その日、僕は普段と変わることなく、SOS団の本拠地となった、文芸部室の片隅にいた。
涼宮さんはいつもと同じように団長席に座ってネットサーフィンをし、長門さんは、これまたいつもと同じように、指定席にて本を読んでいた。
今日は珍しく卒業された朝比奈さんが文芸部室に顔を見せていて、一年前のようにメイド服ではないものの、僕達のためにお茶を煎れる準備をしていた。
いつもと変わらぬ日常の一コマがそこにあった。この光景だけ見れば、今日が特別な日とは誰も思わないだろう。
だが、今日は僕達にとっては何よりも特別な日、僕達の卒業式の日だった。つまり、僕達がこの部屋に集うのは今日が最後である。
そのためか、外見上は平静を装っているように見えるものの、涼宮さんの心がいつも以上に激しく浮き沈みしているようだった。もしかしたら、この後重大な発表があるのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕はSOS団のメンバーが全員揃うのを静かに待っていた。
窓の外に目を移すと、春の爽やかな風に吹かれて、桜の花弁が舞っていた。まだ肌寒く感じられるものの、日毎に暖かくなっていく気温が春の訪れを告げていた。
思えば、僕がここに来たのは新緑の芽吹く高校一年の初夏だった。目をつむると、三年間の思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていく。
この三年間、世界崩壊の危機に肝を冷やしたこともあったが、それも今となってはいい思い出のように感じられる。
機関の調査によると、涼宮さんはこの街を離れ、県外の大学に進学が決まったということだった。てっきり彼と同じ地元の国立大学に進学するものと思っていたのに……
機関からは、不自然に思われるのを避けるために、今後は距離をとって涼宮さんの監視を行うようにとの指令があった。最近は涼宮さんの精神状態も安定しているから問題はないだろう。
みんながばらばらになってしまうのは寂しいが、それはそれで仕方がないことのように思える。別れはいつか訪れるのだから。
それにたとえ離れていても、この三年間で培ったSOS団メンバーの絆はそう簡単には砕けることはないであろうとの確信があった。そのため、僕はみんなが離れ離れになることを、さして問題には思っていない。
ただ、心残りなのは彼と涼宮さんの関係が未だに恋人未満で留まっていることだ。今日、何らかの進展があればいいのだが……
窓の外にある、どこにでもある公立高校の卒業式の日の風景を眺めながら、そんな風に物思いに耽っていると、彼が文芸部室にやって来て、SOS団のメンバー全員が揃った。
「あ、朝比奈さんも来てたんですか」
彼は入ってくるなり朝比奈さんにそう挨拶をした。
「ええ、しばらく会えなくなるからって、涼宮さんに呼ばれたんです」
「そうですか」
僕の真向かいの席に座り、肩に提げていた鞄を床に下ろすと、
「今日はオセロをするのか」
目の前の長机に置かれたオセロ盤を見ながら、僕に尋ねてきた。
「ええ、僕がこの部屋に来て、あなたと最初に勝負したボードゲームはオセロでした。僕達がこうやってボードゲームに興じることは、もう当分の間ないでしょう。だからこのゲームが最後の締めに相応しいと思いまして」
「なるほどな、だが最後でも、俺は負けてやる気はないぜ」
「望むところです」
こうやって彼とボードゲームに興じるのは、もしかしたら今日が最後になるかもしれない。だから今日はなんとしてでも勝ちたい。
そんなことを思いながら、僕達がまさにオセロを開始しようとしたとき、涼宮さんが突然机に両手をついて立ち上がり、意を決したように、彼に声をかけた。
「キョン、あんた行かなくていいの?」
「え?」
「今日、あんたの彼女……佐々木さんの卒業式でしょ。彼女、県外の大学に進学するんだったら、しばらく会えなくなるんじゃない? 会いに行かなくてもいいの?」
文芸部室にいた一同の視線が涼宮さんに集中する。彼女の表情は寂しげではあったものの、その目はまっすぐに彼を見据えていた。
しばらく沈黙が流れた後、彼が、少し動揺した様子で、涼宮さんのほうを見ながら言った。
「い、いいのか?」
