外は大雨が降っているためか、家の中ではひんやりとした空気を感じる金曜日の深夜のことだ。
俺は布団にくるまり、携帯電話で話をしている。
相手は誰あろうハルヒで、明日遊びに行く相談をしているところだ。
『映画なんてどうかしら』
ハルヒは帰りに買った情報週刊誌を見ながら話しているようだ。かすかにページをめくる音が聞こえてくる。
「映画か。終わった後でおまえの愚痴聞かなくていいなら、悪かないね」
『クモ男3でしょ、カリブの海賊3でしょ、って続編ばかりね』
「ラブサスペンスはないのか?」
『うーん、最低映画賞記念で氷のほほえみ2はやってるけど』
「なんで最低映画賞取った映画に金ださなきゃならんのだ」
『でしょ。カリブの海賊見たっていってたわね、どーだった?』
「ん?ジョニー最高だったぞ」
『いや中身の話よ』
「だからジョニー格好良かったって」
『? まあいいか。殺人医師 誕生編なんてサイコものあるけどどう?』
「アンソニー最高シリーズだよな。今回も出るのか?」
『あんた俳優でしか映画見てないの?』
「ストーリーがアレなら、俳優に萌えるしかねえだろう」
『なにいってんだか』ハルヒはページをめくった。『まいったわね。あたしたち、行くとこ行っちゃってんじゃない』
「他人が聞くと誤解されそうな発言だな、それ」
『あーはいはい。で、どこ行くのよ、明日は』
「そういえば市内パトロールはどうするんだ?」
今日の部活では、まったく話が出なかった

『主催者の都合によりキャンセルよ。みんなにはメールで連絡したから。初デートだしね』
初デート?なんとなく違和感を覚える言葉だが、言われて見ればその通りか。
ちょっと待て。みんなに話したのか、その俺達が付き合うってことを?
『なによ、不満? 部室であんなことしといて、いざとなったら尻込み?』
「そういう訳じゃねえ……そもそもおまえも共犯だろうが」
『あたし何も言ってないもーん』
「なにがもーんだ」
『あによ。乙女の唇はタダってわけにはいかないのよ』
「あーはいはい。しかし、どこいくかね。いざとなると浮かばねえもんだな」
『やっと考える気になったのね。まあ、どこでもいいっちゃどこでもいいけど』
「ほう。じゃあ、市内萌え萌えツアーでも行くか?」
『そんなのあるの?』
「すまん。冗談だ」
『ば―――――か。いっぺん死んだら?』
自慢じゃないが、これまでに2回は殺されかけている。一介の高校生としてはすでに日本記録は樹立できているはずだ。ちっとも嬉しくないが。
もっともこいつにはそんなことは言えないし、そもそも教えたくもないね。

『ボーリングもした、釣りもした、カラオケなんてほぼ週イチペースで行ってるじゃない』
「動物園、水族館、遊園地なんて定番はどうだ?」
『行ってないんだけど、行ったような気がするのよね』
「奇遇だな。俺もそうなんだ」
『じゃ、どこ行くの。行くとこないじゃない』
「お。そうだ、二人で不思議パトロールはどうだ?二人っきりってのは、これまでにないだろう?」
『もう行きました。……覚えてないの? 去年の第二回パトロールで二人だったでしょ』
「忘れてなかったのか」
『あれはあれで良かっ……じゃなくて、もう明日会ってから決めましょう』
「そうするか。情報誌もってきてくれよな」
『ふん。言わなくてもそうするわ。明日は8時にいつものとこ集合よ』
「8時?」いつもより一時間早いぞ。
『そうよ。異議は認めないわ。8時ったら8時なの』

