地平線が蜃気楼に霞むほど果てしなく広がる砂原に、食器と湯飲みと花瓶の乗ったテーブルを挟んで対峙する、男と女。客観的に見れば、これはなかなかにシュールな光景なのでしょうね。
 それでもわたしの脅し文句によって、逆に平静になったのか。会長は浮かせかけた腰を椅子に落ち着け、わたしと、金属質に光るわたしの腕とを、ためつすがめつ眺めていました。


「なるほど。古泉から一応の説明は聞いていたが、これが情報制御空間という奴か。
 想像以上のスケールだな。もし何の予備知識もなかったら、さしもの俺もパニックに…」
「そんな戯言を言っている場合ですか?」


 ひゅっと、わたしは突きつけていた右腕を横に振り払います。会長のワイシャツの胸ポケットはやすやすと切り裂かれ、そこに収められていたタバコは両断されて風に散り、地に落ちたライターから流れ出た液化ガスは、砂面に小さな染みを作りました。
 会長の身体には傷ひとつ付いてませんが、それがわざとだという事は説明するまでもなかったのでしょう。会長は、む、と真一文字に口を結びます。


「お察しの通り、この局地的非侵食性融合異時空間は、わたしの情報制御下にあります。要は、この空間でわたしの意にそぐわない事は無いという事です。聡明な会長ならばお分かりですよね、この意味が」


 身じろぎも出来ずにいる会長に、わたしは再度、ぴたりと槍の右腕を突きつけました。その穂先には1厘のブレもありません。


「さて、次は目玉でもえぐりましょうか? それとも腕の一本でも削ぎ落としますか?」


 冷酷な抹殺者然とした声色で、わたしは会長に問いかけます。ところが、これに。


「ふん、俺の命などいつでも奪える、とでも言いたげだな。だが喜緑江美里、それははたして、お前でなければ出来ない事なのか?」
「えっ?」


 腕組みをして椅子の背もたれに上体を預けた会長は、ふてぶてしくもそんな質問を浴びせてきたのです。
 予想外のこの反応に、一瞬たじろいでしまったわたしの前で。会長はこれ見よがしに首を傾げてみせました。


「確かにこんなふざけた空間を作り出すのは、宇宙人でもなければ出来ない芸当だろう。だが俺を殺すくらいの事は、普通の人間にだって出来るぞ。普通の刃物で、普通にブスリと刺せば済む事だ」
「それは…」
「では何の為に必要なのだろうな、こんな大掛かりな舞台装置が」


 言うなり、会長はガタッと席を立とうとします。わたしは慌てて、会長の顔の真正面に切っ先を向け直しました。


「か、勝手に動かないでください! わたしは本気ですよ!?」
「本気? ほう、いったい何に本気だと言うのだ? 俺を殺すつもりなら、こうしてのんびりお喋りしている間に、もう一千回は殺されているはずだが?」
「う………」


 その質問にも明確に答えられず、口をつぐんでしまうわたしを、会長はしばらくじっと見据えていましたが。やがて、はーっと嘆息すると、彼は億劫そうな顔でこう言い放ちました。


「ともかく、お前は本気なわけだな? よし、ではひとつ勝負と行こう。

 俺は今からそちらへ行く。無事にたどり着ければ俺の勝ち、それを阻めればお前の勝ちだ。いいな? では、始めるぞ」


 こちらの了承も取らずに、会長は勝手にそう宣言します。わたしはしばし呆気に取られてしまいましたが、「まあ、いいでしょう」とすぐに頭を切り替えました。
 改めて言うまでもありませんが、ここはわたしの情報制御空間なのです。会長がどんな悪知恵を絞った所で、流砂を作り出すなり会長の動き自体を封じるなり、対処方法はそれこそ幾らでも――。

 ところが次の瞬間、わたしは驚きに目を見開いていました。あろう事か、会長は正面に一歩、まっすぐ踏み込んだのです。目の前の槍の先端に向かって。


「なっ!?」


 咄嗟に、わたしは後方へ腕を引きました。が、さすがに想定外の事でわずかに間に合わず、会長の左頬がビッと皮一枚切り裂かれます。カミソリを引いたような一条の傷跡から、たらりと鮮血が流れ出し、会長は一瞬痛みに顔をしかめました。
 けれどもすぐに素に戻って、彼はふふんと軽い笑みさえ浮かべてみせます。あまりにも無謀、無策すぎるその立ち振る舞いに、わたしはむしろ戦慄しました。


「どういうつもりですか、会長!」
「ふん? 何がだ」
「もう少しで、あやうく…。い、命が惜しくはないんですかっ!?」
「馬鹿を言うな、命は惜しいに決まっている。いきなりこんなワケの分からん空間に放り込まれ、目の前に刃物を突きつけられて、正直、今すぐにでも悲鳴を上げたいくらいだ」


