ。
 そんな脳内ぼやきを敢行しつつ、俺はシワができないように丁寧に中の便箋を取り出し、広げて文章を見たのだった。

 そこには、ワードプロセッサを用いたのだろう。文字が均等に且つ流暢な明朝体によって、こう書かれてあった。





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 拝啓 涼宮ハルヒ様
 

 重大な話がある。
 今度の土曜日の朝九時、駅前の公園で待っている。
 その際に、今自分の胸の内にあるこの思いを打ち明けようと思う。
 そして、返答を聞かせて欲しい。
 俺の気持ちを受け入れてくれるかどうか。
 
 是非とも、いい返事を期待している。
 
                         敬具


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 う、うーむ・・・。
 なんと言うか、かなりシンプルである。見た目のキザったらしさとは違い、手紙としては必要十分、逆にそれ以上のことは書いていなかった。
 これだけシンプルだと、内容を読んで思いっきり馬鹿にしようかと思っていた俺がむしろ寒いじゃないか。
 てっきり俺の中では『貴女はシリウスやカノープス以上に光り輝いているよ』とか、『貴女の美しさに嫉妬して、秋桜たちが枯れてしまったよ』みたいな、読んで虫唾が走るような文章を想像したのだが。
 まあでも、普通を嫌うハルヒの事だ。余りにもラブレター然としていれば「つまんない」とか言って、そのままクシャクシャに丸めて、最近部室で流行りだした室内ベースボール用の玉に変化しそうだし、こうやって書かれれば少しは面白い事を期待するかもしれない。
 ただ、ギャグ漫画にありがちなパターン……『今こそわれら一族の思い……曽祖父の代から受けた恥辱の数々、今ここぞ晴らしてくれようぞ』みたいな展開になるのだけは避けたいものだ。
 そうだな、渡すときにはちゃんとラブレターである旨を伝えないといけないな。

 しかし、彼もハルヒに興味を持つってことは、もしかして、1年遅れでやってきた、特殊能力を持つハルヒの監視係のうちの一人なのだろうか?
 そうか、彼は恐らく異世界人だ。根拠は無いがそんな気がしてきた。俺の違和感の正体はそれだったんだ。
 彼の住む世界がハルヒのせいで滅亡を迎えようとしているため、彼は自分の世界を救うためにハルヒの動向を調査しにきたアウターゾーンの人なんだ。いや、そうに違いない。
 そういえば確か、SOS団設立の目的は、宇宙人や未来人(以下略)を集めて、一緒に遊ぶ事だったよな?
 良かったなハルヒ。お前の望む、全ての特殊人間(?)は全て揃ったぞ。あとは彼ら彼女らと好きな事をして遊んでくれたまえ。
 これで俺はお役御免だ。
 彼はSOS団のギャグ担当(根拠は無いがなんとなく俺がそう思う)として名を馳せるに違いない。その名声は北高はおろか、市内、いや、ハルヒも組み合わされば県内に轟かせることも夢じゃない。
 いい人材を確保したな。俺よりもよっぽどSOS団向きだ。俺は彼の代わりにサッカー部に入部することにするさ。
 欠点として、俺は彼程のサッカーの腕前は持っていない。少々やっていく自身がないのだが、まあ嫌いではないし、それなりに楽しんでみる事にしよう。
 これはかなりおいしいトレードとなるな。やれやれ、今からスパイクをとボールを買わなきゃな。うむ、ちょっとワクワクしてきたぞ。

 先ほどまでのグルーミーな気分から一新した俺は、軽い足取りで部室へと向かっていった。

 

「キョン、遅いわよ、罰金!!」
 安っぽい張り合わせの板でできたドアをノックをし、聞えてきた最初の台詞がこれだ。
 遅いも何も、俺は掃除当番だったんだ。遅くなるのはお前だって知ってただろうが。
「そんな事は分かってるわよ!でも他の誰も来ないから暇なの!全てあんたが悪いのよ!」
 何で俺が……いいや、どうせ何を言っても俺のせいにされるんだ。だがしかし、どうして誰も来ないんだ?
「さっきみんなからメールが着てたわ。古泉君は所属委員会の仕事があるみたい。有希はお隣さんが作成したソフトのデバッグを行っているし、みくるちゃんは進路指導相談をしているみたい」
 そうか、なら、仕方ないな。
「仕方なくは無いの!あんたが掃除をタラタラやっているから駄目なのよ!掃除なんてもんはね、ゴミがありそうな部分と自分の周りだけチャチャっと済ませて、溜まったゴミは廊下の窓からゴミ捨て場に向かってヒョイーって放り投げればすむ事なのよ!」
 まさか、いつもそんな掃除の仕方をしているのか?お前は?
「そうよ」
 そうよって、、、まあいい。今度から俺の周りも多少は掃除してくれな。
「キョンの机はあたしの机の前だし、何よりあんたはSOS団に所属しているから、多少は綺麗にしてやってるわよ。まあ知り合い価格って奴よ。感謝しなさい」
 へいへい、有難う御座います。これからもよろしくお願いしやす。
「っと、そんな事を話している場合じゃなかったわ。あんた、早くあたしの暇をつぶせる方法を考えなさい!!」
 どうやらハルヒは暇で暇でしょうがないらしい。この前コンピ研の連中が開発した新作恋愛アドベンチャーゲームを無償配布してくれたのにあれはどうなったんだ?
「どうした?ゲームはクリアしたのか?」
「あんなのゲームじゃないわ!操作性が悪いくせに変にエフェクトだけは凝っていて目が痛くなるし、何よりエンディングが夢オチって言うのが許せないわ!」
 何だかんだ言いながらも最後まではやったらしい。部長氏が言うには、ミステリアス要素と、それを解決するためのディテクティブシナリオも含んでいるから、どんなに頑張っても一週間はかかるとの事なのだが。
 しかし、ハルヒにそのゲームを手渡されのは今週始めである。と言う事は、こいつは3日程でこのゲームをクリアしてしまったらしい。
 確かに今週ハルヒは部室のPCの前でにらめっこをしており、俺たちも特に何もする事も無くのほほんと過ごしていた。たまに何やらうめき声が聞こえてきたが、俺が呼ばれたわけではないので無視っていたが、ずっとゲームをやっていたとは……だがおかげでハルヒの面倒を見なくてもすむという、大変有意義な3日だった。
 「有希が帰ってきたら一緒に文句を言いに言ってやるわ!……それはそれとして、今現在の暇をつぶす方法を考えるわよ!」
 ハルヒは50年経ってもいまだ輝き続けるブラックパールのような目を俺に向けていた。
「キョン!何か面白い事は無いの!」
 俺はハルヒの言葉に沈黙を貫きとす。俺にとっての面白い事は、こいつにとって面白い事はとは限らない。
 かといってそんな事知った事かじゃあななどといった日には、別世界でのっぺらぼう然とした巨人と戦うスーパーアビリティを持つ少年に怒られかねない。
 毎回毎回この手の話題で困るわけだ。さて何かハルヒの興味を引く、いいものが無いかね?

「キョン、何それ?」
「んあ?」
 俺はハルヒが指差した部分――俺の左胸の、ブレザーのポケットを見つめる。
 そこには俺が先ほど預かった便箋一通が入った茶封筒が収まっていた。
「何なのよ、それ!見せなさい!!」
 ハルヒは電圧をかけた発光ダイオードの如く目を輝かせ、俺の胸ポケットめがけて突進していた。
「こ・・・、こら・・・!」
 
 俺は一応の抵抗を試みようと画策したのだが、これほどポジティブなハルヒに対抗しても勝てないのは俺が去年から悟っている、健全に人生を過ごす方法の一つであり、それにどうせいつかはバレてしまうだろう。
 ならば早々の内にばれてしまった方が俺も気が楽というものだ。
 だが変なところだけは妙に感づくこの団長のことだ。抵抗もせずに見せたものなら「怪しい。さてはこの便箋、オトリね。本物を出しなさい!」等とあらぬ疑いまでかけられてしまうに相違ない。
 そんなわけで、俺は本当に嫌がっている演技をしつつ、ハルヒに茶封筒を自ずから奪わせることにした。
 