「分かった分かった。じゃ、そろそろ寝るか」
『そうね、じゃあ、おやすみ……じゃなくて、寝る前なんだし、甘い言葉の一つぐらいささやいたらどうなのよ』
「たまにはおまえがささやいてくれよ。そうだな、素直じゃない年上の彼女って感じがいいな」
『誰が年上よ。あんたが100万回ささやいたら考えてやってもいいけど。もっとも連続で言わないと認めないわよ?』
「ふざけるな」
『あたしは大マジよ』
「そうか。で、なんて言ってほしい?」
『え?』驚いたようにハルヒが聞き返した。
「だから、なんて言ってほしい?」
『そんなの自分で考えなさいよぉ………強いて言えば愛…してるとかぁ、好き…だとか』
困ったような拗ねたようなハルヒの声が可愛いのは一つの発見だ。
「ハルヒから言ってくれるとは思わなかったな」
『バーーーーーカ。もういい。おやすみなさい』
「おやすみ。あ、ハルヒ……」
『なによ』
「好きだ」
これまで何回も言っているはずなのに、照れは抜けないもんだな。
『ばか』
可愛い声を残して、電話が切れた。携帯を閉じて、充電器に置いた。
しかし、困ったもんだぜ。どこ連れてけばいいんだ?
そう思い、俺は目を閉じた。


そして翌日。雲行きは怪しいが、今日昼間から天気は回復し、明日は絶好の行楽日和とTVは言う。
まあ別に雨でも構わない。
どうせ天気など関係なく会うことはいわば既定事項なのだからな。
自室で出掛ける準備をしていれば、携帯に着信ありだ。
めずらしく古泉からの電話だった。
『もしもし。古泉です』
「どうした? 緊急事態かなんかか?」
『そうではありませんが、お伝えしたいことがありまして』
「なにがあった?」
『危険に直結するというような事ではありませんし、そういうことがあったというだけの話なのですが』
「なにが言いたいのかわからんな」
『僕もなにを伝えたいのかわかりません』
「……古泉」
『すみません、冗談です。朝比奈さんとは違う立場の未来人についてです』
「大挙して攻めてきたのか?」
『そこまで単純なら楽ですが、表向きは友好的ですよ』
「そうか」
『その未来人が、一人だけ消息不明になっています』
「未来に帰ったんじゃないのか?」
『なぜかは分かりませんが、その可能性はかぎりなく低いようです。が、なんの目的で姿をくらませたのか向こうも見当さえつかないようです』
「まったく……」
『やれやれですね。まあ彼らの言うことをどこまで信じられるかは分かりませんが、とにかく未来人ご一行様の一人が行方不明です。
なにもないと信じてますが、油断は禁物ということでお願いします』
「まるで自分が重要人物のような気がして来たぜ」
『あなたはどこまでいって一般人ですが、最初から重要人物ですよ。
そうそう、涼宮さんとのデート、心行くまでお楽しみください。
陰ながら応援していますから』
古泉からの電話はそれで切れた。おまえは草葉の陰から応援してろ。俺は古泉の警告などすっかり忘れて、家を出た。


いつもの待ち合わせ場所に到着すれば、すでにハルヒが待っていた。
長袖のTシャツに、デニムのミニスカート。そして足元はショートブーツと、見慣れた装いではあるが、いつもと違うところがある。
なぜか不安そうな表情で、時計を何度も見ている。
いつものハルヒならば、仁王立ちで背中に日輪背負ってそうなポーズで待っているというのにな。
「よぉ、早かったな」
「ああ、キョン」ハルヒは安堵の表情を浮かべた。
「んん?どうかしたのか?」
「なにが?」ハルヒは、すでに普段の表情に戻っていた。
「いや、やたらと時計を気にしてたようだったが」
「あたし、そんなことしてた?」キョトンとした表情でハルヒが言う。
「は?」
「いや、全然そんなつもりなかったから」ハルヒは、視線をどことなく逸らせるように言った。
「そうか」
「で、どこ出掛けるの?」
「電車乗って、大都会探索ツアーなんてどうだ?」
「それって、散歩よね」
「そういう風に言うかもしれんな」
「全国的にそう言うわよ」ハルヒは、むすっとした表情で言った。
「そうむくれるな。可愛い顔が台なしだぜ」
ハルヒは急に顔をしかめると、後ずさった。
俺を探るようにそしてなめ回すように見つめている。
「どうした?」
「ホントにキョンなの?」ハルヒはゆっくりといった。「ひょっとしてあんた偽物?」
ハルヒは、空手だか拳法だか分からないような構えを見せた。まあその態勢から繰り出すのはたいていドロップキックな訳だが。
って、なんで俺が疑われてるんだ?


