※この作品は失って気づく幸せの続編に当たる作品です。
 
 
気がつくと、僕は光陽園駅前の喫茶店にひとりで座っていた。
ここが現実の世界ではなく、異世界であることは容易に想像がついた。なぜなら、喫茶店には誰一人として人がいなかったからだ。
どうして僕はこんなところにいるのだろうか。考えてみても答えは出なかった。ただ、いまの僕には、そんなことはどうでもいいことのように思えた。
なぜなら、僕は生きる意味を見失っていたからだ。人ひとりいないこの世界が、むしろ僕には相応しいのではないかとさえ思えるほど、僕は絶望に打ちひしがれていた。
しばらくそのまま席に座っていたが、何もすることがなかったので、僕は席を立つと、現実世界でするのと同じように、自動ドアをくぐりぬけ、喫茶店の外に出た。
見上げると、空には雲ひとつ無く、全体が淡い光を放っている。
ボンヤリとした光に満ちたこの世界は、一見暖かく、穏やかなように見えるが、どこか型にはめられた窮屈さのようなものが感じられた。
そして僕は、ここが橘さんの言っていた、自分の閉鎖空間の中であることを確信した。
僕に涼宮さんのような世界を創りかえるような能力があるのかどうかは、正直、自分自身よくわかっていない。
でも、もし僕にそのような能力があったとしても、僕は世界を崩壊させたり、改変することなく、自分の殻に閉じこもっていただろう。
実際、キョンに告白し、ふられてしまった僕は、そのまま何もする気になれず、自分の部屋に閉じこもってしまっていた。
涼宮さんには、思い通りにならない世界をどうにかしてやろうとする、強い意志があったのだろうが、僕には現状の世界を打ち壊す勇気すらない。そう僕は臆病者だった。
その意味で、この世界、橘さんの言う僕の閉鎖空間、は僕のいまの心の内を的確に象徴しているように思えた。
僕は涼宮さんのことが羨ましかった。キョンのことも含めて、そのすべてが。だから僕は涼宮さんになりたかった。
だが、そんな願いは叶うはずもなく、唯ひとりの親友を失うことになってしまった。
キョン……君は僕をまだ親友と呼んでくれた。だが、いまの僕では、君に会わす顔がない。
そんな憂鬱な感情を胸に抱きながら、僕は、何をするでもなく、その辺の道をぶらぶらと歩き始めた。
 
 
ふと、通りの向こうに人影のようなものが見えたような気がした。橘さんからは無人だと聞いていたのだが、何か僕の心に変化があったのだろうか。
僕が人影を追って通りに出ると、その人影は三十メートルほど先の曲がり角を曲がる直前だった。そしてその人影はキョンの姿をしていた。
「おい! キョン! 君なのか」
そう叫んでみたが、答えは返ってこなかった。
だが、その人影を見て、僕の心の中に、驚きという感情もあったが、キョンに会いたいという感情がこみ上げてきて、僕は走り出した。
もしかしたら僕に会いに来てくれたのか。それとも僕の心の創りだした幻か。そんなことはどうでもいい。もう、会いたいと思うこの衝動を止められない。
角を曲がると、そこにはSOS団のメンバー三人とおぼしき人物が立っていた。
「あ………」
僕は立ち止まり、一瞬言葉を失ったが、勇気を振り絞って彼らに尋ねる。
「あのー、こっちにキョンが来ませんでしたか」
彼らは僕の言葉を聞くと、無言のまま、すっと左右によけた。そしてその背後にあった、キョンを模ったと思われる人形が姿を現した。
僕が、その人形を見て、絶句していると、朝比奈みくるとおぼしき人物が、僕に話しかけてきた。
「どうしたのですか佐々木さん。あなたが捜していたキョンくんは目の前にいますよ」
「朝比奈さんだったかな。これは僕が捜しているキョンじゃない。僕は人形じゃなく、本物のキョンを捜しているんだ」
「どうして彼じゃ駄目なの?」
「どうしてって……これはキョンではなく人形じゃないか。馬鹿にしないでくれないか!」
僕がそう言って少々声を荒げると、古泉一樹とおぼしき人物が、横から割り込んできた。
「なぜ、あなたは本物の彼でなければ駄目なのですか? あなただってまがい物じゃないですか」
「な………」
予期せぬことを告げられ、咄嗟に反論することができなかった。そんな僕を見ながら、古泉一樹とおぼしき人物は、さらに言葉を投げかけてくる。