「どういう意味?」
「いや、その……」
彼が答えあぐねていると、涼宮さんが自分の考えを彼に語り始めた。
「確かにSOS団のメンバー全員がここに揃うのは、たぶん今日が最後になると思うわ。でも、あたし達はこのままずっと会えなくなるわけじゃない。
だから、最後の日にSOS団のメンバー全員が揃ってないのはちょっと寂しいけど、事情があるんだったらあたしだって考慮ぐらいするわよ」
涼宮さんの言葉を聞いて、彼は言おうか言うまいか少し迷ったように躊躇った様子を見せた後、涼宮さんに問い掛ける。
「いや、俺が言いたいのはSOS団がどうこうと言うことじゃないんだ。ハルヒ、お前はそれでいいのか?って聞いてるんだ」
彼の問い掛けに、涼宮さんは言葉を詰まらせてしまい、すぐには答えられなかった。僕も、長門さんも、朝比奈さんも一言も発することなく、ふたりのやりとりをただ見守るしかできなかった。
決して広くはない文芸部室を沈黙が支配し、まるでこの部屋だけが日常の世界から切り離され、異空間に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。
ただ、文芸部室の開け放たれた窓から聞こえてくる日常の雑踏だけが、確かに僕達が日常の世界に存在していることを証明してくれた。
まるで時間が止まってしまったかのような沈黙を破り、涼宮さんが彼の問い掛けにゆっくりと答える。
「あ、あたしは……いまでも、恋愛感情は精神病の一種だと思っているわ。でも、前にも言ったと思うけど、あたしは自分の考えを押し付けてまで、他人の恋路を邪魔したりする気はないわ。
だから、あんたが佐々木さんに恋愛感情を抱いて、それを幸せと感じるのなら、あたしはあんたのことを応援するわよ。団員の幸せを考えるのは団長の務めだからね」
僕達の目からは涼宮さんの言葉が単なる強がりであることは一目瞭然であった。涼宮さんが彼の問い掛けに答え終わった後、彼は、躊躇いながらもう一度、涼宮さんの意思を確認するように聞いた。
「ハルヒ……本当にいいんだな」
彼の言葉を聞いて、涼宮さんは少し声を荒げた。
「あんたしつこいわよ! あたしがいいって言ってるんだから、いいに決まってるでしょ! あたしの気が変わらない内に、さっさと行きなさい!」
「……わかった」
彼は床に下ろしていた鞄を肩に提げると、さよならの挨拶の代わりに無言で僕達と目を合わせた。僕達三人は、一言も言葉を交わすことなく、ただ彼を見ていた。
文芸部室から出て行こうとするとき、彼は出入り口のドアの前で立ち止まり、涼宮さんの方を向かずに前を向いたまま一言
「ハルヒ……ありがとう」
そう言ってから、文芸部室を後にした。
彼の足音が聞こえなくなってから、朝比奈さんが戸惑いながら涼宮さんに声をかける。
「す、涼宮さん……あ、あのう、本当にいいんですか?」
「え、それどういう意味よ。みくるちゃんがどう思ってるか知らないけど、あ、あたしは別にあいつのことなんて、なんとも思ってないんだから。へ、変な勘違いしないでよね」
涼宮さんは、身体ごと朝比奈さんの方を向いて、少し上ずった声で答える。
「で、でも~」
俯きながら上目遣いで心配そうに涼宮さんを見る朝比奈さんに、涼宮さんは少しだけ声を荒げて詰め寄ろうとした。
「あ、あたしは別にキョンを好きとかそんなことは思ってないんだから。だ、だいたいあたしは恋愛感情は精神病の一種と思ってるのよ。だから、そんなことでいちいちヘコんだりしな……え?」
目から流れ出た雫が手の甲に当たり、ようやく涼宮さんは自分が泣いていることに気づく。
「え、な、なんで、なんであたし泣いてるの? なんであたし涙なんて流してるのよ!」
「涼宮さん……」
ふたりのやりとりを横で見守っていた長門さんが不意に立ち上がり、涼宮さんの方に歩み寄ると、あくまで無表情のまま、そっと彼女にハンカチを差し出した。
「あなたは自分の感情に嘘をついている。本当は悲しいはず。感情を偽ることはあまり推奨できない。いまは感情の赴くままに泣くべき」
「そうですよ、誰にだって悲しくて泣きたい時はあります。そんなときは我慢せずに泣いても良いと思います。わたしたちに感情をぶつけてもらっても結構ですよ」