「だって、キョンがそんな事言うなんて信じられない」ハルヒの口調は堅い。いぶかしげな表情で俺を見ている。
「本物だって」
「じゃあ、あたしのことどう思ってんのよ?」
「バカ、そんな事いまここで言えるか」
「本物かしら?」小首をかしげながらハルヒが言う。「偽物なら正直に白状しなさい」
「だから、なんでだ!?」
「本物みたいね……」ハルヒは、構えを解いた。「あーびっくりした」
「最初から本物だって言ってるだろうが!」
「突然脈絡もなく変なこと言うから、疑うんでしょうがぁ!慣れない事すんな!!」
「俺のせいかよ!」
いかん、道行く人がみんなこっちみてる。公衆の面前でなんと俺達は痴話喧嘩を繰り広げてしまっている。
前からそうじゃないのかなどという突っ込みは却下だ。いいな。
俺はハルヒの手を掴むと、券売機の方に一目散に逃げ出した。

ホームに上がれば各駅停車がちょうど到着した。
そこそこ人は乗っているのだが、まだ車内には空席が目立つ程度だ。
ハルヒは、車内をきょろきょろ見渡したあげく、3人掛けシートを選んだ。
俺達がどっかりと腰を落ち着けるころに、電車がホームを離れた。
「あんたが変なこと言うから、誤解しちゃったじゃない」
ハルヒはひょっとこみたいに口をすぼめている。
俺が悪いとはまったく思えないのだが、ここは一言魔法の言葉が必要だろう。
「……すまんな」
これでハルヒも機嫌を直すはずだ。
その証拠に、ハルヒの口元がすこしだけ緩んだ。
「まあいいわ。でも、あたしが可愛いとかって、今頃気づいたわけ?」
俺が流したいネタへの食いつきは天下一品だね。恥ずかしいことこの上ない。
「そういうわけじゃないが」
「ふーん、どうだか。
でも、あたしのこと可愛いとか外で言うのはやめなさい。そんな分かり切ったこと教えてもらわなくてもいいわ。
まあ電話とか二人っきりで可愛い可愛い連呼する分には許してあげなくもないわね。
メールの書き出しに可愛いハルヒって、付けるのも許可してあげる。
そうね、いっそのことあたしを呼ぶ時は『可愛いハルヒ』って呼べばいんじゃない?」
ハルヒは、表情こそ笑顔だが、嫌みったらしい口調でそこまで一気に言った。
相当根にもっているようだが、そんなに嫌なのか?
「恥ずかしいじゃないの!」ハルヒは声を落として言う。「そういうことはねえ、そういう雰囲気の時にいいなさい」
「分かった分かった」
「ホントに。空気読みなさいよ」
「分かったって」
「思い出しただけで、顔が熱いじゃない」ハルヒは、手のひらで顔に風を送っている。
照れてるだけとは気が付かなかったね。どんだけ分かりにくいんだ、こいつは。


目的地は大都会である。もっとも俺達が住んでいる場所と比べての話だが。
ここにはなんでもある。朝比奈さんがよく買い物に出掛けるというビルもあれば、長門が本の買い出しに使っていた自称日本最大級の本屋もある。
もっとも長門は、ここ最近インターネットで本を買うようになったと言う。
「待ってれば本が届く。便利」
なんて言ってたっけ。新刊を予約すると時に悔しい思いをするとも言ってた。
が、俺は利用したことがないので、なんのことだかサッパリわからん。
しかし、長門が悪いインターネットなどに毒されてないことを祈るね。

あまりにも到着が早過ぎで、どこもなにもやっていないことに愕然としつつ、駅中のハンバーガー屋で、しばし時間をつぶすしかない。
情報誌を間において、どこをどう歩くかの話だ。誰でも初デートのときはやるものだろう?。ひょっとして俺達だけか。そんな筈はないと信じたいが。
結局、なにも決まらなかったがな。単にワープでループな会話をしていただけさ。