「あなたの周りにいるお友達もみんなまがい物です。涼宮さんの創った閉鎖空間に入ることのできない似非超能力者、規定事項に従うことを拒む異端未来人、
意思疎通さえままならない人外の宇宙人、みんな我々を模した欠陥品だ。そしてあなたも、僕達の神たる涼宮さんの劣化コピーに過ぎない」
「ち、違う! 僕はまがい物じゃない!」
僕が必死になってそう叫ぶと、長門有希とおぼしき人物が、淡々とした口調で話し掛けてきた。
「あなたは涼宮ハルヒになりたいと願ったはず。しかし、あなたは彼女になれなかった。涼宮ハルヒになろうとして、なれなかったのだから、あなたは彼女のまがい物。
もし、あなたが本物の彼に会ったとしても、彼はあなたを受け入れはしない。なぜなら、彼が好きなのは本物の涼宮ハルヒであり、まがい物のあなたではないから」
長門有希とおぼしき人物の言葉を聞いて、あの喫茶店でキョンに告白したときの光景が、脳裏に浮かんでくる。
否定できなかった。確かにあの時、僕は涼宮ハルヒの代わりとしてキョンの傍にいたいと願い、そしてその願いは叶わなかったのだから。
身体から力が抜けていくような感じがして、僕はその場に膝をついた。
「うっ、うっ、ううっ」
後から後から涙が溢れてくる。三人は、そんな僕の様子を、無機質な目で見ていたが、やがて何処へともなく去って行った。
しばらく僕はその場に蹲って泣いていたが、ふと顔をあげると、キョンとおぼしき人物が向こうの曲がり角からこちらを覗いていることに気づいた。
「キョン!」
声をかけると、キョンとおぼしき人物は、逃げるように曲がり角の向こうに姿を消した。
僕は立ち上がり、その方向へ駆け出した。
キョンを模った人形の横を通り抜けようとしたその時、その人形が僕の服を掴んでしゃべりだした。
「そっちに行ってはいけない。そっちに行くと、戻れなくなる」
「!?」
目の前で起こった出来事、人形がしゃべり、服を掴んでいることに驚愕した。
でも、何よりもキョンを追いかけなくてはという気持ちが強く、必死で人形の手を振り払うと、一目散に駆け出した。
 
 
角を曲がり、必死になってキョンの後を追う。
どれぐらい走っただろう。いつの間にか周囲の風景が一変し、僕はどこかの学校の教室の出入り口に立っていた。
一度も来たことがなく、見たこともないはずなのに、僕にはここが何処だかわかった。ここは県立北高校、そして目の前にあるのはキョンの教室だ。
僕は、しばらく唖然としてその光景を眺めていたが、ゆっくりと教室の中に入り、おそらく僕の席であろう、教室の一番後ろの席に座った。
周囲には日本中、何処にでもあるような公立高校の風景が広がり、教室の隅々から高校生の他愛ない会話の声が聞こえる。
しばらくその席に座っていると、ごく自然にキョンが教室に入って来て、僕に声をかけてきた。
「よう、元気か」
そう言いながらキョンは、僕の座っている前の席に鞄を置いた。
その光景は、他人から見れば何処にでもある高校生活の一風景にしか見えなかっただろうが、いまの僕にとっては驚愕の事態だ。
「キョン! 君なのか。本当に本物の君なのか!」
僕がキョンにそう尋ねると、キョンは怪訝そうな表情で僕のほうを見て、心配そうな声で、予期せぬことを言った。
「どうしたんだハルヒ、今日は体調でも悪いのか。いつものお前らしくないぞ」
ハルヒ………だって………
僕はキョンの言葉を聞いて愕然とした。それと同時に、いま自分に何が起こっているかを瞬時に理解した。
どうしてそうなったのかはわからないが、僕は、この世界で、どうやら涼宮ハルヒになっているようだ。
自分の置かれた立場に戸惑いながらも、自分の願いが叶ったという思いがこみ上げてきた。だが、嬉しいというより複雑な心境だ。
気持ちの整理をする間もなく、キョンは僕に話しかけてくる。
「じゃあ行こうか」
「い、行くって、いったい何処に?」
「何を言ってるんだ、ハルヒ。やっぱり今日のお前はどこか変だぞ。部室に決まっているじゃないか」
そう言って教室から出て行くキョンの後を、僕はついて行くことにした。
よく考えれば、僕はずっと涼宮ハルヒになりたいと思っていたはずだ。ならばいまの状況は願いが叶ったということではないか。
