二 章

 

二章口絵

Illustration:どこここ

 



 ハルヒには出任せを教えた俺だったが、こっちに来た本当の理由は長門も、他の二人も心当たりはないはずだ。前回来たときの記憶は隠蔽され、情報統合思念体も事件を過去に葬り去ろうとしていた。俺はそれで済むならそれもかまわないと思った。あのときは長門を連れ戻すことだけを考えていたからな。無事連れ戻せたわけだが、なぜそんな事件に巻き込まれたのか、誰の仕組んだ罠なのかという謎は残されたままだった。結局はなにも解決していなかったことに、いまさらながらに気付かされた。

 

 車の中でそんなことを思いつつ、窓を伝って流れる雨を見ていた。

 制限速度をきっちり守って走る長門は、飛行機のパイロット並みの正確な運転だった。でもこの運転手はどう見ても童顔の女の子で、十八歳より若い。いちおう免許証は用意してあるが、照合されたら偽モノだとバレてしまう。途中で検問なんかにひっかかりませんようにと祈りながら、車はお屋敷を目指した。
「あれっ、ここって鶴屋さんちじゃないの」
「そうだ。だが鶴屋さんはいないんだ。黙ってついて来い」
インターホンでおばあちゃんを呼び出して、谷川氏が具合悪いので連れて帰ったことを伝えた。
「おやおや。お酒でも飲んだのかい?」
「ちょっと脳貧血を起こしたらしくて」
朝ならまだしも、こんな夜中に脳貧血かよと思ったが、ほかに言い訳のしようがなかった。
「それから、友達が心配してついて来てくれたんですが。お邪魔してよろしいでしょうか」
「ぜんぜんかまわないさね。ささっ、おあがり」
俺と長門以外の三人は呆然とおばあちゃんを見ていた。言わなくても分かる、知ってる誰かに似てるっていうんだろ。
 ハルヒが耳元でささやいた。
「ねぇねぇ、このおばあちゃん、鶴屋さんの親戚かなんか?」
「まあ、身内といえば身内だな。でもこっちは鶴屋さんのいない世界だ」
ハルヒは、ふーんと唸ったのか納得したのか分からないような声を漏らした。
「みんな、泊まってくかい?」
「いいですか?五人もおしかけちゃってすいません」
「いいともさぁ。いろいろと大変みたいだしね。けへへっ」
もしかしておばあちゃん、なにか知ってるんだろうか。
「なんでもないっさ。キョンさん、ささ、布団出すの手伝って」
お座敷に布団を敷いて谷川氏を寝かせ、さらに二人分の布団を敷いた。
「女の子はこっちね」
おばあちゃんは女三人を手招きして呼んだ。離れに連れて行ったようだ。

 

 俺は布団にあぐらをかき、古泉に言った。
「ハルヒへの説明、あんなんでよかったか?」
「よろしいんじゃないでしょうか。曲がりなりにも納得してくれてるようですし」
「谷川さんのこと、どう言えばいいだろう」
「ここで即席で捏造した話をして、いつバレるかとビクビクしながら過ごすか、すべてを正直に話してしまうかですね」
「身もフタもないやつだな。ハルヒが自分の力に気が付いたらどうなるか心配してたのはお前のほうだろ」
「谷川さんがフォローしてくれるでしょう」
まあ最後はそれに期待するしかなさそうだな。不安が拭いきれない俺に対して、古泉はやけに嬉しそうだった。
「気のせいかもしれんが、必要以上に楽しそうだな」
「ええ。僕はみんなで不思議体験をするのが好きなんですよ」
前にも俺が朝比奈さんと過去に戻る話をしたとき、自分も連れて行ってくれとしきりにせがんでいたな。
「お前は毎日が不思議に満ちてるだろうに」
「ええでも、閉鎖空間内では孤独そのものですから」
「仲間がいるだろう」
「仲間がいるとはいえ、みんな超能力者ですからね。自分だけが一般の生活圏を離れて神人と戦っているのを思い出すと、孤独を感じますよ」
だから俺を閉鎖空間に誘ったのか。
「そうか。じゃあ、いつかまた付き合ってやるよ。ビデオカメラでお前が戦ってる姿でも撮ってやる」
「ありがとうございます。よろしければ高解像度でおねがいします」
高解像度って、古泉一樹のDVDでも出すつもりか。というより、俺的に古泉以外の超能力者に会ってみたいだけだが。

 

「話は変わりますが」
「なんだ」
「さっきから違和感を感じているんです」
「この部屋にか」
「いえ、こちらの世界に来てからずっと」
「そりゃまあ、こっちの世界は向こうの世界から見たら異空間みたいなもんだろう」
「そこなんです。ちょっと見てください」
古泉は右の手のひらを上に向け、じっと集中した。ぼうっと赤いゆらめきが燃え上がった。
「おい、こんなところでなにやらかす気だ。火事になったらどうする」
「大丈夫です。ちゃんとコントロールできていますから」
「ふんもっふか?」
「ええ。かなりエネルギーを絞ってあります。思うに、こちらの世界は僕にとって異空間と同じなのです」
「こっちじゃお前は通常的に超能力者か」
「そうなります。これがいつまで続くかは分かりませんが」
いざというときは頼りになるかもしれないな。カマドウマみたいな敵が現れたような場合だが。
「しかしそれ……、暖かいな」
俺は冷たくなった手をかざした。
「僕の能力は暖房器具じゃないんですが」古泉は苦笑した。

