あれから、一ヶ月。
一人の少女が欠けた世界は、何事もなかったかのように回り続ける。
俺の通う北高も例外ではなく、今日も今日とて平常授業が行われている。
それも当然だろう。
「朝倉涼子」という名の生徒は、もとより存在などしていなかったのだから。
§
「・・・情報操作を行う」
あの後、長門は涙を拭いて、最後の仕上げに取り掛かった。
「涼子は、父親の仕事の都合で―――」
「待ってくれ、長門」
呼び止める。
怪訝そうな顔をして、長門は振り返った。
「・・・なに?」
「朝倉の記憶を―――、みんなの頭から消してくれないか?」
絶句する長門。いやまぁ、言葉がないのはいつものことなのだが。
「・・・どうして?」
「・・・これ以上あいつの名前を聞くことが俺には耐えられないから、かな」
そう、俺には耐えられなかった。
こうして自分が朝倉の名を出した時でさえ、あいつの顔が、声が、最後の微笑みがフラッシュバックして、発狂しそうになる。
自己嫌悪から来る強烈な吐き気が、凄まじい眩暈が俺を苛む。
まして、他人がその名を出すことに、あいつの噂をすることに、俺が耐えられるはずもない。
俺は、あの優しい想い出から逃げ出した。
たとえそれが逃避でしかなかったとしても。たとえそれをあいつが悲しんでも。
そうでもしなければ、俺は確実に狂い死んでいただろうから。
「・・・わかった」
黙りこんでしまった俺の心情を汲みとってくれたのか、長門は了承してくれた。
ほっと、息をつく。
「ありがとう、長―――」
「ただし」
俺の言葉を遮り、長門は真摯な瞳を俺に向けて、
「あなたからは、記憶は消さない」
そう、言った。
§
「な・・・・・・」
今度は俺が絶句する番だった。
構わず、長門はただ真剣に、ひたむきに、心を込めて言葉を紡ぐ。
「あなたが涼子を忘却することは、私が望まない。涼子も、きっと望まない。せめてあなただけは・・・・・・涼子を、忘れないであげてほしい」
「・・・・・・」
反論できない。
黙ったままの俺に対して、長門は。
「これは、十字架。涼子の想い出から、別離の哀しみから逃避することを選んだあなたが、ずっと背負い続けなければならない枷。・・・あなたには」
予想外の厳しい物言い。
ここで一旦言葉を切り、そして―――トドメをさした。
「ずっとずっと、涼子とともに生きてほしい」
§
「・・・ああいう言い方は反則だよなぁ」
いつもと変わらぬハイキングコースを、いつもと変わらぬ独白とともに、いつもと変わらぬ歩調で歩く。
半ばルーチンワークと化した日常。何気なく過ぎるその一ページ。
―――だった、はずなのだが。
「・・・ん?」
陽炎に霞む坂道の向こう。
暑さと眠気で曖昧になる視界の中、俺は見た。
蒼みがかった黒髪の女が、ガードレールに座ってこちらに手を振っているのを。
§
「・・・っ!」
目が醒めた。
そうとしか形容できない、衝撃。だらけた全身に冷水を浴びたかのような。大槌で頭を殴られたかのような。
ジグソーパズルの欠けたピースが、色褪せた世界にはまり込むような、爽快な感覚。
「・・・朝倉!」
思わず走り出した俺に、悪戯っぽい笑みを投げかけたそいつは、やにわにガードレールから飛び降りて駆け出した。
「待てって・・・!」
俺も必死で追いかけるが、さすが委員長、足も相当速い。
それでも何とか距離を縮め、あと少しで手が届くところまで近付いたとき、朝倉は角を曲がり―――。
そのまま、忽然と姿を消した。
§
「・・・・・・幻?」
独り残された俺は、呆然とそう呟くことしかできなかった。
さっきの朝倉は―――、ただの幻だった。
理解した。理解すると同時に、そのことが立ち直りかけていた俺を再び奈落へと突き落とす。
「・・・ははっ。疲れてんな、俺も」
「どうしたの? 笑い声が乾燥してるわよ?」
「うひゃあぁっ!?」
突然背後から声をかけられれば、きっと皆様方もこんな声が出てしまうはずだ。
心臓に悪いから、試してみろとは言わないが。
気を取り直して後ろを振り返る。そこにいたのは我らがSOS団団長にして天井天下唯我独尊女、
