5

 家に帰ってから、俺は休日の残りの時間をちょろっと勉強したり、テレビ見たりコンビニ行ったりと、一見いつもと変わらぬ行動でもって過ごしたが、朝比奈さんのことを考えていなかった時間に覚えがない。

 日があけて月曜日が始まる。SOS団の現団員中三分の二が在籍する教室には、俺が登校する頃には既に全員の姿があって、そんな風景に安堵と無視できない郷愁を覚える。
 もちろんその中にはハルヒの姿もあって、こいつがその安堵や郷愁の主成分なのかもしれないと思いつつ、俺は席に着いた。
 ハルヒは窓の外を見ていたが、その表情は久しぶりに見るものに思えた。すなわち、二年前の五月に見せていたあの曇り顔だ。
「よう、どうしたんだ」
 俺が言うと、ハルヒはこちらを向く。
「…………」
 が、言葉はない。この期に及んで長門の真似か。ただでさえ二人いるんだし、無口キャラはこれ以上いらないと思うんだが。
「バカね。そんなんじゃないわ」
 意外にもリアクションがあった。何となく気分までハルヒの髪が長かった頃に戻ったようで、だがクラスの景色は今が高二の年度末であることを如実に物語る。
 それきり何も喋らないハルヒに、俺は仕方なく前を向いて担任の入室を待っていたが、朝のHRを開始する声より前に、後ろの席の女は俺に一言、こう告げた。

「キョン。みくるちゃんと仲良くね」
 その言葉はハルヒのものとは思えぬほどの柔らかさを持って俺の背筋を撫でた。
 俺が反射的に後ろを向いて口を開こうとした矢先、吉崎が定刻通りに教室へ入ってきた。



 放課後までの時間、俺はハルヒに何度も朝の言葉の意味を問いかけては、すげなく追い払われるという行動を繰り返した。
「別に。ただ何となくよ」
 としかハルヒは言わなかったのである。何となくでお前が意味不明な行動を取ることはこれまで宇宙の塵の数ほどあったが、だからと言って俺に誰かと仲良くなどとこいつが言ったことは皆無である。
 ハルヒが一度閉ざした口を他のものがこじ開けることなど不可能で、それはダムの水門をバールで開けようとするようなものであり、そうと解っていても無謀な試みを続けた俺は、やっぱり無駄な抵抗でしかないと悟るはめになった。やれやれ。

 帰りのHRが終わり、若干の徒労感と共に部室棟を目指す俺の傍らには由梨の姿があった。
「…………」
 無言の黒髪娘は歩く途中も文庫本を手放さない。どうやら読んでるのは海外ミステリのようだ。
 はて、古泉から有希を経由してこいつの元に回ってきたのだろうか。あの三人であればうまく守備範囲をずらしつつそれぞれにに読書経験の共有ができそうだと思いつつ、
「なぁ由梨、最近姉とはうまく行ってるか」
 などと全く持って空虚な質問をした俺だった。今は考えるだけ疲弊する気がしていたのだ。
「問題ない」
 淡々と答える妹は、活字に目を落としながらでも廊下の角を正確に曲がる。
「そうか。家じゃ料理作ったりするのか」
 そう言うと由梨はページをめくって相槌とし、
「当番。月曜日、水曜日、金曜日はわたしが作る」
「つうと有希は残りの四日が当番なのか?」
「火曜日、木曜日、土曜日が姉の日。日曜日は外食をする」
 そりゃまるで一般家庭の行動様式だなと思っていると、
「情報統合思念体は人類そのものに対する興味を依然保っている。これもその一環」

 そうなのか。家庭的という単語から最も遠い存在だと思ってたんだがな。お前の親玉は。
 すると由梨はそこで顔を上げ、
「今度……来る?」
 と言った。まるで予想していなかった発言に俺は、
「お、あぁ。うん。そうだな。古泉でも誘ってお邪魔するさ」
 SOS団員全員の名前が挙がらなかったのは心理的作用によるところがあったかもしれん。
「……そう」
 そう言って由梨は文庫に目を落とした。何か今間がなかったか?