長門さんと朝比奈さんの言葉を聞いて、涼宮さんは感情のコントロールができなくなったように涙を流しながら、朝比奈さんの胸に顔を埋めた。
「有希、みくるちゃん、ごめん。あたし少しの間だけ泣くから」
長門さんが僕のほうにチラッと視線を送り、退室するようにと合図をした。僕は、涼宮さんに何もしてやれない自分に、少しだけ無力感を感じながら、部屋の外に出た。
部屋の外で壁にもたれて待っていると、部屋の中から涼宮さんの悲痛な叫びにも似た泣き声が聞こえてきた。
その泣き声を聞いて、僕はいっそう自分の無力感を募らせるとともに、自分が彼に対して怒りのような憎しみのような複雑な感情を抱いていることに気づいた。
もちろん、彼からすれば僕達に恨まれるような筋合いはないであろう。彼は僕達に十分に協力してくれたし、彼のおかげで世界崩壊の危機は回避できたと言っても過言ではない。
そのうえ彼に対して、世界の安定のために彼が人を好きになる自由を奪い、涼宮さんを好きになれと言う権限は僕達にはない。そんなことはわかりきったことだ。
しかし、彼に何かもやもやとした感情を抱いている自分がいる事も事実だ。この感情が何なのかはよくわからない。いまの自分の言葉では言い表せなかった。
しばらくすると、涼宮さんの泣き声が聞こえなくなった。文芸部室のドアが開き、長門さんが僕のほうを見て、もう入っても良いという合図を送ってきた。
中に入ると、涼宮さんはすこし赤い目をしていたが、僕が部屋から出て行く前と比べれば、少しだけ気分は落ち着いたようだった。
「ごめんね古泉くん、ひとりだけ仲間外れみたいにしちゃって」
「……」
微笑みかける涼宮さんの顔を見て、僕はなんと声をかけて良いかわからなかった。ただ、先ほど気づいた彼に対する感情を涼宮さんに悟られないようにしようという考えだけは咄嗟に頭の中に思い浮かんだ。
平静を装いながら、僕がいつもの指定席に座ろうとしたとき、ふと、閉鎖空間が発生していないことに気がついた。
もし、中学時代の涼宮さんであれば、これだけ大きな感情の起伏があったのだから、緊急事態に等しいくらいの大規模な閉鎖空間が発生してもおかしくない。
彼と出会い、SOS団を創設し、様々な経験を積むことで、彼女があの当時より精神的に成長したという何よりの証拠だ。そのことがまるで自分のことのように嬉しく思える。
それから僕達は何事もなかったかのように、各々が普段の作業に戻った。
長門さんがパタンと本を閉じ、終業のチャイムが鳴り始めた時、涼宮さんは団長机の前に立ち、少しかしこまって、コホンとひとつ咳払いをしてから、SOS団締めの挨拶をし始めた。
「えーっと、この三年間、あたし達SOS団はこの世界をおおいに盛り上げるために、未知との遭遇を求めて様々な活動をして参りました。
未知との遭遇を実現することはできませんでしたが、あたしはこのSOS団での体験から色々なものを学ぶことができました。
もし、有希やみくるちゃんや古泉くんも、あたしと同じように、SOS団での活動を通じて、何か得られるものがあったのなら、あたしはそれを自分のことのように嬉しく思います」
そこまで演説すると、涼宮さんは少しだけ躊躇ったように、いったん間を置いてから、再び演説を続ける。
「あと、この場にはあたし達と三年間、苦楽をともにしたメンバーの一人がいません。キョンは自らの幸せを実現するために、あたし達よりもほんの少し先に、このSOS団から旅立ちました。
そのことを、あたしは不満には思っておりません。むしろ嬉しく思っています。SOS団のメンバーが幸せになってくれることが、団長であるあたしにとって一番の幸せだからです。
今日をもってSOS団は一時解散します。しかし、例えSOS団が無くなろうとも、あたし達がこの三年間に築いてきた絆は永遠のものであると考えています。
だから、この後みんなと離れ離れになってしばらく会えない日々が続いても、あたしは何も心配はしていません。それはこの場にいないキョンとの絆も含めてです。
またいつか、あたし達が再会したときに、みんなが幸せになっていることを祈っています。よって本日、この時をもって、SOS団の解散をここに宣言いたします。
SOS団団長、涼宮ハルヒ」