 ……したのだが、まさか突然懐に入って山嵐を決められ、受身を取れずもがいているところに縦四方固めが来るとは思わなかった。
「あ……ぐ……ぁ…………」
 受身を取れなかったから声など出るはずも無く、その上固められたら本当に抗うことすらできない。
「……たく、大人しく最初から渡せばよかったのよ」
 ハルヒはそう言って、俺の胸ポケットにある封筒を強引に抜き取り、中から便箋を取り出しニヤニヤ顔で読み始めたのだ。
「なになに……拝啓、涼宮ハルヒ様……」
 俺に馬乗りになった状態で便箋の内容を読み出すハルヒ。ようやっと暇つぶしの当てができたのか、その口調は朗々たる物だった。
 しかし、その口調は直ぐさまバニッシュした。俺がハルヒの声を聞いたのはここまでだったからだ。
 これ以降は口は動いているものの、実際に何を言っているかは俺にも分からなかった。
 そしてハルヒの表情も、前髪に隠れて読み取ることはできなかった。

「………………」
 あな珍しや。ハルヒが長門級の無言を貫いている。もしかして、長門と中身が入れ替わったりしたのか?
「キョン」
 どうやら違うらしい。長門は一度も俺のことを意味不明なあだ名で呼んだことは無い。
「何これ?」
 ハルヒは俯いたまま、淡々とした口調で俺に問い掛けた。何って言っても、俺には手紙としか思えないんだが。
「そう」
 『そんな事分かってるわよ!』というツッコミが来ると思ったのだが、やっぱり長門のような反応をしたのみで、ハルヒは再び便箋に目を落とした。
「……どういう意味、これ?」
 どういう意味も何も、これだけストレートに物事を書いてあるんだ。書いてあるとおりに行動したらいいんじゃないのか?
「うーん……」
 やや、いや、かなりのローテンションで曖昧な返答するハルヒ。まるでラブレターに対する耐性が無く、どうしたらいいか分かりません、といった表情であった。
 それにどうして俺がこの手紙の内容を知っているのか、そんなことすらツッコまなかった。何故だろうね。
 
 暫く呆けていたハルヒだが、やがて目と口を吊り上げて、
「全く、何でこんな回りくどいことするのよ!大事な事なら面と向かって言えばいいじゃない!」
 何故か俺の方を向いて、怒気を孕んだ声で喋りだした。いや、俺に怒られても困るのだが。この手紙を書いたのは俺じゃないからな。
 だがしかし、ここはハルヒと例の彼の仲を取り持つためにも、フォローしてあげることにする。仲人は面倒くさそうだから、その代わりみたいなもんだ。
「二人っきりになって言いたい事もあるんだよ」
「何よ。二人きりじゃないと言えない事って。あんたもしかしてやましい事でもしたんじゃ……」
「まあ少しは素直に考えろ。お前が普通じゃない事に興味があるのは分かっているが、相手の気持ちを汲み取って、普通の事も考えてみろ」
「普通の事って何よ?」
「お前考える気は無いのか?男が女を呼び出して伝えたいって事が何なのか、ちょっと考えたら分かるだろ?」
 ここでハルヒの動きが一瞬止まった。
「……え?もしかして……???」
「ま、あとはご想像にお任せするわ。当日までのお楽しみってことだ」
「……ふん、わかったわよ。せいぜい楽しみにしてあげるわ!」
 ああ、俺も楽しみにしているぞ。ハルヒ。お前が彼と付き合おうとフろうとも、ややルーティン気味だった日常に変化が訪れるわけで、それをウォッチするだけ俺はお腹いっぱいだ。
 お前はもっと刺激のある日常を目指しているかもしれないが、俺はこの程度の刺激がちょうどいいんだ。
 だからちょうどいいだろ?お前が当事者で、俺が傍観者だ。これ以上ピッタリな役回りは無いだろう?

 その後もハルヒとくだらない会話を繰り広げていると、徐々に部員達が集まり始まり、そしていつもの光景へと収まっていった。 
 俺は朝比奈さんのお茶を飲みつつ、当日は早起きして、どのように隠れて写真を撮るか、その構想で頭がいっぱいになっていった。
 早く土曜日になって欲しいものである。


 





 日は変わって土曜日……ではなく、金曜日。つまり、恋文を手渡された次の日ということだ。
 本来ならこの日一日を説明してもあまり意味はないため、俺的にはさっさと次の日の状況を説明したいのだが、ちょっとハルヒや他の面々の行動が気になっていたので、念のためこの日の状況も説明する事にする。

 俺はいつもの強制トレーニングコースをいつもの13%増しの速度で駆け上がり、そして勢いよく4階の教室目掛けて2段飛ばしで階段を上っていく。
 例の恋文のせいで楽しみが増えた俺は、昨日からテンションが気持ち高めなのである。
 ただ、ちょっと高すぎたためか昨日の夜寝るのに時間を要し、今朝妹のボディプレス一発喰らっても起きない程深い眠りに陥っていたのはご愛嬌と捉えてくれるとありがたい。
 しかし、それも仕方ないだろう?昨日のやりとり――あのハルヒの呆けた顔――は、俺の記憶の中に鮮明に書き加えられている。思い出しただけでニヤニヤが止まらない。
 古泉。今ならお前の笑い方にも共感してやるぞ。何せ俺は気分が良いのだからな。

 あっという間に4階にたどり着き、自分の教室の後ろのドアを開く。
 俺の席の後には、窓の外をずっと眺め、こちらには全く顔を向けない団長様の横顔があった。どうやら俺とは対照的に機嫌が悪いようだ。
 何でそんなこと知ってるのかと言われれば、そこは俺がこいつと暫く生活を共にしていれば自ずと分かってくるものなのだと回答せざるを得ない。
 最初に断っておくが、同居しているって意味じゃないぞ。クラスも部活(団活)も同じで、その上入学してからずっと後ろに座しているとなれば、こいつの性質など九分九厘お見通しってもんだ。
 っと、そんなことをムキになって説明しているとまた在らぬ疑いを掛けられてしまうな。この話はここまでだ。
 ともかく、ハルヒは機嫌が悪い。触らぬ神にたたりなしって訳で、あまり話し掛けないほうがいい。
 だが、全く話し掛けないとまた違う意味で機嫌を悪くする。これについては俺の経験と、古泉の相談により発覚した事実である。
 実は以前に今日と同じような事があったのだ。ある日の朝、ハルヒが余りにも機嫌が悪そうだったので、挨拶をしたのみで何も話し掛けなかったところ、1時間目の終わりを告げるチャイムと同時に古泉からのメールがきたのだ。
『涼宮さんのご機嫌を取って下さい』と。
 詳しくは分からないが、こいつは機嫌が悪いからと言って何も対処しないと、一層機嫌が悪くなるそうなんだ。
 中学生の時は大変だったらしい。当時孤立気味だったハルヒに愚痴を言う相手などいるわけがなく、一旦不機嫌になればその度合いは日々増すばかりだったという。
 おかげで古泉の深夜残業は暫く終わる事が無かったそうだ。中学生の深夜バイトは青少年保護条例で違反だぞ。ん?高校生もか?

 そんなエピソードもあって、俺はハルヒの不満の捌け口になってやることになったのだ。
 古泉に頼まれた当初はお引取り願いたかったのだが、ものは考え様とはよく言ったものである。
 古泉に借りを作っておくのも悪くないし、ハルヒの機嫌が悪い理由を聞くのはこれはこれで中々楽しいものである。ハルヒは不機嫌である理由を何だかんだ言いつつも語ってくれるからな。
 ○月×日。昨日の晩に食べたニラ玉炒めのニラが奥歯に挟まって未だ抜けなくてイライラする。
 △月◇日。髪の毛の中に一本だけ生えている白髪を抜こうかどうか悩んでいる。
 ♂月♀日。朝比奈さんのメイド衣装をこっそり着て、胸の部分がやたらと余ってしまった事にコンプレックスを感じる。……等等。
 十人十色、三者三様とは人それぞれの性格や趣向が異なることを意味するものであるのだが、ハルヒの不機嫌な理由は正しくその諺がピッタリ当てはまるようで、本当に別人各がいるかのようである。
 もしかして涼宮ハルヒの人格は何処かの誰かみたく24人いるとか、そんな訳ないよな?

