闇。一面の。
ひたりと沈ませた脚の先に、蜿蜒と伸びる道。振り返るも同じだった。進む先も、同じ。
永劫に終わらないのかもしれないと、思いながらわたしは行く果てを目指している。
上がり下がり、曲折し、歪曲し、相乗する。記憶が霞むほど永い旅路だった。
やがて小さな一室に辿り着いたとき、わたしは途方もない刻を経ていた。混迷に導かれた様に、意識が覚束なくなっている。四角に切り取られた暗黒が入室を促して、ぽっかりと口を開けていた。

かつり。
踏み込んだ先に、目に入ったものはそう多くなかった。室そのものは、全体的に薄暗く判然としない。
中央に据え置かれた黒塗りの光沢ある棺桶、腰掛けた男。其処に在ったのはそれがすべてだった。
長い足を交差させ、腕を組んでいたその男は、此方に気付き笑ったようだった。
「こんにちは」
「――こんにちは」
「お待ちしていました」
手を広げ、歓迎の合図を示し、楽しげな男。けれど重厚な棺の上からは、退こうとする気がまるで感じられなかった。
「遅れてしまいました」
ふわり、と淡い白い光が舞った。布を被った少女の声。鈴の鳴るような、とでも呼べそうな、可憐な声色だった。二人はわたしに、柔らかく諭す。優しい瞳が言い知れぬ暖かさを帯びている。
「発表会はまだ始まっていません」
男は言う。
「時間はまだあるのです」
「待ちましょう、あなたが思い出すまで」
少女が告げる。

わたしが立ち尽くすその前で、少女が踊り、男が唄う。
わたしを揺さぶるそれは、何処か懐かしい慈愛の歌だった。









「ああ、……雪ですね。春先に、珍しいことです」
白く降る、水の感触を額に受ける。古泉一樹は掌に受けた結晶を、共に下校中であった長門有希に翳した。横断歩道の手前、信号待ちの二人には綺麗な夕焼けが雲を透過して見えるのに、何処からか舞い降りた氷の粒は確実にその嵩を増し、視界を白と鮮やかな夕色に塗り分けつつある。日も高くなり、春の兆しが迫る温暖な季節の狭間。この時候に積もるほどの降雪があるのは稀なことだ。
「もしかしたら、空が一足先に長門さんを祝福しているのかもしれませんね」
そう思うと季節外れの雪もより楽しくありませんかと、古泉は人差し指を唇にあて優雅に微笑む。長門は、そんな彼の気障ったらしくも似合いといえなくもない一言に何を感じたのか、瞬きの少ない両瞳を古泉に向けた。

―――祝福。
生来、長門有希という個体には縁のないフレーズだ。
本日の文芸部室。総ての発端は涼宮ハルヒが「そういえば」と誕生日の話題を振ったことにあり、彼女が部員にその生年月日を明かすことを順々に強要したことに起因する。雑用係その一扱いの少年と副団長職を務める少年は無難に答えを終え、マスコット未来人朝比奈みくるもしどろもどろながら答え何とか事なきを得、回された解答権は最後に、長門に舞い込んだ。長門有希はとある記憶に従って、自身の誕生日に「明日」の日付を述べた。――それが大騒ぎの前座になるとは思いもせず。
『明日ですってぇ…!?どうしてそれを早く言わないのよ有希!みんな、明日は急遽部室で有希の誕生日パーティーよっ!いいわね!』
ハルヒはその段階でもって即座に誕生パーティーの開催を決定し、準備がいるからと間もなく解散。その後部室を退去した長門と古泉には知る術もなかったが、ハルヒはSOS団下っ端雑用係通称キョンを巻き込み、非常に彼女らしいサプライズイベントを計画し始めていた。古泉は長門に一緒に帰りませんかと誘いをかけ、了承を受け現在に至っている。

長門と古泉が仲良く隣り合って帰宅するのは実は間々あることであり、お互いの好意を確認し合い、紆余曲折を経た末でのことだった。眼に見えるような変化を指摘しろと言われたなら、彼等を見守る団員達もお手上げのポーズを取るだろう――彼等の関係の変化というのはつまり、余程注視していなければ、見逃すような些細なものではあったのだけれど。
確かに、想いは通っていた。それを二人とも、感じていた。
だからこそだろうか。
長門は無表情なりに密かに気に掛けていたことを、青信号に変わった歩道を渡る中に古泉に問い掛けた。長門が自分の「誕生日」がいつかを告白した際から、古泉の様子が些か妙であるということの理由。
古泉はやや驚きを露にし、それから決まり悪そうに鼻頭を撫でた。
「そんなに態度に出ていましたか、僕は?まだまだ精進が足りないようですね。――ご明察です、といっても肝心の内容は大した事ではないのですが……」
言葉を濁し、ちらりと長門を横目で窺いながら、
「長門さんの誕生日を、僕は知りませんでしたから。彼がそれを知っていたらしいことが、どうにも気に掛かりまして」
古泉は、悪戯が見つかった子供のように小さく笑った。