 

 おばあちゃんが突然襖を開けた。「マクラあるかい?」
古泉は慌てて火の玉を消した。
「すごいねっ。それ、手品かい?」
「ええまあ。実は僕、マジシャン志望なんです」
「へええ。ハトとか出せるかい?」
「タネと仕掛けがあればできます」
「今度、やってみせておくれよ」
「いいですよ。練習しておきますね」
おいおい、そんな爽やか笑顔で言っちまっていいのかよ。
「お風呂、沸いてるからね」
おばあちゃんは襖を閉めて消えた。

 

「こっちと向こうにはいろいろと共通点があるみたいですね」
襖の向こうに消えたおばあちゃんの名残を確かめるように言った。
「そりゃまあ。向こうは谷川さんの作った世界だから」
「ということは、僕のモデルもいるわけですか」
「さあ。その辺は聞いてみないとな。俺が知ってるのは鶴屋さんだけだな」
「ということはこっちの世界があってはじめて向こうの世界が存在できる」
「そうなるな」
「こっちの世界に異変が起きると僕たちは存在の危機に直面しますね」
「不吉なことを言うな」
「あの文庫本はそれを意味してるのだと思います」
古泉はたまに、思いも寄らない事実を口にする。
「それはそうと、僕たちはなぜ過去に来たんですか?」
「俺がこっちの世界に来たのは四日前で、今日、向こうに戻ったんだ」
「なるほど。過去のあなたとすれ違いですか」
「あのときは長門を連れ戻すだけで精一杯だったからな」
「今回は文庫本の持ち主を探しに来たわけですね」
「たぶんそうだ。俺たちに罠を仕掛けたのが誰かを知るためにな」

 

「あの存在しないはずの十三巻ですが、どんな内容だったんですか」
「あれはだな、んぐ・・・…だからええっと、んがが」
「具合でも悪いんですか」
「い、いや、しゃべろうとすると口がふさが……んがぐぐ」
「大丈夫ですか。長門さんを呼びましょうか」
「いや大丈夫だ。きっとまだ禁則事項が残ってるんだ」
「ああ。未来のことが書かれているんですね」
「そうだ」俺はゼイゼイと荒い息をした。

「あなたが僕たちの世界の未来を知っているということは、時間的なパラドクスが発生する可能性がありますね」
「どういうことだ?」
「こっちの世界では、つまり谷川さんの脳裏には僕たちはまだ存在しないはずです。十三巻が存在しないのと同じように」
「谷川さんが書けば既定事項になるだろう」
「もし書かなかったら?」
「矛盾するかもな」
「そうなると、とんでもないことが起るかもしれません」
「まあ心配しなくても、俺たちがこっちにいる時点ですでに矛盾している」
「それもそうですね」
今から心配してもはじまらない。俺は大きくあくびをした。古泉の哲学やら時空論に付き合うのはそのへんにして風呂に入ることにした。

 

 


 真夜中のことだった。
「……起きてください」
「嫌だ。まだ目覚ましは鳴ってないぞ」
「またそれですか。いいかげん起きてくださいよ。緊急事態です」
「今度は何だ」
どいつもこいつも異常事態になると必ず俺を呼びやがる。俺はため息をつきながら布団の上に起き上がった。古泉はすでに着替えている。
「神人が現れました」
「なんだって!?」
布団から飛び出ると、襖が開いて長門が顔を覗かせた。
「……外に、来て」
俺たちは縁側から庭に下りた。

「……」
長門が夜空の北のほうを指差した。見上げると、山の稜線に沿って広がる大きな青いスクリーンのような物体が見えた。
「……美しい」長門が呟いた。
「あれか?」
「ええ。不完全ではありますが、神人です」
「いつもの、人の形をしていないな」
「右のほうをよく見てください、顔のような部分が見えませんか」
言われてみれば赤い点が三つ、ぽつぽつと見える。
「あいつ、何してんだ?」
「それが謎なんです。まったく分かりません」
「……眠っている」
「すまん、なんであいつが眠ってる?」
「……分からない。涼宮ハルヒの微妙な精神状態を反映しているのかもしれない」
「あいつが現れるのはハルヒのイライラが原因だったよな」
「そうです。でもこの神人を見る限り、いつもと様子が違うようです」
「ふつうはあいつが現れるのは閉鎖空間のはずだよな」
「そうです。こっちの世界ではどうか分かりませんが」
「出るところ間違えました、って感じがしないか」
「そんな、お笑い芸人じゃあるまいし」古泉が苦笑した。
よく見てみると、神人が寝息をたてているようにゆっくりと揺れている。こいつ、寝てるなら現れる意味ないんじゃないのか。もしかして、ハルヒが異世界に来たりしたんで混乱してるのか。
「で、やっぱりあれは消滅させないといけないのか」
「そうですね。涼宮さんに見られると困ります」
あの夜、北高グラウンドで起こったことが夢じゃなかったなんてことになったら、俺のほうが困る。
「しょうがありません。消してきます」
古泉のまわりが丸く、赤く光り始めた。

 

