「――到着です」
軽やかなみくるの声が合図となり、長門はフローリングの床に降り立った。結んでいた手を解く。
放課後の無人の文芸部部室。PCが鎮座し、書棚がひとつ隅に固定され、多種の衣服がハンガーに掛けられたクローゼットに大きなテーブルが全体を占める。昨日活動を早々に終了した後の、団員が居ない事を除けば変わりのない物寂しい一室だった。
今日この日も、賑やかに彼等は笑い合っていたのだ。誕生日パーティーの段取りを打ち合わせ、帰って行った彼らに影が落ちることなど誰が想像しただろう。

「私が手伝いを許されているのは、長門さんをこの時間平面に連れてくることだけです」
申し訳なさそうに俯くみくるは、ぎゅっとスーツを引っ張って口惜しげだった。彼女は未来の指示に従ってしか基本的な事柄に接触することも許されない、自由なようで誰よりも不自由な立場にある。――これらの総てが未来人の思惑の内としても、長門は彼女への感謝を惜しみはしなかった。
「十分。……感謝する」
「長門さん」
みくるは、すっと息をつき、祈るように手を組んだ。
「――古泉くんを、よろしくお願いします」
長門には既視感があった。朧気な夢の霞。雪の舞う地での出来事。
刹那にみくるの姿は掻き消え、元の時代に帰還したのだろうか、現空間から消失したことを捕らえる。
送り出した長門は、手元のスノードームを包む掌に力を篭めた。 





キィ、とドアを開ける。不気味なまでに静かな、――授業後とはいえ人気の無さ過ぎる校舎内に踏み込む。
生徒の醸すざわめきも、車道の騒音も、風が窓を叩くことさえない扁平な空間に、ありうべからざる無が広がっていた。銀白色に統一された異空間、歪曲した壁面、情報制御下に置かれた其処は現実世界の片鱗を残さない。
痺れるような感覚が足下を走り、長門を繋ぎ止めるように青白い輪が浮き上がった。構成されていく、彼女の機能停止を図る『罠』。長門の時間遡行を、敵は早々に察知していたものらしい。
長門は踵を軸にして半身を素早く捻った。
構える間は与えられなかった。高速で飛来した数多の礫が長門の頚椎を抉り、辺りに散らばってすぐに分解された。滝のように溢れ出て制服を濡らしてゆく血液を修復する暇なくバックステップ、身を翻して第二連射をかろうじて避ける。放たれる槍のような形状の金属物質が、長門に狙いをつけて旋回し、勢いを増して降下した。
地に次々と突き立つ、凶器の雨。
かわしきれなかった一部をまともに腹部と脚に喰らい、長門はずるり、とバランスを崩し膝を折った。円状の光が絡みついて自由を奪う。

「な・が・と・さ・ん」

立ちはだかる女の声。女性特有の丸みを打ち出しながら、優等生らしい綺麗な発音に他者を甘く擽るような要素も交わった、強烈な印象を齎す声音。――既に消滅していた筈の存在。
わざとらしく一字ずつを区切った女は、美しい敵意を乗せて微笑んだ。
「あ、動かないほうがいいと思うわよ。長門さんの為に、随分時間をかけて念入りに仕掛けを施しておいたから――いくら長門さんでも、思念体の力を借りずにこの空間を破るのは無理ね」
下準備されていたらしい、見えない鎖に拘束された身体を起こし、長門は無表情に呟く。
「……朝倉涼子」
長門が呼ばわると、ええ、と朝倉は洒落た仕草で髪を掻き上げ頷いた。

長門有希によって情報連結を解除され、此の世から完全に失われた筈の個体、急進派の、パーソナルネーム朝倉涼子。長門が世界改変をした際に再登場したものの、やはり上書きされて復活とは成らなかったものだ。
「ふふっ。不思議そうね、私が此処にいるってこと。私はあなたに消されたんだもの、無理もない疑問だわ」
朝倉には勝利を確信した故の、悠々とした態度が滲んでいる。一度消滅に遭ったものがまた以前の人格を有したまま現出するというなら、解は一つしかない。
「情報統合思念体の、再構成」
「そう」
朝倉は長門を真似るように、指を唇に押し当てる。
「私自身のバックアップを元に再構築を受けたの。分かってるでしょ?涼宮さんの能力がこのまま無くなっちゃったら、自律進化の可能性は永久に巡って来ない。多少の犠牲を覚悟しても刺激が必要だってことよ」
すい、と持ち上げられた朝倉の腕に呼応して、浮上する鋭利な刃物の数々が煌いた。
「情報統合思念体の主流派はね、急進派の主張も一考に価するって、あなたの消去を認めたの。だから長門さんと思念体の間の通信は遮断された。あなた単体の力じゃ、私を倒すのは不可能だものね」
「古泉一樹の『機関』の内戦の手引きも、あなたがしたこと」
「ええ、長門さんを呼び出すのに丁度よかったから、彼らには踊ってもらおうと思って」