 こうしてハルヒが不満を俺にぶちまけるのだが、俺には体面上は特に機嫌が直ったようには見えない。しかし自称特定人物精神科医には分かるようで、夜のバイトが減ったと感謝されていた。
 ハルヒからも一度っきりではあるが、『あんたには言いたい事が好きなだけ言えるからストレスが発散できていいわ』、と誉められた(?)事もあった。
 まあその日の休み時間は全てハルヒの愚痴を聞かされたるため、俺的には実りの無い一日になるんだけどな。

 はい、回想終了。それよりも現状に備えなければいけない。取り敢えずハルヒには普通に接する事にしよう。

「よう」
「………………」


 予想通り、ハルヒは不機嫌であった。



 時間を少し進めて2時間目と3時間目の休憩時間である。
 休憩時間といえば、多少の例外を除けばハルヒは決まって教室を去り、教室外の彼方へと赴くのであるが、本日は多少の例外を行いたい気分だったのだろう、ハルヒは教室の自分の椅子に座したままであった。
 では何をしているのかというと、特に何もしていない。
 もう少し正確に事を伝えよう。ハルヒはHRが始まる前と同じ事をしていた。つまり、自分の席から空を見上げているのだ。
 しかも恐らくではあるが、朝からずっと空を見ているようで、本日俺は後ろからシャープペンでつつかれたり、唾を吐き掛けられたり、襟首を捕まれて引き寄せられたりはしなかった。 
 メランコリーというよりは、魂が抜けたイタコさんのような表情が表立っているようで、唯唯呆然としている。
 それが本日のハルヒであった。

 このままずっと空を見つづけてくれればそれこそご近所様に害を及ぼす事など無いと思うのだが、例の副団長様はそう思わないらしく、1時間目の終わり頃、やはり奴からご機嫌取り催促のメールを受信したのだ。
 やれやれ、そろそろ話し掛けないと団長も副団長も機嫌が悪くなりそうだ。しょうがない、一頑張りと行こうかね。
 俺は『なあ』とハルヒに声をかけてみた。「どうしたんだハルヒ?ずっと空を眺めたりして。鴨が葱背負ってクローバー飛行でもしてるのか?」
「……何よそれ」
 言うハルヒの声はやっぱり不機嫌時のそれであった。
「いや、そんな夢を見たからな。もしかしたら正夢になってるのかと思って聞いてみたんだ」
「ふん、脳天気ね、あんた」
 悪かったな。お前のためを思って話題を提供してやったのに何て言い草だ。
 文句の一つも言ってやりたいところだが、ハルヒの機嫌を損ねてしまうと、古泉が必要以上に顔を近付けて俺に精神的ストレスを提供して来るだろう。それは勘弁願いたい。
 とは言え、そうでなくても既に俺のピュアなハートは傷付いており、この精神的ストレスは何かしらの形で償ってもらいたいものである。

 そんな思いをハンドミキサーでぐるぐるかき回していると、俺はハルヒが漏らした、愚痴とも不満ともつかない、妙な言葉を耳にしたのだ。
「……あたしがこんなに悩んでいるってのに……」
 俺もハルヒの近くにいたせいか、デビルイヤー並の地獄耳を特殊能力として身に付けたようだ。
 本当は俺に聞こえない声で言うつもりだったのだろうが、そうでなければあの超強気女がこれほど弱気な発言をするとは思えない。

 さて、それはともかく、俺はこのハルヒの発言にクエスチョンマークを点灯させた。
 普段から思い付いた事を突拍子も無く実行に繋げ、気に入らない事は溜め込まずに辺り一面にブチまける、傍若無人天真爛漫大胆不敵なあの涼宮ハルヒ(御年たぶん16)が悩んでるだと?
 なるほど。そういうことか。今日機嫌が悪いのはその“ナヤミゴト”とやらのせいだろう。
 よしよし、その“ナヤミゴト”やらを聞いてやろうじゃないか。そうすればハルヒの機嫌も良くなるし、古泉の奴も俺に感謝するに違いない。
 先ほども言ったとおり、本日の俺の機嫌は↑↑状態なのである。今なら我儘な団長さんの愚痴を聞いてやっても太平洋のように広い俺の心が受け止めてくれるってもんさ。

 俺はハルヒにできるだけ朗らかな顔を持って接する事にした。
「どうしたハルヒ。なんだか随分と悩んでいるようだな。何なら相談に乗ってやろうか?」
「…………」 
 だがしかし、この質問にハルヒは答えない。俺はふう、と息をついて言葉を続ける。
「一人でウジウジするよりは誰かにパーッと話して気分もスッキリした方がいいぞ。お前だって昔そんな事言わなかったか?」
「…………」
「何でもいいから言ってみろ。別に笑わないからさ」
「…………」
「甘い物の食べ過ぎで太ったのか?面妖な質屋で奇妙なグッズを買って金が無くなったとか?あ、それとも昨日の抜き打ちテストができなかったんだろ?あれはヒドかったよな。三角関数の和と積の公式なんて全部覚えられねえよ」
「…………」

「ううむ」と唸る俺。本日のハルヒはどうもしぶとい。
 いつもならこの辺で不機嫌である理由を1から10まで語って、『キョン、何とかしなさい!』と言うべきシーンなのだが、今日に限ってはそんな態度をミジンコのミの字すら見せず、ひたすら沈黙を貫いているのだ。
 意固地気味の態度のハルヒに、俺もまた意固地になって様々な理由を上げ、ハルヒはそれに沈黙という形で答えを返していた。そして――

「う~ん、これでもないとすると……ああ、分かった。あの手紙の事を考えていたんじゃないのか?」
「……!」
 それまで何を問い掛けても無反応だったハルヒだが、僅か、ほんのフェムトジュールも無いくらいの微妙な振動エネルギーだったが、遂にレスポンスを確認することができた。
「ははぁ。どうやら図星だな。なんだ、そんな事で悩んでたのか?ハルヒらしくもない。あんな手紙でオドオドするなんてお前も結構……」



「うるさい!!!黙れ!!!」



――俺の耳元に衝撃波と轟音が響き渡り、そして教室は静寂に包まれた。
 ハルヒの表情は不快指数パラマウントに達していた。これ程不機嫌なハルヒを見たのは、高校に入学して間もなくの、SOS団を作る事を思い付く以前のハルヒ以来ではないだろうか。

「…………」
 ハルヒはそれっきり何も喋らなくなり、更に不機嫌オーラを普段の65.9%程増状態で在らぬ方を向いて動かなくなったのだ。
 ……古泉スマン。ハルヒの機嫌を取ろうと思ってたが、むしろ悪くさせちまったようだ。
 少し責任を感じた俺は、古泉に謝りのメールを入れる事にした。
 これで許してくれるかどうかは知らないが、俺だってハルヒの機嫌を悪くするためにした事では無いし、古泉もその辺は汲み取ってくれるに違いない。
 

 その後の授業も、ハルヒは黒板ではなく秋空に広がるまだら雲を見続けていた。この間に一度も注意されたりも問題を解くよう言われなかったのは奇跡に近い。俺なんか三回も当てられたのに、こんちくしょうめ。
 この差は一体どこから来るんだ?もしかしたらハルヒは透明になる魔法でも知っているのだろうか。機嫌がいい時にこそっと聞いてみる事にしよう。

 授業中、達磨大師のように椅子に根を生やしてその場を動かなかったハルヒであったが、流石に昼休みには席を立ち飯を食べに行ったようである。今ここにハルヒの姿は見あたらない。
 俺はいつもの面子と4時間目の授業で返却された抜き打ちテストの点数についてディスカッションをしながら飯を食べている。そんな中。
「なあキョン、痴話喧嘩は教室の外でやってくれよな」
 冷凍ものと思われるクリームコロッケを頬張りながら谷口が語りかけた。
「何だ、痴話喧嘩というのは?」
「痴話喧嘩じゃないのか?ああ、夫婦喧嘩か。スマンスマン」
 どっちも却下。俺がいつだれとどこでそんなことしたって言うんだ?
「3時間目前の休み時間、涼宮と、教室内で、だ」
「あれがお前の目には痴話喧嘩に見えたって訳だ。谷口、お前の目の機能は人間のそれを逸脱している。今すぐ眼科に行くことをお勧めする」
「馬鹿言え、そう思ってるのは俺だけじゃないぜ。クラス中の奴がそう見えたに決まってるさ。な、国木田?」
「うーん、痴話喧嘩っていうのは些か抵抗があるけど、夫婦喧嘩っていうのには賛同できるね」
 こら国木田。お前まで何を言いやがる。
「キョン、女性には優しくしないといけないよ。たとえ涼宮さんであってもね。涼宮さんだって、それを望んでいるのかもしれないし」
「大丈夫だ。それはない。あいつに限ってそれは断固としてない」
「いいや、わからないぜ。涼宮のやつ、キョンがつれない態度だからああやって気を引こうとしているのかもしれないぜ。ガキのころ、好きな女の子を苛めて気を引こうとしたじゃねーか。それと一緒だよ」
「へえ、谷口はそんなことしてたんだ」
「……っ!!馬鹿言え!!聞いた話だ!」
「どうだか。で、それはうまくいったのか?」
「だから聞いた話だって言ってんだろ?……それより、涼宮と何があったんだ?聞かせろよ」