「ねえちょっと、あれ、なに?」
後ろで声がした。
「あれは神人と言ってな」
ってハルヒじゃないか!なんで起きてきたんだ!俺と長門が同時に振り向いた。
「なによ。有希がいないから変だと思って探してたのよ」
「おーい古泉、戻って来い。緊急事態だ」
こっちのほうがほんとの緊急事態だ。
「あらら……」
「そこで浮かんでるの古泉君なの?」
「実は僕はラマ僧でして、空中浮遊ができるんです」
いつチベットなんかに行ってたんだよ。宙に浮いていた古泉がマヌケ面をして降りてきた。これは困ったことになった。どう説明したらいいのか。長門もフォローのしようがないという顔をしていた。
「ラマ僧って頭剃ってるんじゃなかったかしら。それはともかく、あの青いやつなんなのよ」
「……あれはフィトンチッドの一種。森林のマイナスイオン放射があのように見えることがある」
「へー、そうなの。マイナスイオンって体にいいのよね」
ハルヒは長門のでまかせを鵜呑みにしている。俺が説明すると嘘っぽく聞こえるのはまだ修行が足りないからか。

 夜空を背景に、まるでオーロラのように青く光る帯を眺めていた。よく考えれば、このへんで早々に部屋に戻るべきだったんだ。
「お?」
ハルヒが声を上げた。神人がぴくりと動いたのだ。顔に当たる部分が持ち上がった。
「あら、なんだか人の形してない?あれ」
まずいぞ、俺は古泉に目で合図した。そもそも青い塊の説明すらできないのに、これが目を覚ましたらとんでもないことになりかねん。
「さあ、冷えますから戻りましょう」古泉が促した。
「ちょっと待って」
すでに遅かった。神人の目がじっとこっちを見ている、ような気がした。そいつはおもむろに起き上がると、山の上に立ち上がった。閉鎖空間のときのように建物を壊したりせず、ただ背中を曲げてうなだれているだけだったが。今まで散々ハルヒのイライラに付き合ってきて、さすがに疲れたのだろうか。
「ねえねえ!すごいじゃないのあれ!人よ、人の形してるわ。ランプの精かしら、古代人の大量破壊兵器かなにか」
ハルヒがいつかのように目んたまをキラキラさせて神人を見ていた。頼むからあの夜のことは思い出さないでくれよ、と虚しい願いを誰かに向かってかけていた。谷川さん、助けて。

 ハルヒが右手を振った。すると神人も右手を動かした。今度は左足を上げ、神人も同じことをした。
「すごいわ!すごいわ!なんなのこれ!?」
そりゃまあ、お前の分身みたいなもんだから、お前の意のままだろう。ハルヒは右足と左足を交互に動かし、ステップを踏んだ。かわいそうに、遊ばれている神人も同じようにダンスを踊った。
「ブーン」
手を広げてくるくると舞を舞った。
「さすがは涼宮さんですね」
古泉は爽やかに笑っていた。笑ってる場合かおい。ハルヒがくるりと振り向いた。
「あんたたち、あたしに隠してることあるでしょ。特に、キョン!」
ハルヒの人差し指が、まるでビシッと音を立てたかのように俺に向いた。とうとうあの夜のことを思い出したようだ。

 

「話せば長くなるが、」
最初、古泉が説明をはじめようとしたのだが、俺に任せろと目で制して俺が話し始めた。とりあえずは、閉鎖空間と神人のこと。それがハルヒの潜在意識によるものらしいこと。古泉がそれと戦っているということを話した。ハルヒはふんふんとか、なるほどね、とか、本当に納得してるんだか分からんようなあいづちを打ちながら聞いていた。
「ということは、あれはあたしが作ってるのね?」
「そういうことだ」
「で、古泉君が毎回あれを退治してるのね?」
「恐縮ながら、そうです」
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「今まで黙っていてすいませんでした。涼宮さんにあらぬ心労をかけたくなかったんです」
もっともらしい言い訳だ。
「水臭いわよ、古泉君」
古泉を見る眼がやたら優しいぞ。
「キョン!あんたは許さないわよ!あんときのアレ、夢じゃなかったのね」
思い出したくないのに。
「う……うむ、実は夢じゃない。あれはあの空間を出るために仕方なかったんだ」
俺は赤くなったり青くなったり、狼狽したり発汗したりしていた。ハルヒの顔も少しだけ赤くなっているようだが。ハルヒが俺の耳をひっぱって、囁いた。
「あんときのこと、誰かに喋った?」
「いや、誰にも」
俺は頭をブンブンと振った。言えるわけがない。
「いい?あれはあたしとあんたの秘密だからね」
「分かった」
俺はほっとため息をついた。ジョン・スミスはお前かと聞かれなかっただけでもよかったと思わねばなるまい。

「でも、ぜんぜんおとなしいじゃない?」
ハルヒが神人に向かって手を振った。神人も思い出したかのように手を振り返した。
「いつもはあんなものではないんです。某怪獣映画みたいにビルや家を壊してまわるんです」
「ふーん、そうなの。見てみたいものだわ」
「それは……なるべくなら、やめていただきたいのですが」古泉が冷や汗を流している。
「冗談よ。暴れるようなことがあったらあたしに連絡ちょうだい。なんとかしてみせるから」
「分かりました。助かります」
そんなことが可能ならとっくに治まってる気もするが。
「あ……」
神人が消えていく。山の上に青い輪郭だけが残り、やがてそれも上昇するようにして消えた。
「自分から消えちゃいましたね。こんなことははじめてです」
「何事もなくてよかったじゃないか」
「残念。もっと見てたかったのに」
冷たくなった腕をさすりながら俺たちは部屋に戻った。