それなのに、なぜ素直に喜べないのだろうか。これが、これこそが僕の望んだ世界だったはずなのに………
そんなことを考えながらキョンの後をついて行くと、文芸部室の前までやって来た。
扉には「文芸部室」と書かれたプレートと、その下に「with SOS団」と書かれた紙切れが張ってあった。
キョンは扉を指差して、僕のほうを振り返る。
「さあハルヒ、扉を開けてくれ。みんな団長が来るのを首を長くして待っているはずだから」
「あ、ああ」
戸惑いながら、僕が扉に手をかけたその瞬間、突然、横から何者かにその手を掴まれた。
「よかったあ、間に合って」
ギョッとして、手を掴んだ人物を見ると、半泣きになりながらも、何とか間に合ったという顔をした、橘さんがいた。
「佐々木さん、その扉を開けてはいけません。その扉を開けると、もうこっちの世界には帰って来れなくなりますよ」
「橘さん………、どうしてここに」
「詳細は後ほど説明します。いまは早くここから離れることです。さあ、行きましょう」
そう言いながら、橘さんは僕を文芸部室の扉から遠ざけようと、僕の腕を引っ張った。僕達の様子を眺めていたキョンが声をかけてくる。
「おいハルヒ、どうしたんだ、みんな待ってるぞ。それとも、お前は俺達を見捨てて、その女について行くつもりなのか?」
キョンの言葉を聞いて、橘さんに、引っ張られるように、連れて行かれていた僕は、その場に立ち止まった。
「佐々木さん!」
「橘さん……ゴメン、僕は君とはいっしょに行けない。僕にとってキョンは……彼は唯ひとりの親友なんだ」
「佐々木さん! しっかりしてください! あれはあなたの心が創りだした幻です! 本物ではありません!」
橘さんの表情からは、彼女が必死に僕のことを心配してくれていることが読み取れた。そんな彼女に申し訳ないと思いながらも、僕は自分の意思を彼女に伝える。
「確かに彼は本物のキョンではないかもしれない。そして、この世界は僕の心の創りだした幻かもしれない。でも、ここには僕の望む世界がある。
だから僕はここに留まるよ。どうせ元の世界に戻ったとしても、僕には居場所はないのだから」
「さ、佐々木さん! そんな悲しいことを言わないでください。あたしも九曜さんも、あの藤原だってあなたの帰りを待っています」
「彼らが必要なのは僕じゃあない。涼宮ハルヒさ。いや、彼女の能力と言った方が正確だろうね」
「そんなことはありません。もし、もし仮にそうだとしても、あたしはあなたを必要としています」
「それは君たちの勝手な解釈を僕に押し付けているだけでしょ。はっきり言って迷惑だ」
僕の言葉を聞いて、橘さんの表情は絶望の色に染まっていく。
「あ……さ………」
橘さんは言葉を失い、僕の腕を握っていた手から力を抜いた。その目から涙が溢れていた。そんな彼女の姿が、まるでキョンにふられた自分の姿のように思えて痛々しかった。
そんな彼女の姿に心を痛めながらも、僕はキョンのほうを向き、手を差し出した。
「キョン、行こうか」
「いいんだな」
「ああ」
キョンが僕の手を取り、部室の扉を開けようとしたその時、橘さんが、僕のもう片方の腕にすがりつき、必死でわめきだした。
「ま、待ってください、もし、もしどうしても行くと言うのでしたら、あたしもいっしょにお供します。
あなたがこちらの世界を捨てて行くというのでしたら………でも、でもあたしは、あなたに………」
最後のほうは声にならず、僕の腕にしがみつきながら、泣き出した。そんな僕達の様子を見ていたキョンは、橘さんの腕をつかみ、僕の腕から引き剥がすと、その場に投げ倒した。
「残念だが、お前はこちら側には来れない。お前はSOS団のメンバーではないからな」
キョンは橘さんを見下ろしながらそう言うと、再び僕の手を取って、扉に手をかけた。
「さあ、行こうか」
その瞬間、僕はあることに気づき、その手を引っ込める。そして僕は、橘さんの方に歩み寄り、倒れていた彼女に手を差し伸べた。
「佐々木さん………」
橘さんは、涙で潤んだ瞳で僕を見ながら、僕の手を掴んだ。
「おい、ハルヒ、いったいどうしたんだ」
キョンは不満そうに僕に声をかけてくる。橘さんも、驚いたような表情で、僕のほうを見つめていた。
「キョン、いや、君はいったい誰なんだい?」
「はあ、なにを言ってるんだお前は。まさか俺のことを忘れてしまったとでも言うのか」