長門は把握した。――つまりは最初から、長門を抹消する為に急進派が工作したことだったのだ。古泉一樹の死さえも、手配した駒を操作する布石のひとつ。涼宮ハルヒを動かす為には、邪魔なインターフェースの妨害を阻むために、まずそのインターフェースを除く必要があった。
「機関」の過激派は涼宮ハルヒを殺したい。思念体の急進派は涼宮ハルヒの情報フレアの観測がしたい。よって、両者は手を組んだ。どちらにとっても長門有希が障害であることは間違いなかったから。
急進派には元々、涼宮ハルヒを殺させるつもりはなかったのだろう。旨い餌をチラつかせて、単に機関の人間を利用しただけという図式だ。 

長門の双眸に、深海の穏やかさに煮え立つマグマを注いだような、彼女にしては判別の付き易い明確な怒りが灯る。己でパーフォームし、己の作り出した面白いものを観賞する仕掛人のように、朝倉はくすくすと笑っていた。
「怒ってもダメよ。あなたの人生は此処でおしまい。――前に受けた借りは返させてもらうわね」
振り上げた手を下ろし、極上の笑顔を見せ付けて、女は決別を楽しげに謳う。
「さようなら」
身動きの取れない長門の身体を、無数の長針が貫いた。血が噴出する。有機情報連結の解除は、その肉体を保てなくなったときに訪れる。
ぼろぼろと崩壊してゆく全身に、思考ノイズが激しくなっていく。――長門は、緩みかかる指先に感じる硬い手応えを、意識して瞼を閉じた。





『あなたも同じでしょう』
そうかもしれない。
初対面の彼女はふわり、と笑っていた。
『どこへでも行くことはできます。あなたの行きたい場所はどこですか?』
彼女が翳してみせる。何も知らなかったわたしに。
風が温かく、日差しは柔らかだった。わたしは微睡みに落ち掛けていた眼を覚まされた。美しい水色の空、よく晴れた日だった。

『彼女と彼が揃う――再会の場所へ、行こうと思っていたのではないのですか?』
おっとりとした笑みを見せ、その手に掲げられた硝子の球体。
無限の拡がりを見せる銀河系に比べれば、余りにも小ぶりの世界だった。
ちっぽけな、振り抜けば砕けてしまう薄命の世界。閉じられた模造の宇宙。作られた白い粉。掌にすっぽりと収まる、スノードーム。その中に初めてわたしは、

……雪を、見たのだ。



―――押し上げられた記憶の蓋が、音を立てて回り外れた。
忘却ではない、気付かぬ内に封じていたものたち。長門はこの夢を何度も、生まれたあの日彼女と顔を遭わせてから、永く見ていた。エンドレスサマーの最中に、暴走によって世界改変に至った分岐点に、雪山にて天蓋領域に相対し熱に伏したあの夜に。得体の知れないその夢を、扱いかねて仕舞い込んできたのだった。

開かれた琥珀の瞳が焦点を結んだ。臓器も神経も引き裂かれ、血流ごと滅茶苦茶に蹂躙され、口内からも出血し瀕死の長門は、息を吹き返すように呼気を震わせる。そんな長門を睥睨する朝倉の、無邪気とも取れる微笑が残酷に吊り上る。
彼女は知らぬのだろう、それこそが人特有の感情という物の形であることも。

「なあに、どうしたの?心配しなくてももう終わりだから、安心して」
「……あなたは勘違いをしている」
朝倉は、止めに鋼鉄の尖った大棒を持ち上げたまま、きょとんと眼を瞬かせる。何も知らぬ、長門のかつてのバックアップであり、ある意味で長門と完全な対称を成す少女に、長門自身は平坦に訂正をした。
それが終焉であることの一打を鳴らして。
「これは、規定事項」

消えかかった細い指で、長門は決して離すことの無かったつるりとした球を、撫でた。

「『――これを、わたしの名前としよう』」



『キーワード承認。抗体プログラム起動。当該対称ノ有機情報連結ヲ解除スル』
スノードームが淡く輝きだし、ヘッドライトよりも鮮烈な白い光が視界を灼く。――同時に、泰然としていた朝倉の身に異変が生じた。携えていた大棒はさらさらと粒子に戻り、彼女自身もまた、崩壊のプログラムに浸食されて光に還ってゆく。
酷い悲鳴があがった。思わず耳を塞ぎたくなるような、爪を磨ぐ際に立つようなつんざく悲鳴。いやいやをするように首をしきりに振り、朝倉は絶叫を最後に、歪めた感情を人間の如く吐き出した。

「ぁああああああああああ、どうしてっ!どうして!?」
「――このスノードームには、予めあなたとあなたの構築した情報制御空間を破壊するプログラムが練り込まれていた。……あなたの勝利は、初めから有り得なかった」
哀れみの一滴を溶かした声を、長門は送る。何処かそれが悲しげに聞こえたのは、幻聴か、それとも。

「おやすみなさい」
同胞に捧げた、それが長門の餞別だった。


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