演説を終え、僕達に一礼する涼宮さんに、僕達は拍手を浴びせた。さっきあれほど泣いたにも関わらず、涼宮さんの目には涙が滲んでいた。
それから涼宮さんはいつもの調子に戻り、片手に持った一枚のルーズリーフをひらひらさせながら、僕達を睥睨する。
「じゃあ、今日はこれで解散ね。みんなここに連絡先を書いてくれる。たぶん、あたしは夏休みか、遅くても来年の正月には帰って来れると思うわ。そのときにはまた例の喫茶店で会いましょう」
僕達三人は、涼宮さんから手渡されたルーズリーフに、連絡先を書き込む。
「キョンくんの分はどうしましょうか?」
朝比奈さんが涼宮さんに尋ねると、彼女の表情が一瞬曇ったが、長門さんが「彼の連絡先なら、わたしが知っている」と言って、連絡先をルーズリーフに書きこんだ。
その後、みんなで部室の戸締りをし、僕達はいつものように全員で帰宅の途に着いた。ただいつもと違うのは、彼の姿だけがこの場にないことだった。
途中まで四人いっしょだったが、坂を降りたところで、長門さんと朝比奈さんは用事があると言って、僕達と別れた。
「古泉くんはどこの大学に進学するんだったっけ?」
「東京にある私立大学です。語学が有名な大学で、将来は外交官にでもなれれば良いと思ってるのですが……」
「ふーん、さすが古泉くんだね。もう将来のことまで考えているなんて。きっと古泉くんならなれるよ。だって、古泉くん頭良いから」
涼宮さんは後ろ向きに歩きながら、僕に微笑みかけてきた。その様子だけ見ていると、とてもさっきまで悲しみに暮れて泣いていたようには見えなかった。
でも、彼や長門さんや朝比奈さんになら、涼宮さんがいま無理をしていることが容易にわかっただろう。もちろん僕にも、いまの涼宮さんが心を痛めていることが、まるで自分のことのようにわかった。
「みんなそうやってバラバラになっていくのよね。いつか別れが訪れることは、ずっと前から知っていたはずなのに、心のどこかで、いまが永遠に続くと思ってのかもしれない。
でも、現実は非情よね。SOS団でやりたかったことはまだまだたくさんあったのに、やり遂げることができないままキョンや有希やみくるちゃんや古泉くんとの別れの時が来てしまったわ」
空を仰ぎ見て、遠い目をしてつぶやく涼宮さんの姿を見て、僕は一瞬迷ったが、言わないでおこうと心に決めていた言葉を、涼宮さんに投げかけた。
「どうして彼を佐々木さんに譲ったのですか?」
涼宮さんは、一瞬驚いた表情で僕を見た後、愛想笑いをして僕の質問をはぐらかそうとする。
「やだな~、古泉くんまでそんなことを言い出すなんて。あたしは別にキョンのことなんてなんとも思って……」
しかし、彼女は途中で僕が普段のように笑顔ではなく真剣な表情であることに気づいて、僕から目を逸らした。
「そっか、みんな気づいてたんだ。あたしがキョンのことを好きだって事を。なのにあたしったら馬鹿みたい。ひとりで自分の気持ちを偽っていたなんて」
その後、しばらく僕と涼宮さんの間に気まずい空気が流れ、僕達は一言も言葉を交わすことなく、別れ道となる三叉路へとたどり着いた。
僕は無言で涼宮さんと歩いている間、自分の言葉で涼宮さんを悲しませてしまったことを後悔した。しかし、聞いたこと自体を後悔はしていなかった。
ここで聞いておかなければ、後で必ず後悔するという確信が僕にはあったからだ。
「では、僕はこれで」
「待って」
一礼をして別れようとする僕を、突然、涼宮さんが呼び止めた。
「キョンの一番近くにいた、古泉くんにだけ聞いて欲しいことがあるの。時間いいかしら?」
「大丈夫です。門限はありませんから」
彼女は、僕の目をじっと見つめた後、ゆっくりと僕から目を逸らし、僕の背後にある夕焼け空に視線を移した。
「あたしね、一年のころに変な夢を見たの。真っ暗な世界で巨人が暴れてて、最後にキョンとキスして目覚める夢。そのころからかな、キョンのことが気になりだしたのは」
遠くの空に視線を向けて、懐かしい昔を思い出すように涼宮さんは自分の心に秘めていた彼への思いを吐露し始める。
「SOS団の活動をしている内に、いっつもキョンのことを目で追っている自分がいることに気がついたの。最初はどうしてキョンのことがこんなに気になるのかわからなかった。