 そんな言葉とは裏腹に、会長は片手で無造作に槍の先端を横に払い、テーブルを回り込んでこちらに歩み寄ってきます。
 あり得ない展開に混乱したわたしが、そうして進む事も退く事も出来ないでいる間に。会長はあっさりと、わたしの目前に立ちはだかっていました。


 無言のまま、スッとわたしの顔に向けて伸ばされる、会長の右手。叩かれる…と、わたしは反射的に身を強張らせます。
 ところが、意に反して。会長の手は子供をあやすように、わたしの頬を優しく撫ぜていました。


「だが、俺にも男の意地という物がある。どんなに恐ろしくても、のん気に腰を抜かしているわけにも行かないだろう。
 お前にそんな泣き出しそうな顔をされていたのでは、な」


 ――泣き出しそう? わたしが?
 にわかには信じられません。でも、そっとわたしの目許を拭った会長の指先は、確かに濡れて光っていて。途端に、わたしはハッとしました。
 まったくもって合理的でも論理的でも無いように思われた、会長の言動。でもそれが、わたしの不安定な心情を慮ってのものであったなら…?


「ご…ごめんなさい、会長。わたしは…」
「構わん。今回は不問に処しておいてやる」


 わたしが示そうとした謝意を、呆気なく遮って。前髪から耳の横、そしてうなじへと、わたしの髪を櫛すくように撫ぜながら、会長はそう言いました。


「悪趣味なドッキリ番組のような目に遭わされたのは、もちろん腹立たしいがな。しかし俺がTFEI端末の何たるかを理解していなかったのも、また事実だ。
 もしも俺が、お前の真実の姿を知ったなら。その途端、化け物でも見るような顔をして逃げ出すんじゃないか――と、お前がそんな不安に襲われたとしても、無理はあるまい」


 かーっと、わたしは羞恥に顔を赤らめます。会長とわたしが相思相愛であった事があまりに嬉しくて、でもだからこそ、その嬉しさが裏切られた時の事が恐ろしくて。そんな恐怖心からわたしがあんな行動に出た事を…会長は全てお見通しなんですね。


「まあ、『これは夢じゃないのか?』と疑うほど嬉しい時は、自分の頬をつねって確かめるものだがな、普通は」
「う…。も、申し訳ありません」


 慌てて右腕を元に戻し、ついでにこの部屋の位相情報も正常に書き戻したわたしは、右手の人差し指の先で会長の頬の傷を撫ぜました。元通りのマンションの一室で、こちらも元通り傷ひとつ無い状態に修復された会長の怜悧なお顔に、わたしはホッと安堵の息を吐きます。
 と、その間隙を突いて。


「むぐっ!?」


 なんという早業でしょう。わたしの右手を掴み引き寄せた会長は、あっという間にわたしの唇を奪っていました。



「ん、ん~っ!」


 突然の事に、わたしは思わず彼を突き放そうとしますが、会長は右手でわたしの首元を、左手でわたしの右手首をがっしり捕まえて、完全ロックの構えです。
 いえ、それでも抵抗しようとすれば出来ます。出来るはずなのですが…強引に、舐め上げるように、わたしの存在そのものを貪欲に味わい尽くすかのような情熱的なキスに、脳の髄からぽや~っとしてしまったわたしは、しばらく好き放題のされるがままになってしまいました。


「はあっ、はあっ…。ひ、ひどいです、会長。わたし、初めてのキスだったのに、こんな、いきなり…」
「何がいきなりだ。さっきの勝負に勝ったのは俺のはずだぞ。敗者には勝者に文句を言う権利など無い」
「か、勝手な事を言わないでください! そんな条件を承諾した憶えはありませ…んうーっ!」


 わたしの抗議を、会長はまたもや強引なキスで掻き消してしまいます。
 あまつさえ、髪を撫ぜていたはずの会長の右手はいつの間にかわたしの腰に添えられ、そこを支点に後方へ体重を預けられて。気が付いた時にはもう、わたしの身体はリビングのカーペットの上に横たえられていました。

 

 危険!危険!と。
 頭の中で、再び警告ランプとサイレンが鳴り渡ります。このまま雰囲気に流されてはいけないと。ええ、理性でそれは分かっています。分かってはいるのですがでも、なぜだか体に力が入りません。

 蛍光灯の灯りの下、逆光になってもなお鋭い、会長の切れ長の眼。それを、とてもまともに見ている事など出来なくて、わたしはふいと顔を横を逸らします。
 すると、そんなわたしの顔の上で。会長は何やら正方形のビニールが連なったような物を、ひらひらと振ってみせました。