 

 俺たちは座敷でコタツに座り込んで話した。起きてきた朝比奈さんが台所からお茶を持ってきてくれた。
「それで、有希とみくるちゃんは何ができるの?」
「はい?」
長門がお茶を吹いた。二人はどう反応したものか互いの顔を見合わせるばかりだ。俺はどうやって話をごまかそうかと頭の中のハムスターがフル回転していた。
「あたしが選んだメンバーで、古泉君だけが特別な能力を持ってるなんておかしいわ。あんたたちもきっと不思議な力があるに違いないわ」
いい勘してるな。というか前にも話したはずだが。俺と三人は顔を見合わせた。互いの視線が、ここで全部吐いちまっていいのかと言っている。
 ハルヒがテーブルをドンと叩いた。
「隠してないで、ちゃんと説明しなさいよ」
「え、ええとだな」
俺はせかされるように口を開いた。ええい、もうどうにでもなれ。今まで苦労して隠しとおしてきたのに、なんかあったらお前自身のせいだからな。
「長門は、ええと対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス、だっけ」
おお、はじめてちゃんと言えた。
「要は宇宙の果てから来た。こっちの世界に来れたのは長門の力だ。朝比奈さんは未来から来た。さっき風景がぐるぐる回って吐きそうだったのはタイムトラベルのせいだ」
ハルヒはへえええと口を餃子の形に開けて驚嘆の声を上げ、長門と朝比奈さんを上から下まで眺めた。不躾だぞ、そんなにジロジロ見るな。
「前にも話したはずなんだが、お前信じなかっただろ」
「あんたの話の持っていき方がまずかったのよ。宇宙人未来人超能力者はね、もっとセンセーショナルな登場をするものよ」
「俺は事実をありのままに話しただけだ」
こいつらは、俺にはそれなりにセンセーショナルな場面を見せてくれたんだが。

「それでキョン、あんたはなにができるの?」
「俺?」
「あんただけ平凡な人間とか言うんじゃないでしょうね」
「平凡で悪かったな。俺はいたってふつーの人間なんだよ。古泉も保証してる」
「じゃあなんか特殊な能力を身に付けなさいよ。それが無理なら今後の処遇を考えないとねぇ」
「俺は平凡でいい。お前らがトタバタやってるのを見てるのが楽しいんだ」
「SOS団に凡人はいらないわ」
ハルヒが意地悪そうに笑った。三人とも俺を見て笑っている。なんだお前ら、急に結託しやがったな。
「じゃあ、あたしは何だろう?」
ハルヒが急に真顔になって言った。
「あたしは、いったい、何だろう?」
もう一度、独り言のように呟いた。
「お前は台風の目みたいなもんだ。世界はお前を軸に回ってる」
「そのとおりです。涼宮さんが望めばなんでも実現します」古泉がうなずいた。
「え……。とてもそうは思えないけど」
「お前が気が付かなかっただけだ。猫が喋ったり、冬に桜が咲いたり、カワラバトが白鳩に変身したり」
「言われてみれば、そんなことがあったかもしれないわね」
「俺も三人も、お前が望んで起った事件のフォローに追われてたんだからな」
「ほんとに?有希も、みくるちゃんもそうなの?」
二人ともうなずいた。
「そうだったの……」
ハルヒは知らされた事実に、少しショックを受けたようだった。膝を抱えて黙り込んでいる。
「でも、涼宮さん。僕は自分の役割をそれなりに楽しんでいますよ」古泉がフォローした。
「わ、わたしもです。SOS団に入ってずっと楽しいことばかりで、泣かされたりいじめられたり、」
朝比奈さんが無理に取り繕うとして焦っていた。長門は無言のままだった。
「ごめんね、みんな。あたし、自分が楽しいばっかりだったわ」
ハルヒがうつむいたまま言った。
「まあそうしょげるな。俺たちはハルヒに会って確実に人生が変わった。今じゃそう思える」
「寝るわ……」
俺の放った言葉も空しく、ハルヒは黙って部屋を出た。

 残った四人に、しばらく沈黙が続いた。
「ややショックだったようだな」
「彼女にはこれまでとは違った、精神的なフォローが必要です」
「ハルヒに心の支えが必要だってのか」
あいつにそんなもんが必要なら瀬戸大橋の橋脚並みの強度が必要だろう。
「涼宮さんはたぶん、知ってしまった自分の能力に翻弄されるでしょう」
「自分をコントロールしきれないってことか」
「むしろ無理に自分を抑えようとして、ストレスがたまるのではないかと。僕がこの力を得たとき、自分でコントロールできなくて随分つらい思いをしましたから」
なるほどな。長門は最初から、朝比奈さんはなにか特別なテクノロジーのおかげでその力を持っている。だが古泉はある日突然その力を得た。こいつが言うと納得できる。
「いつかは話す日がくるかもしれないとは思っていたが、まさかこんな非常時にこんな形になるとはな」
「あなたはできるだけ穏便に話してくれたと思いますよ」
そう言ってくれれば少しは安心できるが。
「俺、少しハルヒと話してくるわ」
今はそっとしておいたほうが、と三人は止めたが、俺は聞かなかった。