「・・・ハルヒか」
「なによ、あたしが声かけちゃ悪いっての?」
得意のアヒル口。
一ヶ月前のあの日、俺はまたしても(というかなんというか)ハルヒに呼び出され、告白され、そして断った。
正直、同じやつを2度も、それもいつも一緒にいるハルヒを振るのはつらかった。
もう二度と見たくないと思っていた泣き顔も、また見ることになってしまった。
それでも、俺は朝倉を捨てられなかった。
あいつを忘れるなど、俺には到底できそうになかった。
おかしな話だ。あの時は、あれだけ自分の記憶から消し去りたくて、逃げ出したくて仕方なかったのに。
あの時ハルヒを選んでいれば、俺はこんなに苦しまずに済んだのに。
俺は、いつまでも朝倉と在ることに決めた。
たとえ、記憶の中でしか逢えなくても。たとえ、思い出すたびに哀しみが胸を締めつけても。
幻を視るほど恋焦がれたこの想いは、二度と手離したくないと思えるくらいの、限りない輝きを放っていたのだから。
「・・・っとキョン! キョン!?」
「んあ?」
その言葉に、ふと我に返る。
ハルヒが仁王立ちで俺の前に立っていた。
あの告白の日からも、俺とハルヒは今まで通りの関係を維持していた。
ハルヒのほうからそれを提案してきたことには驚いたが、俺にしてみれば断る理由など皆無であり、今ではよき友人として付き合っている。
それはそれとして。
「何か用か?」
「だ・か・ら! キョンは知ってるの、って聞いたの!!」
何をだ。お前の文章は肝心なところが抜け落ちてるからさっぱり分からん。
「今日、うちのクラスに転校生がくるらしい、ってことよ!!」
§
・・・は?
「いったいぜんたいどんな奴なのかしら!?」
おいおい、
「宇宙人? 未来人? 超能力者だったりして!? ・・・キョン?」
ちょっと待て。
あの夏休みにも勝る、強烈な既視感。
冷や汗が止まらない。心臓が別の生き物のように鼓動を早めていく。
しかして、この感覚は恐怖ではない。いや、それどころかむしろ―――。
「キョンっ!!」
ハルヒの声で再び我に返る。未だ心臓は早鐘のように脈打ち、全身から嫌な汗が噴き出しているが。
「ちょっとキョン、大丈夫? 顔真っ青よ? 無理しないで保健室に・・・」
「いや、大丈夫だ」
落ち着かぬ身体を必死に御して、俺はハルヒにいらえを返す。
それまでの態度を誤魔化すように、
「それより、早く教室に行こうぜ。遅刻しちまう」
「え? まだ余裕じゃない・・・って、キョン! 待ちなさいよ!」
俺は、ハルヒとともに教室へ向かった。
§
「今日は転校生を紹介するぞ」
そして、朝のホームルーム。
当然のことながら、クラスは転校生の話題で持ちきりだった。
それは後ろの席のアイツも同様で、しきりに俺に話し掛けては適度に無視されている。
はっきり言おう。
俺はそれどころじゃない。
先刻から延々と俺の中で繰り返される光景。
朝倉との再会。
朝倉と過ごした、わずか3日ばかりの日々。
そして―――朝倉との、あの別れの日。
それらは強い予感を伴って、頭の中でリフレインを起こしている。
くだらない幻想だと、取るに足らぬ妄想だと、決め付けてしまうのは簡単で、楽だった。
しかし、そうやって斬って捨てるには、その予感はあまりにも大きすぎた。
「入ってきてくれ」
岡部に促され、転校生が入室してくる。
その場にいた全員が、その美しさに息を飲んだ。
僅かに蒼みがかった長い黒髪、チャームポイントの太い眉。
一瞬でクラス中の注目を集めた美人転校生は、その形のよい唇だけを動かして、
”ただいま、キョン君”
声を出さずにそう言って、教卓の方に歩いてきた。
―――あぁ。
その途端、胸に想いが溢れて、
俺は、人知れず涙を流した。
それは歓びの涙。哀しみも切なさも含まれない、歓喜の結晶を溶かした祝福の雫。
―――伝えたいことがたくさんある。訊きたいこともたくさんある。
だけど、まずは。
「皆さん、こんにちは。私の名前は―――」
―――おかえり、朝倉。
朝倉涼子の再誕 Fin...