大都会探索ツアーの手初めは、朝比奈さんご用達のビルだった。
女性物しか売っていないと錯覚しかねないほど、女性向のショップが軒を連ねている。事実95%女性向けで、5%は付き添いの男性向けに申し訳程度に存在する。
「あんときも、みくるちゃんとここ来たのよね」
「あんときって、偶然喫茶店で出会ったときか」
「そうあんとき。そういえば、あれから佐々木と会ったの?」
「いや」
「ふーん、そう」ハルヒはどうでもいいような表情で答えた。
「しかし、ここは安いのか?そうでもないのか?よくわからんのだが」
「みくるちゃんは安いって言ってたけど、うーん、安いってほどでもないわね。
でも種類は豊富だから、ここにくればなんかしら見つかるって感じかな」
「なるほど。便利といえば便利か」
「そうね。でもみくるちゃんって、買い物になると人が変わるのよねぇ。『涼宮さん、それを買うならこれも買うでしゅ』とか言ってさ」
「ふと思ったんだが、朝比奈さんってそんな舌ったらずか?」
「そうでもないけど、イメージには合うのよねえ」
「それは認めるな」
「でしょ?」ハルヒは笑顔で答えた。「それでこそ萌えキャラって感じだしね」

とある店先で、やたらと複雑な形のスカートが目に入った。
どういう構造なのか、一目で分からないほどレースだのフリルだので飾られている。
「キョンって、あーゆーの好きだっけ?」ハルヒはいぶかしげな表情でたずねて来た。
「いや。ただ、どうなってんのかと思ってな」
「あれは、パニエとかそういうもんでボリューム出してるのよ。ま、一般向けゴスロリスカートってところかしらね」
「はぁ……」
「買ってくれるってんなら、一回ぐらい着てあげてもいいわよ?」
「おいおい、高そうに見えるぞ、あれ」
「あら、分かった?多分2万円は下らないわ」
「高すぎないか?」
「でしょ。じゃあ、キョンのお財布に優しいものを探しにいこっか」
にこにこほほ笑みながら、ハルヒは俺の手を取ると歩き始めた。
調子のいいやつだぜ、本当に。


ハルヒはなにを思ったか、俺をランジェリーショップに堂々と連れ込みやがった。お前は花も恥じらう乙女じゃなかったのか。
下着だらけ、女性だらけで息が詰まる思いで、おまけに目が回る思いだ。
どこに視線をおけばいいのか途方に暮れ、やむをえずぴこぴこ揺れる黄色いリボンをガン見することに決めた。もう視線はここから外さない。この店を出るまではな。
ハルヒはいろいろとランジェリーを手に取っているが、いちいち俺に見せるんじゃねえ。自分のもんなんだから、自分で選んでくれ。頼むから。
「つまんないわね。ヨーロッパでは男女で選ぶって聞くわよ。
で、これなんてどうかしら?」
ハルヒは花柄のキャミソールを俺に見せびらかした。
いかん、妄想がとまらん。勘弁してくれ、ハルヒ。
ハルヒの奴は、楽しんでいるとしか思えない表情を浮かべてやがる。
「妹ちゃんいるから、てっきり耐性あるんだと思ってたのに」
「……違う、想像しちまうんだ」俺は小声でハルヒにささやいた。
「え?」ハルヒは一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、すぐ顔を赤らめた。
「バカ。そうならそうって言いなさいよ。恥ずかしいわね」
「言う前に連れ込んだのはお前だろう?」
「外で待ってなさい」ハルヒは口を一直線にしながら出口を指さした。