「うーん……」
 ここで俺は悩んだ。このことを話してもいいものなのかどうなのか……
 まあ、別にいいか。どうせ何時かはばれるんだし。
 俺は二人に昨日の出来事と、先ほどのハルヒの会話を簡単に説明した。

「……で、その手紙の事を言った瞬間、いきなり噴火、爆発したって訳だ」

『…………』

 あれ?何で二人ともノーコメント?てっきり谷口辺りが爆笑してくれると思ったのに。
「なあキョン。お前、涼宮が怒った理由がわかんないのか?」
 さて、何でだろうね。ラブレターのことをからかったからだと思うんだが。
『はあ…………』
 二人同時にため息をつく。そんなに俺が悪者か?
「流石に今回は……」
「涼宮に同情するぜ……」
 そう言ってまたしてもため息を同時につくのであった。
 ……やれやれ。俺が何をしたって言うのかね。

「ま、そういうわけで俺は二人の告白の瞬間を見に行こうと思っているんだが、二人ともどうだ?衝撃の瞬間を分かち合わないか?」
「……お前、結構悪趣味だな。涼宮に見つかったらどうするんだ?」
 悪趣味で悪かったな。だが谷口に言われるのは心外だ。
「その辺は抜かりは無い。毎週の団活のせいで、あいつの行動パターンは分かっている」
「……なるほどな。よし、俺は見に行こう。結果はわかっているが、今回涼宮がどんな行動をするのか楽しみだからな」
 そう言って谷口は俺の方を向き、気持ち悪い顔を浮かべて笑っていた。古泉とは違い、下品な笑い方をする奴である。違った意味で寒気を覚える。
「じ、じゃあ土曜日の八時半に駅裏に集合だ。ハルヒは駅から出てくるはずだから、間違っても駅前に集合するなよ?」
「ああ、わかったぜ。国木田はどうするんだ?」
「僕は遠慮しておくよ。こそこそ隠れて見るのは性に合わないしね。結果を月曜日にでも聞かせてもらうよ」

 というわけで、ここに『涼宮ハルヒの告白シーンウォッチ隊』がにわかに結成されたのだった。
 
 そんなこんなで飯が終了し、後片付けをしようと立ち上がった瞬間、俺は窓の外を眺めていた。グラウンドで見知った顔が見えたからだ。
 その見知った顔――素直にハルヒと言っておこう――が、グラウンドでしている行動は、誰の目から見ても奇妙な物に違いなかった。
 腕を組んで頷いていたり、両手を合せて足をクネクネしてみせたり、鉄棒に腕を絡めたり……一体何がしたいんだろうか。
 ハルヒの奇行は今日に始まったことではないので、誰もそれほど気にはしてないだろうが、俺には何故かそれが気になったのである。
 昼休みが終わる直前に帰って来たハルヒにグラウンドで何をしていたのか聞いた。
 だが、まだ機嫌が治ってなかったらしく、ガチョウの嘴よろしく口をひん曲げて、『あんたには関係ないでしょ』と一蹴されてしまった。

 

 更に時間を進めて放課後。ハルヒはようやく俺に話しかけてくれた。
「今日の部活、あたし用事があるから行けないわ。団活は中止でいいから、皆に伝えといて……それと、わかってると思うけど、明日の不思議探索も中止だから、これも皆に伝えといてよね」
 ハルヒはそれだけを言い残して早々に帰宅してしまったのだ。
 一応何で早く帰るのか聞いてみたのだが、ハルヒはジト目で睨み、押し殺した声で『明日の準備をしたいのよ』と語ったのみであった。
 明日の準備、ね。なるほど。ハルヒだって女の子だ。それなりに準備が必要なのだろう。
 それに高校生活の思い出として、1回くらいはバッチリキメたハルヒっていうのも見てみたいもんだ。そんな感情が芽生えた俺は、ハルヒにハッパをかけることにした。
「期待してるぜ。誰もが驚くくらい綺麗に着飾ってこいよ。デパートで衣服やアクセサリを購入して、明日の朝イチに美容院でヘアスタイルをセットしてきてくればもう完璧、言うことなしだ」
 俺がそう言うと、ハルヒは「ふんっ」と鼻を鳴らし、拗ねたように顔を背けて俺から遠ざかっていった。

 団活が中止になったとは言え、自宅に帰っても特ににすることなどない。暇を持て余してる俺は、いつもの癖で自然と足は部室に向かっていた。
 一日一回は目と舌の療養をしないといけないからな。
 部室にはいつもどおり、ハルヒの言い付けを愚直に遵守している朝比奈さんと、これまたいつもどおりハードカバーと睨めっこをしている長門の姿があった。
 古泉の姿はない。まだ来ていないだけかもしれないが、もしかしたら世界の平和を守るべく、戦隊ヒーローその1となって灰色の世界で戦っているかもしれない。
 俺は朝比奈さんと長門にハルヒの言伝を伝え、そして朝比奈さんとバックギャモンをしていた。
 
 時間がよそ風のように優しく、しかし確実に過ぎていく。
 勝負に熱中しているその時、パタンと本を閉じる音が聞えた。何時の間にか、空の彼方が橙色に輝き始めていた。

 結局古泉は姿を現さず、連絡事項を伝えるために、またしてもメールを入れる事になったのだ。


 
 こんな感じで金曜日は過ぎて行った。いよいよメインディッシュの土曜日である。

 





 遂に当日、土曜日がやってきた。当たり前であるが、現在のところ公立高校は週休2日制であり、勿論俺の高校もその例に漏れず休みである。部活や補習、模擬試験などが無い限り学校にいく理由は無い。
 そのため金曜日の夜は思いっきり夜更かしをし、次の日である土曜日は何時まででも寝てても構わないし、起こされる理由も無い。
 無いのであるが……
「おっはよ~、キョン君」
「げふぉっ!!!」
 奇妙な呻き声とともに、俺の視界が元の明るさを取り戻す。何時の間にか妹が俺のベッドの上に上がりこみ、俺をトランポリン代わりにして跳ねていた。
 よく見ると、俺のベッドに永住を決めたもと野良猫のシャミセンも不満タラタラの表情で、しかし妹に抱えられていた。
「朝だよっ。おーきーてぇー」
「わかっ、たか、らやっ、めろっ、」
 まぁつまり、土曜日はこうやっていつも起こされているのだ。正確には日曜祝日もだけどな。
 だが、毎週毎週こうやって起こされるのにも慣れてきている自分がいる。そのうち叩かれたりしないと起きない体質になってしまうのかも知れん。真性のM体質になる前に目覚し時計でちゃんと起きられる体を作り上げていかなければな。それに今日は……

「しまった!!」
「きゃ!!キョン君~、いきなり起き上がらないでよ~」
 俺のベッドの隅で転げた妹及びシャミセンは無視。急いで時間を確認する。
 8時02分……おっと、いま秒針が12の部分に来たから、03分。
 などとのんびり時計を見ている場合ではない!このままでは遅れる!!
 俺は即行着替えて、顔を洗いに洗面所に向かった。
「キョン君ー!ごはんはー?」
「要らん!」
 そう言って俺は玄関を開け、急いで自転車に跨ったのだ。



「お、キョン。来たか。だが5分の遅刻だぜ?」 

 北口駅前。毎週不思議探索に集合する場所から少し離れた公園で、俺は谷口と一日ぶりの面会を果たした。
 自宅から駅前まで自転車で飛ばせばそれ程時間はかからないのだが、今日に限って工事渋滞や赤信号にやたらとひっかかり、自ら言い出した集合時間に間に合わなくなってしまった。
 なお、集合場所は彼とハルヒの待ち合わせ場所に程近い、草の茂みの中である。普通こんなところを集合場所にはしないのだが、今日はハルヒに見つからず尾行するためだ。仕方あるまい。
 ただ、長時間隠れていると警察が飛んできそうなのでできれば長居はしたくない。願わくば二人とも予定より早く来て、ちゃっちゃと事を進めて欲しいものである。

