お盆を前にした立秋の日だった。
 単調とも平穏とも呼べる俺の日常にわずかな非日常が去来した。

 今年も順調に暑い。
 梅雨明けが遅かったせいか遅れて鳴き出した蝉の大合唱が音量過多な交響楽を奏でる中で、俺は待ち合わせの喫茶店に入る。
 喫茶店といえばあの頃は近場のターミナル駅で待ち合わせて、さんざん通いつめた例の場所を思い出す。……が、今日来たのは全然別の場所で、全国に展開しているチェーンブランドの憩い場であった。

 数年ぶりに会うその男は、記憶に違わぬ如才のない人好きのする笑みをたたえて、やって来た俺に黙礼をした。
「よう」
「こんにちは。お久し振りです」

 古泉一樹。
 数年来の親友であり、かつて共に奇妙な日常を共有した仲間である。

「今日は時間大丈夫なのか?」
 俺は人もまばらな午後の店内に目を配りつつ腰を落とす。
「えぇ。仮にどんな用事があろうとも、僕はこちらを優先させますよ」

 途端に記憶が高校時代まで遡る。
 そう、あの時もこうやって机を間にして俺たちは座り、益体もない会話をしては伝統あるアナログゲームの数々に興じていたのだった。
「しかしお前も見た目には何ら変わりがないな」
 俺がメニューに目を落としつつ言うと、古泉は数年越しの微苦笑を見せつつ、
「そう言ってくれるのもあなたくらいのものですよ。周りの人は皆、特別な感想を述べることもありませんからね。無関心なのか、忙しいだけなのか解りませんが」
 すると古泉は自分が手にしていたメニューを元に戻し、
「お決まりでしたら言ってください。今日は僕が奢りますよ」
 その言葉に俺は思わずニヤっとしてしまう。
「できれば高校時代に奢られたかったぜ」
「まあその分も含めて、ね。さすがにチャラにはならないでしょうけど」

 

 そこで思い出すわけだ。
 時は巡り、年月を重ねた上に俺たちは再会しているんだってことをね。


 古泉がカウンターに向かっている間、俺は大きく開いた店内のガラス窓から八月の空を見上げた。
 この数年、地球の温暖化は歯止めという言葉を知らず、春夏秋冬を通じて奇異な自然現象を目にするのがザラになっちまった。
それをこの世の不思議と呼ぶことはできないだろうが、さて、ここから続いてる未来には一体どんな環境変動が待ち受けているんだろうね。

 俺は街路を行き交う人々へ視線を落とす。
 皆一様に熱波をしのぐための夏服に身を包んでおり、ティーンを初めとする女子の服装なんかは露出度を増す一方である。
 はて俺が高校生の頃の流行はどうだったかと思案して、そういう比較的どうでもよかったことは綺麗さっぱり失念していることに自嘲の息を吐いた。

「どうしましたか。何か懸案な事柄でも?」
 古泉がトレーを携えてやって来た。俺は首を振ってアイスモカを受け取り、
「いいや。わりと最近だと思ってた記憶を引っ張り出せないことに辟易してな」
 するとかつての副団長はそこだけ年輪の増加を感じさせない笑みで、
「人間の体感時間は一般に年を重ねるほどに速くなっていきますからね。以前と同じ心持ちでいても、当時より多くの時が過ぎている……なんてことは珍しくありません」
 そいつは全面的に同意だな、とぼやきつつコールドドリンクを一口啜った。
「さっきの話ですけどね」
 古泉は談笑調のままで、
「僕から見たあなたもさしたる変化はないように思えますよ。特にこうして話してみるといっそうね」
 ひょっとしたら見事に同じペースで年取ってるだけかもしれんぞ。それなら同じ速度で走ってるわけだから、互いを見比べても相対的速度に変化は見られないって理屈である。
 すると古泉は記憶のままの笑みに若干の変化をつけて、
「一人時間の流れに置いていかれるよりは道連れがいたほうがいいと考えますがね、僕は」
 置いていかれることが前提かよ。

 