長門の発した『誕生日』には、みくるは驚愕の余り素っ頓狂な悲鳴を上げたほどだ。古泉も一時唖然とした。長門有希がTFEIであることはハルヒを除けば団員全員の認知にある。そんな彼女が誕生日をごく自然に口にしてみせることそのものが予想外だったからだ。
だが、ハルヒの鍵たる少年のリアクションは明らかに、みくるや古泉が受けたものと比べ衝撃薄いものだった。古泉の見立てたところ、どちらかというと彼は奇異なことに、喜んでいた様な節さえあったのだ。彼は長門さんの誕生日を元から知らされていたのだ、という推論に古泉が結論付けるのは難しい作業ではなかった。
長門は首を傾いだ。
「わたしの誕生日は、彼がくれたもの。おかしくはない」
「『彼』がくれた?」
笑みを絶やすことのない少年が瞠目をする。彼の笑みがこうも崩れるのもまた珍しい、などと長門が慨嘆を得たかは知れぬことだが、説明を始める長門の声は幾許か平坦さを小数点程度和らげていた。あらぬ誤解を誤解と断ずるためのものであったかは定かではないが、古泉の調子はそこで僅かに持ち直した。
「以前、彼がわたしに誕生日を訊ねた。わたしはヒューマノイドインターフェースであり、人間の誕生日を製造日に換算するのは不可能。彼はわたしに、それならその名を受けた日をわたしの誕生日とすればいいと言った」
長門有希は長門有希の名を己のものとした日のことを、よく憶えている。憶えている、というのは「生まれて」からの一切を耳に入れた一字一句抜かさず蓄積している彼女には相応しくない表現であったかもしれないが。それは、やはり長門にとって特別な日であったのだ。

其の身に銀色の光を浴びた、奇蹟の一瞬を。薄く色を延ばした如くの水色の空の美しさを。
初めから名を与えられている者は知り得ないのだろうと、漠然と長門は考えていた。
――雪という名が、如何に少女の起源となったかなど、誰にもきっと分からない。


「彼の助言にて誕生日を算出した。其の日をわたしの生誕日とすることに問題はないはず」
幾ら想いを抱いたとて、厚意に授けられた「生まれた日」を否定される謂れはないと、長門の言葉は少量の棘を含んでいた。気付いた古泉は、遠い出来事に思いを馳せる様に一つ、溜息。
「ええ、勿論その通りです。不快にさせてしまったのなら謝ります。確かにこれはあなたの誕生日ですから、僕に口出しする権利は微塵にもありません。……ですが、そういうだけの話ではないんですよ。僕にとってはね」
甘い笑顔を微苦笑にスライドさせて、古泉は長門に囁いた。
「正直、少し妬きました。――彼に、ね」
長門は古泉を見上げた。疼痛が走る。エラー、と認識していたそれの正体を、近頃に漸く知り始めていた長門は、押し黙る他になかった。
「すみません、困らせるつもりはなかったんですが」
「……」
「何にせよ、あなたの誕生日を祝える機会を持てたことは、僥倖でした」 

埒が明かないと踏んだ古泉は話題を切り替え、気まずさを払拭しようとしてか、過去の活動の思い出話を語り始めた。述懐も混合しての語りごとを、長門は相槌もなくただずっと聴いていた。別れ道に差し掛かるまで長い間。
色々あったのは間違いない。懐古するに事欠かないだろう波乱万丈の活動の毎日。
――現在、涼宮ハルヒの情報改変能力は「減」へと転じ、間もなく収束するだろうという見方が、古泉の所属する「機関」、そして長門の情報統合思念体の一致した見解だった。そしてそれはそのまま、彼等の任務の終了が近付いていることをも意味している。
そのことを、長門自身深く考えたことがなかった訳はなかったが。

「別れの日は寂しくなりますね。――でも、その前にまた一つ、素敵な思い出ができます」
感傷をそう締めくくった古泉の笑顔を、長門はじっと見つめ、こくりと頷いてみせた。結論を迫るのではなく、長門に逃げ場を与える古泉の言葉はいつも研ぎ澄まされながら穏やかに響いている。
「誕生日パーティー、楽しみですね。また明日に」
「……また、明日に」
そのときの長門は、自己の感情というものを旨く言語化できなかった。人間的に表現を駆使するなら、名残惜しいだとか、離れ難いといったものに近かったのかもしれない。
――それともそれは、俗に言う虫の報せであったものだろうか。

キスもなく、抱き合いもなく二人は別れ。
其の日、長門は触れ合うための彼の指先を見喪った。 


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