 息するくらい自然な動作で部室の扉を開けて中に誰もいないことの方が珍しいのだが、今日はその珍しい日だったらしい。
 俺はどこかそら寒い気分でストーブのスイッチを入れる。そういや由梨がいるのにハルヒも長門も一緒に来なかったのはどうしてだろう。今週の掃除当番は他の班のはずだが。
 俺は鞄をテーブルに放り、今日はまだ片方――由梨しか揃っていない窓辺を見やり、古泉が来るまで一人わびしくトランプ占いするかとコンマ二秒考えて即刻放棄した。
 机に伏した俺はさっきのハルヒが何を思ってあんなこと言ったのか考えていたが答えなど出るはずもなく、声を出さずに唸っていた。
 そこへ現れる人物――、

「…………あ」
 開いたドアから、小リスが顔を覗かせるようにして彼女はやって来た。
「こんにちは」
 ぱたんと後ろを向いて丁寧にドアを閉め、おずおずといった感じに鞄を置き、
「えっと」
 何となくコンロとハンガーラックどちらに向かうか迷っている風情であった。

「まだハルヒも来てませんし、慌てなくていいんじゃないですか」
 俺がそう言うと朝比奈さんはつと立ち止まって、
「あ、はい。そうですよね……」
 ちょこんと椅子に腰掛けた。相変わらず可愛いとしかいいようがなく、だが俺はこの気持ちは恋愛感情とは別ものであるのだという認識に至っていた。
 朝比奈さんに話をしなければならない。彼女の気持ちにはっきりと答えを出してやるより他に、俺にできることはないのだ。
 春の足音はこの学校や街のどこかに、そろそろ聞こえ始めていてもおかしくなかった。
 そしてここにいる先輩は、次の花が咲く頃にはもうこの場所にいないのだ。
「あの、朝比奈さん」
 俺が呼びかけると――、
「ちぃーっす!」
 ドア開放と共に思わぬ人物の来訪があった。
「あ、鶴屋さん」
 朝比奈さんがどこか遠くを見るようにして戸口の溌剌とした名誉顧問様に首を振る。
「あぁ、こんにちは」
 膝裏をカクンとされたような力の抜け方と共に俺は挨拶した。鶴屋さんはジロリと室内を睥睨しつつ、
「んあれ? ハルにゃんたちはいないのかいっ?」
 自らの額に水平チョップして鶴屋さんは言った。まるで予測しなかった登場に、俺はいくらか虚を突かれて自失の体となった。
「まだ来てませんね。古泉と姉の方の長門もです」
「おーう、あのクールホットカップルもかいっ。そっかそっか」
 的確でありつつも独自の形容でもって鶴屋さんはにかっと笑った。それから朝比奈さんに目を止めて、
「みくるっ、お茶が飲みたいなっ。淹れてくれるかいっ?」

 ささっと近寄って上司のヨイショをする平社員風に彼女の肩を揉んだ。朝比奈さんはクスッと笑って、
「はーい。ちょっと待ってて」
 と、コンロへ向かう。
「みくるのお茶はトクベツだからなぁっ。何度でも飲みたくなるよっ」
「ふふ、言いすぎだって」
 そのやり取りを見ていた俺は一瞬、心中にまことの春風が吹いたような気になり窓の外を見たが、部室の靄然っぷりとは裏腹に屋外には依然乾いた真冬の空が広がっていた。視線を戻した俺は、二人してハミングする様子の朝比奈さん鶴屋さんコンビを見て、再度和やかな心境となる。
 先輩二人は俺が知り合ってからずっとこんな風に仲良しだった。ケンカするほど何とやらって言葉があるが、まったく諍いのない交友関係というのもまた存在するのである。その体現が今ここにいるハートとダイヤのクイーンたる両者だ。こうして屈託なく笑い合っている光景は、いつまでも取っておきたい記念写真の一枚で、俺は脳裏に一枚と言わず記憶している。

「ぷっはー!」
 数分の後、振舞われた煎茶を夏場の清涼水CM的爽快感で飲み干した鶴屋さんは、
「いやー、この部屋とももうすぐお別れなんだねえ。ちいっとばかしサミシイなぁっ」
 すこしも憂えている様子は見て取れないが、鶴屋さんが湿っぽくしている姿もまた想像の圏外にあるから、これが彼女流の惜別なのかもしれない。笑って手を振るほうが誰の心情的にも健全だしな。
 さて、部室の風景はいつになく変則的だった。名誉顧問様に副々団長、文芸部副部長と肩書きゼロの団員その一。古泉がいないので手持ちぶさたな俺だったが、今から学年末試験に向けた対策をこの部屋でするというのも何だか場違いに思え、そういうわけで鶴屋さんが持ってきた自家製ミカンをありがたく頂戴しつつ、由梨が器用に片手で皮を剥くのを眺めつつ、午後の緑茶を味わう。……すると、
「キョンくん、ちょいといいかい?」
 鶴屋さんがきししと笑って俺に手招きし、廊下を指差した。