ハルヒはほどなく外に現れた。紙袋を下げているところを見ればいくつか買ったのだろう。何を買ったのか知りたいような、知りたくないような。
「何買ったか知りたい?」ニヤニヤと人を見下ろしたような笑みを浮かべながらハルヒが言った。「教えてあげようか?」
「勘弁してくれよ」
「ふん。言うと思ったわ。最初っから教える気なんてないわよ」
「安心したぜ」
ハルヒはにやりとほほ笑むと、俺の方に手を掛け、耳元でこう囁きやがった。
「ピンクとブルーのブラ二枚と、あんたに見せたキャミ一枚。そんでパンツ4枚よ。せいぜい想像してなさい?」
そしてハルヒは、リボンを楽しそうに揺らしながら、撥ねるように歩きだした。


うぶな男子高校生にとっては、いささか試練を要する場所から離れ、俺達はアイスクリームスタンドに立ち寄った。
俺は煩悩を消し飛ばすために冷たいものを必要としていたが、ハルヒはただアイスが食べたかっただけのようだ。
ハルヒはストロベリー&ラムレーズン、俺は抹茶&バニラを頼んだ。
この店のものなのか、それとも風で飛んできただけなのか、正体不明のベンチに二人で腰掛けた。
ちらりとハルヒの白い太ももに目が行ってしまう。健康な男子高校生ゆえいたしかたないと思うのだが、煩悩がうずいて仕方ないね。
ぺろぺろとハルヒはアイスクリームをなめている。俺はアイスクリームをかじるように食べ始めだ。
「しかし、そのアイス、なんかジジ臭いわね」ハルヒは俺のアイスクリームをみながら言った。
「ほっとけ」
「といいつつ、ちょっともらい」ハルヒは横から俺のアイスをペロリと一なめした。「ん、いい口直しになるわね」
おまえは伝説の妖怪か。まったく、ごっそりもって行きやがって。
「ふふん。あんたのものはあたしのもの。あたしのものはあたしのものよっ」
なに抜かしてやがる。こういう奴には、血の報復あるのみだぜ。
「あれ? だれだ?」俺はわざと視線を外して、だれもいない場所を見た。
「え?なになに?」
ハルヒの注意がそれた。いまのうちに、その変なアイス食わせてもらうぜ。
その瞬間、ハルヒは手のひらで俺の顔を押さえやがった。
「ふ。甘いわね、キョン。あえて敵に先手を取らせて、なお先手を打つ。これが後の先ってやつよ」
ハルヒの指の間から、得意げなハルヒの笑顔が見える。
「ふざけるな」
「欲しいんなら、素直にちょうだいっていえばいいじゃない。なに人の隙ねらおうとすんのよ」ハルヒは俺の顔に手の平を押し付けたまま言った。
「………くれ。いやください」
「何を?」ハルヒはにこやかに言った。
「アイスクリーム」
「まったくしょーがないわねえ」ハルヒは俺の顔から手のひらを外した。「はい」
ハルヒはにこやかな笑顔で俺にアイスを突き出している。
「どうしたの? なめないの?」
周囲の目がものすごく気になるぞ。ハルヒ、分かってやってるんだろう?
「なんのこと? なめないんなら、溶けちゃうから食べちゃおうっと」
ハルヒはにこにこと楽しそうにアイスを食べ始める。
俺は半分とけかかったアイスを食べるほかなかった。


アイスクリームを食ったところで、いまだ煩悩は残っている。
煩悩を金庫に入れ鍵をかけて、鎖でぐるぐる巻にして、心の奥底に沈めておこう。せめて夜まで静かにしていてくれよ?
「さ、次どこいこっか?」
無邪気かつ無防備な笑顔でハルヒは俺を見上げるようにしながら言う。その笑顔は沈めた筈の煩悩を刺激するんだがな。
言えばさらに挑発されること間違いなし。黙っているに限る。
「自称日本最大級の本屋でも覗くか?」
「そうね、有希ご用達の本屋よね」
「最近は違うようだがな」
「そうだっけ? ああ、ネットで本買ってるとか言ってたわね。この前違う本屋に付き合ったら、静かに怒ってたわ」
「なんでだ?」
「ネットで頼んでた新刊、その本屋にあったからみたい」
「そりゃムカつくな」長門でなくともな。
「あたしにいわせれば、新刊予約するんじゃなくて、本屋にない本を買えばいいのよ。そうすれば便利なんじゃないのかしらね」
「そりゃそうだ。ネットも大概にしないとな」
「で、なんか欲しい本あるの? キョンのことだから、エッチな本?」
「失敬な。そもそも、白昼堂々そんなもん買える訳がないだろう」
「買ってないなんていわせないわよ?」ハルヒの表情は、笑顔の蛇などというありそうでないものを連想させた。
「ネットは便利だぞ?」
「悪いインターネットに毒されてんのは、あんたじゃないの」
ハルヒは呆れるように言った。