キョンが有希やみくるちゃんと仲良くしているのを見るとすごく悲しくなったし、キョンがあたしの傍からいなくなってしまいそうで不安だった。
それで何時だったかわからないけど、ようやく気がついたの。ああ、あたしキョンのことが好きなんだって」
そう言いながら、空を仰ぎ見る涼宮さんの姿は、沈みゆく夕日に照らされて赤く染まり、いつも以上に魅力的に感じられた。ただ、その大きな瞳に光る涙と寂しげな表情が見ている僕の心まで悲しくさせた。
「じゃあ、どうして彼にその想いを告白しなかったのですか?」
「素直になれなかったから、ううん、キョンに拒否されていまの関係が壊れてしまうことが嫌だったから。どこかであたしは甘えていたんだわ。いまが永遠に続くかもしれないって」
「でも……」
「そう、そんなことはあるわけがない。馬鹿よね、あたし。このままならいつか別れてしまうことを知っていたはずなのに……
でもね、キョンのことを好きになって、あたしは気づいてしまったの。キョンにはあたしの他に想いの人がいるって事に。だから告白することはできなかった」
涼宮さんの言葉を聞いて、僕の脳裏に文芸部室でのSOS団の活動風景が浮かんでくる。
「……お言葉ですが、僕はそうは思いません。彼はあなたにも好意を持っているように思いましたが……」
口にして後悔した。こんなことをいまさら言ったところで、なんにもならないことは明らかなのに……
涼宮さんの心を傷つけるだけにしかならないとわかっているのに……
そんなことを考えている僕のほうを、涼宮さんは心の中を見透かすようにチラリと見て、「ふふふ」と微笑んだ。
「そう思ったこともあったわ。キョンはあたしと佐々木さんのどちらを選ぶか迷っているように見えた。でも、彼女はあたしに無いものを持っていた。
あたしと出会う一年前に、彼女はキョンに出会っている。この一年の差があたしにはとても大きく感じられたの。どうして一年早く、彼女より早くキョンに出会えなかったのかって、自分の運命を恨んだこともあったわ」
「でも、だからって、涼宮さんが譲る理由には……」
「ううん、わかるのよ。キョンと手を繋いだときとか、古泉くんは知らないかもしれないけど、キョンに抱きすくめられたときとか、キョンの温もりを一番近くに感じるんだけど、この温もりがあたしのものではないって。
どうしてわかるのかって聞かれると困るんだけど、なんとなくわかってしまうの。この温もりはあたし以外の誰かのものなんだって。たぶんそれは……」
「涼宮さん……」
涼宮さんの言葉を聞いたとき、僕がどんな顔をしていたかはわからない。自分の顔を確認する方法が無かったからだ。きっと僕はとても悲しい顔をしていたんだろう。
「そんな顔しないでよ、あたしまで悲しくなっちゃうじゃない。それにね、あたしキョンと巡り会えたことは後悔してないんだから」
涼宮さんは僕を元気づけようと、ちょっと寂しい表情で僕に微笑みかけた後、また遠くの方に目をやり、過去の邂逅を始める。
「あたし、高校に入学したときは、人を好きになるなんて想像もしてなかった。だから、キョンのことを好きだって気づいた時、正直どうしていいかわからなかった。
キョンに出会って、あたしは人を好きになることや、人の気持ちを考えることを学んだの。そういった意味で、キョンはあたしに色んな事を教えてくれたわ。
みんなに出会えたのだってキョンのおかげだしね。もし、キョンに出会っていなかったら、あたしは中学生のまま身体だけ大人になって、いまでも馬鹿なことをやっていたかもしれない。
だから、恩返しって言ったらおかしいかもしれないけど、最後はキョンの好きにさせてあげたかったの。キョンがあたしと佐々木さんの間で悩んでいる姿を見るのが嫌だったから」
「でも、涼宮さんはそれでいいのですか?」
僕の意見に、涼宮さんはちょっとだけ困った顔をして表情を曇らせたが、顔をあげ、静かではあるがはっきりとした口調で、自分の胸の内を告げた。
「もちろん、キョンに対して未練がないわけじゃないわ。できればキョンの傍に寄り添っていたいって思う。でもね、人を愛する方法はひとつじゃないって思うの。
寄り添って愛を確かめ合うのもひとつの方法だろうけど、愛する人が幸せになれるようにって見守ることも、愛し方のひとつじゃないかって思うんだ。