僕は、橘さんの手を取り、キョンに見せつけるようにして言った。
「君の手には温もりがない。そう、何と形容していいかわからないが、いま僕は無機質な存在、人形のような物に手を掴まれているような気がした。
それにキョンは女性にこんな乱暴なことはしない。例え彼女のことが嫌いでもだ。君は決してキョンではない。いや、人間ですらない。いったい君は何者なんだ」
キョンは僕の言葉を聞くと、俯いてくっくっと笑い出した。しかし、その姿はすでにキョンではなかった。
「何者かだって? そんなことは君が一番よく知っているはずではないのかな。僕は君だ。そして僕は君の願いを叶えるためにやってきたんだ」
そう言いながら顔をあげる彼女の姿を見て、僕は驚愕した。なぜなら、彼女の姿は僕そのものだったからだ。
「どうして君はこちら側の世界に来ることを拒むんだい。君は確かに望んだはずじゃないか。涼宮ハルヒになりたいってね。
そして、その願いは現世では決して叶うことはない。それは君自身が一番よく知っているはずだ。
しかし、この世界でなら、君は涼宮ハルヒとして、愛しのキョンの傍で、ずっと寄り添うことができる。
それが君の望んだことではなかったのかい?」
目の前で、淡々と僕に声をかけてくる自分の姿を見て、僕は言い知れぬ恐怖を感じた。それは普段、日常の生活をしていて感じるような生半可な物ではない。
少し触れただけで、恐れ戦き、心が壊れてしまいそうになるほどの恐怖。そして僕は、ここが決して、人が足を踏み入れてはいけない領域であることを理解した。
それと同時に、自分がいままで考えていたことが、いままでしてきたことが、いかに浅はかだったかを、心の底から悔いることになった。
「ぼ、僕は……こんなことを…望んだわけじゃ………ない」
「そんなことはないはずだ。君は確かに望んだ。涼宮ハルヒになりたいと。それは自分と自分のいる世界を否定する事に他ならない。
つまり君は、キョンと結ばれるのであれば、そこが虚構の世界であっても構わない、と考えていたはずだ。
だから規定事項であった歴史を改竄するという暴挙までして、キョンをSOS団から引き離したんだ。彼の意思も聞かずにね。
でも、君の願いを叶えるだけなら歴史の改竄のような大層な事をする必要はない。自らの心の内に、望む世界を創り、そこに閉じこもればいいだけだ。
ならばこの世界の何処に不満がある。すべてが虚構であっても、ここには君の望むものが全部、揃っているはずじゃないか」
彼女の告げる言葉には、抗い難い力がこもっていた。その声は心の奥底にまで響いてくるようだった。姿形こそ人ではあっても、本能がそうではないと警告している。
そして僕は、この状況を目の当たりにして、願いが叶ったにもかかわらず、素直に喜べない理由がわかった。
「僕は…キョンに…自分を…好きになってもらいたかったんだ。自分を誤魔化して……いただけだ。そのことに……ようやく…気がついた…だからここには……」
恐怖と後悔で混乱する中、ようやくそれだけ答えると、目の前の僕は、ちょっと残念そうに両手を広げて、首を左右に振る。
「そうかい、残念だ。この世界の王である君がそう言うのなら、僕はこのまま消えるとするよ」
目の前の僕がそう言った瞬間、周囲の雑音や物音が消え、目の前が暗くなった。
 
 
深淵の奥底、そう形容するに相応しい闇がどこまでも続き、辺り一面を静寂が支配する。自分が何処に立っているのかすらわからず、五感の感覚さえ麻痺してくる。
現実では決して経験することのない根源的な、本能に訴えてくる恐怖が、僕を襲ってくる。もし僕がひとりなら、もう既に気が狂っているだろう。
ただ、僕の手を握り締めてくれている橘さんの手の感触だけが、僕がいま確かにここに存在していることを証明し、僕に希望を与えてくれた。
「さ、佐々木さん、大丈夫ですか」
そう僕に問いかけてくる橘さんの声は震えていた。おそらく彼女も、僕がいま感じているのと同じ恐怖を、感じているのだろう。
「これが、僕の心の闇?」
「はい、おそらくは。でも、気にしないでください。誰の心にも闇は存在しますから」
そう言って僕をかばってくれる彼女が、とてもいじらしく思えた。