自称日本最大級の本屋は、確かに広かった。が、ベストセラーは他の本屋にもあるようなものばかりだ。
ただ倉庫と店舗が一緒になっただけのような感じでしかない。
「それはそれで便利なんじゃないの?」
ハルヒは雑誌を手にとり、ぱらぱらめくり、またそっと元の場所に戻した。
本棚を眺めつつ、うろうろと移動開始だ。
「しっかし、みんなおまけ付きだったり、紐綴じなのはどういうことかしらねえ」
「立ち読み防止だろ。それもこれもネットのせいだと思ってんじゃないか?」
「まあ、たいていの情報ってネットで、しかも無料で読めるもんね」
「なんでも広告収入に頼ってる雑誌はつぶれる時代らしい」
「でも、立ち読みもできない雑誌は買わないわよ」
「ま、出してるほうも多分気が付いてるんだろうが、背に腹は変えられないんじゃねえか?」
「それもそーか」ハルヒは肩をすくめた。「まだ本見る?」
「いや、別に」
「じゃぁさ、ご飯食べに行かない?なんかお腹すいちゃったし」
「そうするか」

日本最大級のフードコートなるものが近くにある。
俺達はそこで昼飯を食うことにした。なにせ金がない。一介の高校生にすぎんからな。
フードコートの一部は雨漏れのために閉鎖されていた。赤いコーンが置かれ、ロープが張られている。そんなに雨が降ったのかと少々驚きだ。
「500席あって、月ごとですこしづつ店舗が変わってくんだって」
「なるほど。飽きさせない工夫ってやつか」
「何にしようか~?」瞳を輝かせ、ハルヒが言う。
「讃岐うどんはどうだ」
「ちょっとボリューム足りなくない?」
「トッピングでいろいろ乗せればいいし、なんならご飯も食え」
「えー炭水化物のとりすぎよ」
「糖質や脂質のとりすぎよりはマシじゃねえか?」
「まあいいか。夜食べればいいもんね」
ハルヒの台詞を深く考えることもなく、俺とハルヒは讃岐うどんの店に並んだ。俺はかき揚げと卵を乗せたが、ハルヒはかきあげにコロッケにイカ天と、うどんが見えないほど乗せていた。
「よくそんなに食えるな」
「これぐらい食べたい年頃なの」
「そうか。お、ハルヒ、会計だぞ」
「あんた払っといて」
ハルヒはするりと会計を抜けた。苦笑いを浮かべる店の人に、愛想笑いを浮かべながら、俺はまとめて払うしかなかった。


うどんを乗せたトレイに、お冷やを入れたコップを二つ乗っけた俺は、ハルヒを探している。あいつはどこにいったんだ?
「キョーン、こっちこっち!」
背中にハルヒの良く通る声がかかった。閉鎖されている場所に近いテーブルだった。ま、たしかにそこらへんは空いているけどな。
いまも水漏れがあるのか、閉鎖場所の近くも床がところどころ濡れている。滑らないように気をつけないとな。熱々のうどんひっくりかえした日には大惨事としかいいようがねえ。