「ああすまなかった。缶コーヒーくらいならおごってやる」とは俺の弁。遅れたから仕方ないだろう。
「おおそうか、それはありがたい。実は俺も集合時間ギリギリで到着したんだ。キョンがまだ来てなかったから助かったけどな」
 毎週土曜日は何故か俺のお金で皆が喫茶店で好き好きに飲み物を注文するため、俺の財布が一段と軽くなる日であるのだが、本日はそうならなくてすみそうである。缶コーヒー一本でいいとは、むしろこっちが助かったぜ。
 助かったと言えば、谷口は何が助かったのだろうか?ちょっと問詰めたいが、それよりハルヒの観察のほうが先だ。

「谷口、観察対象は既に到着しているのか?」
「男の方はまだ来ていないみたいだが、涼宮ならもう来てるぜ。ほら、あそこ」
 悪巧みをしている悪ガキの表情を醸しつつ、谷口は親指を俺の右斜め後ろの方を指差す。そこにいたのは……

「…………」

 俺は、あまりの展開に感嘆する事すら忘れ、その場に立ち尽くした。
 絶句。言葉にならない。 というより二の句が告げられない。
 触覚や嗅覚もその機能を停止している。かろうじて俺の聴覚と視覚――横で谷口がニヤついているのだけがはっきりと分かった。
「ああ、俺もビックリしたぜ。あいつがあんなに粧しこんでくるとはな」
 言って谷口は、視線と焦点を俺から外し、ベンチの近くで物静かに立つ美少女――ハルヒにスケベ面を向けていた。

  ちょっと話が逸れるが、俺の周り、俺に関わっている北高の女子生徒というのは、幸か不幸か、美人が勢ぞろいである。
 前々から言っているが、ハルヒは性格以外の面では非の打ち所が無い。容貌に関しても黙っていたらという条件はつくものの、かなりの美人の類である。それは素直に認めよう。
 ハルヒもそうだが、朝比奈さんにしても長門にしても北高の女学生の平均レベルを超えているし、鶴屋さんだって、そして思い出したくは無いが朝倉だってそうだと言っても過言ではない。
 そういう意味では俺はかなり恵まれていると神に感謝しなければならない。
 しかし、慣れと言うものは怖いもので、俺の中ではそれが当たり前のことになっていた。一般男子学生が聞いたら殺されかねない発言だが。

 ところが今あそこに見えるハルヒは、そんな目が肥えた俺ですら驚愕するくらい、華美で艶やかな雰囲気を身に纏っていたのだ。

 少し細かく見ていこう。ハルヒの誂えた衣服やアクセサリは、反則なほど似合っていた。そう、ハルヒは見る者を全てを振り向かせるかのごとく、自分自身を綺麗にコーディネートしていのだ。
 いつもの週末、不思議探索の際のハルヒの格好は決して貧相なものではなく、むしろモデルの良さが引き立つ程の服装を纏っていたのだが、だからと言って全てのものを魅了する程では無かった。
 普通の人間に興味が無いとは言いつつも、自身の服装に関しては、流行に踊らされてはいないものの今時の大多数の女子高生と大差は無い、と俺の記憶の中味が証言している。
 しかし、今俺の視界に入ってくるハルヒの服装はいつもとは明らかに異なっていた。とはいえ、ファッション業界に不得手な俺は、何が違っていたかというと、正直よく分からん。
 ただ、何と言うか、いつもより気合を入れましたよみたいな、一流プロデザイナーがオーダーメイドで設計してくれたものを服飾職人が手業で縫い上げたものを用意しましたみたいな……

 ……何を言いたいのかよく分からなくなってきた。有体に言えば、そうだな、いつもとは着ている物も、そしてハルヒ自身から滲み出るオーラも異なっているのだ。
 それ一番伺えるのは、あの表情、あの目である。いつも悪巧みを考えているときの野心的な目とは異なり、真剣かつ真摯な目をしていたのだ。俺や谷口が悪ふざけで告白シーンを見に来たのがバレたのなら、俺達は本気で抹殺されるかもしれない。それ程真剣そのものの表情である。
 髪型もいつもとは違う。トレードマークであるリボンつきのカチューシャはそのままだが、後ろ髪を纏め、アップにしてある。
 俺は個人的にポニーテールという髪型が好きなのだが、それは髪の毛が長い人がやってこそ栄えるものである。ハルヒくらいの長さで髪を纏めても、中途半端な長さの毛筆と同じであり、通常より上乗せされるほどの魅力を感じられない。
 アップにするにももう少し長さが必要なのかもしれないが、こちらは髪が少々短くても魅力的に見えてしまうというメリットもあるようだ。おかげで少し見入って……いかんいかん、何を言っているんだ、俺。
 他にもいつもとは異なる点があったが、説明しづらいので伏せさせていただく。
「いやぁ~、あの涼宮がまさかこれほど化けるとはな……。おまけにあの服装。かなりイケてるぜ。そう言えば昨日、あいつはさっさと帰りやがったが、なる程デパートに寄って今日のための服を選んでたって訳だ。髪型も今朝美容院でセットしてもらったんだろうな」
 どっかで聞いたことのあるような与太話をしだす谷口。あいつ、俺が口からでまかせで言った事を本気で実行するとは……まさか、偶然だよな?
 俺がそんな内部葛藤を続けている間、なおも谷口は喋り続けている。
「元々の面構えは良いわけだし、あれだけしっかりしていれば鬼に金棒だ。黙って立ってたら10人中13人は声を掛けるぜ?」
 言い様のない内部葛藤をしつづけるのに飽き飽きし、回答を拒否した俺は谷口と会話する方を選んだ。「何故人数が増えている?」
「10人の男共が声を掛けるうちに、3人くらいあっち系の趣味を持った女性が声をかけるってもんさ」
「そういうもんかね。俺にはよくわからんが」
「そんなもんなんだよ。それよりキョン。お前、本当にいいのか?」
「何がだ?」
「あんな涼宮を見て、お前は何も思わないのか?」
「何も思わないって……いや、確かに綺麗だとは思うさ」
「そうじゃないだろ……あいつは今から他の男とデートするんだぜ?」
「デートするとは限らん。ただ男が告白をし、その返答を聞くだけじゃないか。それにフられたらそれでおしまい、ジ・エンドだ」
「文面上は確かにそうかもしれないが、涼宮はあんな気合の入った格好をして来てるんだ。断ってはいさよなら、で終わると思うか?恐らく告白を受け入れて、そのままお茶なり遊園地になり行くつもりなんだろ?」
「そんな馬鹿な」
「じゃあ何か?お前は涼宮がただ告白を受けるためだけに、あそこまで準備したとでも言うのか?違うだろ。間違いなくこのままデートしようって魂胆だぜ。それに前にも言ったかもしれないが、あいつは告白を断ったためしがないし、間違いない」
「その話は以前に聞いたが、あいつはすぐにフってしまうんじゃなかったのか?」
「確かに今まではそうだったが、だが冷静になって考えろ。今回のあいつの気合の入れ方は尋常じゃないぜ。それはあいつの格好、表情から読み取れるだろ?」
 俺はここで「ああ」と頷く予定だったが、何故か言葉に詰まり、「う゛……」としか言葉にできなかった。谷口はなおも続ける。
「俺のカンだが、あいつは今回短期間で交際を終わらせる気は無いと思うぜ。よく見ろよ。あんなに時間を気にしているってことは、よっぽど待ち遠しいって事だろ?」
 言われてハルヒを観察する。ハルヒは左手にしてきた腕時計と辺りを交互に確認していた。彼が来るのが本当に待ち遠しいといった、そんな感情が見て取れる。
「なあキョン。ちょっと提案があるんだが」と谷口。何故かハルヒが悪巧みを思いついたときの笑みと同じような表情をしていた。
「俺としては、お前が『ちょっと待ったぁぁ!!』と言って割り込んでいくのを期待しているんだがな。どうだ?やってみないか?今ならまだ涼宮の心の移り変わりを止められるかもしれないぜ」
「なんで俺がそんな事をしなければいけないんだ?それになんだ、その嫌みったらしいスケベ顔は?」
 妙にムカついた谷口の言葉と表情に、俺もムキになって言い返したのだ。
「……谷口。お前が何を企てているかは知らんが、俺は妙なまねはしないぜ。あいつが望んでいるんだから、それを応援してやるだけだ」
 谷口は両手を広げて肩の高さまで持っていき、誰かさんのモノマネみたく『やれやれ』と言ってみせた。
 その態度が俺の気分を一気に悪くさせた。全く持って腹立たしい。俺は昨日までのご機嫌モードと打って変わり、不機嫌チャンネルへとスイッチしたのであった。