「ごめん、僕のせいで、君までこんな危ない目にあわせてしまって」
「気にしないでください。あたしも佐々木さんとよく似たものですから。だから佐々木さんの彼への気持ちはよくわかります」
「え?」
「あたしの組織は古泉さんの組織から分離してできたの。古泉さんたちは涼宮さんの創った閉鎖空間に侵入することができたけど、
あたし達にはできなかった。だから、あたし達は涼宮さんに見捨てられた存在だったわけ、佐々木さんに会うまではね。
あたし達は、佐々木さんの心の中に入ることができたから、佐々木さんを神と認定することになったけど、考えてみれば迷惑な話ですよね。
佐々木さんには全く関係ないのに、あたし達の都合で勝手に神として崇められるんだから。でも、あたし達にはあなたしかすがるものがなかったから………
だから謝るのはあたしのほうです。こんなことに巻き込んでしまって………」
僕は、橘さんの心の内を知り、自分を必要としてくれている人が、ごく身近にいることに気づいた。
「だから、あたしが必ずあなたを元の世界に帰してみせます。この命にかえても………」
そう言った橘さんの手が、さっきよりも冷たくなっていることに気がついた。
「橘さん! いったい何をしているんだ!」
「あたしのことは……気にしないでください。ここに、出口を作りますから…そこから……」
そう答える橘さんの声は、明らかに弱っているように感じた。
「やめてくれ! 君を犠牲にしてまで助かろうとは思わない!」
「でも……あたしの…責任……だから……」
「橘さん! 僕はいままで自分が望んでいたことが間違いだったと後悔している。僕は涼宮ハルヒにはなれないし、なる必要もない。僕は僕だ。
そして、僕には橘さんや九曜さん、藤原といった仲間がいたことに、いま、ようやく気がついたよ。だから、だから僕は大事な仲間を失ってまで、助かろうとは思わない」
「佐々木さん………」
僕は、いまのいままで、自分ひとりで生きていると勘違いしていた。
自分を必要としてくれている人、自分を支えてくれている人が周囲にいるにもかかわらず、敢えてそこから目を逸らし見ないようにしていた。
こんな切羽詰った状況に追い詰められて、ようやく自分が大きな誤ちを犯していることに気がついた。
僕は自分のままで現世に帰りたい。いや、橘さんを助けるためにも必ず無事帰ってみせる。そう、心に誓ったその瞬間………
突然、辺りに光の亀裂が生じると、ジグソーパズルのピースのように、周囲の闇が崩れ落ちた。
 
 
目を開けると、一番最初に飛び込んできた風景は白い壁と蛍光灯だった。それが天井だということを認識するのに時間はかからなかった。
「ここは………」
僕は身体を起こし、周囲をうかがう。
ふと、前を見ると、橘さんが僕の腹の上に突っ伏して眠っていた。
「橘……さん……」
彼女の様子を窺うと、顔色も良く、別段、心配するような状況ではないように思えた。
「よかった……助かったんだ……」
彼女が、両手で僕の手を握り締めている、その姿を見て、胸の奥に熱いものが込み上げてくる感じがした。
僕が、もう片方の手で、彼女の髪を撫でていると、突然、横から男性の声がした。
「僕の目の前で、女同士でいかがわしい真似事をするのは止めてもらおうか」
ハッとして、声のした方向を振り向くと、赤い目をした藤原の姿があった。
「何とか無事、生還したようだな。まったく職務とはいえ、お前達のような愚昧な輩とはつきあうのは疲れるよ。
今後はこんな愚かな行為をしないでくれないか。これからもお前達につきあうのが規定事項のようだからな」
藤原は、足を組んで病院の椅子に座り、呆れたように両手を広げて首を左右に振った。
相変わらずの悪態をつく藤原を見て、無事元の世界に戻って来れたという実感が湧いてきた。
「藤原、ここはいったい何処なんだい」
「ここは橘京子の組織が用意した病院だ。礼なら彼女に言うんだな。僕はもうお暇させてもらうよ。上に報告しなければならないからな」
そういい終わるや否や、藤原の姿は消え去り、彼の座っていた椅子だけがそこに取り残された。
「――彼は―――三日三晩――――――――寝ずに――あなたを――看病していた―――――」
声がした方を向くと、九曜さんが無表情にこちらを眺めていた。声をかけられるまで存在が認識できなかったのは相変わらずだ。
