わたしが本のページを捲る音と、古泉一樹が時折将棋の駒を打つ音のみがある部室に突然他の音が響いた。
 古泉一樹が将棋の駒を床に落とした。

 

 今ここにはわたしと古泉一樹しかいない。とても静か。本を読むには最適の環境。
 そのはずなのに、わたしは少し退屈を感じている。他の三人がいないのと何か関係があるのだろうか。

 

 駒を落とした古泉一樹は中々駒を拾い上げようとしない。何を考えているのだろうか。
 そんな事を考えながらわたしは、なぜか古泉一樹より先に駒を拾い上げ、差し出していた。

 

「…あの、長門さん?」
 …わたしは何をしているのだろうか。
 落とした、と一言告げて、古泉一樹の顔に拾い上げた駒を近付ける。少し困惑しているよう。
 なぜだろうか。駒を拾い上げる動作自体に問題はないはず。わたしは少し首を傾げる。

 

 5秒ほどその状態が続き、突如わたしの手から駒を取った古泉一樹は、

 

「…ありがとうございます、長門さん」
 その言葉の後に、わたしの頭を撫でていた。

 

 突然の古泉一樹の行動に、わたしは目を少しだけ見開く。

 

 行動の意図が分からない。一体どのような考えを持ってわたしの頭を撫でているのだろうか。
 古泉一樹の手はゆっくりとした動作でわたしの頭を撫で続ける。古泉一樹の手の暖かさを感じる。
 なぜかわたしは意識をそこへ集中する。さらさらと流れるわたしの髪。古泉一樹は頭を撫で続ける。

 

 この行為にはどんな意味が、と尋ねて、わたしは少しだけ後悔した。
 こんな問い方では古泉一樹はわたしの頭を撫でるのを止める可能性が高い。
 意識が撫でられる頭の方に向いて、的確な発言ができなかった。なぜ。

 

 だが、古泉一樹はわたしの予想に反して行為を止める事をしなかった。

 

「えーと…こう、相手の好意に感謝したい時に、相手の頭を撫でる事があるんですよ」
「そう」
 古泉一樹は手を止めず、わたしの頭を撫で続ける。壊れ物でも扱うかのような優しい手の動き。
 古泉一樹の言う事が本当かどうかわたしにはわからない。ただ、この行為は続けて欲しい、と思う。

 


 二人しかいない部室。
 通常は退屈なこの時。

 

 わたしは奇妙な充足感を覚えていた。

 


 5分26秒後、古泉一樹はわたしの頭を撫でる事を止めた。
 少し、物足りない。わたしのその感情を読み取ったのだろうか、古泉一樹は苦笑した。

 

 突然、手にさらさらとした感触を感じた。ふと右手を見て見ると、

 


 …古泉一樹の頭を私が撫でていた。

 


「…あの、長門さん?」
 古泉一樹が、わたしが将棋の駒を拾った時よりも遥かに大きく困惑している。
 しかし、私も困惑している。わたしは一体何がしたいのだろうか。思考する。

 

「あなたに頭を撫でられている間、わたしは奇妙な充足感を感じた。
 わたしはこの充足感を与えてくれたあなたに礼をしたい。故にわたしは今、あなたの頭を撫でる」

 

 この言葉は咄嗟に出てきたもの。嘘は付いていない。だけど言っていない事がある。

 

 ――わたしは、わたし一個体の願望として、古泉一樹の髪を触りたかった、という事。

 

 …もしわたしがこの事を言ったらどうなるだろうか。
 あまり望ましい結果になるとは思えない。困惑されるばかりだろう。
 だから、これを知るのはわたしだけ。そうしよう。

 


 指の間を髪が通り抜ける。古泉一樹の笑顔のよう。柔らかい。

 

 ―――この時間が長く続けばいい。

 この、わたしが感じている充足感を古泉一樹も感じているなら、

 

 

 

 わたしは少し、嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 


 ――わたしは、あの日から機会があれば欠かさず実行している事がある。

 

「…あの、長門さん」
 古泉一樹がボードゲームを取り出そうとした際、それを先に取り、机に乗せる。
 次に古泉一樹の手を取り、自分の頭に乗せる。
 27秒の待機時間の後、古泉一樹はわたしの頭に乗る手を動かし、撫でた。

 

「…………」
 二人しか部室にいない時、古泉一樹にお茶を差し出す。
 古泉一樹は半ば諦めたかのような表情を浮かべ、わたしの手からお茶を取った。
 飲み干すまで見届ける。
「おいしい?」
「…ええ、とても。ありがとうございます」
 古泉一樹はいつも同じ返答をする。好意的な返答を返してくれるのは嬉しいが、
 少しだけ、不満。

 

 そしてわたしもいつも通りに、器から離した古泉一樹の手を取って、自分の頭に乗せる。
 古泉一樹は全て了解したように柔和な微笑を浮かべ、わたしの頭を撫でる。
 最近はわたしから何も言わずとも、頭を撫でてくれるようになった。

 

 古泉一樹の指の間を通るわたしの髪。ゆっくりとした手の動作。
 あの日と同じように感じる、説明の付かない、この奇妙な充足感。

 

 …わたしは、あの日から機会があればこうして古泉一樹に頭を撫でる事を求めている。

 


 わたしの頭を撫でる時の古泉一樹はいつもとは違う笑顔を浮かべている。
 それはわたしの目には、少し楽しそうであるように映るが、確証は無い。
 けれど。

 

 

 


 ―――古泉一樹ともっと触れ合ってみたい。
 この感情だけは、確か。

 



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