 ところで、冒頭にも述べたように、今の季節は秋である。本日も雲ひとつない素晴らしい秋晴れの天気ではあるが、それが故に朝と昼の寒暖の差が大きくなっている。
 しかも茂みの中に隠れていては日差しも届かず、おまけに朝露のせいで衣服が少し濡れている。
 率直に申し上げよう。寒い。冷たい。風邪を引きそうだ。
 谷口と一緒にここに隠れてからそれ程時間は経っていないのだが、俺は既にここから逃げ出したくなってきた。だが、自分からここに隠れることを言った手前、今更場所を変えようなんて言えない。
 それに下手に出て行ったら、ハルヒか彼に出くわして、俺たちが何をしていたのかを事情徴収される可能性だってあるのだ。
 もうすぐ短針と長針が90°の角を成す頃である。お願いだ。早く来てくれ……

 その一途な願いが通じたのか、彼はほぼ約束時間となった頃に現れた。
 髪型をオールバックに決めた彼は、何故かモーニングを着こなしている。正直、やりすぎな感はあるが、決して似合っていない訳ではない。ムカつくことに。
「何だ、あいつ。やたらとキザっぽいな」
 俺も同感だ、谷口。ただあの髪型を見るとお前ももしかしたら同類じゃないのかと思ってしまうんだが、それはちょっと谷口に失礼かもしれないので言葉には出さないでおく。
 彼はハルヒを見つけると、作ったかのような白い歯を輝かせて、ハルヒに近づいていった。
 ハルヒも彼に気付いたようで、彼を注視している。残念ながら表情は読み取れない。
「いよいよだな、キョン」
「ああ……」と俺は生半可な返事を一つ返したのみだった。



 谷口は俺の返事に特に疑問点を持たなかったようだが、実はこの曖昧な返事が、俺にできる精一杯の対応だったのだ。
 この時俺は妙なプレッシャーというか、言い得ぬ不安感に曝されていた。
 体の調子がおかしい。
 心拍数がウナギの滝登りでドキドキ言ってやがる。先ほどまで寒い寒いとぼやいていたが、体感では何も感じられなくなっていた。むしろ暑いくらいだ。
 そのくせ背筋は異様に寒く、手足が震えているような感覚が残っている。
 ……なんだ?この感覚は?風邪か?いや違う、これは嫌悪感だ。何に対して俺は嫌悪感を抱いているというのだ?

『………………』
 彼はハルヒの傍まで駆けつけ、身振り手振りを加え、話し始めている。
 ハルヒはそれをじっと聞いているようである。
 そして彼は、ハルヒに向かって手を差し出したのであった。


――なんかすっげームカつく。邪魔してやる――


 後から考えれば、俺はなんと言う行動をしてしまったのだと、激しく後悔していた。
 しかし俺はこの時、脳髄と大脳を繋ぎ合わせているナットが緩みボルトがへし折れてしまい、正常な行動ができずにいたのだ。
「お、おい!キョン!!どこ行くんだ!?そっちは……」
 谷口の制止の声は聞こえない。何せ脳の命令が神経に伝わらないからな。今俺は今反射神経だけで動いているんだ。
 


 公園の中央。噴水を中心に、様々な色の花が人工の池を取り囲んでいる。
 そのすぐ脇の白い色のベンチ。二人はそのベンチの前で呆然と佇んでいた。
 予想外な人の乱入――俺が割り込んできたから。

「よっ、ハルヒ。待たせたな。ちょっと遅れちまったか?」
『……………………』
 俺の言葉に、二人は三点リーダを紡ぐのみであった。約束もしていない待ち合わせをでっち上げ、遅れたことを謝る俺。自分でも驚くくらいの平常心で語りかけた。
「ちょっと寝坊しちまってな。悪い悪い。これから気をつけるよ。それじゃあ、行こうか?」
「おい……ちょっと待て、どこへ行くつもりなんだ?」彼が我に返ったかのように喋りだした。
 俺も白々しくコメントする。「ああ、すみません。ちょっと用事に付き合ってくれないかってね、ハルヒに頼んだんですよ」
「何?それじゃ話が違うじゃないか!?」
「何が違うんですか?僕はあなたに頼まれたことはちゃんとしましたよ。手紙を渡すって言う仕事はこなしました」
 いけしゃあしゃあと言う。何故こんなに頭が冴えてくるのだろう。更に言葉が浮かんでくる。
「ですがそれ以上のことは何も頼まれてませんから、後の事は知りませんよ」
「うぐ……だが、それを承知で彼女はここに来たんだ。僕との待ち合わせが優先されると思うんだが、それについてはどうなんだね?」
「ああ、そうなんですか。偶然にも、俺たちも今日の九時に、ここで待ち合わせることにしてたんです」
「何だと!?俺はそんな約束……」ああもうウザい。さっさと黙ってくれ。
「あ!あっちでオーシャン・パシフィック・ピースとヤナカナがお互いの持ちネタを交換してゲリラライブを敢行してる!!」
『ええっ!!』
 俺の嘘に驚いて在らぬ方向を見る彼、そしてハルヒまで。
「おいハルヒ、逃げるぞ!、急げ!」
「あっ……ちょっと!」
 ハルヒが何か言おうとしたのを遮り、俺はハルヒの手を握り締めて、公園の外目掛けて駆け出していった。



 俺が我に返ったのは公園の出口に差し掛かった辺りだったと思う。自分で何をしていたのか、どんな行動を取っていたのかあまり覚えていない。
 何故俺は走っている?何故ハルヒも走っている?
 霞みがかった靄を振り払うかのように、自身の脳内を探索する。
 ああ、そうだった。これは借り物競争だったな。『我儘で猪突猛進な電波女子高生』と書かれた紙を取った俺は、ここぞとばかり急いでハルヒを携えてきたのだ。
 そうそう、もう少し……あのアーケードの入り口がゴールになっているんだ。そうに違いない。
 
 ……悪かったな。少し現実逃避していたんだよ。自分がどんな行動をしたかくらいはちゃんと覚えているさ。さすがにアルツハイマーさんの名を取った病気になるには数十年早い。
 改めて自分の行動を反芻する。はっきり言って一驚ものだ。
 ハルヒの告白のシーンを見るのを楽しみにしてたはずなのに、まさか自らその楽しみを阻害してしまうとは。
 どうしてそんな行動をとったのだ?ハルヒの告白シーンを見るのが嫌だからそんな行動をしてしまったというのか?
 いやそれはない。あるはずが無い。第一SOS団にはもっとプリティキュアーな女性団員が存在するし、そのお方達ならば俺も喜んでその告白を妨害する。
 朝比奈さんが告白されたなら告白した男性のほうを鈍器で襲撃にかかるだろうし、長門に関しても、――本人が何とでもするとは思うが――俺の本能的には相手の口を塞いでその場に卒倒させる違いない。
 だが好き好んでハルヒを守るような事をしようとは思わないはずだ。

 なんだ、俺の頭の中は正常じゃないか。心配して損した気分だぜ。か弱き女性団員を守るために防衛することは、俺の使命だからな。
 か弱いどころか心臓に毛が生えていそうなハルヒまでその保護活動が回ってきたのは、……まあ、ちょっと、ほんの、これーーーーーっぽっちだけどな、いつもよりも可愛く見えたからなんだ。しょうがないが、それは認めよう。
 そのために俺のシナプスが余計な道筋を作ってしまい、関係ない部分にドーパミンを放出したからだ。絶対そうだそうに違いない、今決めた俺が決めた。
 実際のところ俺が守ってやらなくても、本来のハルヒならば「うざい!どけ!」等といって男共を跳ね除けるし、もし俺が助けに入って手を取ろうもんなら「なぁに許可無く触ってんのよエロキョン!」と叫んで、俺のみぞおちに肘鉄を食らわせる。
 それがいつもの光景なんだ。これは間違いない。そうだろ?な、ハルヒ。
 俺は振り返ってハルヒを見る――