「ハルヒ、ちょっと入るぞ」
俺は離れの引き戸を開けた。部屋の隅に丸まった布団があった。その塊の中からときどき鼻をすする音がする。
「さっき言い忘れたことがあるんだがな」
「なによ、泣いてる顔なんか見せないわよ」
布団の中からハルヒの鼻声が聞こえた。これはこれでかわいいところもあるんだな。
「谷川さんは俺たちの父親みたいな人で、つまり俺たちのいる世界を作ってる」
「どういうことよ」
「長門が言うには、こっちの世界は俺たちのいる世界の平行世界、らしいんだ。俺たちの世界は谷川さんが書いてる本の中に存在してる」
「なによそれ……」
目を真っ赤に泣きはらしたハルヒが顔を出した。ちょっとだけドキドキしたぞ。
「だから、お前を含めて俺たちの一挙手一投足はすべて谷川さんが頭の中で作り出したことなんだよ」
「また妙なことを言うわね。あんた、今日だけでどれだけあたしを驚かせたと思ってるの」
「黙っていてすまん。お前にすべてを話したらどうなるか、それが心配で話せなかった」
というのは嘘ぴょんで、あいつら三人が勝手に杞憂してただけなのだが。
「気負うことはないから。今までどおり、ナチュラルなお前でいろ」
そう、さっきからこれが言いたかったんだ俺は。素直に口から出てこないのがうらめしい。
「あったりまえじゃないの。あたしはあたしよ」
それでこそハルヒだ。

 

 その日の夜、古泉は結局眠らなかったようだ。三十分ごとに大規模な閉鎖空間が発生し、沸き続ける神人を狩っていた。こっちの世界には機関も超能力仲間もいないわけで、ひとりで苦労して狩りつづけたらしい。もちろん送迎の新川さんもおらず、おばあちゃんの自転車でキコキコ出動する様子は江戸時代の町火消しのようだった。
 夜明け頃、何度もあくびをしながら古泉が戻ってきた。
「考えようによっては、これくらいで済んでよかったと思いますよ」
「ハルヒを起こして止めてもらえばよかったのに」
「それも考えたんですが。閉鎖空間を発生させない涼宮さんなんて、ちょっと寂しいじゃないですか」
「まあいつもと変わらないハルヒでいてくれて幸いというか」
ハルヒに相当なショックを与えたんだから、銀河が壊滅してもおかしくはないだろうけど。
「それに、これが僕に課せられた仕事ですからね」
余裕で笑ってみせる古泉は、ちょっと妬ましかった。


 


「キョン、古泉君、起きてる?」
朝、ハルヒが襖を開けて入ってきた。
「ん~まだ目覚ましは鳴ってないぞ」
昨日ろくに寝付けなかった俺は布団に潜り込んだ。ハルヒに布団をひっぺがされるかと予想していたのだが、別の方向から声が聞こえてきた。
「ちょっと谷川、起きなさいよ」
顔を出すと、ハルヒが谷川氏の頬をペシペシ叩いていた。
「お前、初対面でそんな乱暴な」
「ん……」
谷川氏が起きたようだ。
「あ、谷川さん。目覚めましたか」
古泉は布団をたたんでとっくに着替えている。谷川氏は目をこすりこすり、自分がどこにいるのか確かめているようだった。目の前にいるハルヒと目があった途端、飛び起きた。
「うわあああ!!出たああ!」
「人をおばけみたいに、失敬ね」
「キミたち、まさかそんな。ありえない!これはぜったい夢だ。夢に違いない。だから寝よう」
ハルヒと古泉を見て、布団をかぶって潜り込んでしまった。
「ちょっと谷川、全部聞いたわよ!最近あたしの出る幕がないと思ったらあんたのせいだったのね」
「や、やっぱり言われた」
布団のなかからモゴモゴ言う声が聞こえた。
「谷川さん、すいません。やむを得ない事情で戻って来まして」
「まさかまとめてやってくるとは。朝比奈みくるも来てるの?」
谷川氏は布団から目から上だけ出して言った。
「ええ。長門といっしょに離れにいると思います。ハルヒは連れてくる予定はなかったんですが」
「あたしだけのけ者にしようっての!?」
いや、そういうつもりじゃないんだが。
「しかし……」
谷川氏はハルヒの顔をまじまじと見つめた。
「な、なによ」
「かわいいな」
「もうっ!なにを言い出すかと思ったら」
ハルヒが怒ったような照れたような表情で布団に飛び乗り、ぽこぽこと叩いていた。俺はそれを、仲のいい親子がじゃれているように微笑ましく見ていた。いやまあ、ある意味親子なのだが。

 