それと同時に、彼女の言葉を聞いて、藤原も彼なりに僕達のことを心配してくれていたことを知った。
閉鎖空間に入る前は、僕は自分が独りぼっちになったと思い込み、この世界が絶望に覆われているように見えた。
だが、閉鎖空間から戻ってきたいまは、自分を支えてくれるたくさんの人の存在に気づき、まるで以前の世界とは違って見える。
自分の心の持ち方ひとつで世界は違って見える。そんな当たり前のことに、ようやく僕は気づくことができた。
「ううっ」
僕が閉鎖空間の中であったことを思い出し、感慨に耽っていると、橘さんが目を覚ました。
彼女は目を覚ますと、ガバッと顔をあげ、きょろきょろと辺りを見回し、僕が目を覚ましていることを確認すると、涙をぽろぽろと流しだした。
「さ、佐々木さん………」
「ただいま」
僕が彼女にそう声をかけて微笑むと、彼女は僕に抱きついて胸に顔をうずめて大声で泣き出した。
「うわあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ……」
「ごめん、橘さん、君には迷惑をかけたね」
橘さんの背中をさすりながら、そう言って声をかける様子を、九曜さんは横で静かに見守っていた。
 
 
 
「なんだ、この乗り物は、さっきから全く進んでないじゃないか。大事な資源を使ってこんな乗り物に乗るとは、この時代の人間の考えることは理解できん」
「うるさい!! 黙って運転しなさい! だいたい車を運転したいといったのは、あなたでしょ!」
「ああ、確かに僕はそう言ったが、ここまでこの時代の人間が愚かとは、正直、想像の範疇を超えていたよ。過去の遺物を操作するのも一興と、考えたのが間違いだった」
あの後、精密検査やら何やらで、大学の入学式には間に合わなかったが、九曜さんの情報操作と橘さんの組織が何とかしてくれたらしい。
下宿先に関しても、橘さんの組織が用意してくれた。橘さんから、生活必需品は全て揃っているのでそのまま住んでくれてかまわないと言われた。
正直、ここまでしてもらうのは気が引けたが、病院から退院することができなかったため、ついつい橘さん達に頼ってしまった。
ただし、その代わりといっては何だが、橘さんや九曜さんが両隣に部屋を借りることを認めてくれと、交換条件を出された。
僕としても、東京には知り合いがいないので、身近に面識のある人がいるのは心強いと思い、快く了承した。藤原が何処に住んでいるのかは把握していない。
そして、僕達はいま、藤原の運転する車に乗って、四人一緒に東京へと向かっている最中だ。
運転席に藤原が座り、助手席に橘さんが、後部座席に僕と九曜さんが座っている。そして、いつものように、ふたりはけんかの最中だ。
「くっくっく、君達は本当に仲がいいな。まるで夫婦の痴話げんかを見ているようだよ。でも藤原、このまま一緒になると、君はおそらく尻にしかれることになるよ」
そう言うと、ふたりが頬をちょっと赤く染めながら、僕の言葉に反応する。
「ちょ、佐々木さん、それは誤解です。な、なんであたしがこんな男と一緒にならなければ………絶っ体、それはないですから」
「まったくだ、僕がこのような姦しいだけの愚昧な女と一緒になるなどということはありえない。仮にそれが規定事項であったとしても、僕は絶対認めない」
ふたりのいつものやりとりを見て、両手を広げて呆れたポーズをとりながら、九曜さんの方を向くと、彼女は相変わらず無言で、僕の方をじっと見つめていた。
ここには普段の風景が、いつもの日常がある。そして、表面上はともかく、お互いがお互いを必要としている。これが、僕の求めていた幸せなのかもしれない。
そんな四人の関係に思いを馳せながら、ふと、窓の外を見ると、人ごみの中に見覚えのある男女の姿を見つけた。キョンと涼宮さんだ。
最初、キョンは僕と同じ東京の大学に進学することになっていた。
しかし、九曜さんに頼んで、涼宮さんと同じ地元の国立大学に進学するように情報操作をしてもらうとともに、
橘さんに頼んで、キョンと涼宮さんが再びめぐり会えるように段取りをしてもらった。
「あんな男は放っておけばいいんですよ。佐々木さんが気にすることはないですわ」
