「じゃー、この間の続きからいくぞー。 159ペーシ開けー。」
長門さんが去り際に囁いたページが、今日の授業の始まりのページとは一体、なんと言うことか。 策略か? 計算ずくか? まぁ、どちらにしてもいずれは開かなければならないページである。
いったい、何が書いてあるのか。 思考が悪い方向にしか進まない。 希望的観測が取れないと言うよりも、悪い方向へ事態、もしくは状況が進んでしまうのを恐れているのだろう。 人は、追い詰められると悪い方向にばかり考えがいってしまうものだ。
嫌われたらどうしよう。 失望されたらどうしよう。 怒ってしまったかな。
自分に自覚がない分に怖い。
もしかしたら、愛の告白が……! なんて期待できるほど、僕は楽天家じゃない。 正直、谷口くんが羨ましい。 僕もあれくらい、能天気に生きられたらなぁ。 何でもかんでもプラス思考に取れる人間になりたい。
いつもいつも涼宮さんや〝彼〟の前では自信満々に振舞っているけれど、実を言うと何をしでかすにもびくびくしている僕である。 企画が成功するたび、一人心の中で大きく溜息をついているのだ。 まさしく、やれやれってやつだ。 時には裸足で逃げ出したくなるときもある。 涼宮さんは勿論、〝彼〟もある意味では聡明な方だから。
今の今まで、どうにかなってきたこと事態が奇跡だ。 長門さんが、僕の企画の興ざめを示さず、真実を知りながら黙秘を続けると言う形で協力してくれたことも大きい。
そう、長門さんだ。 長門さんが、僕にだけ囁いたページ。 そこには一体、何が書かれていると言うのだろう。 僕は、今までに経験が無いくらい、慎重に日本史の教科書を開いた。
目がぶっ飛んだかと思った。 僕の教科書の159ページの片隅にはこう書かれていたのだ。
P.159 教科書を貸してくれて、ありがとう。
でも、私は、まだあの答えを聞いていない。
私は、あなたと、「良好な関係」でいたいと望む。 あなたは?
もし、これが涼宮さんたちの前で口頭で言われた台詞ならば、
「勿論ですよ、当たり前じゃないですか。 僕としてはもっと上の段階へ行きたいくらいです。」
とか、わけの分からない少女漫画のキャラか、テメー!みたいなキザったらしい台詞も吐けると言うのに。 如何せんここは、授業真っ只中の教室、台詞は口頭ではなく教科書に薄く(おそらく消しやすい様にだろう)書かれたメッセージ。
おまけに涼宮さんや〝彼〟が近くにいるはずも無く、それ以前に、長門さんの教科書が無くなったこと、僕が教科書を貸していること自体が秘密、なのだから、このメッセージの存在自体も秘密なのである。
秘密のやり取り、秘密のメッセージ。 「良好な関係」。
いらん妄想が蔓延ってしまいそうだ。 ちがう! 断じて僕は、〝彼〟じゃない!