「ところでどうですか、このところは」
 サーモンサンドを優雅に口にしつつ古泉は言った。
「大した代わり映えもないね。ウミガメの産卵のほうがまだしも刺激的じゃないか」
 すると古泉は少年時代のようなクスクス笑いで、
「それは解りやすい喩えをどうも」
「だがまあ、それが一般的な日常ってもんだろう」
 そう。退屈とか言ってられること自体のありがたみを感じるべきなのさ、ってのは幾分説教臭いか。
「お前はどうだ。海外暮らしには慣れたか?」
 すると古泉はかつての文芸部員を思わせるわずかな首の傾斜と共に、
「さすがに一年も経てばね。大変なこともままありますが、何とかやっています」
 一年ね。
 あの頃の一年と今の一年ではどのくらい充実度に開きがあるだろうか。
「よく思い出しますよ」
 出し抜けに古泉が言った。うっかりしていると聞き逃しそうな、空気に溶けるほどにさりげない口調だった。
「振り返ってみて初めて、かつて僕たちが置かれていた状態がいかに奇特で、魅力に満ちたものであったか思い知りますね」
 古泉は自分のアイスアメリカンのグラスを眺めていたが、その目に映っているのはいるのは多分今の風景ではなかったはずだ。

 そして今放たれた古泉の言葉は、そのまんま俺の心情を代弁したものでもあるのだ。
 別に今の暮らしに不満があるわけじゃないし、まして超常現象が起こらないかと期待していることもない。

 それでもふとした瞬間に思い出すのだ。
 宇宙人、未来人、超能力者と、その全員を勝手気ままに引っ張りまわす傲岸不遜な団長の存在を。

「あなたが涼宮さんと一緒にならなかったのは意外でした」
 古泉の声が俺を思索から呼び戻す。そこには今流れている時間が確かにあった。
 しかしこうしてこいつと話していると、どうにもうまくこの状態を飲み込むことができないでいた。

 

「一連の出来事の中でもあれほど意表を突かれたことはないくらいにね……」
 述懐するような古泉の口調に見出せた色は悲哀でも痛切でもない。
「俺はあいつの行く道に出張るような真似をしなかっただけだ」
 自分でも驚くほどに事務的な口調だった。
 同時に内心が裏腹に主張する。

 お前は本当に自分の意志で涼宮ハルヒと別れたのか? と。

「僕はあの日、もう一度世界が創り直されてしまってもおかしくないとすら思いましたよ。しかしそれは大きな見込み違いでした。結果として涼宮さんは現状を受け止め、自分の道を選んで歩いていった」
 古泉は言った。あの日のこいつと、朝比奈さんと、長門の当惑が浮上する。

 しかし俺には確信があったのだ。
 ハルヒには自由こそが似つかわしい。そこでこそあいつは本来の姿を見出せる。

 そう信じたから今がある。
 さまざまな節目が来るごとに、俺はひとつの疑問と、ひとつの答えをそれぞれ自分に言い聞かせてこれまでやってきた。

「それもひとつの答えですよ」
 古泉は俺の心中を見透かすような瞳をこちらに向けて言った。

 夏だった。
 こんなに晴れた日には、あえて過ぎ去った日々を振り返ってみるのも一興である。

「……ありがとよ」
 俺はそう言うと、超能力者に自分でもぎこちなさが解る笑みを返した。 


 (了) 



 お盆を前にした立秋の日だった。
 あたしは懐かしい街の地面を踏んでいた。

 信じられないくらい暑い。
 記憶にあるこの街の夏は確かに暑かったのだけれど、この酷暑は単純な記憶錯誤によるものだろうか。

 あたしはある人の家を目指していた。
 あれからそれぞれに離散したSOS団の中でも、特別な存在。
 きっと彼女は変わらずそこにいることだろう。そして懐かしい表情でこちらに語りかけてくれる。

 タクシーもバスも使わないで歩くことにしたのには、いくつかの理由がある。
 ひとつはこの街が今どんな姿をしているのか、この目でしっかりと見たかったから。
 ふたつは暑かろうと何だろうと体力に自身があったから。

 みっつは、それでこそ団長だと思ったから。

 彼女の家にたどり着くと、時間を飛び越えて高校時代まで戻ってきたような感覚がした。
 靴の底から頭の頂点までをじりじりと駆け抜ける熱波は、ここでだけその猛威を潜めていた。