 男どもは着替えるからと、部屋からハルヒを追い出した。谷川氏に話しておかなければならないことがある。
「改めまして、古泉です」
「思ったよりイケメンだね」
「お褒めいただいてありがとうございます」
どうでもいいだろそんなこた。
「まさかハルにゃんが来るとは予想外だったけど」
「ちょうどこっちに来ようとしていたとき、ハルヒに転移の現場を押さえられてしまったんです。それでやむなく連れてくることに」
「そりゃ致し方あるまいね」
「昨日の夜、こっちの世界で神人が現れて涼宮さんに見られてしまいました」古泉が口を挟んだ。
「こっちに閉鎖空間が発生したのかい?」谷川氏は飛び上がって驚いた。
「最初は異空間ではなく通常空間に現れたんですが」
「そりゃまたとんでもない事態だね」
「奇妙なことに、山の上に寝てたんです」
「寝てたって?」
「向こうの、山の上に横になっていました」
古泉は北の方角を指差した。
「それ、ほかの誰かに見られた?」
「どうでしょう。数分間のことでしたが」
谷川氏は寝巻きのままドタドタと玄関に走っていった。かと思うとまたドタドタと戻ってきた。新聞をバサっと広げて叫んだ。
「えらいことだ、もう朝刊に載ってる!」
地方欄に、立ち上がった神人の写真が載っていた。谷川氏は頭を抱えた。古泉は声を立てて笑った。
「この写真、どう見ても神人が踊ってますね」
「きっと読者から問い合わせが殺到するよ。僕の仕込みだと思われる」
記事には、レーザーによるホログラフィック映像が空気中の靄か煙がスクリーンとなって映り込んだのだろうと書かれていた。一方で、その山周辺に伝わる都市伝説やら戦時中の軍施設の話やらがまことしやかに書かれている。どっちにしても犯人は分からず、誰かに被害があったわけでもないので警察もお役所もノーコメントらしい。
「あの甲山には昔からいろいろ言い伝えがあってね。戦国の武将が負けて逃げ込んだとか、戦時中に高射砲があって敵機が突っ込んだとか」
その辺でなんとかうまくごまかして、市民の方々には一日も早く忘れてもらいたいものだ。

「まさか涼宮さんが神人にダンスを躍らせるとは」
古泉は思い出し笑いをしていた。
「こいつ、踊ってるのかい」
「ええ。まるで涼宮さんの操り人形のようでした」
「それで、古泉君が消したのかな」
「いえ。これも不思議なことに自然消滅してしまいました」
「うーむ。ふつうは閉鎖空間にしか現れないよね。そういう設定のはずだし」
「そうですよね。でも閉鎖空間は別に発生しています」
「こっちの世界で?」
「ええ。思うに、こっちの世界は僕たちから見れば異空間なので、閉鎖空間との境界線が曖昧なのでしょう」
「じゃあその時間、ハルにゃんがイライラしてたんだね」
「昨日の夜、涼宮さんにすべて打ち明けてしまったんですが、それがショックだったらしくて」
「彼女の能力のこと?」
「ええ。昨日だけで十四体くらい狩りました」
「なんてこった。よく世界が消滅しなかったね」
「すいません。やむにやまれぬ展開になってしまいまして」
「しかしこれは困った。話が続かなくなるよ」
ハルヒに説明したのは俺なんで、いくらハルヒの命令とだったとはいえ自分の責任を感じていなくもない。俺がもうちょっとうまくごまかすとか、よくできた話をでっち上げるとかすれば世界は救われたのかもしれないが。
「まあこれがこっちの世界の必然なのかもしれないね」
谷川氏は楽観的意見を述べた。この人がそう言うなら俺たちもそれに同意するほかない。少し安堵のため息をついた。

 まだ本題に入ってなかった。
「こっちにやって来た理由なんですが、例の文庫本がまた現れたんです」
「なんと。十三巻かい?」
「そうです。俺は読んでないですが、長門によると前のとは別の一冊らしいです」
「いったい誰がなんのためにそんなことを。僕はまだプロットすら書いてないのに」
「前回こっちに来たのは突発的なものでしたけど、今回は長門の次元転移の技術を使いました」
「なるほど。自力で行き来できるってわけだね」
「それと、俺と長門が向こうに帰ってから、二ヵ月経っています。朝比奈さんを連れてきたのはこの日付に戻ってくるためなんです」
「すると向こうは二月かい?」
「ええ」
「月日の経つのは早いもんだ」
谷川氏は冗談なのか、あるいは別の意味があるのか、感慨のため息をついた。
「ということはキミたちは僕にとっちゃ未来人か」
「二ヵ月ですが。そういうことになります」
「未来の情報を流入させてメリットがあるのは誰だろうね?」
「今のところまだ分かりません。それを知るのが目的というか」
「僕たちのような存在がほかにもいる、とは考えられませんか」古泉が口を挟んだ。
「というと?」
「僕たちの世界は谷川さんによって作られた。とすれば、ほかの誰かが作った世界も存在する」
「世界がいくつもあるわけか」
「そうです」
「うーむ。そんなやつがいるなら、締め切り前の原稿を頼みたいね」
「手分けして書けば楽ですね。いっそのことゴーストライターとして雇ってみては」
「分裂みたいに別々の展開になったりしたら話がややこしくなるな」
あの、話がだいぶそれてる気がするんですが。
「冗談はさておきだね。今分かることは、例の十三巻を送りつけた誰かは、キミたちの世界の存在を知っている。それが次元転移を引き起こすことも知っている。接触しようとしているか、あるいは論理的矛盾を仕掛けようとしているか」
「いずれにしても接触すれば、どこかに矛盾が生じるでしょうね」
「キミたちのためではなく私利私欲のために動いてる、ということに帰結するね」
この二人、話が合いそうなんで俺は聞き役に徹しよう。どうせ半分も理解できないし。
「僕たちに敵する勢力とは、いったい誰でしょうか」
「うーん。例の天蓋領域とかは関係なさそうだし。話が僕の領域を越えてるよね」
「ということは谷川さんのシナリオにはまったくないことなんですか」
「展開からして、僕のシナリオパターンじゃないね」
「じゃあいったい誰が……」
三人は同時に上を見上げた。誰かがこの状況を見てほくそえんでいる。そんな鳥肌が立つような感覚に襲われたのだ。