――突然、俺の脳裏に既視感が生じる。ある光景を思い出したから。

 ハルヒが世界を改変しようとした、あの夜。
 蒼き巨人達に校舎を壊されそうになった際、ハルヒを引っ張って逃げた、あの日の事を。
 何故そんなことを思い出したのか。その理由は簡単だ。



――あの時と同様、ハルヒは強く握り締めた手を振り解きもせず、黙って俺に付いて来たから――

 

「はあ……はあ……はあ……ここまでくれば……大丈夫だな……」
「はあ……はあ……何よ……いきなり……」
 公園を去り、商店街を突き抜けて、たどり着いたのは川原の桜並木のある河川敷だった。何時だったか、朝比奈さんが未来から来たことをカミングアウトした、あの道である。
 息を切らしながらも俺はあたりを見渡した。とりあえず彼の姿も、あとすっかり忘れていたが谷口の姿も見られなかった。
 だが油断はできない。谷口も彼も執念深そうだ。単なる俺の主観だが、地平線の彼方まで追いかけてきそうな殺気がぷんぷんと匂ってくる。
 さあて、いきなり川から飛び出してこないかよく確認したほうが……

「……ねえキョン。キョンってば!」
「ああ?」ハルヒの声にふと我を取り戻す。「何だ、何か用か?」
「用があるのはそっちでしょ!こんな所まで走らせて、一体何がしたかったのよ!!」
 まさかなんとなくムカついたからという理由で二人三脚の真似事をしてみましたとは言えない。
「あー、いや、たまたま、本当にたまたまなんだけどな、ちょっとした用事があって駅に来たらな、お前があの男に言い寄られて困ってそうな顔をしてたから、なんとなく助けたほうがいいかなーなんて思ったりしてな……」
 かなり苦しい言い訳である。俺は彼の手紙をハルヒに渡しており、ハルヒがその手紙を受け取って読んでいるのを確認している。
 つまり、俺が手紙の内容を知っているのはハルヒも承知のはずだ。にもかかわらず、俺は彼の告白を阻害し、ハルヒを遠ざけてしまった。
 本来ならばハルヒが駅前に来たのはハルヒ自身の意思であり、俺には一切合財関係ない。
 その辺を突付かれるとかなり痛いのだが……

「まあ、正直うざかったのよね。もう少ししたら蹴り飛ばしてその場を離れる予定だったけど、ちょうどキョンが来てくれて助かったわ。一応例は言っとくわね。ありがと」
 意に反してハルヒはその事には触れず、微笑を浮かべながら俺に感謝の意を述べたのみであった。
「あ、ああ……」
 俺は返答に困っていた。それにまさか感謝されるとは思っていなかったからな。
 それにハルヒの笑顔。予想以上に俺に接近していたその笑顔に、俺は戸惑い、思わず目線を逸らした。
 ハルヒの奴、薄く、本当に薄ーくだが、化粧してやがる。若いうちはスッピンのほうが美しいと言うが、あれは嘘だ。やばいぜ、その笑顔とメイクアップはよ。

「どうしたの、キョン?」「い、いや……」
 俺がハルヒを凝視できず、そして二の句を告げられずにいると、ハルヒがブスッとした表情で俺に問い掛けてきた。
「……で、話って何よ?」
「話……?」
「あんたが差し出した手紙でしょ?『話があるから来てくれ』っていうの」
「……は?」
「とぼける気?あんたも一緒になって見てたでしょ?あんたがよこしたあの手紙よ!」
 俺がハルヒに渡した手紙だと……?全く持って覚えが無いぞ?
「まだシラを切ろうっていうの?それとも手紙を出したことを忘れたとでも言うわけ!?……いいわ、教えてあげるわよ!耳の穴かっぽじって良く聞きなさい!『拝啓 涼宮ハルヒ様 重大な話がある。今度の土曜日……』」 
 ハルヒは何時の間に覚えたのだろうか、どこかで聞いた事のあるような手紙の内容を諳んじていた。
 というか、その手紙は……

「……どう!?これでもまだ言い訳を繕う気!!?」
 全文章を暗唱した後、ハルヒは夫を殺した仇敵を半年かけてようやっと探し出した、仇討ち未亡人のような態度で俺に怒鳴りつけた。
「まて、何だそのお前が今喋ったケッタイな文章は?」
「!!……あんた、これでもまだ知らぬ存ぜぬを貫き通す気なの!!?」
「だから落ち着け!その手紙の内容は俺の記憶の断片にちゃんと残っている!」
「じゃあ早くあんたの思いとやらを言いなさいよ!」
「待てと言ってるだろうが!!さっきから聞いているとおかしい事ばかり言いやがって!第一その手紙は俺が書いたものじゃない!!」

「はぁ?」
――ハルヒは面白いくらい表情がすっぽ抜けた顔を俺に見せていた。

「『はぁ?』って、お前、まさか俺が書いたものだと勘違いでもしてたのか?」
「うっ……いや、えっと、そ、それじゃあ、誰の手紙だっていうのよ!」
「誰のって……、さっきお前話をしていたじゃないか、彼と」
「彼?……あの、生徒会長と谷口とを掛け合わせて平方根したようなあいつのこと?」
「累乗平均とはマニアックな……じゃなくて、もしかして、今まで気づいてなかったのか?」
「だ、だって、あんたのポケットにあった手紙じゃない!」
「部室に行く前に、あの人から預かったんだよ。お前に渡してくれってな」
「嘘つくのもいい加減にしなさい!あたしは嘘つきが一番嫌いなのよ!」
「俺は嘘なんてついてない!お前こそ単なる勘違いじゃないのか?」
「あたしも勘違いなんてしてないわよ!あんたのポケットから出てきたんだから、あんたの手紙だと思うのは自然の摂理じゃない!」
「なんでそうなるんだ。名前くらい書いてあったろうに……」

「名前?そんなのあったっけ?」
「え?」

「ちょっと待ちなさい……ほら、これ」
 そう言ってハルヒはポーチから俺が一昨日渡した手紙を取り出し、見せてくれた。
「ほら、名前なんて書いてないじゃない」
 …………。
「ワープロで印刷されたものだから、筆跡で調べる事もできないし、何よりあんたが持っていたんだから、あんたのものって思うでしょ?普通」
 …………。
「あたしの落ち度なんてどこにもないじゃない!どう?これでわかったでしょ?あの手紙が彼のものだとしても、あたしは間違えるだけの理由があったって事よ!」
 …………。
「ねぇキョン!聞いているの!?」
 ……くくくくく。
「……キョン?どうしたの?」
「ふふふふははははははは、あーっはははは!!!」
 俺は遂に堪えきれず、声をあげてしまったのだ。
 
 ……ひゃははは、はぁ、ふう。こいつは傑作だ。爆笑もんだ。
「あんた、何一人で笑ってんのよ!」
 俺が一頻り笑い、それが収まるのを待ってたかのように、ハルヒが鬼の形相でこちらを睨めつけてきた。
「いや、なに、彼もおちゃめさんで面白いなと思ってたまでさ」
 俺は彼から預かったラブレターを持っていた。だがそのラブレターには名前が書いてなかった。そのためハルヒは俺が書いたラブレターだと勘違いした。
 これを笑わず何を笑えばいいというのかね。見事な三段落ちだ。
 本当に彼はいいキャラクターをしている。まさか俺の願いどおりにボケ担当を全うしてくれるとはな。もはや普通の人間の域を越えている。どうだハルヒ?本当にスカウトしてみないか?
 しかしハルヒもハルヒだ。俺がそんな手紙書くわけないだろう。それにハルヒにドッキリを敢行するほど馬鹿じゃない。ばれたら何をされるか分かったもんじゃないからな。
 とはいえ、少しお惚け気味のハルヒをからかってみたい気もする。俺はちょっとした意地悪な質問をすることにした。

「なあハルヒ。お前、あの手紙は俺が書いたものだと勘違いしてたんだろ?だとすれば、お前は俺が何を告白すると思ってたんだ?」
「えええ!?」
 ハルヒは面白いくらいカチンコチンに固まっていた。

「俺が異世界人であることを暴露すればよかったかな?それとも超能力者の方が良かったか?」
「あ……う……」
「それともアレか?まさかハルヒに限って、頭の中がそんな考えで埋め尽くされているとは思わないが、俺がお前に愛の……」