 あたしはインターホンのチャイムを押して、応答に名前を告げる。
 間もなくして、やっぱり予想に違わず、彼女はあたしの前に姿を現した。

 それだけでも今日来てよかったと思った。
 本当によかったと。


「久し振りっ! いやぁほんとになっつかしぃなぁーっ! ささっ、上がって上がって!」
 彼女はSOS団の唯一無二たる名誉顧問だった。
 あたしは彼女を嫌いになったことがなかったし、それはこれまで彼女と関わりを持った人ならみんなが同じだろう。
「久し振り。それじゃお邪魔します」
 あたしはぺこっと一礼して敷居を跨いだ。
「あははは、ハルにゃんはかなり大人っぽくなったねぇ。お姉さんみたいだよ」
「そう言う鶴屋さんこそ随分雰囲気が変わったじゃない。何ていうの、エリートじゃなければ有能秘書官みたい」
「ふふっ。まー似たようなこともしてるしね。あながち間違っちゃいないかなっ」
 てへっと笑った顔はそのまま高校時代の面影を残している。それがなんだか不思議だった。
「今お茶淹れてくるからさっ。……あ、それともコッチのほうがいいかな?」
 手振りでお酌の真似をする彼女にあたしは苦笑して、
「お酒は飲まないことにしてるからお茶でいいわ。全然オッケー」
「はいよーん。そんじゃちぃっと待っててね、お客さん!」
 パタンと襖が閉まった。

 ここは鶴屋邸の離れだった。
 何度か彼女の家には来たことがあって、ここもその内に含まれる。
 こうして古く立派な木造家屋に座っていると、時間など知らない間にどこかへ行ってしまう。

 いつか、あたしは団員のみんなとここにいたのだ。
 ある時は映画を撮っていた。
 ある時はお花見をしていた。

 いつだって笑っていて、いつだって最高に面白くて。
 あたしはそんな時間が大好きだった。

「はーい、どうぞっ」
「ありがとう。いただきます」
 ゴトッと置かれた大きな湯飲みも、随分と久し振りだ。
 なみなみと注がれた渋めの緑茶は、あたしの心身を不思議なほどに解きほぐして、今日までの間にあった年月をなかったようにしてしまう。
「いやー、しっかしハルにゃんが突然会いたいって言うもんだからビックリしちゃったよ」
 鶴屋さんは悪戯っぽい笑みで言った。
「何だかふと帰ってきたくなってね。鶴屋さんは今もこの街にいるはずだったから、折角だし」
 あたしはそう言ってまた緑茶を飲んだ。世界中のどんな飲みものよりおいしく思える。
「あたしならいつだって大歓迎さっ、ねぇシャミツー」
 そう言うと鶴屋さんは膝に乗せていた雌の三毛猫を抱き上げた。
「あ、懐かしいなシャミセン二号」
「ほらシャミツー、ハルにゃんだよー、覚えてっかい?」
 あたしは鶴屋さんからそっと猫を受け取った。あいつの家の元祖とは違って、この猫は人に抱かれても嫌がらない。
「ははっ、覚えてたに違いないっさ。こーんな美人さんはそうそういないもんね、シャミツー」
 鶴屋さんの穏和なささやきを耳に、あたしはシャミツーの毛をそっと撫でる。

 ……キョン。

 一瞬で様々な記憶があたしの頭を駆け巡る。
 映画撮影でのケンカ。夏休みの魚釣り、盆踊り、天体観測。野球大会、クリスマス。バレンタインとホワイトデー。お花見にフリーマーケット。
コンピ研に生徒会……
「……っ、うぅぅぇっ」
「ハルにゃん?」
 ダメだ。抑えきれなかった。
「うっ、うわぁぁぁあん」
「ハルにゃん……」
 あたしはキョンを思い出していた。
 最後に離れることを決めた、あたしの大切な人。
「ハルにゃん、ほらっ、泣き止んで、ね?」
 気がつけば鶴屋さんが抱きしめてくれていた。頭を撫でてくれていた。
「……ごっ、ごめん……ごめん……っ、うぅぅ」
「大丈夫、大丈夫さっ。……ね、だいじょうぶ」

 解っていた。
 この街に戻ってくることが何を意味しているのか。

 それはSOS団に会うことだった。
 キョンに会うことだった。

 あの頃のあたしに会うことだった。

「うっ、うぅぅぅー……」
「よしよし」
 鶴屋さんはあたしが泣き止むまでずっと寄り添ってくれた。
 まるであの映画撮影の日に戻ったようで、そう思うとまた涙が止まらなかった。

 ……あたしは、今でもキョンが大好きだ。SOS団が大好きだ。

「ありがとう、鶴屋さん……」
「ははっ、ハルにゃんはほんとに強がりさんなんだから。そういうとこ、全然変わってないっさ」

 夏だった。
 こんなに晴れた日には、あえて過ぎ去った日々を振り返ってみるのもいいものだ。 


 (了) 

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