 何だろうと思ってついて行くと、彼女は長い髪を揺らせて階段を下り、そのまま屋外テーブルまで俺を導いた。三年生のほとんどいない学校の空気は心なしか閑散としていて、寒々しい野外で憩っている生徒などは一人もいなかった。
 円形テーブルに座って向き合うと鶴屋さんは
「キョンくん。呼び出したのは他でもないっさ」
 こほんと咳払いの仕草でかしこまり、
「実はさ。あたし、ずっと前からキミのことが……」
 上目づかいで覗き込まれた。瞬間心臓が圧縮冷凍されそうになる俺を見届けるや、彼女は腹を抱えて、
「くくくっ、とってもユカイな後輩だと思ってたよ!」
 どんなときでもユーモアを忘れないのは大いにいいのだが、こちらとしては十代なのに心疾患の心配をしてしまいそうになるぜ。
「いやーごめんごめん。ちょっとビックリしたかな?」
 ちょっとどころじゃないっすよ、先輩。
「ははは、そりゃ済まないっ!」
 片手で詫びを入れつつ、鶴屋さんはまだけらけらと笑っていた。
「それで、呼び出したのはどうしてですか」
 全然不愉快じゃないものの、一緒になって笑う気分でもなかったので用件を訊いた。
 鶴屋さんは笑いのを抑えるべく目尻を押さえて、
「うん。他でもなく、みくるのことでね」
 屋外にいることを思い出したのか、俺の身体は急に冷えたようにして震える。
「朝比奈さんがどうしました?」
 素知らぬ風を装うことが意味をなさないことなど解っていた。見ると鶴屋さんは、これまでに見せたことのない表情を浮かべていた。それは分類で言えば笑みだったが、アルカイックスマイルのごとき奥ゆかしさがミックスされていて、俺の困惑を深める。

 
「キョンくん。あたしはたぶん、キミよりもちょっぴりみくるを解ってるのさ。だから、今さ
ら隠したってムダムダっ」
 鶴屋さんは驚くほど優しく笑った。そこに今までの先輩のイメージは半分ほどしか残留しておらず、俺が今まで見てきた鶴屋さんは、果たして本当に彼女だったろうかと思いそうになって、しばし呆気に取られる。
「まさかみくるのほうからキミに近付いちゃうとは思わなかったなっ」
 大庭園の庭石をホップして渡り歩く調子で鶴屋さんは言う。やっぱり何でもお見通しらしい。
まして長年の親友である朝比奈さんのこととなれば、その精度はハッブル宇宙望遠鏡でもタジタジかもしれん。
「……やっぱりバレてましたか」
「モチのロンだよっ。あたしはこれでも三年間みくると一緒にいたからね」
 ちょんと首を傾ける鶴屋さんは、やはり俺がこれまで見てきた彼女とは違う一面を覗かせているのだった。何というか、急に大人びて見えた。一言で言ってしまえばそれまでなのだが、俺の一つ上とは思えぬほどに彼女の雰囲気は固有の距離感を俺に感じさせる。今の鶴屋さんであれば、北高男子の八割はあっけなく腰砕けになるやもしれん。
 そんなもう一人の先輩は、丸テーブルの中心のそのまた向こうを見るようにして言った。
「みくる。たぶん本当に迷ってたんだと思うんだ」
 仲のいい妹を真剣に気遣うような色が浮かぶ。
「ほら、ずーっと前にさ、みんなで野球したじゃん。みくるづたいでハルにゃんが初めて誘ってくれてさ」
 そういえばそんな事もあった。しばらく思い出さなかった。まだ二年経ってないとは思えないくらいに、それは遠い記憶だった。あの時は古泉も長門も朝比奈さんも、まだ緊張とどこかによそよそしさがあったし、俺だって半ば投げやりだった。
「あの時にキョンくんと初めて会って、何かこう、ピンときちゃったんだよね。みくるはキミといつかどうにかなっちゃうのかもって」
 それはどんな意味っすか。変な意味に取られかねませんよ。