最初、橘さんは、そう言って、協力を拒んだが、僕が、どうしてもと、懇願すると、大きくため息をついた後「わかりました」と言って、ふたりが再会できるように取り計らってくれた。
「あたしは佐々木さんのためにするのであって、彼のためにするのではないですからね」
と言っていたのを聞いて、彼女も意外と頑固な面があるんだな、と思った。
どうだろう、やはり他人から見たら、ふられた男にそこまでするのはおかしいのだろうか。
しかし、最後にキョンは、僕のことを親友だと言ってくれた。僕の自分勝手な行動で、キョンは大切なものをたくさん失ったというのにだ。
だから僕は、親友である彼には、自分と同じ過ちを繰り返してもらいたくなかった。一度は涼宮さんとすれ違いになったようだが、その後、おそらく気がついたはずだ。自らの過ちに。
涼宮さんの指には銀の指輪が光っていた。おそらく、キョンは涼宮さんに指輪を見せて全てを話し、涼宮さんも記憶を取り戻したのだろう。
キョンのことを好きだと気づいてから、ずっと涼宮さんのことを見てきたが、今日の彼女は、僕がいままで見てきた中で一番、幸せそうな笑顔をしていた。
ただ、僕はキョンに情報操作をしたことを伝えなかったため、キョンは進学する大学が急に変わったことに、おそらくびっくりしたに違いない。
これが、僕をふったキョンにできる精一杯の意地悪だ。ふたりには幸せになって欲しいと思っている。
「まだ………彼に……未練がありますか」
不意にそう声をかけられ、車内に目を向けると、橘さんが寂しそうに僕のほうを見つめていた。
車の中の雰囲気は、先ほどとは違い、少し重く感じられた。九曜さんはじっと僕のほうを見つめ、藤原も気にしない素振りで僕達の会話に聞き耳を立てている。
僕は一度深呼吸をすると、静かな声で、しかしはっきりと、自分の気持ちをみんなに伝えた。
「未練がない……と言えば嘘になる。でも、いまの僕は、あの頃とは違い、ひとりではないことに気がついた。
だからもう、過去を振り返って、嘆くようなことはしないつもりだ。みんなと一緒に前を向いて進んでゆきたい」
「佐々木さん………」
僕の言葉を聞いて、橘さんは満面の笑顔になった。彼女の目は涙で潤んでいた。
「ふ、ふん、当たり前だ。今回の件で僕がどれほど骨を折ったと思っているんだ。僕が職務を遂行するまで、ちゃんと協力をしてもらうからな」
藤原の言葉を聞いて、橘さんは藤原をキッと睨むと、またいつものやりとりを始めた。
「あのねえ、あなたがどれだけ役に立ったって言うのよ。ほとんど何にもしてないでしょ」
「な、あのヘタレの後を追って、六年前に戻ったのは、僕の功績じゃないか」
「はいはい、それだけね。後は全てあたしと九曜さんがしたのよ」
ふたりの痴話げんかを横目に、ふと、九曜さんに目を向けると、ほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。
そんな三人の様子を見ながら、僕は少しだけ既視感に襲われた気がした。
知り合って二年しか経っていないのに、まるで何年も前からこの光景を見てきたような懐かしさのようなものを感じる。
そして僕は、いつものように、ふたりの痴話げんかに水をさすんだ。
「藤原、お楽しみのところ申し訳ないのだが、前を見て運転してくれないか」
僕の言葉を聞いて、藤原は、信号が青に変わっていることに気づくと、少し恥ずかしそうに前を向いた。
窓の外に目を移すと、ふたりは人ごみの中に消えようとしていた。車が少しずつ動き出し、そしてふたりは人ごみの中に紛れてしまった。
キョン、僕達は当分、会うことはないだろう。僕は東京に行って、人生を共に歩む伴侶を見つけることにするよ。
そしてそのときには、君にふられたことも過去の思い出として懐かしむことができるようになっていると思う。
そうなったら僕は君に会いに来るよ。そして君と、おそらく君の妻となっている涼宮さんにこう紹介するんだ。
「彼が、僕が人生を共に歩んでいこうと決めた最愛の人です」
ってね。
だからそのときが来るまで、暫しの間お別れだ。さようならキョン、僕の………
 
初恋の人
 
 
 
~終わり~
 


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