 不本意ながら、ハルヒが自分の能力を知ってしまったわけだが本人はどう思っているのだろう。俺は食堂に入り、ちらりとハルヒの表情を見た。
「先に食べてるわよ」
ハルヒは味噌汁をすすっていた。初対面で家に上がりこんで朝飯まで戴いてるというのに、この無緊張感はいったいなんだ。眉間に皺も寄っていない、眉毛をピクピクと動かしてもいない、いつもどおりの平穏なハルヒだ。いやいや、油断はできないぞ。これが奇妙なことを考え付くと途端に表情が変わるのだ。目の輝きが二十カラット分のブリリアントカットダイヤくらいになる。なにかいたずらをしでかしてやろうと構えている、子供の瞳と同じに。
「よ、よう」
なぜか俺のほうが気を使って、至近距離にいるのに手など振っている。
 台所からおばあちゃんが現れた。
「おやおや、キョンさんもお目覚めかい。よく眠れたかい?」
「おかげさまで。突然三人追加で押しかけてごめんなさい。つる……、おばあちゃん」
「いいっさ。うちはたまーにしか来客がなくてね。あたしゃ賑やかなのが好きなのさ」
おばあちゃんはご飯をよそってくれた。白い米がまぶしい。
「おばあちゃん、この味噌汁、さいっこうよ」
「そうかい、嬉しいねえ。近頃じゃ若い子は家で日本食を食べないって言うじゃないか」
「あたしは和食党よ。おふくろの味は国民の財産だからね」
おばあちゃんはけっけっけと笑った。チラリとのぞいた八重歯がかわいい。

「おはようございます」
「……」
朝比奈さんと長門が入ってきた。
「あの、突然お邪魔して申し訳ありません」
「いいってことさっ。ささ、たんっとお食べ。堅苦しいことは抜き抜き」
「あ、ありがとうございます」
朝比奈さんはサクサクと動くおばあちゃんをじっと眺めた。由緒正しき日本の主婦からなにかを学ぼうとしているのだろうか、それとも次のコスプレに割烹着を検討中なんだろうか。
「わたしのおばあちゃんに、似てる……」
朝比奈さんがポロリと漏らした。それ、もしかしてなにかの伏線?
「おかわり!」
ハルヒが漬物をボリボリ食いながら茶碗を差し出した。おばあちゃんが大きな木のしゃもじで、お櫃からご飯を山のようによそった。それにしてもハルヒ、よく食うな。長門といい勝負じゃないか。テーブルの対角、長門がおもむろに箸を取ってハルヒをちらりと見た。出遅れた長門の第一ラウンドが開始した。

 

 しばらくハルヒの様子を見てはいたが特に変わった様子は見受けられなかった。天変地異までとはいかなくても、イチゴ味の雪が降るとか、夙川を鮭が遡上するとか、地面が割れて古代文明の大量破壊兵器が練り歩くとかがあってもよさそうなもんだ。これを見る限り、ハルヒはふつーに宇宙人未来人超能力者がいたらいいな的世界を望む女子高生になっちまってる。
 古泉もずっと観察していたらしく、顔を合わせると同じ話題になった。
「ハルヒ、変わりないな」
「そうですね」
「意外と言えば意外だな」
「そうでしょうか。前にもお話しましたが、涼宮さんはエキセントリックな方ですが他方では常識的な考え方の持ち主ですから。ある日突然、世界は自分の意のままに動くと言われても、はいそうですかと魔法使いのような人生をはじめるとも思えません」
「お前、ハルヒが能力に気付いたら何が起るか分からないと懸念してたじゃないか」
「ええ。いざそれが起ってみたらなんのことはない、平凡な日常のひとコマが現れただけだった、といった感じはありますね」
「嵐の前の静けさとかじゃないよな」
「それも大いにありですが、こうも考えられます。涼宮さんはこう思っている。自分の能力は存在していて当たり前なんだ、と」
「それがなぜ日常と変わりないハルヒになるんだ」
「当たり前の能力を当たり前のように使って奇蹟を起こすなんて、涼宮さんらしくないじゃないですか」
「お前の言ってることはどうも詭弁なような気がするんだが」
「僕もだんだん分からなくなってきました」
「そういう力はね、いざってときに取っておくものよ」
それもそうだよな。ってハルヒ、立ち聞きしてたのか。
「あんたたち、ランプの精がなんで願い事を三つしか叶えてくれないか、分かってないでしょ」
「俺なら願い事を増やせと言うな」
「あんたにはロマンってものが理解できないのね。魔法なんてものはね、一生のうちに一度使えれば幸せなのよ。ここイチバンってときにそれを使うから価値があるの」
「さすがは涼宮さん、一言ありますね」
「でしょ。毎日気の向くままに魔法を使ってたりしたら、年中吊るされてるテルテル坊主みたいに効果もありがたみもなくなるってもんよ」
「素晴らしいです。僕が国連事務総長なら、涼宮さんを親善大使に任命するところです」
もしそうなった暁には国連ビルの掃除夫にでも雇ってくれ。
「試しになんかやってみせてくれよ。水をワインに変えてみせるとか、水の上を歩いてみせるとか」
「あんたったら最低ね、あんたの願い事は一生叶わないように願うわ。あたしはエンターテナーじゃないんだから」
どうやら怒らせたらしく、スッタスッタと部屋を出て行った。古泉がクックックと笑っている。笑ってろスマイリーガイめ。ハルヒをおだてりゃなにか叶えてくれるとでも思ってんだろ。怒らせたせいで、俺の願いが叶わないという願いが実現しそうなのだが、幸い俺にはこれといった願い事がない。