 すると鶴屋さんはイタズラっぽく八重歯を見せて笑い、
「そんなんじゃないけどねっ。んー、何て言えばいいのかな。とりあえず、みくるがキョンくんのこと好きだーって解っても、あたしは全然不思議に思わなかったのさ。むしろ納得しちゃったくらい。って言えば解るかな?」
 まるっと飲み込めたかは定かでないが、これまでにも鶴屋さんは直感的に本質を見抜くような発言を何度もしてきたから、今さらこの事態を予見していたと言われたところで驚きはない。まさに今の俺が鶴屋さんに思ったようなことを、鶴屋さんは朝比奈さんに感じたってことだろうか?
「まーそんな感じ」
 そう言うと彼女は視線を空へ向けた。まるで木々の間から今にも小鳥が飛んで行くのを待っているような表情をしている。
 時の流れを希釈したような、ゆったりとした沈黙があった。
 鶴屋さんと差し向かいで黙りこむことなど初めてだった。が、だからといって気詰まりや息苦しさなどはまったくない。唯一、冷たい風だけが頬の熱を静かに奪っていくのを感じる。

 どれだけか時間が経った。その間、ぽつぽつと生徒が一階渡り廊下を往来したものの、他に場を騒がせる要素もなかった。
「キョンくん。いっこだけ言っていいかな?」
 出し抜けに鶴屋さんが言った。言葉は風に乗ってカリブ海沖まで飛んでいけそうなさりげなさと軽やかさを伴っていた。俺は黙って頷く。
「あたしはね、やっぱりみくるを応援しちゃうんだ。ハルにゃんにはゴメンだけど」
 鶴屋さんがこういう種類の眼差しを持っているとは初めて知った。俺の思い過ごしでなければ、彼女はどこか寂しそうで、俺は思いもよらずに当惑する。何を言っているのか、言えばいいのか解らない。

「みくるはたぶんさ、どうやったってハルにゃんには敵わないって思ってる。それはずーっと前から感じてたんだよ。それで、笑ったままで卒業しちゃえって、最近までそういうつもりでいたんだと思う。でもね、いっくら自分に言い聞かせても、抑え切れないことがあったんだ。ギリギリまでウワーッてふんばって、だけどやっぱりダメだったんだと思う。あたしはそんなみくるが大好きだよ。いっつも自分を後回しにしちゃうくせに、そんなに強くはなくて、けどいっつも頑張ってるみくるがさ。キョンくんやハルにゃんたちもそりゃ好きだけどさ、みくるはその中でも特別なんだ」
 痛いほどに伝わってきた。十分すぎるくらい、頭でも身体でも理解できた。鶴屋さんが朝比奈さんをどれだけ気にかけてきたか、これまでの様子を思い出すまでもなく、ここにいる彼女を見るだけでも一杯だ。だってそうだろう。この人がこんな風に話すことなんて今までになかったんだぜ。古泉といいハルヒといい、誰もが朝比奈さんをこんなに大事に思ってたことを痛感して、同時に苦しくなる。
「ごめんね。あたしはこんなこと言っちゃいけないのかもだけど、もう卒業しちゃうんだって思うとさ」
 鶴屋さんは思わず卒倒しそうになるほどの優しい表情のままで微笑んだ。
 俺が鶴屋さんの立場だったとしても同じ行動をとったかもしれない。想像しかできないが、それだけでも胸がまた熱くなる。
 まだ続くと思いきや、突如鶴屋さんは立ち上がって伸びをした。
「それだけ。うん、もー十分っ。はい! ジメッてるのも鶴にゃんはこれでオシマイにするよっ! キョンくん、キミは胸張って前進あるのみだっ。どこへ行ったって歩いてればそこに道はできるのさっ!」
 一気にテンションを元に戻した鶴屋さんは、俺の覚えていた従来の笑顔でにかっとして、
「さ! 戻ろう戻ろう! 戻ってみくると由梨のんと遊ぶことにするっさ」
 孫が祖父母の肩たたきをするように俺は背中をとんとんと押され、さっきまでの水色はウソのように消えうせた。何というパワーの持ち主だろう、この先輩は。


 そうして部室に戻ると由梨と朝比奈さんが何やらやっていて、それはすなわち由梨が朝比奈さんのメイド衣装を試着して緑茶給仕に挑戦するという、一体どうしてそうなったのか俺には空白補間できぬシチュエーションだったが、鶴屋さんが途端に大爆笑して乗ったこともあって、その後の時間は和やかに過ぎた。由梨が笑い顔を知らないのが残念なほど楽しかったが、ひょっとしたら内心じゃこの黒髪ビスクドールもそんな感情を覚えてたかもしれず、俺はそうならなおいいと人知れず思ったのだった。

 そして俺は、ある人物と話をすることに決めた。

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