「うっさい!!黙れ!ボケナスオタンコナスマーボナス!!!」


――ハルヒの口から迸る衝撃波は、俺の鼓膜を一秒間に300万回程震わせた。
 

「……つぅ、そんな近くで叫ぶな。冗談だよ、冗談。顔中真っ赤にして怒らなくてもいいだろ?」
「だっ、誰の顔が真っ赤だってのよ!!バッカじゃないの、あんた!!」
「お前だお前。もう怒るなって、頭に血を上らせるのは良くないぜ」
「あああんたが悪いんでしょうが!!!」
「わかったわかった、俺が悪いってことでいいさ。だから落ち着け」
「あ、あんたこそいい加減手を離しなさい!!」

 言われてハルヒの目線を追う。目線の先には、俺の手があった。手中にハルヒの手を収めたままの、俺の手が。

「ああ、これは失敬。でも嫌だったら振り解けばよかったのに」
「うっ……あ、あんたが強く握り締めてるから振りほどけなかったのよ!!!」
 そこまで強く握ってた実感はないが……まあいいや、俺は自分の手を開放する。それに伴い、ハルヒは握られたままだった手をしげしげと見つめ、そしてまた俺を睨みつけた。
「……あんた、この団長様をからかって許されると思っているの?」
「うっ……」と俺。なんか、すっげえ嫌な予感。
「ふふふふふふーん、覚悟しなさぁ~い?」
 ハルヒはそう宣言して、俺の手首を捕まえた。先程とは逆の立場になってしまった。
「このお礼はキッチリ返させてもらいますからね。実はねえ、キョン。最近良い店ができたのよ、この辺に。点心が美味いって評判なの。たっぷり楽しませてもらうわよ?あ、そうそう。その店、ランチサービスとかバイキングサービスとかないから、そのつもりで宜しくね」
「もしかして、その店、俺に奢れと……?」
 言う俺の顔を、まじまじと見つめ、そして、
「あったりまえじゃない!あんた、あたしを騙したんだから!その罪万死に値するわ!!本当なら家庭裁判所に詐欺の容疑で立件するつもりだったんだけど、その店の奢りで許してやるっていってんのよ!感謝しなさい!!」
 目を爛々と輝かせて、いつもの調子を取り戻したのか、飛びっきりの笑顔を俺に向けてこう叫んだ。


「さあ!!キリキリ行くわよ!!」



 ちょっとしたハプニングがあった、不思議探索のない、本日の土曜日。
 さっきの仕返しとばかりにハルヒに手をつかまれた俺は、ハルヒ案内の元、その点心を食べさせてくれる店に連れて行かれた。
 遠慮のないハルヒの食欲に俺の財布から悲鳴が聞こえそうになったものの、点心自身はそれ程高くはなく、それにハルヒが持参してくれた『開店特別半額割引券』のおかげで、実際はそれ程大きな支出には至らなかった。
 
 その後も何故かハルヒの我侭に付き合わされることになり、デパートや公園やアミューズメントパークや映画館やその他諸々に分単位で付き合わされたのだった。
 簡単に流れを説明すると、飯の後はアミューズメントパークの定時パレードを観覧し、次に行ったデパートでは首尾よくタイムサービスが始まり、映画に至っては普通の人は手に入らないであろう招待券を手配しており、それらをフルに利用して今日という日を楽しんだと言う訳だ。
 ところでお気づきかもしれないが、何故ハルヒはこれほど段取りよく物事を進められたのだろうか。
 恐らく下調べやら準備やらをしていたのだと思うが、そうなのかと問い掛けると、ハルヒは必死になって否定し、全て偶然だと言い張ったのだ。偶然で日にち指定の招待券を持っていたというのかね?
 ただ、いくら割引券を有効利用しているといっても、その際に必要な費用はゼロではなく、そして何故か全額俺持ちだった。
 正直、二人分のお金を請求されるの時には不機嫌にもなったのだが、ハルヒが時折見せる屈託のない笑顔により、そんな邪な考えは全て浄化されてしまうのだ。
 
 日はとっくに暮れ、北口駅前は田舎にありがちな街頭とネオンで彩られていた。
 たっぷりとハルヒに付き合わされた俺は、精も根もそしてお金も尽きかけようとしていた。
 だが、俺の気持ちは最高級に爽快であった。
 原因はわかっている。恐らく、いや間違いなくハルヒの笑顔のせいだろう。
 あの手紙に感謝しないとな。原因はともかく、ハルヒの笑顔がこんなにも魅力的なものだと教えてくれたあの手紙に。
 あの笑顔を見られるなら、こんな日があってもいいのかもしれない。
 だから俺は、じゃあねと言ってその場を去ろうとするハルヒを呼び止め、こう言ったのだ。


――また、二人で遊びに来ような――
 

 休みが明けた、次の週の月曜日の事である。
 ハルヒの告白シーンを共にしつつも、途中から一緒にいたことすら忘却してしまった谷口から、何度もその件について突付かれた。
 曰く、『やっぱりキョンも男だったんだな』と。全く持って意味が通じないのでもう少しわかりやすい言葉で喋ってくれと頼んでいるが、その約束は依然として果たされていない。
 おかげさまでと言うべきかどうかは分からないが、それ以来、谷口、いやクラスの連中が俺とハルヒを見る目がより一層生暖かくなってしまった感じがする。
 あの国木田でさえニヤけた顔で俺とハルヒを微笑ましく見ているのだ。多分谷口辺りが信憑性の無い噂に背びれと尾びれをつけて吹聴しているのだろう。
 そして吹聴している一連の流れは、恐らく土曜日の一件だろう。だがしかし、俺はそこまで変な事はしていないつもりだし、それ以上に俺の行動に何か間違いがあったとでも言いたいのか、お前ら?
 

 放課後、団活の時間の事。俺はいつもの如く古泉とボードゲームをしていた。なお、うちのクラスの掃除当番はハルヒが該当しており、未だ部室には現れていない。
 そしてここにも変な奴が一人。クラスの連中の対応と呼応するかのように、古泉も今まで以上のしたり顔で俺を見つめるようになっていたのだ。
 そういえば、今回古泉は名前だけ出てきたが、それほど活躍しなかったな。
 それが気に入らなかったのか、古泉はルーレットを回しながら喋りだした。
「今回は裏方に回っていましたので、殆ど活躍できる場が無くて残念です。ですがその功があってか、こちらの思惑通りに事は運んでおります」
 なんだ、その思惑というのは?
「さあて、禁則事項とでも言っておきましょうか?」
 うう、気持ち悪いから人差し指を口に当てるな。
「これはとんだ失態を。それはさておき、あなたのおかげで大変助かっております。先週の木曜の夜からから土曜の朝まで、イレギュラーな閉鎖空間が立て続けに発生しておりまして、その処理に東奔西走していましたからね。正直、今回は我々もさじを投げかけていました」
 だからお前は姿が見えなかったのか。だが、それほどハルヒの機嫌は悪かったと言うのか?
「ええ。正確には機嫌が悪いと言うより、真意の見えざる主張に、ずっとやきもきしていた、そんな感じでしょうか?誰かさんが紛らわしい事をしていましたからね」
 まさか、それは俺って言う意味じゃないだろうな。
「おや?自覚があるではないですか。それならばこれからもう少し善処して欲しいのですが……おっと愚問でした。そうしてくださるんでしたよね」
 俺はぷいっと顔を背けた。古泉の笑顔が癪に触ったからだ。
 どこからか聞きつけたか、こいつは俺とハルヒしか知りえない、二人だけの約束を知っていた。
 その約束と言うのは、まあ俺がハルヒに言った正にあの言葉が大本になっている。
 ハルヒはその場の勢いで言った俺の言葉をどう受け取ったのかよく分からないのだが、俺の言葉に対する返答として、週末の内の一日は二人きりで遊びに行くことを決定事項として俺に宣言したのだ。
 しかも不思議探索は継続して行うため、俺はいよいよ休日と言うものが無くなってしまったのである。
 おまけにどちらもサボったら絞首刑だからと死の宣告をさせられてしまった。やれやれ。
 
 勘弁して欲しいし、少しくらいは休ませてくれよとは思うが、正直なところ、次の休みが楽しみでもある。
 俺はこうしてメイドバイ朝比奈のお茶を啜りつつ、未だ掃除の終わらぬハルヒの凱旋を待つのであった。

 そして――


「みんなー おっまたせー!!」


 勢い良く開く扉の向こうには、俺を虜にした笑顔を浮かべた団長の顔があったのだ。
  
 ~THE END~

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最終更新:2020年12月12日 23:58