「……付き合って」
顔を合わせるなり長門がそう言った。ええっと長門さん、それはどういう意味においての付き合うなのでしょうか。
「……アパートに残してきた物資を処分しに行く」
そういえば前回こっちを離れるとき、文庫本やら俺のこまごましたものやらを置きっぱなしだった。長門の家財もまだそのままだろう。昨日のこととはいえ、ずいぶん昔のことのような気がする。まあ俺たちにとっちゃ二ヵ月経ってるわけだが。
 俺と長門は、買い物に行くと言ってハルヒたちを残して屋敷を出た。ここから長門のアパートまでは歩いていけるが、ひとつ忘れ物をしていたことに気がついた。
「谷川さんの自転車を甲陽園駅に置いたまんまだった。取りに寄っていいか」
「……いい」

 

 長門はダッフルコートを羽織って出かけた。二人でこうやって歩くのは久しぶりだった。前回のことは禁則事項になってしまったのでまったく話す機会がなかったのだが、今は共通の話題を懐かしく思い起こしている。
「あんときは大変だったな」
「……そう。長かった。最後の一日は、貴重」
今の俺と長門なら、あんとき、だけで通じると思う。五年もひとりで暮らしてたんだよな。俺なら気が狂うかもしれない。待てよ、ということは長門は俺より五歳年上ってことか。つまり二十二才?
「長門は今何歳なんだ?」
「地球上に来てからの主観時間は約六百十四年」
ああ、それって終わらない夏休みも含めてか。
「……あなたとの共有時間は約五年」
「情報生命体の頃は?」
「……それを合計すると、天文学的時間になる」
「なんと……。長門に比べると俺なんか赤ちゃんにも達してないってことか」
「生命体を比較する要素としては、時間はあまり意味がない」
安心した。人間はやたら歳を気にするからな。
「……それに、」
「それに、レディに向かって歳を聞くもんじゃないよな」
長門は、大人が子供に向かって見せるような微笑みをちょっとだけ見せた。

 

 駅前の駐輪場で百円を払ってカギを開錠した。俺はサドルにまたがって足を踏ん張ってから言った。
「後ろ、乗れよ」
「……」
長門はおずおずと横向きに腰掛けた。俺はゆっくりとペダルをこいだ。長門は軽かった。道に沿ってゆるやかなカーブを描く。長門が腕を回し、自分を俺の背中にくっ付けた。冷たい風の中を走り抜け、暖かい長門の体温を背中に感じた。線路沿いの道を走っていると、電車が俺たちを追い越していく。もしかしたら、あの中に俺や長門のモデルになった人物がいるんだろうか。

 夙川駅の少し手前で長門のアパートに着いた。階段を昇り、二〇五号室の前に立った。長門はポケットからカギを取り出して差し込んだ。もしかして、あれからずっと持ち歩いてたのか。
 部屋の中はシンと静まり返り、俺たちが出たときのままだった。長門は、上がって、と言った。
「当然だけど、なにも変わってないな」
「……そう」
丸いちゃぶ台が、六畳ひと間のつつましい部屋のまんなかにぽつりと俺たちの帰りを待っていた。
「……今日、ここを引き払う」
「借りたままにしといてもいいんじゃないか」
「……おそらく、もう来ない」
そうなのか。俺がいたのは実質一日だけだが、ここがなくなってしまうのはなんとなく惜しい気がする。俺は部屋の壁を埋める本棚を見た。
「この本、どうするんだ?」
「……処分する」
長門が本を捨てるなんて、考えられないが。だがこっちの世界のものを向こうに持って帰るわけにもいくまい。
「もったいないから谷川さんにでも引き取ってもらえば」
「……」
「車で取りに来てもらえばいい」
長門はコクリとうなずいた。とはいっても、谷川氏の蔵書にはすでにありそうな本ばかりだが。

 長門は台所でお湯を沸かしていた。ヤカンから急須にお湯を注ぐ長門の背中が小さく見えた。俺たちがあのまま帰れずにこっちの世界で生きていくしかなかったとしたら、こういう生活もあったのかもしれないと、ふと妙な感覚がよぎった。
「長門、約束するよ。次はもう少し早めに迎えに行くからな」
長門の背中に向かって言った。お湯を注ぐ手がピタリと止まった。主語がなくてなんのことか分からないようだったが、やがて小さくうなずいた。

 俺たちは棚から本を出してヒモで縛り、玄関に積み上げた。俺が買い漁ったハルヒの文庫もそこにあった。二人は玄関に立ち、それから長門は右手を上げて詠唱した。部屋の中にあった家具、布団、その他もろもろ生活用品、家電が光る粒子となって消えた。五年間生活した部屋の、長門の引越しはあっけないほど簡単に終わった。

 


 

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