「安心しろ、最低限のエチケットは守る。俺にはまだ、子供を養育できる程の甲斐性は無いしな」
「そ、それって…」


 “それ”が何かを理解して。わたしはかーっと、全身を火照らせてしまいました。あまりの生々しさに、もはや正常に物事を判断する事さえ出来ません。とにかく猛烈に気恥ずかしくって、わたしはただ、

「い、いつもそんな物を持ち歩いてるんですか…。ずいぶんと準備がよろしいんですねっ!」


 そんな皮肉めいた一言を言うのが精一杯でした。ところが、これに。会長は、真顔でこう答えたのです。


「何を言っている。こいつは、この家の冷蔵庫の中に置いてあった代物だぞ」
「は………? え、えええっ!?」


 そんな馬鹿な! わたしには全く身に憶えがありませ…。
 そう言いかけた所で。わたしは、ハッと思い当たりました。そう、わたしと会長以外で唯一、今日この家に侵入した人物に。すぐさまわたしの脳内で、無表情なのになぜか得意げな顔に見える無口短髪貧乳娘が、ビッ!と親指を突っ立てている映像が構成されます。


 なーーがーーとーーさーーん!? なんて、なんて余計なお節介を焼いてくれやがりますかあなたはッ!!
 もしや、あなたが以前に言っていた『協力』って、実はコレの事じゃ…。いえそれ完全に逆効果っていうかむしろ嫌がらせですから! まかり間違って会長に「はしたない娘だ」とでも思われたりしたら、一体どうやって責任を――。


「いや、きゅうりの横にこれを見かけた時には、さすがに俺もショックだったが。
 まあTFEI端末と言えども、年頃の娘の肉体を有しているのであれば、時に劣情を催す事もあるのだろう。それならそうと早く言ってくれれば、俺としてもだな」
「ち、ちちち違います、会長! 変な勘違いをしないでください! コレはあくまで長門さんのイタズラであって、わたしは、そんなっ…」


 ほとんど錯乱状態のわたしが、先程までとは違う意味で顔を真っ赤にして弁明しようとした、その時。
 会長は堪りかねた様子で、クックッとむせぶように笑い始めます。まさか…? あ、あなたという人は! 全部察した上で、わざとわたしをからかっていたんですね!?


「くっくっく。ああ、普段のお前はいかにも生徒会役員然とした、凛として楚々な面立ちをしているからな。
 それはそれで趣きがあるんだが、だからこそ二人きりになると、どうにもそれを突き崩してみたくなる」


 うくっ…以前から薄々は感じていましたけど、今ハッキリと確信しました。この人は根っからのサディストです!


「ふふん、敢えて否定はしないでおこう。
 で、そのサディストとしては、やられっ放しというのはやはり気に喰わんわけだ」
「えっ…?」
「お前はさっき、TFEI端末の能力がいかなる物かを、わざわざ俺に『身体で教え込んで』くれたからな。代わりに俺も――」


 そう、わたしの罪悪感を煽るように、わざとらしく左頬をトントンと指先で叩きながら。会長は薄い笑みで、こう告げてきたのです。


「――俺とお前がどういう関係にあるかを、みっちり教え込んでやろう。お前の身体に、な」
「い、いえあのですから会長、わたしまだ心の準備がっ…」
「あいにく俺は聖人君子では無いから、人の弱みに付け込むのに遠慮はしない。では、そろそろ覚悟して貰おうか」


 わたしの懇願を平気でスルーして、ずいっと覆い被さるように身を乗り出してきた会長に。一瞬それを阻もうと、わたしは彼の胸に手を当てます。でも結局わたしは、会長のついばむようなキスを受け入れてしまっていました。
 まったく…何が『遠慮はしない』ですか。今だって余計な体重を掛けないよう、こっそりとわたしを気遣っているくせに。


 本当にずるいですよね、この人は。口では何やかやと酷い事を言いながら、それとなくわたしを思いやってくれるのですから。
 わたしが身体の奥底ではあなたを待ち望んでいる事も、とっくにお見通しなのでしょうに。「俺がお前を欲しいから強引に奪うんだ」なんて、そんな物言いをされたら…胸がきゅっと切なくなってしまって、もはやあなたを拒みようが無いじゃないですか。


 北風の厳しさと太陽の大らかさを、巧みに織り交ぜたような。この人の悪辣ぶりには、まったくもって勝てる気がしません。ふう、と諦めの吐息を洩らして、わたしは会長の背中に両手を回しました。


 いいですよ、もう。どうぞわたしを好きなようになさってください。わたしをあなたの物に、してください――。


 初めて経験する、官能の波に揺られながら。わたしは彼の腕の中で、小さくそう呟きました。
 テーブルの上では白とピンクのアネモネが2輪、花瓶の中で寄り添って揺れていました。




生徒会長の悪辣   おわり


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