無難にハルヒのいるテーブルにたどり着き、トレイを置いた。なかなか安定の悪いテーブルのようで、ぐらりと揺れた。
水平じゃねえのか、この床は。
「早くしなさいよ。うどん伸びちゃうでしょーが」
ハルヒはむすっとしながら箸を割った。
「待ってたのか。先食ってるかと思ったのに」
ハルヒは何も言わず、うどんを食べ始めた。一口食って満足げな顔を見せ、そのあと思いだしたように、自分のトレイに乗せたコップを持ち上げた。
「これ、あんたの分」
そういいながら、ハルヒはコップを俺のトレイに乗せようとした。
「え?なんで二つ乗ってるのよ」
「ああ、おまえの分として持って来たんだが、お互い同じこと考えてたみたいだな」
ハルヒはすまし顔でコップを一度テーブルに置いてから、俺のトレイからコップをひとつ取り上げ、自分のトレイにおいた。
そしてテーブルに置いたコップを俺のトレイに乗せた。
「ま、あんまり意味のあることじゃないけど。気持ちって大切よね」
「そうだな」
「なによ、あたしの顔になんかついてるの?」
「いや、別に」
「早く食べれば? うどん伸びちゃうから」
ハルヒは耳にかかる髪を掻上げ、押さえながらうどんを食べ始めた。
「なに、見てんのよぉ?」恥ずかしそうに小声でいった。
「なんか新鮮でな」
「なにが?」
「髪をかきあげている姿がなかなか新鮮でな」
「変態。そういう趣味あったんて知らなかったわ」
「おいおい、変態呼ばわりはよしてくれ」
「どうだか。部室でチューしちゃうやつが変態でなくてなんなのよ」
「まだ言うか」
「ずーっと、永遠に言い続けてやるもーん」
「なにがもーんだ、まったく」
「おいしいわよ、うどん。あたしに見とれてないで、うどん食べたら?」
とても悔しいが、いまそうしようと思ったところだ。
そう心の中でささやいて、俺もハルヒに負けじとうどんを食べ始めた。


ハルヒはうどんを食い終わると、何も言わず席を立った。うどんのトレイを持って、そのままふらりと消えてしまう。
トイレにいったのか? まあ一々そんなことで断りいれる必要はないがな。
俺はコップの水を飲み干し、ため息をひとつついた。
「奇遇だな」
ん?どこかで聞いたような声がした。振り返ると奴がいた。
パンジー野郎がジーンズのポケットに手をいれつつ、ニヒルな笑みを浮かべている。白いタートルネックを着ているが、暑くないのだろうか。
久しぶりの再開に、反吐が出そうな気分になるね。それとともに、今朝、古泉が俺に伝えた警告が脳裏に蘇った。
失踪中の未来人が一名、存在する。
「呑気にデートかい。涼宮ハルヒと。ふん、いい身分だな」
「失踪中の未来人て、おまえのことか?」
「!」パンジー野郎の顔から一瞬ニヤけ笑いが消えた。が、またゆっくりとニヤケ笑いが広がって行く。
「お仲間のところに戻ったほうが良くねえか」
「ふん、俺は茶番に付き合うつもりなどない。ちょうどいい機会だ、おもしろいことを教えてやろう。あいつらが知られることを恐れる禁則事項のひとつをな」
パンジー野郎はポケットに手をいれたまま歩きだした。おい、格好つけてないで、慎重に歩いた方が良いぜ。そこは滑りやすい……
「うぉっ!!!」
パンジー野郎は格好つけたまま、盛大に足を滑らせた。テーブルに摑まろうとしたが、そのテーブルも安定が悪い。
結果的にテーブルをなぎ倒し、椅子を飛ばした。
周囲の客の視線を独り占めにしたパンジーは数秒床に伸びていたが、やがてよろよろと立ち上がった。なぎ倒したテーブルを立ててるのが妙におかしい。
「くそ、これも既定事項だっていうのか……」
「大丈夫か?」
「ふん、おまえに情けをかけられる覚えはない。くそっ!!!」
パンジーは禁則事項を伝えることもなく、そのまま去っていった。軽く足を引きずっているが、転んだときに捻挫でもしたのか。
朝比奈さんといい、こいつといい、未来人は結構ドジなのだろうか。
なんとなく、未来への不安が広がるじゃねえか。