もし、このままあたしがキョンのことを諦められないでいたら、あたしと佐々木さんがキョンを取り合うことになる。そうなったらあたしだけじゃなく、キョンや佐々木さんも不幸になるわ。
あたしはキョンには不幸になって欲しくないの。キョンが悲しい顔をしていると、あたしまで悲しくなっちゃう。だから……」
僕は涼宮さんの言葉に反論する言葉をもち得なかった。涼宮さんが相当な覚悟で今日の決断を下したことがひしひしと伝わってきたからだ。
しばらく、僕達ふたりの間に沈黙が流れた後、涼宮さんはいつものような笑顔に戻った。その笑顔を見て僕の心の中に熱いものがこみ上げてくるような感覚を覚えた。
「ごめんね、こんな湿っぽい話に話しにつきあわせちゃって。でも、誰かに聞いてもらいたかったんだ。ありがとう。じゃあ、さよなら」
そう言って、涼宮さんは僕に背を向け、自宅へと歩き出した。僕の脳裏にSOS団での涼宮さんが楽しそうにしている光景が浮かんでくる。その光景に思いを馳せながら、涼宮さんの帰宅する後姿を見ていたその時……
突然、落雷に打たれたかのような衝撃が僕の中を駆け巡った。
どうしてこんなことに気がつかなかったのだろうか。いまこの胸に込み上げてきているこの想い。そう、僕は涼宮さんのことが好きなんだ。
涼宮さんの傍にはいつも彼がいた。だから、僕は自分を押し殺すことで、涼宮さんへの想いに気づかないふりをしていたのだ。涼宮さんを監視するのは機関から与えられた役割、そう自分を偽って。
いまなら、あの文芸部室の前の廊下で彼に抱いた怒りにも憎しみにも似た感情が何であるかがわかる。
それはたぶん、僕が望んでも手にすることができない彼女の愛を、放棄してしまった彼に対する嫉妬、妬み、そういう感情だ。
だがいま、僕の想いの障害となる彼は涼宮さんの傍にはいない。それに機関も、僕が涼宮さんの鍵になることを許すだろう。機関の第一義の目的は彼女の監視なのだから。
涼宮さんはいま、彼を佐々木さんに譲ったことで傷心している。いま僕が告白すれば受け入れてもらえる可能性は高い。これは神が僕に与えたチャンスに違いない。
僕は三叉路の自分の帰る道ではなく、涼宮さんが歩いていった道に、足を一歩踏み出した。その瞬間、僕の頭の中に強烈な声が響き渡る。
「お前は本当に彼女のことを心から愛しているのか」
その声は、僕自身の魂の叫びのようだった。いるはずのない自分の分身が、形を持った心の投影が、自分の背後で語りかけてきているような気配さえ感じた。
そう、いまここで涼宮さんに告白したとして、僕は彼以上に彼女のことを愛することができるだろうか。彼以上に彼女のことを幸せにできるだろうか。
僕は自らの意思でSOS団の活動に加わったのではなく、機関の任務として涼宮さんのことを監視していたに過ぎず、仮に僕が涼宮さんとつきあうようになったとしても、機関のことを彼女に話すことはできない。
そんな不純な動機を抱えた僕が、果たしてこの三年間の彼以上に、涼宮さんのことを幸せにすることができるだろうか。
いま涼宮さんに告白しようと心に決めたそのときでさえ、僕は機関に許可を得られるかどうかという些細なことに気をとられてしまった。こんな僕に彼女とつきあう資格があるだろうか。
僕の心の中で、涼宮さんへの想いと、それを打ち消そうとする様々な疑問が、せめぎあい交錯する。
ふと我に返り、顔をあげて前を見ると、もうそこには涼宮さんの姿は無く、日が落ちて街灯に照らしだされた三叉路に、僕はポツンとひとり取り残されていた。
結局、僕は涼宮さんに対する自分の想いに答えは出せなかった。たぶん、答えは一生悩みつづけても出なかっただろう。
だが、たったひとつだけ、僕はいま心に決めたことがある。
涼宮さんは、彼が幸せになるのを見守ることも、彼への愛のかたちだと言った。だから僕も、愛する涼宮さんの真似をして、涼宮さんの幸せになる姿を見守ろうと思う。
 
 
それが、答えを出せなかった僕が涼宮さんにできる、精一杯の愛のかたちだと思うから。
 
 
~終わり~

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2020年09月16日 23:39