僕は、悪いことが起きたら守る方であって、毎日ドキドキなんかしていない! ……意味不明だ。
『良好な関係』――――。
長門さんは、どんな気持ちでこのように書いたのだろう。
りょうこう【良好】(名・形動)
状態・調子・成績などがよいこと。 このましいこと。 また、そのさま。
長門さんが思う、僕との好ましい関係とは、どういう関係だろう。 必要以上に互いを干渉しない、あくまでビジネスパートナーと言うか、利害が一致している相手と言う意味での仲間ということか、仲のよい、友人の一人として、ということなのか、もしかしたら―――――――いや、それは無い。 ありえない。
だって彼女は、情報統合思念体が創りだした云々以前に、確かな任務を背負っている身。 そのためにいるんだ。 それは、自分だって同じこと。
彼女が、自立進化の可能性を求めてここに来た様に、僕にも『機関』の使命がある。
僕なんかが、そんな妄想を抱いていい相手ではない。 僕なんかが、そんな妄想を抱いてはいけない。
それなのに、僕の脳みそは確実にそういう妄想に取り付かれ始めている。 長門さんと、登下校を一緒にして、たまに一緒に休日を過ごし、映画なんかを観たりして、試験前は図書館で勉強会。
馬鹿じゃないか、僕。 そんな普通の高校生みたいなこと、『機関』に救われた時に捨てたじゃないか。 なのに、今更。 馬鹿じゃないか。 なんて、欲深いんだろう。
長門さんとの秘密のことだって、気にしすぎだ。 意識しすぎだ。 あんなにワクワクして。 自分ひとりで舞い上がって、本当にどうかしている。
『良好な関係』。
それでも、そんな夢みたいな妄想は止まらなかった。 授業なんてほぼ耳にはいらない。 おいおい、仮にも優等生で通ってるんだろ? しっかりしろよ、と突っ込みたくもなるけれど、それでも止まることは無いのだ。
いつものSOS団の集合場所に集まるのは、僕と長門さんだけ。 もう他に誰も来る予定はない。 だって、デートなのだから。
僕が少し待っていると、長門さんが来る。
待った? いいえ、今来たところですよ。
いつもの制服じゃなくて、可愛らしい……うん、ワンピースがいいな、清楚な感じの。 すそにレースとか付いてる。
いつもの喫茶店でのくじ引きもなし。 2人きりなのだから、当然だ。 探すのは不思議でもなんでもない。
お昼の集合時間も気にせずに、街をぶらつき店を冷やかして、長門さんの服を見立てて、試着室に押し込んで、彼女が着替え終わるのを待って、彼女がカーテンを開けたら、考えられる限りの感想を言い連ねて。
軽く食事をして、二人並んで映画を観て、感想を言い合って、ゲームセンターのUFOキャッチャーでぬいぐるみを取って、長門さんにプレゼントする。
彼女は喜んで、僕ににっこり笑いかける。 いつしか、日はゆっくり沈み、夕焼けで二人の影は伸び、そして、近づく……
そこまで想像して、我に返った。 目の前に顔がある。
「古泉、お前なに、ニヤニヤしてるんだ?」
目の前にあるのは、悲しいかな長門さんの顔じゃない。 9組担当の日本史教師のヒゲ面だ。 ゲと言っても、ピンクのお姫様を助ける赤い帽子の突貫工事人の洒落たものでも、聖ニコラウスのふさふさしたものでもない。 んともまぁ、哀れな無精ひげ。 年を取ってもこうはなりたくないな。
「そんなに僕はニヤニヤしていましたか?」
「していたな。 まるで、何かやましい妄想をしていたような顔だったぞ。」
そんなに顔に出ていたのでしょうか。 と、いいますか、顔が近いです。
本気で、僕の癖について修正の必要を考えないといけませんね。 これはかなり不愉快です。
「まぁ、古泉も高校生だからなぁ。 そういう妄想の一つや二つあるんだろうが……。 いいか、そういうのは一人きりのときにやれ、さっきからニヤニヤニヤニヤと。 普段からお前は笑っていることが多いが、今日のはきょっと気味が悪かったぞ。 それに今は授業中だ。 授業より、怪しい妄想してるほうが楽しいなんていわれたら、先生拗ねちゃうからな。」
子供ですか、あなたは。
「まぁ、いい。 とりあえずな、」
今まで散々近づけてきた顔をやっと離して、日本史教師がお説教を開始しようとしたところで、まぁなんて都合よくチャイムが鳴った。
お説教のために開けた口はあんぐり。 出そうとしていた言葉をチャイムに飲み込まれたらしい。 助かった。
「……あー、まー、いい。 とりあえず、今日はここまで。」
何ともいい加減な終了宣言だが、幸いとしておこう。 あそこで何を考えていた? と聞かれて、6組の長門さんについて考えていましたなんて、口が裂けてもいえない。
この授業が4時間目でよかった。 四時間目の授業を長引かせると学食派の生徒からクレームが来るので四時間目の授業はチャイムきっちりに終わると言うのが暗黙のルールである。
しかし、口が裂けてもいえないようなことを、例え言わなくとも分かってしまう人間もいるにはいるのだ。 また、クラス中からニヤニヤとした視線を感じる……。 近づいてくるニヤニヤの総本山を感じる。 ほら、振り向けばそこに奴がいる。
山田くんだ。
「古泉ィ。 お前……」
「ちがいます。 長門さんのことなんか、考えてません。」
「俺は長門とは言ってないぜ。」
「な!」
「墓穴掘ったな。 お前、結構バカだろ。」
僕の首に無意味に筋肉質な腕を巻きつける山田くん。 暑い。 9月とはいえまだ暑いんですけど! と、いいますか、正直気持ち悪いです。 そして苦しい。
昼下がりの県立北高等学校の学食。 公立高校だから仕方ないのだが、随分と暗い。
そこにずらっと並んでいる長椅子のひとつについて、僕と山田くんはそれぞれ、うどんとラーメンをすすっていた。
山田くんのラーメンの隣には、何故か大きな弁当箱が鎮座している。 両方とも食べる気なのだろうか。 見ているだけで胸やけがする。
「で、なんなんですか、御用は? あなた大体、お弁当派でしょう?」
学食に設置してあるやかんから、無料でいただけるほうじ茶を口に含みながら、
出来るだけじとっとした目線を送ってみると、目の前の丸刈り男はけらけらととんでもないことを言い出した。
「本当に分かりやすいな。 分かりやすいついでに教えてくれよ。 お前、長門のことどう思ってる?」
ブーッ!!!