「なんかあったの?」
戻ってきたハルヒは、開口一番そう言った。
「ああ。まあたいしたことじゃねえがな」
「そう」
「それはそうと、おまえはなんでドーナツなんか買ってきてるんだ?」
「デザートよ。あんたも食べると思って、買ってきてあげたわよ。これで帳消しね」
ハルヒは、数個のドーナツを乗せたトレイをテーブルにおいた。
「なにが帳消しだ?」
「ん、さっきのうどん代。……どれ食べる?どれでもいいわよ?」
楽しそうに話し出すハルヒに、俺はため息をひとつついて、ドーナツを選んだ。


うどんとドーナツで膨らんだ腹が重い。ちと食い過ぎたな。
おまけにハルヒが俺の腕にぶらさがるように掴まって歩いていて、体まで重い。
「ハルヒ、重いぞ」
「いいじゃない。誰が見てる訳でもないんだし」
「そうじゃない。体重をかけるなと言ってるんだ」
「軽いもんでしょ、あたしなんか」
「そういう問題じゃねえよ」
「なによ……腕組んで歩くぐらいいいじゃないのよ」
「それは腕組んでるんじゃなくて、ぶら下がってるというんだ」
「そんなに嫌なら、やめるわよ」
ハルヒは、不貞腐れたように腕を離した。口をとがらせて、表情も暗い。
いかん、ちと言い過ぎたか。ついいつもの調子が出ちまったな。
「ハルヒ」
「なによぉ」
「こうしよう」
俺はハルヒの手をつかんだ。指をからませるように繋いだ。滑らかなハルヒの手のひらに、つい煩悩がむくむくと……
いかん、そういっていられる場面じゃねえ。
「………」ハルヒはなにも言わず、寄り添うように歩き始めた。
「すまん。言い過ぎた」
「その通りよ」ハルヒは俯いたまま答えた。「すっごく悲しくなるんだからね」
「俺が悪かった」
ハルヒの手が離れ、ハッとした。相当ハルヒを傷付けちまったのか、俺は。
なんてことをしちまったんだ。気安い間柄だったからという言い訳はもうできまい。失おうとしているものの大きさをいまさらながら痛感した。
ここで終わるのか。終わっちまうのか。せっかくハルヒと心がつながったと思ったのに。
ハルヒは、また腕をからめると、そっと俺の手をつかんだ。そのまま指をからませるように手を繋いだ。
ハルヒの指が、俺の手の甲をくすぐるように動いた。
「あたしも悪かったわよ……ハシャギ過ぎたわね」
いい温泉に浸かったような、もうどうなってもいいような安堵感が体を突き抜けた。いや、あぶなかったぜ。
「お互い、弁えなきゃな。……いままで近すぎたのかもしれん」
「そうね……でも、もっと近づきたいな。あたしは」
ハルヒの言葉が胸に染みた。


ぶらぶらとあちこちを見て回れば、もう夕方になった。空は淡いオレンジ色に変わり、太陽がビルの谷間に消えて行く。
かなりのカップルが思い思いに、そんな日常のワンシーンを眺めている。
ここらへんで一番高いビルの屋上は、特別展望台になっている。
このご時世で無料とは太っ腹なため、我々も当然そこにいる。
ハルヒは、俺の肩にあごをのせたままにして夕日を眺めている。
「春の夕日って、なんか優しいのよね」
「そうだな。夏の夕日はなんかわくわくするな」
「そうね、お祭りとかあるしね。でも、秋の夕日はなんかちょっと寂しい」
「ああ。人恋しくなるな」
「今年は大丈夫じゃない?」
「ああ、そうだな」
「………ねえ」
「ん?」
「こっちむいて」
ハルヒの瞳はきらきらと太陽を反射して、赤く燃えるように輝いている。
その瞳にはなにか魔力でもあるに違いない。その魔力は、どうも特別な魔法によって生まれているんじゃないかと俺は思う。
それの魔法にかかってしまうと、困ったことが起きるんだ。
すんなりハルヒとキスしちまうんだ。
唇の柔らかさを感じ、ハルヒの吐息を感じているうちに、夜になっちまうんだ。
とんでもない魔法だよな。そう思わないか?



おわり

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最終更新:2020年08月22日 14:22