思わず、吹いた。 口に含んだ量が少なく、幸い僕のうどんも、山田くんのラーメンも山田くん自身も無事ではあったが、僕の精神的には大ダメージだ。 ネクタイも少しぬれてしまった。
今、この人なんていいました?
「お前反応しすぎだろ。 もうすこし落ち着けよ。 俺はただ、長門のことをどう思ってるか聞いただけだろ?」
「まぁ、そりゃあ、そうなんですけど……」
僕が歯切れ悪く答えるのなどお構いなしで、山田くんはラーメンをおかずにお弁当の白ご飯を食べている。 見ているだけでおなかいっぱいになりそうだ。
「で、どう思ってるんだ?」
「尊敬しています。 成績も優秀ですし、運動神経もいい。 知識量もすさまじく、思慮深い方です。 あんな風になれたら……」
「いやいや、そういうのじゃなくてだな、かわいいとか、思わないのか。」
「美しい方だとは思います。」
「かー!! お前の言い方だと美術品の話をしてるみたいだ! 人間としてじゃなくてだな、そう! 女としてどうだ。 女の子として! 見てるとドキドキするとか、幸せになって欲しいとか、笑っていて欲しいとか、他の野郎と話してるのみたらイライラするとか、無いのか。 もっといや、ムラムラするとか、そういうの!」
「ありませんよ。 そんな失礼なこと感がえられる訳ないでしょう。 第一、僕は出来れば長門さんも含め、皆さんに幸せに笑顔でいてもらいたいですし、 長門さんがほかの方と話していたからと言って、僕にそれを悪く言う権利は無いでしょう。」
「このいい子ちゃんめ。 お前さー、ホントおかしいよ。 異常だよ。なんか、どっか線抜けてんじゃねーの?」
その台詞は、じつは〝彼〟にも言われたことがある。
朝比奈さんや長門さん、涼宮さんのすぐ近くにいて、そういう風な感情にならないのか、と聞かれ、全く。と、答えた時にだ。
事実、そのときはまったくそういう風には思えなかった。
SOS団が結成されて3ヶ月にもなっていなかったし、『機関』のエージェントとしては新米の僕にそんな余裕や、SOS団に対する親情めいたものもなかったからだ。
しかし、今はどうだろう。 現に、長門さん相手に妄想デートプランを立てているあたり、全く。と言うには問題がある。
僕も、結局はただの古泉一樹の成れの果てに過ぎないメッキ加工品のようなものだ。 こうやってぼろが出る。
普通の高校生ならそれでいいんだろうが、僕の場合そうはいかないだろう。
大体、僕のあんな妄想は、長門さんの僕に対する信頼を裏切っているようなものなのだ。 そう簡単に認められるようなものじゃない。
そんなことを考えている僕をどう思ったのか、恐る恐るこう切り出した山田くんは、
「なぁ、古泉? お前、まさかとは思うけど、恋をしたことがないなんていわないよな?」
呆れたような溜息をついて、僕がそれに首を傾げると、また盛大に溜息をついた。
<続く>